東方理想郷 ~ Unknowable Games.   作:まこと13

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前編ノ弐 ~計画~  
第9話 : 終焉と始まりと


 

「大ちゃん、ルーミア、早くー!」

「待ってよチルノちゃん!」

 

 妖怪の山の道なき道をチルノは軽快に登っていく。

 ワクワクしながら一人進んでいくチルノに、大妖精とルーミアはついていくのがやっとだった。

 

「チルノ―、もう休もうぜー」

「だって頂上までもうすぐでしょ。 ルーミアは妖怪のくせに山を登りきる元気もないのか!」

「あー、低級妖怪で悪かったな。 でも、なんというかもう全然力が出ないんだ」

「そうだよ、私もちょっと疲れちゃった。 もうすぐ頂上だからこそ、ここらで少し景色でも楽しんでいこうよ」

「むーっ、大ちゃんまでそう言うのか」

 

 チルノは今日の昼間に泣いていたことなど忘れて、すっかりいつも通りになっていた。

 日が沈み始めるまでずっと大妖精とルーミアを引っ張りまわして遊んだあげく、最後に早苗に言われた通り守矢神社に行こうということになったのだ。

 

「しょうがないな。 じゃあ、あたいもあいつをやっつけるためにちょっと休むよ!」

「あいつをやっつけるって……?」

「神社で早苗ともう一回勝負するんだ。 あたい、今度こそ負けないぞ!」

「……まだやる気なのか。 元気でいいな、チルノは」

「でも、やっといつものチルノちゃんに戻ったみたいで安心したよ」

「そーだな」

 

 一日中チルノに付き合ってヘトヘトな2人をよそに、チルノは一人燃えている。

 そんな時間を、3人とも楽しんでいた。

 休むと言ったにもかかわらず、ウズウズしながら走り回っているチルノを見てルーミアが言う。

 

「多分この感じなら、異変が終わり次第他の妖精たちもすぐ戻ってくるだろ」

「うん、大丈夫だと思うよ。 だって皆、なんだかんだ言ってチルノちゃんのことが大好きだもん」

「まあ、あたいは最強だからね! 妖精の皆のことはあたいが守ってあげないとダメなんだから」

「……そーだな」

「もちろん、ルーミアもね! ルーミアも、ルーミアの友達も、皆あたいが守ってあげるんだから!」

「ああ」

 

 チルノの言葉に答えるルーミアは、心なしか沈んで見えた。

 大妖精が少し心配そうな目で見つめるが、ルーミアは目を合わさずに上を向いて、

 

「……でも、私はいいよ。 どうせ異変が終わったらお別れだからな」

 

 そんなことを言う。

 

「えっ!?」

「ど、どうしてさ!?」

「ほら私がいた時ってさ、他の妖精たちは少し居辛そうだったし……何より、妖精の中にあんまり長いこと妖怪が一緒にいたらマズいだろ」

「そんなことないって! ルーミアのことならきっと皆認めてくれるよ」

 

 ルーミアは首を振る。

 

「いいんだ。 だってチルノたちはアレだろ? 妖怪を驚かして楽しむ側だ。 そして、私は驚かされる側の存在だ。 だから、この異変が終わったら私はまた一人に戻るよ」

「一人って……」

 

 ルーミアには同族がいない。

 人食い妖怪にしてはひ弱で、他の種とも異なる存在。

 それ故何にも属せず、ずっと一人で生きてきた。

 こんな性格をしているため自然と他の種に混じることもできたが、長い間誰かと一緒にいることなどなかった。

 地底にいる妖怪のように忌み嫌われていた訳ではない。

 妖怪としては外れ者。 

 妖精にも人間にも混じれない。

 ただ、そういう存在だった。

 

「でも別にそんなこと気にしなくていいじゃんか、みんなもきっと…」

「わかってないなぁ、チルノは」

「ど、どういうことさ!?」

 

 だが、ルーミアがそれを気に病んでいる様子など全くなかった。

 むしろ、自らのそんな境遇に満足しているかのように少し笑って言う。

 

「こういうのが楽しいんじゃないか。 私みたいな外れ者だからこそ、妖怪でも、妖精でも、神や月人って奴らとだって誰とでも接していける。 私は一応、名目上は人食い妖怪だから人間と接するのはちょっとキツいかもしれないけど、中には守矢の巫女みたいな変わり者だっているんだ。 こんな風にいろんな奴と出会っては別れてを繰り返す人生だって、それはそれで楽しいもんさ」

 

 ルーミアは今までずっとそうして生きてきた。

 もう誰かと別れるのが辛いとは思わない。

 誰かと別れるということは、また新しい誰かと出会えるかもしれないということなのだ。

 それは、ずっと一つの種族に、集団に属し続ける者には見えない世界なのだろう。

 

「……」

「そんな顔すんなって。 まあ、たまには私を驚かしにでも来てくれれば嬉しいけどね」

 

 こんなことに慣れきって笑っているルーミアとは対照に、友達とはずっと一緒にいることが当たり前だと思っているチルノや大妖精は寂しそうにうつむく。

 しかし、それでもチルノは無理して笑って、

 

「…わかった! じゃああたい、いつか絶対にルーミアが泣いて驚くような悪戯を仕掛けに行ってあげる!」

 

 ルーミアに向かって小指を差し出す。

 

「約束だ!」

「うん、私も一緒に頑張るよ!」

「……へえ、それは楽しみだ」

 

 ルーミアが手を差し出すと、それに掴み掛るようにチルノが小指で小指を握ってくる。

 そして、少しびっくりしたような顔のルーミアに向かって、

 

「だけど、それまではずっと一緒だからね!」

 

 自分の体の異変も忘れて、チルノは満面の笑みでそう言った。

 大妖精も頷きながらルーミアの目を見ている。

 

「……はいはい、わかったよ」

 

 ルーミアが少し視線を背けて顔をかきながらそう言った。

 

「……それより、冷たいんだが」

「ってわあっ!?」

 

 チルノの小指を伝って、ルーミアの手が少し凍る。

 チルノの近くに来るようになってから自分が凍らない対策を練っていたルーミアだが、さすがに直接力いっぱい接触されてはどうしようもなかった。

 

「ごめん、ルーミア…」

「まったく、相変わらずだなチルノは」

 

 少し目を逸らしてそう言いながらも、ルーミアは残ったほうの手をかざす。

 すると、チルノたちの視界が突然真っ暗になった。

 

「うわっ!? なんだこれ?」

「ちょっと、ルーミアちゃん!?」

「はははー、それじゃ休憩終了。 私は一足先に頂上に一番乗りだー」

 

 チルノと大妖精の視界を闇で覆ったまま、ルーミアは一人足早に進んだ。

 自分の顔が少し紅潮しているのを感じる。

 2人の顔を見るのが、今の自分の顔を2人に見せるのが何か少し照れ臭かった。

 

「約束、か」

 

