東方理想郷 ~ Unknowable Games.   作:まこと13

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第30話 : 物語

 

 

 

 その日は、よく晴れていた。

 そんな日は日なたで横になっていることを好むはずの霊夢は、博麗神社の正面に一人立っていた。

 何をするでもなく、食事も喉を通らないまま虚ろな目で、誰かがその鳥居をくぐって来ないかを見ている。

 

「紫」

 

 返事はない。

 

「藍、橙」

 

 それに答える者は、誰もいない。

 

「……母さん」

 

 そう呼ぶたびに、霊夢の目から涙が溢れる。

 ずっと握りしめ続けて手の中でくしゃくしゃになってしまった布の欠片が、また少し濡れる。

 

「誰でもいいから、返事してよ」

 

 その声は弱弱しかった。

 

 

 その日は、雨が降っていた。

 そんな日は布団に包まっていることを好むはずの霊夢は、博麗神社の正面に一人立っていた。

 雨に濡れながらも、何かを待つように立ち尽くしていた。

 

「帰ってきてよ」

 

 それが、ただの独り言でしかないことを、霊夢はわかっていた。

 

「いつもみたいに馬鹿なこと言ってよ」

 

 いつも適当に流していた言葉が、今は愛おしく感じる。

 今なら、それに付き合ってあげることもできる気がする。

 それでも、そこにはもう誰もいなかった。

 

「……寂しいよ」

 

 その声は雨の音に掻き消されて、自分の耳にすら届かなかった。

 

 

 その日の天気は、わからなかった。

 雨に打たれ過ぎて冷え切ったその身体は、まともに動くことすらも許さなかった。

 ひどい胸の痛みと困難な呼吸が、その身を蝕んでいた。

 そして、何より霊夢の中にある思い出が、その心を蝕んでいた。

 いつもならこんな時に聞こえてくるはずの、霊夢を看病する母の声。

 それが、今は聞こえない。

 もう二度と、その声が響くことはない。

 

  ――待て、やめろ、霊…

 

 ただ、最後のその声だけが頭から離れない。

 奪ってしまった大切な命の記憶が、霊夢の心を締め付けていく。

 

 ――もういい。

 

 霊夢の目は死んでいた。

 既に肺炎になっているだろう身体の辛さのせいではない。

 そんなものが気にならないほどに、霊夢は無理に立ち上がり、歩いていく。

 博麗神社の、裏へ。

 

「……」

 

 霊夢は立ち尽くしていた。

 怖くなった訳ではない。

 未練がある訳でもない。

 ただ、大好きだった母が一番悲しむだろう選択をしてしまう自分が情けなくなっていた。

 それでも、その感情はそれを押しのけるほどに強く――

 

 

 ――私なんかにはもう、生きてる価値なんてないから。

 

 

 霊夢は一言発することすらなく、神社裏の池に入水した。

 

 

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第30話 : 物語

 

 

 

 

 

 

 気が付くと、目の前には不思議な景色が広がっていた。

 実際には存在しなかったはずの、どこか違和感を感じる空想上の世界。

 それでも、その世界は楽しい光に包まれていた。

 

 巫女と紫がいつものように馬鹿な掛け合いをしている。

 藍がその傍らで、やれやれと一人ため息をついている。

 そこに割り込もうと、霊夢が通う寺子屋の教師の上白沢慧音が乱入する。

 

 その光景を見ていた霊夢が、藍の式神の橙や魔理沙と一緒に、先生に続けと突撃をかける。

 

 霊夢はふと、そんな生き方もあったのではないかと思った。

 理由もなくただその場のテンションに身を任せて動く自分の姿は、傍目からはひどく滑稽に見えたけれど。

 それでも、楽しそうに見えた。

 クールで大人びた生き方なんてしなくていい。

 もっと、そんな風に思いきりはしゃいでみてもよかったのではないかと思った。

 もっと、母たちと一緒の時間を大切にすればよかったと、後悔していた。

 だが、それに気付くのはあまりにも遅すぎた。

 もう、未来は残されていないから。

 母はいない。

 そして何より、霊夢自身が自害してしまったのだから。

 

「……でも、それでもいいのかな」

 

 たとえ今見えているのが夢だとしても。

 ただの虚しい妄想だったとしても。

 残酷な現実の中を生きるよりは、よっぽどいいと思った。

 

「私はこの夢の中で、もう一度―――」

 

 だから、霊夢は何もかもから逃げるように、ただ手を伸ばして――

 

 

「…………あれ?」

 

 その先には、誰もいなかった。

 目の前に広がるのは、曇天の空。

 灰色の景色とひどく冷える身体は、現実を突きつける。

 霊夢は夢から覚めたのだ。

 だが、いつも通りのその光景は、これまでの全てが夢だったという束の間の希望を霊夢に与えて、

 

「……そう、だよね」

 

 再び霊夢を現実に押し戻す。

 その手の中には、母のリボンの欠片が未だ握られていた。

 ずぶ濡れになった身体は、それだけは決して離さずに握りしめていた。

 

「死ねなかった、か」

 

 霊夢は自分の情けなさが悔しくて、仰向けになったまま唇を噛みしめた。

 誰かが隣にいてくれないと前を向くことすらできない。

 そんな人生を自ら終わらせる勇気すらない。

 そんな、あまりに弱くちっぽけな自分の本性を突きつけられながら、ただ虚しく空を仰いでいることしかできなかった。

 

