未来の本因坊   作:ノロchips

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第19話

「緒方さん、急いで下さい! 早くしないと対局が……」

 

 棋院に到着し、掲示板に示された若獅子戦の会場を確認する。時刻は既に午後2時を回っていた。

 

「やれやれ……わざわざ学校まで迎えに行ってやったと言うのに、随分な扱いだな」

 

 一目散に駆け出したボクに一足遅れて、溜め息混じりの緒方さんが追い付いてくる。自分勝手な言い分は重々承知、それでも今は一刻を争う状況なのだ。

 

 本来ならば午前に行われている3回戦から見に行くつもりだった。しかし不運な事に今日も学校があり、ボクの必死の懇願も虚しく両親から欠席の許可は下りなかった。土曜日故の半日授業であった事が不幸中の幸いだろうか。

 当然授業など耳に入るはずもなく頭の中は大会の事で一杯だった。そして学校が終わるや否や、予め迎えをお願いしていた緒方さんの車に乗り込み、ようやくこの場に辿り着いたという訳だ。

 

 

「いいか? 一応話は通してあるが、本来なら部外者が入れる場所じゃないんだ。くれぐれも気を付けるんだぞ」

「はい、わかっています」

 

 会場の扉の前で念を押すように緒方さんがそう口にする。もちろんボクとてここまで自分の為にお膳立てしてくれた彼の顔を潰す気など毛頭ない。目立たない様に会場に入り、後は素知らぬ顔で院生の中にでも紛れ込んでしまえば、少なくとも対局中に何かを言われる事もないハズだ。

 

 意気込んで扉を開けたボクの耳に飛び込んできたのは、静まり返る会場内に高く響く石音。一部の大会関係者や編集部の人達を除き、多くの人達が2つの対局席を囲んでいる事から、今まさに準決勝が行われている事を察する。そしてその席の1つに彼女、星川さんの姿を遠目ながらも確認したボクは、彼女が勝ち残っている事に安堵しながらも、直ぐ様その場に駆け寄っていった。

 

 ……良かった、まだ始まったばかりみたいだ。

 

 盤面の進行具合はまだ数手程。とりあえずここまでは特に目立った動きは無い。

 対局中という事もあり、幸い自分の存在が目立っている様子もない。予定通り院生と思われる子供達の中に紛れ込み、改めて星川さんに目を向ける。……そしてその瞬間、ボクは全身を駆け巡る寒気にも似た感覚に襲われた。

 

 ……いつもと雰囲気が違う。何て集中力だ。意識が完全に盤面だけに向けられている。

 

 まるで彼女の席だけ、空間だけが周囲から隔絶されている様な。鳥肌が立つ程に美しく、研ぎ澄まされたその姿に思わず息を呑み、そして同時に確信する。

 遂にボクは、彼女の全力をこの目に焼き付ける事が出来るのだと。

 

 

 ―――

 

 

 ――私は特別な事なんかしてないよ。全部教科書に書いてある様な手、誰にだって打てる。……だからね、奈瀬さんにも私と同じ事が絶対出来る筈だよ。

 

 

 いつだったか彩がそんな事を言っていたのを思い出す。まさにその言葉を体現するかの様に、彩はいつだって明確な好手を繰り出していた。素直で真っ直ぐで、決して難解な手を打っている訳じゃないのに、きちんと考えれば私にだって思い付きそうな手なのに、その繰り返しで気が付けばリードを奪っている。自分から突き放しているのではなく、相手がミスをした分だけその差が広がっていくんだ。

 それはまるで基本の大切さを相手に語りかけるかの様な碁。それこそがこの3ヶ月間ついに院生の誰にも負ける事の無かった、私がずっと目標にしてきた彩の強さだった。

 ……だけど、今目の前で繰り広げられている囲碁は、私の知るそれとは全くの別物だった。この碁を打っているのが彩なのか、本気で疑ってしまう程に。

 

 あれ程基本に忠実だった彩が、形振り構わず相手の石に襲いかかっている。自分だってウスイのに、形だって悪いのに、お構い無しに断点を突いて、強引に戦いに持ち込んでいる。少なくとも今までの彩は、こんな形で一局を作るような事は絶対にしなかったはずなのに。

