「君っ!」
一人立ち尽くしていた私の耳に突然声が響いた。声の方向に視線を向けると、見覚えのある男性が私に駆け寄ってくる姿が映る。
さっき死活を口出しした時に私達を連れ出した人だ。どうやらその声は自分に向けられた物のようだった。
「よかった、まだいた。……一緒にいたもう一人の子は?」
「彼はさっき帰っちゃいましたけど……」
「そ、そうなのかい?……仕方ない、君だけでもいいからちょっと一緒に来てくれ!」
「えっ……?」
何だろう、また怒られるのかな。さっき十分注意されたはずなのに、なんでわざわざ探してまで?
少しだけ疑問に思ったけれど、この場でそんな反論ができるわけもなく、私は彼に連れられて対局室を後にしたのだった。
―――
連れて来られたのは、先程お説教を受けた部屋だった。
面倒臭いな……今それどころじゃないのに。
これから再びお小言を聞かされる事を想像するだけでうんざりしてくる。……まあ、私達が悪いんだけどさ。
しかし開かれた扉の先にいたのは、私が想像もしていなかった意外な人物だった。
「緒方先生!連れて来ました!」
「ほう……彼女が」
「あ、いえ。死活を指摘した子はもう帰ってしまったらしいので、一緒にいたこの子に来てもらったんです」
緒方先生……? ああ、そっか。確か緒方先生も会場にいたはずだ。あの死活を即答したヒカルに注目していたんだっけ。今回は一緒にいた私が捕まっちゃった訳か。
「わざわざ来てもらってすまないね。……ああ、別にさっきの事をまた注意しようとかそういう事じゃないんだ。ただ、一緒に居た君の友達が口出ししてしまった死活、あれはプロでも一瞬手が止まってしまう程のものでね。聞いた話によると、君の友達はチラッと見ただけで即答したらしいじゃないか。――恐らくプロでも限られた人間にしか出来ない芸当。アマの、しかも子供がそんな事をしたと聞いて、名前も聞かずに帰してしまった事を後悔していたんだよ」
まあ確かにあれを即答できたら、もうアマのレベルじゃないよね。気になるっていうのもわからない話じゃない。
「良かったら君達の名前を教えてくれないか?」
「え……? 私もですか?」
「ああ。もし私達が今後彼とコンタクトを取る機会があった時、いきなり自分の名前を出されたら彼も不審に思うだろう? でもその時に君の名前も出せば、彼もある程度は信用してくれると思うんだ。……まあ、こればっかりは強要できる事じゃない。あくまで君さえ良ければの話さ」
確かに普通は見ず知らずの人に、自分の名前ならまだしも、友達の名前なんて軽々しく言えるものじゃない。
でも私はこの人を知っている。したたかで野心家で、お世辞にも真っ直ぐな性格とは言えないけれど、囲碁に関してはどこまでも真摯な人だと知っている。彼なら私達の名前を悪く扱う様な事もきっとないだろう。
「私なら構いませんよ」
「ありがとう。感謝するよ。君、何か書くものを」
近くにいた職員がボールペンとメモ用紙を手渡す。緒方先生の準備が出来たのを確認し、私は口を開いた。
「一緒にいた友達の名前は進藤ヒカル。私の名前は、星川彩です」
淀みなく動いていた緒方先生の手が、私の名前を聞いた瞬間にその動きを止めた。
「星川……彩?」
「は、はい。そうですけど……?」
「そうか、君が……フッ、これは思わぬ所で見つかったもんだ。――ちょっとここで待っていてくれ。君に会わせたい人がいるんだ」
私にそう言い残すと、緒方先生は席を立ち、部屋の外へ出ていった。
緒方先生は私の事を知っているような口振りだった。一度も会ったことのない私の事を知っている理由なんて、考えるまでもなく塔矢くん繋がりだろう。
塔矢くんに勝った私に、ヒカルの代わりに此処にいる私に、この時この場所で会わせたい人物。
まさか今から来るのって……
そして待つこと数分、再び現れた緒方先生と共にいたのは、
「……君が、星川彩さんか」
塔矢行洋……! やっぱり……
「は、はい。初めまして、塔矢先生」
「ああ、初めまして。君の事はアキラから良く聞いているよ……アキラに、勝ったそうだね?」
「ええ、まあ……」
やっぱりこの話題か。……あれ?この展開って、もしかして……
「……アキラには2歳の頃から碁を教えている。実力は既にプロレベルだ。だからこそ、アキラに勝った子供がいるなど、私には信じられなかった」
「君の実力が知りたい。座りたまえ」
さっきまでずっと悩んでいたあの二人の事。今から少しの間だけ、忘れようと思った。
―――
「石を3つ置きなさい」
置き石3つ。原作でのヒカルと同じ条件。
相手は、名人位を始めとして現在三冠。近い将来五冠にもなる日本最強棋士、塔矢行洋。悔しいけれど自分より格上なのは認めざるを得ない。
でも、私だって本因坊を獲ってトップ棋士の仲間入りを果たしたんだ。流石に3子は手合い違いもいいところだろう。
3子局ならきっちりと固く打てば、勝つことはさほど難しくないのかもしれない。けれどそんな形での勝利なんて、何の意味もない。
今この機を逃せば、塔矢先生と打てる機会は当分訪れない。考えたくないけれど、将来プロとして戦う前に引退してしまう事だって無いとは言えない。だからこそ私は、折角のこの一局を無駄にしたくなかった。
「塔矢先生、お願いがあります。私の定先で打って頂けないでしょうか」
その言葉に塔矢先生はぴくりと眉を動かした。緒方先生は驚いたように目を見開いている。
「不服かね? ……確かに3子は私とアキラが打つ時の手合いだ。アキラと打って勝っている君には3子は手合い違いになるかもしれない。だが、本来私は君が本当にアキラを倒す程の打ち手なのか確認したかっただけだ。それを確かめるにはアキラと同じ手合いで打つのがいいと思うのだが?」
確認……? じゃあ、塔矢先生は本気で打つつもりがないってこと?
