いよいよプロ試験前日。……と言っても、私の出番はもうちょっと先なんだけど。
明日から始まるのは予選、そして直近3ヶ月の平均順位が8位までの院生は予選免除。4月の終わりに1位まで到達して以来、一度たりともその座を譲らなかった私はもちろん、伊角さんや本田さん、真柴さんなどの上位陣も本戦からの出場だ。つまり差し当たって戦いが始まるのはその他の院生と外来受験生。惜しくも9位だった和谷、今回がプロ試験初挑戦のフク……そして奈瀬さんもまた、彼らと共に予選に挑むことになるのだ。
奈瀬さんの最終順位は1組7位。決して楽観出来る成績ではないけれど、一時は1組最下位まで落ち込んでいたことを思えば立派なもの。そして本戦まで更に1ヶ月、まだまだ十分伸びる余地はある。今の順位なんて参考程度にしかならないんだから。
何にせよ、今日も今日とてネット碁に勤しむ私たち。もはや日課と言っても差し支えない、若獅子戦以降ずっと続けてきた、そろそろ100にも届こうかというこの対局。同時に私の100連勝も目前に迫っているけれど、もちろん碁の内容は3ヶ月前とは比べるまでもない。……ここだけの話、たまーにドキッとさせられる事もあったりして。
そして現在。対局後の検討を終え、ちょっとしたおしゃべりの真っ最中。その内容はと言うと……。
「ねえねえ聞いて彩、私昨日もsaiに打ってもらったんだ!」
……ちぇっ、またこの話だよ。
こんな風に対局自慢をされるのは一度や二度じゃない。ここ最近ずーっとこうなのだ。
夏休みに入り、平日週末の如何を問わずネットに現れるようになったsai。一度負かされて以来、何やらすっかりその強さに憧れてしまったのか、自分も夏休みなのを良いことにこれ幸いとsaiとの対局を繰り返しているらしいのだ。……なーんか節操ないなぁ。別にいいけどさっ。
そう、それは別にいい。自分を負かしてくれるくらい強い人との対局が勉強にならないハズがないし、しかもそれがsaiならば言うこと無いだろう。私とばかり打っているよりもその方が良いに決まっている。じゃあ何が不満なのかと言うと……。
「私とは打ってくれないのに……」
「え、何か言った?」
「……何でもないよっ」
あんな終わり方をした一局に満足する訳ないし、その程度で諦める私でもない。今度こそ誰にも邪魔されない時間を作った上で、当然私も再戦を申し込んだのだ。……そして、そんな私に対するsaiの返答はNOの一点張り。今回ばかりは泣いても喚いても断固として対局を受けてはくれなかった。
当然ながら『何で対局しないんだー!』なんて本人を問い詰めるわけにも行かないし……まあ個人的にも何となく理由は察していたけれど。
……多分バレたんだろうね。私だってことが。
対局相手を選ばないsaiが私だけを拒否する理由なんてそれしか考えられない。碁の内容もさることながら、ハンドルネームだって自分の名前を捩ったものなのだ。我ながら安直だったと反省する一方、だったら変えればいいじゃないかとも思ったけれど、どうせバレた時点で対局中だろうと投了されるに決まってる。それにそんな事を繰り返していたら、警戒したヒカルがネット碁を止めてしまうかもしれない。……結局私には、黙って泣き寝入りするしか選択肢がなかったのだ。
「saiも有名になってきたみたいで今じゃ対局希望者も後を絶たないんだけど、何故か私の申し込みは優先的に受けてくれるのよね。……ふふ、気に入られちゃったのかなー」
「ふーん、良かったねー」
「ね、彩も一回打ってみなさいよ。もしかしてアンタなら……」
「……だから、私は打ちたくても打てないのっ!」
「な、何よいきなり。夏休みなんだから時間くらいあるでしょ?」
「はあ……もういいよこの話は。それより明日から予選なんだから――」
これ以上自慢話には付き合ってられないと、強引に話題をプロ試験へ切り替える。……冗談抜きに、当面はこちらが本題なんだ。
「もう、せっかく考えない様にしてたのに。……いよいよ明日かぁ」
奈瀬さんにとっては初めてのプロ試験。単なる試合とは訳が違う。一年に一度の、自分の人生を賭けた戦いが始まるのだ。
「みんな必死だろうし、外来からも強い人が来るのよね。……ああもう! こんなに緊張してたらいい碁なんて打てない……」
「……いいじゃん、緊張したって」
「え?」
中学生の女の子が緊張しないハズがないし、するななんて言うつもりもない。大事なのは自分の感情から逃げずに向き合うこと。逃げ続けたって結局何処かで息切れをするだけ、それでは長いプロ試験を戦い抜くなんて出来やしない。
「いっぱい緊張して、いっぱい間違って……楽しんできなよ。仮に負けたって終わりじゃない。3回負ける前に3回勝てばいいだけなんだからさ」
「まったく簡単に言ってくれるわね……」
「奈瀬さんならきっと大丈夫。本戦で待ってるからね!」
そして何よりも、私は奈瀬さんの力を信じている。……伝えることはそれで十分なんだ。
「……そうよね、まだまだ通過点だもの。楽しむくらいの気持ちが無いと本戦だって戦えやしないわ」
「うん! じゃあ
「……ふふっ、何よそれ。負けても大丈夫って言ったくせに。……いいわ、見てなさい。予選くらい軽ーく3連勝で突破してやるんだから!」
約束は3日後。奈瀬さんなら出来る。きっと素晴らしい報告が、待っている。
―――
プロ試験予選初日
――軽ーく3連勝で突破してやるんだから!
