東方理想郷 ~ Unknowable Games.   作:まこと13

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第34話 : 魂のスペル

 

 

 

 大気が燃え尽きる臭いがした。

 空を焼き焦がした熱さえも飲み込んで強大化した弾幕が分裂し、その欠片が絶え間なく地上に降り注いでいく。

 天井と表現するにはあまりに大きく、まるで地球という小さな星に太陽が降ってきたかのような絶望感だけが視界を覆っている。

 

 その絶望に、霊夢は一人立ち向かっていた。

 目の前に迫るのは、避ける隙間の全く存在しない弾幕。

 スペルカードルールにおいては反則とされるそれに、霊夢は……あっけなく被弾した。

 たった一欠片で一個体の命など容易く消滅させる光に被弾して、被弾し続けて、ほんの1秒足らずで何度死んでいてもおかしくない嵐の中を、それでも霊夢は突き進む。

 だが、次々に霊夢に襲い掛かる弾幕は、その全てが霊夢の身体をすり抜けるように素通りしていった。

 

 それこそが、霊夢の真の奥義。

 邪神の力ではなく、霊夢自身の『空を飛ぶ程度の能力』を極限まで研ぎ澄ませて完成させたスペル、『夢想天生』の力。

 この広大な空と、世界と完全に一体化することで、あらゆる事象の影響を無視することを可能とする力。

 かつて萃香と戦った時ですら、全ての攻撃をすり抜けながら自身の弾幕を放ち続けることで、一方的な勝利をもぎ取った。

 それは、制限時間という概念がなければ決して破ることができない、つまりはスペルカードルールに則らなければ決して霊夢に勝つことはできないと相手の思考に植え付けるための、いわば暴力の抑止力にもなる反則的な技だった。

 

「っ……違う、こっちじゃない」

 

 どれほど強力な弾幕に被弾しようとも、それは直接霊夢の身体にダメージを与えはしない。

 それでも、世界という大きすぎる要素と自分の心という小さな要素を一体化する、あまりに無茶が過ぎるその技は、霊夢の精神に大きな負担を強いていた。

 実際には自分が力尽きるまでという時間的な制約がある霊夢は、焦りながらその弾幕の中を飛び抜けていく。

 だが、霊夢はその先にいる輝夜を倒そうとしている訳ではない。

 そのスペルカードを正面から破ろうとしている訳でもない。

 ただ、輝夜の方へと向かいながらも、その弾幕を深く観察しながら飛び回っている。

 

「意味のない形なんかじゃない。 今の輝夜なら、きっと何か……」

 

 時という法則を完全に無視して君臨する弾幕の天井は、この世界にとって明らかな異物。

 霊夢が取り込んだ世界の法則と相反するそれは、今の霊夢には決して治めることはできない。

 なぜなら、『空を飛ぶ程度の能力』は無条件に全てと一体化できる能力ではなく、霊夢の心が観測可能な事象を共有する能力だからだ。

 

 ならば、もし輝夜の放つ弾幕の意味を感じ取れたのなら。

 その弾幕に、自らの感覚と共有できるような綻びを見つけられたなら。

 霊夢には、その弾幕を自らの世界と一体化させて鎮めることができる気がしていた。

 

「――――つっ!?」

 

 だが、霊夢の思考はそこまでだった。

 霊夢は、自分が被弾したように感じていた。

 感じていただけではない。 自分の身体を焼かれたような痛みとともに、全身がひどく痺れていた。

 

「え……?」

 

 霊夢は苦痛に表情を歪めながらも、何が起こっているのかもわからずに呆然としていた。

 被弾した訳ではない。

 夢想天生の効果が切れていた訳ではない。

 

「……何なの、これ?」

 

 ただ、霊夢がゆっくりと振り返ると、そこにはこの世のものとは思えない終焉の景色。

 大地が割け、色彩を完全に失った狭間へと全てが崩落していく。

 光速で乱舞する弾同士がぶつかり合い、悲鳴を上げた分子が、大気に亀裂を起こして壊れていく。

 そこにあったはずの暗闇の世界は既に、輝夜の放ったスペルの欠片に滅ぼされつつあった。

 この世界そのものと一体化した霊夢の力は、世界が壊れるにつれて徐々に奪われていく。

 それは、世界という概念に守られていたはずの霊夢を、逆に世界そのものを滅ぼすことで内側から消滅に導こうとする、夢想天生の攻略法だった。

 

「っ!? 冗談じゃないわよ!! こんな、ことで……」

 

 霊夢は焦燥を隠せなかった。

 それでも、再び決死の思いで前を向いた霊夢を待ち受けていたのは、もはや宇宙の終わりすら思わせるほどに無限に増幅していくエネルギーの暴走。

 霊夢はもう、目の前を埋め尽くしていく絶望を、ただ見ていることしかできなかった。

 そして、静かに悟った。

 

 ――敵わない。

 

 既に霊夢の心は折れかけていた。

 『夢想天生』を使えば無敵なのだと、自分でも思っていたから。

 理論上、この技には誰一人として太刀打ちすることすらできないはずだったのだから。

 故に、その絶対の自信が破られてしまえば、脆いものだった。

 

