東方理想郷 ~ Unknowable Games. 作:まこと13
気がつくと、薄暗い視界の中で喧騒に包まれていた。
目を凝らすと見える人ごみの中には、見渡す限り幾多の種族。
談笑する人間、酔って悪戯がエスカレートする妖精、引きつった顔をした夜雀を尻目に屋台の食料を食らい尽そうとする幽霊なんてものもいた。
だが、それぞれ異なる者たちの中にいて、それでも思ったのは――ただ、皆が楽しそうだということだった。
「………や」
昔の居場所では、決してこんなことなどなかった。
穢れのなき永遠の中でほとんどの者の目はあまり冷めきっていて、同じものにしか見えなくて。
何も変わらない日々が、いつまでも目の前で留まっているだけだった。
だけど、ここでは全てが違う顔。
それぞれの個性と定められた寿命の中で、誰もが毎日を精一杯に生きている姿はあまりにも眩しすぎた。
自分は、本当にこの場にいていいのだろうか。
こんな輝きの中に、自分の居場所なんてものが果たしてあるのだろうか。
そんなことばかりを考えながら、漠然とその景色に気をとられていて、
「……ってば、ねえ輝夜!! ちょっと、話聞いてんの?」
「え?」
隣で騒いでいる、全身を埃まみれにした紅白の少女に気付かなかった。
荒い息をしながら自分を睨んでくる霊夢に、輝夜はキョトンとした顔で返す。
「どうしたの霊夢、そんな般若みたいな顔して」
「……流石に怒っていいわよね私。ねえ、いいわよね?」
「別にいいんじゃないの?」
「あんたが働かないから、代わりに私がさっきまで準備してたのよ! あんたが言い出したんでしょ、月の博覧会開くって」
「あー、そうだったかしら」
永夜異変が終息してからさほど間をおかずに傾向の見られ始めた、花の異変。
やっとのことでその後始末も落ち着き、咲き乱れていた花もそろそろ見納めということで開かれた花見の宴会に、きまぐれに参加した時の輝夜の何気ない思い付き。
花見の次の酒のネタに、永遠亭にある月の財宝で博覧会でも開いてみようかという、そのたった一言の冗談を文に刈り取られた。
別に輝夜が乗り気だった訳ではなく、一足早い独占スクープとばかりに文が勝手に話を広めただけ。
それに便乗した魔理沙を始めとしたお祭り好きな連中が永遠亭に押しかけて、やれ何を展示するだの、いつ開催するだの、次から次へと誰かが集まってきて。
それでも、言い出しっぺは輝夜だということで、何かと協力させられた挙句に結局のところこの喧騒の原因は輝夜にあるという。
あまりに理不尽な理屈だったが、それでも霊夢は当然のように輝夜の首根っこを掴んで言う。
「ほら、準備は終わってんだからさっさとしなさい」
「何を?」
「何をって、主賓の挨拶なしじゃ始まんないでしょうが!!」
霊夢はそのまま輝夜を引きずって壇上に上げる。
そこはさっきまでより多くの表情が見える、この会場の特等席であった。
「こぉら、あんたたち! そろそろ始めるから静かにしなさい!!」
だが、霊夢の声でも喧騒は止まない。
両手を上げて何度も何度も繰り返し注目を集めようとするが、効果はない。
1分、2分、喉を傷めるのではないかというくらいに叫び続ける霊夢の奮闘も空しく、辺りは混沌と化していた。
「あー、ほら魔理沙。あれ見なさい、霊夢よ霊夢」
「んあ? ぉぉぅ何だ霊夢じゃないかー」
