東方理想郷 ~ Unknowable Games. 作:まこと13
だいぶ遅くなりましたが、次章の方針が割と固まったので投稿再開します。
今回が番外編ラストになります。
――いつからだろう。自分が一体何者なのかわからなくなっていた。
空亡妖怪。
かつて、彼女はそう呼ばれていた。
妖怪と冠されながらも、妖怪の賢者や最強の妖獣とさえ比較されることはない。
会ったこともない多くの者は、存在そのものに恐怖し。
一度でも会ったことのある者は、その力に畏怖し。
一般的な常識から外れた闇の権化、世界を覆いつくす概念そのものとして認識されていた。
故に、異次元の世界の住人である彼女を、個の名で知る者はごく僅かであった。
それが、彼女の全てだった。
だからこそ彼女は、そんな力の塊こそが自分という存在の原点なのだと自然と理解し始める。
多くの生物が自らの命のメカニズムに大した興味を抱かないのと同様に、彼女もまた自分の存在の根幹にある強さになど興味を抱くことはなかった。
――だけど、いつからか。今度は自分が一体どこにあるのかわからなくなっていた。
ある日を境に、会ったことのない多くの者が存在そのものを気にも留めなくなり。
実際に会ったことのある者は、妖怪とは思えないほどの非力さを一笑し。
確か、その頃から彼女はこう呼ばれていた。
ルーミア。
妖怪でありながらも、妖精たちとさえ同列にされる木っ端妖怪。
有象無象に紛れた、あまりにちっぽけな弱者として認識されていた。
故に、彼女の本当の種族を知る者はほとんどいない。
だが、それは彼女の全てではなかった。
彼女が概念としてではなく、個として認識され始めたから。
いつの間にか、彼女の周りには仲間がいた。
力を失ったが故に得た友情、信頼、次第にそんな新たな価値観に満たされていく。
いつしか彼女は、友人たちと共に過ごすそんな世界こそが、自分のあるべき場所なのだと感じ始めて――
――だとしたら。今までの私は一体何だったんだ?
同時に、その感覚は彼女を困惑させた。
自分という存在の原点は、本当に力の在り方そのものにあったのか。
もしそうだとすれば、ルーミアとして仲間たちと過ごしている今の自分はかつての自分とは全くの別人で、空亡として孤高に生きてきたあの妖怪は、力を失った時にこの世から消えてしまったのか。
それは答えの出ない哲学的な問いかけであっても、彼女にとっては死活問題であった。
彼女が今まで生きてきたあまりに永き人生は、簡単になかったことにしてしまえるほど薄っぺらいものではなかったのだ。
だからこそ。当時の彼女は、無自覚ながらにも確かに一人の少女に二度救われていた。
闇の権化としての概念的な存在であった頃の彼女を、いとも簡単に打ち負かした一人の少女がいたから。
その少女がいたからこそ、最強の空亡妖怪ではなくルーミアという個としての存在を実感することができて。
ただの木っ端妖怪に成り下がった彼女を、空亡妖怪としての彼女を知りながらも共に過ごしてくれた一人の少女がいたから。
その少女といる時だけは、自分がただの木っ端妖怪ではなく空亡妖怪という種であるのだと自覚できた。
その感覚が、何となく嬉しかった。
たとえその少女に、彼女を救おうなどという気が全くなかったとしても。
自分の力も心も、かつての自分も今の自分も同じくここに生きていると感じられる、そんな居場所をくれたから。
――だから、なのかな。私があいつにこだわるのは。
故に、それは必然だったのだろう。
そんな居場所をくれたたった一人の少女が自らの存在意義を見出せていないことに気付いた時、彼女の心を埋め尽くしていた想いは――
東方理想郷 ~ Unknowable Games.