「これは……無理、かな」

 

 霊夢は、もう限界だった。

 強がってみても、霊夢にはもう何もないから。

 この世界が幻想郷の成れの果てで、もう他に誰も存在しないと思っているから。

 心の中に僅かに残る紫の声を信じて、ここまで戦ってきた。

 それでも、もう紫もいない。

 今の霊夢の心を支えるものは、もうないのだ。

 守るべきものも信じるものも何もない今、霊夢を突き動かすものなど何一つとしてないなずの世界で……

 

 

  ――誰か。

 

 

 それでも、霊夢は諦めはしなかった。

 『夢想天生』を使ったことで、更に深く共有できたこの世界の記憶。

 この世界に残された、たったひとつの自分以外の記憶。

 

 

  ――誰か、助けてよ。

 

 

 さとりのように、心を読める訳ではない。

 一体何に苦しんでいるかなど、わからない。

 それでも、あまりに悲痛なその想いは届くから。

 その強大すぎる弾幕を放つ輝夜の、心の叫びが聞こえてくるから。

 

「……そうよね。 まだ諦める訳には、いかないわよね」

 

 霊夢には、それだけで戦う理由としては十分すぎた。

 たとえここが終点だとしても、それは自分だけの物語なのだから。

 自己満足でも、たとえ無意味に終わろうとも構わない。

 ただ、目の前で泣いている子を助けたいという、自分の気持ちにだけは嘘はつけないから。

 

「さっさと目ぇ覚ましなさいよ、輝夜っ!!」

 

 そして、霊夢はそのまま勝機の無い弾幕の宇宙へと身を投げた。

 

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第34話 : 魂のスペル

 

 

 

 

 

 

 

 ――いつからだろう、何もわからなくなったのは。

 

 

 自分が何故ここにいるのか。

 自分が本当は何をしたかったのかすらも。

 何も、わからない。

 

 

 自分のやっていることが果たして正義なのか、それとも悪なのかすらわからない。

 

『別にどうでもいいでしょ』

 

 そんなことは気にも留めなかった。

 自分が悪であるとしても構わない。

 たとえどれほど険しく孤独な道を選んででも、それを成し遂げると決めたのだから。

 

 

 ――でも、もしかしたら目の前に見えている全ては、私の弱さが生み出した幻想なのかもしれない。

 

 

 その道のりの途中で苦しみ逃避し、遂に生み出されてしまった幻影は、現実と空想の境界線をも惑わせていく。

 いつしか、自分の決意もその道の果てに待つ結果も、今見えているそれが果たして現実なのか、それとも夢幻なのかさえわからなくなっていた。

 

『そんなの、どっちでも関係ないわ』

 

 だけど、深く考えることはなかった。

 今見えている光景が、ただの夢幻であるとしても構わない。

 たとえここが幻の中の世界であるとしても、いつかどこかでそれを救える道が見つかるのかもしれないのだから。

 

 

 ――だったら、私は一体何を救おうとしたっていうの?

 

 

 あまりに複雑に絡み合った迷路は、本来の目的すらも遥か彼方に消し去ってしまって。

 もう、自分が救おうとした何かに果たして生きる道があるのか、それとも死の道しか残されていないのかさえわからなくなっていた。

 

『だから、それが何だっていうのよ』

 

 それでも、迷う必要なんてない。

 その果てに死という結末しか残されていないとしても、構わない。

 たとえどんな残酷な運命が待ち受けようとも、それを自分が打ち砕くと誓ったのだから。

 

 

 ――なのに、いつしかそんな誓いすらわからなくなった。

 

 

 忘れようとしていた。

 その決意も、立ち向かう気概も、大切なものすらも。

 全てを自分の手の届かないほど遠くへと、無理矢理に追いやろうとしていた。

 もう、限界だったから。

 あまりに残酷な迷宮の中で、諦めようとしていた。

 

『諦めないで』

 

 本当は、何度も逃げようとした。

 

『逃げるな!!』

 

 だけど、心の中にあまりに深く根付いてしまった自分自身の声という魔物が、次第に牙を剥き始めて。

 

『もう一度くらい、頑張りなさいよ』

 

 それに、気付かないふりをしようとして。

 

『ふざけないでよ!』

 

 それでも、最後の瞬間には決まって、思い出したくもないあの記憶が再び蘇ってくる。

 何も救えなかった記憶。

 誰かを傷つけた記憶。

 誰かを殺した記憶。

 世界を滅ぼした記憶。

 どうして、何があってそうなったのかも、今はもう思い出せない。

 どうでもよかったから。

 それは、今の自分にとってはただの「虚構」の歴史に過ぎないのだから。

 それならいっそ、全て消え去ってくれればよかったのに。

 なのに、消えてほしいものだけは決して消えてはくれない。

 その時に負った心の傷だけは、いつまで経っても癒えることはなかった。

 

 もう、関わりたくはなかった。

 頑張れば頑張るほど。

 気持ちを入れ込めば入れ込むほど。

 それに失敗した傷は大きくなっていくから。

 だから、たった一つの記憶などどうでもよくなるくらい、離れたところから見ていた。

 ただ見ているだけだった。

 ただ逃げているだけだった。

 それでも少しずつ、ほんの少しずつ、その心は侵されていくから。

 