やがて魔理沙の絡み酒が面倒になったパチュリーが、壇上にいた霊夢を生贄に捧げてそそくさとその場を離れる。
霊夢の、怒りのボルテージが上がっていく。
「お、輝夜も一緒か? いいぞ脱げ脱げー!」
「……いかげんにしなさい」
「あん?」
「手伝いもせずに何してんのって言ってんのよ、こんのバカ魔理沙あああああっ!!」
「お、ぁんだやるか霊夢ううううっ!!」
そして、あとはいつも通りの光景。
上空で星の弾幕を放つ魔理沙と、それを簡単にかいくぐってスペルカード……を、使わずに魔理沙を投げ飛ばした霊夢。
追い打ちをかけるように飛んできた霊夢の札を、箒にまたがったままフラフラの飲酒運転で辛うじて避けながらも反撃とばかりにマスパをぶっ放す魔理沙。
スペルカードルールとも呼べない子供の喧嘩は、主役であるはずの輝夜を放って辺りの喧騒を更に大きくしていた。
「ごめんなさいね、霊夢も魔理沙もあんなで」
「いいえ、別にいいわ。こういうのも、地上ならではの楽しみ方なんでしょ」
「そうね。月じゃ、こんな光景は見られなかったでしょう?」
「……ええ」
いつの間にか隣にいた紫と談笑しながら霊夢たちを追っていた視線が、ふと地上へと落ちる。
すると、木陰に寄りかかりながら一人佇むルーミアと目が合っていた。
いつの間にか少し笑いながら紫と話していた輝夜に向かって、「ほらな、言ったとおりだろ?」と言わんばかりに勝ち誇った微笑を浮かべるルーミアが、少し憎らしくて。
それでも、確かにこの時間を楽しんでいる自分がいることに、輝夜は気づいていた。
ルーミアと過ごした時間だけではない、幻想郷の日常の全てが新しい物語になっていて。
それが、悪くないって思えた。
自分にこんな居場所ができるなんて、考えたこともなかったから。
「……確かに、こんな生き方もあるのかしら」
「え?」
あまりにも眩しい世界を見つめながら、輝夜は呟いた。
一人で悲観的になって世界を諦めなくてもいい。
たとえ目の前に見える光景が、自分にとって束の間の夢に過ぎないものとわかっていようとも。
それでも、今は。
それが終わってしまうまでの須臾の間だけでも、こんな気分を味わっていてもいいのではないかと思ってしまったから。
――いいわ。だったらもう少しだけ、貴方たちと一緒の時を過ごすのも悪くないのかもね。
そんな気まぐれが、全ての始まり。
輝夜はただ、あまりに眩く希望に溢れていたそんな時間を守り抜こうとしただけだった。
だから、その運命を知ってしまった時から、輝夜の戦いは始まったのだ。
ルーミアに定められたタイムリミットが、間近に迫っていたから。
だから、死にゆく運命にあったルーミアを助けようと思った。
ルーミアを助ければ、即ち封じられた禁忌の暴走と、それに伴う幻想郷の滅亡が現実と化してしまうから。
だから、滅びゆく運命にあった幻想郷を救い出そうと思った。
決して報われるはずのない世界の運命を、自分が全て壊してみせようと思った。
それで、何かが変わるのかもしれないと思ってしまったから。
ただちょっと、軽い気持ちで。
知らなかったから。
友情や愛情というものが、こんなにもかけがえのないものだなんて。
そして、こんなにも辛くて苦しいものだなんて、知らなかったから――
東方理想郷 ~ Unknowable Games.