 盤上に広がる激しい戦い、言うまでもなくこの状況を作り出したのは彩本人だ。ギリギリまで踏み込んだ……むしろ深入りし過ぎ、悪手とすら思える好戦的な手の数々。当然倉田先生は反発する。こんな手を成立させてなるものかと。戦いの碁になるのは必然だった。

 正直言ってらしくない、無謀だと思っていた。院生ならまだしもプロを相手に、倉田先生を相手にこんな碁が通用する筈がないと。実際、形勢は白が良いように見える。はっきり黒のやり過ぎ、勇み足のように感じた。

 何より、私が今まで目標にしてきた彩の碁は決してこんな無鉄砲なものじゃなかったから。倉田先生を相手に舞い上がってしまったのか、それとも正攻法では敵わないと踏んでのヤケクソか。どちらにしろ彩らしくない、それが私の見解だった。

 

 それでも、私はどうしても納得出来なかった。いくら彩が強くても流石に分が悪い一局だってことは十分わかってる。こんな期待を懸けるのが無責任な話だってのも承知の上だ。……だけど私には、彩がこのまま為す統べなく負けるなんて、どうしても信じられなかったんだ。

 

 ……きっと何かあるはず。これは只の荒れた碁なんかじゃない。……だって打ってるのは、他ならぬ彩なんだから……!

 

 藁にもすがるような、そんな想いを抱えながらも戦いは進み、やがて終局が近づいていく。

 ――果たしてそこには、恐らくこの場にいる全ての人達の想像を裏切ったであろう光景が広がっていた。

 

 

 

 ……飲み込まれてしまったと思っていたあの時のサガリが、白の目を奪ってる。それだけじゃない、部分的に損な隅のワカレも、まさか全部この時の為だったって言うの……?

 

 悪手だとすら思えた数々の手、それらの意味がようやく氷解した。白の前に明確な意思を持って立ち塞がる黒石、全ては中央での戦いに備えてのもの。まるでパズルの答え合わせを見ているかのようだった。

 一体いつから? 彩にはいつからこの絵が見えていたのだろうか。仮にこの展開全てを彩が読み切っていたとしたら……そう考えるだけで鳥肌が立つ。

 

 対局中にも関わらず俄に周囲がざわめき始めた。院生がトッププロを倒そうとしている、その光景が信じられないと言わんばかりに。

 

「嘘だろ……形勢が、ひっくり返った?」

「倉田の手に悪手らしきものは無かったよな? 偶然とは言え、このままだと……」

 

 違う。偶然なんかじゃない。思い返せば対局前に彩が私に微笑むその表情、それは決して投げやりになっている人間のものじゃなかったから。この碁こそが彩の本質……間違いなくこの碁は、彩の信念の基に打たれていたのだ。

 

 そして、自分よりも年下の子が打つ、おおよそ自分の理解を遥かに上回る一局を前に、いつしか私の中にある感情が芽生え始めていた。

 リスクを恐れずにギリギリまで踏み込む勇気。複雑極まりない戦いの裏に隠された、底が見えない程に深い読み筋。

 胸が高鳴る、目が離せない……!

 それは今の私の目指す碁とは全く違うのに。ううん、今の私なんかじゃ到底辿り着けない領域だからこそ、とても眩しくて、力強くて……美しかったから。

 

 

「カッコいい……」

 

 

 光り輝く指先から、黒石が力強く盤面に放たれる。白の息の根を止める一手。

 まるで私の呟きを掻き消すかのように、そしてこの対局の終焉を見る者全てに知らしめるかのように……一層甲高い石音が、会場に響いた。

 

 

 ―――

 

 

「……ありません」

 

 盤面に吸い込まれていた意識が次第に景色を取り戻していく。目の前には頭を下げる倉田先生の姿があった。

 

「……ありがとうございましたっ」

 

 私もまた深々と頭を下げ、この一局を共にした彼に最大級の敬意を込めて感謝の言葉を返す。

 

 ……キツかったな。すごい戦いになっちゃった。はは、人の事言えないや。

 

