東方理想郷 ~ Unknowable Games. 作:まこと13
――‥‥‥‥‥‥
――なんだろう、不思議な気分だった。
――少しだけ、幸せな記憶の中を漂っていたような気がする。
――大きな野望があるわけでもない、特別な何かがあるわけでもない。
――だけど、そいつはきっと幸せだったんだと思う。
――そう、ほんの少しの間だけは――
東方理想郷 ~ Unknowable Games.
第7話 : 怨霊
――私は、人間も妖怪もみんな大好きだったんだ。
誰かの傍にいることが喜びだった。
普通の日常が嬉しかった。
ただちょっとした幸せを感じていたいだけだった。
だけど――
*********
――それすら叶わない。
感情が黒く染まっては消えていく。
まるで、普通であろうとするのが許されざることであるかのように。
小さな幸せを求めることさえも禁じられているかのように。
ただ――
*********
――それが、地の底で終りなく続く。
誰からも愛される事無く。
誰からも疎まれ。
何を憎むべきかも解らず。
其して――
*********
――何も、要らなく為った。
自分が何を求めたかも忘レ。
生に意味スラ無ク。
唯ダ独リ消逝ク耳ミ。
否――
*********
――独ニ非ズ。
*********
――永ノ無ヲ全ニ。
*********
災厄ヲ破滅ヲ惨劇ヲ禍ヲ――
嘆キヲ悲ミヲ哀惜ヲ不幸ヲ――
絶望ヲ苦悩ヲ諦念ヲ空虚ヲ――
怒リヲ邪気ヲ狂気ヲ殺意ヲ――
憎悪ヲ恨ミヲ怨嗟ヲ復讐ヲ――
*********
全ノ闇デ、此ノ世界全テヲ――
其シテ、何時カ――――
*********
――――ニトリニ、
◆
「―――っ!?」
魔理沙が飛び起きたそこは、地霊殿の中だった。
旧都の一件で妖怪たちの気が立っているだろうことを考えると、現状で一番安全な場所ではあるため、勇儀が急いでそこに魔理沙を運び込んだのだ。
すぐ近くにさとりがいるその状況にもかかわらず、パチュリーとアリスは必死に結界で魔理沙を覆い、魔法をかけ続けていた。
そして、魔理沙が怨霊に完全に乗っ取られる寸前で、ようやくそれを浄化することに成功したのだ。
「ふう、起きたみたいね。 調子はどう?」
「……行かなくちゃ」
「え?」
汗だくになって疲れた様子のパチュリーが心配そうに覗き込むが、魔理沙はそう呟くと傍らにあった箒を片手に突然走り出した。
だが、上手く体が動かずにそのまま崩れ落ちる。
それをとっさにアリスが支える。
「ぐっ!?」
「ちょっ、待ちなさい魔理沙、病み上がりなんだからそんなにいきなり動いたらだめよ」
「でも、私は行かなきゃいけないんだ……」
「行くって、どこに…」
「にとりが危ないんだ!!」
魔理沙は見るからに焦った様子だが、アリスとパチュリーは状況が掴めていない。
ただ一人、魔理沙の心を読んで事情を知っているさとりだけが少し微笑みながらその様子を眺めていた。
「にとりって……確か、妖怪の山にいるっていう河童の?」
「ああ。 そういえばおかしいと思ってたんだよ、最近全然会えなくて…」
魔理沙は守矢神社のメンバーが起こした異変の解決に妖怪の山に行って以来、妖怪の山に住む河童の河城にとりと仲良くなった。
河童は科学の分野に非常に強い種族であり、中でもにとりは幻想郷にはない機械を次々と自分で考えて開発していく、幻想郷一の技術者と言っていい存在である。
魔理沙は何か面白い物を見つけるたびにそれを持ってにとりの所に遊びに行っていたが、ここ最近は異変の影響なのか天狗の監視の目が厳重で、妖怪の山に行ってもにとりに会うこともできず追い返されていたのだ。