「……結局、また同じなんでしょ」

 

 目の前で命を懸けて自分の弾幕を攻略しようと奔走する少女に、特に期待はしていない。

 その少女に頼ることの無意味さを、嫌というほど思い知っているから。

 だったら、その迷路の出口は一体どこにあるのか。

 出口なんてものが、そもそも存在するのか。

 

「……もう、いいでしょ」

 

 彼女はそんな言葉を紡ぎながらも、再び進んでいく。

 自らの意志でもって、永遠に続くその地獄へと。

 目の前で奮闘する少女に諦めの視線を送りながら、僅かな希望すらも見えない闇の底へまた一歩を踏み出そうとして……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 霊夢は焦っていた。

 その身体は、既に敗戦後であるかのように力なく。

 残されていた霊力は、邪神の力を酷使してなお残り僅かで。

 

 それでも、霊夢が焦っているのはそんなことではなかった。

 

 自分の限界ではない。

 この世界の限界でもない。

 ただ、目の前にいる輝夜の心の限界を、察してしまったから。

 必要以上に感じ取ってしまうその苦しみに、ほんの少し共有しているだけの自分でさえ気が狂ってしまいそうになっていたから。

 

『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■』

 

 それは、輝夜の放つ弾幕に入り混じっていた記憶。

 希望も絶望も。

 信頼も憎悪も。

 嘆き怒りに友情愛情、あらゆる概念が滅茶苦茶に入り混じったかのような騒音。

 それらが皆平等に、得体の知れない何かに塗りつぶされていくかのような生理的嫌悪。

 頭が割れるような頭痛と耐えきれない吐き気は、ほんの僅かだけで霊夢の精神を崩壊させようとしていた。

 

「……何、なのよ」

 

 それでも、霊夢はただ必死に飛びながら注視する。

 これ以上ないほどに光を放つ、その弾幕を。

 蝕まれていく輝夜の心とは対照的なほどの輝きを放つその力を見ながら、叫んだ。

 

「あんたは一体、何と戦ってるのよ!?」

 

 霊夢と戦っているのなら、それでよかった。

 明確な敵が別にいるのなら、簡単だった。

 自分自身との戦いというのなら、まだ何とかなった。

 だが、輝夜はそんな分かりやすい何かと戦ってなどいなかった。

 

「答えなさいよ、輝夜っ!!」

 

 次第に、その空間は裂けてきていた。

 世界が終わろうとしていた。

 同時に、輝夜の心も死のうとしていた。

 いや、死にはしない。

 ただ、死よりも遥かに辛い何かに、自らの全てを投じようとしているだけだった。

 

 ――あの時に、あのまま楽に死なせてあげるのが正解だったの?

 

 霊夢は、次第に迷ってきていた。

 輝夜を永遠の孤独から解放する方法なんてものは、何もない。

 自分は寿命のある人間で、いずれは輝夜の目の前から消える儚い存在なのだから。

 ならば、せめてそれを終わらせてあげるのが、自分に残された最後の役目なのだと思っていた。

 

 ――だって、そうするしかなかったでしょ?

 

 ――他に、輝夜を止める方法なんて、助ける方法なんてなかったでしょ!?

 

 それは霊夢自身の中に渦巻く葛藤のようであり、その実、後悔という名のただの言い訳。

 今の現実が塞がっているが故の、過去へ見出した逃げ道に過ぎない。

 そんなことは、霊夢自身もわかっていた。

 それでも、他に何も道しるべがない以上、できることなど何もなかった。

 この閉ざされた世界の中で、他に選択肢なんてものは―――

 

「……待って」

 

 だが、霊夢はふと思った。

 今の状況の認識が、本当に正しいのか。

 ここは、既に闇の力に飲み込まれて滅びた世界。

 他に誰もいない、そんな世界。

 ならば、どうして。

 

「どうして、輝夜だけが……違う、私が生き残ってるの?」

 

 異変の黒幕であるはずのルーミアは、いない。

 いや、たとえルーミアが最後に自らの命すらも絶ったとしても、輝夜だけを残す意味はあるのか。

 輝夜と同じ不死者であるはずの永琳は、いないのだから。

 永琳と同じように全てを飲み込むことも、輝夜を消すこともできたはずなのだ。

 そして、自分が今ここに残っている状況。

 偶然にも闇の呪縛から逃れられたからなのか。

 こんな孤独と絶望しか残されていない、ただひたすらに苦しむだけの世界に。

 あの紫が、そんな場所に霊夢を黙って放り出すなんてことが、ありえるのか。

 そう考えたとき、霊夢の中に一つの仮説が浮かぶ。

 

「まさか、ここは……」

 

 幻想郷ではない。

 これは、誰かが恣意的に作り出した状況で。

 まだ、幻想郷は別のどこかにあって。

 自分や輝夜はそれに気づいていないだけ。

 そう考えれば、まだ少しだけ希望が持てる気がしていた。

 

「輝夜! もしかしたら、ここは幻想郷じゃないのかもしれないわ」

「……」

「こんなところで一人で取り残される心配なんてないのかもしれない、だから…!!」

「……知ってるわよ、そんなこと」

「え?」

 

