美雲から頼まれた通りクシャトリアは、美雲の愛弟子の千影を伴って田舎にある死合い場へと向かった。美雲によれば、関の孫六兼元なる刀をもつという白石何某とやらがそこで死合いをするという。
櫛灘美雲は超然とした浮世離れした佇まいからは想像できないがあれでかなりの情報通である。美雲がそこで死合いをしているといえば、まず間違いなく白石何某はそこにいるのだろう。
「…………」
イチゴをさも煙草のような気軽さで食べながら歩いていると、隣の千影がじっと自分を見つめているのに気付く。千影の視線の先にあるのはなんであろうクシャトリアが食べているイチゴだ。
クシャトリアがイチゴを食べ、残りのイチゴが減る度に千影は露骨に青ざめた顔をしては、まだ残りがあることを確認してそわそわした表情に戻る。
千影とそれなりに面があるといっても、それはあくまで武術家としてのもの。武術の修行以外でこうして二人歩くなんてことはなかったので、このように表情をコロコロと変化させる千影は初めて見た。
元々千影が纏っていた年不相応の冷然とした雰囲気はどこかしらに消え失せ、好きな物に目を輝かせる子供そのものになっている。もしかしたらこれが櫛灘千影が武術家としてではなく、ただの人間として育った場合の素顔なのかもしれない。
「イチゴ、好きなのか?」
「!」
ビクッと千影は悪戯が主人にばれた猫のように肩を震わす。けれど僅かに期待感が垣間見えるのは決してクシャトリアの見間違いではないだろう。
読心術を体得したクシャトリアでなくとも、千影の顔を見ればそこに「欲しい」とデカデカと書いているのが分かるはずだ。しかし一影九拳の弟子である千影が金銭的に困っているわけでもないし、イチゴなんて手に入れようと思えば簡単に手に入れられるだろう。そうでありながらイチゴ一つにこうまで目を輝かせるのは不思議だ。
「いるか?」
躊躇いがちに尋ねると、千影はぶんぶんと勢いよく首を縦に振った。ここまで欲しがる者に食べられればイチゴも悔いはないだろう。
クシャトリアの持ってきたフルーツは別にイチゴだけではないので、千影にあげようとして――――寸前で手を引っ込める。
「そうか。櫛灘流は永年益寿のために甘いものは厳禁だったか。なら監督役を任された俺があげるわけにはいかないなぁ」
「!?」
極楽浄土から一転、千影は無間地獄に突き落とされる。念願の甘い物の指先にまで触れながらお預けを喰らった千影は、さながら断頭台にあがる死刑囚のそれだった。
今時子供でもたかだかイチゴ一つにここまで反応したりはしないだろう。武術面・頭脳面の双方において神童の名を欲しいままにする大人顔負けの天才は、だからこそ精神的には酷く純粋な子供なのかもしれない。
「ふっ。冗談だよ。ほら、食べたかったんだろう。はい、イチゴ」
「いいんですか? 私のお目付け役を頼まれたのに」
一度天国から地獄に突き落とされた千影は拗ねた目でクシャトリアを睨んでくる。
些かからかいが過ぎたようだ。子供というのは大人の思う以上に細かいことを根に持つから侮れない。
「確かに美雲さんにばれれば怒られるかもしれないな。だからこのことは美雲さんには内緒だ。それさえ約束できるならあげよう。どうだ、約束できるか?」
「く、櫛灘の名にかけて」
「はは。じゃあ、はいこれ」
櫛灘流の食事制限に逆らうことを、櫛灘流の名に誓うのはおかしい気がしなくもないが、そんな細かいことは千影にとってどうでも良いことのようだ。
クシャトリアからイチゴを受け取った千影は幸せそうにイチゴをほうばる。
(これは美雲さんも大変だな)
まだ社会の多くを知らない子供故の純粋さ。今の千影はなにも描かれていない白い画用紙のようなものだ。闇人である美雲によって、その画用紙には黒が描かれつつあるが、今後によってはどのようにも変化する可能性を孕んでいる。
闇の武術家としてそこに危うさを覚えないわけではなかったが、それは櫛灘美雲と櫛灘千影の師弟の問題であって、部外者であるクシャトリアの口出しすべきことではない。
強いて言えば武術家としては恩義のある美雲に味方したいが、人としては子供の千影に味方したい。かといってクシャトリアが二人になるわけにはいかないので、クシャトリアはどっちの味方であるがどっちの味方でもないスタンスをとる。後はその後の運次第だ。
「ままならないものだ」
クシャトリアと千影の一行はそろそろ目的地に近付いてきていた。
死合い場には既にサムライが如き精悍さを持ち合わせた武人と、眼鏡をかけたどこか危険な殺意を放つ男が対峙していた。
これから死合う二人以外にその場にいるのは、神妙に死合いを待つ三名の男達と、住職のような佇まいの禿げ頭の男だけ。彼はこの死合いの立会人であり、死者が出た場合はそれを供養する役目をもっている。
「おお、やってるやってる」
「誰でい!」
殺意と闘気で張りつめた死合い場の空気をうち壊すように、そこへクシャトリアが呑気な声を出しながら割って入る。死合い場に集まっていた男達が一斉に振り向いた。
クシャトリアは一瞬で男達を見渡して、サムライの精悍さを持ち合わせた武人の腰にあるのが関の孫六兼元だと確認する。
