「――ッうわ」
セレネは肩で荒く息を繰り返しながら、汚れた床に崩れ落ちた。
胸の奥が電流が奔っていたかのように痺れ、呼吸をするたびに内側から壊すような痛みが奔る。セレネは右手を床に押し当てながら、荒い呼吸をゆっくり整える。いつのまにか額から滲んでいた汗が、ぽたぽたと床を濡らしていた。
「……若返りの魔法は禁忌だ」
上から低い声が降って来る。
セレネは視線だけ上に向けた。壮年ながらも凛々しい顔が、こちらをしげしげと見下してきていた。
「術者の魂を削り、代わりに対象の肉体を若返らせる魔法だ。これで、君の魂は2割ほど減らされてしまっただろう」
「……ですが、どこぞの分霊箱と違い、魂の在りかはここだけです」
セレネは左手で心臓に拳を当てる。
「殺人によって、無理やり切り落としたわけではありません。その、一部削っただけです」
呼吸を整えながら、ここに至るまでに調べ尽した内容を復唱する。
「健全なる魂は、健全なる肉体に宿ります。健全な肉体を、維持し続ければ……削られた魂も、いずれ元に戻るでしょう」
「確かにその通りだ。それでも、完全な形には戻るまい。
……欲を張って17歳まで時を戻さなくて良かったな。この程度の若返りなら、半年ほどで魂の修復は完了するだろうよ」
グリンデルバルドは淡々と見立てを口にすると、再び虫食いだらけのソファーに腰を下ろした。相変わらず長い足を優雅に組み、考え込むように両手の指を這わせている。
「さて、これで契約が完全なものとなった。フロイライン、君は私に何を望む?」
「前にも言ったでしょ。ヴォルデモートを打倒するための助言者になりなさい」
ようやく呼吸が落ち着いてきたので、ゆっくりと立ち上がる。
まだ少し足元と視界が揺れていたが、グリンデルバルドと同じ視線に立つことができている。セレネは彼を睨みつけるように見つめた。
「アンブリッジよりヴォルデモートか?」
「ガマガエルはどうでもいいです」
「……了解した。では、そろそろ身を隠すとしよう」
グリンデルバルドはゆっくりと立ち上がった。
「潜伏場所は決めているのですか?」
セレネは立ち去ろうとする男に声をかける。
「ホテルの手配くらいでしたら、すぐにできますけど」
「いや、必要ない」
グリンデルバルドは杖を軽く振ってみせる。
なにしろ、リータ・スキータは優れたマスコミである。調べることに関しては超一流だ。そうして調べた事柄を色眼鏡を通して見るという悪癖があるが、彼女は見事、グリンデルバルドの杖が隠されていた場所を探り当てていた。
新しい杖を用意しなくて済んで、本当に手間が省けた。
だが、その杖を使って余計な悪事を働こうとしているなら話は変わってくる。
「まさか、適当なマグルを殺して、その家を奪うつもりではありませんよね」
セレネは怒ったような視線をぶつける。
「殺人行為は避けていただきたい」
「もちろんだ、フロイライン。余計な魔法は一切使わず、安全な場所に潜伏することを約束しよう」
グリンデルバルドはおどけたように両手を広げる。実に胡散臭い仕草に、セレネは警戒を強めた。せっかく足がつかないように注意して脱獄させたのに、人殺しを行うなど非道徳行為が許されるわけがない。余計な被害を増やすために、彼を味方につけたわけでもなかった。
セレネが疑いの眼差しを向け続けていると、グリンデルバルドはやれやれと首を横に振る。
「適当なマグルの家に潜伏するつもりだ。休暇か出張で長期間家を空けている家なら、特に問題ないだろ?」
「本当ですね」
「ああ、私は君に嘘をつかないと約束しよう」
グリンデルバルドはゆっくりと部屋の出口に向かって歩く。