 だが、それは当然の反応だった。

 ここは幻想郷ではない。

 アリスが禁忌のグリモワールの『紫』の魔法を使って創り出した異世界。

 その空間に、輝夜は望んで残っただけなのだから。

 

「だから、それが何?」

 

 故に、その事実が輝夜の思考に何ら影響を与えないことは当然だった。

 

「それが何って…」

「ああそうね、霊夢にとっては重要な問題よね。 この異世界を支配してる私を殺せば、貴方は幻想郷に戻れるかもしれないからね」

「っ……!!」

 

 霊夢と輝夜だけがこの空間に閉じ込められている今の状況を作り出したのは、他でもない輝夜であるという。

 それを聞いた霊夢の心に浮かんだのは喜びでも、輝夜への敵対心でもなかった。

 まだ無事な幻想郷に、皆のもとに戻れるかもしれない希望さえも度外視して浮かんでいた思考。

 そもそも輝夜は今、一体何をしてるのかという根柢の疑問。

 少なくとも、弾幕ごっこを続けようとしているようには見えない。

 ただ乱雑に力を振りまいている輝夜の姿は、霊夢に冷静な思考を取り戻させた。

 

 ――私を殺そうとしている?

 

 こんな回りくどいことをせずとも、その気になればすぐにできたはず。

 

 ――死のうとしている?

 

 それなら、少し前に霊夢の攻撃に身を任せるだけで終わっていた。

 

 それらの考え得る可能性には、その行動が理に沿わない。

 にもかかわらず、輝夜が止まることはない。

 だとしたら、その標的は……

 

「この世界、そのもの?」

 

 無想天生を攻略しようとしたのではない。

 ただ単純に目の前の全てを否定しようとして、結果的に霊夢を追い詰めているだけで。

 今の輝夜は、霊夢のことなど気にも留めていないのではないか。

 

 輝夜がおかしくなったのは、さっきの弾幕ごっこの最中。

 明らかに心を押し殺して、無理に笑っていた輝夜の姿を前に、霊夢が直感的に感じてしまったこと。

 輝夜は、誰にも言えない何かを一人で心の奥に押し殺していると。

 そう思って、なんとなくで放った霊夢の一言から、輝夜の全てが乱れ始めた。

 何かを否定するかのように、ただ破壊に身を任せるようになっていたのだ。

 ならばきっと、そこに今の状況を導いただけの何かがある。

 もしかしたら、輝夜の心の隙に割り込む手がかりが存在するのかもしれないから。

 

「……なるほどね」

 

 霊夢の目の光は、蘇っていた。

 輝夜の抱えているものが、一体何なのか。

 それが少しでもわかれば、きっと活路が見出せるだろうから。

 

「それなら、もう少しくらい遊んでみる価値はあるわよね!」

 

 霊夢は再び周囲に気を張り巡らせる。

 新たに希望を見出した霊夢の心と、絶え間なく絶望に囚われた輝夜の心。

 辺りを覆う暗闇の世界と、それを照らし尽くす光を放つ弾幕。

 霊夢は、その中に存在する違和感に気付いていた。

 誰よりも弾幕ごっこに長け、関わってきた霊夢だからこそわかることがあった。

 

 弾幕には、それを放つ者の魂が表れるのだと。

 

 誰かを傷つけないために、美しさを追求してきた霊夢。

 弾幕ごっこを楽しむために、あえて力技で押し通してきた魔理沙。

 優秀過ぎるライバルに追いつくために陰で努力を重ね、勝つための戦略的な弾幕を模索してきた早苗。

 その他にも多くの強敵と弾幕勝負をしてきた霊夢は、個人の持つ弾幕の性質から、ひとりひとりの想いそのものを感じることができた。

 それは、輝夜さえも例外ではない。

 ただ秘宝の力に任せて勝負をしていた頃の輝夜からは、それでも勝負相手のやり方に「適当」に合わせながら楽しもうという在り方が、霊夢には僅かながらも感じられていたのだから。

 

 だが、今の輝夜の弾幕から感じ取れるのは、明らかな不協和音だけだった。

 こんなにも深い闇に囚われながらも、それと対照的なほど輝かしい光を放つ弾幕。

 その想いと相反する色彩に支配された弾幕は、きっと輝夜の心の中で拒絶反応を起こしているはず。

 にもかかわらずそれを放ち続けることには、何かしらの理由があるのだろう。

 そして、それこそがきっと、輝夜が囚われている記憶の檻。

 そこに何かしらの意味を見つけることが、『スペルカードルール』の本当の意義。

 弾幕を通じて相手を理解できる、それこそが霊夢がこのルールを好きである最たる理由だった。

 

「いくわよ輝夜。 まずは、何よりも美しい弾幕!!」

 

 だから、霊夢は自らの得意とする弾幕とともに、空高く飛び上がった。

 霊夢はあえて自分が弾幕で表現することで、スペルカードに対する自分と輝夜の共感部分を探ろうとしたのだ。

 最初の弾幕は、霊夢自身の魂を込めた戦法で、再びごっこ遊びの中に身を投じた。

 それは、特段の殺傷力を持たない、霊夢が最も多用してきた弾幕。

 星々を散りばめ、小銀河のように無限を感じさせる、ただ美しさのみを追求した弾幕だった。

 

