スリザリンの継承者―魔眼の担い手―   作:寺町朱穂

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95話 最後の分霊箱

 軽自動車ほど巨大な蜘蛛が側壁の大きな窓から這い上ろうとしていた。

 それも、一匹ではない。二匹、三匹、と続けざまに窓から姿を現してくる。

 

「『アラーニア・エグズメイ‐蜘蛛よ、去れ』」

 

 セレネが呪文を叫ぶと、白い光が蜘蛛の怪物めがけて奔った。呪文は脳天に激突し、仰向けになって吹っ飛んだ。足を気味悪く痙攣させながら、這いあがってくる後続の蜘蛛を巻き込み、窓の外へと落下していった。

 

「蜘蛛を引き連れてくるなんて」

 

 セレネは魔法生物について教科書に掲載されていた程度の知識しかないが、いま吹き飛ばした蜘蛛が毒蜘蛛であることくらいは分かっていた。階段を駆け下りながら窓の外に視線を走らせれば、破壊された校庭に蜘蛛の仲間だけでなく、5メートルを超す巨人の群れが石像と交戦していた。

 

「……巨人、か」

 

 英国に巨人はいない。とうの昔に絶滅した。

 つまるところ、ヴォルデモート陣営は巨人を異国から呼び寄せたことになる。巨人の皮膚は魔法攻撃を弾き返すと聞く。現に、半分巨人の血が流れるハグリッドは、闇払いから失神呪文を浴びるように受けても平然と立ち、相手を殴りかかって気絶させていた。

 ハグリッドでさえ、闇払いの失神呪文を防げるのだ。本当の巨人は闇払いが束になっても敵わないだろう。そんな巨人がセレネが確認した限りでも3人はいた。これなら、トロールの軍勢と戦う方がまだ勝ち目がある。

 

 この戦い、長期戦は不利だ。

 一刻も早く、ヴォルデモートを討つ必要がある。

 親玉を失えば、死喰い人たちは確実に動揺し、巨人の制御もきかなくなる。事実、ハリーが母親の愛の力でヴォルデモートを倒した後、あのサイコパスに殉じたり、探し求めたりした死喰い人たちは限られた者たちだった。

 ベラトリックス・レストレンジは死に、ルシウス・マルフォイの地位は底まで堕ちた現状、ヴォルデモートの代わりに死喰い人を取りまとめ、指揮ができる人物は存在しない。

 

 

 セレネは、ヴォルデモートを殺そうと誓っている。

 もちろん、「人を殺すな」と言われてるし、その信条を捨てるつもりは全くないが、ヴォルデモートだけは別だ。

 あいつは人ではない。自分が不死になるためだけに、殺人を犯し、魂を幾つも分断した。確かに孤児で親の愛情もなく育ったかもしれないことを考えれば、可哀そうな人物なのかもしれない。だが、いまのあいつは心も体も悪に染まり切った怪物である。

 

 これまでに積み上げた罪を、償わせなければならない。

 

 セレネは、その仕事は誰でもない自分が果たしたいと強く感じていた。

 

 人を殺したくないけど、ヴォルデモートだけは別だなんて、矛盾しているようにも思える。

 けれど、その矛盾は聞こえないふりをした。今は、自分の為すべきことを果たす。そのために、全力を注ぐ時である。

 

「さて、と」

 

 セレネは階段を駆け下りながら、視界に入った死喰い人に失神呪文を放ち続けた。セレネが走り過ぎた後には、気絶した死喰い人が死んだように転がっている。どの死喰い人も手配書で見たことのない雑魚ばかりだ。セレネは玄関ホールへ急ぎながら、埃と煤で曇った周囲から、見たことのある死喰い人を探そうと努力する。

 

 右も左も下の階も戦いの真っ最中。

 マクゴナガル先生に率いられた机の群れが、全力疾走で怒涛の如く死喰い人に雪崩れ込んだ。この学校の副校長であり、現時点で最も強い先生ですら、髪はほどけ、片方の頬は鋭く切られ、赤い血が絶え間なく流れ落ちていた。

 階段に掲げられた絵画には、様々な絵の主たちが集結し、大声で助言をしたり、応援をしたりしている。ディーン・トーマスがドロホフに一騎で立ち向かい、その近くで、アーニー・マクミランがトラバースと戦っている。アーニーはトラバースの猛攻に押され、ついに杖を飛ばされ、階段の下へ転げ落ちた。

 

 セレネは素早くアーニーへ杖を向けた。

 