「……本当に。 何がしたいのかしらね、貴方は」

「っ!!」

 

 だが、突然聞こえてきた声で霊夢は飛び起きた。

 そこにあったのは、木に寄りかかるように立ちながら、冷たい目を向けてくる紫の姿。

 今までずっと帰ってこなかった紫は、当然のようにそこにいた。

 

「あ、紫…」

 

 紫自身が気付いているのか気付いていないのか、よく見るとその袖は少し濡れていた。

 霊夢は、死ねなかったのではない。

 孤独に死のうとしていた霊夢を、紫が池から引っ張り出して助けたのだ。

 それに気づいた時、霊夢は本当は嬉しかった。

 だが、同時にその胸は強く締め付けられていた。

 霊夢を見る紫の目の色が、明らかに違っていた。

 親友を奪われた紫が、霊夢に向けているだろう憤り。

 その罪悪感に、霊夢は押しつぶされそうになっていた。

 

「……ごめんなさい」

「……」

「私、母さんを殺しちゃった」

「……」

「殺したの。 私が、大好きだったのに、私が、私がっ…!!」

 

 縮こまって俯いたまま感情的になっていく霊夢とは対照に、紫は返事をしなかった。

 ただ黙ってそれを聞くだけ。

 別に霊夢は許しが欲しい訳ではない。

 それでも、何かを言ってほしかった。

 どれだけ罵られても、殺されても、それでも別によかった。

 

「……そう」

 

 いや、むしろそうでもなければ、心が壊れてしまう。

 何のお咎めもなく向けられ続けるその眼差しに、霊夢はこれ以上耐えられなかった。

 だが、次の瞬間聞こえてきたのは、霊夢が予想もしていなかった言葉だった。

 

「それは、ちょうどよかったわ」

「え?」

 

 霊夢は自分の耳を疑った。

 紫の口からそんな言葉が出たこと自体、理解することができなかった。

 

「もう邪魔だったのよ、あの子。 人間の代表である博麗の巫女のくせにまともに人間に混じることもできないし、そのくせ口を開けば面倒な口答えばかりの出来損ない」

「紫……?」

「だから正直言うと助かったわ、霊夢があの子を殺してくれて。 これでやっと、次の巫女を探せるわ」

 

 微かな笑みを浮かべながらそう言う紫を前に、霊夢は言葉にできない気持ち悪さを感じていた。

 自分の中の何かが、音を立てて崩れ落ちていく。

 こんなことなら、本当に死んでおけばよかった。

 何も知らないまま、終わっていたかった。

 そう思えてしまうほどに、現実は霊夢の心を蝕んでいく。

 

「……なんで、そんなこと言うのよ。 紫は母さんの友達だったんじゃないの? 紫は、母さんのことをっ…!!」

「友達? あはは、何を勘違いしてるの」

「え?」

 

 それでも、霊夢は信じたかった。

 どれだけ現実が残酷でも、楽しかったあの時間だけは嘘じゃなかったと思いたかった。

 だが無情にも、紫が次に放った言葉が、霊夢の全てを壊した。

 

「アレは、幻想郷を維持するためだけに利用してきた道具。 そんな唯一の役割すらまともに果たせない、ただのガラクタよ」

 

 霊夢は、何も反応することができなかった。

 ただ、そう言われた瞬間、霊夢の中で何かが切れた。

 悲しみよりも、絶望よりも、湧き上がってくる怒りを抑えることができなかった。

 

「……違う」

「何が?」

「母さんは、あんたの道具なんかじゃない。 母さんは―――」

 

 そして、それは何故か、次第に憎悪へと変わっていく。

 自然とその奥にある闇に囚われて、心が支配されていく。

 だが、紫はそんな霊夢に冷めた目を向けたまま、

 

「ガタガタ五月蠅いのよ」

「っ―――!!」

 

 瞬時に霊夢の後ろに回り込み、頭を地に叩き付けた。

 紫を睨んでいたはずの霊夢の視界は、いつのまにか地に伏されて何も見えなくなっていた。

 

「母さんは、何?」

 

 何が起こったかもわからないまま紫に頭を踏みつけられていた霊夢は、声も出せなかった。

 起き上がれないまま、ただ強く地面に押し付けられる。

 

「言いたいことがあるのなら言ってみなさい。 ほら、早く」

「っ――――、」

「……はぁ。 結局、出来損ないの子は出来損ないにしかならないのね」

 

 そう言って、紫は霊夢の腹を蹴り飛ばす。

 だが、倒れたまま地を跳ねるように滑りながらも、霊夢は受け身一つとろうとしない。

 傷を負うことなど、もはや気にもならなかった。

 ただ、感情と共に、自らの内にある何かが暴走し始めていることだけを感じていた。

 そして、霊夢はボロボロになったその身体で、目の前の憎き妖怪を睨みながら静かに立ち上がる。

 

「……取り消せ」

「はあ?」

「母さんは出来損ないなんかじゃない。 あんたに、そんなことを言う資格なんてない」

 

