未来の本因坊   作:ノロchips

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第25話

 私と佐為の二度目の対局は、私の打ち間違いで碁が壊れてしまうという何とも不本意な結果で幕を閉じてしまった。もちろんその事について謝りたいとも思うけれど、向こうが私と打ったという事を認識しているとは限らないし、どうせ伝えたところで知らぬ存じぬを貫かれるだけだろう。何より幽霊云々を抜きにしても、ヒカルだってそこは触れてほしくない部分のはずだ。わざわざこちらから余計な不安を煽る必要もない。

 お互いこの件に関しては暗黙の了解で不干渉。そうして翌週からも、またいつも通りの囲碁部の日常が始まるのだった。

 

 6月も下旬に差し掛かり、いよいよ大会まで1ヶ月を切った。決して実力重視ではない、囲碁を楽しむ事を前提とした活動内容ではあったけれど、そんな中でもここ最近の皆の成長ぶりは目を見張るものがある。もちろんその成長が一人一人の努力の結果であることは言うまでもないのだけれど、彼らに手解きを行い、それを見守ってきた身としては少なからず達成感みたいなのを覚えてしまったりもするわけで。

 一般的な中学囲碁部の大会レベルがどの程度のものなのかはわからない。だけど、これならかなりいい成績が残せるんじゃないか。……そんな風に考え始めていた、ある日の事だった。

 

 

「ねえ彩……私って囲碁に向いてないのかなぁ……」

「え……い、いきなりどうしたの久美子?」

 

 部活の帰り際、ため息と共に私にそう問いかける久美子。一体何事かと聞き返してみれば、どうやら最近の部内での対局成績が振るわない事が気になっているらしいのだ。

 

「……私ね、最近あかりに全然勝てなくなっちゃったの。少し前までは同じくらいだったのに」

 

 取り分け引きずっているのは、同じ初心者組であるあかりに負け込んでしまっていること。確かに私の目から見ても、現状あかりは久美子の一歩先を行っている様に思う。だけど、それは決して二人のセンスとか才能とか、そういったものの違いを表している訳じゃないのだ。

 

 ……そういえばあかり、最近部活の後にヒカルと一緒に打ってるんだもんね。

 

 言うまでもなく上手との対局はこの上ない勉強の場であり、そしてこれは憶測だけど、もしかしたら佐為と打っている可能性すらあるのだ。只でさえ最も成長著しいこの時期に、僅か数局とはいえそんな貴重な経験をしているとしていないのとでは、実力に差が付いてしまうのも当然だ。

 

「そんな、久美子はちゃんと強くなってるよ! 私が保証するって!」

 

 もちろん私の言葉はお世辞でも何でもなくれっきとした事実。何より初心者組の指導には取り分け力を注いできたつもりだし、二人もそれに応えるかの様に素晴らしい成長を見せてくれた。少なくとも同じ囲碁歴の人と比べれば、何処に出しても恥ずかしくないくらい強くなってるはずなんだ。……しかし、私のその言葉にも久美子は申し訳なさそうに微笑み返すだけで。

 

「あはは、ありがとね。……別にそれが不満って訳じゃないの。初心者は私たち二人だけなんだし、どっちかが上でどっちかが下になるのは仕方ないことだもん。でも……何だかちょっと自信無くしちゃってさ」

 

 久美子が言う様に多かれ少なかれ実力差は付いてしまうものだし、本人もそれは理解しているはず。恐らく彼女を思い悩ませている原因は自分に対する不信感。周りは自分よりもずっと格上の人達で、唯一の比較対象であるあかりには明確な差を付けられて、そんな状況で自分が本当に成長しているのかがわからなくなってしまったんだろう。

 早い話、今の久美子に一番必要なのは自信だ。強くなっているという確信さえ持てれば、それが何よりの力になる。今は勝てなくても、いつか必ず追い付けると信じる事が出来る。

 だけどこの環境下でそれを早急に手に入れるのは難しいのかもしれない。私同様、他の部員達がそれを口にした所で簡単に鵜呑みにするという訳にも行かないのだろうし。

 私はそんな久美子がじれったくてたまらなかった。ぶっちゃけ周りがちょっとおかしいだけで、久美子だって十分人並み以上の成長を見せているのに。それなのにその実感が無いなんてもったいないにも程がある。

 

「……よし決めた。久美子、今週の土曜日私と遊びに行かない?」

「ど、どうしたのいきなり? 別にいいけど……何処に行くの?」

 

