「奈瀬さん!」
師範室の扉が開き、そこから出てくる奈瀬さんの姿を見た私は、その声と共に一目散に彼女のもとに駆け寄った。
「彩……? 何よ、研修室で待ってなさいって言ったのに」
「だって……」
そうは言われたものの、あのまま研修室で奈瀬さんの帰りを待っているだけなんて私には到底出来なかった。
最もその想いのままに駆け出した所で、結局彼女を待つ場所が研修室から師範室の前に変わっただけに過ぎなかったのだけれど。
「……真柴さんは?」
「アイツはまだ中で絞られてるわ。事情を説明したら私だけ帰された。……ま、流石に今回の件は向こうの一方的な言いがかりだしね」
その言葉に胸を撫で下ろす。少なくとも、奈瀬さんが罰を与えられるような事にはならなかったのだから。
でも……
「ごめんなさい、奈瀬さん。私のせいで……」
私はまず彼女に謝らなければ気が済まなかった。私を庇ってくれたばっかりに、彼女の大切な一局が壊れてしまったのだから。
「ああ、アレ? ……いーのいーの! どうせ形勢悪かったし、和谷に参りましたって言うのも癪だったしね!」
対局を見ていない私には、本当にそんな内容だったのかどうかはわからない。でも、必死に感情を押し殺しながら明るく振る舞う奈瀬さんの姿を見て、その言葉が私を気遣っての物なのだという事は、何となくわかった。
どんな内容だったとしても、例え敗色濃厚な展開だったとしても、本当は自分の納得するまで打ちたかったはず。……まだ対局は続いていたのだから。
奈瀬さんの気遣いは嬉しかったけれど、結局私の彼女に対する罪悪感は薄れる事は無かった。
「……そんな事より、さ。驚いたでしょ?」
私の心情を察してか、話題を逸らすように奈瀬さんはそう口にする。
……何の事? なんて、聞くまでもなかった。
「うん……ちょっとだけね。どうしたのかなって、思ったよ」
その事に関しては私も気になっていたから。だって……
――女のくせに。
その言葉に対して彼女が叫んだ想いの丈。あれはまるで……
「あはは。ま、あそこまで派手に言っちゃったしね。……でも、アンタになら言ってもいいかな」
そう言って奈瀬さんは私に視線を向けると、少しだけ躊躇いがちに、それでも何かを決意したかの様に、口を開く。
「……私ね、昔からずっと思ってたんだ。どうして女は男の人に勝てないんだろうって――」
女というだけで始めから下に見られてしまう事。
それを実力で見返すことの出来ない自分の不甲斐なさ。
悔しげな表情で言葉を、想いを紡いでいく奈瀬さんから、私は目を離すことができなかった。
「でも……正直言って半分諦めかけてたんだ。私も自分なりに精一杯努力をしたつもりだった。それでも、結局男の人との差は縮まる所か、広がっていくばかりだったから」
その気持ちは私には痛いほど理解できた。
男女の棋力の差は、大人になるにつれて益々顕著になっていく。強くなりたい一心で、必死に努力した結果がその現実では、心が折れてしまうのも仕方がないことだ。
「ねえ、彩はどう思う? やっぱり……変かな? こんな考え方」
俯きがちにそう私に問いかける奈瀬さんの表情は、どこか怯えてるようにすら見えて。それはきっと、自分の想いを同性である私に否定されるのが怖かったからなんだろう。
「……そんな事ないよ」
そんな彼女の痛々しい表情が辛くて、悲しくて。……私がそう答えるのに躊躇いはなかった。
「そんな事ないよ。女だって男の人と対等に戦える。私はそう思ってる」
「彩……」
「大人も子供も、男も女も関係無いよ。皆が平等に戦える。……囲碁ってそういうゲームだもん」
彼女も私と同じだった。悔しい想いを抱えながら、現実に押し潰されそうになりながらも、必死に戦って来たんだ。
私だって何度も心が折れそうになった。現実を受け入れようと思った事だって一度や二度じゃない。
それでも私なら言える。努力の先にある結果は、男も女も変わらない事を知っているから。他の誰が何と言おうと、私だけは知っているから。
だから、もし奈瀬さんが私と同じ想いを持っているのだったら。私と同じ辛さや悔しさを味わって来たのだったら。
……そんな彼女の支えになってあげたかった。それが出来るのは、私しかいないんだから。
「私達だって、頑張れば何処までだって強くなれる。……本因坊にだってなれるんだから!」
「ほ、本因坊って……本気で言ってるの?」
「もちろん」
「……アンタだって知ってるでしょ? 女流は七大棋戦のタイトルどころか、挑戦者にすらなった事はないのよ?」