 だが、それは一瞬の輝きの後、輝夜の弾幕にあっけなく飲み込まれていく。

 その美しくも儚い弾幕の散り様に、輝夜が見向きもしていないことに気付くと、霊夢はすぐに気持ちを切り替えた。

 

「なら、誰よりも強い弾幕!」

 

 霊夢は両手を上げ、自らの中に眠る邪神の力を、いくつものエネルギー球体と化して解き放つ。

 参考にしたのは魔理沙と、かつての萃香の弾幕だった。

 誰よりもパワーを前面に押し出そうとしていた魔理沙と、鬼という種族が先天的に持ち合わせた強大な力を思うままに振るっていた萃香の弾幕。

 一見相反するように見える弱者と強者の2人が放つ弾幕には、それでも共通点があった。

 誰と比べても明らかに弱い人間である自分が、それでもどんな力を持った相手とでも対等でいられることを証明したいという思いと。

 自分が誰よりも強いという自信と、それが忘れ去られていくことへの反抗心。

 それは、この幻想郷という一つの世界に向けた、「私はここにいる」という自己主張を乗せて放つ弾幕だった。

 

 そんな想いを胸に宿し、霊夢が全力で放った霊力は、輝夜の弾幕さえも掻き消して一直線に飛んでいく。

 だが、それを軽く受け流した輝夜の心が、何一つとして気にも留めていないことを感じ、霊夢は間髪入れず次の弾幕を放つ。

 

「練り上げた弾幕を!!」

 

 霊夢は自らの霊力を拡散させるように放出し、それらを深く絡み合わせていく。

 それは、今まで自分の歩いてきた「努力」という道筋への信頼。

 早苗のように相手の特性さえ加味して、勝ちに行くための難しい弾道を描く弾幕の中を。

 永琳のように理路整然と、それでも知恵の輪のように複雑に絡み合った軌道の弾幕の中を。

 そんな、あまりに短い時間で得た経験値と、あまりに長い時間を重ねた経験値は、それでも数字や理屈では表せない信念の証。

 自分自身と戦い続けて培った、自分にしかない自信という何よりの主張のままに進む弾幕は、膨大な変化を起こしながら輝夜へと向かっていく。

 それでも輝夜は、その弾幕をまっさらな草原を歩くかのように淡々と攻略していく。

 

「速さを!」

 

 レミリアのように、吸血鬼の瞬発力のごとく、誰よりも鋭い一瞬の輝きを放つ弾幕も。

 文のように、幻想郷最速の名に恥じぬほど、音速を超えて縦横無尽に飛び回る弾幕も。

 それさえも簡単に止められてしまって。

 

 ――もっと、まっすぐに。

 

 妖夢のように、己の信念のままに振り続けた剣筋をなぞるかのように。

 

 ――より固い意志で。

 

 天子のように、振り返ることも遮られることもなき唯我独尊の信念とともに。

 

 ――眩しいくらい輝かしく。

 

 依姫のように、相手の心さえ奪うほど必要以上に光り輝かせて。

 

 ――何よりも幻想的に。

 

 紫のように、まるで夢幻の中にいるかのような想定外の形を創り上げて。

 

 霊夢はそんな、思いつく限りの全力の一手を絶え間なく放ち続ける。

 誰よりも多くの強大な相手と戦って得た経験を、惜しげもなく披露し続けていく。

 感じ取ってしまう輝夜の闇を否定するように、塗りつぶすように、ひたすらに借り物の弾幕で新たな一手を模索していく。

 

「……」

 

 それでも、輝夜には僅かにも響くことはない。

 輝夜の心に、何一つとして変化が起こることはなかった。

 

「だったら、次、は―――」

 

 だが、霊夢の心が、人間という矮小な種族の精神力が、不死である輝夜と同じく不変であれるはずがない。

 それに、耐えられるはずがなかった。

 

「希■を……」

 

 あらゆる光を信じて。

 

「■■、を」

 

 あらゆる闇を宿して。

 

 数多の想いや概念が滅茶苦茶に入り混じった弾幕を放ち続けている霊夢の中を、暴走した感情が走っていく。

 気付くと、霊夢は心の奥底に封じていた何かから湧き出た感情までも表出させていて。

 自分が何を叫んでいるのかさえもわからなくなって。

 いつの間にか、自分の心が光よりも強い闇に引きずり込まれていることを感じていた。

 

 ――悲愴的に。

 

 それは、あの時のにとりのような、悲しい一撃でもって。

 

 ――激昂して。

 

 あの時、霊夢自身がルーミアに向けていた怒りの矛先のごとく。

 

 ――絶望的に。

 

 そして、霊夢の中に巣食う最も大きな絶望の記憶は。

 

 ――憎悪さえ抱いて。

 

 それでも止まらない。

 溢れ出す感情のままに、弾幕を放ち続ける。

 今の状況を打破できる何かがきっとあるという思い込みに、ただ何もかもが囚われて。

 自分の記憶の奥底にある全てを、解き放っていく。

 いつか、輝夜に届く何かが見つかると愚直に信じて。

 