「……なぁ、さとり。 あの怨霊は…」
「ええ。 地上に出て行ったとある怨霊の一部よ」
「怨霊ってのは…」
「大体が強い負の感情を抱えてるわ。 怨霊は恨みや悲しみでこの世に未練を遺したまま死んだ者たちの末路だからね」
「だったら…」
「その怨霊が地上に出れば、真っ先に向かうのはその感情の向く相手の所ね。 怨霊が外に出た時期を考えると、多分もう手遅れよ」
「……」
さとりは、ただ淡々とした口調で魔理沙の質問に答える。
魔理沙の頭には考えたくもないイメージばかりが浮かび、それを払拭しようとひたすら地面を殴りつける。
「……ちくしょう。 なんでこんなことになってんだよ。 もう、訳わかんねえよ!」
「落ち着きなさい魔理沙。 とりあえずゆっくりでいいから、何が起こってるのか説明してくれないかしら」
そこで、ずっと蚊帳の外におかれていたパチュリーが流石に痺れを切らして魔理沙に聞く。
「あ……そうだな、ごめん。 それと私、さっきは多分2人のおかげで助かったんだよな。 ありがとう、パチュリー、アリス」
「今はそういうのは別にいいわ。 さっきは、一体何があったの?」
「……ああ。 怨霊に乗っ取られた後、夢を見てるみたいに誰かの記憶の中にいたんだ。 内容はボンヤリとしか覚えてないけど、何か辛い記憶の中を漂ってたような気がする。 誰かに傍にいてほしくて、でも誰からも避けられていく、そんな記憶だった。 その記憶が、だんだん何かどす黒い感情に侵されていくような感じがあって、最後には復讐をって……」
少し思い出しただけでも吐きそうになる。
一体どれほどの苦悩を受けたらああなるのか。
自分だったら、すぐにでも精神が壊れてしまいそうな感情。
そして、それが崩壊する刹那、最期に浮かんだ相手が、
「……それで、そいつの最終的な標的が、にとりだったんだ」
「ふーん、なるほどね。 つまりその怨霊はにとりって河童にとんでもない殺意を持っていた奴だと。 そんなに恨まれるなんて、そいつは一体何をしたのかしら」
「それは、よくわからない。 だけど……なんか、無性に不安になるんだ。 もう手遅れなんじゃないかって、地上に戻ってもそこにはにとりがいないんじゃないかって……」
不安と焦りで魔理沙の手が震え始める。
動けるのならすぐにでもにとりの所に向かおうと思っていたが、脳裏に浮かぶ最悪の結末に恐怖し、その身体は動かなくなっていく。、
そして、冷静さをなくした魔理沙が一人言い立てる。
「くそっ、どうして……霊夢も紫もやられて、今度はにとりまで奪われるのかよ! 私はどうしたらいいんだよ……私はっ…」
「そしたら、貴方も気晴らしに復讐でもしてみたら?」
「え?」
そこで、何故か突然そんなことをさとりが微笑みながら提案した。
アリスは少し不機嫌そうにさとりを睨みながら聞く。
「はあ? あんた、何訳の分かんないこと言ってんのよ」
「元々貴方たちはこの異変を解決するためにここに来たんでしょう? それなら、異変の元凶に復讐でもして気を晴らしてみたら?」
「元凶って、そんなもんがわかってれば…」
「解き放ってはいけないものを怨霊と一緒に逃がしたのは誰? 怨霊たちを操って地上を混乱に陥れようとしたのは誰?」
「え……?」
魔理沙には、さとりが何を言っているのかわからなかった。
だが、唖然とした魔理沙の横で少し考え込んだアリスが、
「………まさかあんた、」
――地上に、復讐を?