第38話 : 無間地獄
懐かしくも辛い記憶に浸りながら、輝夜は大の字に寝そべっていた。
世界に君臨していた弾幕の光など、もう存在しない。
ひび割れた暗闇の隙間から微かに見える星々をじっと見上げている輝夜に、霊夢は何を言う訳でもなかった。
ただ輝夜を静かに見下ろしながら、輝夜が次の一言を発するまでいつまでも待っている。
「……最初はね、ちょっとした遊びのつもりだったの」
「遊び?」
「ええ。幻想郷という盤上で、この異変を最高の形で終わらせるためのゲームよ」
そして、ふと思いついたかのように、輝夜は霊夢に打ち明けていた。
この異変で、自分が今までしてきた全てを。
あまりに永すぎる終わりなき人生の中で、輝夜を唯一夢中にさせたゲームの世界。
輝夜はただ、そんなゲームの中に幻想郷という一つの世界を組み込んでみただけだった。
輝夜の持つ、『永遠と須臾を操る能力』の秘術。
無数の『須臾』という限りなく短い時の中に、『永遠』という一つの歴史をいくつも分散させることで、異なる歴史を複数持つ力。
いわばゲームのコンティニュー、無限に平行世界を渡り歩くことのできる力。
輝夜はただ、それを使ってゲーム感覚で世界を攻略しようと思った。
ゲーム開始の合図は幻想郷の在り方に沿って、博麗の巫女である霊夢が異変解決に乗り出したその瞬間。
あらゆる悲劇を避けて全てをハッピーエンドに導く答えを探し求めるために、誰にも気づかれることなく、気まぐれに一人で始めた遊びに過ぎなかった。
「それは思ったよりも難しくて、簡単には成し遂げられない難題だったの」
ある時は、邪悪の力の暴走を止められずに、世界が闇に飲み込まれた。
そこに残されるのは、今いる異次元空間と同じような暗闇に閉ざされた世界。
終わった幻想郷には誰も生き残ることなく、ただ全てが滅びていく。
そんなつまらない結末を、変えようとした。
ある時は、世界を救うためにルーミアを犠牲にした。
長き時を経て幻想郷はいつも通りの日常を取り戻し、世界は再び平穏に包まれた。
ただ、あの生意気で適当な声が、二度とそこに響くことはなかった。
そんなつまらない未来を、変えようとした。
何度も何度も、違う歴史に生き続けた。
どれだけ失敗を重ねようとも、決して諦めることはなかった。
「最初の頃は、むしろ燃えたわ。こんなに苦戦して、こんなに先に進めないゲームは初めてだったから」
輝夜は喜々として無数の歴史を渡り歩いていた。
ある時は、たった一人で戦って。
ある時は、霊夢や魔理沙のような若き力に託して。
ある時は、紫や神奈子といった実力者たちと協力して。
ある時は、幻想郷の全員で異変に立ち向かって。
「でもね、だんだん飽きてきたの。終わりの見えないゲームに」
何をしても、望む結果が得られなかった。
ほんの僅かな変化で無数に枝分かれしていく世界線の中には、妥協点ならいくらでも見つかる。
それでも、最善に辿り着くことはできない。
何度繰り返しても、全てが完全に救われた未来なんてものは見えなかった。
そして、輝夜は解決策を見つけることのできないそのゲームに、遂に嫌気が差してしまった。
「だから、私はゲームという縛りを終わらせて、私が共有してる別の平行世界の記憶を打ち明けたわ」
ゲームの登場人物と、その盤上で起こり得る未来の情報を共有してしまった。
幻想郷の中心である霊夢と、幻想郷を管理する紫と、誰よりも優秀である永琳と。
異変に隠されていたとある事実を永琳に伝えてしまうことは、心苦しかったけれど。
それで終わると思っていたから。
何より、永琳ならばルーミアに埋め込まれたそれに対応できる「はず」だと思っていたから。
「だけどね……」
◆◆◆◆◆
「……どうして?」
そこは、静かな世界。
いつものような騒音が聞こえない永遠亭の一角で、輝夜はただ呆然と立っていた。
ベッドに横たわる一人の少女を見下ろしながら、輝夜の声に生気は宿っていなかった。