彩に向かって声高らかにそう宣言した私――奈瀬明日美は、初日にして早くも窮地に立たされていた。
「はぁ……参ったなぁ」
今は打ち掛けの昼休み。午後に向けて気分転換をしなきゃいけない時間にも関わらず、私はひたすらため息をつくばかりでお昼ゴハンも喉を通らない。……まさか初っぱなから躓くなんて。自分のクジ運の悪さにはほとほと嫌気が差す。
「何だよ奈瀬。対局、調子悪いのか?」
「……ううん、そういう訳じゃないんだけど」
「相手、誰だったのー?」
そんな私の沈みっぷりを見かねてか、一緒にお昼を食べていた和谷とフクが気遣ってくれる。
別に調子が悪いわけじゃない。緊張はしてたけど、今だって自分なりの精一杯の碁を打っているつもり。……つまり私が追い込まれている原因は単純明快。相手が自分よりも、ハッキリ強いからだ。
「……あの子よ。窓際で本読んでる子」
プロ試験独特のピリピリした空気の中、まるで我関せずといった表情で詰碁に勤しむおかっぱ頭の少年。名前ばかりが一人歩きしていたその顔も、若獅子戦以降は多くの人間が知るものとなった。
「塔矢アキラか。……で、どーよアイツ」
「……ちょー強い。さすがにキツいかも」
彼こそが私の今日の相手。対外試合に一切姿を現さないが故に未だ未知数とされていたその実力の程は……正直想像以上だった。対局も中盤なのに、思わず弱音を吐いてしまうくらいには。
「まだ終わってねーだろ。あんなヤツここから逆転しろよ!」
「他人事だと思って……って言うか和谷、何でアンタがそんなにイライラしてんのよ」
「ムカつくじゃねーか。プロ試験だってのに一人だけ澄ました顔しやがって!」
見事なまでの毛嫌いっぷり。もっとも森下先生の塔矢門下に対するライバル意識は碁界でも有名な話、これもまた師匠譲りと言うわけか。……和谷の場合は個人的な感情も多分に含まれてるんだろうけど。
まあ私はムカつくとまでは言わないけれど、実際に対局をしてみても確かに羨ましいくらい落ち着いてると思う。場馴れしてると言うか何と言うか、私なんてこの空気に呑まれない様にするのが精一杯なのに。名人と四六時中打ってればそういうのも気にならなくなるんだろうか。
もちろんそんな稀有な例なんて彼一人に限ったことで、他の受験生も私と同じく緊張と戦いながらこの場に居るのだ。……だからこそ、そんな中で大声を出す和谷の存在が目立たない訳もなく。
「……チッ」
恐らくは外来受験生、何とも神経質そうな男の人に一睨みされ、流石の和谷も縮こまってしまうのだった。
「やーい、怒られてやんの」
「和谷くんうるさすぎー」
「……くっ、これも全部アイツのせいだっ」
そんな風にフクと一緒に和谷をからかっている内に、いつの間にか昼休みは終わろうとしていた。結局ゴハンは残しちゃったけど、いい気分転換になった様な気がする。二人には感謝しないとね。
「さーてそろそろ行くか。奈瀬、さっきも言ったけど負けんじゃねーぞ。あんなヤツ黒星スタートさせてやれ!」
「頑張ってね!」
「わ、わかってるわよ。何も諦めたなんて言ってないじゃない」
形勢が悪いのは百も承知、ここからの逆転も普通に考えればキビシイに決まってる。……だけどこれ程の逆境に曝される一方で、私にはある種の安心感もあった。
……確かに塔矢アキラは強い。だけど、彩の方がもっともっと強かった。私はそんな子とずっと打ち続けてきたんだから。
自分の実力を棚に上げた、何とも無責任な安心感。それでも彩ならきっとここからでも逆転する。だったら私にだって。……そう信じる気持ちが、折れそうになっていた心を奮い立たせてくれる。
「アンタ達も人のことばっか気にしてないで自分の対局に集中しなさいよ。私だけが勝っちゃっても知らないからね!」
そう、まだまだこれからの碁。打ちたい手も残ってる。彩との約束だってあるんだ。……見てなさい塔矢アキラ。絶対に逆転してやるんだから!