それを最後まで言わずに、ただ睨むようにさとりを見る。
「ええ、大体貴方の考えてる通りよ」
最初に人形を介して会っていた時とは違い、そこにいるのはアリス本人である。
たとえ言わなくとも、考えただけの部分すらさとりに筒抜けの状態だった。
「……そこまで地上の民が憎い? 関係のない奴まで巻き添えにして、あんたは楽しいの!?」
「ええ。 だけど別に貴方にはそんなこと関係ないはずよ。 ただ私がそれを地上に逃がした、それだけのことでしょ? 博麗の巫女にしろ貴方たちにしろ、異変を起こした妖怪を退治するのに理由なんていらないはずじゃない?」
「っ!!」
さとりは、そんなことを全く悪びれる様子もなくまるで挑発するかのように告白する。
それを聞いたアリスは、何かを言いかけた魔理沙を遮り、完全な敵意をさとりに向かって放つ。
「いいえ、あんたが起こしたのは異変なんかじゃないわ! 日光を避けようとした吸血鬼も、興味本位で春を集めた亡霊も、宴会をしたかった鬼も、月からの逃亡者たちも、仕事を怠けた死神も、信仰を集めようとした神も、寂しさを紛らわせようとした天人も……きっと、誰一人として誰かを貶めようだなんて考えなかったはずよ!」
幻想郷にいる問題児たち。
それは皆、ただ自分の望みのために周りが見えなくなっていただけだった。
だが、今回は違う。
さとりはただ無作為に誰かを苦しめるためだけにわざと異変を起こしたと言うのだ。
アリスに向かって微かな嘲りの笑みを浮かべながら、さとりが言う。
「だったら、どうだっていうの?」
「っ!! ……そう。 あんたがそういうつもりだったのなら、あんたにはもうこの幻想郷にいる資格はない。 私が引導を渡してあげるわ」
アリスは殺意を押し殺しきれずに、そのまま臨戦態勢に入る。
さとりは無言のまま、それを少しだけ残念そうな顔で見ながら立ち上がる。
だが、さとりがアリスを見る目には次の瞬間にはもう何の感情もなかった。
まるで、こんなことに慣れ切ってしまったかのように。
さとりは懐から何かを取り出そうとするが、結局何も取り出さなかった。
アリスの手にはスペルカードは握られていない。
つまりは、そういうことだった。
これから行われるのはスペルカードによる異変解決ではない。
妖怪と妖怪の殺し合い。 幻想郷から失われたはずのそれが再び始まるだけだった。
だけど、誰も口を出せない。
ただアリスと同じくさとりを睨みつけるパチュリーも。
ただ腕を組んだままじっと目を瞑っている勇儀も。
そして、2つの地面を蹴る音が同時に鳴り響いて――
「ストーーーーップ!!」
「ぐっ!?」
それとともに、アリスに向かって横から魔理沙のドロップキックが炸裂した。
少しだけ吹き飛ばされたアリスは、それでも瞬時に体勢を整えて再びさとりに対峙しながら言う。
「……何すんのよ、魔理沙」
うまく動かない身体をおして少し冗長めいたツッコみを入れた魔理沙とは対照に、アリスの反応はいつもの魔理沙へ向けるようなふざけた態度ではなかった。
そこにあったのは、殺意の湧いたアリスの目。
相手を睨み殺すかのように冷たい、妖怪の目。
初めて見る、「妖怪」を感じさせるようなアリスの姿を前に、魔理沙は少し後ずさりしそうになりながらも懸命に強がってみせる。
「や、やめろよアリス、今の幻想郷のルールはスペルカードルールのはずだ。 それを…」
「邪魔よ魔理沙。 どいてなさい」
「断る! なぁ冷静になれよ、お前らしくないぞ」
「ええ、私もそう思うわ。 でもね、私はこういう奴が一番嫌いなのよ」
アリスが吐き捨てるように言う。
にとりのことで冷静さを失っていたはずの魔理沙だったが、突然のアリスの変貌を見て別の意味で気が動転していた。
魔理沙と話しながらも、アリスの指は既に次の攻撃の準備を始めている。
「わかってる? あんたが嫌われ者なのはその能力のせいなんかじゃない、あんた自身のせいだって」
「はあ?」