「本人も納得したことよ。もう、こうするしかなかったの」
「違う!! そうじゃないでしょ、私が頼んだのは…」
「残念だけど、何の犠牲もなく解決できるほど私も万能じゃないわ。ここが貴方の願いの妥協点よ」
そう言って永琳は輝夜に背を向け、一人去っていった。
だが、輝夜はそれを追うことができなかった。
知っているから。
何もかもを全部自分で背負おうとしてしまう、優秀すぎる従者のことを。
輝夜を苦しめないようにと、自分が悪役を買って誰よりも一人苦しんでしまう永琳のことを。
「ごめんな」
「……どうして、貴方が謝るのよ」
「私が犠牲になればよかったんだよ。こんなの、誰も幸せになれないだろ」
「……」
輝夜は何の返事も返せなかった。
少女の隣のベッドに横たわりながら消え入りそうな弱音を吐くルーミアと、目も合わさなかった。
きっと、永琳なら何とかしてくれると思っていた。
きっと、何もかもを解決してくれると思っていた。
「―――霊夢っ!!」
「霊夢さんっ!!」
それでも、そこに残されたのは取り返しのつかない傷跡だけ。
そこに駆け付けた、魔理沙の泣きそうな声と。
霊夢の亡骸を抱きしめながら、憎しみを込めた目を向けてくる早苗の涙だけだった。
◆◆◆◆◆
「っ――――!?」
霊夢は、こみ上げてくる気持ち悪さを抑えることができなかった。
当事者であるが故にあまりに強くリンクしてしまった、輝夜の心に根付いた一つの世界の結末。
普通なら見ることなどできないはずの、自分が死んでいる世界の光景というものに霊夢は生理的嫌悪感を覚えた。
その世界では、永琳はルーミアの中の力を、霊夢に封じられた力と融合して封印処理した。
幾多に渡る世界の知識を用いた試行錯誤の上、世界と全て一体化する霊夢の力を使って霊夢の命と引き換えに、異変を終わらせる方法を見つけたから。
それは最善ではない、それでも輝夜の心を守るための次善の未来を呼び起こせる唯一の方法だった。
「永琳にも、そこまでが限界だった。全てを救うのが無理だとわかった途端、永琳は汚れ役を買ってでも私を妥協させるための逃げ道を用意しようとするから」
「……」
「でも、私が望んだのはそんな未来じゃない」
だが、永琳の作り出したその逃げ道を、輝夜が受け入れることはなかった。
今まで無数の歴史を越えてきた輝夜が、そんな救われない結末で妥協するはずなどなかった。
「もう私はなりふり構わなかった。地底でさとりたちにも、彼岸で映姫たちにも、月まで行って依姫たちにも、頼れるものは何でも頼った。邪悪の力を私の能力で凍結してる間に解決策を探したこともあるし、私が異変の黒幕になってルーミアを裏で操るような、あらゆる可能性世界を見てきたわ」
それでも、運命は変わらなかった。
何をやっても、何度やっても、何かが必ず失われていく。
そういう風に、世界は進んでいく。
だが、道は探せない。
輝夜は時間を早めることも遅めることも、複数の歴史を持つこともできた。
それでも、輝夜がゲームを始めた瞬間、霊夢が動き始めた瞬間からいくつもの岐路に分かれた世界は、それ以前に戻ることだけはできなかった。
最初はただのゲームという感覚だったから。
だから、深く考えてはいなかった。
それでも、もっと前の段階から始めるべきだったと、どれだけ悔やみ続けたかもわからない。
地底の怨霊が地上に出てくるのを止めることも。
そのそもの元凶が、幻想郷に流出するのを止めることも。
新たな可能性に向かい得る道は、もはや全てが閉ざされていたのだから。
「そんな世界が何千万、何億回も続いて……もう、その頃には私の心は折れてたわ」
「何億って……」
「億なんてのは、まだ始まりよ。そこからが長かった。どうしようもないくらい、私は何が正しいのかも、何をしたいのかもわからなくなってた」
その頃には、既に輝夜の精神は限界だった。
出口の見当たらない迷宮に、音を上げそうになってしまっていた。
