東方理想郷 ~ Unknowable Games.   作:まこと13

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本編投稿までもう少し時間がかかりそうなので、繋ぎで投稿します。
6月中には次章を再開できると思いますので、もうしばらくお待ちください。



※閲覧注意
残酷な描写等の要素が強めなので、苦手な方はご注意ください。





外伝ノ弐 : 最凶が死んだ日

 

 

 

 夜の竹林に、突如として爆音が鳴り響いた。

 華奢な少女の体が、自らの細い骨も太く頑丈な竹も諸共に乱雑に圧し折りながら、止まることなく地を跳ねるように滑っていく。

 既に絶命しているその死体は、なすすべもなく視界の果てまで飛ばされ、やがて動かなくなった。

 

「……何だ、この程度かよ」

 

 暴虐の鬼の四天王、伊吹萃香は落胆したような目でゆっくりと少女のもとに降り立ち、そう吐き捨てた。

 奇襲とはいえ、少なくとも自分と同レベルの者ならば耐えきれるはずの、ただの戦闘開始の狼煙である一撃。

 たった一度の殴打を受けてあっけなく地を転がっていった相手に向かって、萃香は苛立ちを込めた声で言った。

 

「やっぱり、紫の言うことなんざ信用できないんだよ。 何が鬼より強い種族だ」

「……」

「おい、何とか言ってみろよ、月人さんよ」

 

 その声を聞きながら、いつの間にか死体の命は再構築されていた。

 折れて砕けてしまった首の骨さえも何事もなかったかのように再生し終えた不死の月人、蓬莱山輝夜は大の字に寝転がったまま夜空を見上げていた。

 

 あまりに強力すぎる一撃、たった一発で輝夜の命を一度散らせたほどの圧倒的な力。

 だが、輝夜はそれに恐怖することも、警戒することもなかった。

 その目にはもう、少し前まで弾幕ごっこで遊んでいた時のような楽しげな表情はない。

 あるのはただ、空虚な失望だけ。

 冷めた目をしたまま、輝夜はゆっくりと立ち上がる。

 

「スペルカードルールに則れば、今のは反則よ。 萃香」

「だから、どうした?」

「……そう。 貴方は別に、弾幕ごっこで遊びに来てくれた訳じゃないのね」

「ああ、そうだよ。 地上人では決して敵わない相手だなんて紫がぬかすもんだから、どれほどの奴かと思ってね」

 

 萃香はあからさまに輝夜を挑発するような態度で向かい合う。

 だが、スペルカード戦中の明らかな反則に奇襲、輝夜を煽るような言動をあえて続けながらも、萃香の目には未だ僅かな期待が宿っていた。

 まるで、輝夜がこの程度で終わる相手ではないと、心から願っているかのように。

 

「だが、蓋を開けてみればただ死なないだけだってんだから本当にガッカリだ。 こんなんじゃ何も満たされはしない」

「満たされない?」

「ああ。 スペルカードルールなんて、いい迷惑だ。 喧嘩なんてのは、強え奴と互いをどついて蹴って殴り合って勝敗を決める、そんなシンプルなもんが最高だってのにな」

 

 萃香は、遠い目をしながらかつての強敵との戦いを思い出す。

 勇儀に天魔に紫に幽香、いずれも最強と呼ばれる相手たちと戦って得た価値ある勝利の数々。

 閻魔に鬼神、自分と同等以上に渡り合う好敵手と鎬を削り合った、心躍る戦いの日々。

 時には負ける日もあったが、それらは全て萃香の心を更に昂らせていくものばかりだった。

 

「なるほどね。 貴方は互いを壊し合う戦いにこそ価値を見出す、いわゆる戦闘狂ってやつなのかしら」

「……いや。 それは少し、違うな」

「違う?」

「別に戦いそのものが好きな訳じゃない。 ただ、単純に許せなくてね。 鬼が地底に移り住んだのをいいことに、勝手に最強だなんて呼ばれてる奴らが」

 

 妖怪の山の天狗や河童たちを支配している天魔が、実質的な「妖怪の支配者」であるという呼び声が高かった。

 だから、それを屈服させて、目に見える形で鬼との上下関係を示した。

 妖怪の賢者と呼ばれる紫が、「最強の能力」を持つと広く知れ渡っていた。

 だから、その能力を暴力でねじ伏せて、鬼にはどんな小細工も通じないとその記憶に刻み込んだ。

 その紫を差し置いて、「最強の妖怪」と呼ばれている幽香の噂を耳にした。

 だから、その強さを正面から完膚なきまでに叩き潰し、鬼こそが真の最強であると証明した。

 