 霊夢はもう、全てを忘れていた。

 楽しかった日々を。

 母を喪った、悲しみを。

 自分の命すらも諦めた、絶望を。

 思い出も感情も、全てをただ目の前の妖怪への憎悪に変えて、その身に宿した最悪の力を纏っていく。

 

「出来損ないでしょう? 貴方みたいな弱い子供に殺されるような、使えない道具なんだから」

「違う。 違う違う違う違う!! あんたなんか私が…」

「貴方ごときに、私が殺せるとでも?」

「っ――!!」

 

 本当はそんなつもりなど、なかった。

 考えたこともなかった。

 だが、それでも霊夢はもう何も考えられなかった。

 

「……黙りなさいよ」

「だったら、やってみたら? 私は妖怪の賢者、八雲紫。 あんな出来損ないとは違って…」

 

「黙れって言ってんでしょ!! お前なんかっ――――」

 

 

 ――消えちゃえばいいんだ。

 

 

 そう言いかけた途中で、遂に激昂した霊夢の中から得体の知れない力の塊が溢れ出した。

 その力は辺りに拡散し、目の前の何もかもを真っ白に染め上げ、無に分解していく。

 存在そのものを喰らい、永遠の闇へと誘うその力は……

 

 そのまま、あっけなく全てを消した。

 霊夢は、ただ静かにその現実を目の当たりにしていた。

 返事などない。

 後には微かな砂煙が舞うだけのそこに目を向けて、

 

「……ははは」

 

 霊夢は、笑った。

 

「ざまぁみろ」

 

 今は亡き、憎き妖怪の消えた空間を見ながら、笑っていた。

 

「何が妖怪の賢者よ、結局何もできなかったじゃない」

 

 いつもからは考えられないほど、饒舌に。

 

「悔しかったら何か言ってみなさいよ、ほら」

 

 いつものように、そんな挑発的に。

 

「いつも、偉そうなこと言ってたくせにさ」

 

 そんな、憎き妖怪との記憶を思い出して。

 

「私のこと、散々苛めてきたくせにさ」

 

 その声は次第に震えてきて。

 

「私なんかと一緒に、笑ってたくせにさ…」

 

 その心にはむしろ、そんな楽しい思い出ばかりが浮かんできて。

 

「こんな化物と、本当に……家族みたいに……」

 

 遂には、その目から涙が溢れ出た。

 

「あ、ぁぁ……」

 

 漏れそうになる嗚咽を必死でこらえながら。

 

「……いやだ」

 

 もう誰もいない虚空を見つめながら。

 

「嫌だよ。 もう、一人にしないでよ……」

 

 ただ感情のままに、

 

「お願いだから返事してよ、紫……」

 

 何もかもが消えてしまったその空間に向かって、

 

「死なないでよ、ゆかりいいいいいいい!!」

 

 それは虚しく響き渡った。

 もう何もないと、わかっているのに。

 誰も返事などするはずがないと、わかっているのに。

 それでも、霊夢が叫んだその声は、

 

「……ほらね」

 

 その、砂煙の中から現れた声に遮られた。

 全身をボロボロにしながらも、両手を広げてそこに立っていた妖怪の、

 

「私は、強いでしょう?」

「ぁ……」

 

 優しい声色で語りかける笑顔に、届いていた。

 既に立つことすらできないはずの足で、妖怪は一歩前に出る。

 一歩。

 また一歩。

 そして、霊夢の前で遂に倒れ込むように膝をつき、それでも霊夢を抱きしめて言う。

 

「……ごめんね」

 

 霊夢は、何も言えなかった。

 ただ、自分を包み込む確かな温もりの中で、動けなかった。

 

「私、本当はもっと前から気付いてたの。 ……あの日、突然いなくなった霊夢を探して、やっと見つけた霊夢が泣いてるのを見てね。 本当はその時にはもう、あの子が死んだんだってわかってたんだ」

「え?」

「その時は信じられなかった。 あの子がもういないって考えただけで恐かったから。 本当に……身体が震えて、どうにかなりそうだったから。 でも、そうじゃない。 一番辛いのは、霊夢なのに。 私が、霊夢を支えてあげなきゃいけないはずなのに。 なのに、霊夢が一人で苦しんでる時に、私はずっと藍の背中で一人泣いてるだけだった」

 

 そう言って霊夢を抱きしめる紫は、震えていた。

 その目から零れ落ちた涙が、霊夢の首筋を伝っていった。

 

「……ごめんね、一人にしちゃって。 辛かったよね、寂しかったよね、霊夢」

 

 それは、紫が霊夢の前で初めて見せる弱さだった。

 誰よりも巫女のことを想い、それを喪った悲しみに震えている、一人のか弱い妖怪の姿だった。

 

「だけど、もう絶対、霊夢を一人にしたりしない。 霊夢が辛い時は、いつだって傍にいてあげるから。 霊夢が悲しみで壊れそうになった時は、私が何度だって受け止めてあげるから」

「ぁ……」

 

 だが、紫は自らの中の悲しみを押し殺して、霊夢を強く抱きしめる。

 霊夢の手からは力が抜けていった。

 自分の心の奥底から漏れてくる涙と嗚咽を、止めることができなかった。

 ただ、まっすぐに優しく自分に微笑みかけてくる紫に向かって、

 

