未来の本因坊   作:ノロchips

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第9話

 プロ試験を受けたい。私のその申し出に、取り分けお母さんはあまり好意的ではなかった。

 囲碁を趣味にしているお父さんはともかく、囲碁のいの字も知らないお母さんにとって、碁打ちという職業はあまりにも不透明過ぎたんだろう。

 何よりプロ試験は夏から秋に掛けて行われる。夏休み中はともかくとして、中学一年という大事な時期にそのために学校を休むという事をお母さんは良しとしてくれなかった。

 

 

「まあ俺も最近彩がどんどん強くなってるのは知ってるし、お前ならもしかして、と思わない事もないんだが……お母さんもお前の事を心配して言ってるんだよ。それだけはわかってやってくれ」

「うん……わかってる。でも……」

 

 でも、今の私には時間がないんだ。

 塔矢くんは間違いなく今年のプロ試験を合格してくる。彼より遅れてプロになるわけにはいかない。……それに、塔矢先生だって私を待ってるんだ!

 

 私は必死に食い下がるものの、お母さんもそう簡単に首を縦に振ってはくれない。

 とはいえ、私もこういった展開になるだろうな、という事はある程度予想していた。

 

 それは私が一度通ってきた道だったから。昔、私がプロ試験を受けたいと言った時も、お母さんはやはり簡単には頷いてくれなかったから。

 ……ならばこの状況を打破するためには、かつての私と同じ事をすれば良いという事だ。

 

「じゃあ……院生から始めさせてくれない?」

「……何なの、院生って?」

 

 聞き覚えの無い院生という単語に、お母さんは怪訝そうな表情をする。

 

「囲碁のプロを目指す子供が集まる……塾みたいな所だよ。私がそこで優秀な成績を修めたら、プロ試験を受けるのを認めてくれないかな?」

「塾……ね」

 

 過去に私は院生を通ってプロになった。そこで1組の1位まで登り詰めた結果、お母さんはプロ試験を受けることを許してくれたのだ。

 それに、院生という言葉は知らなくとも、塾という身近な単語ならば、囲碁を知らないお母さんも理解を示しやすいはず。

 ……私の事を心配してくれているお母さんを騙している様で、少しばかり心苦しくもあるけれど……背に腹は代えられない。

 

 お母さんはしばらく考え込んでいたけれど、やがて小さなため息と共に私に向かって口を開いた。

 

「……わかったわ。私は囲碁の事は全然わからないけれど、彩が囲碁が大好きだって事は十分知っているつもりだし」

「お母さん……」

 

 その言葉に胸が熱くなる。囲碁は知らなくとも、私の囲碁への想いをお母さんはちゃんと理解してくれているんだ。

 

「その代わり、そこで彩がプロになれるだけの実力をきちんと私達に見せること!そうしたらプロ試験を受けるのを許してあげる」

「……ありがとう! 約束する。私、絶対に院生で一番になってみせるから!」

 

 何はともあれ、こうして私はプロになるための第一歩を踏み出すことが出来たのだった。

 

 

 幸いな事に1月には院生試験があった。今から院生になれば、夏までには十分に1組のトップまで辿り着けるはずだ。

 調べた所、その次の院生試験は4月のため、この機を逃せばプロ試験までに院生として成績を残す時間はかなり限られてしまう。

 私はすぐさま願書を取り寄せ受験の手続きを行ったのだった。

 

 

 ―――

 

 

「院生師範の篠田です。それではこれから院生試験を開始します」

 

 

 1月の末日、私は棋院の一室で院生師範の篠田先生と向かい合っていた。

 試験の内容は、先生との対局、終わった後は棋譜を見ながらの質疑応答、といった流れだ。

 

「始めに言っておくけれど、これは勝負ではなく君の力を見るための対局だから。緊張せずに自分の力をしっかり出して下さい」

「はい。よろしくお願いします」

 

 

 私が2子を置き、先生との対局が始まる。

 

 先程篠田先生が言った様に、これは勝負ではなく指導碁。あくまで院生としてやって行けるかどうかを見るためのものだ。

 だからこの場では全力で勝ちを掴みに行くような碁を打つ必要なんてない。あくまで先生の手に対して、模範的な打ち筋で応える事が大事なんだ。

 

 そして過去にプロとして何局もの指導碁を、指導する立場として打ってきた私にとって、それは造作も無い事だった。先生の手が何を問いかけているのかも、何を求めているのかも、私にははっきりと解るのだから。

 

 ――私はここに打ちました。次はキリを狙っていますよ?

