未来の本因坊   作:ノロchips

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19話に倉田視点を加筆しました。

4/17 20話に加筆修正を行い、小説を再公開しました。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。


第20話

「大丈夫ですよ。心配しなくてもお金なんか払ってませんって!」

 

 翌週、碁盤を持って部活に参加した私に対し、筒井さんはまずその出所を尋ねてきた。

 私の言った碁盤の『アテ』を、てっきり誰かのお古を貰えるものだと彼は想像していたらしいのだけれど、反して登場したそれは、折り畳みとはいえ新品の碁盤と碁石。

 宣言通りに、そして余りにも都合よく現れた碁盤を前に、下級生にお金を出させるのを躊躇っていた筒井さんとしては、私が自腹で碁盤を購入したのだと勘ぐってしまったのだろう。

 ……まあ厳密に言えば私がお金を払ってるには違いないのかもしれないけれど、それだって言ってしまえばあぶく銭、決して私の懐が痛んだ訳じゃないのだ。わざわざ余計なことを言う必要もない。

 

「ちょっとした大会があったんです。そこで運よく優勝出来たんで、まあその優勝賞品と言いますか……」

「大会って……院生はアマの大会には出場出来ないハズだろう?」

「普通はそうなんですけど、身内の小さな大会と言うか……例外みたいなのもあるんですよ」

 

 私としては『へー、すごいじゃん』 くらいで済ませてもらって一向に構わなかったのだけど、こうやって心配してくれるあたり、改めて先輩としての彼の人の良さを実感する。

 

「とにかく筒井さんが心配するようなことは何もありませんよ。……そんな事より早速部活を始めましょう。夏の大会まで時間が無いんですから」

「……そうだね。ありがとう星川さん。大切に使わせてもらうよ」

「はい。その言葉だけで十分です」

 

 

 何はともあれ筒井さんも無事納得してくれた様で、さて今日はどういった組み合わせで対局を行うのかな、なんて私が思案していた中、筒井さんがある提案を私に持ち掛けた。

 

「じゃあ二面打ちは基本的に星川さんにお願いしていいかな?」

「え、私ですか?」

「うん。棋力の底上げにはやっぱり強い人と打つのが一番良いと思うから」

 

 確かにこの中で一番強い私との対局こそが、最も効率の良い上達への道だろう。指導という点においてもかつてのプロとしての経験が大きく生かされるはず。私が二面打ちをするという事は、それだけ他の皆と私が打つ機会が増えるという事。自分で言うのも何だけど、筒井さんの提案は、皆の棋力向上に関しては実に理に叶ったものだと言える。

 

「わかりました。……でも、とりあえず、ですからね?」

 

 どこか含みのある言い方なのは、いずれ私は皆にも同じ事をしてもらいたいという意図があったから。

 もちろん多面打ちが閃きや勝負勘を養う大きな勉強になるというのもあるけれど……何よりも、単純に私だけがたくさん打つっていうのは少し気が引けたんだ。

 ここは院生やプロの世界とは違う。決して強さだけを追い求めるような場所じゃない。ここでは私だって皆と同じ一人の囲碁部員、だったら実力を持ち出しての特別扱いなんてしてほしくないし、するべきじゃないんだから。

 

 結局、数週間は私が二面打ちを担当し、それからは皆で担当を変えながら対局を行うという方針に決まる。……そうしていよいよ私たち葉瀬中囲碁部の活動が本格的に始まったのだった。

 

 

 ―――

 

 

 ―case1―

 

「あ、あれっ? 石を取ったのに取り返されちゃった!」

「これはウッテガエシって言って、こんな風に外ダメが詰まると起こりやすくなるから、あかりも久美子も覚えておいてね?」

 

 この数日間、碁盤が足りない期間も含めて、私は特に初心者である二人の指導を積極的に行ってきた。もちろん指導と言ってもいきなりあれこれ覚えさせる訳ではない。私が何よりも重きを置いていたのは、とにかく二人に囲碁を好きになってもらうこと。好きな様に打って、結果に一喜一憂して、囲碁の醍醐味である『自由さ』を体感してもらいたかったのだ。

 

 

「ウッテガエシかぁ……ふふ、何かカッコいいかも」

 