 今まで一方的に喧嘩を売って負かしてきた相手に、別に恨みがある訳でも何でもない。

 ただ、鬼以外に最強の名を冠する相手の存在を、許容できなかっただけ。

 鬼という種族の力そのものを体現してきた、誇り高き力の求道者。

 それこそが、伊吹萃香という鬼の存在意義だった。

 

「私はお前と戦いに来たんじゃない。 紫に、この世界のたった一人からでも鬼より強いと評価されていたお前を、ただ一方的に蹂躙しに来たんだ」

「……」

「忘れ去られた『鬼』という存在への恐怖を、畏れを、森羅万象の心にもう一度刻み込む。 誰が信じている最強さえも簡単に踏み潰して進む、真の最強の種族としての誇りを取り戻しに来たのさ!」

 

 そう言って、萃香の身体は辺りの竹林さえも超えるほどの丈となって輝夜を見下ろす。

 自らの『密と疎を操る能力』を使って巨大化し、その圧倒的な「力」を目に見える形で体現する。

 

「さあ。 お前は鬼を前にして、恐怖のままに泣き叫んで命乞いをするか? それとも絶望のままに全てを諦めるか?」

「……」

「はっ、言葉すら出ない、つまりお前は後者って訳かい。 だがな、こんなのはまだお前がこれから味わう絶望の序章に過ぎない。 不死でよかったなんて、思わせてもやらない。 お前はこれから鬼の影に怯えながら、永遠に続く恐怖の中を…」

 

 それを言いかけた萃香は、違和感に気付く。

 輝夜は俯き、その身体は小刻みに揺れていた。

 だが、自分を目の前にした弱者の姿を見慣れていた萃香には、すぐにわかった。

 それが、恐怖ゆえの震えではないのだと。

 まるで自分のように、愉しさに震えているかのような。

 

「……ふふっ、軽々しく永遠を語るのね。 本当の恐怖も絶望の意味も知らない……いえ、それが自分には一生無縁なものと思い込んで、ただ平穏の中を生きてきた純粋無垢な子鬼が」

「はあ?」

「なるほど。 でも、これはむしろ――――」

 

 そして、輝夜が顔を上げると同時に、

 

 

「――――理想的ね」

 

 

「っ!?」

 

 萃香は身の毛もよだつような何かに導かれるままに饒舌な口を閉ざし、反射的に身構えていた。

 世界を支配する空気の質が、今までとは違った。

 静かだった。

 大気さえも震わせていた、萃香の強大な力など存在しないかのように、静寂が支配していた。

 

「貴方なら、少しくらいは正しい道を示してくれるのかしら」

「お前は、何を…」

「ああ、ごめんなさいね勝手に盛り上がっちゃって。 さ、気を取り直して遠慮せずかかってくるといいわ。 貴方がそこまでして本当の絶望や恐怖を追い求めるのなら、半端な空虚に閉ざされた貴方の心を、私がせめて虚無の彩りで飾ってあげる」

 

 さっきまでのように適当に振る舞う輝夜の姿など、もうどこにもない。

 そこにあるのは、この世の全てを見下したような、冷たい重圧を纏った微笑。

 萃香を襲うのは、心臓を握りつぶされるほどの悪寒。

 閻魔王や鬼神長、全ての頂点にいるはずの相手を目の前にした時以上の、得体の知れない感情だった。

 

「そうかい。 やっと、お前の本気を見せてくれるって訳かい」

「貴方が望むのならね。 互いをどついて、蹴って、殴っての戦いをしたいんでしょう?」

「ああ。 ……いつ以来だろうな、本当に。 ずっと待ってたんだよ、そういうのを」

 

 だが、萃香はその感情を喜々として受け入れていた。

 耳に響いてくる自分の鼓動の高鳴りを、心地よくさえ感じていた。

 萃香は、抑えきれない衝動のままに、その拳に力を込める。

 

「紫さえ恐怖させた月人とやらの力、見せてもらおうか。 頼むから、たった一撃で消えてくれるなよっ!!」

 

