東方理想郷 ~ Unknowable Games.   作:まこと13

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後編を書くのにもう少し時間がかかりそうなので、繋ぎで番外編を載せます。
特に本編で触れる必要がなかったため削った過去の描写について、短編にしたものです。
2~3話分くらい投稿すると思いますが、読まなくても進行上の問題はありません。

※番外編は本編と比べて割とR-15要素などが強めです。
また、人によっては若干のアンチ・ヘイトの描写を含んでるように感じることもあるかもしれないので、苦手な方は飛ばすことをお勧めします。





番外編
外伝ノ壱 : 最狂が笑った日


 

 

 

 

 地底世界。

 ならず者が集いしそこでは、毎日些細な諍いが絶えなかった。

 それでも、その諍いは怒りや憎悪に任せた醜いものではない、くだらないプライドをかけた一対一の殴り合いがほとんどである。

 嫌われ者たちがこぞって喧嘩に乗り出し楽しみ、それを見ながら盛り上げようとしていく。

 毎日のように起こる喧嘩には、決して禍根は残らない。

 地底は、ある意味では平和な場所であるはずだった。

 

 だが、そんな世界にも、表舞台の華々しい喧嘩の裏で一方的な虐殺は存在する。

 数人の屈強な鬼に囲まれて、人目のない路地裏でボロボロになるまで蹴られ続けている少女がいる。

 

「本当に救えねえよなぁ。 てめえはっ!!」

 

 2メートルを軽く超える鬼が、黒光りする筋肉を膨れ上がらせ、うずくまっている少女を容赦なく蹴り飛ばした。

 少女の身体はボールのように簡単に飛ばされ、その先で再び別の鬼に首根っこを強く掴まれる。

 首の骨がミシミシと音を立て、その目は飛び出しそうなほどに苦痛に歪んでいる。

 

「一体、どこに隠した?」

「かっ、はっ……」

「あの方を、一体どうしたのかって聞いてんだろうがっ!!」

 

 首を絞められた状態で、まともに声を出すことなどできるはずがない。

 それでも、返事すらもできないまま、少女は強く地面に叩き付けられる。

 そのまま殴打された身体からは、もう血反吐と吐き気だけしか出ない。

 

「ぅぁ……が……」

「ちっ。 もういい、時間の無駄だ。 行くぞ」

 

 そして、その少女をボロ雑巾のようにした鬼たちは、不快な視線で一瞥してその場を去った。

 やがて動かなくなった少女の身体は、最後に唾を吐きかけられて何よりも醜く打ち捨てられていた。

 

 ――嗚呼、またか。

 

 嫌われ者の楽園と呼ばれるここに来て、どれだけ経っただろうか。

 あまりに永く感じていたが、恐らくまだ1年も経っていない。

 まだ数か月、それなのに既に彼女に居場所はなかった。

 どこに行っても忌み嫌われる、その人生が変わることはなかった。

 

「……仕方ない、じゃんかよ」

 

 やがて、そこで倒れていた妖怪、火焔猫燐は掠れた声でそう呟いた。

 燐が犯した罪は、死体の窃盗。

 つい先日に多くの鬼たちに惜しまれながら命を散らした、一人の誇り高き鬼の死体。

 本来ならば盛大な酒盛りや喧嘩とともに送り出されるはずのそれを、燐は人目を盗んで勝手にどこかに持ち去ってしまったのだ。

 それがバレて集団リンチにされた、ただそれだけのこと。

 だが、どう考えても燐が悪いその出来事を、それでも誰が貶すことができるだろうか。

 

 鬼は、力を持つから悪なのか。

 妖怪は、人間を食らうから悪なのか。

 人間は、動植物を食らうから悪なのか。

 そうではない。

 そうしなければ自分が存在できない、それこそが自分が存在する糧だから。

 燐も、それと同じのはずだった。

 何かを食するのと同じように、死体を持ち去るという個性を失えば、火車として存在できないから。

 悪気があった訳ではない。

 その鬼の死を嘲笑う気持ちなんて欠片も無い、むしろ悼む気持ちすらあった。

 それでも、気付いたら我を忘れてそれを持ち去ってしまっただけ。

 燐はただ、あまりに周囲から嫌われる個性に支配されて生まれついてしまっただけなのだ。

 