 だからこそ私は久美子を誘った。今の環境で無理ならば環境を変えるまで。それにこれは自信云々の話だけでなく、引いては先に控える大会という点においても、間違いなく貴重な経験となり得るのだから。

 

 

「……碁会所に行こう!」

 

 

 ―――

 

 

 私たちの学区の最寄り駅から電車に揺られること約15分、駅近の雑居ビルの二階にその碁会所はあった。

 この世界で私が行ったことのある碁会所は塔矢先生の経営する所だけ。通い始めて約半年、今やかなりの数のお客さん達と面識があるし、自分で言うのもなんだけど、塔矢くんの友達という事もあって何だかんだ私も一緒に可愛がってもらっている様に思う。

 だけど今回はあえてそこを選ばなかった。久美子は碁会所に行くのは初めてだろうし、私だけがリラックス出来る場所よりも可能な限り同じ立ち位置でいてあげたかったんだ。

 もちろん初めての碁会所が、タバコの煙立ち込めるアダルトな雰囲気の、っていうのもさすがにハードルが高いだろうし、そこは事前に下調べをした上でなるべくクリーンな所を選んだつもりだ。

 

「うぅ……やっぱりちょっと怖いよ……」

「そんなおっかない場所じゃないから大丈夫だって。ただ囲碁を打つだけ、いつもと同じなんだからさっ」

 

 未だに尻込みしている久美子を励ましつつ碁会所の扉を開ける。そんな私達を出迎えたのは、柔和な雰囲気を携えながらこちらに歩み寄る――恐らくはこの店の席亭と思われる初老の男性の姿だった。

 

「いらっしゃい。子供が遊びに来てくれるなんて嬉しいねぇ。それじゃ、ここに名前を書いてもらえるかな?」

 

 16面程の対局スペースを構えたこじんまりとした内装。それでも店内に広まる穏やかな空気は、そんな席亭さんの人柄をそのまま表したかの様で。ぱっと見の印象ながら、きっとここが良い碁会所なんだろうなということが伺えた。私の期待した通り、ここなら久美子の緊張もいくらかは解れるんじゃないだろうか。

 

「星川さんと、津田さんね。二人の棋力はどれくらいだい?」

「き、棋力? ……彩、私わからないよ」

「えっと、この子は5級くらいで十分打てると思うんでそれでお願いします。……あと、私は少しだけ見学させてもらっていいですか?」

「ああ、別に構わないよ」

 

 初めての碁会所、しかも初対面の相手。今まで気心の知れた相手としか打って来なかった久美子からすれば、やはり不安は少なからずあるはず。だからこそ最初の一局だけは側にいてあげようと思い、私は見学を申し出たのだ。

 幸い席亭さんもそれを快諾してくれた。そうして早速久美子の対局相手を探そうと彼は店内をキョロキョロと見渡し始め、やがてその視線は今まさに終局を迎えたのであろう1つの対局席に向けられた。

 

 

「お、あそこが終わったか。由梨ちゃん! 次、お願いできるかな?」

 

 由梨ちゃんと声をかけられたショートカットの少女は、一度こちらに視線を向けると、改めて対局相手に一礼した後、私達の方に歩み寄ってくる。

 整った顔立ちに優雅な立ち振舞い、少しばかりのつり目が大人びた雰囲気を更に引き立てている。文句のつけようもない美人さんだなあと思いつつ、何だかどこかで見たことあるような気もするわけで。

 

「彼女は日高由梨ちゃん。僕の姪っ子なんだけどね、何とあの海王女子囲碁部の大将なんだ。もちろん実力も申し分無い。彼女に教えてもらうといいよ」

『か、海王っ!?』

 

 どこか自慢気にそう口にする席亭さん。その言葉に私と久美子の声が重なる。もっともその驚きの意味合いは恐らくちょっと違ったのかもしれないけれど。……まさかこんな所で知った顔に遭遇するなんて。何と言うか、世間の狭さというものを改めて実感する。

 

「ちょっとおじ様、その子達初めてのお客なんでしょう? いくら私が美人で頭脳明晰でおまけに囲碁も強い完璧少女だからって、変に緊張させちゃダメじゃない」

「あはは、そこまでは言ってないんだけどね……」

 

 口元に手を添えながら、恥ずかしげもなくそんな事を言ってのける姿はまさにお嬢様。さすがに大袈裟過ぎじゃないかと思う反面、それでも何だか様になっているのだから不思議なものだ。

 