  ――大丈夫、だから……私は大丈夫だから、逃げろ、霊、夢……

 

 だが、それが見つけ出すのは希望だけではない。

 その心の奥底に封印していた、思い出したくもない記憶さえも思い出させて。

 

  ――私が、貴方の母親が死ぬ原因をつくった……いえ、正しく言えば貴方に母親を殺させた張本人よ

 

 自分の中の何よりも大きな闇を、その憎悪さえ引きずり出して。

 否定したはずの感情すら、気付かないままその身に宿して。

 

 ――私は。

 

 ――憎い。

 

 ――母さんを奪った、こいつが。

 

 ――憎い。 憎い憎い憎い憎い憎イ憎イ――

 

 いつしか霊夢は全てを失くしていた。

 『夢想天生』は、いわば諸刃の剣。

 それは、世界という大きすぎる概念と、霊夢の心という脆いものを一体化する、あまりに不釣り合いな所業。

 

 ――為れば、私ハ

 

 故に、その均衡が崩れてしまえば。

 一度その天秤が傾いてしまえば、一個体の心などは……

 

 

 ――唯、殺意ノ儘ニ。

 

 

 この世界に入り混じっていた別の何かに、いとも簡単に飲み込まれてしまっていた。

 鋭く吊り上がった霊夢の目は、いつの間にか殺意という魔物に憑りつかれていた。

 それは目の前の仇敵を殺すという、絶対の終わりの合図。

 輝夜の全てを終わらせるという、最初に相互に感じていたその目的の果てに―――

 

「………」

 

 輝夜は最後に、微かに微笑んでいた。

 だが、それを間近で見る霊夢にはわかっていた。

 それはただの、諦めの笑み。

 その瞳の奥にある何かは、決して笑ってはいない。

 決してそれを求めていはいない。

 ここで終わることなど輝夜は望んでいないと、霊夢も本心ではわかっていた。

 自分の中の醜い感情を、必死に抑えようとしていた。

 だけど、止まらない。

 もう止められない。

 

 ――だって、私にはもう、何も残されていないから。

 

 大切なものも、信じられるものも。

 そして、自分に最後に残された信念すらも。

 もう、叶える力は霊夢には残っていない。

 霊夢の心は、ほとんどがこの世界に逆に取り込まれてしまって。

 既に、その目的を果たし得る気力さえ無いのだから。

 

 だから、ここがきっと妥協点。

 ここで死ぬことは、きっと輝夜が本当に望む結果ではないけれど。

 ここで輝夜を殺すことは、霊夢にとって望ましい物語ではないけれど。

 だけど、何もできないまま終わるよりは、ここで輝夜の全てを終わらせてあげることの方が。

 ここで霊夢だけが倒れていく結果よりは、きっと意味のある最期だからと、そう自分に言い聞かせて。

 そして、霊夢は決断する。

 その身に宿した信念の果てに、最後の辛い選択を―――

 

 

 

   ――だから、せめて私は――

 

 

 

「―――――っ!!」

 

 だが、その選択は一歩遅かった。

 霊夢の身体は突如として力を失い、そのまま空から落ちていく。

 その行動を決断する前に、霊夢の身体が先に耐えきれなくなっていたのだ。

 だが、耐えきれなくなったのは正確には霊夢ではない。

 霊夢の心を包み込んでいた、一つの形が。

 霊夢の中の闇を、その記憶を綺麗に散らしていたのだ。

 

「…………なんでよ」

 

 全てを終わらせる直前で地に落ちていった霊夢を目で追うことすらできないまま、ただ輝夜は呆然していた。

 だが、それは必然の結果。

 霊夢をずっと見守っていた、とある力の残照が、この先に進むことを拒んだのだ。

 きっと、苦しむことがわかっていたから。

 たとえほんの少しだけ輝夜を救うことに繋がろうとも、その選択が霊夢にとって何よりも辛いものであると、わかっていたから。

 だから、霊夢にその選択をさせないために。

 いつの間にか、霊夢と邪神の力のリンクは途絶えさせられ、霊夢の心は闇の底から引き揚げられていた。

 

「……あー、そっか」

 

 それを理解すると同時に霊夢にも限界が訪れ、脱力感に抵抗できないままゆっくりと地に落ちていく。

 自分は結局、敵わなかったと。

 最後まで甘えてしまったという、情けなさであり一種の嬉しさ。

 そんな感傷に浸ることしかできないまま、霊夢はもう動くことができなかった。

 『無想天生』を解くこともできないまま、その身体は半分以上が言うことをきかなかった。

 つまりは、既にこの世界の半分以上は終わっているのだろう。

 

「ま、流石に相手が悪かったのかしらね」

 

 その戦場から離脱していく霊夢が放ったその諦めの言葉は、弱音は、一体誰に向けたものなのか。

 自分に言い聞かせているのか。

 母や紫に、先立たれてしまった者たちに、その顛末を報告しているのか。

 魔理沙や早苗たちに、まだ幻想郷で戦っている者たちに、後のことを託しているのか。

 それとも―――

 