それを聞いていた霊夢は、ふと思った。
悪気があった訳ではない、それでも霊夢は軽い気持ちで言ってしまった。
「だったら、もうそんなことやめればいいじゃない」
「……」
「あんたが一人で全部抱え込む必要なんてないわ。私を犠牲にする方法だってあったのなら、どこかで落としどころを見つけることだってできるでしょ?」
「……落としどころとかっ、そんな簡単に言わないでよ!!」
あくまで冷静な意見を発したつもりの霊夢は、突然激昂したような輝夜の叫びに、とっさに反応できなかった。
表情を変えないままに、それでも輝夜はその苦しみを吐き出す。
「……だったら逆に聞くけど、霊夢だったら諦められた?」
「え?」
「貴方の力で、貴方の大切な人たちを助けられるかもしれないのに、この世界を救えるかもしれないのに。それでも妥協して投げ出して、一人でのうのうと生きていられる?」
「それは……」
大切な人。
そう言われた霊夢は、二の句を継げなかった。
輝夜がそこまで強い気持ちで霊夢のことさえ救おうと戦っていることなど、知る由もなかったから。
そして何より、自分が同じ状況に置かれたのなら、きっと諦めることなんてできないだろうと思ってしまったから。
もし、自分に世界を変えうる力があって。
今からでも死んでしまった母を、そして紫を助けられる可能性が僅かにでもあるとしたら。
どれほどの困難の中に身を投じようとも、決して諦めはしないだろうから。
「もう、私にはどうしたらいいのかもわからなかった。これ以上傷が開かないようにするのが……終わりのない永遠の中でひたすら立ち止まってるのが精いっぱいだった」
「……」
「だけど、繰り返せば繰り返すほど、私の中にいる別の平行世界の『私』が叫ぶの。諦めるなって、助けろって。少しでも弱気になる度に、頭の中で響き続けるのよ!」
何も救うことのできなかった、無数の記憶。
幾度となく繰り返した、終わりなき記憶。
だが、その回数を重ねれば重ねた分だけ、大切なものは増えていった。
異変に立ち向かった記憶の分だけ、その声は次第に大きくなっていった。
「ルーミアを助けてって叫ぶの」
それが、始まりだった。
「霊夢を、魔理沙を、早苗を、咲夜を、妖夢を、みんなを守れって叫ぶの」
繰り返す歴史の中で、共に戦った者たちとの思い出だけが増えていって。
それを救えなかった無数の痛みだけが蓄積されていって。
「レミリアたちも幽々子たちも神奈子たちも、今の時間軸の私が会ったことのない人たちですらも、誰も欠けることなく皆を救えって、諦めるなって叫ぶのよ!!」
それでも、想いは更に膨らんでいく。
最初はただの気まぐれで救おうとしていた誰もが、いつの間にか輝夜にとって大切なものになっていて。
そして、輝夜の脳裏に諦めの二文字が過った頃には、その声は決して逃れられないほどに大きくなっていた。
「それでダメなら、もう一度って言うの」
誰か一人でも助けられないのなら、やり直せと。
まだ繰り返せるのなら、全てを救える時がくるまで、この地獄を繰り返せと。
「もう一度、もう一度って、私は言われるままに何度も何度も繰り返していって」
その声は、次第に震えてきて。
その弱音は痛々しいほどに止まらなくて。
それでも、その心の叫びは何億回吐き続けたのかもわからなくなるほど自然と連ねられて。
「それでも、私には何もできなかった。何度も何度も失敗して失敗して、その度に声は大きくなって、その度に苦しみは大きくなって! それでももう一度、もう一度もう一度もう一度もう一度もう一度もう一度って言うから! 何度諦めても、心が張り裂けそうになる未来を何回繰り返しても!! もう無理だって、もう終わらせたいってどれだけ叫んでも、ずっと、そんな声だけが響き続けてっ――――」
息を継ぐことすらなく輝夜はただそれを吐き出す。
やがて堪えきれなくなった涙が、遂にその目から零れ落ちた。