「……これは、しばらく立てないね」

 

 両手両足の骨は、折られていた。

 内臓が傷ついたのか、吐血は止まらない。

 たとえ妖怪の治癒力をもってしても、少なくとも数日はまともに動けないだろう。

 それに加えてあまりにも汚らわしく捨てられたその姿では、誰かから手を差し伸べてもらうことすら望むべくもないだろう。

 だが、燐はそれほど気に病んではいなかった。

 

「ま、この程度ならまだいいか」

 

 そのくらいの仕打ちなど、慣れ切っていたから。

 地底の鬼のように、その場で殴って蹴って終わりなら、別に大したことはない。

 地上では、もっとひどかった。

 陰湿で、終わらない地獄が続くだけ。

 燐は今まで、動けなくなる程度の拷問なら幾度となく受け続けてきたから。

 だから、まだ耐えられる。

 他の誰にも耐えられないような苦痛も、燐なら気にも留めない。

 

「もう、どうでもいい……ぉ?」

 

 だが、燐のその精神的な強さは、この環境においては逆効果であった。

 

「これは、この臭いは……」

 

 その腐臭は、燐の本能を目覚めさせる。

 立つことのできないはずの身体を気遣うこともない。

 ただ、その臭いのする方へと再び燐は地を這って進む。

 知らない誰かが泣きながら運んでいる、小汚い布に包まれた何かを奪うために。

 そこにいるのは、見るからに屈強そうな妖怪が2人と、まだ小さく幼い妖怪が一人。

 今のボロボロの自分の力では、積み荷を略奪などできるはずがない。

 だが、燐はそんなことで諦めたりはしない。

 自分で立てないのならば、燐はそれを奪うために……

 

「ぅ、ぅっ、母さん……えっ?」

「な、何だこいつはっ、まさか……」

「怨霊っ!? どうして、こんな所に、うわ、うわああああっ!?」

「待って、ちょっと待ってよ…」

 

 自らの『怨霊を操る能力』を使って、その集団を襲った。

 それに憑りつかれれば即ち妖怪としての死を意味する、妖怪に最も忌み嫌われる天敵である怨霊を使って。

 突如としてそれに囲まれた屈強な妖怪たちは、積み荷を放り出して一目散に逃げていく。

 ただ一人、その積み荷を母と呼んだ幼き妖怪を除いて。

 

「……よこしなァ。 その死体は、あたいがもらっていく」

 

 怨霊をその身に纏いながら這い寄ってくる血まみれの燐は、まるで地獄から湧き出たゾンビのごとく不気味な姿であった。

 だが、普通なら目の前にしただけで卒倒するほどの恐怖をまき散らしている燐に、それでも妖怪は身を震わせながらも必死に抵抗する。

 

「待ってよ。 僕はただ、母さんを…」

「五月蠅い。 邪魔をするならあんたは―――」

「や、やめてよ、やめてえええええっ!!」

 

 燐はもう、相手の言葉など聞いてはいなかった。

 ただ欲望のままに怨霊を操り、無力な妖怪を再び脅しつけようとして……

 

 

「―――あら、随分と楽しそうね。 私も混ぜてくれる?」

 

 

 静かに響いたその声とともに、怨霊たちが何かの斥力を受けたかのように一斉にそこから距離をとっていた。

 怨霊が退いた理由を、怨霊の声を聞ける燐はわかっているはずだった。

 だが、わかっていてなお、燐は理解できなかった。

 怨霊たちが目の前のたった一人を怖れ、逃げたという事実。

 そんな事象自体が、燐は初めて会うものだった。

 やがて怨霊から救われた小さな妖怪が、安堵の笑みを浮かべて視線を上げると、

 

「あ、ありがとうお姉さ……ひっ!?」

「どうしたの? そんな、化物でも見たような顔して」

「こ、こめっ、こめいじさとっ……」

「失礼な子ね。 命の恩人を呼び捨てにするものじゃないわよ」

「ひっ、助け、助けっうわああああっ!?」

 

 妖怪は一目散に逃げ出して行った。

 怨霊を前にしてなお食い下がっていた妖怪が、その積み荷に目もくれずに。

 