外伝ノ肆 : 最強が生まれた日
ルーミアは当然のごとく地に横たわり、静かな夜空を見上げていた。
派手に撃ち合った弾幕戦によって数多の竹をへし折られた景色は、空をいつもより少しだけ広く感じさせる。
ふと、視界の中心に鎮座する満月が届きそうなほど近くにある気がして、ルーミアは手を伸ばした。
だけど、目の前にあるのは傷だらけで泥にまみれた弱弱しい手でしかなくて。
遥か遠きあの場所に決して届きはしない無力さに囚われそうになって、伸ばしかけた手をそっと目元へと下ろした。
「やっぱり、貴方も満月に想いを馳せたりするのかしら」
「……いんや、別に」
その声に、ルーミアは曖昧な返事で返す。
夜の闇を掻き消す光を灯すその星は、空亡妖怪にとって忌々しいものであって、それ以上でもそれ以下でもないはずだったから。
だが、言葉には出さずとも、力を失って初めて気付くこともあった。
固定概念を捨てて見てみると、存外悪くないと。
たとえ自分が他の妖怪のように月の魔力を得ることができずとも、その美しさに心が惹かれる程度の感覚はルーミアの中にも存在したのだ。
「そーいうお前はどうなんだよ。故郷が懐かしかったりするのか?」
「まさか」
その一方で、同じく月を見上げていたはずの輝夜は、ルーミアの質問を簡単に笑い飛ばした。
「別に何とも思わないし、もう何も期待してないわ。地上も月も、結局は全部一緒よ」
月にいようとも地上にいようとも、何も変わらなかった。
いや、たとえどこにいても変わるはずがないのだ。
未来への期待も、過去への郷愁も、もはや感じることはない。
輝夜は既に、そういう存在としての生き方を確立させてしまったのだから。
「何だ、月でも地上でもどっちでもいいのか。てっきり気に入ったから地上に残ってんのかと思ってたんだけどな」
「……そうね。まぁ、確かに一時期は地上が面白いと思ったこともあるけど」
「そーなのか?」
それでも、かつては地上での生活に少しでも楽しみを見つけたこともあった。
輝夜は少しだけ記憶を辿っていく。
無理して思い出さなくても自然と浮かんでくる、最も輝いていた日々の記憶を。
「昔ね、幻想郷にもちょっと面白い奴がいたのよ」
それはいつも通りの、他愛ない会話のように何気なく語られた。
「面白い奴?」
「ええ。私に復讐をーとか言って喧嘩売りに来たバカな人間がいてね」
「……それって、面白いのか?」
「面白いわよー、何度ボコボコにしてもその度に強くなって戻ってくるの。おかげで全然退屈しなかったわ」
その感覚は、あまりに永き時を生きながらも最近になって初めて知ったものだった。
見苦しいほどの執着を持つ人間の、歪みきった魅力。
輝夜はそれを、深く想起しようとする。
だが、その記憶を辿ろうとして、それでも表情は次第に曇っていく。
「でもね、結局はそいつもいなくなったわ。友情や愛情だなんて、手を出すべきじゃない果実に誘惑されて」
なぜならそれは、既に失くして二度と戻ることなき時間。
今さら思い出してもただ空しくなるだけで、何の意味もないことに気付いていたから。
「……わからないな」
「何が?」
「友情や愛情に手を出すべきじゃないって、そんなの個人の勝手だろ。私が言うのも何だけど、復讐なんかよりよっぽど健全な生き方に思えるぞ」
「いいえ、違うわ」
それはルーミアや、世界に生きるほとんどの感情に則れば悪いものではない、そんなことは輝夜にもわかっていた。
だけど、自分にとって、その人間にとってのそれは、同じではないことを輝夜は知っていた。
「貴方は、有限の世界の住人だから。いつか散りゆく儚さを持っているからこそ、そう言えるに過ぎないのよ」
「……やっぱ、何が言いたいのかさっぱりわからん」
「そうでしょうね。だけど、私たち蓬莱人は違う。希望なんてものを抱けば抱くほど、いつか世界の残酷さに飲み込まれていくだけなの」
不死とは、つまり誰とも共に歩けないということ。
不老不死という人類の夢は、叶えられない夢に過ぎないから尊く見えるに過ぎない。
友や愛する者との思い出を大切にしておけるのは、あくまで自分の命がいつか必ず終わってくれるものであるからなのだ。
だが、不死者にとって楽しい記憶とは、幸せな効果の長続きしない一種の麻薬のようなものでしかない。