 そう言って萃香が張った一突きは、次の瞬間には世界に地殻変動を起こしていた。

 固い岩盤が砂のように簡単に抉られ、二つに分かれた衝撃波が視界の果てまで届けられていく。

 粉々になった竹が大地と混ざり合って飛沫を上げ、霧散した土煙が天を覆い尽くしていく。

 それはまさに幻想郷最強と呼ぶに相応しき……いや、幻想郷に比類する者すらいないと思わせるほどの圧倒的な暴力を形にしたものだった。

 

「ははっ」

 

 その光景を見る萃香は、笑っていた。

 だが、それは一撃で世界を塗り替えるほどの自分の突きの威力を見て笑ったのではない。

 萃香はただ、まっすぐに輝夜に一撃を当てたはずなのに。

 なのに、振り抜いた手の終着地点を完全に見切ったかのように、それをギリギリかわせる位置で輝夜が何事もなかったように立っていたから。

 しかも、そこから発生した巨大な衝撃波が、輝夜を起点にして二つに分かれていたから。

 

「何だよそれ、訳わかんねえよっ!!」

 

 確かに全力だった自分の一撃が完全に見切られ、その衝撃波さえも輝夜の目の前でだけ完全に塞き止められていた理解不能な光景に、萃香は喜びすら覚えていた。

 止めることなど叶わぬはずの自分の力を、いとも簡単に防いだ相手を前に、興奮を抑えきれなかった。

 期待以上だと。

 輝夜が一切手加減のない全力を尽くすに値する相手だと認めると同時に、

 

「だったら、これはどうだ!?」

 

 萃香は高く跳び上がり、上空からその巨大な踵を振り下ろす。

 正面からなら、上手く逸らされたのかもしれない。

 だが、真上からの攻撃ならばその衝撃を逸らすことなどできない。

 そのまま、避ける隙のない踵落としで輝夜を押しつぶそうとして……

 

「……おいおい、マジかよ」

 

 その光景は、流石の萃香の頬をも冷汗で濡らしていた。

 巨象をも紙のように薄く踏み潰して血飛沫に変えられるはずの巨大な足は、そっと触れるように優しく、輝夜が軽く上げた片手に止められていた。

 圧倒的な質量差と速度差があったにもかかわらず、輝夜の上で萃香の攻撃が完全に「止まっている」のだ。

 物理的にあり得ない力、それだけはわかった。

 なぜなら、輝夜の二本の足が平然と地を踏んでいるから。

 もしそこに輝夜がいなければ、隕石が落ちたかのように地面を数メートル以上にわたって粉々に沈下していたはずの一撃。

 それを上から受けて力で押し返したのならば、支える大地の方が先に悲鳴を上げるはずなのだ。

 

「どう見てもパワータイプにゃ見えないんだがな、お前は」

「別に、パワーとかそういう問題じゃないわ。 ただ貴方の動きが遅すぎるだけよ」

「……何?」

 

 その言葉は、萃香を心の底から苛立たせた。

 だが、萃香を苛立たせているのは、自分の遅さを、つまりは遠回しに弱さを指摘されたことなどではない。

 この瞬間を何より楽しみ、輝夜を認めている萃香とは真逆と言っていいほどに、輝夜の目が淡々と作業をしているかのように白けていたことが何よりの屈辱だった。

 まるで、自分など……鬼など取るに足らない存在だと態度で示されているかのように。

 

「だったら、お望みどおりにっ―――!!」

 

 萃香は巨大化を解いて、速度を重視した体勢になる。

 最適化されて発達した筋力が、鬼の中でも際立って軽く小さくなったその身体と相まって、爆発的な加速力を生む。

 瞬間的には天狗顔負けの速度をも可能とするその一歩とともに、萃香は自らの拳一点だけを最高密度に固め、妖力の全てを萃めていく。

 

「四天王奥義」

 

 一撃目から全力の一手。

 勇儀のように、全力の三歩目を放つために一歩目と二歩目を使うのではない。

 一撃で相手を再起不能にし、二撃で相手の体を粉砕し、三撃で骨の欠片も残さないほどに消し飛ばす。

 それは技と呼ぶ必要すらない、ただの怒涛の三連撃。

 だが、圧倒的な力を持つ者にとっては、どんな小細工を弄するよりも、それこそが最強の攻撃なのだ。

 

