未来の本因坊   作:ノロchips

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第16話

「そんな事言われてもねぇ。詰碁だってただ単に解けそうだからやってみただけだし。……それ以前にアタシ、バレー部に入ろうと思ってたんだけど」

 

 冷静に考えれば初心者向けとはいえ詰碁が解ける人、それも女子ともなれば校内でもかなり限定されてしまう訳で、果たして声をかけた子は私も知る人物、金子さんその人だった。

 

「お願い! バレー部に入るのは止めないし、何だったら掛け持ち……ううん、気が向いた時だけでいいから!」

 

 もちろん初心者だとしても大歓迎だけど、経験者ともなれば更に貴重な人材。せっかく運良くこの場に居合わせたのだから、この機を逃してなるものかと、私は必死に金子さんに頭を下げ続けていた。

 とはいえ、バレー部に入りたいという彼女の意思を蔑ろにする訳にもいかないので、私は原作と同じ様に、兼部という形での囲碁部への参加を彼女に打診するに至ったのだ。

 

「じゃあさ、とりあえず一回だけ囲碁部に遊びに来てみない? それからでも決めるのは遅くないと思うんだ!」

「……あーもう、わかったから顔上げて。一回見に行くだけよ?」

 

 そんな私の必死の懇願が実ったのか、あまり乗り気ではなさそうだったものの、金子さんは渋々了承してくれた。

 

「ありがとう! じゃあ放課後迎えに行くから! ……私、1組の星川彩です」

「ハイハイ。3組の金子正子よ」

「約束だよ、金子さん!」

 

 ……しかし、何とか約束は取り付けたものの、よくよく考えれば入部してもらうための具体的な策なんて私には何も無かった。

 どうすれば囲碁部に関心を持ってもらえるのだろうか。授業も上の空で一日中悩み続けていたものの良い案は浮かばず、結局私はそのまま放課後を迎えてしまったのだった。

 

 

 ―――

 

 

 ……こうなったらもう腹をくくろう。囲碁部に出来る事なんて囲碁を打つ事だけなんだし、とりあえずきっかけにはなるんだから。後は出たとこ勝負だ!

 

 放課後。金子さんと共に理科室を訪れ、開き直り気味に扉に手をかける。その時、室内で誰かが騒いでいるのだろうか、けたたましい叫び声が私達の耳に届いた。

 

「……何か揉めてるみたいね」

「あ、あはは。誰だろうね」

 

 ヒカルと筒井さんが言い争いをするとは思えない。と言うより、確か筒井さんはクラスの行事があるとかで、今日の部活には参加できなかったはず。つまり室内には囲碁部とは部外者の誰かがいるという事だ。

 ……何でこんな時に限って。誰だか知らないけど、勘弁してよホント。

 

 横では金子さんが心底面倒臭そうな表情をしている。そんな状況に思わずため息が零れるものの、こんな所でいつまでも突っ立ってる訳にもいかない。私は意を決して扉を開いた。

 

 

「おう星川、新入部員捕まえたぜ!」

「勝手に決めんな! 囲碁部なんか入らねーって言ってんだろ!」

 

 そんな私達を出迎えたのは、してやったりと言わんばかりの表情のヒカルと、そんなヒカルに噛み付くように声を荒げる癖っ毛の少年。

 あれ、あの子はもしかして……

 

「アイツ三谷じゃない」

 

 私の予想に対する答え、三谷くんの名が金子さんの口から発せられる。

 

「金子さん、知ってるの?」

「まあ知ってるって言うか、同じクラスってだけなんだけど」

「へー、そうなんだ」

 

 偶然は偶然だろうけど、二人が既に顔見知りである事に妙な縁を感じる。しかしそんな事を考えている間にも、飄々としているヒカルとは裏腹に三谷くんは益々ヒートアップしていく一方だ。流石にこの状況を放っておく訳にもいかないので、仲裁の意味も込めて私は二人の間に口を挟んだ。

 

「ヒカル、それに……三谷くん? えっと、何でこんな騒ぎになってるのかな?」

「コイツさっきポスターの詰碁解いてたんだよ。しかも正解! あっちは上級者向けの問題だからきっと強いぜ!」

「だから気が向いただけって言ってんだろ! いきなりこんなとこ連れて来やがって!」

「いーじゃん、オマエ囲碁打てるんだろ? とりあえず一局! な?」

「やらねーよ!」

 

 ……ああ、そういう感じなんだ。三谷くんが詰碁を解く現場にヒカルが立ち会って……それで無理矢理連れてきちゃった、と。

 