「お前が白石何某か」
「何某なんて名を親につけられた覚えはねぇな。だが林崎夢想流の白石国郷ってなら間違いなくこの俺よ。それで人に名前を尋ねたお前さんは何者だ? ここはテーマパークじゃねえぜ。餓鬼連れなら別ンとこ行きな」
「……餓鬼?」
餓鬼呼ばわりされた千影がピクリと眉を動かす。千影は幼いながら美雲に武術を教え込まれ、それなりに武術家としての矜持もあるだろう。子どもと見縊られれば腹立ちもする。
だがそういう所に反応してしまうあたりが、まだまだ幼いと思わなくもないのだが、わざわざ妹弟子の不興を買う事はないので黙っておく。
「シルクァッド・サヤップ・クシャトリア、お前の腰にあるものを頂きに来た」
「っ!? シルクァッド……クシャトリアだと!? 闇の無手組が俺の刀を所望とはどういうことだ。まさか無手から武器に転向するつもりかい」
「まさか。ちょっとした頼まれごとでね。取り敢えず」
クシャトリアの眼光から途轍もない量の気当たりが解放された瞬間、白石以外の死合い場に集まった者達が糸の切れた人形のように昏倒した。
まるで重力が十倍になったかのような圧迫。それに歯を食いしばって耐えながら白石は刀に手を掛ける。
「お、お前ぇ! なにしやがった……!?」
「君以外に用はないんでね。平和裏に気当たりを喰らわせて眠って貰った。……しかしこの程度の気当たりで気絶するとは、死合い場なんて所に集まった連中にしては不甲斐ない。とはいえ君は他より出来るようだ。うん、このままだとちょっと厳しいかな」
気当たりで動けないでいる白石の背後に一瞬で回り込むと、クシャトリアは白石の経穴を指でついた。
「っ! なにを、しやがった……!?」
「これでよし、と。――――千影」
「はい」
今の千影では万全の白石を倒すのは難しい。かといって任務を放棄するわけにもいかず、かといって戦いが始まってしまえば、クシャトリアが手を出す事も出来ないとなれば、クシャトリアがやれることは限られている。
クシャトリアに経穴をつかれ、今の白石は全身が麻痺して全力を出すことはほぼ不可能。これならば千影でも倒せる。
「後は任せた。俺の役目はあくまでもお目付け役。ここは仮にも死合い場だからね。仮に君が殺されそうになっても、死合い中は手出し出来ないからそのつもりで。死なない様に頑張りなさい」
「承知しています。いつものことですから」
白石何某の相手を千影に任せると、クシャトリアは座り心地の良さそうな石の上に腰を下ろした。
クシャトリアが美雲から受けたのは千影のやるべきミッションのサポート。邪魔な連中はそのサポートの一貫として排除しておいたが、白石何某を倒し刀を奪うのは千影の役目である。これを奪ってしまっては千影を連れてきた意味がない。
「へっ。自分の弟子に仕事を任せて自分は見物とは随分と良い御身分だな」
「良い御身分だよ、俺は。これでも帝王なものでね。王様より偉いんだ」
「皮肉すら通じねえか……。いいだろう、ならその餓鬼。ちっとばかしの怪我は覚悟しな!」
クシャトリアから強烈な気当たりを受けながら、子供を殺めまいと一線を守る姿は武士の鏡と言えなくもない。
だが今回に限ってそれは武士の矜持の現れではなくただの油断だった。絶対に殺さない様に、悪く言えば加減された刃など妖拳の継承者にとっては止まっているも等しい。
蜃気楼のように掻き消えた千影は小柄さを活かして懐に潜り込むと、自身より遥かに巨大な白石を容易く投げ飛ばしてしまった。
「が、は……! な、なにが起こった!?」
白石何某は自分がなにをされたのかまるで分からない様子だ。無理もない。力ゼロで投げる櫛灘流柔術はそれを知らない者からしたら、まるで妖術の類にも思えてしまうのだから。
にしても流石は櫛灘美雲。幼いながら弟子によく己の流派を仕込んである。
「言い忘れていたが千影は俺の弟子じゃない。妖拳の女宿・櫛灘美雲の一番弟子だ」
「櫛灘だと……!? ハッ。道理で面妖な技を……使う……もんだ……」
無念を呟きながら白石は気絶した。油断なく敵が完全に沈黙したことを確認すると、千影は白石の腰にあった刀を抜き取る。
これで千影に与えられたミッションは完了だ。
「――――やれやれ。美雲さんめ、こういうことか」
心底に疲れた声を絞り出しながら、クシャトリアは木を蹴りつけた。鋼鉄のように鍛え上げた蹴りは凶器そのもの。クシャトリアに蹴られた木は真っ二つに折れて倒れた。
いきなりのクシャトリアの行動に千影は目を白黒させる。
「クシャトリア兄。なにを?」
「俺にここまで気付かせないとは驚きだ。さぞや名のある武術家とお見受けする。何者だ。名を名乗れ」
クシャトリアが蹴りで破壊した木。足場だった木が破壊される寸前にそこから飛び降りた人影は、ふわりと音をたてずに地面に着地する。
着地一つとっても神業。達人であるクシャトリアにここまで接近を気付かせなかったことといい確実に達人級だ。
「香坂流……香坂しぐれ。その刀を貰い受け……る」
「驚いた。梁山泊が出て来たか。戦争を望んでるのは緒方だけじゃないということか」
空を仰ぐと、そこで美雲が悪戯気に笑っているような気がした。