ふと、目が覚めた。
広い夜だ。
どこまでも、どこまでも夜空が広がっている。
星は視えない。握り拳くらいの満月が煌々と輝き、星の瞬きを打ち消している。
セレネは草原に寝転がり、ぼんやりと満月の支配する空を眺めていた。
周りには誰もいない。
獣の息遣いもフクロウの鳴き声も聞こえない。風の草を揺らす音だけが、ただただ囁いていた。
一人になりたくて草原に寝転がったのはいいのだが、どうやら沈み込むように眠ってしまっていたらしい。幸か不幸か、目が覚めても寝ている間も一人ぼっちだった。寂しさは感じない。
普段は周りに誰かしらいるので、ちょっと新鮮。
たまの一人は心地よいものだ。
「……静かね」
セレネは月を見上げながら呟いた。
こうして寝転がっていると、一区切りついた気がする。
昨日までの死闘も、楽しかった喜びも、すべてが遠い幻のようだ。
ここで「人生をもう一度、最初からやり直せ」と、記憶も何も白紙の状態で過去に送り返されたとしたら、きっと違った偶然が積み重なって、別の人生を送っているかもしれない。
だから、セレネ・ゴーントの人生は偶然の上に成り立っている。
「……ああ、それはなんて……」
かけがえのない時だったのだろう。
セレネの呟いた声は風に浚われ、どこかへと消えていった。
怖いことや辛いことも多かった。だがしかし、それを相殺できるくらい、嬉しかったことや幸せなことがある。故に、きっとこの後の人生も同じくらい辛くて怖いことがあるし、同じくらい嬉しくて幸せなことがある。
これからも、かけがえのない一瞬一瞬の偶然が積み重なっていくのだ。
そう思った瞬間だった。
「うぐっ――ッ!?」
心臓が一際高く鼓動を打ったかと思うと、急激に内側へと収縮する。熱した鉄の棒で心臓を抉られるような痛みに、セレネは呻き声を上げた。
「――ッくぅ」
セレネは心臓を掻きむしるように胸を抑える。強烈な痛みに背を反らせ、荒い息を吐く。次第に痛みは治まってきたが、代わりに背中まで汗が染みだしてきた。冷や汗が風に当たり、身体を芋虫のように更に縮ませる。
「はぁ……はぁ……」
浅い呼吸を繰り返し、痛みが引いていくのを待つ。
ここ数年、唐突に訪れる痛みについては誰にも話していない。
医者にかからなくても、その原因は予想できていた。
これまで、何発の磔呪いを受けてきたのか。
これまで、何発の失神呪文を受けてきたのか。
数えるのが億劫になるほど、この身に受けてきた。
磔呪いを受けても無理して立ち上がり、ベラトリックス・レストレンジに向かって走ったことは、今でも昨日のことのように覚えている。
自分はホムンクルスと人間の子で、フラスコの中で人工的に造られた生命体である。ただでさえ寿命が短いのに身体に鞭を打ち続けてきた。しかも、そのうえ直死の魔眼を通じて、ずっと死を視続けてきた。
おそらく、きっと――……あの夏の日、ダンブルドアが予見したほどは生きられない。
この後も、かけがえのない日は続く。
けれど、自分はどれだけの間、あと何回、その日々を味わえるのだろうか。
それを思うと、心に空っ風が吹き始める。背後から一歩一歩確実に迫ってくる闇に対し、柄にもなく足が震えそうになった。
セレネは、もう一度、瞼を閉じて、これからのことを考えないようにする。
視界が、暗闇に覆われていく。
「君。そんなところに寝ていると、危ないわよ?」
その刹那。
とても懐かしい声が聞こえた。
「……え?」
セレネは目を開けた。
「あなたは……?」
「こんな夜更けに、こんな草原で寝てるなんて。あなた、意外と暇なのね」
それなりに気配に敏感だったつもりだ。
「姿くらまし」の音すらなかった。
「あやうく、蹴り飛ばすところだったわよ?」
だけど、現に彼女はそこにいた。
大きなトランクを持ち、赤くて長い髪をたなびかせながら、少し不機嫌そうに言った。
「それは……あなたに、私が蹴り飛ばされる……ということでしょうか?」
