新学期になり、初めての授業は散々な結果に終わった。
『魔法生物飼育学』の授業で扱った『尻尾爆発スクリュート』。
それは、いままで聞いたこともなければ見たこともない生物だった。なにしろ、殻をむかれた奇形の海老のような姿で、ひどく青白いぬめぬめとした胴体からは勝手気ままな場所に足が突き出し、頭らしい頭が見えない。それが百匹近く籠の中に詰め込まれていたのだ。
木箱の中でうようよと闇雲にうごめく様を見て、グリフィンドールの女子生徒が
「ギャーっ!!」
と悲鳴を上げて飛び退いたのは、絶対に悪くない。
パーキンソンやミリセントは卒倒して、白目をむいて気絶しかけていた。
「ハグリッド先生、この生物は……教科書に記載されていませんが」
セレネがそう言いながら『幻の動物とその生息地』を掲げると、ハグリッドは得意げな様子で答えてくれた。
「そりゃ、こいつが新種の生物だからだ。いま孵ったばっかしだ。
そんで、おまえたちが自分で育てられるっちゅうわけだ! そいつをちいっとプロジェクトにしようと思っちょる」
セレネは呆れて返す言葉がなかった。
尻尾が爆発し、針で刺してくるような生き物を生徒に任せていいのだろうか。新種ならなおさらのこと、専門家の仕事である。そのような未知の生物を生徒に触れさせ、万が一のことがあったらどうするというのだろうか。
セレネと同じ班でスクリュートを飼育しているダフネ・グリーングラスは遠い目をしながら
「……魔法生物飼育学って、もっともふもふな魔法生物と触れ合える授業かなって思ったのに……」
と呟いていた。
一つ向こうの班では、ドラコ・マルフォイが
「おやおや、なぜ僕たちがこいつらを生かしておこうとしているのか、僕にはわかったよ。火傷させて、刺して、噛みつく。これが一度にできるペットだもの、誰だって欲しがるだろ?」
と、皮肉たっぷりに言っていた。
それを受け、ハーマイオニー・グレンジャーが
「可愛くないからって役に立たないとは限らないわ。ドラゴンの血なんか素晴らしい魔力があるけど、誰もペットにしたいとは思わないでしょ?」
と反論している。しかし、彼女の表情は酷く強張っている。
おそらく、あれはマルフォイを黙らせるためだけに言ったのだろう。事実、今日の授業を見る限りでは、ハグリッドも「尻尾爆発スクリュートの有効性」が分かってないようだった。
「うー、いやいや!! こんな授業はもうごめんよ!」
ミリセント・ブルストロードがスクリュートの爆発に巻き込まれ、火傷した手を庇いながら叫んだ。
「絶対にダンブルドアの許可は取ってないわ!! パパに手紙を書いて訴えてもらおうかしら!」
「本当にその通りだよ」
ダフネも涙目で同意する。
「セレネもそう思うよね?」
「まあ……そうですね」
あれが成長して手が付けられなくなったとき、ハグリッドはどうするのだろうか。
それこそ、『三大魔法学校対抗試合』に選ばれたエリートに競技の中で倒してもらうのだろうか。そのことを話すと、彼女たちは苦笑いをした。
そのあとは、特に目立った事件はなかった。
ネビル・ロングボトムが魔法薬の授業中に、大鍋を溶かしてしまったことを除いては、だが。彼は魔法薬学との相性が悪く、これで溶かした鍋は六個目である。
ネビルは泣きながら樽一杯の角ヒキガエルの腸を出す、という処罰をやっていた。
宿題もそこまで出されることもなく、普段のマグルの勉強と賢者の石の研究をするため図書室や秘密の部屋に通う日々を送っていた。
図書室では、ハーマイオニーとすれ違ったが、会釈をするだけで終わった。
昨年度末のシリウス・ブラックの件以降、セレネはハーマイオニーとハリーから少し避けられていた。
無理もない、とセレネは考える。 目の前で無実だった男の腕を切り落とす様子を見せられたら、危ない人物だと避けられても不思議ではない。
ただ、そこまで彼らに避ける気がないのだろう。二人とも、こちらに何か伝えたいような顔をしていた。
ただし、ロン・ウィーズリーは別である。
彼はいまや完全な敵意を向けてきていた。過激派のフローラたち親衛隊に襲撃されるのは、きっと時間の問題だろう。
「……止めるように先に命令を出そうかしら」
セレネは小さく呟いた。
「命令ですか?」
その言葉を拾った少年がいた。
ハッフルパフのジャスティン・フィンチ・フレッチリーだ。今日も制服のローブをしっかり締め、背筋を伸ばして立っている。
「命令だなんて、しもべ妖精……でしたっけ?に言うみたいですね」
