私が院生になって早くも1ヶ月が経とうとしていた。順調に白星を積み上げ続けた私の今の順位は2組の3位。来月の成績発表時には、1組への昇格が期待できる位置まで辿り着いていた。
そして今日の午前の対局も無事勝利し、白星を記入するべく私は成績表の前に立っている。
成績表に羅列された院生の名前。その中には当然私の見知ったものも多くあった。
伊角慎一郎、和谷義高、本田敏則、福井雄太……院生編の主要人物として描かれた人達の名前がそこには書かれている。
だけど今は原作でヒカルが過ごした院生時代よりも一年近く前。当然、その時とは異なった点もあるわけで。
「彩、また勝ったの? アンタほんと負けないわねぇ。院生になってからずっと勝ちっぱなしじゃない」
「……あっ、奈瀬さん。奈瀬さんも勝ったの?」
「うん、何とかね。これで私もようやく1組に上がれそうだよ」
奈瀬明日美。原作では恐らく1組中位程の成績であった彼女も、この時点ではまだ2組。とはいえ、現在1位で今日も勝利を納めた彼女は、まず間違いなく次の成績発表時には1組に昇級するだろう。
彼女は私の院生での初めての対局相手だった。それ以来、彼女は院生の先輩として何かと私の事を気遣ってくれる。
中学2年生で年は私よりも2つ上。もっとも、実際の精神年齢は私の方がずっと上だし、私から見れば彼女はまだまだあどけなさの残る少女だ。
……にも関わらず、ウマが合ったと言うべきなのだろうか、私は自分でも驚くほど自然に彼女と付き合うようになった。
小学生として数ヶ月を過ごした事により、知らず知らずの内に精神が退行してしまったのか、とも思った。
……けど、何よりも。
似ているからなんだろう。
プロとして、嬉しい事も、辛い事も、いつも一緒に分かち合ってきた私の親友の姿に。
私がこんなにも奈瀬さんと過ごす時間を心地よく思うのは、かつての私が一番心落ち着けた一時と同じ様に感じられるからなんだろう。
「それじゃ今日もお願いしていいかしら?さっきの対局、少し疑問に思った局面があったのよね」
「うん、私が教えられることなら!」
昼食を食べながら一緒に午前の対局の検討。これも院生になって以来、すっかりお馴染みの物となっていた。
―――
「……なるほどねぇ。毎度毎度、彩の読みの深さには感心させられるわ」
「そんな事ないって。奈瀬さんの打ったこの手だって立派な一着だよ。むしろこの手に満足せずに、疑問を持てたってのは凄い事だと思うな」
「じゃあその疑問にあっさり答えられるアンタは一体何なのよ……」
「えっ? ……い、いや、まあこの辺は知ってるか知らないかだけだし……」
こうやって院生手合いのある日には、私達は決まって検討や対局を繰り返していた。
そんな日々の中で、私は彼女に対してある思いを抱いていた。
……実は奈瀬さんって、相当勿体ないんじゃないかな、と。
囲碁に強くなるための一番の近道、それは強い人にたくさん打ってもらう事に他ならない。だからこそ院生にだってプロの師匠を持つ人は決して珍しくない。
原作でプロになった人達も皆そうだ。
佐為に師事していたヒカル、名人を父親に持つ塔矢くん、森下門下の和谷、九星会に所属する伊角さん、プロ棋士の指導碁を受け続けてきた越智。
そういった人達は皆プロの、あるいはプロに等しい実力者と打ち続けているんだ。私もまた、当時タイトルホルダーだった師匠の元に院生時代から弟子入りしており、そういう点ではかなり恵まれた環境にあったと言える。
けれど、聞けば奈瀬さんはプロの師匠どころか、師事する人すらいないそうなのだ。
いくら才能があろうと独学で強くなるには限界がある。原作ではあまり実力があるようには描写されなかった彼女だけれど、そういった事情を考慮すれば、それもある意味仕方のない事なのかもしれなかった。
そしてこの1ヶ月、奈瀬さんと一緒に囲碁の勉強を続けてきた私は、彼女の飲み込みの良さに少なからず驚いていた。
年下にあれこれ言われるのは、このくらいの歳の子は嫌がるものなのかもしれないけれど、少なくとも奈瀬さんに限ってそんな事は無く、囲碁に対してのそんな素直な姿勢も相まって、私の教えた事をどんどん吸収していった彼女は、初めて私と打った時に比べて格段に成長していた。今日の検討での一手にしたって、昔の奈瀬さんだったらきっと気付けなかっただろう。
私の教えを受けて着実に強くなっていく。
――そんな奈瀬さんを、私は少なからず誇らしくも思っていた。
「……彩、何か良い事でもあったの?顔がにやけてるわよ?」
「ふふ、別に何でもないよ。……あ、そろそろ時間だね」
「ホントだ、もうこんな時間。……余計なお世話かもしれないけど、一応アンタは昇級ラインギリギリなんだから、自分の心配もしなさいよ?」
「うん、ありがと。勝って一緒に1組に上がれるといいね」
お互いの勝利を誓い合って、私達は再び研修室へと戻って行った。
―――