周囲の誰もが、いつだって須臾の間に目の前から消えていく。
一方で自分を取り巻くのは、たとえ宇宙が終わり無間の狭間に飲み込まれようとも終わることのない人生。それは絶望などという言葉で表せるものではない。
終わることなき永遠を生きる者にとっては、失ってしまったものが大切であれば大切であるほど。
後から思い出せるその記憶が、楽しく光り輝いていたものであればあるほど。
その反動で、それから無限に続いていく歴史をより深い虚無の中に落とし込むだけなのだから。
「だからね。こんなのは、可能であればすぐにでも終わらせた方がいいのよ」
「……終わらせる?」
「ええ。半端な希望に縋って無間の重圧に圧し潰されてしまう前に。束の間の夢に浸っている間に消えられることこそが、私たち蓬莱人にとっての何よりの幸福だからね」
ルーミアは輝夜から、寒気を感じさせるような視線を感じ取っていた
私たち蓬莱人ということからも、その人間もまた本当は不死だったのだろうことは何となく予想できる。
だが、気になったのはそんなことではない。
淡々とそう言う輝夜から、ルーミアは一種の予感――いや、確信に近いものを感じていた。
「まさか、そいつがいなくなったのって……」
「そうね、いなくなったというのは語弊があったかしら。私が、あの子を終わらせたのよ」
人間社会で初めて幸せを見つけ、満たされようとしてしまった人間の人生を、そのままの形で終わらせるため。
輝夜は自分の人生の中で最も輝いていたその時間を、自ら終わらせようと決意したのだ。
「だけど、あの子も随分と未練がましくてね。あと少しでも、生きることへの恐怖を与えられればいいんだけど」
「……未練? そいつって、もう死んでるんじゃないのか?」
「いいえ。蓬莱人の命を完全に終わらせるっていうのは、そう簡単なことじゃないのよ」
だが、正確には完全に終わってはいなかった。
存在を喰い尽くされ、そこで全て終わるはずだった人間の魂は、消滅の間際に輝夜の存在そのものに少しだけ割り込み融合してしまったのだ。
残された僅かな生に執着しようとする人間の感情は、未だに輝夜の中で細々と生き続けている。
それは、輝夜にとって望ましい結果ではなかった。
もしもこの先、自分が再び永遠の中を生き続けるようなことになれば、即ちその人間の魂もまた永遠の牢獄に囚われ続けることになってしまうのだから。
そうなる前に、その人間に完全に諦めさせる必要があった。
「どこかにいないかしらね。あの子を納得させられるくらい、劇的に永遠に堕ちてくれる誰かが」
故に輝夜が求めていたのは、その人間の魂を完全に終わらせるための、絶望という名の特効薬。
それはただの絶望では足りない、生への強い執着を完全に抹消するほどの何か。
どれほどの精神力を持った相手でも生きることそのものに恐怖を感じさせられるような、過剰なほどに残酷な出来事を探していた。
「……なるほどな。そいつを本当の意味で終わらせてやることが、今のお前の目的って訳か」
ルーミアはその話から初めて、輝夜の確かな信念、強い目的意識を垣間見た気がした。
その信念に巣食っていたのは、一種の負の感情。
だが、それはただの負の感情ではなく名状しがたい感覚だった。
希望であるか絶望であるか、愛情であるか憎悪であるかの狭間に位置する何か。
誰よりもこの世の闇を見続けてきたルーミアだからこそ、そんな歪んだ、それでも確かに輝夜の心の奥深くまで根付いた感情の息吹を強く感じ取っていたのだ。
「そうね。確かにそれは私が未だに生きてる理由ともいえるけど……でも残念、惜しいけど少し違うわ」
「……ちょっと待てよ。生きてる理由、だと?」
「ええ、そうよ。ただ、あの子はあくまで最初の一歩。いずれ残りのふたりも――」
そこまで言いかけて、輝夜は止める。
自分が久々に感情的になっていたことに気付き、
「……少し、喋り過ぎたかしら。ごめんなさいね、こんなしょうもない話聞かせちゃって」
またいつもの取り繕った微笑を浮かべ、話を打ち切っていた。
それ以上語るつもりはなかった。
それが聞いていて気持ちのいい話でないことくらいは、輝夜自身もよくわかっていたから。
「……半分くらいは冗談のつもりだったんだけどな。そんなのが生きる理由とか、マジで言ってんのかよ」