「紫……母さんが」

「うん」

「大好きだったのに。 私、私…」

「いいのよ、もう。 我慢しなくて」

「ぁ……嫌だ、母さん…いゃぁぁ、いやあああああああああああっ!!」

 

 思うままに全てを吐き出した。

 その悲しみを支えてくれる相手が、いなかったから。

 誰を恨んだらいいのかも、わからなかったから。

 だけど、今の霊夢には、何もかもを受け止めてくれる人がいる。

 悲しみも絶望も、怒りや憎しみすらも、全てを受け止めてくれる、そんな家族がいてくれるから。

 だから、霊夢は初めて人前で大声で泣き叫んだ。

 声が枯れて泣き疲れるまで、ただ紫の胸の中で泣いた。

 

 やがて、疲れ果てるほどに悲しみを吐き出しきった霊夢に向かって、紫はそっと呟く。

 

「……ずっとね、考えてたの。 この世界に、悲しみなんてなくて済む方法を。 霊夢が、その力を恐れずに暮らせる方法を」

「え?」

 

 紫が片手を天にかざすとともに、空に数多の霊力の弾が咲いていく。

 花火のように光る弾幕が辺りを覆い、枯れ切るほどに涙を流しきった霊夢の瞳に光を映す。

 

「『スペルカードルール』」

 

 その言葉は、静かに霊夢の耳に響いた。

 霊夢は目の前で咲いていく、昼間の花火を見ながら、

 

「……綺麗」

「そうでしょう? これはね、ただ「美しさ」を競うだけの勝負よ」

「美しさ?」

「そうよ。 もう、誰も傷つかなくて済むように。 妖怪も人間も、ただ一緒に遊ぶかのように争いを解決できるようにって。 それが、あの子の願いだったから」

 

 そして、紫はもう一度霊夢を強く抱きしめて、誓う。

 

「今はまだ、こんな途方もないルールを浸透させるなんて無理に見えるけど、いつかきっと幻想郷に根付かせてみせるわ」

「……うん」

「もう霊夢が誰かを傷つけたり泣いたりしなくていい、皆で笑って喧嘩できるような、そんな幻想郷にしてみせるから――――」

 

 

 それから、紫はしばらく博麗神社には来なくなった。

 幻想郷でスペルカードルールを浸透させるために、一人必死に奔走していた。

 辺りを彷徨う妖精から各地の有力者まで、時には話し合いで、時には力ずくで、時にはその『境界を操る能力』を使って相手の意識に介入し、スペルカードルールそのものへの敷居を下げて。

 

 そして数年後、レミリアが起こした紅霧異変により、遂にそれは実用化された。

 その日に備えてずっと橙や藍と一緒に弾幕戦の特訓を続けてきた霊夢は、その異変でレミリアを含めた紅魔館メンバーを、全てスペルカードルールで負かすことに成功した。

 まだ十代前半の子供でありながらも吸血鬼の城を無血制圧した新たな博麗の巫女として霊夢は幻想郷に名を轟かせ、スペルカードルールは両者が過度に傷つくことなく対等に勝負できる決闘方法として、幻想郷に少しずつ浸透していった。

 そして、夢物語にさえ思えたそのルールは、今や幻想郷で最もメジャーな決闘方法として知れ渡っている。

 弾幕の美しさだけを磨き続けている霊夢が、誰かを殺してしまう心配もなく、誰もが決闘後に笑って握手のできるような世界が生まれたのだ。

 

 それを成し遂げた紫は、春雪異変という一つの区切りを終えて、やっと霊夢のもとに戻れるようになった。

 魔理沙や、今まで解決した異変の関係者たちとも一緒に、幸せな日々を暮らしていけるようになった。

 もう、一人じゃない。

 母の死を乗り越えて、ここからもう一度始められるのだと、次第に霊夢にも笑顔が戻ってきていた。

 紫がこれからも自分の隣で、この世界をずっと一緒に生きてくれるのだと、そう思っていたから。

 

 

 なのに――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……嘘つき」

 

 霊夢は呟いた。

 ルーミアの闇に飲み込まれてしまった霊夢の心を覆うのは、一面が暗闇に閉ざさせた世界。

 闇に墜ちた者の心を更にその深淵へと誘う、負の心象世界。

 だが、その中心には辺りの闇を遮るように光の空間が存在していた。

 広く開けたその光の世界に、霊夢は立っていた。

 

「あら、私がいつ嘘をついたのかしら?」

 

 そこには、もう一人。

 霊夢から少し離れたところには、一人の妖怪。

 いつものようにおどけたような表情をした、紫が立っていた。

 

「……ごまかさなくても、わかってるのよ」

 

 霊夢は、紫に向かって一枚の札を投げつける。

 だが、それは何にも当たらずに落ちていく。

 正確には、当たらないのではない。

 まるで紫が存在しないかのように、虚空を切って落ちていった。

 

「あんたは、紫のつくった幻影でしょ。 ……もう、本当は紫はいないんでしょ」

 

 そこにある紫の存在は、あまりに薄かった。

 辛うじてそこに残っている紫の姿を、霊夢は感じられていなかった。

 いや、本当は紫の存在を微かに感じてはいた。

 ただし、それは紫からではない。

 ただ、周囲を覆う空間そのものから、紫の空気を感じ取っていただけだった。

 