 ルーミアは振り返らず、逃げるように進みながらそう呟く。

 

「待て―、あたいが一番だー!」

「ま、待ってよチルノちゃん!」

 

 随分と遠くからそんな声が聞こえた。

 だが、既に守矢神社が見えている。

 ルーミアは一気にスピードを上げて駆け抜けた。

 

「よーし、一番乗りー」

 

 猛スピードで迫ってくるチルノから逃げ切って、ルーミアは一人先に守矢神社の境内に着いた。

 しかし、守矢神社に着いてすぐに異変に気付く。

 

「……ん?」

 

 守矢神社は強力な結界で覆われていた。

 その中には神社に置くにはとても似つかわしくない、見たこともないような無機質な物体が並べられていた。

 

「なんだ、これ?」

 

 ルーミアにはそれが何なのかは全くわからない。

 ただ、辺りを覆う不吉な空気だけを感じる。

 そして……

 

「ルーミア、ずるい…」

 

 そう言いかけて、チルノは次の瞬間ただ呆然と立ち尽くしていた。

 

「……え?」

「すまない。 お前たちに恨みはないが…」

 

 突然守矢神社の上から降ってきた何かが、ルーミアに向かって大きな刀を振り下ろしていた。

 それと共に宙を舞った鮮血が、目の前の白狼天狗を染める。

 

「ルーミア……?」

 

 そして、そのまま地面に倒れ込んで動かなくなったルーミアを、朱に染まった椛が静かに見下ろしていた。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第9話 : 終焉と始まりと

 

 

 

 

 

「……邪悪を、消滅させる?」

「ええ。 今は八坂様と洩矢様が引き継いでいますが、そもそもこの計画の立案者は紫さんでした」

 

 文は後ろを向いたまま木や岩肌を華麗にすり抜けながら進んでいく。

 早苗は荒れた道に苦戦しながらも、なんとか文についていく。

 

「待ってください! 何なんですか、その邪悪っていうのは……?」

「まぁ簡単に言えば、その昔存在した、世界を滅ぼすほどの邪悪……絶対悪とでも呼ぶべきものと紫さんは言ってました」

「世界を滅ぼすって……何ですかそれ。 そんな途方もない話、聞いたことないですよ」

「私も、今回初めて聞かされました。 ……続けてもいいですか」

「……はい」

 

 まだ少しだけいつものような異変を想像していた早苗は、突然出てきた世界単位の話に頭がついていけない。

 話の触りを聞いただけで、早苗の顔が少し緊張で歪む。

 

「しかし、その邪悪は生まれる前ですら非常に強大な力を持っていて、完全に消滅させることも、封印することも、容易ではありませんでした。 そこで紫さんは閻魔様たちの協力も得て、その邪悪を3つに分けて封印することにしたそうです」

「3つに、分ける?」

「ええ。 その構成要素を閻魔様の能力で明確化し、決定づけられた3つの要素を紫さんの能力で境界分けして、それぞれ別の僻地に封印しました」

「まさか、その一つが…」

「そう。 前回の異変の舞台、旧地獄の最深部にある旧灼熱地獄です。 そして、その異変では間欠泉と一緒に地底の奥底にいた怨霊が湧き出てきたそうです。 紫さんはその時大急ぎで地底に向かったそうですが、そこに封印したはずの邪悪はもうどこにもいなかったみたいです」

「ということは…」

「ええ。 恐らくは怨霊を経由して、地上の生物たちに憑りついたのでしょう。 恐らくそれが、今回の異変の根本的な原因だろうとされています」

 

 そして、それが神奈子たちが紫に協力せざるを得なかった理由の一つであった。

 そもそも地底での異変は妖怪の山のエネルギー開発のために、神奈子が地底に八咫烏の力を送り込んだことが原因で起こったのだ。

 神奈子たちなりに幻想郷の未来を思って始めたことが、まさか幻想郷どころか世界を危険にさらすことになるとは思ってもみなかったのだろう。

 

「なるほど。 なんとなくですが、今回の異変のことについてはわかりました。 ……それで、神奈子様と諏訪子様は今、結局何をしているんですか?」

「それは……」

 

 文がまた少し口ごもる。

 しかし、早苗は何か口をはさむでもなく、そんな文のことをただまっすぐ見ている。

 しばらく無言のまま2人は守矢神社に向かっていったが、やがて文が口を開く。

 

「その怨霊の……邪悪の力の『感染者』を確保し、状態によっては隔離、封印。 あるいは……抹消、しています」

「なっ……抹消って、まさか」

「言葉のとおりです。 それに感染した者の存在が、そのままその邪悪の原動力になるんです。 だから、どんな手を使ってでも、その感染者を減らしていく必要がありました」

 

 実際、現状ではそうするしかなかった。

 感染者たちが持つ力は次第に増幅され、放っておけばそれは紫や神奈子たちですら手に余るものとなってしまう。

 そして、力をつけた感染者たちは手当たり次第周囲に危害を加え続けるのだ。

 それを治す手段が今のところ見つかっていない以上、居場所が発覚した時点で即捕える、あるいは消す必要があった。

 だから、異変で力をつけた者をどれだけ探しても見つからなかった。

 その能力を使って瞬時に捕えることのできる紫が昨日から不在となったため活動は少し停滞気味にはなっていたものの、藍や神奈子や諏訪子という実力者たちがその存在を隠していたのならば、魔理沙や早苗がいくら頑張ったところでそれを発見することは容易ではないのである。

 

「ふざけないでくださいっ!!」

 

 だが、そのことを知った早苗は文に向かって怒鳴る。

 それは文がかつて見たことのないほどの、早苗の怒りの表情だった。

 

「射命丸さんは…自分たちが何をやっているのかわかってるんですか?」

 

 しかし、文は動じない。 

 そうなることがわかっていたかのように、冷静な口調で返す。

 

「……だから、私たちは早苗さんに黙っていたんです。 早苗さんがこんな計画に乗ってくれる訳がないですから」

「当たり前じゃないですか、そんなことしなくても…っ!?」

 

 そこで、早苗が怯む。

 激昂する早苗以上に、文の視線が冷たく、真剣だったからだ。

 

「そんなことしなくても、なんですか? だったら早苗さんはどうすればよかったと思いますか?」

「どうって、そんなの…」

「こんな事態は初めてだというのに、私たちに失敗は許されないんです。 もしこのまま感染者が増えてその邪悪が蘇ってしまえば、その被害はこの異変の影響で今出ている犠牲者なんてレベルじゃない。 何千、何万の命、もしかしたら幻想郷、いや、世界そのものが滅びてしまうかもしれないという責任を負ってなお、そんな甘い考えが口にできますか?」

「……」

 