 

 ――はい、なら私はここを先に利かせて、先手でキリを防ぎます。

 

 私の打つ手に、先生は時折満足げに頷きながら対局は進行していく。

 お互いの石が意思を持って対話する。囲碁の本質を体現したその一局は、盤面に美しい模様を広げていった。

 

 

 

「……ここまでにしようか。うん、よく打ったね」

 

 私が2子分のリードをきっちりと保ったまま終盤を迎え、小ヨセに入ろうかという局面で対局は打ち切りとなった。

 先生のその言葉から察するに、手応えアリ、といった感じだろうか。

 

「それじゃ棋譜を見せてもらおうか」

 

 そう言って篠田先生は私が提出した棋譜を取り出し、それらに目を通し始めた。

 院生試験には提出用に棋譜が3枚必要になる。そして今回の院生試験用に私が用意した棋譜は、お父さんと塔矢くんとのものだった。

 

 私がこの世界で打った相手は、お父さん、塔矢くん、佐為、ヒカル、塔矢先生の5人。

 

 まず佐為とヒカルの棋譜は使えない。対局相手に本因坊秀策なんて書けるはずもないし、流石にまだ初心者のヒカルとの対局は参考にならないだろう。

 塔矢先生との棋譜もダメだ。院生試験の棋譜にトッププロの名前を勝手に出すなんて流石に非常識だし、塔矢先生にも迷惑が掛かってしまう。

 消去法で残るはお父さんと塔矢くん。とはいえ、二人ともアマチュアとしては申し分無い実力者だし、彼らとの棋譜なら何の問題も無いだろう。

 そして二人と打った対局の中でも特に良かったと思える3枚を、私は提出用の棋譜として採用したのだった。

 

 篠田先生はしばらく食い入るように棋譜を見つめていた。自信はあるとはいえ、こういう無言の間というのはやっぱり少しだけ緊張してしまう。

 そして待つこと数分後、棋譜を読み終えたのだろうか、篠田先生は一呼吸ついて私に向き直って問いかけた。

 

「1つ聞きたいんだけど、この対局相手の塔矢アキラ君というのは……もしかして塔矢先生の?」

 

 ……まあ、その辺はもしかしたら聞かれるかなとは思っていた。天下の塔矢名人、その息子の名前だしね。

 

「はい。私が遊びに行っている碁会所が塔矢先生の経営している所なので、たまに打ってもらっているんです」

「……やはり、そうですか」

 

 私の答えに篠田先生はそう一言返すと、再び何かを考え込む様に押し黙ってしまう。

 

 な、何か不味かったのかな?今回の塔矢くんとの棋譜は私が一番良いと思ったものを選んだつもりだし、彼の評価を下げるようなものでも無い。正直院生のレベルは十分に越えているはずなんだけど……

 そうは思っても、無言で考え込む篠田先生を見ていると不安な気持ちは押さえられない。そんな想いが顔に出ていたのか、先生は私の視線に気づくと慌てたように顔を上げ、

 

「……あ、いや、問題がある訳じゃないんだ。――いいでしょう、来週の手合いから参加しなさい」

 

 院生試験の合格を私に告げてくれた。

 

その言葉に、安堵の気持ちからか自然と肩の力が抜けてくる。どうやら私の心配など杞憂の様だった。

 

「あ、ありがとうございます!これからよろしくお願いします!」

 

 良かったぁ……うん、流石にプロのタイトルホルダーが院生試験に落ちるとか笑えないからね。

 

「それではこれで院生試験は終了です。気をつけて帰りなさい」

「はい。ありがとうございました。それでは失礼します」

 

 私は再び篠田先生に頭を下げ、お母さんの待つ喫茶店に向かうべく、部屋から退室して行ったのだった。

 

 

 ―――

 

 

 今思えば指導碁の時から私は何か違和感を覚えていたのかもしれない。

 

 どれだけの才能の持ち主であろうと、子供の碁は粗い。ましてや院生試験、プロと打つ指導碁。そんな状況に手が縮み、平常に打てずに不合格になった子供達を私は何人も見てきた。

 

 しかし彼女は結局最後まで私の一手に完璧に答え続けて見せた。

 完璧に――そう、まるで私の考えている事などお見通しかの様に。

 ……正直、本当に子供なのかと思ってしまう程だった。

 

 そして極めつけは彼女の持参した棋譜。その中にあった塔矢先生の息子、塔矢アキラ君の名前。

 戦いにおける読みの力、そして勝負所を見極める大局感。既にプロ級の力を持ち、プロ入りは確実とされている彼の棋力は、噂に違わぬものだった。

 ……そして彼女は、そんな彼の完全に上を行ったうえで勝利していたのだ。

 

 単純に考えてもプロレベルの実力の持ち主。そして直に対局した私の考えが正しければ……彼女はまだ全力を出していない。

 自分の教え子になる以上、あまり言うべき事では無いが、正直彼女の力は院生の範疇に収まるものではない。

 あれだけの子が成長しプロとなったら、一体どれ程の棋士となると言うのだろうか。

 

「……全くすごい子が出てきたものだ」

 

 前途ある子供の溢れんばかりの力を見せつけられ、そんな彼女の未来を思うと、私は自然と顔が綻んでしまうのを押さえきれなかったのだった。

 

 

 


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