……そんなのってないよ。だったら3子だろうと互先だろうと最初から無意味じゃないか。私はそんな対局を望んでいたわけじゃないのに……!
本心では自分でも気づいていた。私だってプロだったんだ。プロが子供相手に本気で打つ事の方が、よっぽど大人気ない事だってのも十分わかっている。
でもこの時私の頭の中にあったのは、全力の塔矢先生と打ちたい、それだけだった。……無礼は承知の上だ。
「……3子で打ったら、私には絶対に勝てませんよ」
塔矢先生の顔が、更に鋭くなったような気がした。
「き、君っ! 失礼だろう!」
側にいた職員の人が声を荒げる。当然の反応だ。子供がプロに、しかも名人に吐いていい言葉じゃない。
なおも私に詰め寄ろうとする彼を、塔矢先生は右手で制した。
「……いいだろう。そこまで望むのならば、君の先番で打ちなさい」
「ありがとうございます。……本気で、打って下さいね」
「無論だ。だがこの手合いを望んだ以上、君にもそれに見合った碁を打つ責任がある。わかっているだろうね?」
「……もちろんです」
そうだ。ここまで言ってしまった以上、絶対に情けない碁を打つわけにはいかない。
確かに塔矢先生は私より格上。でも私だって碁を打つ以上、誰が相手だろうと負けるつもりなんてない。
持てる力の全てを、塔矢先生にぶつけてやる……!
―――
塔矢先生との対局にあたり、私は一つの作戦を立てていた。それは自分だけの武器を使うことだ。
私にあって塔矢先生に無いもの、それは言うまでもなく未来の知識。12年という歳月は、囲碁の歴史から見れば短い様に思えるかもしれないけれど、その間も確実に囲碁は進化している。
私が今敷いているこの布石。開発当時はバランスの取れた優秀な布石として一世を風靡したが、その後欠点が指摘され、廃れていった古い型の物だ。当然この世界でもこの布石を使っているプロなどほとんどいないだろう。
しかしこれから数年後、欠点への対策が見つかり、この布石は再び大流行する事になる。私の時代でも、プロアマ問わず多くの人が愛用している。
当然それを知らない塔矢先生は弱点を突いて攻めてくる。だけどここをハズして打てば……
中盤に差し掛かる頃、盤面は黒が優勢となっていた。攻めをかわした黒に対し、そこに手を掛けた白がやや出遅れた形だ。
流れは私だ。このまま押しきってやる……! そう思った瞬間、白が放った一手に私の手が止まった。
これは……ボウシ? 当然打ち込んでくるものだと思っていたのに。
黒がこれを受ければ左辺が一気に安定する。白からの打ち込みの味も消えてしまう。黒としては望み通りの展開だ。白が負けている事を考えても、決して良い手には見えない。
仮に白のこの手が緩手だとしたら、ますます黒が優勢になるばかりだ。塔矢先生程の人がそんな手を打つだろうか? でも、この局面では黒は受けるのがベストの選択に思えるけど……
注文通りに受けて、左辺を黒地にする。しかし数十手後、私は自分のその一手こそが緩手だったと思い知らされる事となった。
「これは……!」
ボウシからの白に睨まれて各所の黒が動けない。それどころか中央に進出しようとした私の石が完全に働きを失っている。こんな展開になるなんて……
気付けば終盤には形勢はかなり押し返されていた。とはいえ、盤面ではまだ黒が良い。ヨセでミスをしなければ十分に勝てる。
でもそれは、定先手合いでの話だ。コミがあったら恐らく出し切れない。……1目半程、足りない。
ヨセは複雑だけれど一本道。塔矢先生が間違えなければ、ヨセではもう追い付けない。これ以上打った後だと本当に手遅れになってしまう。……勝算は薄いけれど、白地に入っていくしかない!