「気にしないでください。こちらの話です。スリザリン内で、いろいろありまして」
「そうですか……なにかあったら言ってくださいね、僕、できる限り力になりますから」
そう言って、にかっとジャスティンは爽やかに笑った。
「ありがとうございます」
セレネも微笑み返したが、内心では現状、彼の助けを得るようなことは起こらないと考えていた。
マグルの世界に伝手を作るためには彼の力を借りる必要があるだろうが、今のところ必要ない。今のセレネに必要なのは、賢者の石の解析方法と他の不死に至る方法を探ること、そして、万が一にもヴォルデモートが復活したときのために備える力を手に入れることだ。
「僕、次は『薬草学』の授業なんです。玄関ホールまで一緒に行きませんか?」
「別に構いませんよ。私は『闇の魔術に対する防衛術』なので」
すると、ジャスティンの顔が少し青ざめた。
「何回目ですか?」
「防衛術の授業ですか? 次で二回目ですけど」
セレネがさらっと答えると、ジャスティンの顔は更に強張ってしまった。
『闇の魔術に対する防衛術』
昨年度のリーマス・ルーピンが「人狼である」ことが判明し、退職してしまったため、新しい先生が担当していた。
それも悪の魔法使いと戦う歴戦の「闇払い」アラスター・ムーディだ。
初回の授業なんて、魔法使いに禁じられた三つの呪文『服従の呪文』『磔の呪い』『アバダ・ケダブラ』を目の前で蜘蛛を使って実演したのだ。
本来は魔法省が六年生以上に見せることを限定させている呪文を、わずか四年生に見せるなんてどうかしている。だが、彼の解説は分かりやすく非常に実践的であった。
なので、セレネは少し――次の授業を楽しみにしていたのである。
「あれは……ずいぶん怖かったです。セレネも気をつけてください」
「そこまで凄い呪いを実践したのですか?」
「僕は……口にするのもおぞましいです」
少し震えるジャスティンと別れると、セレネは杖を取り出した。
毎晩磨いているので、清潔に保たれている。魔法も魔力も万全、どのような呪いを習っても大丈夫な心構えもできている。
むしろ、少しでも実践的な呪いを学びたい。
セレネは少し口角を上げて、闇の魔術に対する防衛術の教室の扉を開けた。
そして、驚いた。
まさか、ムーディーが「服従の呪文」を一人一人にかけて、呪いの力を示し、果たして生徒がその力に抵抗できるかどうかを試すと発表したのだ。
ジャスティンが怯えていた理由も分かった気がする。
おそらく彼は、呪いに抵抗することができなかったのだ。
ムーディは机を一振りして机を片付けると、教室の中央に広いスペースを作った。
そのとき、ノットが迷いながら手を挙げる。
「先生、それは前回、人にかけるのは違法と習いました」
「ダンブルドアがこれがどういうものなのかを、体験的におまえたちに教えて欲しいというのだ」
ムーディの義眼「魔法の目」がぐるりと回って、ノットを見据え、瞬きもせず、不気味な眼差しで凝視した。
「お前の父親が裁判で『抵抗できなかった』と証言した呪いだぞ? ええ? ヴォルデモートにかけられて、仕方なく悪事を働いたとな」
ヴォルデモートの名が出たとき、一同の身が固まった。ダフネとミリセントは悲鳴を上げ、パーキンソンはマルフォイにしがみついた。
「お前たちの父親のことをよく知っとるぞ……親父に言っとくんだな、ムーディが目を離さないと」
ノットは黙り込んだ。
その後、ムーディは一人一人を呼び出して『服従の呪文』をかけ始めた。
呪いのせいで、スリザリン生たちがおかしなことをし始めるのを、セレネは黙ってみていた。
クラッブとゴイルは本物そっくりな豚の物まねをし、ダフネは部屋の真ん中で見事なバレエを踊り始めた。マルフォイはビートルズの曲を歌いながら、教室をケンケン跳びで三周した。マルフォイがマグルのメジャー曲を知るわけがないのに、完璧に歌いきっている。
これは、かなり恐ろしい呪いである。セレネはごくりと唾をのんだ。
自分ならば、魔法をかけられる直前に『線』を叩き切ればよいが、かかってしまってはそうもいかない。呪いをかけられてから『魔眼』を使うことができるのだろうか。
誰一人として、呪いに抵抗できたものはいなかった。呪いを解いたとき、初めて我に返るのだ。
マルフォイは絶望で顔が青ざめていた。
「そんな……この僕がマグルの歌を……」
「心を強く持てば、支配を受けないですむ。いついかなるときでも、心を強く持てば支配されぬ! まさに油断大敵!