「……そうね。 私はもう、霊夢の深層世界を遮るための境界そのものになったから」

「っ……」

 

 紫は既に、闇に飲まれてから随分と時間が経っていた。

 それでも、紫はその中で自らの力を振り絞り、闇の浸食から霊夢の心を守るための強大な結界そのものと化していた。

 霊夢の心が闇に墜ちないよう遮る、ただそれだけのための存在となるために、自らの全てを捧げてしまった。

 だから、ここにいるのは紫の実体ではない。

 その心象世界に溶け込んだ微かな魂の残照に過ぎないのだ。

 だが、それを実際に言葉にされた途端、霊夢の心がまた締め付けられる。

 

「……なんでよ。 私を一人にしないって、言ったじゃない」

「……」

「傍にいてくれるって、言ったじゃない」

 

 霊夢は俯きながら、震えていた。

 そんな霊夢をいつものように挑発するような態度で、紫は言う。

 

「おやぁ、霊夢ちゃんはそんなに寂しがり屋さんだったのかしら? たかが私一人くらい…」

「当たり前でしょ!!」

 

 紫の声を遮って、霊夢は叫ぶ。

 もう、その目から溢れる涙を止めることはできなかった。

 

「あんたがいたから、私はまた生きようと思えた」

「……」

「楽しい時も、辛い時も、あんたが……紫が傍にいてくれたからっ!」

 

 普段なら照れくさくて絶対に言わないような、霊夢の本音。

 それを、紫は微笑みながら受け止めていた。

 だが、それに返事はしない。

 いつもの凛々しさなど全く感じさせないほど小さく見えた霊夢から、紫は背を向けて言う。

 

「……いい所でしょ、幻想郷って」

「え?」

「手の付けられない問題児も、頑なな社会構造も、解決すべきことなんて数えきれないくらいあるけど、それでも私はこの世界が好きよ」

「何の、話を…」

「忘れ去られた者たちが、それでも自分に意味を見出して生きられる世界。 ま、そこで望みどおりのものが得られるのかは、各々の努力次第だけどね」

「っ……話を逸らさないでよ、紫!」

 

 怒鳴るようにそう言った霊夢に、紫はもう一度振り返る。

 

「霊夢」

 

 そして、その微笑みを崩さないままに、言った。

 

「私は、嘘をついてなんかいないわ」

「……どういうことよ」

「いつ、私が貴方を一人にしたのかしら」

 

 すると、霊夢の周囲の空間に無数の境界が開く。

 その隙間から見えるのは、見覚えのあるいくつもの記憶。

 

  ――よっ。 今日も勝負だ、霊夢!!

 

  ――うーっ。 ……次こそは、次こそは負けませんから!!

 

 いつも霊夢の周りにいて、何かと突っかかってくる魔理沙の姿。

 何度負かしても、それでもしつこく霊夢の前に現れる早苗の姿。

 そして、視線を動かせば、その数だけ霊夢の世界が見える。

 

 何かと適当な理由をつけて、藍を引き連れて博麗神社に遊びに来る橙の喧噪。

 時々霊夢の様子を見に来る慧音と、すっかり博麗神社に居着いてしまった萃香の些細な諍い。

 紅魔館の吸血鬼や白玉楼の亡霊、異変を通じて繋がった様々な種族との飽きることなき日常。

 そこには慌ただしい日々の中で時に怒ったりため息をついたり、それでも笑顔で過ごしていく霊夢の姿があった。

 

「貴方はもう一人じゃない。 そんなこと、本当はわかってるでしょ?」

 

 わかっていた。

 周りにいるのは、本当に馬鹿みたいにまっすぐに、霊夢を受け入れてくれる人ばかりだから。

 昔のように孤独に悩むことなんて、ないのだから。

 

「それにね。 今の幻想郷に必要なのは、貴方なのよ」

 

 隙間から、永延と声が漏れてくる。

 霊夢やにとりを、友達を救おうと命懸けで戦う魔理沙の声が。

 せめて自分が少しでも霊夢の代わりに幻想郷を守れるように、必死で運命に抗う早苗の声が。

 だけど、聞こえてくる数々のまっすぐな想いは、それでも本当は霊夢を必要としていた。

 

「……でも、私なんかには無理よ」

「どうして?」

「私は紫みたいにはできない。 目の前で泣いてる子を一人、助けてあげることもできない」

 

 心が壊れそうになった自分を受け止めてくれた紫の強さに、憧れた。

 自分もそんな風に、泣いている子を助けてあげられたらと、思ったりもした。

 だが、霊夢にはにとりを救ってあげることができなかった。

 紫が自分にそうしてくれたように、壊れそうになってしまったにとりの目に光を取り戻すことは、できなかった。

 

「そりゃあねえ。 霊夢はまだ子供だしね、全部が全部一人でできる訳がないでしょ」

「だったら、紫が!」

「でも、言ったでしょう? 私なんかがいなくても、貴方は一人じゃないって」

 

 その隙間から見えたのは、既にその目に光を取り戻したにとりの姿。

 過去も全て乗り越えて、地底の妖怪と共に前に進もうとしている文たちの姿。

 そして……

 

「このバカ霊夢っ!! いつまで寝てるつもりよ!!」

「……え?」

 

