東方理想郷 ~ Unknowable Games. 作:まこと13
東方理想郷 ~ Unknowable Games.
第35話 : 隠蔽
それは、とある夜の出来事。
数刻前までは何事もない、ただ平穏だけがあったはずの幻想郷での出来事。
「助けて、助けっ――」
「嫌だ、死にたくな――」
辺りに響いた悲鳴と命乞いが、一瞬だけ響くと同時にこの世から消えてなくなる。
動物も妖精も、妖怪も神ですらもが、なす術もなく塵のように夜の闇に消えていく。
比喩ではない。 一個体の存在そのものが、得体の知れない黒に飲み込まれて跡形もなく世界から消えていくのだ。
かつてない異常事態を前に、命あるものは皆一様に怯え、ただ祈ることしかできなかった。
だが、誰もがこの状況に絶望しながらも、そこには未だ士気を落とさず先頭に立つ一人の妖怪がいた。
「怯むなっ! 総員、私に続けっ!!」
「っ!! ォ、ォォォオオオオオオオオッ!!」
普段聞くことの無い冷静な九尾の妖狐からの怒号のような指令が飛ぶとともに、妖怪たちの雄叫びが響き渡った。
突如として幻想郷に舞い降りた何かに立ち向かうべく、辺りでは妖怪の群れが団結していた。
最強の妖獣と呼ばれた九尾を先頭に、木っ端妖怪から高位の妖怪まで、屈強な戦士たちが次々と突き進んでいく。
ただ、その群れはまるで火に入る虫のように虚しく……
「がっ――」
「畜生、待っ――」
「やめっ、ああああ゛――」
数分ともたずに、半壊していた。
一人一人が一騎当千の猛者たちが、まるでゴミのように簡単に消されていく。
それでも、妖怪たちは一歩も退かずに向かっていく。
得体の知れない何かを操りながら笑っている、たった一人の化物に。
「相手は一人だ。 考える暇など与えるな、攪乱して一気に制圧するぞ!!」
妖怪たちは化物に向かって、四方八方から一斉に襲い掛かった。
九尾は状況を詳細に把握しようと視野を広げながらも、可能な限り犠牲を減らそうと、妖怪たちの中に式神の符を紛れ込ませて囮にしていく。
それでも、犠牲は避けられない。
助けられなかった、数えきれないほど多くの仲間たちの最期の姿ばかりが、目に焼き付いていく。
心が締め付けられるような光景をそれでも心の奥底に押し殺しながら、九尾は残酷なほど冷静に戦況を支配していく。
そして、数多の仲間たちの犠牲の上に立ち、九尾は遂に理想の突破口に辿り着いた。
自分がその化物の命を刈り獲れる位置、その背後をとって、
「消えろっ!!」
鋭い爪で化物の胸を貫き、その体を引き裂いた。
同時に噴水のような血が飛び散り、辺りには歓声が沸き上がる。
心臓を一突きにされた化物の姿は、それでこの事件に終止符を打ったように見えたが、
「あー。 何だ、お前が頭か」
突如として襲い掛かった異様な感覚は、九尾の身体を硬直させた。
聞こえてきたその声に、危機感はなかった。
その致命傷は、化物を一歩退かせることすらない。
ただ、適当に伸ばしたその手が、悪寒を感じてとっさに退こうとした九尾の首を掴んで、
「っが……」
「なっ!?」
「馬鹿な、どうして…」
九尾は抵抗できないまま、目を疑った。
化物に負わせたはずの致命傷は、既に傷跡も残らないほど綺麗に消え去っていた。
そこに残るのは、化物を追い詰めたという結果ではない。
それは、化物があえて手加減して九尾の一撃を受けてみせた余裕。
妖怪たちはただ、多くの犠牲を出しながらもまるで歯が立たない絶望的な力の差を思い知らされただけだった。
「……このっ、狼狽えるな! 俺たちも行くぞ!!」
「ウオオオオオオオッ!!」
だが、あまりにあっけなく敗北した九尾の姿は、それでも妖怪たちを退かせることは無い。
むしろ、妖怪たちの目は怒りに燃えていた。
妖怪たちの共通のその目の色は、その九尾の妖狐が、いかに妖怪を惹き付ける力を持っているかを物語っていた。
「なるほどねぇ……くくっ、随分と慕われてるみたいだなぁ、お前は」
「っ……ぃ、ぇ……」
あまりに強い力で首を絞めつけられている九尾は、全く抵抗することができなかった。
本能が否応なく理解させられてしまうほど次元の違うその力を前に、仲間たちに向けようとした「逃げろ」という言葉を発することさえも許されない。