「古明地、さとり……か」

「あら嬉しいわ、最近話題の死体泥棒にまで名を知られてるなんてね」

 

 燐は、目の前の妖怪を知っていた。

 嫌われ者の楽園と呼ばれた地底において、それでもその中で一番の嫌われ者と名高い覚妖怪。

 地底の鬼たちをして恐れ忌避し、近づくことすらないという噂のある妖怪。

 だが、燐はその噂を思い出しながら、笑い飛ばした。

 

 ――何が、地底一の嫌われ者だ。

 

 ――そんな、幸せそうな面してるくせに。

 

「あら、そんな風に見える?」

「っ!?」

「驚かなくても知ってるんでしょう? 私が相手の心を読めることくらい」

 

 突然心を読まれた燐は、自然と自分が嫌悪の表情を浮かべていることに気付いた。

 それでも、自らの内に芽生えていた嫌悪感は、同時にその心に一種の期待を生んだ。

 自分と同じ、不幸の星のもとに生まれついただろう相手に、抑えきれない興味を抱いていた。

 だが、その思考を読んださとりは、表情を変えずに言う。

 

「違うわ。 別に私は自分が不幸だなんて思ってないわよ」

「……何?」

「だって、ここでの生活は面白いもの」

 

 次の瞬間、燐は冷めていた。

 その言葉が、あまりに期待外れな、ただの幸せ者が発するものだったから。

 だから、燐の中には初めて同類に会えたと思えた次の瞬間に孤独に落とされたという、理不尽な怒りが湧いていた。

 

「ついでに言えば、貴方もね」

「はあ?」

「自分が世界一不幸な存在だなんて、何というか……面白いわね、貴方」

「っ!!」

 

 そして、その怒りはもう抑えきることができなかった。

 何もわかってなどいないくせに。

 燐が今までどんな人生を歩んできたかも知らないくせに。

 それを簡単に笑い飛ばすさとりに、気付くと殺意が湧いていた。

 

「……あんたなんかに、何がわかる」

「いや、わかるわよ。 だって心を読めるもの」

「そうかよ。 だったら、本気で全部読んでみろよ。 あたいが今まで、この人生で受け続けた苦悩を全部っ―――!!」

 

 そう言って、燐は自らが長年受け続けた負の記憶を深く想起した。

 燐は、さとりがその気になれば相手の記憶の全てを自ら体験するが如く鮮明に読めることも知っていた。

 嫌われ者の代名詞とされるさとりに元々興味があり、その能力について調べたこともあったから。

 自分の人生は最悪なのだという劣等感と、それでもさとりならもしかしたら自分の境遇を理解してくれるかもしれないという、微かな期待も抱いていたから。

 だから、燐は思い出したくもない、誰も耐えることなど叶わないような、苦痛の記憶をそれでもさとりにぶつけるように思い起こす。

 

 ――両手足の爪を抉られたことが何度ある?

 

 死体を漁るが故に嫌悪され、怨霊を操るが故に忌避され、燐はずっと孤独の中を一人生きてきた。

 いついかなる時も誰にも理解されず虐げられ、故に誰も信じられず、自分は最低の人生を生きてきたという自負があった。

 

 ――唯一自分を信じてくれた友が、目の前で嬲り殺されたことが何度ある?

 

 時にはそんな自分に同情してくれる稀有な人もいた。

 だが、それは燐にとっての弱みにしかならなかった。

 燐をおびき寄せるための、苦しめるための道具にする輩など、いくらでもいた。

 

 ――それが、自分への恨み事を吐きながら無残に死んでいく様を見たことが何度ある?