輝夜はそれを拭うことすらできないまま、ただ霊夢を静かに見つめて、
「……さあ。この難題、貴方はどうやって解くかしら」
無理矢理に浮かべたその笑みにはもう、微かな温もりすらもなかった。
全ての想いを凝縮したかに見えるその涙にすら、もはや感情など残されてはいなかった。
助けられなかった悲しみも。
終わらない難題への絶望も。
何もできない自分自身への怒りも。
こんな運命を創り出した全ての元凶への憎悪も。
希望はおろか、そんな心の闇すらも全てを塗りつぶされ尽くして。
心を空っぽにしてなお続く永遠という監獄に、ただ虚しく囚われ続けているだけだった。
そんな輝夜に、霊夢は何一つとして言葉をかけてあげることはできなかった。
さっきまで軽々しく助けたいなどと思っていた相手の、あまりに深く負った傷を、どうしてあげることもできなかった。
こんな、たかが十数年生きてきただけの自分が。
一時一時の絶望で壊れそうになってしまう弱い自分が。
億を軽く超える難題に苦しみ続けた輝夜の傷を和らげることなど、できるはずがなかった。
「私は…」
「いいのよ、無理して答えなくても。もう、わかってることだから」
霊夢は続きを口にできず、俯くことしかできなかった。
輝夜にとって、その答えなど聞いても聞かなくても同じだった。
何も変わらない。
霊夢が弱音を吐く結末も、無理して強がる結末も、輝夜を勇気づけようとする結末も、輝夜の想いを継ごうとする結末さえも、結局は救われないことを既に知っていたから。
「また、繰り返すの?」
「そうね」
だから、その答えに一切の躊躇はなかった。
この世界を終わらせることに、迷いなど全く存在しない。
「……なんでよ。なんで、あんたが一人でそこまで苦しまなきゃいけないよ。あんたはもう十分戦ったでしょ、誰もあんたを責めたりなんて――」
「じゃあ、霊夢だったらここで妥協する? 紫が死ななくて済む世界が、あるのかもしれないのに」
「っ!!」
一瞬でも、迷ってしまった。
紫ともう一度会える世界があるのかもしれないという誘惑に、ほんの少しでも気持ちが揺らいでしまったから。
その時点で、霊夢の負けだった。
幻想郷が滅びた世界。
ルーミアがいない世界。
霊夢が犠牲になった世界。
紫が死んでしまった、この世界。
今の輝夜にとっては、それらはもはや全てが同じ。
誰の犠牲ならまだ諦められるとか、そんな簡単な話ではない。
あまりに多くの世界を渡り歩いてしまったが故に、輝夜はもう、大切なものが一つでも失われた世界を選ぶこと自体に耐えられないのだ。
「……ごめんね。こんなの、霊夢には酷な質問よね」
そう言いながら、輝夜は空間に穴を空ける。
人ひとりが出られるほどの、小さな空間の歪み。
そこに目を向けて、静かに霊夢を促す。
「この先は幻想郷に続いてるわ。貴方が闇に飲まれてから、あっちの時間軸で3時間ってとこかしら」
唐突な、そんな言葉。
一歩踏み出せばそこにまだ無事な幻想郷が続いているという、本来なら喜びで再び希望を宿せるはずの事実。
それすらも、今の霊夢は素直に喜べなかった。
「……あんたは」
「どうでもいいでしょ、私のことは。貴方は貴方で、今の幻想郷で生きたいように生きればいいわ」
今の幻想郷で、という諦めの言葉。
きっと、また輝夜はやり直すのだろう。
空っぽになるまで押しつぶされた心で、僅かな光すらも見えない闇の中に再び身を投じるのだろう。
だけど、止めることなんてできなかった。
億を軽く超える地獄を経てなお戦い続けている輝夜の決意に、軽々しく口を挟むことなどできない。
そんな無責任な言葉を吐くことなんて、できないから。
それでも霊夢は、最後に言い残した。
「止めないよ、私は。私に、そんな資格はないから」
「……そ」
「でもさ。せめて、最後まで私を見ててよ」
「……」
「今さらあんたの選択を変えることなんてできないのかもしれないけど、私は私なりに頑張るからさ」