 早苗には何も言えなかった。

 恐らく、萃香が今ここにいない原因もこの異変が進行してしまったことにあるのだ。

 それを放っておけば、こんな悲しみがまた繰り返されるだろうことは早苗にも容易に想像できた。

 だが、頭ではわかっていても、早苗はそれを受け入れることができない。

 どんなことでも受け入れると覚悟していたつもりなのに、まだその覚悟が足りていなかったと痛感させられていた。

 それでも……

 

「私は…」

「ですが、早苗さんはそのままでいてください。 今回のことについては疑ってかかる人も必要です」

「え?」

「私も、紫さんたちを完全に信用した訳じゃありません。 私が教えてもらったことだけでは説明できない秘密が、少し多すぎますから」

 

 正直に言うと文にはわからないことだらけだった。

 早苗に言ったことが知っている全てという訳ではないが、それでも考え出したらキリがないほどに疑問が残っていた。

 だが、聞いたところで神奈子たちはそれ以上を教えてくれないし、そもそも紫や藍以外の誰かがそれ以上のことを知っているのかも怪しいのだ。

 そして、疑問が残るのは早苗も同じである。

 明らかに許容範囲を超えた状況を前に、早苗の頭は既にパンク寸前だった。

 

「あまり考え込まないでください、早苗さん。 もうすぐ守矢神社に着くんですから、思うことがあるのなら聞けばいいんですよ。 今の早苗さんには、この異変のことをしっかり知るだけの資格が十分あると思います」

「……そうですか」

 

 本当はまだ自分は口だけで何の覚悟もできていないのではないかと思い始めていた早苗は、文の言葉を素直に受け取れない。

 異変のことを知る資格なんてものが、本当に自分にあるのか。

 たとえあったとしても、それに伴う覚悟や力が果たして自分にあるのだろうかと。

 

「……あれ? あれは、大妖精さんじゃないですか?」

 

 文が、大急ぎで山を登っていく大妖精を見つける。

 そう言われて早苗が目線を上げると、一瞬だけ視界の片隅に映った大妖精の姿がすぐに見えなくなった。

 

「そういえば、チルノさんたちにはいつでも守矢神社に来てくださいって言いましたからね……――っ!!」

 

 早苗はさっきの話とチルノのことを照らし合わせる。

 神奈子たちは、その感染者たちを抹消しようとしていると文は言った。

 ならば、チルノがその例外になるはずがない。

 早苗は我を忘れて大急ぎで大妖精を追いかけた。

 

「待ってください、早苗さん!」

 

 ――このままじゃ、チルノさんがっ!?

 

 文さえも抜き去って、早苗はすぐに神社の境内にたどり着く。

 そこにあったのは異様な光景だった。

 

「チルノちゃん、一体何が…」

「ルーミアっ!?」

 

 そこには既に氷の鎧を纏ったチルノがいた。

 その前にあったのは、冷静な表情でチルノに向かって大きな刀を構える椛の姿だった。

 チルノは無我夢中で飛びながらも、半ば自働で行われているかのように椛に向かって大量の氷の刃を飛ばしていた。

 椛はそれに気づき、刀で制そうとするが、

 

「なっ……!?」

 

 その刀は一瞬で空気と一体化し、全ての熱を失う。

 椛は瞬時にその脅威を察知し、凍りかけた自分の手をそれでも刀から離して大きく後ろへ跳んだ。

 椛の持っていた刀は空中で氷漬けになって静止していた。

 そして、刀を持っていた手はほぼ凍傷の状態で、特に前に出していた右手はしばらくはまともに動きそうもない。

 その状況を察知した瞬間、椛は既にチルノの力が自分を上回っているだろうことを確信して身構えた。

 しかし、そんな冷静な椛とは違い、文は突然目の前で起きている状況を飲み込めないまま口を開く。

 

「ちょっと待って、椛、どういう状況!? なんでルーミアさんまで斬られて…」

「文……っ!? このバカ、なぜ東風谷様まで一緒にいる!!」

「なっ…バカって!?」

 

 状況が読めていないまま狼狽えている文を、椛はいつも以上にイライラした顔で睨む。

 その隙に、チルノは倒れているルーミアを抱きかかえた。

 

「しっかりしろ、ルーミア!!」

「……あー、チルノ、冷たい。 っていうかその状態で直接触られると冷たいってよりもはや痛いぞそれ」

「え?」

「なっ!?」

 

 しかし、そこに倒れていたルーミアはほぼ無傷だった。

 ルーミアは何事もなかったかのように立ち上がって言う。

 

「……ははは、残念。 ギリギリで闇を纏って斬撃を防いだのだー」

「バカな!? 動けるわけがないっ、だって、こんなに…」

 

「椛さん!!」

 

 狼狽える椛に向かって、早苗が叫ぶ。

 

「……何を、しているんですか?」

 

 椛は少し気まずそうな顔をするが、その目は早苗のことなど見ていない。

 あくまでこの隙に逃げようとするチルノたちだけを追っていた。

 

「逃がすか…!」

「待って椛! 多分チルノさんはまだ大丈夫だから…」

 

 そこに文が割って入る。

 早苗もチルノたちを守るかのように立ちふさがった。

 だが、椛はあくまでチルノたちと文のことだけをその目に捉えている。

 

「……命令を聞いていなかったのか? 少なくとも今日一日は東風谷様をここに近づけないのがお前の任務だっただろう」

「えっ!?」

「いいんだよ、椛。 もう早苗さんは子供じゃない。 少しくらい…」

「誰に許可を得てそんなことを言っている!!」

 

 本来であれば文よりも下の立場であるはずの椛が、文に向かって怒鳴る。

 それは階級社会である妖怪の山においては許されざることであるが、今は状況が違った。

 今妖怪の山の全権を担っているのは身分などに囚われない神奈子であるし、何より、たとえ文がどう判断しようと早苗が計画に立ち入っているこの状況は文が招いたものだからだ。

 

「その言葉、そっくりそのままお返しします、椛さん。 射命丸さんには私がここに連れてくるように頼みました。 椛さんこそ誰に断ってこんなことを…」

 

「私だよ」

 

 早苗がそう言いかけると、それを遮るように守矢神社の方から聞き覚えのある声が届いた。

 そして、突如として大きな揺れと共に大地が割れるかのような低い音が響く。

 

「うわっ!?」

「きゃあああああ!?」

 

 その音とともに、逃げたはずのチルノたちが早苗の前に転がり落ちてきた。

 チルノたちの進もうとした先の地面はえぐれるように大きく反り返り、まるで壁のようになっていた。

 早苗が目を向けると、その大地の壁の上にはチルノたちの前に立ちはだかるように諏訪子が、守矢神社の中には神奈子がいた。

 

「……神奈子様、諏訪子様」

 

 それを見て早苗は理解する。

 今チルノたちに攻撃を仕掛けたのは諏訪子なのだろう。

 そして、椛にこんな指示をしたのは神奈子だ。

 

「どうして……」

 