「……どうして。 早く消えてよ。 消えて、消えて消えて消えて消えてよ、全部っ!!」

 

 未だに、たった一人で誰よりも苦しんでいる仇敵に、言い訳しているのか。

 だが、それはもうどれであっても、同じことだった。

 もう誰にも輝夜を止めることなどできない。

 ただ、世界を壊していく。

 ただ、それ以上に壊れていく。

 

「ごめんね。 私なんかにあんたを助けることなんて、最初から無理だったのよ」

 

 大地も、空も、何もかもが平等に壊れていく。

 その光景を呆然と見上げながら堕ちていくことしかできない霊夢に、輝夜が目を向けることもなく。

 それで、全てが終わり。

 暗闇が、眩いほどの光に染め上げられていく。

 ただ、壊れれば壊れるほどに何もなくなるはずの世界で。

 

「……え?」

 

 ふと、霊夢は偶然にも気付いてしまった。

 何もかもが壊れているのに。

 間違いなく、世界は終焉へと向かっているはずなのに。

 なのに、いつしか光に満たされていた世界には一つだけ、未だに壊れない一つの形があって。

 輝夜が消そうとしていた形は、たった一つで。

 その光が紡いでいたのは……

 

「まさか、これって」

 

 輝夜のことばかり気にしていたから、気付かなかった。

 その弾幕の強大さにばかり目をとられて、気付かなかった。

 だが、大地から見上げたその形は、霊夢の目にも印象深かった一つの弾幕の形と、酷似していた。

 それは、今の戦いの中ではとても連想することなどできないほどに、弱く儚い弾幕。

 馴染み深かった訳でも、強敵だった訳でもない。

 ただ、偶然にも覚えていた。

 

 それは、霊夢にとっても始まりの弾幕。

 闇夜に浮かんだ、二筋の光。

 霊夢が初めての異変で最初に取得した、思い出深きスペルカード。

 

 

「月符―――」

 

 

 その言霊は空間に溶け込んで、輝夜の心と霊夢の心に宿る同じ記憶の重なりを繋ぎ合わせていく。

 そこに見えるのは、遥か昔の一つの物語。

 霊夢はただ無意識のまま、それに向かって手を伸ばす。

 奇跡的に繋ぎ止めた最後の希望を掴み上げるかのように。

 永遠を遡る記憶の海を、虚無の世界に静かに映し出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その世界は、閉ざされていた。

 絶望でも希望でもない、ただ空虚な檻に囚われて。

 永遠の時の中で、静かに完結していた。

 

「……つまらない」

 

 幻想郷に来て、既に数百年。

 永遠の魔法に閉ざされた竹林で、輝夜は一人で空を見上げていた。

 

「つまらないつまらないつまらないつまらない」

 

 その言葉を、一体どれだけ放ち続けたかもわからない。

 その場に一体何日とどまり続けているかもわからない。

 永遠に変わらない時の中で、ただ無為に生きることしかできない。

 死ぬことすらもできない。

 だからといって、何かを成そうとも思わない。

 何かを成し終えた途端に、それ以上の空虚に襲われることを知っていたから。

 達成感も悔しさも、もう味わうことなど叶わない。

 それほどまでに、全ての事象を知り過ぎてしまっていたから。

 だから、輝夜は再び目を閉じた。

 いつもと同じ一日。

 いつもと同じ一年。

 いつもと同じ一世紀。

 だが、そんなものを感じ続けるのに、嫌気が差した頃……

 

「……何だ。 お前も、一人なのか?」

 

 突如として、そんな声がかけられた。

 聞き慣れた声ではない。

 従者たちのものでも、悪戯兎たちのものでもない。

 ただ、適当な態度の新しい声。

 それに気付いた輝夜は、同じく適当な態度で、それでも少しだけ弾むような声で返していく。

 

「……ごめんなさいね、別に一人じゃないわ。 今はちょっと、ただきまぐれに外出してるだけよ」

「いいや、違うな。 お前からは私と似た空気を感じるよ」

「あら、それって口説き文句のつもり?」

「そうだな」

 

 ここは永遠の時の狭間、紫の能力を使ってなお辿り着けないはずの閉ざされた世界。

 そこに平然と存在する、得体の知れない妖怪。

 だが、輝夜はその妖怪に、どうやってここに来たのかとは聞かなかった。

 そんな些細なことに、特に興味はなかった。

 ただ物珍しい何かを見るように、久々にその心は躍った。

 

「そ。 でも、まだ互いの名前も知らないような相手に口説かれて落とされるほど、私は純朴な子供でもないわよ」

「それは失礼。 で、お前の名は?」

「蓬莱山輝夜よ。 よろしくね、闇の妖怪ルーミア」

「っ!? ……何だよ、知ってんじゃないか。 だったら知ってるよなぁ、私が人食い妖怪だってことくらい!!」

 

 それは、ただの腹を空かせた人食い妖怪と人間の出会い。

 久々に見かけた人間、その中でもルーミアの決めた捕食のルールに抵触しない人間。

 これから死ぬであろう人間。 それが、ルーミアが自らに課したルールだった。

 ここは迷いの竹林という魔境の最果て。

 ここに迷い込んだ人間は、疲れ果てて餓死するか、他の妖怪に食われて終わる。

 それを、自分が導いてやるほどお人よしでもない。

 それなら別に自分がもらっても構わないだろうという、勝手なルール。

 輝夜はルーミアの倫理に反しない、久々の「食べれる人類」だったのだ。

 