 私の頭の中には先日のヒカルと三谷くんの対局が浮かんでいた。もちろん今回はそれとは比べ物にならない程に深い読み合いがあったのだけれど……本質的には大差無い、はっきり言って意地の張り合いだった。

 私も倉田先生も最後まで妥協しなかった結果がこの碁。白の大石を仕留める形での中押し、しかし内容は正に紙一重、僅かの差で私が読み勝ったに過ぎないのだ。

 未来の高段棋士達とも全く遜色ない手応え、噂通りの実力者だった。そしてそんな人に勝ち切れた自分が今、本当に誇らしかった。

 

 ……勝ったよみんな。私、ちょっとはカッコよかったかな……なんてね。

 

 止めどなく込み上げてくる満足感と、ちょっとした優越感に浸りながら、私はそのまま後ろへ振り返る。

 

 

「…………へ?」

 

 その瞬間、何とも間抜けな声と共に、私の視線はある人物に注視された。何故か顔を赤らめている奈瀬さんではなく……その隣にいる少年。対局前までは間違いなくそこに居なかった、何より元々この場にいる筈がない人。

 

「塔矢……くん?」

「美しい碁だったよ。……父との一局にも負けないくらい」

 

 とても良い笑顔を浮かべながら私の対局を称えるその言葉。予想もしていなかったこの状況、そして全てを出し切った直後の疲弊した思考回路。そんな中で私が唯一出来たのは……

 

「え、と……ありがとう?」

 

 何ともありきたりな言葉を返す事だけだった。

 

 

 

 決勝を前に、会場はちょっとした騒ぎになっていた。

 

「塔矢って……アイツまさか……」

「……塔矢アキラ!?」

 

「あのバカ……」

 

 私が口走ってしまった塔矢くんの名前、そして彼に集まる会場中の視線。囲碁界最強棋士を父に持つが故の宿命か、顔は割れていなくてもその名前はプロアマ問わず浸透している様だった。

 恐らくはこの場に居るのも緒方先生の口添えありきなんだろうけど、流石にここまで大っぴらに部外者である事がバレてしまっては、主催者側としても見過ごす訳にはいかなかったのだろう。

 果たして塔矢くんは強制退室させられる羽目になり、緒方先生もまた頭を押さえながらそんな彼と共に会場を後にする。不可抗力とはいえ、自分の発言からこのような事態を招いてしまったのだろうかと、私は若干の罪悪感を抱えたまま決勝戦を迎える事になってしまった。

 

 ……しかし、幸いそんな感情が対局に影響を及ぼす事はなかった。相手には申し訳ないけれど、はっきり言って決勝戦はほぼ消化試合……それは私の棋力がどうこうという問題ではなく、向こうが勝手に崩れてしまったのだ。

 

 対戦相手は三段の男性棋士。会場中の視線が集まる決勝の場、そして相手は倉田先生を破って勝ち上がって来た院生。そんな状況に萎縮したのか、はたまたプロ棋士最後の砦として、院生に優勝をかっさらわれてたまるかと意気込み過ぎたのか……プロはおろか院生ですら打たれたその瞬間にわかる程の、信じられない大失着を彼は序盤で犯してしまったのだ。

 もはや誰の目から見ても形勢は一目瞭然。彼も挽回しようと必死の抵抗を見せたものの、それすらも悪戯に傷口を広げるばかり。結局100手にも満たない手数での中押し勝ちを収めた私は、晴れて若獅子戦優勝者の称号を手にする事となった。

 

 大変なのはその後。表彰式を終え、さっさと碁盤を買って帰ろうと目論んでいた私だったけれど、そんな事は許されるハズがなかった。

 

「星川くん、この後少しいいかい? いやー、大ニュースだよ! 何たって院生が倉田くんに勝ってしまったんだから!」

 

 院生初の優勝という前代未聞の快挙――仮にそれが一般知名度の低い若獅子戦であったとしても、そんなニュースを編集部の人達が見逃すはずがなかったのだ。

 例年ならば優勝者名と一言二言のコメントが週刊碁の片隅に載る程度らしいのに、何故か私は写真撮影に始まり、挙げ句の果てには大会とは全く関係ない個人経歴まで質問される始末。