 脳内で原作の展開との対比をし、この状況を把握する。不機嫌を隠そうともしない三谷くんの様子もまあ当然は当然だ。流石に今回はヒカルに非が……

 

「……ねえ星川さん」

 

 不意に私に話しかける金子さん。その視線は呆れてものも言えないといった感じで、私は思わずたじろいでしまう。

 

「な、何かな?」

「囲碁部の勧誘って……皆こんなにゴーインなの?」

「うっ……」

 

 ……し、失礼な。私は一応ちゃんと許可をもらったじゃないか。

 

 

 ―――

 

 

「あーわかったよ! その代わり、オレが勝ったら金輪際ちょっかいかけんじゃねーぞ!」

 

 ヒカルにとうとう根負けしたのか、半ばヤケになりながらも三谷くんは対局を承諾した。……負けたら自分には関わるな。結構危うい条件をつけた上で。

 

 ……でも、それってこっちが勝ったら囲碁部に入ってくれるって事なのかなぁ。だったら私が打てたらいいんだけど。

 

 場違いな考えが頭をよぎったものの、無論そんな事を言い出せるような空気でもなく、そのままヒカルと三谷くんの対局が行われる運びとなる。

 そしてこの瞬間に及んで私はようやく、金子さんをほったらかしにしてしまっているという現状に気がついた。

 

「あ……ご、ごめんね金子さん。じゃあ私達もあっちで一局打とっか?」

 

 もちろんこの対局を見ていたいという気持ちは大いにある。だからと言って、せっかく来てくれた金子さんをこのまま蔑ろにするわけにもいかない。彼女だって私達が望んでやまない部員候補の一人なのだから。

 

「……アタシなら気にしないで。何だか面白そうな展開になってきたし、この対局を見させてもらう事にするわ」

「え……いいの?」

「星川さんだって気になって仕方ないんでしょ?」

 

 あっさりと心の内を見透かされ、何だか腑に落ちない感はあったけれど、彼女がそう言うのならばとお言葉に甘えて、私は金子さんと共に彼らの対局を見守ることにした。

 

 ヒカルが黒、三谷くんが白。……対局が始まる。

 

 

 

 佐為をして、素直な良い手を打つと評された三谷くんの実力は正にその通り。石の筋も良いし、無理な手もなく、きちんと本手を選択出来ている。基本が身に付いている証拠だ。

 

 中盤を迎え、ヒカルも必死に食らいついているものの、やはり現状は黒が少し不利。白が常に盤面をリードし続け、しかもまだ三谷くんには余裕がありそうに見える。黒としては何処かで勝負のきっかけを掴みたいところだ。

 

 そんな私の考えに応えるかの様にヒカルが動く。

 動く……が。

 

 ……えっ! そこから出切っちゃうの?

 

 それは決して誉められるような手じゃなかった。黒だってまだまだ不安定、普通はもっと形を作ってから攻め込むものだ。しかし、余りにも強気で怖いもの知らずなその一手は……愚形ながらも、結果として白の大石を分断する事に成功した。

 それまで無気力と言うか、何処か対局に集中していなかった三谷くんの表情が変わる。眉間にシワを寄せ、顔も幾らか紅潮している。まさかこんな無理矢理に切断されるなんて思っていなかったのだろう。

 

 もちろんこの一手だけでどちらかに形勢が傾いた訳じゃない。今後の展開次第では、切った側の黒がツブレる事だって十分にあり得る。

 だからと言って、切断を受けてしまった以上、もう白だって今までの様に手厚く打ち進める訳には行かない。黒が挑んできた勝負を受けるしかないんだ。

 

 ……今まで穏やかに進んでいた盤面が、ヒカルの投じた一石によってその様相をがらりと変えた。

 

 

 

 ――子供のケンカ。見る人によってはそう評されてしまいかねない内容だった。

 序盤は冷静に打っていた三谷くんも、今やすっかりヒカルの熱に当てられ、攻められては反発し、隙を見ては守りを余所に攻め返す、そんな碁になってしまっている。

 しかし、彼らから伝わってくる剥き出しの感情に。負けたくない、子供故の素直な想いが導き出すどこまでも自由な一手一手に……いつしか私は目を奪われていた。

 

 ……何か、羨ましいなぁ。

 

 同時にそんな二人への羨望の気持ちが込み上げてくる。プロとして第一線で戦ってきた私にそう思わせる程に彼らの戦いは魅力的で……そんな私だからこそ、きっともう彼らの様に打つ事は出来ないのだろうから。

 

 