 確かに、その声も届いていた。

 いつも虚ろな目をしていたレミリアの、聞いたこともないほどまっすぐな声。

 予想外のそれに、紫すらもが少し驚きの表情を浮かべていた。

 

「あらあら。 まさかあの子の声が、こんなところまで届くなんてね」

「……」

 

 誰一人として、立ち止まってなどいない。

 この幻想郷の未来を背負い、守るために前を向いている。

 自らの限界をも超えて、この異変に立ち向かっている。

 

「今の幻想郷の博麗の巫女は貴方なのよ、霊夢」

「……」

「でもね、霊夢は私やあの子みたいに自分一人で先に進む必要なんてないわ。 困ったときは、きっと皆が霊夢と一緒に進んでくれるから」

「私は……」

「だから、貴方は前を向けばいい。 これから始まるのは、私やあの子が創り上げてきた幻想郷じゃない。 これから、やっと―――」

 

 そして、紫は実体を失ったその身体で、それでもそっと霊夢を抱きしめるように、

 

「霊夢だけの、新しい物語が始まるんだから」

 

 頬を伝っていく涙とともに、霊夢の瞼の裏に浮かんでいたのは、幻想郷の皆が笑っている景色。

 その耳に届いていたのは、大切な友達が霊夢を呼ぶ声。

 その心に響いていたのは、温かい想い。

 

「……そっか」

 

 それを、霊夢は自らの内で噛みしめるように反芻する。

 もう、迷いはなかった。

 その想いを胸に、霊夢はそっと立ち上がり、

 

「私はもう行くわ。 あいつらが待ってるから」

「……そ」

 

 それだけ言って、霊夢は一人まっすぐに歩いていく。

 振り返らず、何も言わず、その空間の端まで。

 そして、闇と自分の心を遮る境界の前で一度だけ立ち止まり、

 

「……じゃあね、紫。 今までありがとう」

 

 涙を切って一度だけ笑顔で振り返り、霊夢はその境界へと手を伸ばした。

 紫が霊夢を守ろうと自らの命を費やしたそこに、霊夢は自らの存在を込めていく。

 すると、闇に閉ざされた世界が霊夢と一体化して輝き始めた。

 霊夢の持つ『空を飛ぶ程度の能力』の真骨頂。

 誰よりも空を近くに感じ取ることができる、つまりは空と、この世界と一つになれる能力。

 それを使って、闇に侵食されかけているこの世界そのものと自らを一体化しようと、霊夢は力を込めていく。

 もう、怖くなんてない。

 寂しくなんてない。

 紫が込めた想いが、霊夢の中に還っていくのが感じられたから。

 紫が自分の中に生き続けてくれるとさえ思えるほどに、その世界が温かかったから。

 

「いってらっしゃい」

 

 唐突に、声をかけられた。

 紫のその最後の声を聞きながら、霊夢は返事をしようとした。

 もう、涙なんて流さない。

 最後は強く涙をこらえて、笑顔でいってきますと返そうとして――――

 

 

「愛してるわ、霊夢」

 

 

 その涙腺は、再び決壊した。

 不器用な妖怪の賢者の口から聞いた、最初で最後の確かな愛情を受け取った霊夢は、

 

 ――私も……

 

 それでも、答えなかった。

 振り返ったら、迷いそうになってしまうから。

 声を出したら、想いが溢れてしまうから。

 だから、霊夢は何も返さなかった。

 最後の顔は、笑顔で終わらせたかったから。

 大切な、もう一人の母への、大好きだよという最後の言葉を心の奥に押し殺す。

 

 そして、霊夢は世界の全てを光に染めると同時に、高らかに宣言する。

 

 

 

 

        「―――『夢想天生』―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから、時はしばらく遡る。

 

 ルーミアとの戦闘の後、魔理沙と別れて一人になった藍は、ただ黙々と走っていた。

 既に消えかかっているその身体で、懸命に走っていた。

 向かう場所は決まっている。

 今この状況で唯一、頼ることのできるかもしれない人物。

 だが、実はその相手のことを藍はよく知らなかった。

 いや、知ってはいるが、その人物は藍の知る限りの情報ではこの状況下で何かをできるほどの者ではないはずだった。

 ただ、それは妖怪の賢者として幻想郷を司ってきた紫をして決して敵わないと言わしめたほどの人物が、その生涯をかけて尽くす価値のあるはずの相手だった。

 

「……夜分遅くに申し訳ありません」

 

 稚拙なトラップが張り巡らされていたものの、その道を何度も通り続けてきた藍には、それを潜り抜けることは容易だった。

 永琳もうどんげもいない永遠亭。

 あとは知能の低い妖怪兎たちと、それを束ねる因幡てゐと呼ばれる賢い妖怪兎が時々いるだけとされているその場所。

 だが、そこには一部の知る人しか知らない、もう一人の住人がいた。

 

「あら、藍じゃない。 久しぶりね」

 

 膝をついて頭を下げるような姿勢の藍を、まるで遊びに来た友人を迎えるかのような気さくな声が出迎える。

 

「ってもう、そういう仰々しいのやめてってば。 普通にしてくれていいから、ね。 それで、今日も何か永琳に用? でも、永琳は今ちょっと出かけてて…」

「いえ、今日は貴方に協力を依頼したく参りました。 蓬莱山輝夜殿」

「私?」

 