恐ろしき闇の魔法使い グリンデルバルド。ヴォルデモートに対抗するため、闇の魔法への対抗策を知るために彼を解放した。だが、深淵を覗くとき、また深淵もこちらを覗いているという言葉もある。彼を解放することが、はたして最善手だったのだろうか。セレネは今さらになって、少し悩んでしまう。
「さらばだ、フロイライン。連絡は今まで通り、両面鏡で」
「分かりました。ですが、どうして私をフロイラインと呼ぶのでしょう? 私には、セレネ・ゴーントという名前があります」
セレネが去り行く背中に言葉をかけると、彼は僅かに横顔を見せて笑った。
「いや、お前に相応しい呼称だ。可愛らしく、まだまだ甘いお嬢さん」
「私が? 甘い?」
「ああ、そうだ。最後に1つだけ忠告するとしよう」
グリンデルバルドはセレネが不機嫌極まりない顔で睨んでいるのを意に介さず、一本だけ指を掲げてみせた。片方の目が一瞬だけ、異様に輝いたような気がする。グリンデルバルドはどこか愉快気に忠告を口にした。
「長身の男子生徒には気をつけることだ。いずれ、泣く羽目になるぞ」
彼はそれだけ言い残すと、弾けるような音と共に姿を消した。
薄汚れた部屋には、セレネとリータだけが残される。
「……男子生徒なんて、みんな私より背が高いわよ」
セレネはグリンデルバルドが立っていた場所を一瞥すると、ポケットに手を突っ込んだ。
セレネは同学年の誰よりも小柄だ。そんな自分より背の低い男子生徒など、下級生のグラハム・プリチャードやノーマン・ウォルパートくらいしか思いつかない。逆に言えば、それ以外の男子生徒はハリー・ポッターを始め、みんな自分より背が高いのだ。
忠告してくれるのはありがたいが、もう少し詳しく教えて欲しい。
「今の忠告は、未来視によるものざんすかね?」
「さあね。それよりも、リータ。引き続き、義父の護衛をお願いします」
セレネも出口に歩みながら、リータに命令を下した。
「了解したでざんす。……そういえば、お嬢ちゃん。あんたに伝言を預かってるざんすよ」
セレネがリータの脇を通り過ぎるとき、彼女は面倒くさそうに口を開いた。
「私に伝言? 義父が?」
「ええ。『冬休みは予定を入れないでくれ』と。フクロウで伝えて欲しいと頼まれたざんすけど、直接会って話した方が分かりやすいざんしょ?」
「……ありがとうございます。ちょっと待ってくださいね」
セレネは鞄から羊皮紙を取り出すと、義父宛てに簡単な手紙を書き始めた。
「では、これを届けてくださいね」
最初から今年の冬休みは、たいして予定を入れるつもりがなかった。
昨年度は城に残らないといけなかったが、今年はそのような制約もなく、まだジャスティンからクリスマスパーティーに誘われていなかった。
特に問題はないが、いったいどうしてなのだろうか?
その疑問は、セレネがクリスマス休暇でロンドンに到着した時、すぐに判明した。
「おかえり、セレネ! さっそくだけど、いまから空港に行くよ!」
義父が完璧な旅装を整え、眩いばかりの笑顔で待っていたのである。
セレネはトランクを引きずったまま、予想外の事態に口を呆けたように開けてしまった。
「さあ、行こう。そろそろ電車が着く時間だ」
「お、お父さん、ちょっと待ってください。どうして空港に?」
ずいずいと進んで行く義父の半歩後ろを追いかけながら尋ねる。すると、義父は恥ずかしそうな顔で答えてくれた。
「いやー、教え子たちに夏のオーストリア旅行のことを話したらさ、『娘さんとの距離を縮めるためにも、もっと出かけるべきだ』ってアドバイスを貰ったんだよ」
「それで、クリスマス休暇に旅行を?」
「うん。いいアイディアだろ? ああ、僕たちが留守の間、リータが家を管理してくれるって。いい人だね、あの女性」
「……いい人、でしょうか?」
「うん、いい人だよ。なにより、料理が上手だ」
セレネは少し引きつった顔で笑った。
