この世界にはプロ棋士と呼ばれる囲碁を打って生活をする職業があるらしく、ヒカルが連れてきてくれたこの囲碁教室は、プロの先生が一般の人に囲碁を教える場なんだそうだ。
教室は多くの人で賑わっていたが、そのほとんどはお年寄り。ヒカルは自分以外に子供がいない事にため息をついている。
そんな時一人の少女がヒカルの隣に座った。この子は見覚えがある。確かヒカルの学校のクラスメイトだったはず。
うんうん、良かった。このような小さな子も囲碁を嗜んでいるんじゃないか。囲碁に対する情熱は過去も未来も同じなんですねぇ。
程なくして教室が始まる。教えている内容は本当に基礎の基礎。それでも私は再び囲碁に触れ合えたことに喜びを隠せなかった。
……それなのに肝心のヒカルときたら。つまらなそうな顔で講義を聞き流しているようだった。
――ヒカル! 先生の話はちゃんと聞かないとダメですよ! ……ほら、あの子を見習って!
ヒカルが囲碁に興味を持ってくれるのにはまだ時間がかかりそうだった。
先生の講義が終わり、周りの人達が机の上に碁盤を広げ出す。
もしかして今から囲碁が打てるんでしょうか……!
そんな私の期待通り、周囲から聞こえ始める碁石の音。そして隣に座る少女がヒカルに話しかける。
「ヒカル、私と打とうよ」
――打ちましょう打ちましょう! ……え? ヒカル、帰りたいって……
――やだ、やだー! 私打ちたい! ヒカル、お願いしますぅぅ!!
必死に頼み込む私に折れてくれたのか、ヒカルは一局だけ打つことを約束してくれた。
ふふふ、やっと囲碁が打てる。ヒカルのじーちゃんとは結局打てませんでしたからね。
おや、何やらヒカルが彼女と話をしているようだ。……賭けですって?
ヒカルは悪い顔でそれを承諾し、私に言ってくる。
佐為、頼んだ! 絶対負けんなよ! と。
もう、ヒカルってば本当に現金なんだから。
……まあ、いいでしょう。囲碁で賭けをするなんていささか気に入りませんが、それも向こうが言い出した事。ちょっと痛い目に合うのも勉強です。
彼女が白を持ちたいと言うので、私が黒番。
――いきますよ、ヒカル。右上スミ小目!
ヒカルが私の扇子が指し示す場所に石を置く。
しかし彼女は次の手を打たずに、じっとこちらを見つめていた。
ヒカルを……違う。
私を……見ている……?
彼女はやがて意を決したように石を掴み、力強く盤面に放った。
――これは……!
その一手自体は単なる星打ち。至って普通の手。
しかし彼女が放ったその一手から伝わってくる。歴戦の強者と同じ、あるいはそれ以上の気迫が。
私は認識を改めた。
痛い目に合わせるとは言ったものの、こんな小さな女の子相手に本気を出すつもりなど全く無かった。
彼女の力量に合わせて指導碁を打ち、結果的に数目負けてもらおうと思っていた、けれど。
――どうやら見誤っていたようですね……
彼女は指導碁などを打って勝てる相手ではない。私に言っている、全力で来いと。
私は歓喜に打ち震えた。
現世での最初の対局で、これ程の者と戦えるなんて……!
―――
黒と白、双方45目。結果は持碁。
彼女は悔しそうな顔で盤面を見つめている。勝てる碁を勝ち損なったと思っているんだろう。
隅、辺、中央、全てを睨んだ鮮やかな布石。
効率よく地を拡げ、私の打ち込みにも動じず、最小限の被害で反撃してきた。
偶然見つけることが出来た手筋で追い付くことは出来たが、負けに等しい引き分け。
私が黒を持って勝てなかった。
これが、現代の碁……!
神よ、感謝します……私は、まだまだ強くなれる!
――ヒカル! お願いします! どうかもう一局だけ……あ、あれ……?
彼女に引きずられるように退室して行くヒカル。私はそれについていく他なかった。
――ヒカル、ごめんなさいね。勝つことができなくて。
「ん? あ、あぁ。いーよ別に」
――怒って……いるのですか?
「そんなんじゃねーって……何て言うかさ、さっきの対局」
――はい。
「正直オレ、囲碁なんか全然わかんねーし、お前らが何をやってるのかなんて一つも理解できなかったけど」
「あいつ……すごくかっこ良かった。オレもあんな風に打ちたいって、ちょっとだけ思った」
――ヒカル……
「本因坊秀策ってお前の事だよな? あいつそれくらい強いって言ってたけど、お前ってやっぱり有名人なんだ」
――……どうでしょうね。彼女のような子に自分を知ってもらえているのは嬉しいですけれど。
――それに……悔しいですが、彼女は恐らく私よりも、強い。
――ですが、次こそはきっと勝って見せます……!
――だからヒカル、お願いします! どうかまた彼女と対局をさせて下さい!
「えー、やだよ。お前にはわかんないだろうけど、ただ言われたままに石を並べるのって、すごく疲れるんだぞ」
――そ、そんなあ……ヒカルぅぅ!
「だからさ」
「オレちょっとだけ覚えてみるよ、囲碁」
――……え?
「佐為、オレに囲碁を教えてくれる?」
――ヒカル……はい、もちろんです! 一緒に頑張りましょう!
……あの子には感謝をしないといけませんね。
「それにしてもさ」
――ハイ?
「あれだけ強いくせに初心者のオレに賭けを持ちかけるなんて……アイツって結構腹黒いんだな」
――は、はは……そうなのかもしれませんね……
―――
なんか今失礼な事を言われたような……
ま、いいや。そんな事より今日はいい日だったな。念願の佐為との対局も実現したしね。
勝てなかったのは悔しかったけれど、いい碁が打てたんじゃないかと思う。
それに何だかんだ言っても、私にとっても本因坊秀策は尊敬する人物だ。彼の棋譜だっていくつも読み漁ったし、打ち筋も研究した。
そんな彼の囲碁を直に体感することができたんだ。正直、かなり感動したよ。
……これから佐為は現代の囲碁を学んでどんどん強くなってくる。私も負けないように頑張らないと!
塔矢くんと打てたし、佐為とも打てた。私はその事に対する満足感でいっぱいだった。
でも、この時私はまだ気づいていなかった。この二局が、ヒカルの碁の世界を大きく歪めてしまったという事に。