本郷晶という殺人拳最強の空手家の来援が信じられる、リミは幽霊でも目の当りにしたかのように目を白黒させる。
しかし目の前の光景は間違いなく現実のものだ。どれだけ目をごしごしと拭おうと消えることはない。
「本郷さん……なんで、ここに?」
「クシャトリアには翔の命を救ってもらった借りがある。それが理由では不満か?」
「そ、そんなことはありませんけど――――」
口にするのは易し、されど行動に移すのは難しい。
実際こうして本郷晶がこの場に駆け付けるには多くの政治的障害があった。それでも闇の勢力図だとか、そんな理由で本郷晶を止めることはできない。
なんのことはないのだ。ディエゴ・カーロがエンターテイナーを貫き、馬槍月が何者にも縛られずに生きることを曲げぬように、本郷晶は如何なることがあろうと自分の矜持を貫き曲げないというだけの話である。
「少し下がっていろ。クシャトリアが相手となれば、俺も他を気遣う余裕はない」
「…………」
本郷晶はリミを守るように前へ踏み込むと、クシャトリアが冷静に構える。
クシャトリアが闇に入ってから、本郷はクシャトリアと特別親しくしていたというわけではない。直接会って会話したのは、両手の指で十分数えられる程度である。だがそんな本郷にもクシャトリアの変貌ぶりは人目で分かった。
無機質な敵意と無乾燥な殺意。永年益寿により肉体的には二十代の若々しさのままだというのに、その顔は死人のように生気がなかった。
〝キョンシー〟
映画でも有名な中国の妖怪の名前を思い出した。
キョンシーは魂だけが成仏し、魄だけが遺体に残ってしまった所謂ゾンビに近い存在である。
優れた道士は道術を用いることで、キョンシーを自分の意のままに操るらしいが、その例に照らし合わせればクシャトリアがキョンシーで道士は櫛灘美雲ということになる。
これまで人間どころか数々の猛獣とも戦ってきた本郷だが、流石にキョンシーと戦うのは初めての経験だった。
「櫛灘美雲の暗示…………いや、操作か。お前をここで殴り倒したところで、お前の心が戻る訳ではないのは百も承知だが、せめて身体だけでも弟子の下へ返してやらねばな」
「人越拳神。お前は闇に所属するはず。今回の落日も阻むのか?」
「無論だ。落日は阻止すべし。それが〝一影〟の意向だ」
「分かった。お前も殺す人間に加えるとしよう」
「排除するのは貴様の内にある呪縛だ。精々死なぬよう渾身で耐えるがいい」
「……………」
クシャトリアが自分の体の内側に静の気と動の気を両方練り込んでいく。
小頃音リミとの戦いでは一瞬しか使うことのなかった禁忌。されど相手が本郷晶ともなれば話は別。術者たる櫛灘美雲の指示を確実にこなすため、クシャトリアは迷わず確実な手段に訴えてきた。
「〝静動轟一〟」
溢れるほどの闘気の奔流。二つの巨大な気が生み出すエネルギーは、クシャトリアの階梯を一時的に達人から超人へと押し上げる。
キョンシーとなっても気そのものは衰えてはいないらしく、静動轟一から放たれる気当たりは十年前とまるで変わらぬものだった。いや下手すれば増大しているかもしれない。
「いきなり禁忌を用いてくるとはな。それに心がないだけあってクシャトリアにあった『保身』が消え失せている」
というより自分の命を守るという思考回路が存在していないのだろう。謂わば常に捨て身の状態というわけだ。
これでは岬越寺秋雨の呼吸投げや、気当たりを用いたフェイントは効果が薄いだろう。
「……死ね」
静動轟一で得た超人的瞬発力でクシャトリアが距離を詰めてくる。
それに対して本郷晶は透明なまでの静の気を練り上げて、自分の体を薄皮一枚で包むように纏わせた。
「だが捨て身は決して万能ではない。臆病さや恐怖が活路を開くことも武にはある。例えば俺のように……静動轟一が齎す圧倒的な力に危機感を覚え、必死にその対抗技を盗み出そうとしたように」
あの裏武術界の歴史に残る伝説の一戦。風林寺隼人とジュナザードによる神域の一騎打ちは、今でも本郷晶の魂に刻み込まれている。
その戦いで風林寺隼人が見せた静動轟一への対抗技。それの仕組みを調べ上げるのに六年、会得するのに三年の時を擁した。
「流水制空圏〝第零段階〟」
ここにその成果が現れる。
ただ静動轟一を打ち破るためだけに新たに編み出された流水制空圏の新たなる境地。それによって本郷晶は静動轟一を発動せずに、静動轟一の流れを手に入れた。
「――――!」
瞬間、クシャトリアが静動轟一を解除する。それと同時に本郷晶の流水制空圏〝第零段階〟も無意味なものとなった。だがそれでいいのである。
「そうだ、お前はそうするしかない」