これは非常に危険な状態だ。命よりも大切な義父が、リータ・スキータに毒されている。早急に何かしらの手を打たなければならないが、他に護衛が務まる人物がいない。グリンデルバルドに義父を任せたら最後、想像の範囲を超えた出来事が起きそうな気がした。
「……それで、どこへ旅行に?」
セレネはマグルの電車に乗ると、大変機嫌のよい義父に囁きかけた。
「フランスですか? それとも、アメリカ?」
「いや、日本だよ」
義父はマフラーを緩めながら、照れくさそうに鼻を赤らめた。
「日本? どうして極東の島国へ?」
「いろいろと理由はあるけど、1番はアニメかな。
この間、トロルをモデルにしたアニメを観てね、とても素晴らしかったんだよ。どうやら、そのアニメ制作会社が作った最新作のVHSが年明けに発売されるらしいんだ。でも、イギリスでの発売日が未定でさ……だったら、本場まで行って買った方がいいかなって」
「……トロルってトロールのことですよね」
セレネは苦笑いを浮かべた。
脳裏には、1年生の時――女子トイレに入り込もうとしてきた醜悪な巨体が蘇る。あれをモチーフにしたアニメ作品なんて、セレネは観る気がしなかった。もっとも、アニメを作るようなマグルはトロールの真の姿を知らないはずだ。トロールを中心に繰り広げるほのぼのアニメーションは十分にありえる話だ。
「ごめん、嫌だった? もちろん、ビデオはおまけ扱いで、ちゃんと観光地を巡る計画だよ」
「いいえ、大丈夫です。私は、お父さんと一緒にいるだけで満足ですから」
セレネは自分で言いながら、少し気恥ずかしくなってマフラーを口元まで持ち上げる。
義父の感激したような視線から目を背けるように、セレネは窓の外に視線を向け続ける。
クイールは知らないが、セレネにとって日本とは特別な存在だった。
なにしろ、日本には本当の母親がいる。
シキ・リョウギ。
当時は赤子だったことから考えるに、自分より年齢は1つ上。つまり、まだ16歳の少女だ。当然、相手は自分の存在を知らない。だが、少しだけ――セレネとしては彼女に会ってみたいという気持ちがあった。
リョウギには、クイールから向けられるような愛情を求めていない。ただ、会ってみたい。嫌われても構わないが、とにかく会って話してみたい。それだけだった。
しかし、彼女がどこにいるか知らない。
メアリー・スタインの渡航記録を遡れば見つけることができるだろうが、そこまでして知らなくてもいいと思っていた。別にやることが多かったとはいえ、このようなことになるなら調べておいた方が良かったと後悔する。
日本は小さな島国だが、人口は億を超えている。
その中から一人の少女を探すことなんて、サハラ砂漠に落とした宝石を探すより難しい。だが、探してみる価値はある。
ただ指をくわえて出会うのを待っているより、自分で歩き始めた方がずっと出会える可能性が上がるというものだ。
だが、案の定というべきか。
シキ・リョウギは見つからない。
そして、東京を後にする日――事件が起きた。
新幹線で京都へ向かおうとしたのだが、乗車する前に人身事故があり、復旧のめどが立たなくなってしまったのである。仕方なしに、適当なホテルに泊まることにした。ところが、日本も年末だ。大都会東京とはいえ、なかなか空いているホテルが見つからない。
結局、東京郊外にあるホテルに滞在することになった。
「いやー、まさか新幹線が止まっちゃうなんてね」
クイールがテレビをつけて、苦笑いをしている。
テレビではちょうど、ロボットアニメが放送されていた。クイールの解説によると、ウィルスが侵入しているシステムを直すため、女性の研究者が逆にハッキングをかけようとしているらしい。ロボットアニメなのに、ロボット要素皆無である。
