城での戦いを終えてから、美雲に手を引かれ連れてこられたのは、あの城よりも時代を感じさせる和風建築の御屋敷に来ていた。
大きさや荘厳さなんていうインパクトでは城より全然劣るはずなのに、なによりも精霊でも住んでいそうな神秘的な雰囲気に呑まれ圧倒される。
これほどの神秘的な空気。世界遺産に指定されるような場所を訪れても、そう感じることはできないだろう。
「美雲さん。ここは?」
「わしの家じゃ。わしの櫛灘流の道場のようなものと思えば良い」
「ここが……?」
ティダードという一つの国を影から完全に支配し、神にまでなるジュナザードもジュナザードだが、こんな御屋敷をもつ美雲も美雲だ。
武術家としての強さだけではなく、こういったところからも一影九拳、ひいては闇という組織の底しれなさを感じる。
「ジュナザードの弟子に稽古をつけるなど不本意じゃが、あ奴もわしも武術家じゃ。武術家としての約定は守らねばならん。拳魔邪神は殺すような稽古をつけろなどと言っておった故、加減はせんぞ」
「……お、お手柔らかに」
ジュナザードの拷問――――を通り越して処刑のような修行を強いられているクシャトリアは酷い扱いには耐性がある。
例え重税を課せられた農民だろうと、貴族に仕える奴隷だろうと、ジュナザードの弟子よりはマシだろう。
しかし耐性があるのは平気というわけではない。痛みを我慢できたとしても痛いものは痛いのと同じだ。
これから始まるであろう修行にクシャトリアは覚悟だけはしておいた。
「クシャトリア」
「え、あ。はい、なんでしょう!」
考え事をしていた時に、いきなり声をかけられて驚く。美雲は溜息まじりにクシャトリアを、正確には足を指差した。
「土足で人の家に上がり込もうとするとはどういうことじゃ。家に上がる時は靴を脱げ」
「あ、すみません。どうもティダードでの生活が長くてうっかりしてました」
ティダードでは家にあがると靴を脱ぐという概念が、というよりそもそも靴を履くという概念が余りない。
師匠のジュナザードだって年がら年中、裸足で行動しているし、クシャトリアも今回のような遠出の時は兎も角、正式な弟子となってからはずっと裸足で生活していた。
靴を脱いで並べると、美雲に続いて屋敷に入る。
屋敷の大きさに似合わず、中は調度品もない簡素なものだったが、その簡素さが屋敷本来の香りというものを引き出しているような気がした。
「あそこがお前が寝泊まりする部屋、あれが厠、三つ先の部屋が基礎トレーニング用の部屋じゃ。今日より何日間になるかは分からぬが、わしが面倒見ている間はここに住み込むことになろう。覚えておけ」
「はい」
「そしてここが主な修行場所じゃ」
連れてこられたのは一際ただっ広い部屋だった。柔道家の御屋敷だけあって畳が一面に敷き詰められている。
師匠の城にある鍛錬場ほどは広くないが、百人が修行しても有り余るほどのスペースがあった。ここなら組手をするのには申し分ないだろう。
「さて。早速じゃがクシャトリア。お前の稽古を始めるとしよう」
「いきなりですか」
普通の道場なら一旦休んでこれからのことを話してから修行に入るところを、死合いが終わりこっちに来てから直ぐに修行。
これでは死合いで死んだ弟子候補だって時間的にまだ浮かばれていないだろう。
「わしがちと修行を見てやって『至った』ばかりだったとはいえ、奴は紛れもなく静の武術家としての道を決定し、尚且つ荒削りとはいえ制空圏を会得してもいた。
開展止まりの武術家同士ならばマグレや時の運で勝敗など幾らでも変わる。じゃが開展と緊湊の武術家同士の一対一をすれば、まぐれが起きても開展が勝つ確率は限りなく低い。
クシャトリア。お前はわしの弟子候補をただの偶然、幸運により倒したのか? 違うじゃろう。お前は弟子候補の制空圏を視認し、兵法をもってして制空圏を乱し、そこを突き勝利した」
「…………」
クシャトリアは神妙に頷いた。
美雲に言われた事は全てが本当のことである。クシャトリアは樋上の制空圏らしきものを視て、それを乱すことを念頭に置いて戦い、どうにか勝ちを拾うことができた。
運が良かったというのも決して間違いではないのだろう。だが制空圏を視ることができなければ、運が良かったとしても確実に自分は死んでいた。
「その感覚は得難いものじゃ。熱とは冷めやすいもの。一旦休みを入れてから修行を行えば、あの死合いでお主の視た制空圏を〝視た〟感覚も失われよう。
鉄は熱しているうちに叩かねば、名刀は生まれん」
「分かりました。御教授のほど、お願いします」
「うむ。師と違って素直じゃな」
こうも合理的に説明されては断るなんてことはできない。
大体いつもはやっている修行にどういう意味があるのかすら教えられずに、地獄に突き落とされているのだ。それに比べれば理由が説明されただけ天国である。