 それを実際に見てしまった早苗は、どれだけ覚悟をしていようとも、まだ心のどこかで2人のことを信じていただけにその顔が悲しく歪んでいく。

 

「大丈夫か!? 大ちゃん、ルーミア!」

「ああ。 私は何とか…」

「ぅ……」

 

 3人の内、チルノだけはまだ無事だったが、ルーミアは負傷し、大妖精はもうほとんど動けなくなっていた。

 ただ呆然と立ち尽くしていた早苗だったが、その様子を見て、神奈子と諏訪子に向かって一切怯むことなく食って掛かる。

 

「……だとしたら、なおさらです。 チルノさんたちは私の客人です。 いくら神奈子様と諏訪子様でも勝手に…」

「何をしている、射命丸。 早苗をさっさと連れていけ」

 

 しかし、やはり神奈子は椛と同じく早苗の話など聞かない。

 ただ、文だけに強く言った。

 

「っ、話を聞いてください、神奈子様!」

「ですが八坂様、話が違います! チルノさんはまだ十分な自我を保っていますし、何より無関係の大妖精さんとルーミアさんまで…」

「馬鹿が、まだわからないのか!!」

 

 そう怒鳴り、神奈子が文を睨む。

 一瞬戸惑った様子だった文だが、やがて握りしめたその拳からゆっくりと力を抜く。

 そして、何かを悟ったように呟いた。

 

「……ああ。 そういうことですか」

「射命丸さん…?」

 

 そして――

 

「……スペルカード宣言、風符『天狗道の開風』」

「え?」

 

 突如発生した風が早苗に襲い掛かる。

 予想外に起きた突風を避ける術はなく、早苗は無残に飛ばされて、来た道を転げ落ちていく。

 

「――――っ!!」

 

 とっさに逆風を出して減速したものの、早苗は神社から遠く引き離れされてしまう。

 ようやく勢いの全てを相殺して止まることのできた早苗が顔を上げると、そこには文が守矢神社へと続く道を塞ぐように立っていた。

 

「何を……何をするんですか射命丸さん!!」

 

 早苗は至る所が破れて泥だらけになった服のことも、折れた木の枝や地面に当たって体中にできた傷跡のことも気にせず、文に向かって叫んだ。

 

「すみませんが、しばらくは守矢神社から離れていてください」

「……その理由が分かりません。 どうしてか説明してください」

「言えません」

「そんな……神奈子様と諏訪子様は一体これから何をしようとしてるんですか!?」

「言えません」

 

 早苗は必死に文に聞くが、文は淡々とそれを拒絶する。

 早苗は、気付くと両手の指を地面に突き立てるようにして力いっぱい握りしめていた。

 

「なんでですか、射命丸さん……」

「……」

「私たちはついさっき誓ったばかりじゃないですか。 私たちがこの異変を解決するんだって。 私たちのことを信じてくれた萃香さんを絶対に裏切らないって!」

 

 早苗の目には、微かに涙が浮かんでいた。

 まるで世界の何もかもに裏切られたような悔しさに、ただ歯を食いしばっている。

 それでも、文なら話せば絶対にわかってくれると思っていた。

 

「ええ。 誓いました」

 

 しかし、文は表情を一切変えずにサラッと言う。

 

「ただ、一つ勘違いしていませんか?」

「……私が、何を勘違いしてるっていうんですか」

「今、守矢神社に向かうことが早苗さんの正義だというのなら、それでいいです。 何も間違ってなんかいません」

「だったら!」

「ですが、それはあくまで早苗さんの正義です。 そして――」

 

 そのまま、文はまた新たなスペルカードを構える。

 

「――これが、私の正義です」

 

 それは明確な決別の合図だった。

 さっきまで本当に信頼していた文は、一瞬で早苗の敵となり代わった。

 しかし、文の目には一点の曇りも迷いもない。

 そこに宿っているのは、言葉で言って通じるような覚悟では、なかった。

 

「……そうですか」

 

 早苗は静かに答えた。

 そして、懐に手を入れながらゆっくりと立ち上がる。

 

「それなら、私はここを押し通らせてもらいます」

「いいでしょう。 ではスペルカード枚数は…」

「一枚です。 今の私には射命丸さんのために割いているような時間はありません」

 

 一方的にそう言うと、早苗は一枚のスペルカードを取り出した。

 文は早苗とは今まで何度かスペルカード戦の勝負をしており、全てのスペルカードやその難易度を把握しているはずだった。

 早苗の成長速度を考えるのならば、恐らくは五分五分の戦いとなる。

 そう考えていた文だったが、早苗の懐から取り出された、一度も見たことのないスペルカードを見て戸惑う。

 

 そして、早苗の周りの空気の流れが変わった。

 

「霊夢さんとの勝負のためにずっと温めておいたんですが……本気の射命丸さんが相手ならそうも言ってられませんよね」

「これ、は…?」

 

 早苗を中心に強い風が渦を巻き始める。

 いや、ただの強い風ではない。

 風を司る文には風のスペルカードなど通用しそうもないものだが、これはもはや風と呼べるような代物ではなかった。

 辺りに巻き上げられた木の葉が、木々が、石が、大地が、風に呑まれるように散っては消えていく。

 分解されたそれらは早苗が上げた腕に沿うように渦を巻きながら結合し、天に向かっていく。

 その姿はまるで…

 

「龍……?」

 

 早苗を取り囲むように現れた塵と暴風の弾幕から成る龍を前に、文はただ言葉もなく立ち尽くしていた。

 それは他の早苗のスペルカードからは感じられない、強い死のイメージを初めて文に抱かせた。

 だが、それでも文の目は冷静にその弾幕を見ながら次の一手を模索している。

 文が退く様子は、全くない。

 

「……お願いですから、死ぬ前に諦めてくださいね」

 

 そして、早苗はその腕を振り下ろして宣言する。

 

 

「――大奇跡『八坂の神風』――」

 

 

 

 

 

 

 

 

「椛、お前は引き続き見張りに戻れ」

「はい」

 

 そう答えて、椛は守矢神社の屋根の上へと戻った。

 腕が使い物にならなくなったからといって、椛は戦線を離脱したりはしない。

 もう戦うことのできる状態にはなくとも、状況を見張ることくらいはできるからだ。

 その眼には、遠くで早苗の繰り出す風に翻弄される文が映っている。

 

「さて、そいつらのことは頼んだぞ、諏訪子」

「はいよ」

 

 そう言って神奈子は何をするつもりなのか、再び神社の奥に戻っていく。

 そしてただ一人、諏訪子だけがチルノたちの前に立ちふさがっている。

 2人を後ろに庇いながら、チルノは敵対心をむき出しにして諏訪子に対峙していた。

 だが、ルーミアは動けなくなった大妖精を抱えながらも冷静にチルノに言う。

 

