本郷晶の貫手を喰らったクシャトリアは、微動だにすることもなく大の字に倒れている。
無敵超人が編み出し、本郷晶が再現した流水の業は、確実にクシャトリアの体から邪気を祓っていた。流石に心の器に根付いてしまったジュナザードの魂の欠片を完全に消すことはできないが、肉体を操っていたに過ぎない櫛灘美雲の邪法については取り除くことができただろう。
だからこそクシャトリアはもう動かない。魂が砕け散ったクシャトリアを動かしていたのは、櫛灘美雲の邪法でありジュナザードの邪念である。それがなくなった今、シルクァッド・サヤップ・クシャトリアは元の物言わぬ生ける屍と化すだけ。
植物状態、脳死――――厳密には違うのだが、医学的にはそれに一番近い状態だろう。
結局は振り出しだ。
櫛灘美雲の支配を消し去り、ジュナザードの魂を叩き落しても何も変わりはしない。
小頃音リミが戻ってきてほしいと願ったものは何も戻らず、クシャトリアは覚めぬ眠りにつき続ける。
「ぐっ…………ジュナザードめ、ただでは転ばんか」
躱したとはいえ、恐るべきはジュナザードの邪拳。ほんの掠った程度で本郷晶は十分な負傷を負っていた。
致命傷ではなく戦闘不能になるほどのものでもないが、肉体の性能が80%ほど低下している。この様では同格との連戦は厳しいだろう。
「………………小頃音リミ」
「は、はいっ」
「師についていってやれ」
「ほ、本郷さんは、どうするんですか?」
「俺は先へ進む。櫛灘美雲の野心を止めねばならんからな」
小頃音リミと本郷晶の目的が共通しているのは途中までである。リミの最大の目標はクシャトリアの奪還であり、それ以上の望みはない。しかし本郷はクシャトリアを奪還した上で、更に核発射を阻止するという目的があるのだ。
だから本郷晶の戦いは終わっていない。闇の不始末は闇がつける、例え己の命が燃え尽きようとも。それが殺人拳なりの流儀というものだ。
「だ、駄目ですよ! 先にいるのは、あの妖怪なんですよ! そんな体じゃ本郷さんでも――――」
「その先を言うな」
「でも、」
「武人は負けるつもりで戦いへは赴かんものだ」
櫛灘美雲。嘗て無敵超人と共に闇と戦いながらも、思想の違いから闇に組した武術家。久遠の落日を誰よりも知るからこそ、誰よりも落日を望む妖怪。もう一人の史上最凶最悪の師匠。
分が悪いことくらいは承知している。本郷晶は特A級でも上位の実力者であるが、櫛灘美雲は更にその上をいく最上位。超人一歩手前の女傑だ。互いに万全の状態でも勝機は四割あれば精々といったところだろう。ましてや実力が発揮できない現状では、限りなく可能性はゼロに近い。
だが本郷は櫛灘美雲を殺しに行くのではなく、あくまで核発射を阻止しに行くのだ。やりようは他に幾らでもあるだろう。
どんなに外見が美しいものでも、内面は醜く汚れたものであることは往々にしてある。
美貌で一国を傾かせた絶世の美女であろうと、肉体を掻っ捌いて腸を引きずり出せば、それは見るに堪えない物だろう。
肉体的ではなく精神的なもの。心に関しても然り。
人を殺さぬような聖人が、邪なる欲望を秘めていることもある。
血に飢えた悪童が、一本筋の通った正義感をもっていることもある。
では果たしてシルクァッド・サヤップ・クシャトリアの心の風景がどうなっているかといえば、それはこう表現する他あるまい。即ち〝黒〟であると。
心の闇だとか、暗黒の心だとかそういう生易しいものではない。この黒は無だ。何も無いが故の黒である。
そして何も存在しない黒に、唯一つだけバグのように邪悪な輝きを放つ暗黒があった。
シルクァッド・ジュナザードの邪念。邪神の魂の欠片。
本郷晶との戦いで表側に現出し、肉体を変容しかけるところまでいったジュナザードは、流水に押し流されて再びこの奈落へと戻された。
ここから再び表側に戻れるようになるには、また暫くの時間と血が要るだろう。それが何十年後になるのか、もう永久にその時が来ないのかは分からないが。
「ま、どうでもいいわいのう」