「……」
「また、つまらない結果に終わっちゃうのかもしれない。何も変えられないのかもしれない。それでも、せめてこの世界の最後の瞬間までは……今回の『私』を見ててよ」
輝夜は返事をしなかった。
だが、霊夢はそれでも別によかった。
これから向かうのは、あくまで自分の物語。
輝夜の覚悟を背負うのも、霊夢の勝手なのだ。
だから、霊夢は輝夜の返事を待つことも、振り返ることすらもなかった。
自分の可能な限りの力を振り絞って先に進もうと決めて、霊夢は一人その空間を去っていった。
「……ごめんね。もう、無理なのよ」
だが、その言葉はもう輝夜には届いていなかった。
失った感情のままに、それでも霊夢に語りかけていた輝夜の精神には、もはや何も響くことはなかった。
霊夢が話している間にも、輝夜の心を侵食し続けるのは同じ記憶だけ。
空っぽになった心でも、それは耐えられるようなものではなかった。
『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』
輝夜の渡ってきた数十億回を超える永遠は、ひとつひとつを感知することなど不可能なほどに混沌を極めていて。
その軌跡は、今この瞬間にも輝夜の頭の中で鳴りっぱなしだった。
それぞれの記憶の意味も、もはや理解はおろか聞き取ることすらできない。
それでも、何を言いたいのか、その総意だけは自然とわかった。
――やり直せと。
要約すれば、ただそれだけ。
この世界は少なくとも紫の命が、それも輝夜の策謀によって失われてしまった世界。
紫を失うことで変化していく霊夢の心、藍の決意、破邪計画の行く末、様々な要素の分岐点の過程を観測するため。
結論として選ぶ気など最初からない、これからも枝分かれしていく無数の歴史への、新たな打開策を模索するための手段の一つに過ぎない世界なのだ。
だから、ここで終われるはずがなかった。
どんな形で訪れた喪失でも、それを失いたくないと願う、無数の世界を渡り歩いた輝夜自身の心の声が止まることはない。
きっと、この声はこれからも永延と流れ続けるのだろう。
死んだ方が楽な苦痛が、永遠に続くのだろう。
――誰か、助けてよ。
そう願いながらも、それでも心の奥底から湧き上がる本心は皆を救いたいと叫んでいて。
この地獄から抜け出したいと願いながらも、輝夜は既に次の一歩を踏み出そうとしていた。
この世界を諦めて、次の世界へと。
あと数百億回、数千億回、それ以上繰り返すことになるかもわからない。
だけど、それでも輝夜の決意は決して変わることはない。
たとえこれから先、自分がどれだけ苦しむことになろうとも。
たとえ新しい時間軸に進んでも、繰り返せば繰り返すほどに今まで以上の地獄が訪れることがわかっていても。
それでもなお、輝夜は再び時を遡る。
いつか輝夜が本当に望む、誰一人として失われない世界を見つけるために。
たった一人で何もかもを孤独に抱え込んだまま、輝夜は再び今の世界を終わらせようとして―――
「――ったく、らしくねえな。何を弱気になってんだよ」
「……え?」
その瞬間、無数に積み上げられた歴史は微かに動き始めた。
突如としてその耳に届いたのは、この世界に存在するはずのない、あり得ない声。
にもかかわらず、はっきりと聞こえてきたその声に導かれるままに輝夜は振り向く。
そこにあったのは、たった一人。
どこか見覚えのある、白き長髪と鋭い眼光を帯びた人間の姿だけ。
それでも、輝夜の瞳に映った新たな不可思議は、終わることなき永遠を刻んでいた幻想郷の時計を再び混沌の中へと引き戻していった。
後編ノ壱、完。
たった一章終わらせるのに丸一年かかってしまい、すみません。そろそろ仕事にも慣れてきたんで、次章からはもう少しスムーズに話を進められると思います。
次の章は番外編を2話分挟んでから、長い間出番のなかったあの人がやっと動き始めます。