「チルノ……まともに戦おうだなんて思うな。 こいつ、神だ。 それも多分、最上級の。 ちょっとくらい力がついた程度で太刀打ちできるような相手じゃない」

「でも、こいつは大ちゃんを!!」

「冷静になれ! 今大事なのはこいつを倒すことじゃない、大妖精を連れてどうやってこの場を逃げるかだろ?」

「あ……う、うん、わかった!」

 

 ルーミアが目くばせをすると、チルノはすぐに諏訪子に大量の氷の刃を飛ばす。

 それと同時に守矢神社全体が暗闇に覆われる。

 

「あれっ!? 見えない! なんで、なんにも…」

「いいから逃げるぞチルノ! 大丈夫、私の能力だから」

 

 ルーミアが暗闇をつくり、チルノの氷でかく乱する。

 その隙に逆の方向に逃げるというのが、単純ではあるが最善だとルーミアは判断したが……

 

「ああ、一応言っておくけど逃げられるだなんて思わないでね」

 

 諏訪子がそう言って指を鳴らすと、諏訪子に向かって飛んできた氷の刃はひとつ残らず砕け散る。

 暗闇の中で何が起こっていたのかはわからないが、自分が全力で圧縮して放った氷の刃が一瞬で全部砕けたことを察知したチルノは顔を引きつらせる。

 自称最強を名乗るチルノですら、瞬時にその力量差を本能に刻み込まされていた。

 そして、チルノはすぐにルーミアの言う通り逃げることに頭を切り替えたが……同時に周囲を取り囲むように隙間なく水柱が上がっていく。

 それは特段殺傷力のあるものではなかったが、そこにチルノがいたのがダメだった。

 

「痛っ!?」

「はい、簡易リングのできあがり」

「これは……?」

 

 チルノは暗闇の中で全力で何か分厚い壁のようなものに激突してしまう。

 冷やされた水柱が、チルノたちを取り囲むように氷の壁を作り出していた。

 今はそれぞれが冷気への対策を練っているから平気なものの、暴走したチルノの纏う冷気によって今の守矢神社付近の気温は氷点下にまで下がっていたのだ。

 混乱するチルノをよそに、暗闇の中で目が効くルーミアは一人冷静に逃げ道を探してはいたが、あまりに分厚すぎる氷のドームに囲まれ、空に逃げることすらできず、逃げ道は完全に閉ざされていた。

 

「どうなってるのさ、これは!」

「落ち着け、チルノ。 今この辺は氷の壁で囲まれてる。 逃げ道はなさそうだ」

「そういうことだよ。 ほら、しばらくここで大人しくしててね」

「……なんでさ。 どうしてこんなことするんだ、あたいたちが一体何をしたっていうんだ!!」

「そんなこと、妖精に言っても多分理解できないわ。 それに、たとえ伝わったとしても、それは決して相容れることはないものよ」

 

 ただ闇雲に叫んでるだけのチルノとは違い、ルーミアは冷静に諏訪子の隙を伺っていた。

 今この状況で目が見えているのは自分だけのはず。

 だから、どこかに突破口はあるはずだと思っていた。

 だが、見えているはずのない諏訪子のその目は、完全な暗闇の中でも明確に3人の姿を捉えているように見える。

 

「……マジかー」

 

 諏訪子クラスになると、たとえ目が見えなくとも、気配がなくとも、空気や地質の流れを感じるだけで誰がどこにいるのかがわかる。

 こんな低級妖怪1人と妖精2人という格下相手であっても、諏訪子が一瞬たりとも油断することはなかった。

 これでは自分の能力はチルノの妨げになるだけだと思ったルーミアは、諦めてその闇を消していく。

 

「あれ、見えるぞ?」

「……」

「ああ大丈夫、侮ったりなんてしないよ。 そこの氷の妖精も、今は割と高位の妖怪と戦えるくらいの力があることは把握してるからね」

「ちっ」

「よくわかんないけど、とにかくあたいたちはもう帰るんだ! 邪魔するならお前も凍らせていくよ!」

「そういう訳にもいかな…」

 

 諏訪子がそこまで言いかけて、全身氷漬けになる。

 チルノが前方につくった氷の塊の中心に閉じ込めたのだ。

 

「今のうちに逃げるよ!」

「でも、どうやって?」

「それは……」

「無理だよ。 諦めてじっとしててよ」

「えっ?」

 

 そこに、凍っていて喋れるはずのない諏訪子の声が響く。

 諏訪子が氷の塊の中で、まるで木の葉をかき分けるがごとくその腕を動かすと共に、取り囲む氷は粉々に砕け散っていた。

 

「そんな…」

「周りは全部氷の壁に囲まれてるから逃げられないよ。 今の貴方は凍らせることはできてもその氷を溶かすことも壊すこともできないんでしょ?」

 

 完全に凍らせたはずの諏訪子は、何事もなかったかのように3人の前に座り込んで、気楽そうな声で言う。

 いくら強化されているとはいえ、もはやチルノの力などほんの少しの足止め程度にしかならないことは明白だった。

 だが、諏訪子は特段何をする訳でもなく、のんびりと座りながら3人を見張っているだけだった。

 まるで、何かを待っているかのように。

 

「洩矢様!!」

 

 そこに、椛の声が響く。

 余裕の表情だった諏訪子はそれを聞いてゆっくりと立ち上がり、振り向きかけて……目を見開いて身構えた。

 

「っ!!」

 

 諏訪子が反射的に地面に手のひらをつけると同時に、氷の壁の向こうに分厚い大地の壁ができる。

 だが次の瞬間、その大地の壁ごとチルノたちの周りを覆っていた氷の壁が全て弾け飛んだ。

 

「うわあああああっ!?」

「何だっ?」

 

 それでも中の4人にケガはない。

 突如襲い掛かった巨大な龍は正確に大地の壁と氷のドームだけを消し飛ばしていた。

 

 そこには天まで届かんとする風龍を纏った早苗が立っている。

 

「……あー、射命丸はどうしたんだ?」

「向こうで少し眠ってもらってます」

「……確かに成長してくれるのは嬉しいんだけど。 ここまでとはねえ」

 

 早苗を取り巻いているその風はもはや人間が単独で出せるような大きさの力ではなかった。

 その身体に相当の負荷を、犠牲を伴って初めて出せるであろう力。

 もう一歩進めば風神の背中に届くだろうほどの風を、諏訪子に向けながら、

 

「――諏訪子様」

 

 早苗は龍を纏っていないもう一方の手でスペルカードを構えた。

 それを見て諏訪子が驚く。

 

「本気かい?」

「こうでもしなければ、諏訪子様は本気で私と話なんてしてくれないのでしょう?」

「……そうだね」

 

 早苗はもはや諏訪子に言い訳の余地すら与えるつもりはなかった。

 問答無用にスペルカードルールで諏訪子を打ちのめして解決するつもりなのである。

 しかし、早苗は今まで何度も諏訪子にスペルカード戦の手ほどきをしてもらっていたから理解していた。

 早苗と諏訪子の間には、ライバルというよりも師弟関係と言っていいほどの力の差があったことを。

 早苗は今の自分では諏訪子に勝てないことくらいわかってるつもりだった。

 それでも――

 