彼は日本語ができるのでアニメに集中しているが、セレネは少し退屈だった。義父の影響で日本語は多少できたが、流暢に聞き取りや会話ができるわけではなかった。
「……下の通りにあった店まで、出かけてきます」
セレネはお気に入りの赤いジャンパーを羽織る。
「そうかい? すぐに帰ってくるんだよ?」
「分かってます」
義父の言葉を背中に受けながら、セレネは夜の街へと繰り出した。
コンビニという店は、24時間も営業している。日本人は働き過ぎると聞いていたが、24時間営業は異常である。大変便利であることには変わりないが、営業する方も、利用する方も慌ただしい感じがする。
「……ま、別にどうでもいいけど」
セレネはジャンパーのポケットに手を入れながら、小さく呟いた。
肌を突き刺すような寒空の下だというのに、繁華街には人が溢れている。クリスマスも過ぎたというのに、しっかりスーツを纏ったサラリーマンが歩いているのだから、本当に日本人は働き過ぎだ。
そんなことを考えながら、目当ての店に向かって歩いていた時だった。
『いらっしゃい。そこのお嬢ちゃん、どうだい? 寄ってくかい?』
はた、と足を止める。
声の方向に視線を向ければ、薄暗い路地の奥に小さな人影が見えた。セレネはポケットに杖が入っていることを確認すると、ゆっくりと近づいていく。そこにいたのは、黒いヴェールを被った恰幅の良い女性だった。彼女の前には水晶玉が置かれている。
それだけで、彼女が何者なのかを悟った。
『……占い師? いくら?』
『女の子はタダさ、誰でもね』
占い師は怪しげな笑みを浮かべる。
占い師の服装というのは、どうやら極東の島国でも同じだったようだ。ホグワーツにも、シビル・トレローニーが占い学で水晶玉を使うらしい。彼女は本物の占い師だ。なにしろ、ハリーにヴォルデモートの復活を予言した。しかし、それ以外はぱっとした予言はしないらしく、その証拠にアンブリッジの査察では酷い結果だったらしい。停職になるのも時間の問題だと噂されている。
『……よろしく』
せっかくなので、セレネは占ってもらうことにする。
本物の占い師でさえ、当たる確率は少ないのだ。彼女もきっと、つまらない当たりさわりのないことしか言わないだろう。しかし、タダという言葉は魅力的だ。
セレネが占い師の前に立つと、彼女は水晶玉を覗き込んだ。否、覗き込むふりをしながら、水晶玉越しにセレネを見てくる。そして、彼女はほうっと息を吐いた。
「悪いことは言わないよ。あんた、森には近づかない方がいい」
占い師は英語で言葉を返してくる。
これには、セレネも少し驚いた。なにしろ、自分の容姿は東洋人そのものである。彼女に会ってからは、一度も英語を使っていない。なのに、この一瞬で外国人だと看破されてしまったのだ。驚くなと言う方が無理である。
「私が外国人だと良く見抜きましたね」
「そりゃ、私は占い師さ。そのくらい、見ればわかる」
「……それで、どうして森には近づかない方がいいのでしょう?」
セレネは返答次第では、杖を使うつもりだった。すでにポケットの中で右手は、愛用の杖を握りしめている。
そもそも、声をかけてきたのは向こうからだ。これまで、ずっとつけられていた可能性もある。この街に来てから、まだ1時間も経っていない。しかし、日本に来てから、あるいは日本に来る前からつけていれば、十分にセレネを観察することができただろう。
彼女はヴォルデモートの手先か、それとも、新たな勢力か。
「おやおや、私を疑っているのかい? 馬鹿を言うんじゃないよ」
セレネがそんなことを考えていると、占い師は少し気を悪くしたような口調で話し始める。
「私は見えたことを教えるだけさ。あんたのことをつけるほど暇じゃない。あたしは、ただ不幸な未来を回避させるだけだよ。