次、ゴーント!!」
セレネが前に出ると、その杖はすぐに胸へ向けられた。
「『インペリオ‐服従せよ』!」
それは、最高に素晴らしい気分だった。
すべての思いや悩みも優しく拭い去られ、漠然とした幸福感に包み込まれていく。気分が緩み、ふわふわと浮かぶような感じがした。
……ウサギの真似をしろ
誰かの声が聞こえた。
ムーディの声だ。義父よりも優しく、すべてを委ねたくなるような甘くて柔らかく包み込まれるような声である。セレネはその声に従うように、足を曲げた。
……腕を頭の横で伸ばせ。そして、教室を跳ねまわるのだ。
腕を動かしかけ、ふと――どうしてこんなことをするのだろう?と疑問に思う。
周りにはスリザリン生が多くいる。皆が自分のことを見ている。なのに、何故――ウサギの真似をしなければならないのだろうか。
……ウサギのように跳びはねるのだ。
そのようなことは、気が進まなかった。
どうしてやらなければならないのか、ちっともセレネには理解できなかった。そうなると、いま足を曲げている意味も分からない。
セレネがふわふわした感情の中、悩んでいると、再びムーディーの声が聞こえてきた。
……早く跳びはねろ。跳ねれば楽になれるぞ。
その声と共に、ふわふわと春の長閑な気候が雪崩れ込んできた。
ああ、このままこの声に委ねてしまいたい。そう気もちが緩んだとき、眼鏡の向こうに『線』が見えた。床一面に張り巡らされた黒く禍々しい『死の線』だ。
セレネはぎょっとして身体が固まった。
それと同時に、なんて馬鹿なことをしているのだろうという気持ちが一気に広がっていく。
……ウサギのように跳べ!! いますぐに!!
「やるものか!!」
セレネは闇雲に杖を振った。
次の瞬間、セレネの脳内から長閑な感覚が一掃された。
冬の朝に洗顔したように、一気にすっきり澄み渡る感覚が爪先から頭までを貫いた。
幸福感は一切なくなり、現実が戻ってくる。
すると、セレネは、いま足をかなり曲げていることに気づいた。
それと同時に、ムーディが己の前に盾の呪文を構築していることにも。
「よくやった!! わしに針刺し呪いをかけようとしたな!? よい、それでいいのだ!!」
ムーディは唸るように笑った。
杖でコツ、コツとセレネに向かってくると、肩を強く叩いた。
「見たか、おまえたち! ゴーントが打ち勝ったぞ!! やつらは、おまえを支配するにはてこずるだろうよ。スリザリンに10点をやろう!」
セレネは照れくさくなった。
完全に支配されたわけではなかったが、少し足を曲げる程度にはムーディに支配されてしまった。それはすなわち――負けを意味する。
「すごいね、セレネ!!」
ダフネに拍手で迎えられたが、セレネの心はそこまで晴れない。
結局、この時間に抵抗できたのはセレネだけだった。
「ちょっと来い、ゴーント」
終業のベルが鳴り、皆が帰る頃――、ムーディはセレネだけを呼び止めた。
青くギョロッとした眼がセレネを見据えている。
「お前のことは、ダンブルドアから聞いているぞ」
「……校長先生からですか?」
「そうだ。『闇の帝王』の配下を気取っていたクィレルと戦ったとかな」
セレネは黙った。
ムーディが何を言おうとしているのかが、まったく理解できなかったからだ。
「興味深い術を使うとも聞いた。今回はそれを使ったとは思えなかったが、一度見せてもらってもいいか?」
「……申し訳ありません。あまり使いたくないので」
おそらく、彼が言っているのは『直死の魔眼』のことだろう。
危険を感じたときは迷わずに使うが、今はその時ではない。セレネは軽く頭を下げると、ムーディは何か考え込むように黙ってこちらを睨み付けていた。
不敵な笑みを浮かべたムーディは、分厚いコートの中に手を突っ込んだ。杖を取り出すのかと思い、セレネは素早く杖を構える。だが、彼が取り出したのは使い古した携帯用酒瓶だった。酒瓶を持ち上げグイッと飲み干すと、不味そうに顔をしかめる。
「もういい、行け。今日はよくやった」
それだけ言うと、セレネを解放してくれた。
彼は、いったい何を言いたかったのだろうか。
セレネは釈然としない思いを抱えて、教室を飛び出した。
その背中を、じっと「魔法の目」が見つめていることを感じながら。