 それを聞いた輝夜は、少し面倒そうな顔で首をかしげる。

 

「スペルカード戦の相手とかそういう? あ、でも今日は何かそういう気分じゃないし…」

「古くから封印し続けていた邪悪が異変の影響で復活し、このままでは幻想郷の存続すら危ぶまれる現状にあります。 今は吸血鬼のレミリア・スカーレットらが何とかそれを食い止めてはいますが…」

「え? ……だーかーらー、そういうのは永琳に言ってってば。 多分博麗神社とかにいるから」

 

 それは、時々見かける光景だった。

 何かを頼まれた輝夜は、全てを永琳に投げて自分は永遠亭の奥に引きこもる。

 そこで何をしているのかはわからないが、少なくとも藍は輝夜がスペルカード戦以外で何かをしているところなどほとんど見たことがなかった。

 そして、そのスペルカード戦の実力は確かに幻想郷全体で見れば有数のものであり、今の魔理沙とほぼ五分に渡り合えるほどのものだった。

 だが、それは輝夜自身の力によるものではなく、輝夜の持つ強力過ぎる財宝の力を使った結果でその程度であるということだった。

 故に、本来ならこの状況で優先して頼るほどの相手ではないと、藍は認識していたはずだったが……

 

「どうせあれでしょ? 確かスペルカードルール関係なく暴れまわってる奴がいて、霊夢と紫がやられたと」

「はい。 そして……八意殿も敗れました」

「……永琳が?」

 

 そこで、輝夜の顔が少し曇ったように見えた。

 だが、すぐにまた面倒そうな顔に戻って、

 

「あー……でも大丈夫よ、知ってるでしょ? 永琳は死なないし、今頃生き返って黒幕を返り討ちにでもしてるんじゃないのかしら」

「いえ、恐らくは……」

「何? それもないって? 何情報? ソースは?」

「その黒幕が、八意殿の折れた弓を所持していましたので、恐らく…」

「恐らく恐らくうるさいわ。 でもまあ大丈夫よ。 永琳は物に愛着なんて持ってないし、多分邪魔になったから捨てたのよ、はい論破」

 

 輝夜のその対応を前に、藍は次第に焦りを隠せなくなってくる。

 藍にはもう、ほとんど時間は残されていない。

 だが、案内もなく迷いの竹林を移動するにはかなりの時間を必要とする。

 つまり、輝夜から何も得るものが無ければ、藍は何もできないまま最後の時間を終えてしまうことになるのである。

 魔理沙やレミリアたちが命懸けで動いているにもかかわらず、自分は何一つ役に立てないのだ。

 藍は、土下座をするような体勢で輝夜に懇願する。

 

「お願いします……もう、私には頼れる人がいないんです」

「何? だったら貴方が自分で何とかすればいいじゃない。 九尾の妖狐って確か最強の妖獣なんでしょ?」

「……そう、できることならしたいです。 ですが、私にはもう時間が残されていないんです! あと1時間もしない内に、私は消えて…」

「それについては、いくらでも何とかしてくれる人はいたんじゃないの? 永琳でも、山の神でも……何なら私が新しく式神にしてあげてもいいわ」

 

 藍は答えられなかった。

 それだけは、できなかった。

 理屈などではない、唯一残った藍の僅かな感情がそれを拒んでいた。

 

「すみません。 私には…っ!?」

 

 だが、そう言った次の瞬間、輝夜の表情が変わった気がした。

 ずっと頭を下げていた藍は直接それを見た訳ではない。

 だが、明らかに雰囲気が変わったように感じた。

 いつものように真面目な藍を受け流す、適当な態度ではない。

 その目は冷たく、藍を見下すものであることが感じられた。

 

「……はぁ。 永琳が絶賛するもんだからどんな奴かと思ってみれば」

「え? あの…」

「最後の瞬間まで主の式神であり続けることが忠義だとでも思ってるの? 甘えたこと言ってんじゃないわ」

 

 輝夜は、明らかに藍に失望の眼差しを向けていた。

 それでも、藍の気持ちが変わることはなかった。

 

「でも、私は…」

「だったら、少しだけ。 ……昔話をしてあげるわ。 貴方みたいな半端者とは違う、本物の忠臣の話を」

「え?」

 

 輝夜は藍の方に目を向けず、ただ虚空に向かって語り始める。

 

「むかしむかしあるところに、政治の道具として利用されるだけの傀儡の姫君と、それに永遠の忠誠を誓った一人の臣下がいました。 自分の力だけで全ての者を認めさせることも、その気になれば頂点に立てる実力もあったはずの臣下は、それでもその生涯を姫君に尽くすために使うと誓いました」

「それは……」

「月日は流れ、ある日その姫君は所属する社会に存在する禁忌に触れてしまいました。 そして、その姫君が排除されるべき存在となった途端……臣下は一瞬も躊躇わずに姫君を切り捨てました」

「っ!?」

「その臣下は姫君を拘束し、拷問に拷問を重ね、禁忌を破った者の哀れな末路として人々の晒し者にし続けました。 かつては忠誠を誓った自分が、今はもう姫君と無関係の存在であることを周囲に証明しようとするかのように、自分がその社会での地位を失わないように」