セレネが身体を半分起こしながら尋ねると、彼女は隣に腰を下ろした。
「決まってるじゃない。ここにいるのは、私と貴方だけなんだから。私以外、誰がいるっていうの?」
彼女は腕を組むと、自信たっぷりに言っていた。
そのまま、2人は何も言わなかった。ただ黙って月を眺めていた。
セレネは初めて会ったはずの女性が、どこか懐かしく感じた。
「どこかで会いましたか?」なんて、尋ねるのは野暮な気がした。懐かしく感じるのだから、きっと遠い昔、記憶にないどこかで出会ったのだ。暗示の魔法にかけられている気配もないし、なんとなくそれでいい気がした。
「ところで、さっきまで酷く苦しそうだったけど?」
「……見ていたのですか?」
「まあね。でも、貴方はいつも苦しそうね」
「あなたと会うときが、たまたまそうなだけですよ」
セレネの口は考えるよりも先に、静かな言葉を紡いでいた。
「昨日まで不眠不休で仕事をしていまして。その無理が来たのかもしれません」
「あら奇遇ね。私も昨日まで、この辺りで仕事をしていたの」
仕事の内容は互いに語らなかった。
ただ、なんとなく同じ系統の仕事だという気がした。
「……これは、いつものことですので、気にしないでください」
セレネは胸から手を離し、無理やり口の端を上げた。
「もう慣れてますから」
「そう?」
女性は難しい顔をしている。
彼女の青い瞳は、一瞬、ダンブルドアを思い出した。どこまでも人を見透かすような青い瞳。だけど、この女性の方があの老人よりも感情的で、優しくて、人間味があるような気がする。
そんな風に心の緊張を緩めていたからだろうか。
彼女の鋭い指摘に、セレネは言葉を失ってしまった。
「……あなた、自分が長くないってことに気付いている? もって、あと数年でしょうね」
女性は、はっきりと断定した。
「……」
衝撃で、何も答えることができない。
寿命の短さに驚いたわけではない。彼女が断定してきたことに驚いたのだ。あのダンブルドアですら寂しげに告げた言葉を、彼女はきっぱりと言い切る。そんなところも、彼女らしいと言えばそうなのだろう。余命を断定されたこともそうだが、出会ったばかりの人なのに、彼女らしいと感じる自分にも、いささか驚いてしまった。
「まあ、それなりに分かっています」
「その割には落ち着いているわよね。貴方の実力なら、体に負担をかけない仕事にも就けるはずよ。
もしかして、死が怖くないの?」
やはり、じろりと不機嫌そうな顔で視てくる。
セレネは小さく微笑みを浮かべた。
「それは、怖いですよ。死にたくないです」
幼い頃に観測した、強烈な「」のイメージは頭をこびりついて離れない。
けれど――……
「でも私、先のことよりも今を優先したいんです」
この仕事以外の職に就くのは、非常に簡単なことだ。
なぜなら、つい先日、魔法大臣にハーマイオニー・グレンジャーが就任した。浅からぬ縁の彼女に頼めば、どんなポストにも就くことができるだろう。
しかしながら、今のセレネはしたくないと訴えていた。
「私は……」
瞼を閉じれば、いつも自分の大切な人たちが浮かんでくる。
昔は――……それこそ、ホグワーツに入学する前は、そんな人、誰もいなかった。
自分さえ良ければそれでいい。
賢者の石を使って、自分だけ死を回避できればそれでいい。
馴れ合いの友達はいらなかった。
上位の成績をキープしていれば、周囲から認めてもらえる。魔法界にしろ、マグル界にしろ、優秀な成績を収めていれば、将来の就職にも有利だし、将来的には一人で食べていくことができる。
同級生は、自分の保全のために利用できるか否かの存在でしかなかった。
一人で生きていくことに疑問は覚えなかったし、それ以外の選択肢など考えもしなかった。
ああ――……だから、きっと昔の自分が今の自分を見たら「偽善者に成り下がったのか」とか「お前は退化した」とか散々嫌味を言われるだろう。
それでも、セレネは構わない。