「そうね。私たち蓬莱人は、もはや誰の道とも交わることなんてできないの。ただ苦悩だけしか背負えない無価値な命に、希望を求めること自体が不毛でしょ?」
「だから、お前がその苦悩を終わらせてやろうってのか?」
「まぁ、いずれはね。そういうことになるのかしら」
ルーミアの疑問の声も、既に気もならない。
永遠を手にした時に命は価値を失うと、かつての輝夜にその身をもって教えてくれた人がいたから。
それは月社会にいた時に嫌というほどに思い知らされてしまっていた、輝夜の中の真理なのだ。
「……はぁ。そんな、一人で何でも抱え込むなよ」
だが、それを聞いたルーミアは露骨にため息をついた。
輝夜はルーミアの反応に、特に何を思うでもなく淡々と返す。
「別に、抱え込んでるつもりなんてないわ。ただ単に、私には特に他の生きる意味もないからそうしてるだけだもの」
「……はーっ。私が言うのも何だけど、つまんない奴だな、お前」
「そんなの、私が一番よくわかってるわ」
「いんや。お前は何もわかっちゃいねーよ」
「私が、何をわかっていないと?」
「そういうところだよ。今の話をして違和感を感じてない時点で、お前は間違ってんだよ」
他人の絶望を断ち切るために生きるというのは、ある意味では劇的で壮絶な生き方なのかもしれない。
ただ、そうなり得るにはあくまでそこに自分自身の感情が必要なのだ。
誰かのために生きるのは、その相手が自分にとって大切だから。
見ず知らずの人々を救うため自分を犠牲にできるのは、それで自分の中にある正義を貫けるから。
そういった目的のために自らの命を費やすことは、ある意味ではその他大勢の人々と何ら変わらない。
決められたルールの中で怠惰な生き方をする者も、面倒ごとを避けて楽な人生を送りたいから。
悪を成したり誰かを貶めようとする者も、利益や歪んだ自己満足を得られるから。
自分の人生を何らかの形で彩るために生きる。光を求めようと闇に堕ちようとも、それだけは変わらない生命の原則であるべきだとルーミアは思っていた。
「よくわからないわね、貴方の言うことは」
「……そうかい」
だが、輝夜はその段階にすら届いていないようにルーミアは感じていた。
ルーミアが感じ取った輝夜の想いの中にあるものは、後悔や自責の念であるかすらもわからない、少なくともその達成は輝夜の人生に何ら関わりがあるものでもない。
むしろ、これから続いていく果てしなき人生を、望まずして自ら虚無に落とし込むだけの、そんな目的に感じていた。
輝夜は別に、不幸や被虐性を求めている訳でも、人生には意味がないと悟った虚無主義者である訳でもない。
ただ、不老不死の存在だけは何者にもなれないと諦めているだけ。
終わりがないが故に始まることすらできない、そんな果てのない人生に希望を抱けていないだけなのだ。
だが、膨大の闇を見続けてきたルーミアであっても、それは受け入れられるものではなかった。
絶対に受け入れたくはなかった。
ルーミアがこんな退屈な竹林に来続けるのは、本当はスペルカードルールの練習のためだけではないのだから。
「ああもう、わかった!」
だからこそ、ルーミアは意を決して言った。
「じゃあさ。だったら、私がお前の代わりに見てきてやるよ」
「え?」
それはただの気まぐれで思いつきだったのかもしれない。
それでも、ルーミアは何とかしたいと思った。
輝夜は知り過ぎてしまったのではない。何も知らないのに、勝手に一人で諦めてるだけ。
この儚くも美しき世界から、目を背けているだけなのだと。
ならば、こんな偽りの虚無に囚われた馬鹿を、今度は自分が引っ張り上げてやりたいと。
「まぁ、こんなとこにいちゃ世界がつまんなく思えるのも仕方ないと思うけどさ。世界は広いんだぞ? お前が知らないだけで、これから先にいくらでも可能性があるんだ」
「そんなの、誰にだって同じことが言える訳じゃないでしょ」
輝夜はきっと、不死となってしまった自分が特別な存在なんだと思っている。
自分たちだけが、何一つとして希望のない世界で生かされていると勘違いした、長生きし過ぎただけの子供なのだと。
ならば、正論や一般論を並べて説得したところでどうにもならない。
「そうだな、私も昔はそう思ってたよ。自分だけは他と違う、特別で孤独な生き方を強いられてるんだって」