「この世界で最も嫌われる存在って言われてるのも納得できるわ。 お願いだからすぐにでも消えてくれないかしら」
「っ……!!」
魔理沙はそれを聞いて、アリスに対してあまり良くない感情を抱いた。
アリスがくだらない冗談を言うことはわかっていたが、そんなことを言うとは思っていなかった。
誰かの存在そのものを貶すような言葉を、アリスの口から聞きたくはなかった。
だから、魔理沙の口調も次第にアリスを叱るように昂っていく。
「おいアリス。 ちょっと黙れよ、さとりにだって…」
「黙らないわ。 こいつをこのままにしちゃいけない。 たとえ今回の異変を解決しても、いずれまた幻想郷に害をなす。 だから、その前に私が…」
「っ、黙れって言ってんだろ!!」
そして、魔理沙が遂に耐えきれなくなって怒鳴りつけると、アリスは少しだけ魔理沙を睨んだ。
逆上する魔理沙、半ばキレているアリス、無干渉の勇儀に、それを冷めた目で見ているさとり。
「はいはい! あー、もうやめましょう。 アリスも魔理沙も少し熱くなりすぎよ」
この場を収集できるのは、もうパチュリーくらいしかいなかった。
パチュリーは少しだけ呆れたような顔で、アリスのことを見てため息をつく。
「何よ」
「らしくもない、別にそこまでキレるほどのことでもないでしょう。 地底に来た当初から思ってたんだけど、アリスは古明地さとりに必要以上に敵意を向けすぎだわ。 別に何か因縁でもあるわけじゃないでしょうに」
「ええ、今日初めて会ったわ。 でも一目見て直感で思ったわ、こいつは気に食わないって」
「直感って…」
パチュリーは今まで、アリスは根っこの部分では自分よりずっと大人で冷静なのだと思っていただけに、明らかに滅茶苦茶なことを言ってくるアリスに違和感を感じていた。
何かアリスの逆鱗に触れる言葉でもあったのか、それとも何かのスイッチが入ってしまったのか。
だが、今はそれを気にしている場合ではなかった。
魔理沙の話を聞いた限りでは、にとりのことを考えると、すぐにでも妖怪の山に向かった方がいいからである。
「直感!? そんなことで…」
「落ち着きなさい。 たとえこいつが異変を起こしたのだとしても、私たちには先にやらなきゃいけないことがあるわ。 魔理沙は早くにとりっていう河童の所に行くんでしょ?」
「え? あ、ああ……」
「まだ、そいつが襲われたと決まった訳じゃない。 それなら、私たちにできることだってあるでしょ? 古明地さとりのことは別に急がなくてもいいわ、だからアリスも行きましょう」
激昂していた魔理沙をなだめて、パチュリーはアリスに手を差し出す。
しかし、アリスは攻撃する手は止めたものの、未だにさとりの方を向いている。
そして、そのまま振り返らずに言った。
「私はちょっと、ここに残るわ」
「っ!! アリス、貴方は…」
「わかってるわよパチュリー。 別にスペルカードルールを無視しようなんてつもりはないわ」
アリスはすっかり冷静さを取り戻して、いつものような表情に戻っていた。
だが、その目にはさとりへの嫌悪感だけはどうしようもないくらいしっかりと残っていた。
「それに、とりあえず今の異変の状況を考えると結局地底の協力は必要になるでしょ。 だから、結局は誰かが地底のことを解決して今後の話をする必要があるってわけ」
「でも…」
「大丈夫よ。 もう頭も冷えたし、ちょっと熱くなりすぎたことは反省してるわ。 だから、パチュリーは魔理沙と一緒に先に妖怪の山に行っておいて」
本当はパチュリーはアリスと魔理沙を向かわせて自分がここに残るつもりだったのだが、まだ少し魔理沙が熱くなっているところを見ると、アリスと2人だけで行動させるのに若干の不安を感じていた。
だが、さっきまでとは別人のようにすぐに冷静になったアリスを見ていると、実はこの状況もアリスの計算の上だったのじゃないかとさえ思えた。
いろいろと思うところはあったが、今そんなことを考えてもしょうがないので、パチュリーは諦めたようにため息を一つついて言う。