―――
そう思ってた時期が私にもありました。
「うぅ……ありません……」
午前よりも更に激しく仕掛けた私に対し、彼は優勢に甘んじる事なく真っ向から受けて立った。私としては願ってもない展開だったけれど、結局こっちがツブされての投了。完全な力負け。……現実は厳しかった。
……あーあ、負けちゃった。やっぱ強いわこの子。……ま、しょうがないか。
予選の初日から躓いたにも関わらず、不思議と気持ちは晴れやかだった。同時に込み上げてくる何とも言えない充実感。勝敗に関わらずいい碁が打てた時の感覚だ。……多分これも全部ひっくるめて、彩の言ってた通りって事なんだろう。
いっぱい緊張して、いっぱい間違ったけれど、それでも本当に楽しい一局だった。少なくとも明日に繋がるような碁は打てた気がする。……1敗くらいで気落ちしてる場合じゃない。プロ試験はまだ始まったばかりなんだから。
「ありがとうございました。今日は完敗だけど、本戦では負けないからねっ! それじゃ……」
「……あの、よろしければ少し検討しませんか?」
「検討? ……うん、別にいいけど」
潔く頭を下げて席を立とうとした私への検討の申し出。やや唐突ではあったけれど、もちろん私としても断る理由なんてない。別に時間に追われてる訳でもないし、こういった局後の感想戦は熱の冷めない内に行うのがベスト。実際に打った相手の意見も気になるところだし。
「じゃあ隣行こっか。ここでやるのも何だしね」
「はい。わざわざお時間取らせてしまってすみません」
「いーのいーの。私だって疑問点とか色々あるからさ」
子供とは思えないくらい大人びた所作と言葉遣い。検討ぐらいで随分腰が低いこと。……そういや彩が同い年とか言ってたっけ。この子も中一にしては大概だけど、いずれにしてもえらい違いだわ。
……ま、彩のくせに生意気だから絶対言わないけど、不覚にも大人っぽいなんて思っちゃう時もあるんだよね。……本当に、たまーにだけど。
「ここを守らなかったのは軽率だったかしら。形勢も悪かったし、思わず前のめりになっちゃったんだけど」
「ええ、やはり守るのが本手なんでしょうね。遅れてる様にも見えますけど、ここがしっかりしてれば他で強く戦えますから。例えばこっちで……」
「……そっか。そんな手があったんだ」
一つ疑問を投げかける度に、私には見えていなかった読み筋が次々と返ってくる。改めて勉強させられることばかりだった。
彩の話では塔矢くんとは碁会所友達らしいけど、冷静に考えてみるととんでもない話だ。一見して子供同士の微笑ましい対局姿。だけどその実、片や名人の息子、片やプロに混じって優勝する様な女の子。碁の内容だってプロ顔負けに違いない。そんな対局が一介の碁会所で平然と繰り広げられてるんだから。……ギャラリーからお金取れるんじゃないかしら。
「ボクも実際は冷や汗ものでした。このホウリコミなんか意地でも眼形を与えないって手じゃないですか。こんな強手、普通の人は怖くて打てませんよ」
「……えっと、それは誉め言葉として受け取っていいのかな?」
「はは、まあ場合の手ではありますけど。でも……彼女なら打つかもしれませんね」
「彼女って、もしかして彩?」
「……ええ。奈瀬さんの碁も何となく似てますよ。ギリギリまで追及する姿勢とか、攻めっ気たっぷりな所なんか星川さんにそっくりです」
「そ、そう? そうかなっ?」
彩の碁に似ている――。あの子の碁を目標にしている私にとってはこの上ない誉め言葉。思わず頬が緩んでしまう。
「あ、もちろん棋力という点では比較にもなりませんけどね」
「うぐっ……わ、わかってるわよそんなこと」