流水制空圏〝第零段階〟は『相手が静動轟一を発動している』という条件付きで、ノーリスクで静動轟一の爆発力を得られる技だ。静動轟一のデメリットを超人的肉体で抑え込めるジュナザードのような化物は例外として、どんな達人も静動轟一を長時間発動させればデメリットが全身を破壊していく。
よって静動轟一と第零段階が戦った場合、静動轟一を発動している側が一方的にデメリットを受けるという悪循環が生まれるのだ。それが分かるからこそクシャトリアも即座に静動轟一を解除したのである。
これでこの一戦において静動轟一という禁忌は封じられたも同然。そうなれば後は互いの純然たる強さが物を言う。
「渦廻斬輪蹴」
「!」
静動轟一を解除したばかりのクシャトリアに、容赦のない蹴りが飛んでくる。
「不意をつかれても一切ペースを崩さないところは流石だ。だが関係はない」
間髪入れずに鋭い踏み込みで本郷晶が、蹴りを防いだばかりのクシャトリアに接近した。
クシャトリアの肉体に凝縮する静の気。二つの気当たりが混ざり合うように押し合い、破裂する。二人の豪傑が自らの技を繰り出したのは、それとほぼ同時だった。
「
「断空手刀斬り!」
自らを猛獣としての限界跳躍と、腕を刃としての居合切り。両者の技はしかし互いに掠ることもなく空を切った。相手の技との激突を避けて、相手の急所を互いに狙った結果である。
お互いに傷を与えることなく交錯した両者は、同時に地面を蹴って180度体を反転。更なる技を解き放った。
「無敵のジュルス〝数え抜き手〟」
クシャトリアが繰り出したのは無敵超人の秘技が一つ数え抜き手。性質の異なる特殊な力の練りを加えることで、どんな防御も最後の四発目で必ず打ち破る必殺技だ。
拳魔邪神ジュナザードはこの技を自らのシラットに取り込み独自発展させている。謂わば風林寺隼人とジュナザード、二人の超人の手が入った技といえるだろう。全力で迎撃しなければ待ち受けるのは死のみだ。
「四」
最初の抜き手を身を捩ることで躱しきる。
そして本郷晶は自分が最も頼りとする技のために構えをとった。
「三」
新たな気の練りが加えられた二度目の抜き手が、本郷晶の右肩を切り裂いていく。それでも本郷は攻撃をせず耐えた。
限界までに気を凝縮させた右腕は、膨れ上がり解放の刻を今か今かと待ちわびている。
「二」
三度目の正直とばかりに放たれた抜き手を、本郷は左手で受け流すことで防ぎきった。
代償として左腕にかなりのダメージを負ったが、そんなものは必要経費である。
「一ィ!」
そして全ての防御を打ち破る最後の抜き手が放たれた瞬間、本郷晶は己の右手を解放した。
「人越拳ねじり貫手――――ッ!」
「……!」
如何なる盾をも貫く最強の矛が、空間を捻じりながら突き進む螺旋の槍によって削られていく。
確かにシルクァッド・サヤップ・クシャトリアは強い。若いながら特A級の達人となり、櫛灘美雲に付き従った十年間で更に腕を上げている。その実力は決して一影九拳の他の達人に見劣りしないだろう。
だが〝人越拳ねじり貫手〟は本郷晶の代名詞とすらいえる技であり、最も頼りとする一撃。貫手の勝負で空手がシラットに負けるわけにはいかない。
「覇ァ――――ッ!」
ねじり貫手がクシャトリアの手を弾き飛ばし、その胴体に突き刺さった。
先の激突で威力が減衰しているため、肉体を貫くには足らないが、それでも十分すぎる威力が体の内部にまで浸透しただろう。
「櫛灘流奥――」
「させんッ!」
距離をとろうとするクシャトリアを追い詰めると、本郷晶はとっておきの技を放つ。
「人越拳〝陰陽極破貫手〟」
「――――!」
右手と左手で同時に放たれる二つの貫手。うち片方は全身全霊を込めた実の貫手で、もう片方はまやかしである虚の貫手である。
技撃軌道を占拠されているクシャトリアに、二つの貫手を両方躱し切ることは不可能。防ぐには片方の貫手を抑え込むことで、もう片方を回避する他ない。
だがもしも虚の貫手ではなく、実の貫手を受け止めなどすれば、絶大な貫通力をもつ貫手は防御などを突き破り急所を抉って来るだろう。
果たしてどちらが実で、どちらが虚なのか。外した場合は即ち死。
本来これは50%の二択勝負で、どちらを選ぶかは攻撃を受ける相手の選択にかかっている。
しかし相手が心なきキョンシーであるのならば話は別。
駆け引きというのは高度な思考だ。人間ではない機械には出来ない。
機械的なクシャトリアは機械的に、ダメージが大きい左手の貫手が虚で、ダメージの少ない右の貫手が実であると判断してしまう。敢えてダメージが大きい方で貫手を放つというフェイントをまったく想像できないのだ。
故に機械であるクシャトリアにこの技は正しく成功確率100%の必殺として機能する。
そう、機能するはずだったのだ。
「――――――クカッ」
機械である筈のクシャトリアが、邪悪そのものの顔で笑みを浮かべるまでは。