「私は、大切な人たちが過ごす世界を、少しでも良くしていきたい」
最初、義父だけだった。
義父さえ幸せなら、それで良かった。
それが、1人、2人と増え始め、気が付くと両手の指では数えきれないくらい増えていた。
そんな大切な人たちが生きる世界を守りたい。少しでも良くしていきたい。セオドールからは顔を合わすたびに「そろそろ、俺と同じ後方支援に回れ」と言われるが、たとえ、自分が死んでからも彼らが幸せに生きることが出来るように、精一杯後悔のない生き方をしたかった。
「そう……でも、あなたは気づいているのかしら?」
すっと、女性は色のない目で見つめてきた。
それは、時計塔の研究者たちの視線によく似ていた。
「貴方の浄眼は直死の魔眼へと変貌を遂げ、人とは違ったモノが見れる特殊なチャンネルになった。つまり、根源の渦という世界の縮図を垣間見れる特別な目を持っているわ。
……貴方は根源の渦と繋がっている」
根源の渦。
すべての原因が渦巻いている場所。
すべてが用意されていて、だから、何もない場所。
「ただ繋がっているだけだけど、それの一部であることには変わらないし、同じ存在ということに他ならないわ。
だから、あなたはその力を駆使して、新しい世界で古い世界を握りつぶすことだってできるのよ」
セレネは根源の渦との繋がりなんて、まったくもって自覚していない。
だけど、理論としてはありえる話だ。
セレネとしての意識の方が浮上しているだけで、もしかしたら奥底に眠ったまま起きてこない「もう一人のセレネ」がいて、それこそが、根源を強く繋がった部分の自分なのかもしれない。
「ねぇ、セレネ。
貴方はやろうと思えば、大切な人たちの世界を簡単に良い方向へ作り替えることもできるのよ。心臓だって強く作り替えることが出来る。死を先延ばしにすることだってできるかもしれないわ。
私なら、根源に繋がった一面を引っ張り出す手伝いもできる。……セレネ、やってみる気はある?」
「いいえ」
セレネは即答する。
「だって、それは反則ですから」
そう言うと、悪戯っぽく笑った。
もうひとりの自分がいて、その自分が根源とやらの力を使いこなすことが出来たとしても、とてもつまらないことだ。
「今の私は、今の私ができる範囲で努力したいんです。
第一、そんな超常的な力が使えたら、人生、きっと楽しくないですよ」
遠い昔。
なにも分かっていなかった3年生のクリスマス。大切な人が教えてくれた言葉が蘇る。
「教えてもらったんです。『もっと、楽しめ』って。
クリスマスも、ダンスパーティーも、他にも色々なことを楽しんできました。きっと、これからも、もっともっと楽しいことがあると思うんです。
ぶっちゃけ神様みたいになったところで、今みたいに楽しめるかって言われたら、たぶん違います。もちろん、苦労したくないですし、死にたくないですけど、そこを書き換えたらルール違反ですよ。
だいたい、私自身が神様的な力を使える自覚ないですし、いまさらになってそんな力を使いこなせるようになったら……今までの努力も楽しみも辛さも全部、無駄になってしまいます」
かけがえのなかった日々が、いきなり別の概念で塗り替えられたら、それはきっと悲しいことだ。
楽しさも辛さも喜びも悲しみも、1つ1つがかけがえのない日常の積み重ねだったのに、それをハンマーで潰して新たなものに作り替えるのは、残酷で寂しいことなのだ。
「だから、今のままで十分幸せです」
これ以上、何も望まない。
辛かったり悲しかったら、それを自分で努力して乗り越えていきたい。その先に大きな苦しみが待ち受けているかもしれないけど、パンドラの箱の最後に希望が残っていたように、きっと楽しいことだってあるはずなのだ。
少なくとも、今のセレネはそう信じている。
「……はぁ、そうか」
彼女は大きく息を零すと、研究者としての側面は消え、先ほどまでの暖かな雰囲気に戻った。
「セレネ」
セレネは名前を呼ばれた。