「『三歩壊廃』!!」

 

 そして、その一撃が輝夜の中心線上に鋭く刺さった。

 ガードをすることすらなくその一撃を受けた輝夜の身体は、衝撃波をまき散らしながら派手に吹き飛んでいく。

 一度死んで再生したようには見えない。 なのに血の一滴すらも流さず、全くの原型を留めたままで。

 たとえ同じ鬼でも、当たればその部分を起点に血煙に消し去るはずの一撃をまともに受けたのに、どう見ても輝夜が再起不能になったようには見えなかった。

 萃香はどこか怪訝な表情を浮かべながらも、宙に流れていく輝夜に追い打ちをかけるように、そのまま二撃目を振り抜く。

 その拳は疑うこともないくらい確かに輝夜の身体の芯を打ち抜いたが、それすらも手ごたえは軽かった。

 当たってはいる、それだけは確実のはず。

 だが、その拳が輝夜に届いているとは全く感じられない。

 言葉にできない、どこか嫌な予感が萃香の中で渦巻いていた。

 そして、その予感は止めを刺すはずの3撃目で現実となって萃香に襲い掛かる。

 

「……はい。 これで萃香からは、どついて蹴って殴ったわよね」

「っ―――!?」

 

 萃香の拳は、止められていた。

 しかも、正面から受け止めるのではなく、横から掴み取るように。

 それは、その拳を完全に見切っていなければできないはずの、たとえ見切っていても容易ではない所業。

 それを淡々とこなして言った輝夜の手を振り払って、萃香は本能的に一度距離をとる。

 気づくと、萃香の体は震えていた。

 萃香は、今の自分を襲う震えが、愉しさから来るものでも、武者震いとも違うとだけ感じていた。

 だが、自分でも気づかない内に心の底から新たに湧き上がっていたその感情を、萃香は何と呼べばいいのかを知らなかった。

 今までの強敵を前にした時の萃香は、どんな窮地に立たされても、気持ちが昂るだけだったから。

 その感情を恐怖と呼ぶのだと、気付くことができなかった。

 

「じゃあ、次は私の番ね」

「お前は、一体……っ!?」

 

 聞きかけた途中で、萃香は目を疑った。

 知覚することすらできなかった。

 ただ、大きく距離をとったはずなのに、一瞬の内に目の前の手を伸ばせば届く位置に輝夜がいて。

 

「っ!!」

 

 萃香は反射的に一歩踏み込もうとする。

 退くのではなく、前に出る。

 避け切れないと本能的に悟り、ならば先んじて相手を粉砕するために拳を振り抜こうとして……それが届く前に、輝夜の姿ごと目の前の世界が燃え尽きて消えていた。

 同時に、灼熱を纏った衝撃波が「既に」萃香の胸から下を灰と化していた。

 

「は……っ!?」

 

 何が起こったかも理解できなかった。

 激痛を知覚できる以前に、あまりにも遅く届いた轟音に気付くことすらできなかった。

 ただ、燃え尽きた世界の塵の中に消えたはずの輝夜の姿が、再び眼下にあって。

 

「どついて」

 

 目視できたのは、輝夜が足を振り上げようと構えたところまで。

 次の瞬間には、再び輝夜の姿が焼失するとともに、萃香の顔が顎から焼き抉られて空中に放り出されていた。

 

「蹴って」

 

 その言葉だけが、爆音とともに微かに後から耳に届いた。

 それだけで、萃香は全く何もできないまま終わっていた。

 抉られて焦げた自分の上半身しか存在しない状況で、萃香にはただ、輝夜が上空で拳を構えているのだけが見えた。

 

 輝夜は別に、強固な防御手段を持っている訳でもなければ、強大な霊力を放った訳ではない。

 萃香の攻撃の一つ一つの軌道を、ゆっくりと把握して止めただけ。

 そして、萃香の望みどおり、ただまっすぐ萃香の腹をどつき、その顎を蹴り上げただけだった。

 ただし、その『永遠と須臾を操る能力』を僅かに使って時間を圧縮・膨張することで、実質上の萃香と輝夜の速度を自在に操っていたのだ。

 10000000秒という限りなく長い時間の中に萃香の動きを分散させることで、自分に向かってくる実質的な萃香の攻撃の速度を、徒歩の数万分の1以下の速度にまで下げただけ。