 

 むしろ自分に束の間の希望を与えてくれた友が、死に際に自分を呪っていくその姿は、信頼という言葉の全てを否定した。

 一度は信じた者が醜く命乞いをし、燐を罵りながら死んでいった光景に、一体何の救いがあるのか。

 何もかも、何一つとしていい思い出などなかった。

 ただ、ずっとそんな世界を生きてきた。

 ずっと最悪の記憶を反芻し続けてきた。

 そんな記憶をそれでも笑い飛ばせるのかと、燐は縋るようにさとりを睨みつけて……

 

「………ぇ?」

 

 燐は、かつてないほどひどい寒気に襲われた。

 さとりは、燐の記憶に耐えていたのではない。

 それに同情してくれていた訳でもない。

 ただ、誰よりも不幸だと思ってきたその記憶を読んださとりが、まるで愉快な物語を見ているかのような笑みを浮かべていたから。

 

「――へえ、貴方」

 

 そして次の瞬間、燐は震え上がる。

 

「随分と楽しい青春を送ってきたみたいね」

 

 その笑みには恐怖も同情も苦痛も何一つとしてない。

 燐には、さとりがその記憶を偽りなく楽しんでいるようにしか見えなかった。

 

 さとりは既に、燐の想起できる程度の苦痛なら、いくらでも体験したことがあった。

 誰かの記憶を読み続けて、そして何より、自分自身が受け続けた苦悩を噛みしめ続けて。

 それでも、さとりは今まで経験したあらゆる苦悩を、もう苦に感じてはいない。

 あまりに残酷過ぎる目の前の現実を生きるために、あらゆる出来事をただ自分の中で愉しんでいただけだった。

 

 ――生爪を剥がされる瞬間なんて、何が辛いの?

 

 何度も受け続けたその拷問の痛みに、今は特に苦痛すら感じない。

 さとりは別に、痛みに快楽を覚えている訳ではない。

 そこで真に憐れなのは、さとりではないから。

 その時のさとりは、覚妖怪という嫌われ者に苛立ちをぶつけることしかできない醜き豚共の心の叫びという滑稽な喜劇を眺めるだけの、一人の聴衆に過ぎないのだ。

 

 ――そんな私を憐れんで優しくした「偽善者」が、私への見せしめのために嬲り殺しにされる瞬間に、なんの悲しみがあるの?

 

 いい人ぶったそれが、死に瀕してなお、さとりに笑いかける姿。

 それが、本当は心の中でその行動を後悔し、さとりへの恨み事を永延と吐き続ける様など、見ていて失笑を禁じ得ない。

 今まで幾度となく、そんな光景を見続けてきたから。

 さとりは目の前の全てがくだらないことを、嫌というほどに知っていた。

 心を読めるが故に、真実の想いはいつも偽りの中にしかないことを知っているから。

 だから、さとりは既に希望や信頼などと言う記号に、価値を感じていなかった。

 ただ真実も偽りも関係なく、目の前の何もかもを滑稽な戯曲と化して愉しもうと。

 敵も、味方も、家族も、世界も、自分自身のことすらも、ただ面白ければ全てがどうでもいい、そういう生き方をしてきただけなのだ。

 

 ――何なんだよ、こいつ。 一体、何をっ…!!

 

 だが、そんなことなど燐が知る由もない。

 ただ嘲笑うような笑みを浮かべているさとりを見ていた燐の目には、もう余裕はなかった。

 さとりが恐怖するか少なくとも同情してくれるか、そんな未来しか予想していなかったから。

 

「さて、終わりかしら。 貴方の心は意外と面白かったのだけど、これではまだ…」

「ぁ、ぅあああああああっ!?」

 

 だから、燐は錯乱した。

 思い通りにならないさとりを、本能的に否定しようとした。

 確実にさとりを殺すための一撃を、無意識に放ってしまった。

 妖怪を死滅させる、怨霊を差し向けることで。

 

「あ、しまっ…」

 

 だが、燐が自分の過ちに気付いた時には、もう遅かった。

 燐の放った怨霊の群れが、まっすぐにさとりの中に入り込んでしまった。

 1つの怨霊に憑りつかれることが、妖怪には死を意味する。

 ましてや複数の怨霊に身体を乗っ取られることは、その存在意義の全てを乗っ取られて即死に至らせる行為に他ならなかった。

 だから、燐は慌てて怨霊たちをさとりから引き剥がそうとした。

 燐は怨霊を使って誰かを脅したことは何度もあっても、自ら殺しをしたことは一度もなかった。

 これはもう手遅れかもしれない、間に合わないかもしれない、そんな絶望感が燐の頭の中をめまぐるしく回っていく。

 そして、初めて犯してしまったかもしれない殺しの罪に、燐はまた心を狂わせそうになりながら……

 