「はぁ……わかったわ。 じゃあ、妖怪の山で待ち合わせってのもいろいろ難しいし、とりあえず地底のことが一段落したら図書館にでも来て頂戴」
「はいはい」
まるでアリス一人でも地底を何とかすることくらい簡単であると言わんばかりのパチュリーの態度に、さとりと勇儀は少し怪しむような表情を浮かべていた。
「それと、くれぐれも熱くなりすぎないように」
「あーもう、わかってるわよ。 そっちこそさっさと行きなさいよ」
「そうね。 ほら行くわよ魔理沙、面倒だから帰りは貴方が乗せてって頂戴」
「……ああ」
魔理沙が箒にまたがると、パチュリーは当然のようにその後ろに座る。
来るときはずっとアリスの人形に運ばれ、帰りの移動も魔理沙に任せるパチュリーに呆れた目を向けられるくらいには、アリスは戻っていた。
だが魔理沙は、にとりの方に気持ちを切り替えたものの、アリスに向けたその不機嫌そうな目は直っていなかった。
魔理沙はアリスを一瞬睨んだ後、露骨に目を逸らして小さく呟くように言う。
「あのさ。 さとり、勇儀……」
「何かしら?」
「せっかく2人とも協力してくれてるけど、私は行かなきゃならないんだ。 だから……ごめんっ!」
そして、魔理沙はパチュリーを乗せて一気に地霊殿から飛び立った。
しばらく無言の時間が流れる。
少し居心地が悪そうにその場に佇むアリスに、さとりと勇儀は何も話しかけない。
――あーあ。 スペルカードルール、正直得意じゃないのよねぇ。 ま、しょうがないか。
そう思いながら、アリスが動こうとする。
さとりはその心を先読みしたという優位性を見せつけるかのように、今度はアリスより先にスペルカードを取り出して言う。
――さて、こいつにはどのスペルが有効かしら……
「それじゃあ、始めましょうか。 今度は貴方の望むスペルカードルールでの決闘を…」
「火車……でしょ? あの猫」
「っ!?」
しかし、それを遮ってアリスはおもむろにその場に腰を下ろして口を開いた。
さとりが珍しく驚いた顔をしている。
――っ!? やっぱり先手を取られたか……古明地さとり、侮り難し!!
「死体を運ぶ妖怪みたいだけど、実質怨霊を操ってるのはあの猫でしょ? 多分、怨霊を地上に逃がしたのもね」
「え? あれ……?」
明らかにアリスの感情と言動が噛み合っていなかった。
さとりは片手にスペルカードを構えたまま動けずにいる。
目を見開いてうろたえているさとりの姿など見たことがなかった勇儀は、驚きを隠せない。
口をぱくぱくさせながら、次に言うことを思いつけないさとりをよそに、アリスはただ淡々と続ける。
――あっるぇー、どうしたの? もっしもーし、何で固まってるの? もしかして……これはチャンス!?
「まぁ、でも怨霊と一緒にそんなものが封印されてるだなんて知らなかったんでしょう。 どう見てもわざと地上に害をなそうとするような奴には見えないわ。 あんたと違ってね」
「なんで? だって、貴方は…」
「あら、あんたのことを少し買いかぶりすぎてたかしら。 まだ気づかない? 例えば、そうね、これが今の私の本心なんだけど」
焦りきっていたさとりは、そう言われて反射的に注意深くアリスの心を読もうとしてしまう。
そこにはこんな感情が見えた。
――さとり!さとり!さとり!さとりぅぅうううわぁああああああああああああああああああああああん!!! あぁああああ…ああ…あっあっー!あぁああああああ!!!さとりさとりさとりぅううぁわぁああああ!!! あぁクンカクンカ!クンカクンカ!スーハースーハー!スーハースーハー!いい匂いだなぁ…くんくん んはぁっ!古明地さとりたんの桃色の髪をクンカクンカしたいお!クンカクンカ!あぁあ!! 間違えた!モフモフしたいお!モフモフ!モフモフ!髪髪モフモフ!カリカリモフモフ…きゅんきゅんきゅい!! さとりんかわいかったよぅ!!あぁぁああ…あああ…あっあぁああああ!!ふぁぁあああんんっ!! あぁあああああ!かわいい!さとりん!かわいい!あっああぁああ! いやぁああああああ!!!にゃああああああああん!!ぎゃああああああああ……