 そして、0.0000001秒という限りなく短い時間の間に萃香に突きを入れることで、実質的な輝夜の攻撃の速度を音速の数万倍以上にまで上げただけ。

 たとえ萃香の一撃がどれほどの質量を持っていようとも、速度や重力加速度が限りなく0に近づけば抱えるエネルギーなど無いも同然であり、そもそも攻撃が未だ当たっていないかのように制圧できた。

 逆に、1秒とかからず日本全土を横断できる速度で放たれた輝夜の突きは、その摩擦熱が凄まじいエネルギーを生み出して輝夜自身の身体を一瞬で燃やし尽くし、異常な高温を纏った衝撃波が知覚できない速さで萃香の身体ごと辺り一帯を焼き飛ばした。

 そして、蓬莱の薬の効果で瞬時に生き返った輝夜は、再びその速度で自らが燃え尽きながらも萃香の顎を蹴り抜いた。

 ただ、それだけ。

 最速の天狗でさえも比較するに値しない光速の一撃をも肉眼で見切って止めることのできる力。

 そして、何より恐ろしいのは、自らが光速を超えることも可能とする、時間操作による圧倒的な速度から生み出される規格外の破壊力。

 その気になれば世界さえも簡単に滅ぼせる代わりに、一撃一撃で自らの命を費す必要のあるはずの力を、不死者が持っているというあまりに理不尽な組み合わせ。

 それは、いかなる身体能力をもってしても決して抗うことのできない、反則的な力だった。

 

 だが、全身の半分以上を焼き飛ばされながらも、それは『密と疎を操る能力』を持つ萃香にとっては致命傷にはなり得なかった。

 普通ならば既に息絶えているはずの状況で、それでも萃香は笑った。

 

 ――『百万鬼夜行』――

 

 朦朧とする意識の中で、それでも萃香は残された自らの身体を細かく分裂させ、密度の薄い小さな分身を創り出した。

 100万に達する萃香の群れが、輝夜を取り囲んでいく。

 その群れは全て、ただの雑魚ではない。

 今は本人が満身創痍と言っていい状態であるが故にそこまでの力は持たないが、平時ならば一人一人が低級妖怪と同等の力を持つ、十分な戦力として数えられるものなのだ。

 それこそが、萃香が『小さな百鬼夜行』の異名で知られる所以だった。

 その気になればたった一人で幻想郷の全ての妖怪を相手取ることさえ可能とする、萃香の最後の奥義。

 力による暴力ではなく、数の暴力でもって目の前の強敵を屈服させようとする。

 

「……ああ、何だよ。 最高じゃないか!!」

 

 萃香の目は、子供のように光り輝いていた。

 これほどの相手と戦うのは、いつ以来だろうか。

 こいつに勝てれば、自分は一体どれほどの高みに届くのだろうか。

 そんな、喜びにも似た闘争心が萃香の中で渦巻いていた。

 その、はずだった。

 

「さあ、これならお前は―――」

 

 だが、萃香はそこまで言いかけて異常に気付く。

 身体が動かない。

 いや、身体がではない。

 自分の分身も、輝夜の動きも、空気の流れも、この世の全てが止まっているように見えた。

 

 ――何だ、これは。

 

 時が止まって見える。

 その現象を、萃香は聞いたことがあった。

 死の間際に見えるという、走馬灯。

 弱者が見る弱さの証だと馬鹿にし続けたそれが、目の前に見えているのだ。

 

 ――っ!? ふざけんな、私はまだ負けちゃいねえ!

 

 萃香は目の前の世界を否定し続けた。

 どんな強敵を前にしても、その心が屈することはなかった。

 死を目前にした時でさえも、その足が一歩として退くことは決してなかった。

 むしろ、相手が強敵であればあるほど闘争心が昂っていく、自分はそういう存在なのだと思っていた。

 そんな自分が、走馬灯などという脆弱なものを見るはずがない。

 ならば、これは走馬灯ではない。

 

 だが、だとしたら……

 

 ――じゃあ、これは何だ?

