漫画の中からそのまま出てきたような進藤ヒカルと藤崎あかり。そして二人は幼馴染みで家も隣同士。これだけの事実を突きつけられても、私はどうしても信じる事が出来なかった。
自分が漫画の中にいるだなんて。非現実的にも程がある。……まあ、子供に戻っている時点で大概なんだけど。
よく考えれば私はこの世界について何も知らない。単に過去に戻っているだけなのか、それとも根本的に違っている世界なのか。
という訳で、私は帰宅後すぐにパソコンを点けて、インターネットでこの世界について調べる事にした。
結論から言うと、この世界はかつて私が過ごした過去とほとんど同じといってよかった。
当時のニュース、流行りの曲、芸能人、テレビ番組。それら全てに覚えがあり、私は心底安堵した。
ただ、疑いを晴らす為には絶対に確認しておかなければならない事がある。
私は日本棋院のホームページで棋士一覧を確認し……絶句した。
この当時無類の強さを誇っていた現名誉棋聖の名前も、十段のタイトルを保持していたはずの私の師匠の名前も、私が倒した前本因坊の名前もそこには無かった。
代わりにディスプレイに表示される見覚えのある名前。
桑原本因坊、一柳棋聖、座間王座。そして……塔矢行洋名人。
もはや疑い様も無かった。
パソコンをシャットダウンし、そのまま私はベッドに倒れ込んだ。
余りにも衝撃的な現実に私の精神はすでに疲労困憊だった。タイトル戦より疲れたかもしれない。
……まさかここが本当にヒカルの碁の世界だなんて。
あれ……? よく考えたらこれって凄いことなんじゃないの? だって私が大好きだった漫画の登場人物と囲碁が打てるんでしょ?
進藤ヒカルと打てる。塔矢アキラと打てる。当代最強の棋士、塔矢行洋と打てる。
本因坊秀策と……打てる。
私が現代の棋士の代表としてこの世界の人達と戦う。その未来を想像しただけで、興奮が収まらない……!
すごい……! なんかすごく楽しくなってきた!
こうしてはいられない、情報を集めないと!
佐為はもうヒカルに憑いているのかな? 今は11月。確か原作は秋頃に開始してたと思うから、ちょうど今くらいだろう。
塔矢アキラとは碁会所に行けば打てるのかな? 確か塔矢名人の経営する碁会所のはずだから、ネットで調べてみよう。
プロ棋士と打つには自分もプロにならないといけない。塔矢名人は確かあと二年くらいで引退してしまうはず。時間は限られている。最悪ネット碁を使ってでも打たないと。
さっきまでの疲れなどどこ吹く風、私は勢いよくベッドから飛び上がった。
500円玉を握り締めて、私は浮かれ気分で歩いていた。もちろん目指すは塔矢アキラのいる碁会所だ。
彼はプロになった後ではきっと碁会所に足を運ぶ回数が減るだろう。逆に今だったら高確率で碁会所にいるはず。打つんだったら今しかないと思う。
それに今の彼の様子から現在の時間軸を推測することもできるだろうし、そういう意味でも真っ先に会っておきたい人物だった。
そうと決まれば善は急げ。早速ネットで碁会所の場所を調べると、なんと私の家から徒歩10分程の距離だった。私はお母さんに頼んでお小遣いを貰い、すぐに向かうことにしたのだった。
程なくして私は碁会所に辿り着いた。いるかな、塔矢アキラ。いなかったら恥ずかしいけれどそのまま帰ろう。小学生に500円は大金だし。
不安と期待を胸に私は碁会所の扉を開けた。
「あら、可愛いお客さんね。ここは初めてよね?」
中に入ると、すぐ横のカウンターに立っているお姉さんが優しく話しかけてくれた。確か市河さん、だったかな。
「はい。あの……私、塔矢アキラくんと打ちたいんですけれど……」
「あら、そうなの? ふふ、アキラくんのファンなのかしら?」
「えっと……はい、そうなんです」
うん、塔矢アキラは漫画の中でも好きなキャラだし、ファンと言っても過言ではないよね。
「アキラくんなら奥にいるから。私も一緒に頼んであげる」
やった! どうやら居るみたいだった。
「お手数をお掛けしてすみません。ありがとうございます。あ、席料はおいくらでしょうか?」
「子供は500円よ。まだ小さいのに礼儀正しい子ねぇ」
まあ実際は24歳の大人なんですけど。
端正な顔立ちにおかっぱ頭。間違いなく塔矢アキラだった。
真剣な面持ちで碁盤に向かって棋譜を並べている。内容は……現代風の至って普通の碁だ。少なくとも佐為と打った碁ではなさそうだった。
佐為に負けた後の彼はずっとその棋譜を並べていたはずなので、どうやらまだ対局は行われていないらしい。
「アキラくん、今大丈夫かな? この子今日が初めてのお客さんなんだけど、アキラくんと打ちたいらしいの。良かったら一局打ってあげてくれない?」
市河さんの申し出に少しだけ戸惑った様な顔を見せたけれど、すぐに彼は笑顔に変わり、
「いいですよ。打ちましょうか」
そう言って向かいのイスを引いてくれた。
なんて紳士っぷり。本当にこの子は小学生なんだろうか。
「勉強中に無理を言ってごめんなさい。私、星川彩って言います。小学6年生です」
「塔矢アキラです。ボクも6年生だよ」
「あ、同い年なんだ。じゃあ塔矢くんって呼んでもいいかな?」
「うん。よろしく星川さん。じゃあ始めようか。星川さんの棋力はどれくらい?」
棋力、か。本因坊を獲った私は九段への昇段が内定しているんだけど、さすがに正直に言うわけにもいかないし。
「えっと……プロに3子でいいって言われたお父さんに互先で勝ったよ」