「―ーー―っ!?」
さとりが絶句する。
それを見てアリスは相変わらず面倒そうに、それでも少し満足気に言う。
「まぁ、大体わかってくれたかしら」
「……ふふっ、あははははははは」
そして、さとりはやっと理解した。
「なるほどね。 どうやってるのかは知らないけど、今までずっと私は貴方の心を読んでたんじゃない、別の何かを読まされてたって訳ね」
「そういうこと。 でも、私がスペルカードルールが苦手なのは本当よ。 だからこういうことをしたんだけど…」
――面倒だから、今回は私の勝ちってことにしてもらえないかしら。
アリスはそれを口には出さずに、ただ考えただけだった。
今しがた騙されたさとりには、本当にそれがアリスの考えていることなのかどうかはわからない。
だが、それでもさとりは、
「ああ、そうね。 私の完敗よ」
そう言って両手を上げて降参した。
さとりが心を読めないのは別に初めての経験ではなかった。
心を閉ざしてしまった自分の妹。
境界を操る能力で自分の心を隠す紫。
機械のように、本当の意味での心を持たない存在。
本当に何も考えていない馬鹿。
さとりにはそれらの思考を読むことができなかったが、それはそれで読めないなりに対処法はある。
心が読めない相手にも、それでも「もしかしたら心が読まれているかもしれない」という不安感が残っている優位性と、周囲の悪意を一挙に受け続けて手にした話術で、さとりは紫にすら心理戦では優位に立てるという自負があった。
しかし今回は、アリスが偽った心を読ませることによって、さとりは自分が圧倒的優位に立っているという慢心を抱かされ、その心理を根底から突き崩されたのである。
力やスペルカードルールなど介在しない、純粋な心理戦での敗北。
それはさとりにとって、どんな負け方よりも認めざるを得ない大敗だった。
「……まったく、こんなこと初めてよ。 私に感情をミスリードさせることができるなんて、貴方は一体何者なのかしら」
「さぁ? お得意の読心で読んでみたら?」
「ぶっ!?」
それを読んださとりは、堪えきれずに噴き出す。
そして、少し小刻みに震えながら言う。
「なるほど、世界を司る魔神の血族……ね。 わかった、もうわかったから。 話が進まないからもう貴方の心を読むのは止めにするわ」
「できればそうしてほしいわ。 読まれないように話すのも疲れるのよ」
さとりは少し笑いながら、そっと第三の目を伏せる。
それと同時に、アリスがさとりに問う。
「で、合格かしら?」
「………はぁ。 もう、本当に貴方みたいなのの相手をするのは嫌だわ。 どっちが心を読めてるのかわからなくなる」
「あー、もう! お前たちさっきから何言ってんだよ!!」
さっきまで黙っていた勇儀が、遂に耐え切れずにそう言った。
勇儀も一応は怨霊の一件の原因がお燐にあることは知っていたが、それを自分の仕業だというさとりが、また自分のペットを庇おうとしているのかと思っていたため、そのさとりの決意を無駄にしないために黙っていた。
だが、さとりに殺意を向けていたはずのアリスが実はそのことを知っていたり、さとりが突然負けを宣言したりと、途中から意味がわからなくなっていた。
「……まぁ、そうね。 合格ってよりも、正直私は貴方よりもさらにあの子の方が少し怖いわ」
「はあ!? だから、何なんだよ!?」
2人に問う勇儀を、アリスとさとりはあからさまに無視する。
「いきなり怨霊を叩き付けられた後で、事情も知らないのに普通私を信用なんてできる? あんな状況で少しも私を嫌悪せず、たった一人の妖怪のためにあそこまで一生懸命になれる? そんな人間まずいないわ。 いるとしたらまっすぐ過ぎる、ってよりもそれを通り過ぎて極度の馬鹿なんじゃないかしら」
「多分、後者寄りね」
「……おい」