「では始める。構えよ」
「はい。――――――って、嘘!?」
さっきまで向かい合って対峙していた美雲が、増えた。
合わせ鏡にでも映されたかのように一人、二人、三人、四人。四人の櫛灘美雲が出現し、クシャトリアの四方を囲む。
「ぶ、分身の術!? 美雲さん、貴女は柔術家じゃなくて忍者だったんですか!?」
「そんなわけがなかろう。ただの気当たりによる残像じゃ」
「気当たりって」
気当たりというのは殺気や闘気などを発することで相手を威圧させ、それによるフェイントを行ったりする技術だ。獰猛な肉食獣に睨まれ、恐怖に足が動かなくなるのと似たような原理である。
自分の師匠のジュナザードほどの達人になれば、気当たりだけで相手を昏倒させてしまう『睨み倒し』のような芸当もできるが、こちらはある程度の精神をもつ武術家には効果がない。
「もうなんでもありですね。達人って。かめはめ波までいたりして。なーんて」
「おるぞ」
「っているんですか!?」
「かめはめ波という名称ではないが、手から波を出す奴はおる。もっともあくまで気当たりと拳圧で吹っ飛ばすだけで光線を出すわけではないが」
「……………底しれませんね」
クシャトリアの脳内に筋斗雲にのったジュナザードが、掌から良く分からない波を出している光景が浮かぶ。
あのジュナザードが波まで会得してしまったら恐ろしいという次元を百段階くらい超えてしまうので、これが現実にならないことを祈るのみだ。
「話が逸れたな。制空圏の修行を始めるとしよう。これからわしはお前に当て身を繰り出す。無論、全力ではなく弟子クラスのお前でも防げる程度に加減してのう。
防御するのでも躱すのでもなんでもいい。ただ直撃だけは避けよ。ゆくぞ!」
「ちょっと作戦タイムを――――うあ!」
「問答無用じゃ。実戦で相手が馬鹿正直に待つと思うのか?」
ただの残像だなんて大間違いだ。四人となった美雲は確かな質量をもって、クシャトリアに当て身を繰り出してくる。
手加減しているというのは嘘ではなく、当たっても吹っ飛ばされることも死ぬこともない。だが、
「……うっ!」
当たると途轍もなく痛い。しかも痛いだけで跡が残ったりしないよう絶妙な調整がされている。
クシャトリアは柔軟な全身をくねくねと曲げ、我武者羅に攻撃を掻い潜っていく。
「違う!」
「いつっ!」
当て身ではなく弾丸のようなデコピンがクシャトリアの額を叩く。
ただのデコピンだというのに、まるでマグナムがぶつかったかのような衝撃がした。
「無駄に動くでない。最小限の動きと最小限の防御で躱すのじゃ。良いか、怒りや闘志を外に発するのではない。刺身を一飲みにするように、内側に取り込むのじゃ」
「内側に……?」
「心を静め、己が心を鏡とせよ。さすれば己が心が目では捉えられぬものを映すじゃろう。明鏡止水――――やってみよ」
「……………」
言われた通りに浮き立つ心を静め、これまで外に発していたものを呑み込んだ。
心が静まったからだろうか。これまで視えなかったものが視えてくる。庭で囀る小鳥、風に揺られる草木の音色。
呑み込んだ気は内側に浸透していき、逆に思考は脳味噌という小さな枠を飛び越えて空間全体に広がっていく。
「もう一度やるぞ。今度は躱してみよ」
「はい」
再度繰り出されてくる数多の当て身。どれも当たれば痛いが確かに躱せないほどではない。
だが残像で四人に分身しているため、襲い掛かる当て身は合計で八つだ。一つを躱したところで、残る七つがクシャトリアの体を撃ち抜くだろう。
(まだだ)
一つを見るのではなく、一点に視線をやりながら全体で捉える。自分の両手と両足が届く範囲内で、自分の陣地を作り上げた。
これが制空圏なのだと悟る。だが制空圏といえど完全同時の八つの当て身を四本の手足で跳ね除けることはできない。
だからこそ当て身の手から逃れるのではなく敢えて前へと出る。自分から当て身へ向かっていき、それが直撃する寸前で手をはたき軌道を逸らす。
「そこだ!」
道が開けた。当て身を叩き落とした前面に更に踏み込んで、クシャトリアは囲いを突破した。
体中に痛みはない。完全に躱しきったのだ。
「それが制空圏と静の気じゃ。よく覚えておくことじゃ」
「これが……? はい、分かりました」
「では一旦休憩としよう。そろそろ昼食頃であるしな」
「昼食の時間……そんなものをしっかり用意してくれるなんて、なんて良い先生なんだ!」
「それが終われば制空圏と静の気を念頭に置きつつ、組手を軽く150本じゃ」
「だけど修行はやっぱり鬼なんですね」
しかし人権が保障されているかは怪しいが、少なくとも修行は処刑ではなく拷問レベルだ。
普段より軽い足取りで昼食が用意されているという場所へと歩いて行った。