 ……囲碁歴や尊敬する棋士ならばともかく、好きな食べ物や得意科目なんか聞いてどうしようと言うのだろうか。

 

 そんなこんなで解放された時には既に6時半。他の院生はとっくに解散したというのに、私だけはこんな時間まで引っ張り回される羽目になり、窓の外を見ればもう日はすっかり落ち切ってしまっていた。

 

 ……つ、疲れた。碁盤は……もう明日でいいや。

 

 正直言って今から何処かに寄り道をする気にもなれず、潔く直帰を心に決める。そうして1階の入り口まで辿り着いた私の目に、一人の少年の姿が映った。

 

 

「お疲れ様。優勝、おめでとう」

「……うん、ありがとう」

 

 彼は足早にこちらに駆け寄ると、改めて私の優勝を称えてくれる。

 

「その、さっきはごめん。騒ぎにしちゃって」

「……あはは、まあ確かに驚いたけどね。来るんだったら言ってくれればよかったのに」

「昨日緒方さんに無理矢理お願いしたんだ。どうしてもキミの碁が見たかったから」

「私の碁? やだなあ、もう何回も打ってる……」

 

「キミの本当の碁を……見たかったんだ」

 

 私の言葉を遮るように、真剣な表情で塔矢くんはそう口にした。

 

 

 ―――

 

 

 ……やっぱりバレてるか。まあ遅かれ早かれ来る事だったんだけどね。

 

 何とも言えない気まずさが襲ってくる。もちろんその原因は、私が彼にこの碁を見せていなかった事。……私が彼に全力を出していなかった事だ。

 我ながら傲慢な話だと思う。次は全力で、なんて言っておきながら自分は本気を出していなかったのだから。……それでも私には、そう出来なかった理由があったのだ。

 

 相手を力でもってねじ伏せるあの碁。それは否応なしに自分との実力差を相手に突きつける事を意味している。同程度の棋力を持つプロならばいざ知らず、アマの子供にそんな事をすれば、相手の自信を根こそぎ奪う事に繋がりかねないのだ。

 この世界で生きていく以上、強い人が上に行く事なんて誰もが覚悟の上だろう。それでもかつて一角のプロだった私の矜持が、プライドが……アマチュアの子供相手にそれをする事をどうしても許さなかった。本来ならば私は彼らと同じ土俵で戦う人間ではない。私のせいで彼らが自信を無くす必要なんてないのだから。

 

 もちろん塔矢先生との対局という事実が残っている以上、いつそれが塔矢くんにバレてもおかしくはなかった。

 けれど、幸い彼がそれを知っている様子はなく……まあ個人的にもあの一局は悔いが残る戦いで、少なくとも進んで人に見せるような代物ではなかったので、問題を先延ばしにしているだけと知りつつも、今の今まで私はその事には触れずにいたのだ。

 

「キミと父の碁、昨日見せてもらったよ。そして今日倉田さんと打った一局……これこそがキミの本当の碁だったんだろう?」

 

 まあそんな事情をバカ正直に言うわけにも行かず。……申し訳ないけれど、気休めながらちょっとした嘘を付かせて貰うことにした。

 

「えっと、あの碁はね……私がプロでの戦いに向けて研究してた棋風なんだ」

「プロでの……戦い?」

「うん。私もこのままじゃプロにはなれても上で戦っていくのはキツイかなって思ってたからね。……塔矢先生もそうだけど、倉田先生相手にまともにぶつかったら流石に分が悪いし、思い切って使ってみたらさ……はは、運良く勝てちゃった」

 

 私自身、プロになれば否応にでもこの碁を使わざるを得なくなるし、だからこそプロになると同時にこの碁を解禁する意味合いも込めて、こういった言い回しをする事にしたのだ。

 

「その……ごめんね? 今まで黙ってて」

「いいんだ。……それにボクだって、それを望む資格なんて無かったんだから」

「……え?」

 

 何処か自嘲気味に塔矢くんは言葉を続ける。

 

「父との一局を見せられた時、今までのキミとは全く違う打ち筋にも関わらず、その碁の中にボクはキミを見た。……多分とっくの昔に気付いていたハズなのに、気付かないフリをしていたんだと思う」