「まあいいわ、早速始めましょう。どっちが打つのかしら?」

「あ、えっと……私、です」

「そ。もう知ってると思うけど私は日高由梨、海王中の3年よ。あなたは?」

「つ、津田久美子です。葉瀬中の1年ですっ」

「久美子ちゃんね。それじゃあっちで打ちましょうか。ついてらっしゃい」

「は、はいっ!」

 

 ……あーあ。せっかく緊張が解れて来たところだったのに、またガチガチになっちゃった。久美子、大丈夫かなぁ。

 

 何だか先行きに不安を感じつつも、私もまた彼女に連れられて対局席へと向かっていくのだった。

 

 

 ―――

 

 

 5級の久美子に対して彼女が指定した手合いは8子局。一概に決めつけは出来ないけれど、単純に考えればアマ四段クラスの実力者と言うわけだ。流石は名門海王の大将と言うべきだろうか。

 まあそれはひとまず置いといて、とにもかくにもその強気な物言いに久美子が萎縮してしまうんじゃないかと私は心配していたのだけれど……

 

「……私も初めて大会に出た時は久美子ちゃんと同じだったわ。石も持てないくらい緊張しちゃってあっさり中押し負け。いやー、あの時は泣いたわね」

 

 最初の最初、実際のところ久美子は緊張しっぱなしだった。危うく碁笥をひっくり返しそうになっていたし、指先の震えを必死に抑えながら置き石を置いていくその姿は、正直対局どころの話じゃないとすら思えてしまうくらいで。もっとも私がこの対局に付き添ったのはまさにこういった時のためであり、そんな久美子に声をかけようとした矢先、私に先んじて彼女が口を開いたのだ。

 

「緊張するのは恥ずかしい事なんかじゃないわ。ゆっくりでいいからちゃんと考えて、自分の後悔しない手を打てばいいの。……せっかく私と打つんだから、そんな対局にしたら許さないわよ?」

 

 強気な物言いはそのままに、だけど久美子に向ける眼差し、そして実際の対局も上手のお手本の様に優しさに満ち溢れていた。久美子もそんな彼女に応えるかの如く、緊張していた頃が嘘のように自分の実力をしっかりと出しきれている。

 高飛車なお嬢様の様に見えて、やっぱり彼女も上に立つ人間。言おうとしていた事は全部言われてしまったけれど、少なくとも対局前の心配が杞憂に終わった事に私は一人胸を撫で下ろしていたのだった。

 

 

「すごいわ! これで囲碁を始めて2ヶ月なの!? うちの囲碁部でもこれだけ成長する子は中々いないわよっ!」

「……あ、ありがとうございますっ」

 

 対局、そして検討も恙なく終わり、流れのままに久美子の囲碁歴を聞いた彼女は、その答えに驚きを隠せないようだった。

 まあちょっと下品な考え方だけど、正直この反応こそが私の望んでいたものだったりする訳で。いつも一緒にいる私達ではなく第三者が、加えて海王囲碁部の大将である彼女がそれを認めてくれた事もあってか、久美子も頬を赤らめながら照れ笑いを浮かべている。

 

「よっぽど良い指導者に恵まれたのね。普段は何処で勉強しているの?」

「えっと、中学の囲碁部で友達と一緒に……」

「と、友達? それもまた凄いけど……それ以前に葉瀬中に囲碁部なんてあったのね。大会で見たこと無いような気がするんだけど」

「部自体はあったんですけど、人数が集まったのは今年の4月からなので、大会には出てなかったんだと思います」

「なるほどね。……で、その友達ってもしかして」

 

 検討の内容も特に指摘するような点が無かったので、今やすっかり置物と化していた私だったけれど、この瞬間に至りようやく彼女の視線がこちらに向く。

 

「ふーん、あなたが……」

「や、別に私だけが教えてるって訳でも……」

 

 まじまじと私を見つめる彼女に両手を振りながらそう返すものの、何故かその視線は私から全く離れようとしない。むしろより一層目を細めながらこちらに近づく彼女に、さしもの私もたじろいでしまう訳で。

 

「あの、私の顔に何か付いてます?」

「……ねえあなた、何処かで私と会ったかしら?」

「え……会ったこと無いと思いますけど」

「あなたの顔、何となく見覚えがあるのよねぇ……」

 

 まあ私はあなたを最初から知っていたけど、それはちょっと特殊な事情があるからで、そうでなければお互いに今日が初対面のはず。……って言うか、顔を合わせてからもう1時間以上経つのに今更過ぎやしないだろうか。私ってそんなに存在感無かったの?