そして、妖怪たちが怒りのまま自分に向かってくる光景を眺めていた化物は、やがてそれを嘲るように笑って、
「放せ、貴様ああああっ!!」
「はいよ。 ほんじゃ、取引だ。 こいつ殺さずに放してやるから、お前ら全員じっとしてな」
「なっ……そんなこ―――」
「ほい、足止めご苦労」
その、ほんの一瞬の迷い。
殺さずに放してやる、という言葉。
自分たちの頭である九尾が既に命を握られ、取引に使われている状況。
それを再確認して僅かに焦りを見せて足を止めた妖怪たちは、次の瞬間には立っていなかった。
妖怪たちの存在するその空間を黒い何かが鋭く過ぎ去るとともに、状況は一変していた。
それに飲み込まれてしまった者、身体や首を刎ねられてそのまま絶命した者。
ほとんどの者は、自分の最期がどんな形で訪れたかすらもわからなかった。
一つだけ事実として刻まれたのは、妖怪たちの群れが一瞬で全滅したということ。
ただ一人、無力に掴まれている九尾だけを残して。
「ぁ、ぁ……」
「あはは、まったく。 無能な大将を持つと大変だよなぁ。 そう思うだろ、九尾」
その挑発は、まっすぐ九尾一人に向けられていた。
そして、他にもう誰もいない状況で、怒りと憎悪に震えた九尾が死に物狂いで放った殺気は、
「殺してやるっ、お前は――」
「……なんだ、ありきたりでつまんない反応だな。 んじゃ、お望みどおりに」
あっけなく、沈黙した。
化物は九尾の身体の中心を貫き、大きな風穴をあけて捨てた。
それだけで、戦いは終わっていた。
力なく地に落ちた九尾は、その強力な生命力をもってしても数分と生きられないほどに致命傷を負っていた。
だが、それに止めを刺すことすらない。
それに興味を示すことすらない。
その得体の知れない化物の力は、あまりに圧倒的すぎた。
「……殺、せよ」
目の前で数百の仲間を殺されながら何もできなかった九尾は、苦悶の表情を浮かべながらそう懇願した。
だが、その声はもう誰にも届かなかった。
――死ぬのか、私は。
――何もできないまま、誰も助けられないまま。
いつの間にか九尾の目からは、その人生で最初で最後の涙が零れていた。
弱い自分が情けなくて。
何もできなかったことが、悔しくて。
何よりも、あっけなく訪れてしまった仲間の死が、悲しくて。
そんな、あまりに弱弱しい後悔だけを噛みしめたまま、やがて来る死をゆっくりと待つことしかできなかった。
「貴方かしら。 この妖怪たちを率いていたのは」
九尾が死ぬ間際、突如として声が響いた。
もう誰もいないはずのそこに、静かな声が聞こえてきた。
「……ああ」
「随分と無様ね。 誰一人として生き残ってないじゃない」
「……」
誰一人として。
その言葉が、九尾の心を更に締め付けていた。
そんなことは、本当はわかっていたはずだった。
それでも、誰か一人くらいは生き残ってくれていると、最後まで信じていたかった。
だが、現実はあまりに残酷過ぎた。
誰も、九尾本人ですらも、ここで死ぬ以外の運命がもう残されていないのだから。
「ま、でも少しだけ悼んであげるわ。 貴方たちの、その無駄な犠牲を」
「っ――!!」
気付くとその身体の奥底から、何かが湧き上がってきそうになっていた。
その言葉は、九尾に負の原動力を与えた。
無駄な犠牲というあまりに報われない暴言は、九尾の心を憎しみに染めた。
死に瀕してなお立ち上がろうとするための、僅かな気力をもたらしていた。
「……取り消せ」
「あら。 まだ、立ち上がる?」
「あいつらは、戦ったんだ」
「何のために?」
「幻想郷を。 この世界を、守るためだ!」
僅かに身を起こそうと力を入れた腕は、すぐに体重を支え切れなくなって再び倒れ込む。
九尾には、もう自分の命が1分ともたないだろうことはわかっていた。
それでも、その目は未だにまっすぐ見開かれていた。
命を懸けてこの世界を守ろうとした仲間たちの誇りだけは、無意味なもので終わらせたくなかったから。
「ふーん。 ……で、貴方はその覚悟に応えてあげたの?」
「っ、それは…」
だが、その声は弱弱しく消える。
何もできなかった自分のふがいなさだけが、その脳裏を駆け巡っていた。