「『アレスト・モメンタム‐動きよ、止まれ』!」

 

 これで、彼は墜落死することはない。セレネはそのまま彼がどうなったのかは確認せず、杖先をトラバースに向けた。トラバースはセレネを見ると、少しばかり嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。

 

「ホムンクルス! 『クルーシオ‐苦しめ』!」

 

 トラバースの声色が上がっている。 

 まあ、大方のところ、ヴォルデモートへ献上して、死喰い人としての地位を上げようと画策しているのだろう。セレネはそんなことを考えながら、無言で盾を展開した。

 

「私も貴方に用があるの。付き合ってくださいね」

 

 セレネは杖を鞭のように振ると、足元の瓦礫が大蛇に変身した。

 

「『オパグノ‐襲え』!」

 

 大蛇はまっすぐトラバースに向かって飛び、彼の両脚に巻き付いた。男は前のめりに倒れ込み、蛇は二本の毒牙を突き立てようとした。けれど、トラバースのは脚の自由こそ奪われていたが、両手は自由のままだ。左手で身体を起こそうとしながら、右手に握りしめた杖を足元の蛇に突きつける。

 

「『ヴィペラ・イヴァネスカ‐蛇よ消えろ』!」

 

 蛇は悲鳴を上げる暇もなく、白い煙となって消え去った。

 セレネはその様子を見届けると、近くの廊下へ逃げるように転がり込む。後ろから、トラバースが追いかけてくる音が聞こえた。足音が近づいてくる。セレネは廊下の角を曲がると、壁に背中を預けた。そして、トラバースが現れた瞬間、

 

「『ペトリフィカス・トタルス‐石になれ』」

 

 彼が呪文を放つ前に、セレネは鋭く叫んだ。トラバースはまっすぐ胸に全身金縛りの呪文を受け、そのまま後ろ向きに倒れ込んだ。眼だけが忌々しそうにセレネを睨み付けている。

 

「……もう少し反抗すると思いましたが、あっけなかったですね」

 

 セレネは彼の額に杖を突きつけると、トラバースの顔から血の気が失せていくのが見て取れた。先ほどまでの憎悪に近い感情は失せ、両眼からは死への恐怖の色が滲み出ていた。そんな哀れな死喰い人を見下し、セレネは口元を綻ばせた。

 

「大丈夫ですよ、殺しはしません。ちょっと情報を抜き取りたいだけですから」

 

 セレネはにっこり笑いながら、あまり使いたくなかった呪文を唱えた。

 

「『レジリメンス‐開心せよ』」

 

 例えるなら、それは飛び込み台からプールに飛び込むようだった。

 小さく波打つ記憶の海に頭から突っ込む。トラバースに蓄積された記憶がセレネの周りを何重にも回転し、小間刻みで場面が変わるビデオテープのように流れていった。この男の生まれ育ちなど、どうだって構わない。肝心なところは唯一つ――……ヴォルデモートが今現在、どこにいるか、だ。

 

 セレネは記憶の奔流の中から、ヴォルデモートに関する記憶のみを抽出する。

 

 ヴォルデモートの圧倒的強さに惹かれ、死喰い人に加わったこと――……どうでもいい。

 ヴォルデモートの命令で日本へ飛んだこと――……どうでもいい。

 ヴォルデモートの命令でとある女性を探したこと――……どうでもいい。

 ヴォルデモートの命令で―――……どうでもいい。

 

 様々な記憶をざっと目を通しながら、セレネは焦った。

 外側の身体は無事だ。今の自分は身体から釣り糸を垂らすように、記憶の海にダイブしているに過ぎない。酸素ボンベもなく、息継ぎなしで潜水しようものなら、身体が悲鳴を上げるのは当然のことだ。事実、身体からは絶えず釣り糸を引き戻すような強制力を感じる。意識を少しでも外に裂こうものなら、すぐに浮上してしまうことだろう。

 

 集中する。

 

 身体から「戻れ!」と訴える強制力に負けないように、ヴォルデモートに関する記憶に指を伸ばし続ける。

 刻一刻と強くなる引き戻すが魂を軋ませ、息が苦しくなってくる。空気が吸いたい。苦しい。記憶なんて蹴り飛ばして、安全な場所に浮上したい。その気持ちを気力で抑え込み、ついに―――……セレネはその記憶に手を伸ばす。

 

 

 ―――ノイズが奔る。

 