 まじまじと盤面を見つめながら何処か楽しそうに久美子が呟く。入部当初は緊張からかおどおどしていた彼女も、相棒であるあかりの明るさに引っ張られるように、次第に部にも馴染んできたようだった。

 

「……あかりも負けてられないね。ほんのちょっとだけど、あかりは久美子の先輩なんだから」

 

 そんな中、隣に座るあかりに私は声を掛ける。同じ時期に囲碁を始めた二人だからこそ、お互いに刺激し合って成長してほしい。

 そういった相手がいる事は何よりも素晴らしい事なんだから。

 

 ……それに久美子を元気付ける為とはいえ、「私が教えてあげる!」 なんて言ってたしね。

 

「う……確かに。私も頑張らないと」

「うん。それじゃ、次は二人で打ってみようか。もう二人とも最後まで打ち切れるはずだよ」

「よーし! 負けないよ、久美子!」

 

 ――囲碁が好きになってほしい。

 彼女達の姿を見ていると、そんな私の願いが多少なりとも実を結んでいる様に思えた。

 

 

「わ、私だって負けないよ! 私のウッテガエシが炸裂すればあかりなんか……」

 

 ……久美子、ウッテガエシ気に入っちゃったのかな? ……まあ確かに決まると気持ちいいけどね。

 

 

 

 ―case2―

 

「ちょっと待て! 何でオレが7子も置かなきゃならねーんだよ!」

「だ、だってそれが私とヒカルの今の手合いだし……」

 

 三谷くんとの初対局を迎え、ヒカルと同じかやや上の実力と見立てた彼に対し7子局を提案したところ……返ってきたのは見事なまでの反発だった。

 恐らく今まで自分よりも圧倒的に上手の相手と戦った事が無いか、あるいはかつてそうだった人達をごぼう抜きにして強くなってきた自信からなのか……そんな彼にとって、自分がいきなり7つも石を置くなんて受け入れられない事だったのだろう。

 

「ぐっ……だ、大体何で進藤と同じなんだよ! まだオレに勝ったことねーのに!」

「まだ、だろ! お前だってすぐに追い抜いてやるんだからな!」

 

 ヒカルも負けじと三谷くんに噛みつく。もしかしたら彼は私相手にどうこうって話ではなく、単にヒカルへの対抗心から同じ手合いを拒んでいるのかもしれない。

 碁打ちは総じて負けず嫌いばっかりだ。そしてそれは決して悪い感情じゃない。強くなるためには絶対に必要な気持ち。……そう言えば私もお父さん相手にそんなワガママを言っていた様な気がする。

 

「院生だか何だか知らねーけど、打ったこともない奴に7子なんて置けるか! 互先に決まってんだろ!」

「おいやめとけって。オレこの前4子で打ったけど、全然歯が立たなかったんだぜ?」

「それはお前だからだろ! ……ま、お前は置きたきゃ置いてもいいんじゃねーの?」

 

 口ではそんな風に言ってるけど、ヒカルが自分と変わらない実力だって事は彼も身をもって知っているはず。つまり私と打つ互先がどれだけ無謀かということも、内心では理解しているはずだ。……ここまで来たら、もはやただの意地なんだろうね。

 そして挑発する様な三谷くんの物言いに、それまで彼を宥めていたヒカルの表情が変わる。

 

「なにーっ! 上等だ、お前が互先ならオレだって互先だ!」

「ちょ、ちょっと、ヒカルまで何言い出すの!? 流石にそれは……」

「おい、始めるぞ星川!」

 

 売り言葉に買い言葉。私も二人に対して幾ばくかの抵抗を示したものの、すっかり盛り上がってしまった彼らは私の言葉なんて聞く耳も持ってくれない。

 

「もう……わかったよ」

 

 半ば諦め気味に対局を承諾し、ニギリを行う。結果は二人とも黒番。

 

「それじゃ、お願いします」

『お願いします!』

 

 声を揃えながら彼らが同時に放った第一手は、またもや仲良く右上スミ小目だった。

 

「真似すんな!」

「オマエこそ!」

 

 ……何だかんだ言いながら、この二人って凄く仲いいんじゃないかなぁ……

 

 

 

 ―case3―

 

「とりあえず筒井さんは……それしまっちゃいましょうか」

「えっ!? で、でもコレ開いてないと不安で……」

 