「私ね、その眼鏡を貴方に渡した時……この世界に干渉していいのか悩んでいたの」
セレネはまっすぐ女性の眼を見た。
話すにつれて、記憶が解れるように過去のやり取りが浮かび上がって来ていた。
ずっと昔、見たときは目線は遥か高かったような気がする。その視線が、少し近くなっていた。
「貴方が魔眼で悩んでいたから、つい、魔眼殺しを渡しちゃった。だけど、あの後、よく考えてみたの。もしかしたら、アルバス・ダンブルドアに預けて、彼から渡して貰えたら良かったんじゃないかって。
そもそも、魔眼殺しなんて渡さずに、見て見ぬふりをした方が良かったんじゃないかって」
「……」
「それに、もう少し言葉をかけてあげたら良かったかもって思ったのよ。
『神様は余分な力を与えないから、それはきっと意味のあるものよ』とか『まっすぐ生きなさい』とか。
でもね、別の男の子にそれを言った後、私は後悔したわ。生き方を縛ったんじゃないかって」
彼女の青い眼差しには懐かしそうな色が混じった。
「私は、眼鏡を貰えて嬉しかったです」
セレネは本当の気持ちを伝えた。
「何かしらの形で受取りが歪んで先延ばしになっていたら、もしかしたら……今の私はここにいなかったかもしれない。『もっと早く渡してくれればいいのに』とダンブルドアを恨んでいたり、別の誰かを憎んでいたりしたかもしれません。
貴方から特別な言葉を貰っていたとしても、それをどう感じ、どう受け取っていたかは、その時の自分だけにしか分かりません」
それは、ありえたかもしれない平行世界の話。
ここにいるセレネ・ゴーントには関係ない。
よって、今のセレネから彼女に伝えるべき言葉は一つだけだ。
「私、あの時、眼鏡を渡してくれて嬉しかったです。
ありがとうございました」
セレネは心からの感謝を伝えた。
すると、女性は少し驚いたように瞬きをした後、眩しそうに目を細めながら口元に微笑みを浮かべた。
「そっか。それなら良かった、かな」
女性はトランクに手を伸ばした。
「そういえば、その男の子も同じ眼を持っているんですか?」
「ええ、そうね。将来、素敵な男の子になりそうな子よ」
女性は立ち上がる。セレネもゆっくり立ち上がった。
そして、女性は「それじゃあね」と背を向けようとしたので、セレネは呼び止めた。
「あの、まだ名前を聞いていませんでした」
「え、そうだっけ?」
女性は「忘れていた」と小さく舌を出して笑ってみせる。
「蒼崎青子よ」
「私はセレネ・ゴーントです。イギリスの魔法使いです」
「ふふ、私も魔法使いよ。五番目の魔法使い」
アオコ・アオザキはそれだけ言うと、再び背を向ける。
風はない。
草は揺れず、背中だけが遠ざかっていく。
ただ、彼女は何かを思い出したように立ち止まる。赤い髪を流しながら、いつもの笑顔で振り返った。
「元気でね、セレネ。
縁があったら、また会いましょう」
澄みきった青空ようで、その名の通りの青い瞳。
今まで見てきた浄眼とも異なる気高く美しく、見惚れるほど純粋に透き通っていた。
それは、ありきたりの別れの言葉。
セレネは、たぶん次はないと薄々感じていた。その証拠に、青い瞳の奥に少しの寂しさを滲ませている。セレネも表情を緩めて、彼女へ最後の言葉をかける。
「先生も、お元気で」
先生、という言葉を選んだのは、本当に直観である。
「アオコさん」でも「アオザキさん」でも、しっくりこない。
あの夏の日、自分が何者なのかも定かではなく、死が蔓延る世界で辛くて苦しんでいた自分を救ってくれたのは、間違いなく彼女だった。その人物は、きっと、先生と呼ぶにふさわしい。
アオコ・アオザキは何も答えなかった。
答える代わりに、何でもないことのように手を軽く振る。
そして、一陣の風が吹いた。
草原が音を立てて揺れ、月が雲に隠れたのか、月光が途切れる。
そのあと、風に浚われたかのように、彼女はいなくなっていた。
「姿くらまし」を使ったのかもしれないが、そうではないと感じている。