 ヴォルデモートが裸足で立っている。

 陰気で壁紙が剥がれた部屋に、一人で立っている。

 

『―――』

 

 彼の口から何か言葉が零れた。 

 誰かがそれに対し――……――………、そして、嘲笑う。

 

『巨人たちを――……るのだ。ラダルファスは戻ってくるなと伝えろ。――……あいつは大事な――……』 

 

 視界が割れる。

 言葉が聞き取れない。記憶を浮上させろ、これ以上は限界だと魂が悲鳴を上げている。

 

『ベラトリックスが……のだ。…………けには、いかん……』

 

 だがしかし、ここで引き下がるわけにはいかない。

 セレネは記憶に触れ続けた。

 

『トラバース、行け――――…………俺様は……もう少し、ここで戦局を見守ろう』

 

 ヴォルデモートは杖をいじりながら答えた。

 彼の位置からだと、城が遠くに見えた。防壁魔法が徐々に張られ、上空に待機していた吸魂鬼が退避するのが分かる。

 

『では、我が君。行ってまいります』

 

 トラバースは頭を下げると、踵を返した。

 そこは廃墟だった。テーブルは傾いているし、シャンデリアには蜘蛛の巣が張っている。部屋の隅には、ところどころ灰色の埃が固まっていた。

 そして、トラバースは虫食いだらけのソファーの横にある扉から、外へと歩き出した。

 

 

 

 

「分かった!!」

 

 セレネは水面に向かって水を蹴るように、喘ぎながら意識を浮上させた。

 視界が一気にクリアになり、目の前にトラバースの蒼白な顔が広がった。セレネは肩で息をしながら、初めての開心術の余韻を感じていた。

 

「……あの場所、間違いない」

 

 セレネは、あの虫食いだらけのソファーに偉そうに腰を下ろしていた男を思い出す。

 

 5年生の時、グリンデルバルドを若返らせた場所……叫びの屋敷だ。

 ホグズミード村のはずれにある「叫びの屋敷」で戦局を観戦している。誰もが命がけで戦い抜く様子を、楽しいゲームのように観戦しているのだ。そう考えると嫌な気持ちになったが、場所さえわかれば、後は簡単だ。とるべき行動は一つである。

 

「……と、その前に」

 

 セレネはトラバースから離れた。

 普段より強めに「金縛り呪文」をかけたので、おそらく解呪されるのは2,3時間後だ。しかしながら、彼の仲間がやってきて終了呪文を唱えられたら終わりである。

 トラバースは、セレネが何の記憶を欲していたのか分かっている。セレネがこの廊下を離れてすぐ、死喰い人仲間がやってきたら不味い。

 ヴォルデモートに迫る危機を伝えられたら不味い。

 

「安心してくださいね」

 

 だから、セレネはトラバースにもう一度、杖を向けた。

 

「すべてが無事終わったら、解呪してあげますから。

 『フェラベルト‐杯になれ』」

 

 トラバースの身体は歪みながら縮み、ちょうど炎のゴブレットと同じくらいの杯に変わった。

 これなら、元死喰い人だとバレないだろうし、ここは戦いの中心から離れた場所だ。硬い石造りの杯なので、そう簡単に割れることはないだろう。

 

「……ホグズミード村のはずれ……遠いわね」

 

 セレネはトラバースを一瞥すると、近くの窓を開け放った。

 途端、外の騒音と魔法が飛び交う音が一層耳に届いてきた。加勢したい気持ちもあったが、まずはヴォルデモートである。セレネは目くらましの呪文をかけると、窓の桟を一気に蹴り飛ばした。

 

「『ヴォラート‐飛べ』!!」

 

 風を切り、落下する音が聞こえる前に飛行呪文を唱える。セレネは空気を蹴るように、脚で舵を取りながら夜空へと飛び出した。

 頭上も満天の星が広がっているが、眼下は色とりどりの流れ星が飛び交うようだ。

 時折、緑の流れ星が飛んでいる。不吉な予感が胸を過り、一層早く飛べと身体に命ずる。この戦いをいち早く終わらせるためには、ヴォルデモートに「死の線」が奔っているか視る必要があるのだ。

 

 セレネは街の灯りがある方へと飛んだ。

 ホグズミード村からは、避難したホグワーツ生が泣きじゃくる声が風に乗って聞こえてきた。セレネはホグズミード村の遥か手前、寂れて誰も寄り付かなくなった屋敷が見えたところで減速する。誰も住んでいないはずの屋敷に、灯る橙色の光が際立つように目立っていた。