「貴方は、勘違いだって気付いたでしょ?」
「そうだな。私はそういう世界に、初めて飛び込んでみたから」
闇の権化として君臨していた頃には決して関わることのなかった、低級妖怪たちとの繋がりも。
世界を気ままに渡り歩ける自由さも。
このままではきっと、輝夜は一生知ることはない。
ルーミアとは違い、その殻から飛び出すことなんて一生ないのだろうと思う。
「でも私は…」
「どーせお前は、お前たち蓬莱人だけは違うって言いたいんだろ? だからこそ、私はお前の代わりに……いや、お前と同じで、一人になってやるよ」
「え?」
「お前みたいに永遠に生きられる訳じゃない、だけどそうすりゃ少なくとも今だけはお前と同じ条件だ。私は同族の一人すらいないし本来の生きる意義すら奪われた、孤独な妖怪でしかないんだからな。お前の言う通り、誰とも深く交われないことで本当にこの命に価値がなくなるのなら、この先の私の人生なんて何も残されちゃいないつまんないものに見えるのかもしれないけどさ」
だからこそルーミアは、輝夜を自分たちの側に引き上げるのではなく、逆に自分が輝夜と同じでいてやろうと決めた。
自分は何者にもなれない、誰の特別にもならないと決めつけたまま生きてやろうと。
たとえこの数百年で得た友人の全てを失うことになろうとも。
誰と深く交じり合うこともなく、一人で旅する姿を見せつけてやろうと。
「でもな。たとえ、どんな生まれ方をしていても、どんな力を持っていたとしても」
そして、誰と共に歩けなくても、この世界を愛せることを。
それでも、人は一人にはなれないんだと。
一人にはさせてくれないんだと。
「それでも、こんな世界も悪くないってお前に認めさせてやれるような思い出を、私が何度でもつくってきてやるからさ」
探そうと思えば、誰にだってそんな世界が見つかるんだって、知ってほしかった。
すぐに伝わらなくてもいい、それでも輝夜には少しでもこの世界に興味を持って見てほしい。
この世界に、そしてそこに生きる輝夜自身の人生に、少しでも希望を抱いてほしかったから――
その日から、ルーミアは一人で歩き続けた。
時々竹林に立ち寄るものの、それ以外はいつも違う場所。
それでも、彷徨い歩くその道中で様々な相手に出会っていた。
「畜生あいつら、私のこと馬鹿にしやがって」
「しょうがないでしょ。光の3妖精ってネーミングが、既に貴方の天敵っぽいじゃない」
「あー、まぁ、イタズラ仕掛けられただけだし、別に天敵って程のもんじゃないけど」
ただ次々と、世界を一人で渡り歩いた。
「白玉楼の亡霊姫が、ヤバい。幽霊のくせに右腕に古の邪神を飼ってるとか……」
「それって、妄想の類じゃないの?」
「それな。いや、幽々子の何がヤバいって、あの歳で中二病を卒業してないのがヤバい」
行く先も、目的も定まらない。
ただ気まぐれに行く先々で、偶然にいろんな相手に出会って。
「神様に会ってきた、ねえ」
「でも神様ってのも別に恐ろしいもんでもないぞ。穣子なんて、ちょっとおだてりゃ大量に芋くれたし」
「……それって、特殊なケースじゃない?」
そして、全て別れ続けた。
出会った中には、もしかしたら生涯の友にもなれそうな相手だっていたけれど、それに後悔なんてなかった。
だって、目の前に開けている世界は、一つだけではないのだから。
たとえどれほど心地よい居場所を見つけようとも、次もまた違った楽しみを見つけることもできるから。
それを知って欲しかった。
たとえ輝夜が、誰との出会いさえも須臾の夢に消えてしまう、不老不死の罪人だろうと。
また、見つければいい。
この世界には、自分みたいなはぐれ妖怪でさえ受け入れてくれる、こんなにも面白い奴らがたくさんいるのだから。
出会って別れてを何度でも繰り返して、それでもそんな人生に少しでも希望を持ってほしかった。
勝手に何もかもを諦めたりせず、自分という存在に価値を見出して、前を向いて生きてほしかった。
「……異変を起こす?」
「今の幻想郷はスペルカードルールのおかげで異変も起こしやすいし、ただの気まぐれでも受け入れてもらえんだよ。別に理由なんて何でもいいんだ。ほら、たとえば月から侵略者が来る――とか」
「ふーん。まぁ、気分転換にはいいかしらね」