さとりもアリスも勇儀に何も説明しない。
いちいち相手をするのが面倒、というよりもさとりはそれを面白がっているかのようだった。
まるでさとりにとっての勇儀は、アリスにとっての魔理沙のような、からかう対象であるかのように。
そして、それを何となく理解していたアリスは面白そうなのでさとりに合わせていたのだ。
だが、勇儀の顔にもだんだんと怒りの色が見え始める。
それを感じて、流石に面白さよりも本能的な身の危険が勝ってしまったアリスが口を開く。
「このいけ好かない妖怪が、私たちのことを試してたのよ。 わざと私たちを挑発するようなことを続けることで自分に敵意を向けさせて、どう動いてくるかや力量を自分自身で直接試そうとしたってところね。 まぁ、私はこいつが怨霊の管理を実質してないだろうことを知ってたから何かたくらんでるのも予想できたけど」
「な……待てよ、何でさとりがそんなことを…」
「まあ半分はただの興味本位だけど……貴方みたいな運動能力しか能のない単細胞をただスペルカードで倒したっていうだけの集団なら、たとえそいつらが困っていたとしてもそれは多分大した異変じゃないだろうし、正直わざわざ私が協力する価値を見出せないってことよ。 それに、たとえそれが原因で危険な殺し合いになったとしても、最終的には貴方が止めてくれるから安心でしょう?」
「お、おう」
また微妙にバカにされたことに怒りそうになった勇儀だったが、自分を信頼してくれているかのようなさとりの言葉に、中途半端に高ぶった感情の行き先がわからなくなって少し照れくさそうにうなずく。
そんな子供だましの飴と鞭の使い分けで懐柔される勇儀を見たアリスは、そんなんでいいのか鬼の四天王…と、笑いを通り越して少し呆れそうだった。
「まぁ、でも正直あの子も貴方も予想以上だったわ」
「あら、それは褒め言葉ととらえていいのかしら」
「ええ。 八雲紫が死んで、貴方みたいなのですら地底に協力を求めるべきと判断したってことは、地上は本当に面倒なことになってるんでしょうね」
「そういうこと。 できれば、そこにいる鬼やら何やら、地底の有力者にまとめて話をつけられると嬉しいんだけど…」
「でも、多分貴方にも予想はついてるだろうけど、私にそこまでの権限はないわ。 ただ、私は興味が湧いたから少し地上に出てみようと思うけど」
「別に、あんたは…」
「実際はそこまで強い妖怪じゃないから、地上に来たところで諍いが増えるだけで特段戦力にもならないし地底で怨霊の管理でもしてろ……とか言いたいんでしょう? でも、流石にそれは私を甘く見すぎじゃなくて?」
そう言ってさとりは自分の腰の後ろを指でサッと払うような仕草をする。
それをアリスは見逃さなかった。
実際は、アリスはさとりのことを侮っているつもりなど一切なかった。
さとりが何をするか、細心の注意を払っていたつもりだったが、
「………―――っ!?」
次の瞬間、アリスの隠し持っていた人形が一体、突然音もなく爆散した。
髪が落ちた音にも反応するほどに集中していたアリスだったが、何をされたか全くわからなかった。
突然の出来事に、アリスは驚きの声も出なかった。
勇儀すらも何が起こったかわからず、ただ驚いていた。
その様子を見て、さとりは少し満足気に言う。
「確かに今回は私の負けよ、それは認めるわ。 だけど、あの魔理沙って子に最初に言った通り、私はスペルカードルールさえなければ貴方たち程度なら一瞬で消せるっていうのは本当よ。 それは、そこにいる勇儀さんだって同じ。 その辺は、努々忘れないよう」
そう言ってさとりはゆっくりと立ち上がる。
アリスはそれに反応するように、とっさに後ろに飛び退いて身構えた。
しかし、さとりはアリスに何をするわけでもなく、ただ勇儀のほうを向いて言う。
「そうそう勇儀さん、お燐とお空に伝言を頼めるかしら」
「え?」
「お空はお燐から今回の事情を聞いて、後は貴方たちの動きたいように動きなさい、と」