それとも、もっと別のことを教えた方がいいかい? たとえば、あんたが1番気を許している男の子について、あることないこと教えてやろうじゃないか」
占い師のたるんだ頬が、不快な笑みを形作る。セレネは思いっきり占い師を睨みつけた。邪険に扱われてはいるが、不思議と嫌悪を抱かせない老婆だ。セレネは少しむしゃくしゃしたが、長く息を吐くと、ポケットから手を出した。杖はポケットにしまったまま、両手は寒々とした夜風にさらされて縮こまりそうだ。
「……もう一度、聞きます。どうして、森には近づかない方がいいのでしょうか?」
「おや、案外優しいんだね。これは、見込み違いか……まあいい。
森に近づかない方がいい理由? 襲ってくるのさ、ケンタウロスに巨人、エトセトラ。とにかく、その先はいろいろと面倒なことになるよ。まあ、あの程度であんたは死なないと思うけど」
「……森」
巨人がいるかどうかは知らないが、ケンタウロスがいるのは「禁じられた森」だ。自ら好んで入る場所ではない。そもそも、生徒の立ち入りは禁じられている。
「私、森になんて入らないと思いますけど」
「いや、入らないといけない状況になる。私が言えるのはここまで。そこから先の未来を決めるのは、あんた次第さ」
不幸な未来を回避する占い師は、セレネの瞳をまっすぐ見つめていた。
セレネは少し表情を緩ませると、彼女に背を向けた。
「ありがとう、占い師さん。あなたも長生きしてくださいね。でも……夜の路地裏は物騒ですから、お年寄りには向いていないと思いますよ」
自分の思ったままの言葉を口にしながら、セレネは表通りに向かって歩き出す。
ただ、なんとなく、そのままコンビニに立ち寄り、ホテルに戻るのが惜しくなった。
しばらく一人で考え込みたい。セレネはぼんやり別の路地から路地へと歩きながら、本物の未来視が告げた運命を咀嚼した。
そっと空を見上げる。東京の夜空は狭い。周りにビルも何も建てられていないホグワーツの空に慣れ親しんだせいか、薄暗く、星の輝きすら滅多に見つからない空は息苦しく感じた。
「森に近づく状況か……」
どうして、そのような状況になるのか。
セレネが思案しようとしたとき、前方に何かが見えた。
「……あっ」
ぴたり、と足が止まった。
自分の意志ではない。セレネ・ゴーントの意識は、この瞬間だけ凍結してしまっていた。
数メートル先に、赤いジャンパーの人影が見えた。枯れ葉色の着物の上に真っ赤な革ジャンを羽織った人が、鼻歌を歌いながら歩いている。
否、ただの人ではない。
自分と同じ黒い髪で、自分と同じ顔で、自分と同じ背丈で、自分と同じ――空気を纏っている。
違うのは、あの人の髪は肩に届くか届かないかのところで乱雑に切りそろえられている。自分は肩よりも少し長い。それから、眼鏡の有無だ。あの人は眼鏡をかけておらず、どこか遠くを見るような黒い瞳をしている。
『ん?』
あの人もこちらに気付いたのだろう。足を止めて、珍しいものを見つけたかのように目を見開いていた。
「おかあ、さん?」
セレネの唇が震えた。それを聞くと、相手は虚を突かれたような顔をした後、ぷっと噴き出した。
『ママってなんだよ? オレも式も腹を痛めて赤子を産んだ覚えはないぜ? あー、でもそうか。確か親父が言ってたっけ。髪の毛が奪われたとかなんとか。お前、オレのクローンか?』
『……あなたが、シキ・リョウギ?』
『ああ、いかにも。オレが両儀織だ』
シキは嬉しそうに口の端を吊り上げる。
『しかし、オレのクローンにしては……なんだ、その眼。面白そうじゃないか』
そう言いながら、彼女の右手がポケットにしまわれる。
否、ただ入れたのではない。何かを握りしめている。それが何かは問うまでもなかった。なぜなら、彼女からは濃厚なまでの殺気が立ち上っている。直死の魔眼で視止められているわけではないのに、彼女の視線からは死が滲み出ていた。計り知れないほど膨大な死が、自分の前に立っている。