だから、その次のきっかけは何でもよかった。
難しいことなんかじゃない、いつか輝夜が少しでも自分たちと同じ目線で世界を見てくれるのなら。
「今まで、何人もの人間が敗れ去っていった五つの難題。貴方達に幾つ解けるかしら?」
そこに少しでも、何かを見つけてくれたら。
「月の都の博覧会でも開けば、少しは退屈も凌げるかしら」
「おっ、いいな。準備は私も手伝うぜ?」
「やめときなさい輝夜。そんなの魔理沙に手伝わせたら、開催前に半分くらいなくなるわよ」
「むっ、失礼な。ちゃんと責任もって全部借りてくぜ」
「こらこら」
そして、いつかほんの少し。
たとえほんの少しだけでも、心から笑ってくれたのなら。
――その時は、絶対に言ってやろうと思う。
したり顔で「な、言っただろ?」と、この世界の面白さを共感し合って。
そして、「少しは楽しめそうかしら」なんて可愛げのない強がった声で、それでも輝夜が返事をくれる日が来たのなら。
――その時は、もう一度見せてやろうと思う。
ずっと温め続けた、その言葉―弾幕―を。
僅かな時間に過ぎなくとも、今は自分という友が隣にいるのだと。
たとえ自分が消え去る日が来ようとも、きっとまた誰かが一緒に、どれだけ遠き世界までだって歩んでくれるのだと。
そして、ルーミアは願う。
いつかきっと受け身じゃなくて、自らの意志で。
共に笑い合うために輝夜の方から誰かを求めて手を伸ばしてくれる、そんな日が来ると信じて――
◆
「……何なんだよ」
ルーミアは苛立ちを込めた声でそう吐き捨てた。
自分の奥底から絶えず湧き上がってくる何かは、きっと本当のルーミア自身の強い想い。
それは恐らく、特定の誰かに向けたものなのだろう。
だが、悪の人格へと裏返った今の自分とは関係のないはずの記憶に、どうしようもないくらいに気持ち悪さを感じていた。
その想いは、本当にその一人に向けたものだったのか。
その一人に伝えるために、ただそれだけのために紡いだ言葉だったのか。
「何か、不満か?」
「いいや。ただな、ちょっと自分が理解できないってだけだ」
何もわからなくなっていた。
気付くと、ルーミアは奇妙な感覚に支配されていた。
今の自分にあるはずのないもの。
友情、愛情、信頼、希望、そんな不可解な何かに「近い」だけの異物が、絶えず感情の中を暴れ回っていた。
「そうかい。だったら続きだ。まだ終わっちゃあいねえだろ?」
「……ああ、そうだな」
勇儀からの問いかけに答えた「そうだな」という返事は、もはや肯定ではなかった。
虚ろな目でそう言ったルーミアからはもう、少し前までさとりに向けていたような身も凍るほどの殺気を感じられなかった。
復活を遂げてからどれだけの時間が経っただろうか、ルーミアの力の糧は既にいくつかが消え去ったのを感じる。
幽香の抱える怒り、にとりの抱える嘆き、特にみとりが蓄積させた闇を失ってしまった穴はあまりに大きかった。
何より、ルーミア自身の覇気が、どうしようもないくらいに萎えてしまっていた。
「シャッ!!」
勇儀が振り抜いた拳に、ルーミアは避けることも受け身をとることすらもなかった。
あまりにあっけなく勇儀の全力を受けたルーミアは、大地を削り取るような衝撃波とともに飛ばされ辺りの地形を激変させていく。
やがて戦場に出現したクレーターの中心で、ルーミアは倒れたまま動かなかった。
ただ呆然と広大な夜空を見上げ、やがてその中心にある満月に向かって無意識に手を伸ばす。
綺麗な手だった。
それは満月など目にも入らないほどに異常な光景。
勇儀に殴られたその顔を拭ったはずの、それでも血の跡すらもない自分の手を、ルーミアはただじっと見ている。
何をするでもなく、土埃の一つすらないその身体で寝転がったまま動けずいた。
「……何を寝てやがる。こっちを、見やがれ!!」
無防備なルーミアの顔面に向かって、勇儀は上空から容赦なくその拳を振り下ろしながら叫ぶ。
だが、その声は届かなかった。
ルーミアはもう、勇儀を見ていない。
世界を見ていない。
ルーミアは自分の中で渦巻く何かに気を取られながらも、それが当然の摂理であるかのように迫りくる勇儀の拳を片手で軽く受け止める。
その一振りで万物を粉微塵にするはずの一撃は、それでも今のルーミアには注視するに値しなかった。