 

「……そういえばあなたの名前聞いてなかったわね。教えてもらっていいかしら?」

「あ……すみません、申し遅れました。私、星川彩って言います。久美子と同じ葉瀬中の1年です」

「星川、彩……あっ! あなたもしかして……!」

 

 何となく名乗る機会を逸したままここまで来てしまい、本当に今更ながらも取り敢えず私は軽く頭を下げながら自己紹介をする。そうしてしばらくぶつぶつと私の名前を呟いていた彼女だったけれど、突然何かを思い付いた様に席から立ち上がると、慌ただしく碁会所のカウンターに向かって駆け出していった。

 

「おじ様っ! 以前の週刊碁ってまだ残ってるわよねっ?」

「あ、ああ。そこの棚に月ごとにまとめてしまってあるけど……いきなりどうしたんだい?」

 

 席亭さんの言葉に返事もせずにガサゴソと棚の物色を始める。会話に出てくる単語の端々から、まあ彼女が探しているものの正体は何となく察する事が出来たけれど……何だか嫌な予感しかしないのは気のせいだろうか。

 

「……あった。やっぱり……やっぱりあなたがっ……!」

 

 週刊碁を握り締めるその手はワナワナと打ち震え、紙面と照らし合わせる様にこちらに向けるその視線は、まるで親の仇を睨み付けるかの如く。そして彼女はゆっくりとこちらに向き直ると、右手で私をビシッと指差しながらこう叫ぶのだった。

 

 

「星川彩っ!」

「は、はいっ!」

「ここで会ったが100年目……倉田先生の敵討ちよっ! 私と勝負しなさいっ!!」

 

「…………えぇ」

 

 予想の斜め上の発言にもはや思考が追い付かない。それ以前に敵討ちとはまた随分と物騒な。

 ……一体私が何をしたと言うのだろうか。

 

 

 ―――

 

 

「おい、何が始まるんだ?」

「今から由梨ちゃんとあの子が対局をするみたいだぜ。しかも互先で!」

「ははは、由梨ちゃん相手に置き石ナシとは末恐ろしい嬢ちゃんだな! ま、20分持てば良い方じゃないか?」

「バカ、あの子院生なんだってよ。しかも話によると倉田に勝ったとか……」

「い、院生!? って言うか倉田って……まさかプロの倉田五段か!?」

 

 嫌な予感ほど当たるとは良く言ったもので、予想通り何だか面倒な事になってきてしまった。

 現在、私と日高さんが向かい合う対局席を中心として、それを取り囲むように碁会所中の人達が集まっている。

 

「由梨ちゃんは倉田プロの大ファンなんだ。それこそ彼の対局譜なんかも全部集めるくらいにね。そういえば1ヶ月前も、倉田がアマチュアに負けたって記事を見て随分荒れてたなぁ」

「は、はぁ……そうですか」

「いやー、それにしても君がねぇ……」

 

 事の発端となった原因を説明しつつ、週刊碁を片手に席亭さんが興味深そうに私の顔を覗き込む。

 正面には私を射殺さんばかりの敵意を向ける日高さん。そして好き勝手に盛り上がるギャラリーの人達。どうやらもう逃げ道は無いようだった。

 

「マグレで倉田先生に勝ったからって調子に乗らないことね。今ここであなたを倒して、あの対局が何かの間違いだって事を証明してみせるわっ!」

 

 別に彼女が倉田先生のファンだからって驚きはしない。今や彼も日本を代表する棋士の一人だし、若手と言うこともあって実際その人気はプロの中でも相当なものだとか。だけど黒星一つ付けただけでここまで目の敵にされてしまうなんて……もはや心酔レベル、本当に倉田先生が大好きなんだろうね。

 

「……なあ由梨ちゃん、無理しないで石を置かせてもらったらどうだい? この棋譜を見て彼女の実力がわからない訳じゃないだろう?」

「ダメよ! 置き碁で勝ったって何の意味も無いじゃない!」

「しかしなぁ……この子が勝ったのは倉田だけじゃない、他にも4人のプロを倒して優勝してるんだぞ?」

「ーーーっ! もう、おじ様は黙ってて!」

 

 席亭さんの気遣いの言葉にも取りつく素振りすら見せず。確かに実力の差は歴然だけど、もはや私が今更何か言ったところで火に油を注ぐだけなのかもしれない。

 

「……わかりました。互先でお願いします」

「言っとくけどね、うちの部長も元院生なの! 私だって何回も打ってもらってきたんだから。簡単に勝てると思わないでよ!」

 