「塔矢くん……」

「キミが手の届かない存在であると認めるのが怖かった。……星川さんの様な人に出会えて本当に嬉しかったハズなのに、心の何処かでボクはキミを恐れていたんだ。そんなボクが、キミの全力を望むなんておこがましい話だろう?」

「そ、そんなこと……!」

 

 ずきん、と胸に痛みが走った。彼の後悔の念が、そしてそんな風にさせてしまった自分に堪らなく嫌気が差して。

 塔矢くんの表情を直視する事が出来ず、無意識に視線が下がる。……情けない。彼にそんな顔をさせてしまったのは、他でもない私自身だというのに。

 

 

「でもね」

 

 そんな私に、今までの何処か悲痛なそれとは違った……確かな意思を込めた声が向けられる。

 

「今日改めて星川さんの碁を見て、キミに伝えたあの言葉は紛れもないボクの本心だよ。本当に美しい碁だった。恐れとか不安とか、そんな事を考えていた自分が恥ずかしくなるくらいにね」

 

 その言葉に自然と顔が上がっていく。塔矢くんは対局直後と全く同じ、本当に優しい表情をしていた。

 

「キミを越えなければ父にも、そして神の一手にもきっと届かないんだろう。……それでもボクの想いは変わらないよ。もうボクは絶対にキミから逃げたりはしない。いつか絶対に、キミの全力に応えられるくらい強くなって見せるから」

 

 真っ直ぐに私を見つめながら、塔矢くんは力強く言葉を紡いでいく。

 

 

「ボクはキミのライバルだと……いつか絶対にそう言って見せるよ……!」

 

 

 胸が詰まる。彼の何処までも真剣な想いが、本当に嬉しかったから。

 

 ……強いなぁ。ホント、敵わないよ。

 

 導く――その言葉の意味を私は履き違えていたのかもしれない。それは決して後ろを振り返りながら手を引く事なんかじゃなかったんだ。そんな事をしなくたって、彼らはきっと追い付いて来てくれるハズなんだから。

 見損なっていた自分が情けないよ。私が思っているよりもずっとこの子達は強かった。後ろなんか振り返ってたら、あっという間に追い抜かれちゃうよね。

 

「……それで、厚かましいようだけどキミにお願いがあるんだ」

 

 そんな中、何処か恥ずかしそうに塔矢くんは私に話しかける。

 

「どうしたの?」

「今からボクと打ってくれないかい? キミの本当の碁で。……父との一局を見せられてから、その……待ち切れないと言うか……」

「……ふふっ」

 

 それまでの大人びた様子とは打って変わった、年相応の素直な要求に思わず笑いが零れてしまう。

 私としても、もちろん今までのお詫びも兼ねて対局する事は吝かじゃないのだけど……

 

「いいよ、って言いたい所なんだけどさ……もう7時過ぎてるし、あんまり遅くなるとお母さんに怒られちゃうから……ゴメン! また今度にしよう?」

「そ、そうだよね。こっちこそ無理言ってごめん……」

 

 表面上は納得して引き下がった様に見えても、滲み出る落胆の想いは隠せていない。何だか申し訳ない気分になり、私は思い付いた様に代替案を提示する。

 

「じゃあさ、明日碁会所に行くから、そこで打とうよ。ね?」

「いいのかい!? わかった、絶対に待ってるから!」

「う……うん。それじゃまた明日ね」

 

 勢い良く詰め寄る塔矢くんに若干気圧されながらも、私もまた明日の対局を心待ちにし、彼に手を振りながら棋院の入り口に向かって歩き出したのだった。

 

 

 

「あれ、そう言えば緒方先生は? てっきり一緒だと思ってたんだけど」

 

「あ、いや……緒方さんは……」

 

 

 ―――

 

 

「この度は大変ご迷惑を……」

「まあまあ……済んだことですから」

 

 ……クソッ、何で俺がこんな事を。あれ程騒ぎにするなと釘を刺しておいたのにアイツは……

 

 事前に許可を取っておいたとはいえ、自分の連れが多少なりとも大会の進行を妨げてしまった以上、責任を取るのが筋というもの。あれから俺は関係者各方面を回り、現在編集部の天野さん、そして院生師範の篠田先生に頭を下げていた。