風のように現れ、風のように消えていった。
草原は再び無音に戻り、空には雲が泳ぎ始めていた。
月はそろそろ、灰色の雲に隠れようとしている。
「……さてと、そろそろ行かないと」
セレネは大きく伸びをした。
雲が途切れれば、月が顔を出すように、また彼女と会うことが出来るかもしれない。
魔眼殺しを受け取ったあの日、セレネ・ゴーントが始まったのだとしたら、ここがセレネ・ゴーントの物語の終着点だ。
もちろん、現実には自分の物語は続いていく。
やっぱり、かけがえのない日々が続いてくのだろう。それを思うと、楽しみで口元が歪んだ。その中でまた再び、あの先生と会えたらいいなと願う。
その時には、今日話せなかった今まで楽しかったことやこれから起きる楽しい出来事について、話したいと思った。
貴方が魔眼殺しをくれたおかげで、私はこんなに楽しい日々を送ることができています、と。
さて、次の物語へ進むとしよう。
終着駅から、次の汽車に乗るように。
冴え凍えるような夜風が、黒髪を揺らした。
セレネは魔眼殺しの付け心地を確認すると、草原を歩き始めた。
ここまで読んでくださった皆様、そして、感想や励まし、ご指摘を送ってくださった方々、本当にありがとうございます。
ここに至るまでの気持ちとか、諸々の思いとか、後書きとして記したいことはたくさんありますが、そのあたりは後程、活動報告の方で書かせていただきます。
ようやく、死の秘宝編まで執筆することができました。
本当に、ここまでありがとうございました!!
※間違えて早めに投稿してしまい、申し訳ありませんでした。
生命力が宿っている。
動物も植物も、大人も子供も、魔法族もマグルも。
みんなに命が巡っている。それはさながら地下鉄の路線図みたいで、血管のようで、迷路みたいで、落書きみたいだった。
みんなに見えてるのか、分からない。
でも、物心ついたときから、少し目に魔力を集中すれば、そんな光景が当たり前のように見えた。
もちろん、年老いたフクロウにも線が描かれている。
だから、それはちょっとした好奇心。
ガラス細工に触れるようにそっと、フクロウに張られた迷路に触れてみた。フクロウはむず痒そうに身体を揺らす。
そのとき、自分の指がぷすりと入った。羽の隙間ではなく、迷路の上に。首を傾げながら、なぞってみる。
なぞる度に、変な音がした。
最初はフクロウの嫌がる声かと思ったけど、よくよく耳をすませば違うことが分かった。ざくざくと切るような音。その音に気付いた瞬間、なんだか無性に怖くなって、フクロウから離れた。
おっかなびっくり、なぞった部分を見てみる。なにかを切るような音だったけど、フクロウの身体は斬られていない。でも、フクロウは鳥籠の中で苦しそうに倒れてしまった。
フクロウは辛そうに呻いた後、糸が切れたように動かなくなってしまう。
1分経っても、堅く瞼を閉ざしたままで、羽はぴくりとも動かない。
「お、お母さんっ!!」
フクロウを抱き上げ、走りだす。
階段で転びそうになりながら、急き立てられるように走った。
後悔からか、悲しくて混乱していたのか、正直、今でも分からない。込み上げる涙を精いっぱい我慢しながら、お母さんの胸元に駆け込んだ。
「……?」
お母さんはフクロウを大事そうに受け取ると、眼鏡越しに鋭く目を細めた。
杖をフクロウに当てながら、いつになく真剣な顔でフクロウを観察し、時折、複雑な呪文と呟いている。たまたま家に遊びに来ていたパーシバルおじさんの囁くような声に頷き、言葉を返している姿も見られた。
「大丈夫、なんとかなる」
父がぽんっと頭に手を乗せてくれる。
少しだけ心が落ち着いた気もしたけど、それは気がしただけ。
フクロウの命を奪おうとしてしまった。
わざとではない。
だけど、うすうすこうなると識っていた。
あの線を視た時から、なんとなく分かっていた。たとえ、アズカバンに入れられる法律がなくても、勝手に命奪うのはいけないことだ。人でも動物でも、もちろん、フクロウでも同じこと。