「ああ、聞き方を間違えたわ、ごめんなさいね。 その覚悟に応える気が、貴方にあるのか聞いてるのよ」
「何?」
「何をかなぐり捨ててでも、幻想郷を守って死んだ戦士たちに報いる覚悟が貴方にある?」
「そんなの……当然だろう!!」
絞り出すかのように叫んだ九尾に向かって、妖怪は少し微笑んだ。
そして、その手を高くかざすとともに、
「だったら、決まりね」
「っ―――!!」
突如として、辺り一帯が光り出した。
妖怪たちの屍が、辺りを覆う光の結界に飲み込まれて消えていく。
その光景を、九尾はただ呆然と見ていた。
「何を……」
「貴方たちの生死の境界を、少し弄らせてもらうわ。 これから貴方の命は私のもの。 死の世界からこの世界に、私の力で命を繋ぐだけの式神」
「なっ!? ふ、ふざけるな、私は…」
「黙りなさい」
「っ!!」
「それが、貴方があの子たちの気持ちに報いる唯一の方法よ」
もう、仲間たちの姿は全て光に消えていた。
同時に、九尾の傷は塞がり、その力が少しずつ戻ってきていた。
辺りに散らばる死骸に残されていた僅かな生命力を全て切り離して九尾に注ぐために、この結界は動いている。
それを止めることこそが、仲間たちへの最悪の裏切りなのだと、九尾にはすぐにわかった。
「……八雲藍。 それが、貴方のこれからの名前よ」
「八雲……っ!? お前は、まさか…」
少しだけ回復した身体で九尾が起き上がると、そこにはあまりに有名すぎる一人の妖怪の姿があった。
「ええ、私の名は八雲紫。 貴方は彼らの誇りある犠牲を背負いながら、八雲の次席としてこれからの幻想郷の発展に貢献しなさい」
そして、その視線は空に向けられた。
藍がそれに合わせるように空を仰ぐと、天が割け、その境界線を分かつように2つの影が存在していた。
それらは共に、世界を終わらせられる力を持った存在。
藍を含めた数百の妖怪をたった一夜にして軽々しく葬り去った、あまりに規格外な化物。
そしてもう一人、死者の世界を司る彼岸に生まれた一人の問題児。
十王という頂点である存在でさえ御することのできない孤高の閻魔にして、誰より強大な力のままに己の正義を執行する幻想の最高裁判長、四季映姫・ヤマザナドゥ。
それは九尾の妖狐という種族をして弱者に数えられるほどの、別次元の戦いだった。
「行くわよ、藍」
そして、この場における弱者の側であるのは、紫とて例外ではない。
それでも、紫の目には恐れも迷いもなかった。
自分の無力さを知りながらも、ただまっすぐにその戦いの隙を窺っている。
紫の目が一体何を信じているのかは、藍にはわからない。
ただ、紫が信頼に値する相手であることだけは、藍には自然と理解できた。
その身を捧げることに、躊躇いはなかった。
既に戦えるほど回復した身を起こし、藍は決意を固める。
「……ああ。 一度は捨てた命だ、惜しくは…っ!?」
だが、そう言った藍の額を、紫は不機嫌そうに弾く。
「ダメよ、そんな死ぬつもりの気持ちじゃ。 貴方には解決後の処理までやってもらうつもりなんだから」
藍の目の前にあったのは、まるで子供のようなふくれっ顔で怒っている紫の顔。
それを見た藍は、少しだけ笑った。
明日にはこの世界がないかもしれない状況で、それでも笑った。
「そうだな。 これからの私は式神なのだからな、お前の言うとおりにしよう」
「あーっ! お前とか、そんなの式神の口調じゃないわよ。 もっと私に敬意を払いなさい敬意を」
「そう思うなら、させてみろ」
「……ふんだ。 いずれ、貴方には私のことを「紫様」とか呼ばせてみせるわ」
「そうか、ではその日を楽しみにしていよう」
いつの間にか、気持ちは楽になっていた。
仲間を失った悲しみが癒えた訳ではない。
それでも、自分にはまだその意志を継いで生きる意義がある。
そして、その意志を尊重してくれる主に出会えたのだから。
藍は一度深呼吸し、他の全てを今は忘れて、これから始まる戦いのために精神を統一する。
「さてと。 じゃあそろそろ、準備はいいかしら」
「いつでも」
「いい心がけね」
そう言って、紫は目の前に境界を開く。