 

 それは、走馬灯ではなかった。

 輝夜の能力によって、萃香の時の流れが止められていた。

 死の間際で、萃香の意識が時の狭間に閉じ込められたのだ。

 

「さて。 前座はこのくらいにして、そろそろ本題に移りましょうか」

 

 前座と、そう聞こえた。

 こんなのは、萃香の望んでいたものではないと。

 恐怖と、絶望と呼ぶに値すらしないと言わんばかりの口調で。

 丸腰の人間と妖怪の戦いですら、もう少し力が拮抗してると思えるほどの一方的な蹂躙を、輝夜は確かに前座と呼んだ。

 

「貴方はこの難題に耐えられるかしら。 自分の数万倍以上の強大な力を持った相手に立ち向かうことさえも、比較にすら値しない絶対の絶望であり最悪の恐怖」

 

 萃香の耳に、最後にそんな声が届いた。

 そして、その続きは声ではなく、ただ脳裏に響くかのように、

 

 

   「―― 『永遠』 ――」

 

 

 言葉を知覚すると同時に、萃香の分身の一つが突如として弾け飛んで消えた。

 

 ――え?

 

 目を動かすことすらできない萃香は、何故そうなったのかはわからなくとも、自分の100万の分身の内の一つが減ったことだけを感じ取れた。

 だが、それだけ。

 それから萃香は指一本動かすこともできないまま、何の動きもない世界に閉じ込められ続けた。

 数分、数時間を過ぎても、何の変化も無い。

 異常な苛立ちだけを抱えたまま、そろそろ1日が経過するかと思った頃に、

 

 ――っ!? また…

 

 分身が、一つ消えた。

 そして、また1日が経つとともに分身が一つ減っていく。

 だが、その事実を知ること以外の一切が許されない。

 それ以外の、一切の変化が許されない。

 ただ100万の分身が1日に一つずつ消されていくだけの日々が……

 

 気付くと、萃香の体感時間で既に1年間も過ぎていた。

 

 ――ふざけんなよ、いいかげんにしろよ。

 

 退屈、などというレベルではない。

 目の前で輝夜が拳を構えた景色のまま、自分が死ぬ1秒前の状態のまま、何もできず1年を過ごした。

 自分の分身が1日に一つずつ消されていくという、意味の理解できない殺戮の中で。

 萃香の心は苛立ち続けていた。

 あまりに退屈な戦いを前に、怒りに燃えていた。

 1年の時を経て消えた分身は、100万の内のたった365体。

 それから、抑えきれない怒りだけを宿したまま、また1年が経つ。

 3年が経つ。

 それでも数十年、百年が経った頃には、萃香の心に変化が起きていた。

 

 ――もう、勘弁してくれよ。

 

 次第に、萃香は弱気になっていた。

 最初の頃は輝夜に怒り、呪い、こいつをどうやって殺してやろうかという好戦的な思いを持っていた。

 だが、そんな感情は何年も続きはしない。

 萃香は、輝夜と対峙したこと自体を後悔し始めていた。

 紫の言うとおり、決して敵わない相手だと言い聞かせて戦いを避けるべきだったとすら思い始めていた。

 だが、萃香に似つかわしくないほど軟弱なその後悔すらも、長くはもたなかった。

 

 あれから、遂に2000年が経った。

 つまりは約70万日が経った。

 自分が今まで生きてきた時間よりも遥かに永いその時間を、残り30万人の分身を残して、未だ全く同じ世界に生きていた。

 

 ――ぁぁ。 まだ、死ねないのか。

 

 萃香の心は、既に限界だった。

 もう、死にたい。

 萃香は、生まれて初めてそんなことを願った。

 勇敢なる者に鬼退治をされてみたいと、死ぬならばそんな最期がいいなどと言っていたかつての強敵を、軟弱と罵ったこともある萃香が。

 何の意味もなく死ぬことさえ、追い求めるようになった。

 それでも、止まった世界は終わらない。

 あと、30万日が過ぎ去るのを心待ちにしたまま……

 

 また数百年が経ち、遂に萃香の分身は残り1人になった。

 この頃には、萃香の目には反動で希望すらも見えていた。

 あと2日で死ねる。

 あと2日で全てが終わる。

 

 そして、最後の分身が消し飛び、そこには分身を失くした萃香1人だけが残される。

 

 ――さあ。 最後の1日だ!