 ……ふとヒカルに目を向ける。その表情は笑みすら浮かんでいるようで、それはヒカルがこの対局を心から楽しんでいる証だった。

 そして比べる様に三谷くんを見やり、彼の表情を見た瞬間、私は自分が抱いていた彼へのある疑念を恥じた。

 

 もしヒカルが優勢に立ってしまったら、自分が負けるかもしれないという状況に追い込まれてしまったら、三谷くんはイカサマをしてしまうんじゃないかと私は思っていた。

 そんな事をすれば、ヒカルはきっと彼に幻滅する。金子さんだって囲碁部には入ってくれないだろう。

 何より、仮に二人が気付かなかったとしても、その現場を目の当たりにして黙っていられる自信が私には無かった。

 

 ……でも、きっとそんな心配なんて取り越し苦労だったのだろう。

 私はこの世界の三谷くんの事なんて何も知らないし、もしかしたら原作と同様に賭け碁でイカサマをするような、そんな人だったのかもしれない。

 それでも、この時この場において、少なくとも目の前の少年に限っては、私は確信を持つ事が出来たのだから。

 

 ……そうだよね。こんな顔で囲碁を打ってる子が、イカサマなんてするはずなかったんだよね。

 

 どちらかの中押しで決まると思っていた戦いも、終わってみれば半目勝負。熱戦は終局を迎えた。

 

 

 ―――

 

 

 整地を終えた盤面を睨み付けながらうなだれるヒカル。

 その光景が示す通り、結果は白……三谷くんの半目勝ち。

 

 しばらく黙ってヒカルを見つめていた三谷くんは、やがて何も言わずに立ち上がり、机に投げ出してあった自分のカバンを手に取る。

 

「み、三谷くん!」

 

 私の制止の言葉に見向きもせず……結局彼はそのまま理科室から去ってしまった。

 

「ワリィ星川……オレ……」

「……ヒカルのせいじゃないよ」

 

 ぽつりと呟いたヒカルの謝罪の言葉を私は否定する。この一週間でヒカルと打ったどの対局よりも、今日の一局は力強く美しかった。決して人に恥じるような内容では無かったのだから。

 

 ……ただ、結果としてヒカルは負けてしまい、三谷くんが囲碁部に入部する事はなかった。ヒカルの自責の念も、対局内容では無くその事実を悔やんでのものなんだろう。そんなヒカルの心境を思うと、下手に言葉をかけるわけにもいかず、私もまた黙りこんでしまう。

 

 

「……心配いらないんじゃない?」

 

 そんな私達に向けて発せられた金子さんの言葉。私とヒカルは顔を上げ、揃って彼女に目を向ける。

 

「あんな啖呵切った手前、意地になってるだけよ。今頃アイツ後悔してるんじゃないの? 負けておけば良かったってさ」

「そ……そうなの?」

 

 思わずそう聞き返してしまう。金子さんの言い分は私達にとって余りにも都合が良すぎて、流石に鵜呑みにする訳には行かなかったから。

 

「何だかんだ言ったって、アイツも囲碁が好きなのよ。って言うか、あんな楽しそうに打つ奴が、囲碁が嫌いな訳無いじゃない。……多分アイツは今日みたいに、夢中になって打てる相手に今まで恵まれなかったんじゃないかな」

 

 確かにそういった相手がいないというのはとても悲しい事だ。ヒカルや塔矢くんを間近で見てきた私にもそれは良くわかる。

 ……もちろんそれは彼女の憶測にしか過ぎないのだろうけど、その発言も只の気休めでは無く、彼女なりの根拠を持ってのものだという事は何となく伺い知れた。

 金子さんもまた、三谷くんの対局中の様子に気付いていたのだから。

 

「……だから大丈夫よ。身近に本気になれるものがあるって知った以上、それを見て見ぬふりなんて出来っこないわ」

「……そういうものなのかな」

「男子なんて皆そんなもんよ」

 

 大人びた笑みを湛えながら、金子さんは諭すようにそう口にする。

 ……何故だろうか。普通の女子中学生ならば子供の背伸びと捉えられそうな発言も、彼女が言うと妙な説得力を感じ、思わず私は納得しそうになってしまったのだった。

 

 

「じゃ、アタシもそろそろお暇しようかな」

「……えっ、もう帰っちゃうの? せめて一局くらい……」

「今日はもういいわ。面白いものも見れたし、満足よ。……入部の件は少し考えさせて。入るようだったら明日また来るからさ」

 

 そう言うと金子さんは私達に手をヒラヒラさせながら理科室を去っていった。

 結局彼女の真意は最後まで掴めなかったけれど、満足してくれたって事は……少しは脈アリと考えていいのだろうか。

 