先の見えない異空間へと繋がる隙間は、それでも藍を驚かせることはなかった。
そんな些事など気にも留めないほどに集中力を高め、既に臨戦態勢に入っていたから。
藍のそんな強き目を確認するとともに紫もまた覚悟を決め、共に隙間の中に消えていった。
上空に広がる戦場へと通じている、境界の狭間に。
そして、その戦いはその後ますます激しさを増し、幻想郷は戦火に包まれて――――
……結論から言うと、その戦いは幻想郷の勝利に終わった。
鬼をも遥かに超える力を持つ閻魔である映姫に加えて、妖怪の賢者である紫と、その式神にして最強の妖獣である藍の3人を、たった一人で同時に相手取ることなどできるはずがなかったのだ。
だが、それはあくまで化物の力が、まだ十分な制御を得ていなかったが故に過ぎなかった。
「……何なのですか、これは」
動かなくなった化物を見下ろしながら、映姫は戦慄した。
幻想郷の最高戦力の一角である2人の協力がありながらも、自分がギリギリの戦いの中でやっと勝利を治められた相手。
世界を滅ぼしかねない思想を持ち、僅かな時間で容易に数百を超える命を奪った、放っておけるはずのない危険因子。
普通なら、それを即座に裁き地獄へと落とすのが閻魔の役割であるはずだが、そういう訳にはいかなかった。
化物の抱える異常性が、その選択を受け入れることを拒んでいた。
「そもそもこの者は、一体何者なのですか?」
「……私の、旧知の妖怪です。 名をルーミア。 空亡妖怪という、こと戦闘においてはあらゆる妖怪の頂点に立つ者です」
「なっ…!?」
それを聞いた藍は、戸惑いを隠せなかった。
原初にして終焉の大妖、闇を飲み込む空亡と呼ばれしその存在は、伝説上の言い伝えでしかないはずだった。
妖怪でありながらも夜を支配し終わらせる力でもって、全ての妖怪を蹂躙する規格外の存在。
それは最高位の妖怪をして止めることなど不可能と伝えられた、まさに災害とでも呼ぶべき相手だった。
「妖怪の頂点? それは貴方のはずではなかったのですか、八雲紫」
「それは、幻想郷を平穏に管理するためのあくまで表向きの話です。 表舞台では影を潜めてただ普通の妖怪として暮らしている、そういう裏の世界の住人もいるんですよ」
「……そんな奴が、今まで何の問題も起こさずに幻想郷にいたというのか」
「ええ。 ただ、ルーミアは自分の力を振りかざすことを好まなかったから」
「何?」
「世界に混乱を招くほどに闇に染まり過ぎた妖怪を、ただ自分の仕事のように孤独に喰らっていただけ。 誰も好んで触れようとしない世界の闇を、一人率先して処理していた妖怪なのよ。 だから、今まで問題を起こさなかったというよりも、むしろ誰よりも幻想郷の平和維持に貢献してきた妖怪なんだけど」
ルーミアは人食い妖怪であり、食物として人を食うことを最も好む。
だが、同時にこの世界のあらゆる闇を喰らうことを存在意義とした妖怪だった。
抑えきれないほどの怒りや憎悪に、耐えきれないほどの悲しみや絶望。
それらに支配された者は、世界を滅ぼす因子へと変貌する前に、食物ではなく概念としてルーミアの『闇を喰らう能力』に人知れず飲み込まれていった。
様々な種族が跋扈しながらも弱肉強食の概念のまま当然のように喰い喰われ支配し支配される残酷な世界で、それでも大規模な混乱が訪れなかったことの一因は、ルーミアにあると言っても過言ではないのだ。
「……それなら、一体どうしてこんなことになってしまったのでしょうか」
「私もルーミアから世間話程度に聞いたことなので、正しく理解を得てるかは怪しいのですが……多分、ルーミアの中に形成されていたもう一つの人格が抑えきれなくなったんだと思います」
「もう一つの人格?」
「ええ。 飲み込み過ぎた膨大な闇を処理するための人格……言うなれば、『悪』としての人格ってところです」
たった一人で永きに渡って、この世の闇を喰らってきたルーミア。
だが、取り込み続けた闇から、その精神が何の影響も受けずにいられるはずがなかった。
長い歴史の中でルーミアという一つの容れ物にあまりに膨大に蓄積されてしまった闇は、遂に限界を超えてルーミアにもう一つの人格を生み出してしまった。