 

「まあどちらにせよ騒ぎにはならざるを得なかったでしょうしね」

「そう言っていただけると……」

 

 興奮気味にそう口にする天野さんに感謝の言葉を告げ、一先ず顔を上げる。

 

「それにしても緒方先生や塔矢くんまでもが注目していた子だったとは。篠田先生も驚いたんじゃないですか?」

「え、ええ。確かに彼女はまだ底を見せていない感がありましたが……これ程のものとは流石に思っていませんでしたね」

 

 ……底を見せていない、か。

 

 まァ確かにあんな碁を日常的に打ってたら嫌でも騒ぎになる。少なくとも院生レベルでは勝負にすらならない。そうしていなかったのは、恐らくは彼女なりの配慮なのだろう。

 

「いやー、俄然プロ試験が楽しみになってきましたよ! 今年は塔矢くんも出てくるんでしょう?」

「……ええ。本人も気合いが入っているようですし」

「星川くんに塔矢くんか。うんうん、未来を思うと胸が踊りますねぇ。いずれそういった子達が日本を代表する棋士になり、世界で戦って行くんですからね!」

 

 

 天野さんは単純に中韓に押されている日本の現状を憂い、有望な若手の登場を喜んでいるだけなのだろう。

 だがプロ棋士である俺、そして篠田先生は、恐らくその言葉から全く違う想像に至ったはずだ。

 塔矢先生との対局だけでは判断出来なかったが、今日の倉田との一戦で俺は自分なりに一つの答えに辿り着いていた。……俺自身、奴らには何度も辛酸を舐めさせられてきているからな。

 

 

「世界……か」

 

 

 ―――

 

 

「よう倉田、さっきは残念だったな」

 

 ……コイツ、誰だっけ?

 

 後ろを振り返り、自分の名前を呼ぶ声の主を見て単純に浮かんできた疑問がそれだった。

 多分コイツが言ってるのはさっきの若獅子戦の事、恐らくコイツも出場していたプロの一人なんだろうけど、ハッキリ言って全く見覚えがない。

 まあオレは大した事ないヤツの顔まで覚える程物好きじゃないし……つまりはそういう事なんだろう。

 

「お前らしくないじゃねーか。あんな勝ち碁を落とすなんて」

「……勝ち碁?」

「だって途中まで完全に勝ってただろ? 院生相手に気でも緩んじまったのか?」

 

 ……本当にコイツプロか? 一体何を見てたらそんな訳のわからない結論になるんだか。もしかしてオレの事バカにしてんの?

 もはや怒りを通り越して呆れるしかなかった。

 

「ハァ……」

 

 正直付き合いきれない。ため息を一つ残し、オレはそいつに背を向けて歩き出した。

 

 

 入段以来オレは師匠にずっと言われ続けてきた言葉がある。もちろんそれは常に肝に銘じていたけれど、オレ自身まだまだ上を目指す段階で、自分がその立場になるのはまだ先の話だと思っていた。だけど……

 

「スゲェのが来てたんだな……オレのすぐ後ろに」

 

 オレを脅かしに来るのは間違いなくアイツだ。下手したら、来年にもオレのいる場所にまで駆け上がってくるのかもしれない。

 アイツには間違いなくそれだけの力がある。あの一局がマグレなんかじゃない事は、オレが身に染みてわかってるんだ。

 師匠の言ってた通りだった。……本当にコワイ奴は、下から来るんだ。

 

 ……ま、それも悪くないかもな。同期にはオレと戦える相手なんていなかったし、今日は負けちまったけど近い内に間違いなく再戦の時は来る。……次に勝つのは、絶対にオレだ!

 

 

「お、おい倉田!」

 

 決意を新たにするオレに水を差すように、後ろではさっきのヤツがまだ何か言っている。

 ウルサイなぁ。全く何が勝ち碁だよ。そりゃ戦い自体はギリギリの勝負だったかもしれないけどさ。

 

 ……結局あの碁の主導権を握ってたのは最初から最後まで黒。白が良くなった瞬間なんて、一度たりとも無かったんだよ。

 

 

 

 




確かこの当時は完全週休二日じゃなかったような気がします。

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