「……今まで諏訪子様と神奈子様は、未熟な私をいつも正してくれましたよね」

「そうだったっけ」

「こんなに出来の悪い私を、それでも見捨てることなくずっと見守っていてくれた」

 

 早苗がその風の力を溜めこんだまま、俯いて言う。

 だが、早苗は顔を上げ、諏訪子に向けたことのないような強い目をして、

 

「……だからこそ、私は何があっても絶対に逃げません! 諏訪子様が、神奈子様が道を外れたのなら、今度は私が2人を叱って正していきます。 たとえ何度負けようとも、どれだけ打ちのめされようとも、絶対にです!!」

 

 そう宣言した。

 予想外の早苗のその一言に、諏訪子の口元が緩む。

 

 ――あの早苗が、ここまで……

 

 諏訪子の頭からは既に計画のことなど吹き飛んでいた。

 そして、諏訪子の目つきが変わる。

 真剣なだけの目ではない。

 怒り狂ったときの目でもない。

 ただ、本気の目。 目の前の獲物を捕らえるために見開いた、久しく忘れていた野生の目。

 

「っ――!!」

 

 今まで感じたことのないほどの諏訪子の気迫に、早苗の足が震える。

 いや、そこから発せられているのは気迫でもない、覇気でもない、殺気でもない。

 ただ、祟神さえも支配する「恐怖」を纏った圧倒的な狂気。

 誰もが抵抗もなく服従してしまうような圧倒的な力。

 

 しかし、それを前に早苗は――

 

「へえ。 今の私を目の前にして、笑うか」

「あれ、私そんな顔してますか? ……でも、」

 

 そこにいたのは、いつもの諏訪子ではない。

 本来の自分を押し殺すように存在していた諏訪子ではない。

 その昔、神奈子と戦った時。

 霊夢に打ちのめされた時。

 そんな、本当の強敵に出会った時にしか見ることのない、諏訪子の本気の表情。

 そんなものを自分に向けられた早苗は、今度は思いっきり笑って言う。

 

「そんなの、笑うにきまってるじゃないですか!」

 

 初めて自分が認められた。

 見守られる対象じゃない、諏訪子の前に立つ対等なものとして認められたのだ。

 今の早苗の震えは恐怖から来るものではない。

 それは、嬉しさと高揚感から来る武者震いだった。

 

「そうかい、だったら御託はいい。 さあ、来なよ!」

 

 諏訪子に駆り立てられ、早苗は纏った風龍をさらに凝縮させる。

 それに伴って早苗の顔が苦痛に歪んでいく。

 元々人間に扱いきれるような大きさの力ではないのだ。

 暴走するそれを、ただ無理矢理押さえ込んでいるに過ぎない早苗には既に限界がきていた。

 だが、明らかに許容範囲を超えて悲鳴を上げる自分の体を、早苗はそれでも気遣うことはない。

 

 今、この瞬間のために生きてきた。

 異変を解決することじゃない。

 霊夢を超えることじゃない。

 ただ、神奈子と諏訪子に本当の意味で認めてもらう日だけを夢見てきた。

 だとしたら、この先のことなど考えていられない。

 早苗の頭からも、既に当初の目的など完全に消え去っていた。

 

 そして、早苗の風龍が大気を支配し、そこに存在するものを全て塵に変えていく。

 世界さえ消し飛ばしてしまいそうな脅威を纏った風龍をその右腕一本に乗せ、早苗が宣言する。

 

「行きます! スペルカード宣言、大奇跡…」

 

「そこまでだ」

 

 だが、その言葉と共に、早苗は自分の纏う風が不安定になるのを感じる。

 風龍の体はいつの間にか細切れになっていた。

 

「え……?」

 

 流れを断ち切られ、圧縮された風が拡散されていく。

 しかし、本来ならば神社ごと消し飛んでもおかしくない風の残照が取り残されたその地には、それでも次の瞬間何事もなかったかのように静寂が戻る。

 

「なんで、そんな……」

「気持ちはわかるが、遊びすぎだ諏訪子。 今は目的を忘れるな」

「あ……ごめん」

 

 諏訪子の表情が元に戻っていく。

 自分の限界さえも超えて放ったそのスペルカードが簡単に消え去ってしまった早苗は、動揺を隠しきれない。

 神奈子はその『乾を創造する能力』、即ち大気の全てを司る力を使ってその風を治めた手を、何事もなかったかのようにゆっくりと下ろした。

 そう。 人間である早苗がどれほどの風の力を放とうとも、本物の風神の前ではそれはあまりに無力だった。

 

「すまない、早苗。 今回のことはいつかきっと説明する」

「……」

 

 その声はもう、早苗に届いてはいなかった。

 

 今までずっと努力してきた。

 そして、初めてその努力が報われたと思った。

 初めて自分が認められたと思った。

 なのに…

 

 ――こんなにも、遠い。

 

 早苗は膝から崩れ落ちてその場に座り込む。

 その目は自らの放った風があったはずの静寂の空を、ただ呆然と見つめていた。

 

 神奈子はそんな早苗を横目に、早苗のスペルカードと諏訪子の狂気にあてられて腰を抜かしているチルノたちの方へ向かう。

 

「さて、不測の事態もあったが、やっと準備が整ったよ」

「あ……いや……」

 

 大妖精は既に気絶していた。

 そして、ルーミアでさえも、その目には明らかに恐怖の色が滲んでいた。

 神奈子はそのまま3人に向かって手を伸ばす。

 しかし、

 

「ぐっ!?」

 

 突如、神奈子の表情が歪んだ。

 その前には、俯いたままチルノが立ちふさがっている。

 

「……あたいは、逃げない」

 

 チルノは少し強がるように呟く。

 その身体は震えていた。

 怖くて、本当は泣いて逃げ出してしまいたい。

 そんな自分の感情を理解しながらも、それでもチルノは神奈子を強く睨む。

 

「お前がどんな奴だって知らない。 それでもあたいは最強なんだ」

「お前は……」

 

 チルノの力はさらに膨れ上がっていた。

 チルノに睨まれただけでその芯まで凍った神奈子の指が一本、折れて落ちる。

 

「だから、大ちゃんとルーミアには……もう、指一本触れさせるもんか!!」

 

 そして、チルノの震えが止まった。

 チルノを取り囲むように再び氷の鎧が出現し、守矢神社全体を覆うほどの無数の氷の刃が次々に神奈子に向かって飛んでいく。

 

 しかし、神奈子はその刃にも指の落ちた自分の手にも目もくれず、チルノの方を見て、

 

「……ああ、もう手遅れだったか」

 

 悲しそうな顔をしてそんなことを言った。

 神奈子に飛んできた氷の刃は、全て神奈子の直前で薄い風の膜に阻まれ、粉々に砕けて消える。

 