それは、溢れ出してルーミアの心を蝕むほどの闇さえも自らの糧として昇華するための、自己防衛機能として生み出された人格だった。
「ですが、その悪の人格はルーミアの中に蓄積された闇を自分の力の糧に変質させるための、いわば内臓のような役割を果たすものであって、本来であればルーミアの人格を支配できるほどの力は持っていません」
「だったら、どうして…」
「条件があるんです。 そもそも、ルーミアがその能力を用いて飲み込んでいた闇の要素は、大まかに分けて、嘆き、絶望、怒り、憎悪の4つ。 その感情が、悪の人格の力を増幅させる起爆剤となるんです」
「4つの感情、ですか」
「ええ。 そして、ルーミアが乗っ取られてしまうほどに悪の人格の力が増幅する条件は、巨大すぎる4種の闇をそれぞれ同時期に取り込み、その感情の流れを支配する4支柱が同時に形成されてしまうことだそうです。 だから、本来であればルーミアはそれらを同時期に取り込まないよう調整することで、幻想郷に巣食う闇を、少しずつ減らしていたはずなんです」
4種の闇を取り込む時期を調整することで、ルーミアは自らの中に巣食う悪の人格が表出しないよう、完全にコントロールしていたはずだった。
だが、今回はなぜか、その人格がルーミアの本来の人格を抑え込んで表出してしまった。
その結果が、今の状況。
たった一人の妖怪の精神が乗っ取られただけで、幻想郷は一夜にして崩壊の危機を迎えたのだ。
「ですから、恐らくこれはルーミアにとっても完全に予想外の出来事のはずなんです。 4支柱が同時に形成された訳でもないのに乗っ取られるなんてことは」
「……まぁ、仕方ないでしょう。 こんなものの存在を、予測できるはずがありませんから。 たとえ幻想郷全ての悲劇を飲み込んだとしても、ここまでは……いえ、そもそもこんなに悍ましいものが、この世に…」
映姫が目を向けたのは、ルーミアから少し上にある空間の境界に閉じ込められた、形を成さない何か。
それは、映姫の『白黒はっきりつける能力』と紫の『境界を操る能力』を使って、ルーミアの中に巣食う危険因子を一時的に取り出して分割した、「4つの要素」だった。
世界を滅ぼすほどの思想を持ち、負の感情を糧にして力を強大化する、ルーミアの中にある悪としての「存在」。
それ1つで幻想郷を消滅させてしまいかねないほどの、神を超越するエネルギーを秘めた、破滅の「力」。
心を侵食し、無限に負の感情を増幅させていく、未知の「能力」。
それらは今の幻想郷での存在を許容できないほど、あまりに過剰な力を持ち合わせた「何か」だった。
それでも、その時の映姫や紫たちが、それが一体何なのかを現時点で詳細に理解することはできなかったが故に、その3つの要素の危険性はあくまで未知数に留まった。
だが、もう一つの要素だけは違った。
ルーミアを壊した本当の原因、ルーミアの悪の人格を浮き上がらせてしまった諸悪の根源。
それは、幻想郷に存在しないオーバーテクノロジーではない。
この世界の誰もが少しは持ち合わせているはずのもの。
故に、その危険性はその場にいる誰もが一目で理解できた。
それは、無限の「闇」そのもの。
あらゆる負の感情。 嘆きや怒り、絶望や憎悪などという言葉だけでは説明しきれないほどの異物。
過去の行いを覗き見れるという映姫の持つ浄玻璃の鏡ですらも、かざした途端に粉々に砕け散ってしまう、この世界に存在する全ての闇を掻き集めて圧縮でもしたとしか考えられないほどの、膨大な感情。
一体どうしたら、ここまで得体の知れないものを抱え込めるのか。
一体、この世のどこにこんなに悍ましいものが存在していたというのか。
そんな、答えの出ない問いをただ漠然と漏らすことしか許さないほどに歪んだ、「たった一人の感情」という名の兵器だった。
「……これは、とても我々の手に負える代物ではありません。 即刻、閻魔様のお力で浄化していただきたく…」
「無理です」
「え?」
「私でも……いえ、たとえ十王の誰であっても、これを完全に消滅しきることは恐らく不可能です。 そんなことを試みれば、彼岸だけに留まらず、この世界そのものが飲み込まれかねません」
「そんなっ!?」