 

 萃香は、自らの「死」を待ちわびていた。

 その退屈すぎる世界を抜け出せる喜びに打ち震えていた。

 ただ、それでも萃香の心は屈服してはいなかった。

 その心には、一周回って逆に一つの達成感が根差していた。

 あまりに強大すぎる相手に立ち向かって、永遠の地獄を終えて死んだという、一種の満足感。

 

 ――この野郎、いつか絶対祟ってやるからな。

 

 そんな、陰気な捨てセリフさえも、萃香は希望を持って考えられた。

 これで終わりだと、思っていたから。

 自分の目的も鬼という種族の誇りも忘れて、その思考があまりに弱弱しく歪められようとも、萃香にまだ感情が残っていたから。

 

 だが、その時の萃香はまだ気付いていなかった。

 それが、地獄のほんの始まりに過ぎなかったことを。

 

 ――っがあっ!? ……何が、ぁ、ぁああああああ!?

 

 次の瞬間、輝夜は萃香の生爪を剥がすかのように一枚だけ弾き飛ばしていた。

 久しく感じていなかった、「痛み」。

 3000年もの間、何の変化もなかった時間という概念が、突然現れたその苦しみを計り知れないほどに増大させる。

 だが、その痛みに一瞬気をとられた萃香が再び意識を目の前に向けると、萃香の周りには再び100万の分身がいた。

 

 輝夜は、およそ3000年ぶりに萃香の時を進めた。

 正確には、鬼という種族の「治癒速度」という概念だけを極限まで速めて、一瞬で全てを治した。

 そして、再び分身を一つ消し飛ばす。

 そして、再び長い沈黙。

 それだけで、萃香は悟った。

 また約3000年もの間、同じ地獄が続くのだと。

 しかも、爪一枚を剥がされた痛みを伴ったまま。

 

 ――何だ、何なんだよ!? だったら、これはまさか……

 

 萃香の予想は当たってしまった。

 泣き叫びたいほどの激痛を伴ったまま、3000年。

 怒りも、後悔も、何一つとして考える余裕のないまま再びそれだけの時間を過ごしていく。

 壊れそうになっていく心の中で、萃香はただ恐怖のカウントダウンの中を生かされていた。

 そして約3000年後、萃香は再び最後の一人が消される直前に全ての分身を治されてしまった。

 自らの爪が2枚剥がされる激痛とともに、再び3000年が始まった。

 

 ――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

 

 ――許してください許してください許してください許してください。

 

 その頃には、萃香の心は完全に屈服していた。

 口を動かすことも、表情を変えることすらもできない萃香は、激痛に堪えながらただ心の中でそう唱え続けることしかできなかった。

 萃香は今になってやっと、この殺戮の残虐さを理解した。

 これが先進技術を極めた月社会の拷問の形なのだと、心の底から恐怖した。

 1日に1体ずつ着実に、時計の針が動くかのように自分が壊されていくことがわかっている。

 それが100万回続いた後、今以上の激痛とともに再び3000年が始まることも、この時点でわかっている。

 だが、それでも萃香には何もできない。

 自らの人生より遥かに永い拷問を前に、萃香にはもう泣き叫ぶための心さえも残っていなかった。

 気絶できたら、死ぬことができたら、どれだけ幸せだろうか。

 そんな妄想に心を浸らせる余裕すらないほどに、その苦痛は次第にエスカレートしていく。

 1日、また1日と、同じ景色だけを見たまま、今以上の苦痛の時間に向けて、少しずつ、本当に少しずつ自分の分身という名の秒針が刻まれていく。

 何もできないままそんな光景を見続ける己の無力さを嘆きながら、何千年もの絶望の時間を何度も繰り返していく、地獄すらも生ぬるく見える世界。

 本来なら1秒後にあったはずの自分の「死」という、手の届かない甘美な幸福だけを求め続けて萃香は日々を過ごしていく。

 

 5枚の爪が剥がされた状態のまま、3000年。

 10枚の爪が剥がされた状態のまま、3000年。

 足の爪まで剥がされて11枚。

 12枚。

 次第に、20枚。

 そして、遂には片腕が飛ばされて。

 両腕。

 両腕片足。

 両腕両足。

 胃。

 肺。

 腎臓。

 肝臓。

 心臓。

 