 ただ一つ誤算があるとすれば、そこにいたのは正確には人間ではなかった。

 

「……マジか。 何者だよお前」

 

 ルーミアは大の字に倒れて、動けなかった。

 強さなどというものに特に興味はないし、そもそも本気を出す必要性も無かったから、確かに今まであまり本気になったことはない。

 だが、自分が負ける姿など、想像したこともなかった。

 その気になれば紫や鬼を相手にしても決して負けることはない、自分が最強と呼ばれるに相応しい大妖怪だという自負はあるはずだったから。

 

「地上の妖怪なら、月人ってのを知らない訳じゃないでしょ」

「あー、何だよ。 お前、紫が月面戦争で出くわしたとか言ってたアレか」

「まぁ、別に私は月面戦争には参加してないけどね。 それと同じ部類よ、自称最強の妖怪さん」

 

 だが、その勝手な自信は簡単に打ち砕かれた。

 ルーミアは紫の提唱した月社会の侵略に興味が湧かず、月面戦争に参加しなかったが故に、月人という存在の持つ力を今まで知らなかったのだ。

 

「これが、年期の違いってヤツか」

「まぁ、貴方たちの何万倍以上も生きてるしね」

「はっ。 ババアじゃねーか」

「貴方も人間から見たら同じようなものでしょ?」

「じゃあ、ババア仲間だ」

「そうね」

 

 そんな、殺し合いの後とは思えないほど他愛のない会話。

 それでも、輝夜は不思議と心地よさを感じていた。

 今の自分の周り人間関係に不満があった訳ではない。

 いつも自分のことを考え、尽くしてくれる優秀な臣下がいた。

 毎日のように、勝手気ままに悪戯を繰り返す妖怪兎もいた。

 それでも、輝夜の時間に刺激はなかった。

 今はまだ、表立って自分に反抗してくる相手も、自分と対等に話そうとする相手も、誰一人としていなかったから。

 

「それで、どうする? 私を殺すか?」

「なんで?」

「いや、私はお前を食い殺そうとしたんだけど」

「それで?」

「……ああ、そうかい。 お前にとっちゃ戦いですらなかったんだな、さっきのは」

 

 別に特段脅かされた訳でもないからどうでもいい、そういうことなのだろう。

 久々に本気になったはずのルーミアは、そもそも相手にすらされていなかったのだ。

 ルーミアの中に僅かにあったプライドなど、もはや介入する余地すらなかった。

 

「でも私は知ったぞ、ここのことを」

「そうね」

「なら、始末しなくていいのか? この場所、ずっと隠してたんだろ。 それがバレたら困るんじゃないのか」

「大丈夫よ」

「そうなのか? だったら、何で隠して…」

「だって、貴方ってそんなことを伝える友達もいないくらい一人なんでしょ? 誰に言うのよ」

 

 そんなことを、輝夜は遠慮なく言う。

 

「ははは。 サラッと心折るようなこと言うな、お前」

「貴方が最初に自分で言ったことじゃない。 それに、たとえ話す相手がいたとしても、そんなことを言いふらすほど私に興味を持ってる訳でもないでしょうしね」

「……まぁ、確かにそうだけどな。 だけど、どうしてそう思った?」

「簡単なことよ。 貴方と同じ空気を私から感じるってさっき言ってたからね。 だから、私が今思ってることをそのまま言っただけよ」

「なるほどな」

 

 不思議な感覚、心地よい空気。

 だが、輝夜はそれに多少の興味を抱いても、別にそんなものに特段心を動かされはしないし、次第に興味も薄れていった。

 なぜなら、たとえ自分に及ばないとはいえ、ルーミアは紛れもない「最強の妖怪」であるから。

 その気になれば、圧倒的な力でもって全てを支配できてしまう妖怪だから。

 

 つまり、ルーミアは万能であるが故に、面白みのない存在だから。

 

 物語に入ることのできない、入ってしまえばあらゆる興を削いでしまう存在。

 自分や永琳と、同じ。

 幻想郷にいる誰よりも、きっと自分と「似ている」と感じる相手だったから。

 無力でちっぽけな、物語の主人公なんかとは違って、世界につまらない結果しかもたらさない相手だろうと思っていたから。

 

「だから、別にこのまま帰ってもいいわよ。 もう会うこともないでしょうから」

「……そうかい。 そんじゃ、今日の所はお言葉に甘えさせてもらおうか」

 

 だから、ルーミアとは何事もなくそこで別れた。

 それからしばらく会うことも、会いたいと思うこともない、ただその程度の相手に過ぎなかったのだ。

 

 その日、輝夜の世界に起こったのは、ただそれだけのどうでもいい変化。

 特に感動も何もない、ありきたりな出会い。

 だが、それこそがその数百年後に起こる大異変の序章。

 幻想郷という一つの世界が変革へと向かう、全ての始まりだった。

 

 

 

 


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