ヴァン・ホーエンハイム・パラケルスス。
彼は「遍く人々を、愛し子を救うために成すべきことを成す」をモットーに、マグルの世界に魔法や研究成果を広めた異端の魔法使いだ。
その溢れるばかりの才能をマグルのために使い、魔法使いに疎まれ、死に追い込まれた。異端の天才魔法使いが残した書物の大半は死後、処分され歴史の闇へと葬り去られてしまう。
そんな彼だが、錬金術の世界ではわずかに痕跡を残している。
彼に比肩する錬金術師は後世にいたるまで出現せず、彼の錬成した「賢者の石」はニコラス・フラメルのものとも違った性質を携えていたという。
その性質とは――
「吸収?」
つい、セレネは声に出して読んでしまった。
理解が追い付かない。その衝撃がよほど大きかったのだろう。叫びほどはいかないが、近くのスリザリン生たちを驚かすくらい大きかったらしい。気がつけば、談話室に集ったスリザリン生たち全員が「なにごとか?」という視線を感じる。
「セレネ、どうしたの?」
やはりというべきか、最初に声をかけてきたのはダフネだった。
「いえ、少し予想外のことが書いてありましたので、驚いてしまいました」
「へー、セレネにも予想外のことがあるんだ」
「私も予想が外れることくらいあります、人間ですから」
本をぱたん、と閉じながら言い返す。
すると、ダフネはくすくす笑った。
「なにかおかしいことでも?」
「ううん、なんでもない」
どこがおかしいのか、ダフネはしばらく笑い続けていた。セレネは理由が分からず、首を少し傾げた。しかし、ダフネが笑う理由よりも今はパラケルススの「賢者の石」についての知識の探求が先だ。
夕食も終わり、寝る前の読書も兼ねて談話室で勉強をしていたが――これだと集中できそうにない。セレネは小さく息を吐いた。
「それでは、私――部屋へ行きます」
「え? 今日は決闘クラブだよ?」
立ち上がりかけたが、待ったをかけられる。
セレネは気持ちが重く沈み込むのを感じた。
「決闘クラブ、ですか」
ロックハートの決闘クラブの質なんて、たかが知れている。
正直、出る価値もない。いくら優等生を演じているからといって、ロックハートに媚を売るようなことができるだろうか。そのようなこと、やりたくない。むしろ、優等生だから出ないという手もあるのではないだろうか、とさえ考えてしまう。
「セレネ、いやなことから逃げちゃだめだよ」
「別に嫌なことではありません。出るに決まってますよ!」
売り言葉に買い言葉とは、まさにこのことである。
ダフネの言葉を受け、勢いに任せて参加すると言ってしまった。もう後戻りはできない。
「行こう、セレネ」
セレネは彼女に引きずられるように談話室を後にする。
振りほどくことなど、簡単だっただろう。だが、たまにはこれでいいか、と思う自分もいた。
「それにしても、人が多いですね」
そう驚いてしまうくらい、夜にもかかわらず人通りが多かった。
「継承者」とやらの事件が多発し始めて以来、8時以降に廊下を出歩く生徒は稀だった。しかし、今日は違う。どこを見渡しても人で溢れかえっていた。人ごみの中にマルフォイたちやハリーたちもいる。ジャスティンもハッフルパフ生たちと一緒にいた。
「しかも私たちくらいの生徒が多いね。あそこにいるの、一年生だし」
ダフネの視線の先を辿れば、赤毛の顔色の悪い女の子がいた。
「皆、不安なのかもしれませんね」
すでに防衛術を習っているならともかく、1,2年生はろくな防衛呪文を知らない。今年度の「闇の魔術に対する防衛術」の教師はもちろん、昨年度のターバン男もしっかり教えてくれたとは言い難かった。
「セレネ、誰が教えてくれるか知ってる?」
「……知らない方がいいですよ」
むしろ、教えた方が彼女のためだったのだろうか、と考えながら決闘クラブの会場――大広間に足を踏み入れた。食事用の長いテーブルは全て取り払われ、一方の壁に沿って金色の舞台が設置してあった。何千ものロウソクが上を漂い、舞台を照らしている。
「えっ!? セレネ、知ってるの?」
「まぁ、知っていますけど……」
「だれだれ?教えて!」
しかし、セレネがその人物の名を口にする前に、金色の舞台に男がさっそうと登場した。
ギルデロイ・ロックハートだ。
深紫色のローブを着た彼の後ろには、いつもの漆黒のローブを翻してスネイプが現れた。
「静粛に!みなさん、集まっていますか!?結構結構!では…」
ロックハートが、いつもの笑顔で話し始めた。
非常に珍しい組み合わせだ。スネイプは相当機嫌が悪いのだろう。上唇がめくれあがっている。今のスネイプなら神話上のバジリスクではないが、目だけで誰かを殺せそうだ。
よくロックハートは笑顔で演説をしてられるな、と少し感心してしまった。おそらく周りを見ていないのだろう。ロックハートは女性を魅了する笑顔を浮かべながら、言葉を紡いでいく。
「ご覧のように二人で作法に従って杖を構えています。それから3つ数えて最初の術をかけます、大丈夫ですよ、お互い殺すつもりはありません」
長々とした演説が終わったようなので、ロックハートの説明に耳を傾けた。お互い殺すつもりはない、とロックハートは言うが、はたして本当だろうか。少なくとも、スネイプはロックハートのことを殺しそうな勢いで睨んでいる。
もっとも、本当に殺したら牢獄行きになってしまうので、殺しはしないと思うが。
「1―2-3」