もっともその喜びも一時限り。ニヤニヤしている私に釘を刺すかの様な、そんな手厳しいお言葉をいただいてしまうのだ。
……サラッと毒吐くなぁこの子。悪気はないんだろうけど、いい性格してるよホント。
「彼女は本当に凄いです。読みも戦いのセンスもずば抜けている。ボクだって何度その差を見せつけられて来たことか……」
だけど何となくわかってきた様な気がする。通りすがりの私との一局、普通なら一言二言意見を交わすくらいなのに、何でわざわざ検討の場まで設けたのか。
それはきっと私の碁が彩に似ていたから。そんな些細な事に食いついてしまうくらい、あの子にご執心ってわけだ。……ふふ、面白そうなネタ掴んじゃったっ。
「ねえ塔矢くん。……キミ、もしかして彩のことが好きなんじゃないの?」
「えっ? な、何ですか急に……」
「だって彩の話をしてる時の塔矢くん、凄くいい顔してるもん。ホラホラ、言っちゃいなって!」
年下の子に一日中やり込められた身としては、ここらで一度くらい主導権を握りたいところ。だけど、そんな私の意地悪な質問に対しても照れる素振りすら見せず、むしろ達観したような表情で彼はこう答えるのだ。
「いえ、本当にそういうのじゃないんです。……ボク、星川さんの打つ碁が好きなんですよ。一見無茶な力碁、常識的に考えられない様な手だって平然と打ってくる。そして、圧倒的なまでの読みに裏付けされた一手だったと後々気付かされる。……いつも負かされてばかりですが、それ以上に彼女との一局は心踊らされるんです」
「あ……うん、それは何となくわかるかも」
「何より彼女はボクにとって初めての、追いかけると心に決めた相手ですから。……もちろん追いかけるだけで終わるつもりも更々ありませんけどね」
……なるほど、そういうことね。
この瞬間、私は自分の勘繰りが全くの見当違いであったのだと確信する。彼の目にはどこまでも彩の碁しか映っていないんだ。典型的な囲碁バカの思考回路、色恋じみた感情なんて入る余地もないんだろう。
同じ女子の目から見ても十分に可愛いと思える彩の容姿、それに全く目が行かないというのもまあ随分な話だけど、その一方で共感と言うか、親近感の様な感情もこみ上げてくる。ひたすらに彩の碁に焦がれ、追い続けるその姿が……何だか自分にも似ているような気がしたから。
「ま、確かに呆れちゃうくらい強いよね。私だっていっつもひどい目に合わされてるんだから。昨日なんかさぁ……」
「あはは、それは災難でしたね。ボクも実はこの前……」
結局からかうネタにはならなかったけれど、図らずも共通の話題を得た私たち。その後は検討もそっちのけでお互いの被害報告に花を咲かせるのだった。
「あ、そういえば塔矢くん」
何だかんだでもう結構な時間。碁盤の片付けを終え、そろそろ帰ろうかと身支度をしていた最中のこと。対局や検討を通じて親交を深め、それなりに気を許せる間柄になったからこそ口から出た、ちょっとした世間話みたいなものだった。
「saiって、知ってる?」
「……sai? えっと、何かの名前でしょうか」
「あ、ごめん。ネット碁の話なんだけどね。塔矢くんネット碁は?」
「関西のプロの方に打っていただいた事があるくらいで、普段はさほど……」
「そっかそっか、ごめんね変な話して。とにかくそういう人がいるってだけ。機会があったら打ってみなよ。本っ当に強いからさ!」
「sai……ええ、わかりました」
「それじゃ、今日はありがとね。また明日っ!」
所詮は広大なネット世界における、何処の誰ともわからない打ち手の話。別に何かを期待してた訳じゃない。知ってたら面白いなーって程度のこと。
そんな事より当面は彩との約束の件、その申し開きの内容を私は考えなければいけないのだから。