そして翌週、成績更新の日。いつものように研修部屋に入ると、研修室の片隅、院生順位表の前には人だかりが出来ていた。ある子はそれを見て喜び、また別の子は肩を落としている。
結局あの日の午後も私と奈瀬さんは共に勝ち星を手にすることが出来た。そうなると、既に昇級圏内だった奈瀬さんは確定だろうけど、問題は私だ。
逸る気持ちを抑えながら、彼らに倣って人だかりの中に飛び込もうとする私に、後ろから声がかかった。
「よう、いよいよ上がってきたな星川」
振り向くとそこには声の主、和谷義高が居た。
「おはよう和谷。……あ、じゃあもしかして」
「ああ。昇級おめでとう。……って言っても、お前なら時間の問題だったんだろうけどな」
……良かった、私も上がれたんだ。
もちろん私の立場から考えれば、院生内での昇級なんて通過点の1つにしか過ぎないけれど、奈瀬さんとの約束通り、一緒に1組に上がれた事が私は素直に嬉しかった。
「けど今日からはオレ達1組が相手だからな。2組と同じ様に簡単に勝ち続けられると思うなよ?」
喜びに浸っている私に、和谷が釘を刺すようにそう言う。
言われてみればそうだ。今日からいよいよ1組での対局が始まる。院生上位ともなれば限りなくプロに近い実力の持ち主達だ。私もある程度本腰入れてかからないと。
「確かにそうだね。でも、私も負けるつもりは全く無いからね?」
「お、言うじゃねーか。……ま、2組とはいえここまで全勝だもんな。実際1組にもお前との対局を楽しみにしている奴は結構いるんだぜ」
和谷の言う通り、院生になって以来、私は全ての対局に勝ち続けている。その為か、2組ながら私は院生の中でもある程度注目される存在になっていた。
とはいえ、研修手合ではもちろんなりふり構わず勝ちに行くような碁を打つ事はなく、正しい石の形や流れに沿った打ち筋を心がけている。いわゆる正統派ってやつだ。仮にもプロだった私が、伸び盛りの子達の自信を無くさせるなんてあってはいけない事なんだから。
そんな私の配慮もあってか、未だ無敗ながら院生内での私の評価は、『結構強い奴が入ってきたな』ぐらいに止まっている様に思う。
まあいずれはプロになって上を目指すのだから、実力を隠そうなんて事は別に思ってないけれど、下手に力の差を見せつけて化け物扱いされるのも嫌だし、これはこれで良かったかな、とも思っている。私と打つのを楽しみにしてくれる人がいる事の方がずっと嬉しいしね。
「もちろんオレもその一人だからな。お前との対局は……来週か。せいぜい首洗って待ってろよ?」
うん、今から本当に楽しみだよ。
「……ちょーっと和谷? 盛り上がってるとこ悪いんだけど、来週の事なんかより今日の心配をした方がいいんじゃないの?」
聞き慣れた声と共に、肩に腕を回される感触。振り返れば、私の肩越しに和谷をジト目で見つめる奈瀬さんの姿があった。
「あ、おはよう奈瀬さん。そうだ、私も1組に……」
「知ってる。さっき成績表見てきたからね。おめでと、彩。……そんな事より」
私への祝福の言葉もそこそこに、奈瀬さんは再びジト目に戻って和谷に視線を向ける。
「よ、よう奈瀬。どうしたんだよ。……今日、何かあったっけ?」
「何かあったっけじゃないわよ! アンタの午前の相手、私なんだからね?」
勢いよく捲し立てる奈瀬さんに最初こそ気圧され気味の和谷だったけれど、次第に悪戯そうに笑みを浮かべながら言葉を返す。
「へー、そうなのか。じゃあ今月は白星スタートできそうだな!」
「……ふーん、言ってくれるじゃない。セ・ン・パ・イ?」
そう言うと奈瀬さんは和谷に歩み寄り、私の時と同じ様に和谷の首に手を回す。少し違うのは……
「ちょ、待てって……あだだだ! ギブギブ! 冗談、じょーだんだって!」
奈瀬さんのヘッドロックを受け、悶絶する和谷。うーん、あれは痛いね。
「星川、見てないで助けてくれ!」
和谷の必死の懇願に、私は親指を上に向けて笑顔で彼に答えてあげたのだった。
「ドンマイ!」
―――
程なくして篠田先生が研修室に入ってくる。先程まで散々としていた子達も、皆一様に指定されている自分の席に着き始めた。
「あら、彩は私の隣なんだ」
「そうみたいだね。お互い頑張ろうね奈瀬さん」
偶然にも私の隣の席は奈瀬さんだった。お互いこれが1組でのデビュー戦。相手が上位の和谷という事を考えると、流石に少し厳しい相手かもしれない。でもここ最近の奈瀬さんの成長ぶりならば、決して悪い戦いにはならないはずだ。
「おー痛って……くっそ、こうなったら中押しで負かしてやるからな」
「ふーんだ。やれるものならやってみなさいよ」
早速盤外戦を繰り広げている二人を微笑ましく見守っていると、私の対面側の席に座る人影が目に入る。
そういえばヒカルの院生時代とは異なる点は他にもまだあった。それは……
「ちっ、コイツが相手か……」
私の1組デビュー戦の相手、真柴充の存在だった。
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