「え……?」

「少しは穏便に済ませようとも思っていたんだがな」

 

 そう言って神奈子が目を閉じると共に、大きな地震が起きる。

 正確には地震ではない。

 何か大きなものが動いたかのような振動。

 そして、気付くとそこには地面から大きな柱が何本も生えてきていた。

 

「なに、これ……?」

 

 大木を切り出して作られる御柱は、神奈子が戦闘で使う武器の一つであった。

 しかし、今回神奈子を囲うように現れた柱は、早苗が知っているような「スペルカード戦のために用意された柱」ではない。

 そこにあったのは、特殊な木を呪詛や札で覆った禍々しい代物だった。

 それを見て早苗は我に返り、神奈子が本気であることを確信する。

 

「逃げてください!!」

 

 チルノに向かってそう言うと、早苗は神奈子の方に走り出そうとする。

 しかし、早苗の足は大地の枷に拘束されていた。

 

「頼むよ、少しだけじっとしててよ」

「諏訪子様……っ!」

 

 諏訪子は木の蔦を早苗に絡ませ、さらに拘束する。

 動けない早苗はただ必死にチルノに呼びかける。

 

「チルノさん、逃げてください!!」

「うおおおおおおお!!」

 

 チルノにその声は届かなかった。

 チルノは全力で溜めた冷気を纏ったまま、神奈子に向かって突っ込んだ。

 だが、結果は火を見るより明らかであった。

 神奈子によって飛ばされた一本の御柱は、その空気摩擦の熱だけで冷気を全て掻き消してチルノにかすった。

 ほんの少しかすった。 ただそれだけで、チルノは地面に叩きつけられ、全身を得体のしれないものに焼かれるような痛みを感じていた。

 

「うぐあ、ああああああああああ!!」

「チルノ……?」

 

 ルーミアが不安そうな顔でチルノを見る。

 チルノのその痛がり様は異常だった。

 チルノはその氷の力を使って傷口を塞ぐことも、痛覚を麻痺させることも容易なはずだった。

 しかし、今のチルノにはそれができていないのだ。

 

「痛いよ、なんで、痛いよおおあああああ!?」

 

 本来なら、使うこと自体が躊躇われるような呪詛を纏った強大な力。

 妖怪や妖精が自らの身体を再生する力すらも、それごと消滅させるほどの呪いを乗せた禁呪の力。

 それを食らった痛みは、チルノにとって初めて経験するものだった。

 そのあまりの痛みに起き上がることができない。

 神奈子は申し訳なさそうな目をして、言う。

 

「……すまない、外したか」

 

 チルノは何も聞こえていないかのごとくのたうちまわっている。

 

「やめてください、神奈子様!!」

 

 早苗の必死の叫びも空しくかき消される。

 神奈子は、今度は大量の御柱を3人の周囲を取り囲むように構える。

 そして――

 

「……大丈夫、もう痛みなど感じさせない。 これで終わりにしてやる」

「やめてえええええええ!!」

「痛い、痛い、あああああああ!!!」

 

「――チルノっ!!」

 

「神祭、『エクスパンデッド・オンバシラ』」

 

 神奈子の宣言とほぼ同時に、ルーミアがチルノを呼ぶ声が響き渡った。

 突如、ルーミアが纏っていた闇が実体をもってチルノと大妖精の体を包む。

 そして、御柱の間を縫って、早苗の後ろに向かって2人を放り投げた。

 

「……え?」

 

 チルノは激痛の中、自分が元いた場所を見る。

 ルーミアは、笑っていた。

 

「……お前は、生きろよ」

 

 そして、その笑顔は神奈子の放った御柱の影に消えていった。

 

「ルー、ミア?」

 

 返事はない。

 返事というよりも、その影はおろか、砂煙さえも上がっていない。

 一か所に向かって衝突した御柱はそれを無残に粉砕した。

 あらゆる力が集約して融合したそこには、爆発どころか何かが起きたようにすら感じなかった。

 ただ、無音のまま空間そのものを歪ませて消し去り、そこには完全な「無」だけが存在していた。

 

「そんな……」

「ルーミア、なんで……」

 

 自分を襲う激痛のことなど、既にチルノの頭からは消え去っていた。

 

「……いやだ。 なんでよ、いやだ嘘だ、こんなの……」

 

 チルノはただ、ルーミアが「いた」はずの空間を見つめて、呆然と立ち尽くしていた。

 そして、

 

「嘘だああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 チルノが叫ぶとともに、突如妖怪の山が震える。

 

「っ、なんだ!?」

「神奈子! まさかこれは…」

「バカな、あり得ない!! どうして…」

 

 チルノを中心にして妖怪の山が枯れていく。

 枯れていくというよりも、全ての生命が止まっていくかのようだった。

 守矢神社が、わずかに残っていた木々が、薙ぎ倒された残骸たちが、全てが形を失って崩れ落ちていく。

 細胞組織そのものが崩壊し、やがて全てが一体化していく。

 無差別に、全ての存在の生命エネルギーそのものを凍結させていく。

 

 そして、誰に向けるでもなく、チルノが小さく呟いた。

 

「……許さない」

「チルノさん…?」

「殺してやる。 全員、絶対に殺してやる」

 

 涙さえ出ないその目からは、完全に光が失われていた。

 

「チルノさん、落ち着いて…」

「お前も、裏切ったんだな」

「え?」

 

 早苗が困惑した表情を浮かべる。

 

「あたいは……信じてた。 お前は友達なんだって信じてた! それなのに!」

「違うんです、チルノさ…」

「うるさい! うるさいうるさいうるさい。 あたいは、あたいは…!!」

 

 《そう。 お前は、全てが憎い》

 

 そこに、何か声が響く。

 早苗たちには聞こえない、ただチルノだけに直接語りかけるような声。

 チルノはそれに答えるように、ただその感情を乗せた言葉を吐き捨てる。

 

「……憎い。 ただお前が、お前たちが憎い」

「チルノさん!?」

「あたいはもう、何もいらない! 何もかも、全部っ!!」

「しっかりしてください…」

「こんな……こんな世界なら――」

「チルノさん!!」

 

「――全部、壊れてしまえばいい」

 

 そして、チルノの口から発されたとは思えないほど冷たく、無機質な声が辺りに響き渡った。

 突如として辺り一面が何か得体のしれない黒いものに覆われていく。

 チルノの発した氷の力などではなかった。

 それは強いて言葉にするならば、一面の闇――

 

「何、これ……?」

 

 早苗はただ呆然としたまま動けない。

 だが、それに触れてはいけないことを神奈子はすぐに察知して叫ぶ。

 

「早苗っ、逃げろおおおおお!!」

「えっ……?」

 

 気付くと、早苗の周りは全てがその闇に覆い隠されていた。

 早苗は何が起こってるのかもわからず動けなくなっている。

 