「エクスペリアームズ―武器よ去れ!」
『3』とカウントした直後に、スネイプが振り返り杖から目のくらむような紅色の閃光を繰り出す。
ロックハートの杖は吹き飛び、彼は派手な音とともに壁に打ち付けられた。ダフネや他の女子生徒たちが驚いて手で口を覆っている。
セレネは床に情けなく大の字に転がったロックハートを見て、思わず呆れてため息をつきそうになった。マルフォイやハリーたちは、堪えることなく笑っている。
「さぁ、みなさん」
ロックハートは、髪が乱れたままふらふらと立ち上がる。しかし、笑顔は忘れていない。ある意味、プロ根性だ。そこだけは尊敬に値する。もっとも、尊敬はしないが。
セレネが冷ややかな目で見ている間にも、ロックハートの語りは続く。
「今のが『武装解除の術』です。ごらんのとおり…私は杖を失ったわけです―――あぁ、ミス・ブラウン、ありがとう。スネイプ先生が生徒に今の術を見せたのは素晴らしい考えです。
しかし、今先生がやろうとしたことはあまりにも見え透いていましたね。それを止めようとしたら、いとも簡単に出来たでしょうが……」
ここで、ようやくロックハートは言葉を止めた。さすがに、スネイプの殺気を感じたらしい。少し離れている自分がいる場所まで伝わってくる濃厚すぎる殺気だから、これに気が付かない人はいないだろう。
「模範演技はこれで十分ですね!さあ、2人1組になって練習です!」
ロックハートがパンパンっと手を叩いた。
それから、セレネはしばらくダフネと一緒に武装解除の呪文を練習した。しかし――
「ダフネ、それ本気?」
「ほ、本気でやってるよ! エクスペリアームス!!」
ダフネは顔を真っ赤にして呪文を口にしたが、セレネの杖はぴくりとも動かなかった。
「こうやるのよ『エクスペリアームス―武器よ、去れ』!!」
セレネが素早く口にする。すると、杖の先から赤い閃光が奔り、ダフネの杖は弧を描きながら宙を舞う。
「発音は完璧です。あとは、込める魔力の量ですね」
セレネはダフネの杖を手にしながら、考察を口にした。
「すごいな、セレネ。私、聖28族なのに、魔力量が少なくて……」
ダフネはがっくし、と落ち込む。
「聖28族? ……ああ、純血の一族のことですか」
ノットの祖先が書いた本が、セレネの脳裏に浮かんだ。
聖28族とは、1930年代の時点で「間違いなく純血の血筋」と認定された一族のことである。このなかには「マルフォイ」や「グリーングラス」「ブルストロード」「ノット」など見覚えのある名前が並んでいる。よく読めば「ゴーント」という一族の名前も28族の中に入っていた。
「うん。でも、私の一族には呪いがあって――」
この先、ダフネが話そうとしていたのだろうか。
セレネは聞き取ることができなかった。
「危ないっ!!」
そもそも、最初から考慮すべきであった。
なにせ、最初の指示が「2人一組になって決闘に練習をするように」だけだったのである。場所の指定がなかった以上、そこら中で――しかも、決闘の際に使用する呪文を明確にしていなかったせいで――呪いやらなにやらが乱発していた。相手にかけるだけならいい。その相手が避けてしまったとき、その呪いの標的は別の人物へと向けられてしまう。
そして、その呪いは今、まっすぐダフネに向けられていた。
いまから防御魔法を討とうにも間に合わない。セレネの足は勝手に動き出し、そして――
「――ッ!!」
自分の身体を盾にするように、ダフネと呪いの間に割り込んでいた。
当然、例えようもない激痛がセレネを襲う。
「やめなさい、やめ!! ああ、ブルストロード、首を絞めるのはやめなさい! そこ、鼻血は止まるから大丈夫。セレネ・ゴーント! 気を失うのは早いですよ!」
ロックハートが何か叫んでいるのが聞こえる。
だが、痛みでどうでもいい。それも遠くなり、どんどん視界が暗くなっていく。
「セレネっ、ごめん! ごめんね!」
ダフネが涙をいっぱいに浮かべながら、自分を見下している。
自分は、なにをやっていたのだろう。
決まっている、優等生だからだ。頭のどこかでそんな声がしたが、それは違うような気がした。ダフネを助けようとしたとき、そんなこと考えていなかった気がする。
「私……セレネ、失格だな」
痛みは臨界点を突破している。
もう限界だ。
なにせ、石になった人を戻すことができるほどの技術がある世界だ。
この程度の傷、マダム・ポンフリーなら治すことができるだろう。
セレネはその言葉を最後に、意識を手放した。
翌朝、目が覚めたとき、セレネは医務室にいた。
痛みはなく、指も動くし、他にも不都合な点はなさそうだ。セレネは自分が起きたことを告げようとして、おかしなところに気づいた。
しかし、医務室には誰もいない。
校医の姿すら見当たらないのだ。
いったい、どういうことだろうか。
セレネが疑問を感じていると、医務室の前が騒がしくなってきた。
「早く、こちらへ」
「ひどい……こんなことって!」
天文学科のシニストラの後ろ姿が入ってくる。その後に続けて、フリットウィックの小さな姿が。
二人は何かを運んでいる。石像のようなものの片端を重そうに持って運んでいる。セレネは目を丸くした。
「ジャスティン?」
ジャスティン・フィンチ・フレッチリ―だ。
冷たく、がちがちに硬直し、恐怖の痕が顔に凍りつき、虚ろな目が天井を凝視している。
セレネは眼に熱が集まるのを感じた。