もちろんお父さんはそんな事を言われたことはない。でも低段のプロ相手ならお父さんは3子で何とかやれると思うし。プロである私のお墨付きだ。うん、嘘はついていないはず。
「そうなんだ。ボクも父と3子で打ってもらってるよ」
どちらもプロ相手に3子の手合いだけど、残念ながらその意味合いは全く違う。
お父さんが3子で戦えるのは低段棋士相手の話であって、少なくとも名人クラスを相手に3子では太刀打ちできない。
お父さんと塔矢くんでは低段棋士と名人ほどの差があるということだ。
「せっかくだから互先で打ってくれない? 塔矢くんと打てるなんて滅多にないことなんだし。……ダメかな?」
私=お父さんと仮定するならば、塔矢くん相手には置き石2、3個って所だろう。実力差は大きいけれど、遊びの手合いならばそれほど無茶な注文でもないはずだ。
幸いな事に塔矢くんは私の提案を受け入れてくれた。ニギリの結果、私が白。
『お願いします』
対局が始まった。
まだ20手程しか進んでいない序盤だけれど、これだけでも彼の相当な棋力が伝わってくる。
盤面全体をしっかり把握して、大きい所に的確に石を放ってくる。状況判断も正確だ。
なるほど、確かにプロ入り確実と言われるだけはあるね。下手なプロなら喰われてしまうかもしれない。
だけど私にはわかってしまった。
本来ならもう一歩深く、厳しく追求するべき場面で、彼はその一歩を踏み込んでこない。読みが甘いんじゃない。明らかに緩めて打っているんだ。
確かに3子分の実力差がある対局者がまともに戦えば一方的な展開になりかねない。きちんと碁になるようにと、私の事を思っての事なんだろうけど。
このくらいの歳の子は何よりも勝つことが好きだ。特に同世代相手に対しては、いい碁を打って負けるよりも、勝利という結果を求める。私もそうだった。
でも彼は違うんだろう。少なくとも同世代に自分のライバルなんていないと思っている。自分が先頭に立って導く立場だと自覚している。
ライバルとしのぎを削って。勝って喜んで、負けて涙を流して。そうやってお互いが高みに昇る。そんな相手は自分にはいないと決めつけてしまっているんだ。
私は悲しくなった。まだ小学生の子供が、囲碁を楽しむ事もできずにこんな碁を打っていることが。
彼に知って欲しかった。あなたにはヒカルがいる。私だっている。囲碁は一人じゃ打てないんだ。それに気付けばもっともっと強くなれる。
だから、そんなつまらなそうな顔で囲碁を打たないで……!
私の白石が黒模様の中央に放たれた。
―――
「ありません……」
アゲハマを盤上に置き、塔矢くんが投了を宣言した。
俯いたまま顔を上げない。終局の挨拶をし、石を片付けても、彼は心ここにあらずといった感じだった。
「ありがとう塔矢くん。ワガママ言っちゃってごめんね。でも……次は最初から全力で打ってくれると嬉しいな」
そう一声かけて私は席を立つ。返事はなかった。
佐為の時と一緒だ。多分今は何を言っても届かないんだろう。
「あら、もう帰るの?」
「はい。今日は楽しかったです」
「そう? よかったわ。また遊びに来てね。あ、そうだ今度子ども囲碁大会があるのよ。良かったら見に行ってみたら?」
帰り際に市河さんが私にチラシを渡してくれた。ああ、ヒカルが死活を指摘して怒られた大会か。うん、行ってみようかな。
「時間があれば遊びに行ってみようと思います。ありがとうございました」
市河さんにお礼を言い、私は碁会所を後にした。
気持ちが高ぶってつい勝ちに行ってしまった。本当は勝ち負けの碁なんて打つつもりじゃなかったのに。我ながら大人気ない事をしちゃったなぁ。
でも、塔矢くんほどの才能のある子にあんな顔で碁を打って欲しくなかった。本当は誰よりも囲碁が好きなはずなんだから、もっと囲碁を楽しんで欲しかったんだ。
……ま、この後ヒカルとの対局もあるんだし、私が余計な心配をする必要もなかったのかもしれないけどね。
「星川さん!」
不意に自分の名前を呼ばれ、振り返るとそこには息を切らした塔矢くんの姿があった。
「塔矢くん? ど、どうしたの……?」
「……ごめん。さっきは何も言わなくて。それに……」
乱れた息を落ち着かせ、彼はゆっくりと続けた。
「手を抜くなんて事をして……本当にごめん。キミは、ボクなんかよりずっと強かったのに……」
声が震えている。ここまで全力で走ってきたから、という訳じゃないんだろうな。
「……ねえ塔矢くん。さっきの碁、どうだった?」
「え……?」
「私、すごく楽しかったよ。最初は手を抜かれてたみたいで残念だったけど、途中からは塔矢くんの全力の手にどう答えようかって必死で考えた。……塔矢くんとあの一局を打ち切れた自分が本当に誇らしかったよ」
私のありのままの気持ち。その言葉に彼は顔を上げ、私の目をしっかりと見つめた。
「ボクも……楽しかった。ボクの全力の一手に、それ以上の手でキミは答えてくれた」
「ボクはまだまだ弱い。けど、もっと強くなって、今度はキミの一手に答えてみせる! だから……」
私は笑顔で頷いて彼に答えた。
「うん、また打とうね!」
塔矢くんと別れた後の私の足取りは、家を出た時よりも更に軽やかになっていた。
ニギリ:互先において黒番と白番を決めるための手段。一方が適当な数の白石を握り、もう一方が1個あるいは2個の黒石を提示する。意味合いとして、1個は奇数、2個は偶数。白の握った石数に対してそれが合致すれば指定した側が黒番。外れたら握った側が黒番。