命懸けの闘争を求めてやまぬ本能から、ああしてクシャトリアの表側に現出しはしたものの、ジュナザードは生きることに特別執着している訳ではない。
クシャトリアの記憶にある『シルクァッド・ジュナザードの最期』は、魂の欠片に過ぎぬジュナザードにも納得のいくものであったし、生涯を顧みても欠片の悔恨もありはしなかった。
ほんの少しだけ怒るべきものがあるとすれば、それは――――、
『師匠、本郷さん行っちゃいましたよ』
その時。無の闇に天界の鐘のような声がか細く響く。
『あれから十年も経ったのに、核ミサイル阻止のついで的なものでも助けに来てくれるなんて、本当に良い人に恩を売ったんですね。
師匠は龍斗様の友達のさっぱりしないのと違って、あの妖怪ババアと一緒で腹黒だから、やっぱり下心もあって恩を売っておいたと思うんですけど、そこんところどうなんですか?』
覚めない眠りについていることを考慮しても、否、だからこそ十年ぶりに出逢った師匠に対して適切ではない軽口。それは小頃音リミという少女にとっては、十年前は当たり前だった日常の一ページなのだろう。
人の心を切り捨てて久しいジュナザードにも、こんな耳元で囁かれれば、その声色に宿っているのが何かくらい手に取るように分かった。
この少女は悲しんでいる。クシャトリアが覚めない眠りについているように、小頃音リミは終わらぬ悲哀に胸を焦がしているのだ。
『ねぇ師匠。なにやってるんですか?』
「…………」
『リミが調子にのったら鬼畜スマイルで「じゃあ崖昇り三十回追加ね」だとか言って地獄の修行を課してきたじゃないですか。
泣きながらリミが師の上半身を抱え、無の世界が声に合わせる様に揺れ動いた。
「醜いわいのう。感情を剥き出しに泣きわめく女子供ほど、鬱陶しいものは世にありはせんわい」
泣いていれば加害者でも被害者になれる。泣いていれば同情を誘える。泣いていれば誰かが助けてくれる。
力のない女子供というのは、力のないことを武器にして、そうやって自分の望むものを手に入れようとするのだ。これが戦争ほど事態が大きくなると、大人の男まで似たような真似をし出すのだから嗤えない。
故にシルクァッド・ジュナザードは涙が嫌いだ。他人を利用することは大いに結構だが、他人に全て任せるなど吐き気を催す。
「クシャトリアは、弟子を見る目がないわいのう」
視線を下に落とせば、そこには無数の割れた鏡が散らばっている。鏡の破片一枚一枚に映っているのは、嘗てシルクァッド・サヤップ・クシャトリアを構成していたものたちだ。
そう、そして腹立たしいことがもう一つある。
クシャトリアはシルクァッド・ジュナザードを打倒した。打倒して、自らこそが邪神の継承者であると示したはずなのだ。
だが邪神の継承者が、今は櫛灘美雲の尖兵として操り人形と化している。このような無様。決して許容できるものではない。
無の世界に反響する少女の泣き声は終わる気配がなかった。いい加減、ジュナザードも苛立ってくる。こんな喧しい声をこれから先、何年も何十年も聞かされ続けるのかと思うと最悪の気分だった。
故にこんな下らぬ飯事はそうそうに終わりにするに限る。
「――――我が弟子クシャトリアの残骸よ。神殺しを成した褒美じゃわい。我が……貸してやろう」
これまで決して変わることのなかった無の世界が激しく振動する。
ジュナザードの邪念がさながら星のような引力を放ち、無数に散らばった鏡を集めていった。
鏡は吸い込まれるようにジュナザードの魂へ溶けていき、それにつられてジュナザードの輪郭も曖昧となっていく。
これは必然だ。いくらジュナザードのものとはいえ、ここにあるのは所詮は欠片。クシャトリアの魂の欠片を吸収すれば、より大きいものに取り込まれるのが道理というもの。
吸収する側こそが吸収されているという矛盾。
このパラドックスこそが、死者の復活という最大最悪のトリックを可能とする。
「目覚めるがいい、シルクァッド・サヤップ・クシャトリア――――ッ!」
その言葉を最後に、ジュナザードの意識は完全に闇に溶けた。