しばらく長考した後、私は意を決して白地に飛び込んで行った。
―――
「……負けました」
塔矢先生に頭を下げ、私は投了を宣言した。
白地に打ち込んだ私の石は結局全て飲み込まれ、それどころかそこから波及した攻め合いによって、私の黒地まで荒らされる結果となってしまった。……もうコミ云々の話ではなく、碁が壊れてしまったのだ。
あれだけ大口を叩いておいて、結局はこの様。序盤のリードだって塔矢先生が布石の改善を知らなかったから作れただけ。……私の完敗だった。
私は立ち上がり、再び塔矢先生に頭を下げた。
「ありがとうございました。塔矢先生と打てて本当に嬉しかったです。……失礼な発言の数々、本当にすみませんでした」
「……もういいから、顔を上げなさい」
「でも、私はっ……!」
「ここまでの碁を打たれたんだ。私が言うことは何もない。それに、打ち込んできたこの手も一歩間違えれば私がやられていた。……だが、わざわざこんな所に打ち込まなくても、盤面では十分黒が良かった。君はそれがわからない打ち手では無いはずだ」
「……恐らく君は、互先で私に勝ちに来ていたんだろう?」
バレてる……名人に互先で勝とうとするなんて、やっぱり失礼だったかな。
「なるほど……アキラが君を気にするのもわかる気がするよ」
「えっ……?」
急に出された塔矢くんの名前に思わず顔を上げる。
「先程も言ったが、アキラは既にプロになるだけの力がある。プロとして戦っていく覚悟も十分に持っている。だがその反面、このままプロになって行くのをどこか躊躇っていたようでね。――そんなアキラの様子が最近変わってきたんだ。何か迷いが吹っ切れたような、それは私と打つ碁にも表れていた。何かあったのか聞いてみたところ、出てきたのが君の名前だった」
塔矢先生の表情は、対局中の厳しいそれとは打って変わって、とても穏やかなものになっていた。
「アマチュアの、しかも同い年の子に負けたというのに、とても嬉しそうな顔で話していたよ。……彼女を追いかけていけばもっと強くなれる、彼女となら自分はもっと高みに行ける、とね」
塔矢くんが、そこまで私の事を……じゃあ碁会所でのあの仕草も、やっぱりそういう事だったんだ。
「アキラはきっと君の様な、自分と対等以上に戦えるライバルがずっと欲しかったんだろう。他の子の才能の芽を摘んでしまわないようにと、アキラにはなるべく同年代の子とは打たせないようにしていた。けれど、そんな私自身が危うくアキラの才能を潰してしまうところだった」
そう言うと塔矢先生は椅子から立ち上がり、私に向かって深々と頭を下げた。
「君には本当に感謝している。どうかこれからもアキラの良き好敵手でいてやってほしい」
それは名人・塔矢行洋ではなく、子を想う一人の父親の姿だった。
「……はい。私にとっても塔矢くんは大切なライバルですから」
「……ありがとう」
そして塔矢先生は顔を上げ、私の目を見つめて言った。
「君の力は想像以上だった。近い将来間違いなく君は私の前に立つだろう。私の持つタイトルを脅かす存在となって」
「……プロの世界で君と再び戦える事を楽しみにしている」
―――
本来ヒカルと塔矢くんこそが、お互いを追いかけ、ライバルと認め合って強くなっていく筈だった。
でも二人は結局出会うことはなかった。……私のせいで。
彼らの想いが私の中に甦ってくる。
――ボクは、君を待っているから……
――お前はオレのライバルだって、いつか絶対に認めさせてやるからな!
だったら、私は……!
その日の夕食の席で、私は両親に向かって告白した。
「お父さん、お母さん。話があるんだけど」
「どうした彩?急に改まって」
「私、プロ試験を受けたい……!」
だったら、私が二人を導いて見せる。彼らの才能に見合うだけの存在になって。
私を追いかけて、原作よりもっともっと、強くなってもらおうじゃないか。
その時こそ、私の願いが叶うんだから……!
―――
「彼女、どうです?」
「……聞くまでもないだろう?」
「まあ、そうですね。私もアキラが同い年の女の子に負けたと市河さんに聞いたときは、にわかには信じられませんでしたが……まさかこれ程の実力の持ち主だったとは」
「フッ……我々もうかうかしていられないという事だな」
「ええ……アキラだけでなく、彼女、そしてあの死活を即答した進藤ヒカルという少年……」
「来るのかもしれんな……新しい波が」
定先(じょうせん):ちょっとだけ黒が有利なハンデ戦。黒は白にコミを支払わなくても良い。
大まかなハンデ設定は、互先<定先<2子局<3子局……みたいな感じです。