「あ……」

 

 それを見かねた諏訪子が両手を地面につくとともに、早苗のいた地面が空高く隆起する。

 早苗の元いた空間は闇に飲まれ、隆起した大地すらも不安定になって倒れていった。

 そして早苗はすぐに冷静さを取り戻して飛ぶ。

 早苗が立っていたはずの大地は、既に消え去っていた。

 

「これは…」

「ボーっとするな、早苗、神奈子!」

 

 早苗が無事だったことを見て、ほんの一瞬安堵したように見えた神奈子はまた叫び始める。

 

「椛、お前は早苗と一緒に今すぐ逃げろ! おい、聞いてるのか……っ!?」

「すみません、八坂、様……」

 

 椛の身体は既に闇に飲まれ、蝕まれていた。

 抵抗するように黒く染まった腕を伸ばそうとするものの、それは次第に形を失っていく。

 

「椛いいいいいっ!!」

 

 そこに、目にもとまらぬスピードで文が突っ込んでくる。

 椛に向かって、その手を差し出してくる。

 だが、それを察知した椛は……

 

「……文? っ!? バカ、来るな!!」

「え?」

 

 伸ばしかけたその手を、勢いよく引っ込めた。

 そして、その反動で崩れ落ちてしまった椛の形をした何かは、そのまま闇の中に消えていった。

 

「あ……」

「椛さん……?」

 

 文が手を伸ばした先にはもう何もなかった。

 椛がいた場所、守矢神社が元あった場所にはもう何もなかった。

 ただ、そこには一面の暗闇が広がっている。

 そしてその暗闇は、何もかもを手当たり次第に飲み込み、その勢力を次第に増していく。

 

「なんで……」

「椛……っ!! くそっ。 射命丸、そこはもう危険だ! 早苗も早く逃げろ!!」

「ですが!!」

「頼む、行ってくれ!」

 

 神奈子からはもう、いつもの余裕は全く感じられなかった。

 だが、それでも早苗は逃げない。

 自分はもう逃げないと決めていたから、神奈子や諏訪子を置いてはいけないから。

 

「でも、私は…」

「っ……失礼します!」

 

 文が猛スピードで早苗の腕を掴み、そのまま引っ張っていく。

 

「射命丸さん!? どうして…」

「早苗さんのことは、任せてください!」

「ありがとう、頼むよ」

 

 山が次々と飲み込まれ、勢力を増した闇が残ったものを食らいつくす。

 そして、その脅威が文と早苗に向かって襲いかかる。

 

「……くっ」

「させるか!!」

 

 諏訪子は新たに両手に構えた鉄の輪を何重にもして投げつけ、それを封じ込める。

 闇の動きを一瞬止めたように見えたそれは、しかし次の瞬間飲み込まれて消える。

 

「そんなっ!?」

「くそっ、いいから早苗は…」

 

 そこで、諏訪子の声が止まる。

 いつの間にか闇の中から近づいていたチルノが伸ばしたその手が、諏訪子の胸を貫いていた。

 その身体はそのまま中から凍っていく。

 

「諏訪子!!」

「諏訪子様っ!?」

 

「……はっ」

 

 しかし、諏訪子は自分を貫いているその腕を掴んで、

 

「甘えよ」

 

 凍りかけたその身体で、不敵に笑う。

 その足元からチルノを縛るように次々と蔓が生え、闇を切り裂いて大地の柱が諏訪子ごとチルノを取り囲んでいく。

 そして、

 

「神奈子っ!!」

 

 それ以上の言葉はかけなかった。

 ただ、神奈子は頷きながら天に手をかざして言った。

 

「射命丸、早く行け!」

「しかし…」

「行けっ!!」

「――――っ、はい!!」

「待ってください神奈子様、そんな…」

 

 早苗が空を見上げると、そこには異様な光景が広がっていた。

 山の天気が変わった――ではない。 

 天が割け、雲がその狭間から崩壊していく。

 幻想郷の終焉すらも思わせるその光景の中心には、そこから漏れ出す大気の全てを司るかのように神奈子が君臨している。

 そして神奈子はその全霊の力を瀕死の諏訪子に向ける。

 まるで、諏訪子ごと全てを消し飛ばそうとしているかのように。

 

 そんな光景が存在することが、早苗には耐えられなかった。

 

「行きます、早苗さん!」

「お願いです、やめてください神奈子様! 待って!! 嫌ぁぁ、諏訪子様ああああああああ!!」

 

 そのまま文は、泣き叫ぶ早苗を連れ去っていく。

 そんな早苗の叫び聞きながらも、諏訪子の口元は笑っていた。

 いや、既に聞こえてなどいないのだろう。

 元は諏訪子だったそれは既に、ただの氷のオブジェと化し、既に闇に飲まれかけていた。

 だが、それでもチルノを掴んだその腕を決して放しはしない。

 

「ああ、お前らしい最期だったよ、諏訪子」

 

 そう言って神奈子は諏訪子に一瞬だけ黙とうし、集約した力を放つ。

 そして――

 

「「あばよ」」

 

 その声は重なった。

 

 それは神奈子が諏訪子に向かって放った別れの言葉のはずだった。

 だが、誰の声が重なったのか。

 凍ってしまった諏訪子のはずがない、早苗たちももういない。

 だとしたら……

 

「な…に……」

「ダメだろ? 友達は大切にしないと」

 

 その力を放つ直前、神奈子の両肩から先が切り離されて落ちていった。

 それは飲み込まれて消え、その傷口から広がった闇が既に神奈子の体を蝕んでいた。

 

「なぜ、お前が生きて…」

 

 神奈子の後ろには、いつの間にか何者かが浮かんでいた。

 気配などしなかったし、さっきまでそこに存在してすらいなかった。

 神奈子ほどの実力があれば、それほどまでに近づかれれば気配に気付き、こんな奇襲にかかることはないはずなのである。

 だが、そいつは気配を消してなどいない。

 今この瞬間、ここに「生まれた」のだ。

 

 ――ああ、そうか。 あいつも既に堕ちていたのか。 

 

 それがあり得る状況を、神奈子はすぐに理解する。

 

「どうした、少しは抵抗してみたらどうだ?」

「……いや、もういい」

 

 いつの間にかそいつは、全てを掌握していたのだろう。

 神奈子は観念したように目を瞑って呟く。

 

「私たちの……完敗、か」

「いーや。 少しくらいは楽しませてもらったよ」

「……はっ。 そう、か…」

 

 そう言って、そいつはいつの間にか闇に溶け込んで消えていた。

 神奈子は力を失って落ちていく。

 動かなくなった諏訪子も、ついに力尽きて倒れこむ。

 そして、2人ともそのまま闇の中に消えていった。

 

 完全崩壊した守矢神社。

 そこにはただ、虚ろな目をしたチルノだけが立っていた。

 

 

 


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