『あんたもその気だろ? それとも、場所を移す?』
「……」
セレネは黙っていた。
ただ、髪の毛一本一本が逆立った気がする。身体を構築する細胞が震えあがり、自分の内側からは得体のしれない感情が込み上げてきた。セレネは何も言わず、再び右手をポケットにしまった。指先で杖を探り当て、そっと握り込む。
『さて、じゃあ――』
「――いきますか」
シキがナイフを取り出すのと、セレネが杖を引き抜くのはほぼ同時だった。シキは勢いよく地面を蹴り、セレネは杖で狙いを定める。
そして――
『やっぱり、式じゃないか』
この場には不釣り合いすぎる穏やかな声が、シキの歩みを止める。セレネも少し驚いて、杖をわずかに下げた。路地の入口には、人畜無害そうな眼鏡の少年が立っていた。黒ぶち眼鏡は、どことなくハリー・ポッターを連想させるが、彼よりもずっと空気が落ち着いている。
『コクトー、いいところで水をさすなよ』
シキはむっとした表情で少年を睨みつける。怒っているようだが、不思議なことに、あれほどまでに凶悪な殺気はもう欠片も纏っていなかった。
『あれ、ごめん。式じゃなくて織の方だったんだね。こんな夜中に何をしてたの?』
『ただの散歩。コクトーこそ何してんだ、こんな夜に』
『僕は両親のおつかいの帰り道。君を見かけてから、追いかけたんだけど……織にも妹がいたんだね。知らなかったよ』
『妹というか……まあいいか。今日は白けた。お前のことはひとまず見逃しておいてやる』
シキは顔を曇らせたものの、ナイフを仕舞い込み表通りに向かって歩き始める。彼女は、二度と振り返らなかった。それを見て、セレネも杖をしまう。
『えっと……君は、妹さんなのかな?』
『私は……』
セレネは少し考えてみたが、日本語で答えるのは難しい。少し悩んだ末、小さな声で答える。
『……娘』
『え、えええ!?』
『違う。家族ではない。血のつながってる、間? えっと……』
『血の繋がっている関係? もしかして、親戚? 姪かな?』
『そう、それ』
少年は少し考えながら、こちらの意図することを言い当ててくれる。
『へー、式の親戚か。物凄く似てるね』
『ありがとう』
セレネはそれだけ言うと、自分も表通りに向かって歩き始める。
だが、途中で足を止めて振り返る。
『あなた、名前は?』
『僕かい? 僕は黒桐幹也』
「……コクトー。詩人みたいな名前ね」
最後だけ、英語で呟いてしまう。
背後で少年の驚く気配が伝わってくるが、セレネはそれに答えることなく歩き続けた。
本当の母親に出会った。
安っぽいホームドラマのように、再会したとき互いに感極まり、ハグをするような展開は最初から期待していなかった。
認知なんてされなくて構わない。むしろ、自分と同じ顔が唐突に現れたら、ドッペルゲンガーを疑うだろうし、まず気持ち悪がられるだろう。そのあたりを想定していた。
まさか、いきなり正面から殺気をぶつけられるとは思わなかった。
そして、その殺気を向けられて、自分は――
「駄目よ、私」
その時の感情を思い出し、セレネは頬を軽く叩いた。
どうせ、自分はホムンクルスとシキの卵子が創り出した人工生命体である。
いくら人間だと叫んでも、フラスコの中で生まれた事実に変わりない。実の親からクローンと言われ、殺気を当てられても全くもっておかしくはないのだ。
そこまで考えたとき、ふと――義父の顔が頭に浮かんだ。
彼は、セレネがメアリー・スタインの子ではないことを知らない。
そもそも、彼がセレネを引き取ったのは、メアリーに頼まれたからだ。彼女のことを深く愛していたから、その形見として15年間も育てきている。
その形見が、ただの人工生命体だったら?