それでも、やってみたいと思う気持ちに負けてしまった。
数時間経った気がする。
でも、実際には数分だったのかもしれない。母の手に抱かれたフクロウは薄目を開け、ホゥ……と小さく鳴いた。
老いた黄色の瞳が自分を映したとき、心がいっぱいになって泣いてしまった。
物心ついてから、一度も泣いたことなんてなかった。
けれども、涙がボロボロ出てくるし、嗚咽が止まらないし、大声で意味のないことを叫んでしまう。
「……いっぱい泣きなさい。こういうとき、泣ける子でよかった」
母は目尻を緩めながら言ってくれたけど、その意味は全く分からない。
自分が殺そうとしたのに、なんで褒めてくれるのだろう。まったくもって、理解できない。嗚咽交じりにそう伝えると、母の代わりに父が口を開いた。
「ごめんねって思えることが大事なんだ。生き返って良かったと喜び、反省できるところが、お前の良さだ。ほら、もう絶対しないって思えるだろう?」
泣きじゃくりながら、うんうんと何度も頷いた。
もう絶対しない。ごめんね、ごめんねとフクロウを抱きしめる。
「飲みなさい。落ち着きますよ」
少し涙が落ち着いてきたとき、母がホットミルクを渡してきた。
温かいミルクは心の奥から湧きあがってきた冷たい感情を温め、洗い流してくれるみたいだった。
ほっと一息ついていると、母が尋ねてきた。
「どうしてこうなったのか、教えてくれますか?」
問いかけを受け、不思議な線のことを話す。つっかえつっかえ話しながら、母たちの眼が鋭く尖っていくところを見て、「あ、やっぱり、他の人には見えてなかったんだ」と改めて思った。
「……直死の魔眼のようだな」
パーシバルおじさんが言ったけど、母は首を横に振った。
「いえ、私の魔眼はこうはなりません。切れた痕がまったくない」
「生命力だけを切る魔眼か? ……普通はありえないと言い切れるが、デルフィーニの父親の所業を考慮すれば、こうした特異体質が生じるのも理解できる。……さしずめ、直死と似て非なる魔眼といったところか」
「偽・直死の魔眼ね……デルフィー」
母が目の位置まで屈みこむ。
眼鏡の黒眼が一瞬、怖いくらい青く輝いたような気がした。
「線を視た時、頭が痛くなります?」
「……ならない」
「床とか天井にも視えます? なんか、死が迫ってくるような、足元から崩れ落ちるようなことを感じますか?」
正直に首を横に振った。
母の眼が怖かった。観察しているような、内面まで覗き込むような眼を見ていると、背中を蛇が這っているような恐怖を覚える。
「それでは、もう一度だけ質問しますよ。
また、線をなぞりたいと思いますか?」
「絶対いや!!」
考えるよりも先に叫んでいた。
もう二度と、あの線をなぞらない。身体全身で叫ぶと、母の眼は元に戻った。頬を緩め、心の底から嬉しそうな顔をする。
「良かった。それなら、心配ないですね。
私の言えることではありませんが、命を軽率に考えてはいけません」
「……うん」
母が言っている内容は、いまいち分からない。
「これから、その魔眼と折り合いをつける方法を一緒に考えていきましょう。
私たちは、家族なんですから」
「かぞく?」
「ええ、血は繋がっていなくても、一緒に笑って、困った時は頼ることが出来る間柄……私は、それが家族だと考えています」
母の言葉はよく分からない。
だけど、花が綻ぶような笑顔は、とっても眩しくて。
その笑顔が曇るところを見たくなくて、こくんと頷いた。
あれは、もう何年も昔の話。
いまでも気を抜くと、あの線が視えるけど、絶対に触れない。
「……ずいぶん、懐かしい夢をみたな」
2016年9月。
昨夜の夢の名残に浸りながら、デルフィーニ・レストレンジはホグワーツの廊下を小走りで進んでいる。
彼女が走る度に、小さなショルダーバックはごとごとと不釣り合いな音を出した。教科書やら水晶玉が中で転がっているのだろう。