 文字通り肌身離さず持ち歩いていたのだろうか、相当に使い込まれた定石集。まるでそれが自分の心の支えだとでも言わんばかりに抵抗感を示す筒井さん。だけど、まずそこから離れる事が彼が強くなるための第一歩だ。

 

『定石を覚えて二目弱くなり』なんて格言がある様に、定石は覚えれば良いってものじゃない。使い所を理解していなければ、定石通りに打ったって形勢を損じる事もある。極論だけど、考える事を放棄して単純に真似をするくらいだったら覚えない方が良いとすら思う。

 まずは型に嵌まった、嵌まりすぎたその打ち方から脱却する事。もちろんそういった考え方が目算やヨセという素晴らしい武器を彼に与えたのかもしれないけれど、逆に言えば中盤までの展開にもっと強くなれば、彼の棋力は更に上がるはずなのだから。

 

「大事なのはどう打てば良くなるかを自分でしっかり考えることです。打ちたい手を打って、それで失敗したとしても、そこから得るものは必ずあります。……もうちょっと冒険しても良いんじゃないですか?」

「冒険……か。そうだね、ちょっと怖いけど挑戦してみようかな」

「はい、その方が絶対に楽しいですよ! じゃあ次は金子さんだけど……」

 

 筒井さんの言葉に私は笑顔で頷き、今度はもう一人の対局相手である金子さんに向き直る。そうして解説を始めようとしたその時……

 

 

「ふざけんな! どう見たってオレの方が勝負になってるじゃねーか!」

「何言ってんだ! 三谷なんてオレより5分も早く投了したくせに!」

 

 ……もう、まだやってるよ。

 

 耳をつんざくような大声が頭の隅に追いやっていた二人の存在を再認識させる。

 先程の二面打ちは当然ながら私の中押し勝ちという結果になり、そしてそこから始まったのは……聞いての通りの何とも低レベルな言い争い。私も最初こそ二人の仲裁に入ったけれど、収まる様子がない二人に付き合いきれず、結局そのまま放置して次の対局に向かってしまったという訳だった。

 

「全く本当に子供ね、あの二人は」

「……流石にそろそろ止めた方がいいのかなぁ?」

「別にいいんじゃない? ま、それだけお互い良いライバルって事なんでしょ」

 

 相も変わらずの落ち着き、大人っぷりを見せつける金子さん。二人の事を子供なんて言ってるけど、私に言わせればあなたこそ本当に子供なんですか、って話だ。

 

「こうなったら勝負で決めようぜ! 負けた方が帰りにラーメン奢りだからな!」

「言ったな! ぜってー奢らせてやる!」

 

 遂には賭けまで始めてしまった。……まあラーメンくらいならいいのかな。私もヒカルに持ちかけた前科がある手前、大きな事は言えないし。

 

「心配しなくても、お札を持ち出してやり取りする様な真似したら、アタシがひっぱたいてでもやめさせるわよ」

 

 ……あはは、三谷くん聞こえた? 気をつけないとね。

 

 もはや大人を通り越してお母さんのような貫禄。そんな彼女に頼もしさすら感じながら、改めて二人に目を向ける。

 

 ……でも、確かにこういうのって悪くないのかもね。金子さんの言う通り、きっと二人は良いライバルになれるよ。だって……

 

 

 ――だって、二人ともおんなじくらい大差で負けてるんだから。

 

 

 ―――

 

 

 その週の院生手合い。午後の相手は和谷だった。

 

「……負けました」

 

 和谷が投了を宣言する。盤面に描き出されたその碁の内容は……今までと変わりない、正統派の碁だった。

 塔矢くんには今後本気で打つと約束したものの、やはり誰彼構わずそうやって打つのは躊躇われる訳で、結局私は院生手合いにおいてはいつも通りの碁を打つ事にしたのだ。

 私は院生の皆にも塔矢くんと同様に、若獅子戦でのあの碁はプロに向けての研究中の棋風がツボに嵌まっただけと説明した。……まあ若干苦しい言い分なのは承知の上だけれど。

 

「やっぱりちょっと納得できねーよなぁ……」

「何が?」

「研究中の棋風ってのはわかったけどさ、だったら何で院生手合いで打たねーんだよ? 試すには絶好の場じゃねーか」

 