 ……もうしょうがないか。元々向こうが望んだ手合いだし、わざと負けるってのも何か違う気がするしね。

 

 

 

 そうして20分後。結果はお察しの通り。

 

「負け……ました……」

 

 この期に及んで指導碁なんて打ったら何を言われるかわからない。せめてプロらしくアマチュアのお手本になる様にと真っ当に打った結果、まあ真っ当に勝ってしまった訳で。

 もちろんその実力の高さは久美子との対局の時点である程度は伺い知れていた。むしろ想像以上に食らい付いてきた事に感心したくらいだ。だからと言って、元々の手合いが違いすぎる以上この結果は必然と言うか、仕方が無いと言うか。

 

「ありがとうございました。……その、とても筋の良い碁でした。特に左下なんか私も対処に困っちゃって……」

 

 聞こえているかはわからない。返ってくるのは私への不満かもしれない。それでも俯く彼女にゆっくり語りかける。対局を通じて私が感じた想いをそのままに。

 そして数秒後、顔を伏せたまま彼女が発した第一声は……

 

「……ぐすっ」

 

 ……え?

 

「ひっく……うっ……うううっ……」

「ちょ、ちょっと……何も泣かなくても……」

 

 体を震わせながら嗚咽を溢す。よもや泣かれるとは思っていなかった私は、予想外の状況に困惑するばかりで。

 そしてそんな私に追い打ちをかけるかの如く、それまで静まり返っていた周囲が俄にざわめき出した。

 

「ああ由梨ちゃん、泣かないで! かわいそうに……」

「由梨ちゃんが泣かされた!」

 

 恐らくはこの碁会所のお姫様的存在である彼女が咽び泣く姿に、明確な言及こそ無かったものの、その空気からは彼女をそうさせた私への不満がありありと感じられた。

 

 ……い、いや、確かに中学生の女の子を囲碁で泣かせた事に罪悪感が無い訳じゃないけど……え、何この空気。私が悪いの? 手合い違いだって最初に言われてたじゃん!

 

 まさにアウェーの洗礼と言うべきだろうか。文字通り針の筵と化した私だったけれど、それでも希望が無いわけじゃなかった。

 そう、私は一人じゃない。私には仲間がいる。たった2ヶ月だけど、同じ部活で共に笑い合ってきた友達がいるんだ!

 すがる様な想いで後ろに振り返る。そして唯一の希望であった彼女がくれた言葉は……

 

 

「由梨さんを泣かせるなんて……ひどいよ彩っ!」

 

 

 神さま、どうやらこの世界に私の味方はいないみたいです。

 

 

 ―――

 

 

 吊し上げ一歩手前まで追い詰められていた私を救ったのは、先程まで涙を流していた日高さん本人だった。彼女曰く、元より勝ち目がほとんど無いことを覚悟して挑んだものの、予想以上の大敗に思わず感極まってしまったのだそうな。

 とにもかくにも日高さんの鶴の一声でそれまでの険悪なムードは一気に霧散する。そうしてギャラリーの次なる興味は他ならぬ彼女を破った私へと移り、やれ対局だの指導碁だのと申し込みが殺到するのだ。何だか都合が良いなぁと少しだけ思ったけれど、そんな風にお願いされて悪い気がするはずもなく、ちゃっかり多面打ちのお相手を務めることに。

 私がそうしてる間にも、久美子は久美子でまるで妹の様に日高さんにくっついて、彼女を始め他のお客さん達との対局を繰り返し、勝ったり負けたりしながら、それでも本当に楽しそうに笑っていた。

 

 そしてあっという間に時間は過ぎ、帰り際。

 

 

「由梨さん、今日はありがとうございましたっ!」

「ふふ。またいらっしゃい、久美子ちゃん」

 

 今日一日ですっかり仲良くなったこの二人。性格は正反対もいいところ、それでも何だかんだ相性が良かったと言うべきか。

 

「それと、星川彩」

「な……何ですか?」

「あなたプロ志望なんでしょう?」

「ええ、まあ」

「ならさっさとプロになって、一刻も早く倉田先生に負かされてきなさい。私の仇もまとめて先生が取ってくれるから」

 

 負けるためにプロになれとは随分捻くれた言い回しだけど、これも彼女なりのエールなのだろう。もちろん負けるつもりは毛頭ないけどね。

 

「最後に二人とも。……大会で優勝するのは私たち海王中よ。女子はもちろん男子もね。出るんだったら覚悟しておきなさい!」

 