 

 十中八九、ヴォルデモートがいる。

 

 セレネは慎重に近くのベランダに降り立つと、窓に向かって

 

「『アロホモーラ‐開け』」

 

 と囁いた。窓は鍵の音も立てずに、そっと外側へ開く。

 セレネは目くらましの呪文をかけたまま、自身の足にクッション呪文をかけた。若干、歩くたびにふわふわと浮遊するような感じになってしまうが、その代わり、足音が消える。

 

 ゆっくり、ゆっくり歩きながら、灯りが見えた方向へと歩き出す。

 暗がりで足元が見えにくいが、その分、橙色の光は分かりやすい目印だった。ぼんやりとした灯りの部屋の扉は少し開いており、中から声が聞こえてきた。

 

「我が君、差し出がましくお許しください。戦いを中止なさり、城に入られてはいかがでしょう?」

 

 ルシウス・マルフォイの囁き声が聞こえた。

 一気に十年、年を取ったような声である。

 

「我が君……我が君ご自身が、ポッターをお探しになる方が、賢明だと思し召されませんか?」

「ルシウスよ、偽っても無駄だ」

 

 ヴォルデモートが嘲笑う。

 

「おまえが停戦を望むのは、息子の安否を確かめたいからだろう?

 俺様は、まだポッターを探す必要はない。だが、どこにいるか知らせるくらいはするべきだろう。ポッターの方から俺様を探しに来るようにさせればいいだけの話だ」

 

 セレネは扉の隙間に顔を近づけ、そっと眼鏡を外した。

 

 ルシウス・マルフォイが見える。黒い線で覆われ、今にも崩れそうだ。

 部屋の全貌も同じ。どこもかしこも音を立てて崩壊しそうなくらい、線が引き詰められている。

 

 ところが、ヴォルデモートはいつも通りだ。

 

 死の線が、全く見えない。

 

「……」

 

 セレネは気づかれる前に、先程侵入して来た部屋に戻った。

 

 

 ヴォルデモートの死の線が視えない。つまり、まだ分霊箱が破壊し切れていない。

 

 それなら、最後の答えは簡単だ。

 

 ハリー・ポッターだ。彼が最後の分霊箱なのだ。彼の中のヴォルデモートの魂を殺せば、サイコパスの不死性が取り除かれる。

 セレネは飛行呪文を囁き、夜空高く飛び出しながら、ほくそ笑んだ。

 今の自分には、最強の杖がある。この杖と自分の魔眼があれば、ヴォルデモートを殺すことが出来る。

 

 故に、すぐにハリー・ポッターを探し出し、彼に宿るヴォルデモートを殺す必要があった。

 

「……あれ……でも、待って」

 

 セレネは飛行しながら、ふと……とある事実を思い出してしまう。

 

 いままで、セレネは数多くの分霊箱を破壊して来た。

 

 ゴーントの指輪。

 スリザリンのロケット。

 ハッフルパフのカップ。

 ヴォルデモートのナギニ。

 そして、レイブンクローの髪飾り。

 

 特に最後の一つなんて、髪飾りが誘惑をしてくる前に破壊した。

 

 そう、破壊である。

 

 今までの分霊箱は全て、破壊して来た。

 直死の魔眼でヴォルデモートの魂を破壊すると、入れ物はすべて割れてしまった。震えて割れるところから考えるに、ヴォルデモートの魂が切り殺され、飛散する衝撃に耐えられず、器となった宝物まで壊れてしまったのだろう。

 だから、全部壊れた。スリザリンのロケットなんて美術的価値が高そうなのに、綺麗に二つに割れてしまっているせいで、ただの壊れたガラクタになってしまっていた。

 

 

 

 では、最後の分霊箱はどうなるのだろう?

 

 

 

 セレネが直死の魔眼の力で魂を破壊することは、前例の通り可能だ。

 

 しかし、肝心な器の方はどうなるのか。

 

 セレネの考えがそこまで至った時、絶望の端まで押し出されたような感覚に陥った。喉が渇き、手足から凍えていくような感じがする。

 

 前例通りならば、ヴォルデモートの魂を殺した衝撃に耐えられず、器となった入れ物は崩壊する。つまり、ハリー・ポッターという名の器は破壊される。

 つまり、これは「生き残った男の子」を殺すということになる。

 

 ハリー・ポッター。

 最初に知り合った魔法使いで、1年生の頃から一緒にヴォルデモートと戦ってきて、三校対抗試合のときは競い合った好敵手で、セレネのことを一番最初に好きだと言ってくれた人。