 やはり今一つ納得し切れないのか、終局後の盤面を睨み付けながら和谷は更に食い下がってくる。しかしある意味当然のその言い分も、私は両手を横に振りながら笑い飛ばした。

 

「あはは、無理無理。絶対使わないって」

「な、何でだよ?」

「見てたらわかるでしょ? あんな危なっかしい打ち方してたら、勝てるものも勝てなくなっちゃうよ」

 

 ちなみにこれは半分本当で半分嘘。あの棋風は自分の読みの限界まで踏み込んだ上で戦い抜く碁。当然少なくないリスクを伴う打ち回しになり、勇み足となって自滅することも決して珍しくない。もちろん院生手合いならばそうそう星を落としたりはしないだろうけど、いずれにせよそういった相手と戦うならば、正統派の打ち方をするのと比べてどちらが勝率が高いかなんて言うまでもないだろう。

 

「私はね、院生で一番になる事がプロ試験を受けさせてもらう条件なんだ。……だから負けられないの。少なくともあの碁が完成するまでは、頼まれてもあんな打ち方はしないよ」

 

 多少脚色しているとは言え、結局私は勝つ為の最善の方法を取っていたのだ。何より全てはプロになるために、プロで戦っていくために。真剣な面持ちでそう口にする私に、結局もうそれ以上の追及が来る事は無かった。

 

 ……額面通りに受け取って貰えたかどうかは怪しいけど……うん、まあこんな所かな。

 

 和谷に気付かれない様に胸を撫で下ろし、ホッと一息つく。

 ……だけどあの碁がもたらした弊害はこれで終わりじゃなかった。実は一番やっかいな問題が、まだ残っていたわけで。

 

 

 

「……で、これが奈瀬さんの今日の碁?」

 

 ため息混じりに盤面に目を向ける。今日の奈瀬さんの対戦相手は二局とも1組下位の子。もちろん絶対とは言わないけれど、決して今の彼女が遅れを取るような相手ではないはずだ。

 

「あはは、流石にちょっとやり過ぎちゃったかなー……なんて」

 

 そんな子達に対しての奈瀬さんの碁は、今までの彼女からは想像もつかない程に何処までも攻撃的で。……その末に、ものの見事にツブれていたのだった。

 

 ……ああ、これはもしかしなくても、そういう事だよね……

 

 明らかに碁が崩れている。本来なら自重するべき時に、今までの奈瀬さんならきちんとそうしていた局面で、まるでブレーキが壊れた車の様に突っ込んで。……原因なんて考えるまでもなかった。

 

「……奈瀬さん、私言ったよねぇ? 参考にしちゃダメだって」

「な、何の事かしら?」

「とぼけたってダメだよ! これ完全にあの時の私の碁じゃん!」

 

 あくまでシラを切る奈瀬さんに対して、思わず声を荒げてしまう。……正直一番恐れていた事態だった。

 

 別にこの碁を勉強する事が悪いと言っている訳じゃない。戦いに強くなるのは良いことだし、その結果負けてしまってもそれもまた勉強だ。……ただ、それをするには余りにも時期が悪すぎるんだ。

 棋風を変えるという事は、今までの固定観念を少なからず壊すという事。個人差はあれど、誰しも必ず結果が伴わない期間が訪れるもの。

 奈瀬さんにそれをさせるわけにはいかなかった。只でさえこの碁は今の彼女には荷が重いというのに、この時期に棋風を変えるなんて自殺行為以外の何物でもない。

 ……プロ試験は、もう目の前に迫っているのだから!

 

「もう……一体どうしちゃったの? 奈瀬さんの碁はプロにだって通用したんだよ。忘れちゃったの?」

 

 私自身、奈瀬さんが私の碁を目標にしてくれている事は薄々感付いていた。だからこそ私は最も明快な強さを、基本を重んじた碁を彼女に見せ続けてきたんだ。そしてその結果、彼女は若獅子戦でプロから一本取るまでに成長した。このまま行けば、プロ試験合格だって決して夢じゃないのに……!

