予想通りと言っては失礼かもしれないけれど、理科室の扉を開けた私達を待っていたのは、本を片手にたった一人で黙々と碁盤に石を並べる眼鏡の少年……筒井さんの姿だった。
私達が入部希望である旨を伝えた時の彼の喜び様は、正にこの世の春が来たとでも言わんばかりの勢いで、そしてそこまで喜ぶ理由は言わずもがな、部員が筒井さん一人しかいない事に起因する。対局相手すらままならないこの状況、3年生の彼の今までの苦労はヒカルも言われるまでもなく感じ取ることが出来た様で、そんな彼の大会に出場したいという願いを私達が叶えてあげたいと思うのは、至って自然の流れだった。
「ごめんね星川さん。入部早々こんな雑用みたいな事やらせて」
「いいんですよ。これでも私、結構楽しんでるんですから」
兎にも角にも囲碁部は対局をしないと始まらない。同時に大会出場の為には部員集めが急務。
という事で現在、ヒカルと筒井さんが対局をする一方で、私は別の階の掲示板に貼るための新たなポスターを作成しているといった訳だ。
―――
正直な所、私は囲碁部にはあまりいい思い出がない。何と言っても入部初日に即退部する羽目になったくらいなのだから。
しかしそんな過去の反動からか、囲碁が基本的に個人競技である事も相まって、実を言うと私は皆で一致団結して一つの目標に向かうとか、そういう事に対する憧れみたいなものを少なからず持っていたりもする。
順調に行けば年内には私はプロになっているはずだし、そうなればもうこういった機会も無くなってしまう。なら、例えあと半年程の間だとしても、院生故に大会に出場する事が叶わない身だとしても、折角子供に戻るなんてトンデモ体験をしているのだから、私はそれを存分に満喫してしまおうと思っているのだ。
故に先程の筒井さんの気遣いに対する返答も、紛れもなく私の本心からのもの。
ヒカルとの対局の場を確保した上に、昔出来なかったことをやり直す機会を得たのだ。正に願ったり叶ったりである。
「よし、こんなもんかな!」
ポスターを書き上げ、軽く伸びをしながら時計に目をやると30分程時間が経っていた。
……対局もヨセに入るくらいか。さて、形勢はどんな感じかな?
そんな事を考えながら二人の方に歩を進め、盤面を覗き込む。……そしてその内容を見た私は、少なからず驚きを隠せなかった。
……ヒカルが、勝ってる?
確か入部当初のヒカルはまだまだ筒井さんには敵わなかったハズ。にも関わらず盤面は黒、ヒカルがはっきりと優勢だった。ヨセで筒井さんが相当上手く立ち回ったとしても、ちょっとこの差は埋まりそうにない。
「……ありません」
筒井さんもそれを悟ったのか、投了を宣言し対局はヒカルの勝利となった。
「完敗だよ。強いね、進藤君」
「エヘヘ……そうかな?」
筒井さんの言葉通り、ヒカルの完勝と言って良い内容だった。とは言え、勝負は水物だし、実力によっぽど大きな差がなければ上手が負ける事だって十分に有り得る。若干の違和感はあったものの、それでも私はこの結果について深く考える事は無かった。
「よっし、じゃあ打とうぜ星川!」
「……もう、勝手に話を進めないの」
勝利の余勢を駆って引き続き私に対局を持ちかけるヒカル。相変わらずのそのマイペースっぷりに、私は小さくため息を吐きながら釘を刺す。
「あはは、気にしなくていいよ。二人とももうれっきとした囲碁部員なんだからさ。それに僕も君達の棋力をちゃんと知っておきたいしね」
入部したばかりの立場で、聞き方によっては自分本位とも取られかねないヒカルの発言も、筒井さんは笑顔で受け入れてくれた。
私はありがたくその言葉に甘える事にし、晴れてヒカルとの二度目の対局が行われる運びとなった。
「4子局だったよな? それじゃ、お願いします」
そう言いながら四隅の星に黒石を置き、ヒカルは勝手に対局を始めようとする。
「……いやいや、4子で打てる様になるのは先々の目標なんだからさ、もっと石置きなよ。星目でもいいよ?」
「いいじゃん。最初なんだから、4子でどれだけ打てるのか確かめておきたいんだよ。な、いいだろ?」
恐らく囲碁歴4ヶ月の今のヒカルの棋力は級位者レベル、高く見積もって2・3級ってところだろう。正直4子ではまともな碁にはならないと思う。私が相当緩めて一局として成立させたとしても、それがヒカルの為になるかどうかはまた別だ。
「……わかった。最初だけだよ?」
それでも目標との距離を確かめたいというヒカルの気持ちもわからなくもないし、今の実力を知ってもらうという意味合いもある。だから私は、今回に限り4子局を受け入れる事にした。
……ま、しょうがないか。ヒカルが自分で決めた事なんだしね。その代わり今回はしっかり負けて今後の糧にするんだよ。……それじゃ、かかってきなさい少年!