「何かアイツ……大人だな」

「……うん、大人だね」

 

 ヒカルの言葉に私も同意する。あの風格や物言い……とても中学生とは思えなかった。

 

「お前とは大違いだな」

「……うるさいよ」

 

 

 その後、反省会と称して行われたヒカルとの対局が、指導碁の範囲を大きく逸脱してしまったのは言うまでもない。

 

 

 ―――

 

 

  翌日。私とヒカル、そして事情を話した筒井さんの3人は、金子さんの言葉を胸に二人を待ちわびていた。

 あれだけ強引に三谷くんを引っ張り回したヒカルも、約束を交わした上で対局し、しかも負けてしまった以上、結局その後は彼に干渉することが出来なかった様だ。

 

「ありがとう。二人が囲碁部の為にそんなに頑張ってくれた事だけで僕は本当に嬉しいよ。……さ、待つのは打ちながらでも出来るし、そろそろ部活を始めよう!」

 

 私達への労いの言葉と共に筒井さんは立ち上がる。

 確かにこうしていても仕方がないと、私とヒカルも対局の準備を始めようとした……その時だった。

 

 

「星川さん、来たわよー!」

 

 扉の開く音。そして、快活な声が理科室に響く。

 

「金子さん! それに……」

「三谷!」

 

 声の主である金子さんと、彼女の後ろで気まずそうにしている三谷くんの姿を見て、私とヒカルに笑顔が広がる。

 

「アタシ達も囲碁部にお世話になる事にしたから。これからよろしくね」

「オレは別に……コイツに無理矢理連れて来られただけで……」

 

 三谷くんはぶっきらぼうにそう口にするものの、昨日の様な不機嫌さは見られず、そんな姿に微笑ましさすら感じてしまう。

 

「……ね、言った通りでしょ?」

 

 そんな私に、三谷くんに聞こえない程の小声で金子さんが囁く。

 

「うん。……悔しいけど、金子さんはやっぱり大人だよ」

「何の話……?」

 

 唐突な大人発言に首を傾げる金子さん。一回りも年下の子供に、私が敗北を認めた瞬間だった。

 

 

 

 ともかく、これで囲碁部は5人。3人揃った男子はこれで念願の大会出場が叶うんだ。後は……

 

「あ、やってるやってる。ヒカルっ! 彩っ!」

「……あかり! 待ってたよ!」

「あかり? 何でお前がいんの?」

「何よ、囲碁部に入部しに来たに決まってるでしょ」

 

 開きっぱなしの扉から、あかりがひょっこりと顔を出す。

 

 もちろん私はあかりにも声をかけていた。ただその時は少しだけ待って欲しいと言われ、今日この時まであかりが囲碁部に顔を出すことはなかった。

 当然即決だろうと思っていた私はやや面食らったものの、あかりの口にしたその理由を聞き、素直に彼女を……いや、彼女達を待つ事にした。

 

「……ねえあかり。私本当に囲碁の事なんて何にも知らないよ?」

「大丈夫大丈夫! 私が教えてあげるから!」

 

 おずおずとあかりの後ろから現れる少女。そう、あかりは彼女を……クラスメイトの津田さんを誘うために入部を遅らせていたのだ。

 

「入部は後で気が向いたらでもいいよって言ったのに、久美子ったら一緒じゃないと不安なんて言うから」

「も、もう。余計な事言わないでよ。……仕方ないじゃない、部活に入るなんて初めてだし、すぐには決められなかったんだもん」

「あはは、ゴメンゴメン。……それじゃ改めまして、私達も囲碁部に入部します!」

「よ……よろしくお願いします」

 

 ……これで、7人! しかもこれなら女子だって大会に出れる。まさかこんなに上手く行くなんて……

 

 私は余りにも理想的な目の前の光景が未だに信じられずにいた。

 そして、それは筒井さんも一緒の様で……

 

「囲碁部が……7人。これは夢なんだろうか……」

 

 またもトリップ状態に突入してしまった筒井さん。彼の囲碁部にかける情熱を思えばそれも致し方ないのかもしれないけれど、流石にこうしていても埒があかないので、私はそんな彼を再び現実世界に引き戻すべく声をかける。

 

「トリップしてる場合じゃないですよ。……せっかく皆揃ったんですから、部長!」

「ぼ、僕が……部長……」

 

 部長という単語に過剰反応を示すも、何とか立ち直った筒井さんは私達に向き直り……宣言する。

 

 

「皆、初めまして。3年の筒井です。……ようこそ葉瀬中囲碁部へ!」

 

 