「ぐっ―――!?」
何が起こったのかすら見えなかった。
確かに全力だった自分の一撃を簡単に止められた勇儀は、次の瞬間既にそこにいなかった。
いつの間にか何かに顔面ごと弾き飛ばされ、折れた歯と噴き出した鼻血で顔をぐしゃぐしゃにしながら、無防備なまま地を滑っていく。
だが、ルーミアはそれに追い打ちをかけはしない。
「っ……くそっ。余裕の、つもりか?」
やがて地に両手両足を刺すようにして無理矢理その場に留まった勇儀は、息を切らして膝をつきながらも、決して背を向けず笑っていた。
折れてしまった自分の鼻を力ずくで元に戻し、その二本の足でもう一度立ち上がり歩き出す。
それがもう、ただの虚勢であることくらいはわかっている。
それでも、恐怖や後悔など欠片も無い。
この世界に生きる一匹の鬼として、その闘志はどこまでも折れることなくまっすぐに君臨していた。
「……強いよ、お前は。もしかしたら、昔の私になら届き得たのかもしれないくらいに」
ルーミアはゆっくりと起き上がり、勇儀の方へ向き直る。
だが、そう言いつつも、それはもはや同情でしかなかった。
レミリアの闇を飲み込み、さとりの歪みを飲み込んだルーミアの前では、たった一人の鬼の力などあまりに無力だった。
4対1で始まったはずの戦いは、今やルーミアと勇儀の一騎打ちとなっている。
そもそも、勇儀以外はほとんど戦えてすらいない。
さとりを飲み込むとともにルーミアの内で溢れ出した奇妙な何かは、気持ち悪さ以上にルーミアに強大すぎる力をもたらしていた。
頭を押さえて苦しむルーミアを取り囲んだ闇の暴走は、とっさの瞬発力で反応できた勇儀を除き、空とお燐とこいしを自動的に飲み込んで消し去るのにものの数秒もかからなかった。
そして、少し前にルーミアの中で新たに湧き上がった何か。
いつの間にかルーミアの中に巣食っていた、先に失った幽香やにとりの感情など比較にならないほどの闇は、それまでの力の蓄積と相まって、期せずともルーミアに更なる力をもたらしていたのだ。
それこそ、かつての自分を陥れた閻魔も、自分を有象無象のごとく負かしてみせた月人でさえも、もはや誰も届き得ないのではないかと思えるほどに。
「はっ。そんなの、何の慰めにもなりゃしねえんだよっ!!」
勇儀は地面を強く踏み抜く。
地割れを起こした衝撃はルーミアの足を地に縫い付け、同時に背後の逃げ道を塞ぐかのように地形を変革させる。
そして、その二歩目を踏み出した勇儀は――
「かっ……!?」
「いいや。これはな、珍しくも私の本音さ」
三歩目を踏み出すより遥か前の、たった一撃。
それで全て終わったのは、一目瞭然だった。
ルーミアは勇儀の速度を逆手にとったカウンター気味に、胸を貫いて過ぎ去っていた。
だが、身体の中心に風穴を空けられてなお、それでも勇儀は退くことも倒れることもない。
「一応、最後に名を聞いておこうか」
最後と、言われた。
悔しいが、その通りだった。
勇儀にはもう、あと1秒の虚勢を張る力もなかった。
目の前にいるはずの相手に、かすり傷の一つをつけることも名乗ることもできずに倒れて終わり。
そんな情けない終わり方しか、残されていなかった。
その、はずだった。
「……星熊」
だが、勇儀は口を開いた。
そんな余裕があるはずのない中で放った言葉は、それでもそこで止まってしまう。
――ああ、畜生。
悔しそうに、勇儀の口元は歪んでいた。
最後まで言い切ることはできずに、そのまま倒れるように崩れ落ちて、
「―――――っ!!」
一歩で、耐え抜いた。
もはや機能していない足を無理矢理叩き起こそうとするかのように、強く地面に押しとどめる。
身体の中心に空いた傷口さえも自ら焼き塞ぎ、僅かな意識を未だ留め続けていた。
「……情け、ねえよなぁ」
「そうだな。自分の名前くらい、最後まで言ってけよ」
「違えよ」
「あ?」
「そんなんじゃ、ねえんだよ!!」
その叫びとともに勇儀は強く踏み込み、ルーミアを突き飛ばす。
同時に勇儀の口から血が飛び散り、その血に混じって何かが飛んでいく。
残された歯同士をぶつけ合わせて砕けた歯の欠片と、噛み切った舌だった。
自らを戒めるその新たな痛みに集中することで、辛うじて意識を保っていた。
誓ったはずなのに。