 

 全体で見れば、彼のことを利用したことの方が多い。

 正直、駒扱いしていたことも多かった。

 

 だがしかし、これまで共に戦ってきた仲間であることには変わりなく、たぶん、きっと、彼は「友人」というカテゴリーに属しているのかもしれない。

 

 その相手を殺す。

 殺さなければ、先に進むことが出来ない。確実に殺さなければ、ヴォルデモートの不死性を剥奪することが出来ない。

 ヴォルデモートを殺すと決めた時より、ベラトリックスに死の呪いを撃ちこもうとした時より、心が鉛のように重く、恐怖が激しく胸の奥で躍動した。心臓の音が耳元で聞こえるように感じるくらい、激しく脈を打っている。

 

 殺すのは簡単だ。

 ハリーなんて簡単に殺すことが出来る。ダンブルドア軍団の模擬戦で、こちらの方が遥かに強いことを実感している。たった2年で、あの実力差を埋めることは不可能だ。

 だから、とっても簡単。

 指輪やロケットが囁いてきた誘惑と同じように、ハリーの呪文なんて捌くのは楽勝だし、マッチ棒を針に変身させるより早くことを終えられる。

 

 

 だけど、その一歩が踏み出せない。

 爪先立ちで崖の縁に立たされている。その選択肢を選んだら最後、この崖から身を投げることになる。

 

 もう、戻ってこれない。

 今までの自分には、二度と戻れない。

 

『セレネ、人を殺すのは駄目だよ』

 

 義父の声が耳の奥で聞こえる。

 セレネはニワトコの杖を強く握りしめた。

 

「私……どうしたら……」

 

 ホグワーツ城に向かって飛びながら、セレネは歯を食いしばった。

 

 

 そんな時だった。

 

『お前たちは、よく戦った。ヴォルデモート卿は勇敢さを称えることを知っている』

 

 背後から冷たく甲高い声が聞こえてきた。

 セレネは満天の星空に浮遊しながら、その声に耳を傾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その頃、ホグワーツ城。

 ハリー・ポッターも同じ声を聞いていた。

 

 ホグワーツ生も死喰い人も、巨人たちも戦いの手を止め、ヴォルデモートの声に聞き入っている。

 否。聞き入っているのではない。ヴォルデモートの声の強制力が、全ての者を従わせていた。

 

『しかし、お前たちは多くの死傷者を出した。俺様に抵抗し続けるなら、一人、また一人と全員が死ぬことになる。そのようなことは望まぬ。魔法族の血が一滴でも流されるのは、損失であり浪費だ』

 

 ヴォルデモートの息を首筋で感じ、死の一撃を受けそうなほど近くに「あの人」が立っているかのように、はっきりと声を聞いていた。

 

『俺様は慈悲深い。俺様は我が戦力を即時撤退するように命ずる。

 一時間やろう。死者を尊厳をもって弔え。傷ついた者の手当てをするのだ。

 

 さて、ハリー・ポッター。俺様は今、直接お前に話す。お前は俺様に立ち向かうどころか、友人たちがお前のために死ぬことを許した。俺様はこれから一時間、「禁じられた森」で待つ。

 もし、一時間ののちにお前が俺様のもとに来なかったならば、降参して出てこなかったならば、戦いを再開する。

 そのときは、俺様自身が戦闘に加わるぞ。そして、お前を見つけだし、お前を俺様から隠そうとしたやつは、男も女も子どもも、最後の1人まで罰してくれよう。

 一時間だ』

 

 ロンもハーマイオニーも、ハリーを見て強く首を振った。

 

「耳を貸すな」

「大丈夫よ。あの人が森に行ったのなら、計画を練り直す必要があるわ」

 

 ハリーたちはヴォルデモートを殺すため、彼の思念を読み取り「叫びの屋敷」に向かっていたが、城の方へ足を引き返した。

 その間、誰も口をきかなかった。

 ハリーの頭の中には、ヴォルデモートの声がまだ響いていた。

 

 城の芝生には、小さな包みのような塊が幾つも転がっていた。

 夜明けまで、あと一時間くらいだろうか。しかし、あたりは真っ暗だった。城の中も異常に静かで、いまは閃光も見えず、衝撃音も悲鳴も聞こえない。誰もいない玄関ホールの敷石は、血で染まっている。

 大理石の欠片や木片に混じって、寮の得点を示すルビーやエメラルドが床一面に散らばっていた。

 