これまで通り、惜しみない愛を注いでくれるのだろうか。
セレネは怖くて震えあがった。思わず、自分の身体を抱きしめてしまう。
「セレネ、遅いじゃないか」
ホテルのエントランスに足を踏み入れると、クイールが待っていた。セレネを見ると、ほっと胸をなでおろしている。
「良かった……セレネがなかなか帰ってこないから心配したよ。……セレネ?」
気が付くと、セレネは義父に抱き着いていた。
少し細い身体にぎゅっと抱きつき、胸に顔を押し当てる。彼の表情は見えない。だが、セレネを安心させるように、ぽんぽんと優しく背中を叩いてくれた。
「……なにか、怖いことでもあったのかい?」
「お父さんは……私のことを愛してる?」
「ああ、もちろんだよ」
「私が、どんな私でも?」
「もちろんだ。どんなセレネでも、僕の大事な娘だからね。……そのことで、誰かに意地悪でも言われたのかな?」
セレネは首を横に振る。
すると、彼はセレネの髪を撫で始めた。
「……もしかして、ヴォルなんとかが関係してるのかい?」
「えっ?」
セレネは弾かれたように顔を上げた。
クイールの表情は慈母のような温かさで満ちている。遅くまで遊んで帰ってきた子供を迎え入れるような、そんな優しくて温かい顔だ。
「黙っててごめんね。実は先学期、セレネが寝ている間に、ダンブルドア校長先生からいろいろ魔法界の事情を聞いてたんだ。
ヴォルなんとかっていう最悪の魔法使いが復活して、そこにセレネが居合わせてしまったってことをね」
「……どこまで、知ってるの?」
「それだけだよ。ヴォルなんとかの所業と今後の魔法界の展望だけ。でも、それを聞いた時に思ったんだ。勇敢なセレネのことだから、ヴォルなんとかを倒そうとするんじゃないかって」
セレネは何も答えることができなかった。
本当は彼の顔から目を逸らしたいのに、義父の瞳に目が釘付けになってしまっていた。
「いいかい、セレネ」
彼の瞳は、今までに見たことがないくらい真剣な色をしていた。
「人はね、一人しか殺せないんだ。天寿を全うして死ぬときに、自分自身の肉体を殺して天の国に行く。
つまりね、セレネ。たとえ、相手が殺人鬼でも、人を殺したが最後、天国へはいけないんだ」
「ヴォルデモートは、化け物です」
「でも、彼だって人だろ? どんな理由があろうとも、殺人は悪なんだよ」
彼はセレネのことを見通している。
きっと、愛しているから。セレネが思っている以上に、セレネのことを分かっているから、ヴォルデモートを殺すために動いていることを知っている。
「セレネがするのは、彼を逮捕するところまでで構わないんだ」
「てっきり、関わるなと言われるのかと思いました」
「止めたところで、セレネは追いかけるだろう? でも、人殺しだけはよくない。それだけは覚えておいてくれ」
クイールは最後の言葉を言い残すと、そっとセレネの腕を離した。
「さて、夕食にしよう。セレネは何が食べたい?」
彼は話題を切り替えるように、いつもの明るい口調で言い放つ。
セレネはしばし呆けたような顔をしていた。やがて、肩をすくめると、くすりと微笑み返す。
「私、ガイドマップに載っていたラーメンを食べたいです」
「よし、美味しいラーメン屋さんを探そう。早くしないと店が閉まっちゃうかもしれないからね」
義父は元気よくホテルから出て行く。
セレネも元気よくその背中を追いかける。
きっとクイールが思っている以上に、セレネにとって彼の話は言葉にできないくらい深い意味を持つものだった。
本当の母親のことやヴォルデモートのことなど、今はどうでもよかった。
先ほどまで感じていた身体の芯から凍るような寂しさも、すっかり薄らいでいる。
ただ、いまは義父と一緒に過ごすことができる。
楽しく穏やかな一時を過ごすことができる。
いまは、それでいい。
東京の狭い空の下。
セレネは少し踊るような歩調で、義父の隣を歩いて行った。
ご都合主義過ぎる展開かもしれない。
そんな都合よく彼が通りかかるわけないし、間一髪のところで幹也が来るはずもない。だが、後悔はしていない。
「95年12月なら、まだいける! 昏睡状態になってない!」と踏んでの展開でした。
なお、次回からは再び舞台がホグワーツに戻りますのでご安心ください。
次話は「玄関ホール大爆破、アンブリッジ医務室へ、心変わり」の三本でお送りする予定です。
今年もよろしくお願いします!