「ふふっ、何を呆けた顔をしてるの?」

「……え?」

 

 本当に、燐は動けなくなった。

 いつの間にか、さとりに憑りついたはずの怨霊が次々と消滅していたから。

 何が起こっているかも、理解することができなかった。

 ただ、怨霊の発した声だけが嫌というほどに燐の耳に響いてくる。

 

「*―**――*――――*―」

 

 燐の耳には、普通であれば意味のある言葉として届くはずの音は、本当に何も聞き取れない雑音と化していた。

 それは叫びではない、悲鳴でもない。

 ただの断末魔。

 死してなお捨てきれない怨念を持つ、即ち負の記憶の塊であるはずの怨霊は、それでもさとりから逆流した記憶に自らの存在意義さえも掻き消されて消えていく。

 怒りが、憎悪が、悲しみが、絶望が。

 全てがそれを遥かに超える闇に掻き消されていく光景に、恐怖せざるを得なかった。

 さとりの中で今まさに消えゆこうとする声だけを聞きながら、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 燐はたださとりに畏怖しながら俯き、それでも痙攣したように全身の震えが止まらない中で―――

 

「大丈夫よ」

 

 その声色で、燐の精神は辛うじて戻ってきた。

 ただ、優しくそう放たれた声に導かれながら顔を上げるとともに、

 

「貴方はもう、そんなちっぽけな記憶に苦しまなくてもいいのよ」

 

 目の前にあったその歪んだ笑みが、燐の人生における最後の心的外傷だった。

 

 さとりと出会うまでは、自分は不幸なのだと思っていた。

 自分のその記憶が、最悪なのだと思い込んでいた。

 だが、燐が抱いていたそんな悲痛な記憶を、さとりは楽しい青春と揶揄した。

 そんなものなど、ただの喜劇に等しいと言わんばかりに。

 まるでこの世の地獄など既に見尽くしたと言わんばかりの、冷たい目で。

 

 その日以来、燐はさとりに服従した。

 この世には、自分とは比較にならない闇を抱えながらも平然と、それでいて他者を思いやる心さえも持ち合わせながら生きている人がいる。

 それを知って初めて、自分の抱えるちっぽけな苦悩から逃れることができた。

 そして、幾多の苦悩の日々を超えて、遂に偽りなき真の友にも出会えた。

 馬鹿で幼い、それでも燐にほんの僅かな嫌悪感を見せることすらない、心優しき小さな地獄烏に出会うことができたから。

 

 そうして、燐は救われた。

 虐げられることすら、今ではほとんどない。

 あまりに強大すぎる、さとりという主の名のもとでは、周囲からの燐本人への嫌悪感など無いも同然だったから。

 そして何より、生まれて初めて、本当に心から信じられる家族に囲まれていたのだから。

 だから、燐はもう自分が不幸であるなどとは、欠片も思うことはないのだ。

 

 

 だが、それで人生が変わった燐とは対照に、その救いはさとりにとっては大した意味を持たない。

 それは、毎日の中でただ淡々と過ぎていく暇つぶしの一つに過ぎないのだ。

 自分を救ってくれた女神だと信じて、さとりについてくる燐や空の献身的な信頼も。

 本当はさとりが誰よりも優しいと勘違いしているこいしの愛も。

 さとりにとっては何もかもが、ただ自分が愉しむための滑稽な戯曲の1ページに過ぎない。

 

 

 ――さて、次は一体どんな喜劇が私を待っているのかしら。

 

 

 そうして、さとりはまた今日も次の愉悦を探していく。

 どれほどの人の苦悩も絶望も、さとりを満足させるには未だ至らないけれども。

 それでも、いつかはきっと見つかる。

 本当の愉悦の意味を忘れた頃に、どんな絶望も比較に値すらしない何かが。

 

 そして遂に見つけ出した、遥か地の底の深すぎる闇に根差した、とある歪みは……

 

 

「あはははは。 見つけたわ、こんなにも面白そうな―――――」

 

 

 いずれ、『運命』という最高の玩具へと、さとりを導いていく。

 

 

 

 

 


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