「みんなはどこかしら?」

 

 ハーマイオニーが小声で言った。

 ロンが先に立って大広間に入った。ハリーは大広間の光景を一目見た途端、入り口で足がすくんだ。

 

 各寮のテーブルは失せ、大広間は人でいっぱいだった。

 生き残った者は互いの肩に腕を回し、何人かずつ集まって立っていた。一段高い檀の上で、マダム・ポンフリーが、アーニーやラベンダーたちに手伝わせながら、負傷者の手当てをしていた。

 ケンタウルスのフィレンツェも傷つき、わき腹から血を流して立つことが出来ず、身体を震わせ横になっていた。

 

 死者は、大広間の真ん中に横たえられていた。

 

 見覚えのある顔を見つけ、ハリーの顔から血の気が失せた。

 フレッド・ウィーズリー。

 双子のジョージが頭のところに跪き、ウィーズリーおばさんはフレッドの胸の上に突っ伏して身体を震わせていた。おばさんの髪を撫でながら、おじさんの頬には滝のような涙が流れていた。

 

 ハリーには何も言わずに、ロンとハーマイオニーが離れていった。

 ハーマイオニーが顔を真っ赤に泣き腫らしたジニーに近づき、抱きしめるのを見た。ロンはビル、フラー、パーシーの傍に行った。

 ハーマイオニーがジニーを家族の方へ近寄らせようと移動した時、ハリーは隣に横たわる亡骸をはっきり見た。

 

 リーマス・ルーピンだ。

 白い顔は静かで安らかだった。魔法のかかった暗い天井の下で、まるで眠っているように見えた。

 

「――ッ」

 

 ハリーは入り口から、よろよろと後ずさりした。

 胸が詰まった。そのほかに誰が自分のために死んだのかを、亡骸を見て確かめることなどできない。

 

 はじめから、自分が我が身を差し出していれば、フレッドは死なずに済んだかもしれない。ルーピンも産まれてくる子を抱くことが出来たかもしれない。

 

 ハリーは大広間に背を向け、大理石の階段を開け上がった。

 心を引き抜いてしまいたい。腸も何もかも、身体の中で悲鳴を上げているすべての物を、引き抜いてしまえばいいのに。

 

 ハリーの足は校長室に向かっていた。

 校長室を護衛している石のガーゴイル像の前に辿りついたとき、ハリーは足を止めた。

 

「……ダンブルドアの肖像画……」

 

 校長室には、歴代校長の肖像画がある。

 ダンブルドアの肖像画もあるはずだ。肖像画の中の校長先生に気持ちを吐露すれば、これから進むべき道を示してくれるかもしれない。

 そんな思いを込めて、ハリーは

 

「ダンブルドア!」

 

 と叫んだ。

 驚いたことに、ガーゴイルは横に滑り、背後の螺旋階段が現れた。

 円形の校長室に飛び込んだハリーは、ある変化が起こっていることに気付いた。周囲の壁にかけられている肖像画は、すべて空っぽだった。歴代校長は全員、姿を消してしまっていた。

 どうやら、全員が状況をよく見ようと、城にかけられている絵画の中を駆け抜けていったらしい。

 

 ダンブルドアの肖像画も空っぽだった。

 

 ハリーはがっかりして壁にもたれかかった。

 心が空虚になっていく―――……。

 

 

 

 

 

 

「ポッター、何を呆けている?」

 

 瞬間、前から声が聞こえた。

 ハリーは弾かれたように顔を上げる。死人のように冷たい暗い眼が、ハリーを見下していた。

 

「グリフィンドール10点減点。

 闇の帝王が与えた貴重な一時間を呆けたまま過ごすつもりか?」

 

 そこにいたのは、セブルス・スネイプだった。

 ねっとりとした黒い髪が、細長い顔の周りに下がっている。

 

 スネイプを城から追い出したときは、心に憎しみが煮えたぎったものだが、今はあの時ほど燃え上がる怒りを感じなかった。自分のせいで多くの人を苦しませ、死に追いやってしまった悲しみと後悔が、激しい怒りを締め出していた。

 

「情けない……今になって、ようやく閉心術を習得するとは」 

「……僕を、ヴォルデモートのところへ連れていくつもりか?」

 

 ハリーはやっとの思いで言葉を口に出す。

 

「闇の帝王のところへ行くか行かないかは、これを見てから判断しろ」 

 