 ……この瞬間、新生葉瀬中囲碁部が誕生し、それは私が憧れてやまなかった囲碁部の姿でもあった。

 このメンバーでなら、きっと素晴らしい部活を作り上げる事が出来る。6人の部員達を見つめながら、私はそう確信していた。

 

 

 

「さあ部活を始めよう! 今、碁盤を……」

 

 そう口にし、部活の準備を始めようとした筒井さんの動きが止まる。

 唯一動いていた目線は……机に重ねられた碁盤、そして私達6人に移っていく。

 

 部員は7人。碁盤は……3面。

 

 

 ……碁盤、足りないじゃん。

 

 

 ―――

 

 

 その後、とりあえず1年生6人組は対局を行い、筒井さんは顧問のタマ子先生の元へ、部の備品という形での新しい碁盤の申請に向かった。

 ……しかし戻ってきた筒井さんの表情は芳しくなく、彼が口にした言葉も決して私達にとって最良のものではなかった。

 

「……やっぱり少し難しいみたい」

「そう……ですか」

 

 元々の囲碁部は、一人で活動を続ける筒井さんを不憫に思ったタマ子先生が、自主的に顧問に収まるという形で成り立っていた……いわば形式だけの部活だった。

 理科教師のタマ子先生の口添えで理科室という部室こそ与えられているものの、いわゆる部費などの学校側からの援助はなく、今ある碁盤と碁石もタマ子先生が善意で寄贈してくれたもの。

 部員が7名になった事で晴れて正式な部活としての要項を満たした囲碁部だったけれど、それらの認証、引いては部費の算定までとなると、やはりすぐにと言うわけにはいかず、備品として碁盤を購入するためには……少なくとも1ヶ月はかかってしまうそうなのだ。

 

 そして、それは今の私達にとってかなり深刻な問題だった。

 対局を前提とするならば、7人が同時に行うためには最低4面の碁盤が必要になる。3面ではどうやっても1人余ってしまうのだ。

 

 7人という端数に関しては問題ない。誰かが二面打ちをすればいいだけの話。私はもちろん、初心者のあかりや津田さん相手なら、ヒカルや三谷くん、筒井さんだってできるだろう。

 しかし1人余りが出る、これだけは良くない。部活を行える時間は長くて2時間と少し。囲碁は一局におおよそ1時間程度は見なくてはいけないため、このままだと1日あたりの活動時間の半分を、碁盤に触れずに過ごす人が出てしまう。

 もちろん人の対局を見る事や詰碁を解く事も大切な勉強だけれど、やはり囲碁の醍醐味は実際に石を持って打つ事なのだから。

 最悪私が手空きになってもいいのだけれど……身勝手な話、それも本来の目的を考えると躊躇われてしまう訳で。

 

「心配しなくてもいいよ。僕が今度碁盤を買ってくるからさ」

 

 筒井さんは自分に任せておけと言わんばかりにそう口にする。

 しかし、いくら安価の物を選んだとしても、碁盤と碁石をセットで購入するとなるとやはりそれなりの値段になってしまう。少なくとも普通の中学生にとっては大きな出費だ。

 

「そんな、筒井さんにだけ押し付けるなんて。だったら私達も……」

「ありがとう。でも、入部したばかりの1年生からお金なんて取れないよ」

 

 そうは言ってくれるものの、はいそうですかと簡単に頷くわけにはいかない。これは私達囲碁部全員の問題なのだから。

 とはいえ、恐らくこのまま続けても押し問答。筒井さんも譲ってくれる気配はない。

 

 ……仕方ない。この場はとりあえず筒井さんにお願いするとしても、後で必ずお金は返そう。皆に相談すればきっと賛同してくれるはずだ。週末には5月のお小遣いが入るから、とりあえずそれから……

 

 

「……あっ!」

 

 

 その時、私の脳内にある閃きが走る。

 ……そうだ、すっかり忘れていた。今週末、5月の第一週は……

 

「……筒井さん、碁盤の件もう少しだけ待ってもらえませんか?」

「え……どうして?」

「……私にアテがあります」

 

 確証は無い。それ以前に、本来ならばそれをアテと呼ぶこと事自体が可笑しな話。

 

 ……でも、私なら出来る。いや、やってみせる! せっかく囲碁部が立ち上がったっていうのに、こんな所で躓いている場合じゃないんだ!

 

 

「碁盤は……私が何とかします!」




本手(ほんて):碁形の急所を抑える確実な一手。地味な一手の様でも、後々打っておいて良かったと思える時が必ず来る。本手をしっかり打てる人は間違いなく強い。

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