 目の前で、既に握り潰され終えた自分の心臓が空中で血飛沫と化している恐怖の光景を見つめながら、また3000年を過ごしていく。

 だが、あらゆる器官が潰されようとも、萃香は死ぬことができなかった。

 たとえ心臓破裂による即死であっても、脳を潰されなければ、その死を感知できるまでのコンマ1秒程度の間くらいは生きられるのだから。

 激痛とともに、死ぬ直前の計り知れない絶望と恐怖を伴ったまま、次の瞬間には自分が死んでいるはずの時間だけが永遠に続いていく。

 

 次は舌。

 もう、何も味わえない。 味というものが一体何者かもわからない。

 

 鼻。

 何も匂わない。 空気というものが一体何者かもわからない。

 

 喉。

 何も発せない。 声というものが一体何者かもわからない。

 

 耳。

 何も聞こえない。 音というものが一体何者かもわからない。

 

 目。

 何も見えない。 光というものが一体何者かもわからない。

 

 神経。

 何も感じられない。 痛みという苦痛すら、一体何者かもわからない。 

 

 萃香は遂に、自分の分身という名の時計に気づくことさえもできなくなった。

 次に何を、いつ失うのかすらもわからない。

 それでも、きっと命だけは消してくれないことがわかっていた。

 永遠という名の無間地獄が、決して終わりはしないことだけがわかっていた。

 もう、萃香は何も考えられなくなった。

 許しを請う言葉さえ、思考の隅に置く余裕もなかった。

 そして、何一つ感じ取ることのできない虚無の暗闇の中で、遂に全てを失った萃香の心が完全に壊れて消え去る直前に―――

 

「念のため、もう一度だけ確認しておくわ。 どついて、蹴って……最後に、殴ってほしい?」

「……ぇ?」

 

 萃香は、いつの間にか大地に立っていた。

 およそ10万年にも及ぶ拷問を経て、殺されることもなく、全ての傷を治された状態で何事もなかったかのように元の時間に戻ってきた。

 それは幻術などではない、確かに萃香自身が受け続けた苦悩。

 10万年も経ったはずの時間は、それでも実際にはコンマ1秒すらも経っていない。

 10万年、およそ3兆秒という時間すらも、須臾……つまりは1000兆分の1という単位の前には100分の1秒にすら満たないのだから。

 だが、輝夜の能力の原理など、萃香に考える余裕などあるはずがなかった。

 ただ訳がわからず、輝夜の放った言葉の意味も、目に光が映るという概念すらも忘れた萃香が視線を上げると……

 

「……」

「ぁ、ぅぁ、ひっ……」

 

 輝夜は、冷めた目で萃香の回答を待っていた。

 萃香は微かな悲鳴を上げながらも、意味のある言葉を覚えてすらいなかった。

 とっさに逃げようにも、能力を使うことはおろか、身体が言うことを聞いてくれなかった。

 力を失って倒れこむことすらできず、立ったまま地面に足が縫い付けられたかのように動くことができなかった。

 ただ、目の前の相手の機嫌を損ねないためだけに、萃香は目の前に現れた走馬灯の中であらゆる可能性に思考を巡らせて…

 

「……今日、ここでは何も起こらなかったし、貴方は何も見なかった。 それだけ、わかった?」

 

 輝夜は、萃香に失望するでも同情するでもなく、ただ淡々とそう吐き捨てた。

 その瞳は、既に萃香の姿など映していない。

 もう用済みだと、まるでその辺の虫ケラと同じだとでも言わんばかりに興味を失った声で、萃香にそう命じた。

 だが、萃香にはほんの少しすらもそれに反抗する気など起こらなかった。

 その言葉は、萃香の中で死んでもなお抜けないほど奥深くまで突き刺さっていた。

 言われたとおりに、そこで何があったのかを全力で忘れようとした。

 だが、あらゆる拷問も比較にならないほどの、その心的外傷が消える訳がない。

 だから、今日のことは絶対に誰にも何も言わず、現実としてなかったことにする。

 たとえ何があっても、絶対に逆らってはいけない。

 輝夜の命令に背いてもう一度この地獄に落とされるくらいなら、一瞬も躊躇わずに自殺するという決意。

 地獄の体験は、萃香の心にそんな傷を確かに刻んだ。

 

 それが、永夜異変が終わって数週間が経った頃。

 伊吹萃香という『鬼』が終わった日の出来事だった。

 

 

 

 


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