「そんなの関係ない。そんな事、私達の可能性を決めつける理由になんかならないよ」
私の言葉に呆気に取られた様子の奈瀬さん。確かに本因坊なんて言われても簡単に信じるなんて出来ないかもしれない。只の絵空事と思われたかもしれない。
それでも未来で私が本因坊を獲った事、それだけは紛れもない事実なんだから。
「はは……あははは!」
不意にそれまで黙り込んでいた奈瀬さんが、突然声を上げて笑い出した。
「……笑わないでよ。私は大真面目なんだからね?」
「ごめんごめん。そういう事じゃないの。何か……嬉しくてさ。私以上のバカがいてくれた事が」
「ばっ……!」
「うん、まあ流石にいきなり本因坊とか言われてもピンとこないけどさ。……アンタが言うと、本当に出来ちゃうような気がするよ」
そう言いながら私を見つめる奈瀬さんの表情からは、もう先程までの悲壮感は消え去っていた。
「……ありがとね、彩。アンタがそう言ってくれる事が、私は何よりも嬉しい」
「奈瀬さん……」
「だったらさ……見せつけてやろうよ、女の子の力。アンタみたいな子がいてくれるんだったら、私はきっともう迷わないから」
その言葉が震える程に私の心に響く。
嬉しかった。私が彼女の支えになれた事が。そして、彼女もまた私の支えになってくれている事に気づいたから。
……この世界にもいたんだ。『あの人』の様に、私と一緒に歩いてくれる人が。
「だから……約束。私か彩、どっちかが絶対にタイトルを獲る。今はアンタの方が強いかもしれないけど、私だってもっともっと強くなってやるんだから! うかうかしてたら、私が先にタイトルを獲っちゃうんだからね?」
……強気な所まで本当にそっくり。そんな奈瀬さんの姿に、自然と笑みがこぼれてくる。
「……笑わないでよ。私だって大真面目なんだからね?」
「あはは、ごめんごめん。……うん、約束! でもその前に――」
「……その前に?」
「まず私達はプロにならないとね? タイトルの話なんてそれからだよ?」
「うっ……」
「それ以前に、まずは1組で勝ち上がれるようにならないと話にならないよね?」
「ううっ……」
「……先は長いよ、奈瀬さん?」
「……わかってるわよ。でも、もう決めたんだから!」
そう、先は長い。乗り越えなきゃいけないことだってきっとたくさんある。タイトルを獲ったって終わりじゃない。
それでも、奈瀬さんと一緒なら私はこの世界でも頑張って行ける。タイトルにだって、その先にだって、きっと手が届く。そんな気がした。
―――
ふと耳に飛び込んできた扉の開く音。そちらに目を向ければ、篠田先生と共に師範室から出てくる真柴さんの姿があった。
「奈瀬くん、星川くん。……ちょうどよかった」
そう言うと、先生は真柴さんを連れて私達の方に歩み寄ってくる。
彼に対する様々な想いから、無意識に体が強張っていくのがわかった。
「ほら、真柴くん」
篠田先生にそう促され、何ともバツの悪そうな真柴さんだったけれど、
「……悪かったよ」
私達から視線を逸らしながらも一言そう呟いた。そんな相変わらずな真柴さんの態度に、篠田先生はやれやれといった様子でため息をついている。
「……真柴くんの事、許してやってくれないか?十分に反省しただろうし、彼も彼なりに色々と悩んでいたんだ」
「どういう……事ですか?」
篠田先生はチラリと真柴さんの方にに視線を向ける。気まずそうな表情をしながらも、彼は特に言葉を発する事もなく、再びこちらから視線を逸らした。
それを肯定の合図と受け取ったのか、私達に向き直り、篠田先生は静かに語り出した。
――プロになりたいという強い願い。
それとは裏腹に、余りにも不確かで、先が見えない将来への不安、焦り。
そして……
「きっと……君が羨ましかったんだろう」
真柴さんが先生に打ち明けたのであろうその感情。それは多かれ少なかれ院生の誰もが……いや、きっとプロを目指す全ての人達が持っている。なまじ実力があるが故に、彼のその想いは人一倍なのかもしれない。
……私には彼を頭ごなしに否定することなんてできなかった。私だって知っているから。そういった感情にまみれて、歯を食いしばって前に進み続けて……それでもプロになれなかった人達を。
そして、彼の感情に火を付けてしまった発端が自分にもあるのだと自覚してしまったから。
「……わかりました。許す、なんて一方的に言える立場じゃ無いですけど……」
「まあ……私はさっきも謝ってもらいましたし……彩がいいって言うんだったら」