 スネイプは淡々と告げると、杖を自分の頭へ向けた。

 青みが勝った銀色の気体でも液体でもないものが、ゆらゆらと流れ出てきた。ハリーはそれを一度、見たことがあった。持ち主の記憶である。

 

「我が輩が言うよりも、見た方が分かるだろう」

 

 スネイプはそう言いながら、「憂いの篩」に記憶を落とした。

 ハリーは少し悩んだが、記憶を見ることにした。あのスネイプがハリーに見せる記憶だが、今は誰か他の人間の頭に逃げ込めれば、どれだけ気が休まることだろうか。

 記憶は篩の中で、銀白色の不思議な渦を巻いた。

 

 ハリーはどうにでもなれと自暴自棄な気持ちで、自分を責め苛む悲しみを、この記憶が和らげてくれるとでも言うように、渦の中へと飛び込んだ。

 

 

 

 

 そこで見た光景は、スネイプの原風景だった。

 

 スネイプはリリー・エバンズを愛していたこと。

 年齢を重ねるごとに亀裂が入り、スネイプが誤って「穢れた血」と呼んでしまったせいで、リリーから絶交されてしまったこと。

 リリーが憎きジェームズ・ポッターと結婚したこと。

 トレローニーの予言から、ヴォルデモートがリリーの子が「闇の帝王を打ち負かす者」だと判断し、ダンブルドアにリリー一家の保護を頼んだこと。

 ダンブルドアに保護を頼む代わりに、自分のすべてを彼に差し出したこと。

 リリーが死に、ヴォルデモートが復活した時に、命の危険にさらされるであろう男の子を護ることを誓った。

 

 愛するリリーが産み、その緑の眼を受け継いだ息子――ハリーを護ると。

 

 

『ハリーは知ってはならんのじゃ。最後の最後まで、必要となるときまで』

 

 ダンブルドアが深夜の校長室で話し始めた。スネイプはダンブルドアの前に佇み、彼の話の先を待っている。

 

『セブルス、よく聴くのじゃ。わしの死後に、ヴォルデモート卿とハリーが戦わなければならない時がやってくるじゃろう。ヴォルデモート卿は狼狽し、リトル・ハングルトン村の小屋やありとあらゆる場所を廻った後、ハリーと直接対決する日が来る』

『狼狽する?』

『さよう。その時には、ハリーに話しても大丈夫じゃろう』

 

 ダンブルドアはそこまで言うと、深く息を吸い、目を閉じた。

 

『こう話すのじゃ。

 ヴォルデモート卿があの子を殺そうとした夜、リリーが盾となって自らの命をヴォルデモートの前に投げ出したとき、『死の呪い』は跳ね返り、破壊された魂の一部が、ハリーに引っかかったのじゃ。

 ヴォルデモート卿の一部が、ハリーの中で生きておる。その部分こそ、ハリーに蛇と話す力を与え、ヴォルデモートとの心の繋がりをもたらしているのじゃ。

 そして、ヴォルデモートの気付かなかった魂の欠片がハリーに付着し、ハリーに守られてる限り、ヴォルデモートは死ぬことが出来ない』

 

 ハリーは、長いトンネルの向こうに、2人を見ているような気がした。

 2人の姿は遥かに遠く、ハリーの耳の中で声が奇妙に反響していた。

 

『すると、あの子は……死なねばならぬと?』

 

 スネイプは落ち着き払って聞いた。

 

『ヴォルデモート自身の手によって、それをなさねばならぬ。それが肝心なのじゃ』

 

 長い沈黙が流れた。

 そして、スネイプが口を開いた。

 

『私は……この長い年月、リリーのために、あの子を守っていると思っていた。リリーのために』

 

 スネイプは酷く衝撃を受けた顔をしていた。

 

『あなたは、死ぬべき時に死ぬことができるようにと、今まで彼を生かしていたのですか?