死者を裁くということは、つまりはその者の闇の深さを暴き、背負うということ。
閻魔の所有物、悔悟の棒とは叩かれる者の抱える罪の分だけ重くなるのだ。
つまりは、その世界で死に流れ着いたあらゆる者を裁き得るために、閻魔という種族にはあらゆる罪の重さを背負える絶対なる強さが必要不可欠とされる。
故に、映姫という強大な力を持ってしまった閻魔が、幻想郷という一癖も二癖もある者の巣窟を担当することになったのはいわば必然だったのだ。
紫のような妖怪を、そして鬼や神といった強大な種族をも全て裁ける力を持った閻魔など、十王を除けば彼女くらいなのだから。
だが、映姫が抜擢されたのはあくまで常識的な範囲での、幻想郷の住人を裁く閻魔としての役割に限った話に過ぎない。
ここまで得体の知れないものが幻想郷に眠っていたことなど、こんなものを処理しなければいけない状況など、そもそも誰にも想定されてはいないのだ。
「では、どうするのですか。 閻魔様の力ですら通じないとすれば、これはもう…」
「封じるしか、ないでしょう」
「封じる?」
「ええ。 解き放てば即ち幻想郷を崩し、滅すれば即ち彼岸を終わらせる力。 ならば、無力化して隔離、封印する方法くらいしかありません」
その方法がただの問題の先送りであることくらい、紫や藍がわからないはずがない。
それは映姫も重々承知の上だった。
それでも、他に方法がないのだ。
「だったら、せめて他の皆様に、十王様や鬼神長様にもご協力を仰げませんか。 封じるにしても、これを幻想郷だけで全て処理することは容易ではありませんから」
「……いえ。 幻想郷のことを想うのであれば、それは賢明な判断ではありません」
「なぜですか、私たちだけでは…」
「貴方は知らないのです。 是非曲直庁というシステムが抱える、闇の深さを」
若くして十王に並び得る力を持ち合わせた映姫だからこそ、妬まれ危険視され、故に誰よりもその闇を見続けてきた。
巨大すぎるその組織の腐敗と、映姫は戦い続けていた。
不毛なルールと責任論、保身のための陰謀が渦巻く巨大組織の闇に苦しみ続けた映姫は、この問題を是非曲直庁に持ち帰ることの危険性を誰よりも深く理解していたのだ。
「……恐らく、もし是非曲直庁にこの存在が伝わってしまえば、まず間違いなく幻想郷は捨て石にされるでしょう」
「捨て石、とは?」
「問題が起きないように、自分たちに責任の一端が降りかからないように。 幻想郷という世界ごと全て隔離され、この力を封印する場所として十王の監視下に置かれる。 今までのように貴方が望む自由な発展など望むこと自体が不可能な、死んだ世界となります」
「っ!? そんな、ことって……」
それは即ち、紫の愛する幻想郷の全てが終わりを告げることに他ならなかった。
『幻と実体の境界』が完成し、妖怪たちの楽園がこれからやっと始まる時になって突きつけられた、あまりに残酷な現実。
歯を食いしばって俯く紫に、藍は何も声をかけてあげることはできない。
だが、そんな紫に希望を与えたのは、他でもない映姫だった。
「ですが、そうさせない方法が一つだけあります」
「え? そんなの、どうやって…」
「隠せばいいんです」
「へっ?」
紫は素っ頓狂な声を上げる。
それは、真面目な映姫の口から出てくるとは想像すらしなかった提案だったからだ。
「十王の……いえ、他の誰にも知り得ない機密として、私たちだけで封じるんです」
「……いいのですか、その、それでは閻魔様の立場が…」
「いいんですよ」
映姫の言葉は、決して軽いものではなかった。
深く沈み込むほどに重い覚悟を乗せた、強き言葉。
それでも、ただ晴れやかな笑みとともに放たれたのは、
「私はまだここに着任して間もない若造ですが……私も、好きなんですよ。 この、幻想郷が」
「っ!!」
それは紫にとって、どれほどの言葉さえも右に出ることのない、最高の賛辞だった。
まだ完全な信頼を置いてはいなかった映姫を、それでも信じたくなるような、甘美な誘惑だった。
「ですから、私たちの手で守りましょう。 この幻想郷という世界を」
「……ええ。 ええ! よろしくお願いします」
そして両者の合意を得て、映姫と紫たちによる、この事件の機密事項に関する隠蔽工作が始まった。