私に同調するように奈瀬さんもそう口にする。もちろん彼女に手を上げた事、そして彼女の一局を壊されたことに何も思わないわけじゃない。それでも奈瀬さんがいいと言うのだったら、きっともう私が口を出す様な事じゃ無いんだろう。
「良かった。……それじゃ、君達は先に戻っていなさい。私もすぐ行くから」
私達の言葉に篠田先生はホッとしたようにそう言うと、再び師範室に戻っていく。
そんな中、一段落したとはいえやはり私達と一緒に戻るのはまだ気まずいのだろうか、真柴さんは私達に先んじて研修室に向かって歩き始めた。
「……ねえ真柴さん。真柴さんはどうしてプロになりたいの?」
「……は?」
そんな彼の背中に私はそう一声かける。怪訝そうにこちらを振り返る真柴さん。
もしかしたらこれも余計なお節介なのかもしれない。……それでも、私はどうしても彼に言っておきたかった。
「プロになったって楽しいことばかりじゃないよ。……ううん、多分今よりもっと辛い思いをするかもしれない」
上を見ればキリがない。下からは毎年どんどん強い人が出てくる。そんな世界に身を置いて、一生戦っていかなきゃいけない。
「確かにプロになれれば世界が変わる。汚い言い方をすれば、囲碁を打つだけでお金が貰える。でも、私達がプロを目指す理由って、そうじゃないでしょ?」
タイトルが欲しいから。名声が欲しいから。もしかしたらそう言う人だっているかもしれない。私や奈瀬さんのように女性の力を示したいって人もいる。
でも、そんな人達全ての根幹にあるのは、きっと共通して持つある気持ち。
けれど、道の途中で絶望して、そんな道を選んでしまった事を後悔して、いつしかその気持ちを無くしてしまう人だっている。
……忘れて欲しくない。私達が囲碁を覚えて、魅せられて。その時に感じた想いは皆同じのはず。
そんな囲碁に一生携わっていけるから。それこそが私達がプロを目指す理由なんだから。
「私達がプロを目指すのは――」
―――
冷静になった今なら、改めて自分がどれだけ情けない事をしてしまったのかが解る。年下に喚き散らして、女に手を上げて。八つ当たり以外の何物でもない。
……全くどっちがガキなんだって話だ。
あの時の俺がそんな事をしてしまった本当の理由。それは偉そうに解説された事でも、相手が年下だった事でも、ましてやそいつが女だからでもない。
……ただ単純に怖かっただけなんだ。コイツの存在が、はっきりと自分の障害になると理解してしまったから。
『強い奴が上に行く』
そんな事、プロを志した時からずっとわかっていたはずだった。
それでも、院生で結果が残るようになって、朧気ながらもプロの扉が見えてきて。……あと一歩が届かなくて。
多分、いつからか俺は囲碁を打つ意味を見失っていたのかもしれない。
プロにさえなれればそんな不安から解放されると信じて、『プロになるため』だけに囲碁を打っていたのかもしれない。
そうじゃなかった筈。俺がプロになりたいと思った理由。それは……
「……囲碁が好きだから、か」
誰にも負けたくない。どこまでだって強くなりたい。そして、大好きな囲碁で人生を全う出来たらどれだけ素晴らしい事なんだろうか。
子供ながらに思ったその想いこそが、俺がプロを目指す原点だった。
そんな気持ち、ここ最近ずっと忘れていたような気がする。
結果だけを求めて、他人の失敗を喜んで、強い奴に怯えて。
……そんなんじゃ仮にプロになれたって生きていける訳無い。
自分より強い奴がいるんだったら、そいつに勝てるまで努力すればいい。そうやって俺はここまで強くなってきたはずなんだから。
「……もう一回、師匠に1から鍛え直してもらうかな」
アイツの、星川の言った事に丸め込まれているような気がするのがどうにも癪だったが、囲碁の実力は認めざるを得ない。悔しいけれど完敗だった。
……ま、それでもアイツが気に食わないことには変わりないんだけどな。
――最後まで偉そうな口叩きやがって。……まるで自分がプロを知ってるみたいじゃねーか。
―――
「何か……ちょっと意外だったわ」
「何が?」
「私の時もそうだけど、アンタも言う時は言うんだなって。いやー、てっきり只の囲碁大好きのお子様だと思ってたからさ!」
「お……お子様……」
「囲碁はとんでもなく強いけど、何て言うか成長を囲碁に吸い取られてるみたいな? あははは!」
中学二年生に面と向かって子供扱いされる私って一体……。流石に少しは大人びて見られてると思ってたのに。
一応、私あなたより10年長く生きてるんだけどなぁ……