 あなたのために、私は密偵になり、嘘をつき、あなたのために、死ぬほど危険な立場に身を置いた。すべてが、リリーの息子を安全に守るためだったはずだ。

 いまあなたは、その息子を、 屠殺される豚のように育ててきたのだと言っている!』

『なんと、セブルス。感動的なことを』

 

 ダンブルドアは真顔で言った。

 

『結局、あの子に情が移ったというのか?』

『彼に?』

 

 スネイプが叫んだ。

 

『エクスペクト・パトローナム‐守護霊よ、来たれ』

 

 スネイプの杖先から、銀色の女鹿が飛び出した。

 女鹿は校長室の床に降り立って、一跳びで部屋を横切り、窓の向こうへ姿を消した。ダンブルドアは鹿の軌跡を見つめ、スネイプに向き合ったとき、

 

『なんと……これほどの年月が、経ってもか?』

 

 ダンブルドアの眼に涙があふれていた。

 

『永遠に』

 

 

 

 

 ハリーの身体が上昇し、「憂いの篩」から抜け出ていった。

 先ほどまで彼らが話していた全く同じ部屋の、絨毯の上に立っている。そのまま、ハリーは床に俯せに顔を押し付け、ついに自分が生き残るはずではなかったことを悟った。

 

 ハリーの役目は、ヴォルデモートの生への最後の絆を断ち切ることだった。

 杖を上げて身を護ることもせず、観念してヴォルデモートの行く手に自らを投げ出しさえすれば、綺麗に終わりが来る。

 

「……僕は……」

 

 恐怖が床にうつぶせになるハリーを波のように襲い、身体の中で葬送の太鼓が打ち鳴らされていた。

 

「……理解したか」

 

 頭上から降りかかる声も、鏡を一枚隔てた向こう側から聞こえている気がした。

 

 さまざまな想いが、真実という妥協を許さない絶対が体表面に打ち付けた。

 真実。ダンブルドアが明かさなかった真実。

 ハリーは死ななければいけない。終わりが来なければならない。

 

「安心しろ、ポッター」

 

 感情のこもっていない声が聞こえた。

 

「闇の帝王がお前を殺した後、我輩が闇の帝王にとどめを刺す」

 

 ハリーは答えることが出来なかった。

 

 自分が最後の分霊箱だ。

 スネイプなら自分亡きあと、ヴォルデモートが新たな分霊箱を創り出す前に殺すことが出来るだろう。

 

 

 ハリーは立ち上がった。

 心臓が激しく脈を打つ。まるで、残されている時を数えているようだ。もしかしたら、最期の時が来る前に、一生分の鼓動を打ち終えてしまおうと決めたのかもしれない。

 

 校長室の扉を閉め、ハリーはもう振り返らなかった。

 

 

 かつ、かつと歩く。

 透明マントを被って下の階に折り、玄関ホールに向かった。

 スネイプがついてくる気配がした。オリバー・ウッドとすれ違ったが、彼は反応しなかった。スネイプも目くらましで姿を消しているのかもしれない。

 

 ほとんど誰もいない。

 ロンもハーマイオニーも、ジニーもネビルもセレネもルーナもいない。

 玄関ホールの石段を下り、暗闇に足を踏み出した。校庭は死んだように静まり返り、ハリーがなすべきことを成し遂げられるかどうか、息を潜めて見守っているようだった。

 

「……そうだ」

 

 ハリーは禁じられた森へと続く橋の手前で、わずかに足を止めた。

 透明マントを脱ぎ、感覚のない指で金のスニッチを取り出す。スニッチには『私は終わるときに開く』と刻まれている。

 人生という長いゲームが終わり、スニッチは捕まり、空を去る時が来たのだ。

 

「僕は、まもなく死ぬ」

 

 ハリーが告げると、金色の殻がぱっくり割れた。

 二つに割れたスニッチの中央に、黒い石があった。真ん中にギザギザの割れ目が奔っている。「蘇りの石」は、ニワトコの杖を表す縦の線に沿って割れていたが、マントと石を表す三角形と円は、まだ識別できた。

 

 ハリーは手の中で石を三度転がした。

 

 すると、記憶が実態になったような姿の人影が、それぞれの顔に愛情のこもった微笑を浮かべ、ハリーの周囲に佇んでいた。

 

「……お母さん、お父さん……シリウス……リーマス……」

 

 ハリーは言葉が詰まった。

 尋ねたいこと、言いたいことがたくさんある。

 

 死ぬのは苦しいのか、死なせてごめんなさいとか、ずっと傍にいて欲しいとか。

 けれど、それを尋ねる前に、冷ややかな声が降ってきた。

 

 

「……そう。私の指輪、そこにあったのね」

 

 一人の少女が橋の桟に腰を掛けていた。

 とんっと桟から降り、悠々と近づいてくる。

 

「さようなら、ポッター。早速で悪いけど、私に殺されなさい」

 

 セレネ・ゴーントが禍々しいまでに青い眼を爛々と輝かせ、ハリーに照準を定めていた。

 

 

 

 




次回更新予定は7月5日です。


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