「別にいいが、お前は…」
「私は少し行ってくるわ。 この異変の果てを知りに、ね。 じゃあ行きましょうか――」
「はあ? 何だそ……れっ!?」
勇儀がそう言いかけた次の瞬間、少し手を伸ばしたかに見えたさとりの姿が目の前から忽然と消えた。
まったく気配もなく、音も立てず、文字通り消えたのである。
突然の静寂を前に、塵になってしまった人形の成れの果てを見ながらアリスは独り言のように言う。
「……流石に、これは予想してなかったわ。 ハッタリだけの読心妖怪だと思ってたのだけど」
「ああ、私もさとりにこんな力があるなんて知らなかったよ」
「まぁ、そこは嬉しい誤算だと思っておくわ」
そう言って、アリスはそのまま踵を返す。
そして、無言のまま地霊殿の外へ出ようとしていた。
次は自分に何か頼んでくるのだろうと思っていた勇儀は、少し焦るようにアリスを引き止める。
「ま、待てよ、私には何か…」
「貴方がこれから何をするかは任せるわ。 ってよりも、何か言ったところで別にそれに従ってくれる訳じゃないでしょう?」
「え?」
アリスは至極当然のことのように鬼の四天王の勇儀に対して上から目線で話す。
勇儀がそれだけのことで腹を立てるような相手だとは思っていない。
ただ、鬼が自らの矜恃に従って動く存在で、誰かに命令されるのを好まないことは知っていた。
「古明地さとりはただの脳筋だとか言うけど、貴方は別に馬鹿じゃない。 だから、異変のことや私たちの要件はもう十分に伝えたから指示なんて出す必要はないだろうし、私は運よく何かいいことでも起きないかなーと期待しながら地上に帰るわ」
「……なるほどね、了解した」
そっけない、しかしそれでいて鬼の性分というものをわかっているかのように話すアリスに、勇儀は少し嬉しそうに返事をする。
誰かに言われたからやるのではない。
自分が納得したが故にやる。
自分が思うが故にやる。
基本的にはそれだけが鬼の行動原理である。
たとえ勇儀が納得したとしても、人伝に、しかも地上人からの依頼で積極的に動く鬼など、他にいないだろうことはわかっていた。
だからこそ、勇儀の自発的な行動を誘発するその言い方が何を依頼するよりも一番効果的だとアリスは判断したのだ。
そして、アリスは勇儀の返事に何も返さず、そのまま立ち止まることもなくゆっくりと地霊殿を後にした。
地霊殿には勇儀だけが残される。
アリスたちを追いかけるわけでもなく、ただ一人そこにどっかりと座り込んでいる。
そして、誰に話しかける訳でもなく、それでも何かに語りかけるように言った。
「ああ、面白い奴らだったよなぁ。 もしかしたら、あいつらだったらお前のことも救ってやれたのかな」
当然だが、返事はない。
「……いや、もうそんなこと言っても後の祭りか」
そこには誰もいない。
だが、勇儀はそれが当然聞こえていることを疑わないかのように続ける。
「私は結局お前に何もしてやれなかったけどさ、それでも……」
勇儀は何かを言おうとして小さく口を開ける。
しかしそれをやめ、隠し持っていた酒を一本、言いかけたことを呑み込むように豪快に飲み干してしばらく俯いた。
勇儀は動かない。
酔ってなどいない。
ただ、誰かに捧げるようにしばらくの間静かに黙祷していた。
そして数十秒の後、何かをごまかそうとするかのように突然大きな声で、
「さぁて、そんじゃ私もそろそろ行くとしようか!」
誰に向けるでもなくそれだけ言って、立ち上がる。
勇儀が一瞬だけ目線を向けたのは、魔理沙を助けるためにパチュリーが張った結界だけ。
そこにはもう誰もいない。
ただ微かに、その結界の上を白い煙のようなものが消えゆこうとしているだけだった。
それでも勇儀は、そこに軽く後ろ手を振りながら、
「じゃあな、―――」
とても似つかわしくない小声で誰かの名を囁き、一人歩き出した。
勇儀はもう振り返らない。
ただ、その声に呼応するかのように、その煙はゆっくりと空気に溶けていった。