 そしてチャンピオンからの宣戦布告には、大会に出れない私の代わりに久美子が応える。

 

「わ、私たちだって負けません! 葉瀬中にも強い人達がいっぱいいます。それに、彩だってついてるんですから!」

「……ええ、楽しみにしてるわ。それじゃ、またね」

 

 お互いに健闘を約束し、固く握手を交わす。さて帰ろうかと踵を返しながら……不意に私はある事柄を思い出した。

 気になりつつも、結局聞きそびれてしまっていた、些細な疑問。

 

 

「日高さん、最後に一つだけ聞きたいんですけど」

「あら、どうしたの?」

「……倉田先生の、どの辺が好きなんですか?」

 

 単なる興味本意。私は倉田先生とは一度しか面識が無いし、盤外における彼の人間性にも決して詳しい訳じゃない。彼女がそこまで倉田先生を敬愛する理由を聞いてみたかったのだ。

 

「……良く聞いてくれたわね」

 

 ……今思えばその一手こそが、私が今日一日で放った数多の着手の中でも、最大で最悪の失着。そんな質問をぶつけてしまったことを私は激しく後悔する羽目になるのだ。

 

 

「全部よ」

「え?」

 

「だから全部。吸い込まれそうなつぶらな瞳、包容力のあるふくよかなお腹、子供の様な天真爛漫な性格、ちょっと食いしん坊なところも彼の魅力を更に上乗せしてる。まさに女性にとっての理想の男性像そのものよ。もちろん囲碁の強さも忘れてはいけないわ。特に私が気に入ってるのが前期の本因坊戦の三次予選決勝、倉田先生がリーグ入りを決めた一局ね。劣勢の状況から粘って粘って半目差でひっくり返したあの碁は、今でも私の脳裏に焼き付いて離れないわ。とにかくあんなにカッコいい人が碁まで強いのよ。同じ碁打ちとして惹かれない方がおかしいじゃない。あなたにはわからないの? 実際に対局までさせてもらっておいて見る目の無い子ね! 仕方ないから教えてあげるわ、これは私が彼の大盤解説に行ったときの話だけれど、そのトークスキルもさることながら……」

 

「も、もう結構です。お疲れ様でした……」

 

 

 ……もう、お腹いっぱいです。

 

 

 ―――

 

 

「あー楽しかった! 彩、碁会所って面白いんだね!」

「あはは、私はホント疲れたよ……」

「ね、また一緒に来ようよ。由梨さんもそう言ってくれてたし」

「まあその内、ね……」

 

 先程の衝撃が今だ抜け切らない私は、そんな中途半端な答えを返すのが精一杯で。世の中には触れてはいけない事もあるのだ。

 

「……ところでさ、何でそれ持ってるの?」

「あ、これ? 席亭さんにお願いしたらくれたんだ。帰ったら皆にも見せてあげないと!」

 

 久美子が大事そうに抱えているのは、まさに今日の騒動の元凶である週刊碁。……まあ見せるのは構わないけど、実はその写真あんまり気に入ってないから、出来れば程々にしていただきたいのですが。

 そうしてしばらく並んで歩いていた中、不意に久美子はその足を止めると、こちらに向かって小さく頭を下げた。

 

「ありがとね彩。私の為に一日付き合ってくれて」

「……うん、どういたしまして」

「私、もっと頑張るよ。大会で由梨さんに恥ずかしいところ見せたくないもん!」

 

 そう言ってもらえると私も頑張った甲斐があるというもの。何より、久美子がそんな風に思えるようになった背景には日高さんの存在が本当に大きかった。私も何だかんだ言いながら彼女への感謝は尽きないのだ。

 

「彩が持ってきてくれた碁盤って、この大会で手に入れたんでしょ?」

「……そうだけど?」

「まさかプロの先生に混じって優勝してたなんて思わなかったよ。……ね、彩ってもしかして結構すごい人なの?」

 

 そしてこういった質問には、事実がどうあれ謙遜して返すのが一般的なのかもしれない。……それでも私は久美子への最後の一押しとして、敢えてこう答えたのだ。

 

 

「うん、実は私ってすごいんだ。……だから久美子も自信持ってくれていいんだよ? 久美子に碁を教えてるのは、他でもない私なんだからねっ!」

 

「……ぷっ、普通そういう事自分で言うかな?」

 

 

 今日一日の充実っぷりをそのまま表した様な久美子の笑顔。やっぱり誘って良かったなという実感と共に、私もつられて笑みがこぼれてしまうのだった。


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