なのに避けられない敗北の際は潔く、美しく最期を飾ろうとした自分の姿を想像して吐き気がした。
何故、名乗る余裕があるのなら立ち上がらない。
何故、踏みとどまる余裕があるのなら拳を振り抜かない。
そう嘲笑せんばかりに、勇儀は笑った。
――ったく。まだまだだなぁ、私は。
勇儀はただ、その右手一本に自らに残された生命力の全てを流し込む。
何もかもが勇儀の拳に向かって萃まり、ルーミアの纏っていた闇すらも飲み込んで力という概念そのものを自らの拳の中心に凝縮する。
隙だらけの、一対一の勝負では不向きに見えるその力。
既に全身がボロボロで醜く汚れ、自ら拳を突き出すことすら無理に見える無様な姿。
それは見るに堪えないほどの、ただの悪あがきでしかないはずだった。
だが、ルーミアはそれを黙って見ていた。
勇儀を軽視している訳でも、警戒している訳でもない。
ただ恐らくは、その生き様を最後まで見届けたいと思ってしまったから。
――ラストスペル――
やがて勇儀の姿を真正面に捉えたルーミアは、辺りを取り囲んでいた闇の力を自らの内に還して静かに構える。
ルーミアは自分の意志で全力を身に纏った。
ボロボロの、立っていることすら困難なはずの勇儀を見ただけで、それでも目の前の世界の一切が風塵に帰す未来が見えた気がしたから。
だが、勇儀の全てを懸けたその一撃でさえ今の自分には決して届き得ないだろうことは、本当はルーミアにはもうわかっていた。
それでも全力を出すのは、ただ純粋に自分がそうしたいと思ったからだった。
――嗚呼、そうだ。
ルーミアは何かを悟ったようにもう一度正面を見据える。
目の前にあるのは、自らの信念のもとに全てを懸ける誇り高き鬼の姿。
この幻想郷に残存する者たちの中で、現状を打破しうる唯一と言っていい可能性を秘めた強者。
だが、その全力さえも正面から簡単に打ち砕ける。
この世界に最後に遺された僅かな希望さえも、軽々と掻き消せる圧倒的な力。
あらゆる光を、問答無用に闇に染め上げていくための存在。
――それこそが、本当の私なんだ。
いつの間にか、自然と笑みがこぼれていた。
少しだけ気持ちが楽になっていた。
誰も比することさえできない最強の妖怪、力の権化であった空亡妖怪としての自分を思い出して。
やはりこの感覚こそが、本当の自分の在り方なのだと。
ルーミアは自分の中の血が少しだけ騒ぐような気分とともに、僅かながらもこの瞬間に愉悦すら感じていた。
そして、ルーミアは身体の奥底から湧き上がってくるその衝動に身を任せたまま、勇儀の目に灯った炎が――
「『―」
静かに、背後から押し寄せた闇の中に飲み込まれていく様を見届けていた。
次の瞬間には、視線の先にはもう何もなかった。
あまりにあっけなく、戦いは終わっていた。
終わらされていた。
命の全てを振り絞ろうとした勇儀の全力も、それを受け入れようとしたルーミアの意志すらも、介入する余地などない。
それは誰の想いが果たされた訳でもない、無意味な終焉の形。
ただ、勇儀の最期を見届けたルーミアの目は絶望でもなく狂気でもなく、
「……ふふふ。あはははははははははは」
無機質な、乾いた笑いがこみ上げてきた。
――そうか。
――やっと、わかったよ。
――私が。
――私の意味が。
――私がもたらそうとするものが。
自己嫌悪、というのとも違う。
ただ、自分がこんなことのために生まれて、こんなことのために死んでいく。
そう宿命づけられた存在なのだと、気付いてしまった。
――『常闇』が、巣食っていく。
――『災厄』が、降り注いでいく。
――『破滅』が、加速していく。
――『無間』が、覆い尽くしていく。
ただそれだけが、今ここにいる理由。
せめて、自分が悪であるのならよかった。
誰も比することのできない最悪の敵、森羅万象に恐怖を与える『絶対悪』として存在できるのなら、まだよかった。
だが、本当は自分の存在意義など、どこにもありはしない。
空亡妖怪として世界の闇を飲み込み続けた生き様も。
ルーミアという個として生きてきた記憶も。
そして、それらを塗りつぶして表出した裏人格が感じていた衝動すらも、何もかもが自分の意志ではない。
ただ定められた計画のままに、この世の全てを―――
「……さあ、終わらせようか」
ルーミアは空虚な笑みを浮かべ、静かに闇の中へと消えた。