 

 

「だって……しょうがないじゃない……」

 

 いつの間にか顔を伏せ、柄にもなくシュンとしていた奈瀬さんがぽつりと言葉を溢す。

 

「あの時のアンタが、アンタの碁が……凄くカッコよかったんだもん」

「っ……!」

「私もあんな風に、打てたらって……」

 

 目を潤ませながら上目遣いでこちらを見つめる彼女の姿に、不覚にも心が揺れてしまった。

 

 ……ず、ずるい。それはずるいよ奈瀬さん……!

 

 そんな事を言われて嬉しくないはずがない。加えて余りにも儚いその表情、その仕草。まるで私が悪いことをしてしまったかのような気持ちにさえなってしまう。先程まで毅然とした態度を示していた私の心に、静かにヒビが入っていくのを感じた。

 

 ……そこまで言うんだったらちょっとくらい教えてあげてもいいかな、なんて…………はっ! ダ、ダメだ! 今からじゃ間に合わない可能性の方がずっと高い! ……揺れるな私! これは奈瀬さんの為なんだ!

 

「そ、そう言ってくれるのはうれしいけどさ……もうプロ試験まで3ヶ月切ってるんだから、ね?」

 

 脳内で激しい葛藤を繰り返しながらも辛うじて誘惑を振り切り、心を鬼にして彼女を思い止まらせようと決意する。……そんな私に、トドメと言わんばかりに奈瀬さんから爆弾が投下された。

 

 

「棋風を変えるような時期じゃないってことくらい私だってわかってるよ。……でも、どうしてもあの碁が頭から離れないの。あの時の彩の姿が……忘れられないの!」

 

 

 今までの人生で幾度となく男の人から受けた告白、その全てが陳腐に思えるほどに熱く、まるでプロポーズの様なその言葉。

 

 ……む、無理だ。こんな子の想いを踏みにじるなんて、私には……

 

「……でも、アンタに教えを請うなんてお門違いよね。彩だってプロ試験のライバルを強くするなんて事……」

「……えるよ」

「えっ……?」

「もう、教えるよ! 教えるからそんな事言わないで!」

 

 私の決意が崩れ去っていく音が聞こえた。

 

 

 ―――

 

 

「で、何をすればいいの? 早く早く!」

 

 先程とは打って変わって、それはもう嬉しそうに奈瀬さんは催促を繰り返す。……一方の私はその豹変ぶりにため息を溢さずにはいられなかった。

 

 ……教えるって言ったとたんアレだもんなぁ……

 

 私の承諾を得た瞬間、言質取ったりと言わんばかりに彼女は目を輝かせながら顔を上げる。それまで漂わせていた悲壮感、涙、それら全てが一瞬にして彼女の表情からは消え去っていた。詰まる所私は、10歳年下の少女の演技に踊らされていたのだ。

 ……一体さっきの告白は何だったのか。私のトキメキを返してほしい。

 

「もう、そんな顔しないの! 彩の碁に惚れ込んじゃったのは本当なんだからさ!」

「……ハイハイ、ありがとありがと」

「ほ、ほら。今度向かいの喫茶店でケーキおごるから機嫌直してよ!」

「……2個ね」

「うっ……分かったわよ」

 

 何とか奈瀬さんに一矢を報いた所で、私は改めて思考を今後に傾ける。それはもちろん何のケーキをおごってもらうかではなく、彼女にあの碁を教える方針についてだ。

 

 騙されていたのはちょっと癪だけれど、そんな打算とは裏腹に実のところ彼女は相当焦っていたんじゃないかと思う。

 目の前で見た私の碁を真似しようと試みるものの、今日の対局が示す様に結果は余りにも惨憺たるもので。憧れに追い付かない自分の不甲斐なさに歯噛みする中、もう頼れるのは当の本人である私だけ。

 

 ……まあ、しょうがないのかな。一度感銘を受けた碁を忘れろって言うのも、よく考えたら酷な話だし。

 

 自分の打ちたい碁を打たずに我慢する、それは碁打ちにとって何よりも辛いことだ。私が断ったところできっと彼女は同じ様に打ち続けるんだろう。そんな事になったらもうプロ試験どころの話じゃなくなる。……こうなってしまった以上、最後まで責任をとるのがあの碁を見せた私の役目なのかもしれない。

 