だけど、いちいち気に留める必要はない。
デルフィーニはそんなことを思いながら、足を踏み外しそうな梯子階段を登り始めた。
目的は単純明快。
その先の教室で授業が行われるからである。
「失礼します」
デルフィーニは部屋に入った。
むわっとした香の立ち込めた教室に、初見のときこそ閉口したが、ここに通って4年目だ。もうとっくに慣れている。
「ミス・レストレンジ。いらしたのですね」
霧の彼方から届くようなか細い声が、自分の名前を呼ぶ。
「占い学を選択している7年生が、貴方だけというのは……実に悲しいことですわ」
占い学の教授が姿を見せた。
シビル・トレローニー。
スパンコールで飾った服を纏い、大きな眼鏡をかけたその姿はまるでキラキラ輝く巨大トンボのようである。
この魔女の装いは胡散臭いし、占い自体も怪しい。一学年下のビクトワール・ウィーズリーなんて
『占いなんて、ナンセンス! 未来は自分の力で切り開くものでーす!!』
と、きっぱり占い学を否定している。
ただ、シビル・トレローニーの占いは地味に当たる。
もちろん、それは後で考えればあれって関係あるのかも……と思う程度の当たりで、信じていない人も多い。だが、それでも、未来が視えるというのは素敵だ。
視えないよりかは、視える方がいい。
そんな軽い思いで、この授業を履修している。
「今日は水晶玉を使った遠見をしますわ」
「はい、先生」
デルフィーニは水晶玉を取り出すと、テーブルの上に置いた。
そして、先生の顔を見上げた瞬間、事件が起きた。
「せ、先生!?」
デルフィーニは仰天した。
シビル・トレローニーが白目を剥いている。苦しそうに左手で胸を掻きながら、デルフィーニに迫ってきた。
「……時間が、逆転したときだ」
普段の神秘的な声と比べられないほど、男のように荒々しく太い声だった。
「逆転した時間が、星に真の輝きを与える。見えない子供たちが父親を殺すとき、闇の魔法使いが再び降臨する」
デルフィーニは呆然とした。
言葉を挟むこともできず、トレローニーの声を聞いていることしかできない。彼女は更に迫ってくる。水晶玉を押しのけ、デルフィーニの肩に激しく震える両手を置いた。
「魔眼の娘、スリザリンの継承者が――………」
予言者は語り続ける。
何かに憑りつかれたように、前後に揺れながら言葉を吐く。そして、最後の一句まで語り終えた時、がくっと再び体が大きく仰け反り、そして……トレローニー先生の焦点が合った。
「……あら、御免遊ばせ。私、つい、うとうとと……ミス・レストレンジ?」
かしゃんと水晶玉が割れる音が遠くで聞こえた。
「……闇が再び広がる?」
「レストレンジ? 何を言っているのです?」
「ですが、今、先生が……」
デルフィーニは言ってから、はたっと気づいた。
いまのは、噂に名高いシビル・トレローニーの本当の予言なのではないか。
ダンブルドアが聞き、ハリー・ポッターが聞いたとされる予言なのではないだろうか。
デルフィーニは先生にそのことを伝えたが、まったく理解を示して貰えなかった。トレローニーは「本当の予言」に対し懐疑的なのだ。
なにしろ、本人に自覚症状がない。
有名なところだと、ハリー・ポッターの予言だが、トレローニー先生本人は「記憶にない」と否定している。
今回も同じだった。
「きっと、あなたは幻聴を聞いたのでしょう。では、授業を始めますよ」
先生に流されるように、授業が始まる。
そのうち、デルフィーニは予言のことを忘れた。
7年生は最終試験に向けての勉強が死ぬほど辛い。予言の内容の意味を考え込む時間があるなら、ルーン文字の取得や変身術の理論を頭に叩き込む。
デルフィーニ・レストレンジが予言の意味について、考え始めるのは2年後。
そして、彼女は知ることになる。
これまで隠し通されてきた、自分の出生の秘密を。
「スリザリンの継承者―魔眼の担い手―」
ホグワーツ七不思議/呪いの子編。 近日更新予定。
もうちょっとだけ、続きます。