―――
「嘘……でしょ……」
無意識にそんな言葉が口から零れてくる。それが意味するのは、目の前のヒカルの打ちっぷりに対する驚愕に他ならなかった。
……何これ、明らかに級位者の打つ碁じゃないよ。間違いなく有段者クラスだ。アマ二段……いや、三段くらいあるかもしれない。
ヒカルの棋力は私の予想を遥かに越えていた。私が余計な気を使うまでもなく、4子で碁になっている。……これならば筒井さんにも勝ってしまう訳だ。
よくよく思い返してみれば、確かにヒカルが強くなる兆候はあったのかもしれない。
年明けにあかりが言っていたじゃないか。囲碁教室に頻繁に通うようになった、お祖父さんの所に碁盤をおねだりしに行った、と。
囲碁教室で基礎知識や対局経験を積み、家では佐為という素晴らしい先生との個人レッスン。いずれも原作当時のヒカルがまだ持っていなかったものだ。それらを考えればこの事実も頷ける。
……そう頭の中では理解したつもりだった。だけど、
「へへ、オレ強くなっただろ?」
「……そーだね」
「……何かお前機嫌悪くねえ?」
「……べっつにー?」
……くそう、私が三段に上がるのにどれだけ苦労したと思ってるんだ。ヒカルの方がよっぽど普通じゃないよ……
囲碁を覚えて僅か2年という驚異的なスピードでヒカルはプロになったのだ。そんなヒカルが真剣に囲碁に取り組めば、このくらいの成長は当然見込めるものだったのかもしれない。
でも、その様を改めて間近で見せつけられると……情けないけれど、その余りにも恵まれた才能に私は嫉妬を抑えきれなかったのだった。
「あーあ。やっぱりそこをハネ出すのは無理があったかなー」
とは言え、まだまだ私と4子で打ち切れる手合いという訳でもなく、調子に乗って攻めた石を咎められた結果、ヒカルの敗北となった。
「……でも正直驚いたよ。本当に強くなったね」
現時点でここまでの強さがあるのならば、夏が終わる頃には十分院生レベルまで辿り着けるだろう。もちろん悔しい気持ちが無いと言ったら嘘になるけれど、同時に私はそれ以上の喜びを感じてもいた。
これこそが私の望んでいた進藤ヒカルの才。そんな彼が私を目標としてくれているのだから。
……私もヒカルに見合う棋士であるように、これからも精進を続けないとね。
「す、すごいね君達。特に星川さん、君は……」
それまで黙って私達の対局を見つめていた筒井さんが口を開く。その表情は、まさに信じられないといった様子だ。
それもそうだろう。自分に完勝したヒカルが……指導碁という手前言い方は良くないけれど、4子を置いて圧倒されたのだから。
「筒井さん、コイツ院生なんだよ。で、オレも院生になりたいからコイツに教わってるってわけ」
「い、院生!?」
ヒカルのその返答に、筒井さんはますます驚いたような声をあげる。
「院生って事は……プロ志望なの?」
「はい。……一応今年のプロ試験を受けようと思ってます」
「そっか……まさか初めての囲碁部員がプロを目指す子達だなんて。……待った甲斐があったなぁ」
噛み締めるように筒井さんはそう呟く。そんな彼を見ていると、私が密かに抱えていたある種の不安が解消されていくような気がした。
院生という普通の囲碁部には若干似つかわしくないような立場、ヒカルはともかく私と筒井さんでは棋力に大きな差がある事は先程の対局からも実証済みだ。
そして何より入部当初の本来の目的は、お互いの対局の場を得るというもの。そんな私に、彼が不満や壁のような物を感じてしまう事だって十分にあり得る話だった。
……でも、それらを全て知った上で筒井さんは本当に嬉しそうな顔をしてくれた。皮算用でなく、そんな不安が杞憂だったのだと理解できる。心から私達の入部を喜んでくれているのだ。
……そんな筒井さんへの感謝の気持ちと共に、改めて彼の悲願である大会出場を絶対に実現させるのだと、私は決意を新たにしたのだった。
「それじゃ筒井さん、次は私と……筒井さん?」
喜びのあまりか、気がつくと彼の表情は、もはやトリップ状態と言っても良い程のものに変わっていた。
私とヒカルは顔を見合わせて苦笑いをする他なく、そんな彼を何とか現実に引き戻し、改めて今度は私と筒井さんが対局を行った所で、囲碁部の初日は終わりを迎えたのだった。
―――
心を込めて作ったものには共に過ごした時間に関係無く愛着が湧くもので、次の日から、教室に向かうには若干遠回りになるにも関わらず、自作の勧誘ポスターが貼られた掲示板の前を通る事が私の毎朝の日課となっていた。
……しかし物事はそうそう上手く行くものでもなく、掲示板の前で立ち止まる生徒の興味はサッカーやバスケットなどのメジャーな部活動に向けられており、隅っこにこじんまりと貼られた囲碁部のポスターに関心を示すような人は皆無。せっかく作った初心者向けの詰碁問題も未だ空白のままだった。
クラスメイトにも『何で彩はいつも遠回りしてんの?』 なんて言われ始め、今は適当な言い訳でお茶を濁しているものの、こんな事を繰り返していてはその内変人認定すらされかねない。それでも私はそんなリスクも顧みず、ひたすら毎日掲示板に足を運び続けた。
……そして入部から一週間後、私のその努力が遂に実を結ぶ時が来る。
その生徒は明らかに隅っこの囲碁部のポスター正面に立ち、内容を注視していたのだ。人数も疎らな今の状況で、他の部活動のポスターに興味があるならその立ち位置は明らかに不自然だ。
『もしかして……』 そんな私の期待に応えるように、その子はおもむろに鞄からペンを取り出し、私の自作の詰碁に解答を書き込む。
原作の予備知識を持っている私には、詰碁を解くであろう人はあらかじめ予測できていた。けれど、今まさにポスターに書き込んだその生徒は間違いなく彼とは別人で……それ以前に女子の制服を着ていた。
でも、この時の私にとってそんな事は些細な問題だった。部員は多いに越した事は無いし、何よりこの一週間の努力が報われた事への喜びが大きかったから。
……新入部員、みーっけ!
私は一目散にその子の元へと駆け寄って行ったのだった。
星目(せいもく):9子置きの事。9子って書けよって話ですけど、星目の方がカッコよかったんで。