大まかな隠蔽計画の主軸は、ルーミアを支配していた要素を、どうやって封じるかというもの。
調査の過程で、闇の要素には他の3要素との密接な繋がりがあることがわかった。
つまりは、他の要素を完全に消滅させてしまうことが、闇の要素を暴走させるきっかけとなりかねないのだ。
故に、4要素の全てを可能な限り引き離して封じ、それぞれの特性に合わせた封印方法を模索することとした。
まず1つ目の要素、最も大きなエネルギーを抱えた「力」の要素については、紫が担当することとなった。
少し前に完成させた『幻と実体の境界』、つまりは現実と幻想郷を隔てる境界の狭間に、紫の力をもってそれを封じることにした。
莫大なエネルギーを必要としながらも現実の力と幻想の力が共に「0」に近づく、外力の最もかかりづらい境界の狭間が、強大な力を封じるのには最も適していると判断したのだ。
2つ目の要素、ルーミアの中にある悪としての「存在」の要素については、藍と、そしてルーミアが担当することとなった。
これについては、やむを得ない采配だった。
その人格に適応し得る者など、ルーミアをおいて他にいない。
故に、その人格をルーミアの中に戻した上で、ルーミア力そのものに封印処理を行うことにした。
空亡妖怪の持つ強大な力を低級妖怪と同等程度に封じ込めた上で、藍が監視するという手段をとったのだ。
それでも、その危険性を危惧した映姫が提案したのは、『闇を喰らう能力』と世界の闇を喰らう役割自体をルーミアから切り離すことで、支柱の構成を防止することだった。
妖怪としての存在意義を失わない最低限度の『闇を操る能力』のみをルーミアに残し、他の全てを別の要素と融合させたのだ。
即ちその3つ目の要素、無限に負の感情を増幅させる未知の「能力」の要素については、映姫が担当することとなった。
映姫はそれを、怨霊の巣窟となっている地獄の底に、詳細は伏せた上で、信頼できる鬼の監視のもと封じることとした。
もしこの力を誰かが取り込んでしまえば、その心の内に秘めたほんの僅かな闇が際限なく増幅し、別人のように変貌してしまう。
故に映姫は、多少の危険は付き纏うものの、元々負の感情の塊であり、抱える闇の在り方が最も単調である怨霊という存在の中に、それを少しずつ分割して封印することを考えた。
更に、その要素とルーミアの持つ『闇を喰らう能力』を混合して封じることで、安定して管理の可能な増幅量の闇を、その能力で喰らい自浄していくシステムを作成したのだ。
そして、最後の一つ。
無限の闇の要素については、映姫が秘密裏に処理することとなった。
その要素は、ほんの欠片でも誰かが触れてしまえば、その者は発狂し数秒とせず狂気の中で死に至り、その残照だけで再び幻想郷を飲み込みかねない。
仮にそれが悪用などされてしまえば、容易に一つの世界が滅び得るのだ。
故に、誰一人としてその存在を知ること自体ができないよう、紫や藍にすら伝えないまま映姫一人でその封印処理を行った。
封印場所は紫ですら知らされていない、あらゆるブラックボックスを封じるための聖域だという。
幻想郷からは遠い世界、十王の追求も審査も受けることなき「とある」場所にそれを封じたというのだ。
その4つの要素の封印方法は、それぞれが爆弾を抱えたギリギリの処理方法だった。
更に言えば、その存在を誰にも気付かれずに封じ続ける必要があるため、その管理は慎重に慎重を重ねて行われる、はずだった。
だが、その歯車は、最初から少しだけズレていたのだ。
紫たちと映姫は、協力関係にはあっても同じ視点に立ってはいない。
管理者である妖怪として幻想郷を守る立場の紫と、導き手である雇われ閻魔として幻想郷を監視する立場の映姫。
互いを信頼しなければ成し得ない計画の中にあった僅かな溝は、小さな裏切りを孕んでしまった。
それに誰も気づかないまま、時は流れていく。
何の問題もなく、ただ偽りの平穏が戻った幻想郷で、その事件は忘れ去られていく。
そして、異変とは無関係に策定されてしまったとある計画が、その僅かな綻びを押し広げて何もかもを狂わせてしまうのは、もう少し先の話だった。