「……じゃあ最初に約束して欲しいんだけど、これまで通りの基礎の勉強は欠かさずに続けること。これは絶対だよ?」

 

 念を押すように前置きする。これが一番大切な事。攻撃的で時には常識はずれに見えるあの碁も……と言うよりも全ての碁は基礎から成り立っているのだ。目先の鮮やかさに目を奪われる余り、それを疎かにしては絶対に強くなんてなれない。棋風以前の話だ。

 

「うん、約束する。……それで、肝心のあの碁を身に付けるにはどうすればいいの?」

 

 私の言葉に頷きながらも、待ちきれないといった様子で奈瀬さんは核心に迫ってくる。

 

 本来ならばしっかりと時間を掛けて教えたい所だ。だけど今はその時間がない。プロ試験まで3ヶ月、少なくともその間に何とか形にしなければいけないのだから。

 だったら方法は1つ。時間の許す限り私と打って、あの碁に触れ続けて、彼女自身がその本質を掴むしかないんだ。

 その為には週一回の院生手合いの日だけではどうしても足りない。出来ることなら毎日でも私と打って欲しいくらいなんだけど、実際に会ってそれをするには余りにも私達の生活圏が離れすぎている。

 ……奇しくもヒカルの時と同じ悩み、だけど今回は他に選択肢が無い。こればっかりは運を天に任せるしかなかった。

 

 

「奈瀬さんって……パソコン持ってたりする?」

 

 

 ―――

 

 

「ただいまー」

「お、帰ってきたか! 彩、お前凄いじゃないか!」

 

 部活を終えて帰宅すると、ドタドタと慌ただしい足音を立てながらお父さんが玄関先にやって来た。

 

「え、何が?」

「ほら見ろよ。丸々一面お前が乗ってるぞ!」

 

 そう言ってお父さんが広げた新聞雑誌――週刊碁には、トロフィーを抱えながら直立する私の姿が写っていた。

 

 ……あー、これの為だったんだ。

 

 紙面に目を通せば、あの時何故聞かれたのかと疑問に思っていた一問一答が事細かに書かれている。……それにしても丸々一面とは随分奮発してくれたものだ。

 ちなみに掲載されていた棋譜は準決勝の倉田先生とのもの。……まあ載せるんだったら普通は決勝の棋譜だけど、流石にアレは相手の人に申し訳ないからなんだろう。

 

「いやー俺も鼻が高いよ。娘が倉田に勝ったんだからな! いつの間にそこまで強くなったんだよ!」

「あはは……まあたまたまだよ。うん」

「見ろよここ! 緒方もお前に目を懸けてるそうじゃないか!」

 

 ……変わってないなぁ、お父さんも。

 

 昔からお父さんはプロ棋士に対してミーハー気質な部分があった。やれ誰がリーグ入りしただの、誰が挑戦者になっただの、その情報量は正直プロである私よりも上だったんじゃないかと思うほど。私が有名な棋士に勝った日なんかには、それはもう小躍りしながら喜んでくれたものだ。

 そしてそれはご丁寧にもこの世界仕様の知識に刷り変わった上で、しっかり受け継がれていた様だった。

 

「おい母さん、倉田だぞ! あの倉田に彩が勝ったんだ!」

「あの倉田って……どの倉田さんよ。私がわかる訳ないでしょ。……そんなに凄い人なの?」

「凄いも何も若手のホープだぞ! タイトルだって何時獲ってもおかしくないんだ!」

「ふーん……」

 

 反して囲碁に疎いお母さんは、どうにもお父さんの喜びっぷりをイマイチ理解していない様で。

 

「じゃあ……彩も凄いのね!」

 

 それでも私に目を向けると、浮かれるお父さんを尻目にそう一言笑いかけてくれる。

 

 

 世界が変わっても変わらないこの光景に微笑ましさを感じながら、改めてテーブルに広げられた私の写真に目を向ける。

 

 ……何か、あんまり可愛くないなぁ。

 

 撮影にはそれなりに慣れたはずなのだけれど……柄にもなく緊張したのか、対局後の疲労感も合わさって、何処か引きつった表情の自分に私は苦笑いを浮かべてしまうのだった。




ウッテガエシ:岡村くんの必殺技。決まると楽しい。決められると悲しい。 

※なお本作にGL要素は皆無です。

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