「そんなのは、全然っ…」

「そして何年も、何十年もそれを続け、再び周囲の信頼を得ることに成功した臣下は、次にその姫君を汚れた地への流刑に処しました。 そして、やっと自由を得て安堵した姫君に絶望を叩き付けるかのように、それを殺す手段を携えた臣下は、遂に姫君を汚れた地で公開処刑することにしました。 その姫君を疎んでいる輩を引き連れて姫君を捕え、下卑た笑いに囲まれながら臣下はその手に持った神刀を姫君の首元に向かって振り上げて……そのまま、それを見物に来た下衆共を皆殺しにしました」

「え……?」

「姫君に仇名す者たちの陰謀を知っていた臣下は、あえて姫君に敵対する態度をとり続けることで数十年をかけてその油断を緻密に誘いつつ、人知れずその全てを始末できる場を作り上げようとしていたのです。 そして、その臣下は己の身一つで築き上げてきた地位や名誉を全て捨て、その姫君と同じ禁忌という苦悩を背負う罪人となった上で、そのまま何の問題もなく姫君を連れて遥か遠くの地へと逃げることに成功しましたとさ。 めでたしめでたし」

 

 それを語り終わると、輝夜は藍の方に振り返り、蔑むように言う。

 

「……それが忠誠を誓うってことよ。 形なんかにとらわれず、自分の身も顧みず、一時的に主を貶めることすら躊躇わず、感情の全てを押し殺して本当に主のために尽くすことのできるのが、ね」

「……」

「それが、貴方は何? 自分の感情ひとつ制御することすらできないの? そんなくだらない自己満足のために、主が命を懸けて守ろうとしてきたものを危険にさらすの? 何でそんな奴のために私が動かなきゃならないの? 冗談じゃないわ」

 

 藍は何も言えなかった。

 目線を下げたまま顔を上げることすらできなかった。

 

「私は……」

「私はくだらない奴は嫌いよ。 相手にする価値のない有象無象のことなんて、いつも適当に流しておくことにしてるわ」

「……」

「だから、さっきのは聞き間違えってことにしてあげるから、もう一度だけ聞くわ。 貴方は私にどうしてほしいの?」

 

 それは、輝夜が藍に与えた本当に最後のチャンスだった。

 ここで迷うようなら、輝夜は一切の躊躇なく藍を見捨てるだろう。

 そのくらいのことは、今の藍にも理解できた。

 自分を恥じるための時間をとることすら、おこがましいことくらいはわかっていた。

 

「私に……もう少しだけ幻想郷にいる時間をください」

 

 だから、藍は自らの中にまだ残る葛藤も、微かに浮かんだ涙も、何もかもをかなぐり捨ててそう言った。

 輝夜は何かを試すかのように、それに返す。

 

「何のために?」

「この異変を解決するため…」

「違うわ。 何のために?」

「……守るべきものを守るため。 紫様の意志を私が継ぐための……為し遂げるための時間をください」

 

 藍は、来た時と同じように膝をついた姿勢で輝夜に言った。

 だが、それは八雲紫の式神としての綺麗な姿勢でではない。

 そこにあるのは、プライドを捨て、一匹の野良妖怪としての決意を乗せた、そんな野生的な目だった。

 

「……まあいいわ、だったら復唱しなさい。 私は蓬莱山輝夜の名において命ぜられる全てを順守し、尽くすことを誓う」

「私は蓬莱山輝夜の名において命ぜられる全てを順守し、尽くすことを誓う」

 

 それは、主に一切背くことなく全てを捧げるという、式神の契約としては最上級の言霊。

 たとえ紫を相手にしたとしても、決して口にすることはないだろう契約。

 だが、藍は表情一つ変えずそれを復唱した。

 そして、その覚悟を見届けた輝夜が、藍の額に指をつけるとともに、

 

「はい、契約完了。 あとは貴方の勝手にしなさい」

「――――っ!?」

 

 藍は驚愕の表情を浮かべた。

 神奈子や諏訪子は、藍ほどの妖怪を式神として使役するためには少なくとも1時間以上の儀式を要すると言っていた。

 紫との再契約すらも、10分やそこらで終わるはずがないものだった。

 だから、もし藍に残されたわずかな時間だけで輝夜が式神契約をできるほどの力を持っていなければ、ただの徒労に終わるのではないかという懸念が藍にはあった。

 だが、それは一瞬の出来事だった。

 輝夜が藍に触れた1秒にも満たない間に、藍には全盛期と同等以上の力が戻り、その意識には輝夜の式神としての契約がインプットされていたのだ。

 

「貴方は、一体……」

「お喋りしてる暇があったら行動に移したらどう? 一時的なものとはいえ貴方は私の式神なのよ。 無能を使い続ける気は全くないから、そのつもりでいなさい」

「っ!! ……はい、ありがとうございます!」

 

 その気になれば藍を一生奴隷として使役することもできる契約を終えたはずの輝夜は、その命令権を自ら放棄した。

 ただ、藍の好きなように動けばいいと。

 それを理解した藍は、深く頭を下げた後、すぐに走り去った。

 振り返る様子など全くなかった。

 

 そして、一瞬で視界から消え去った藍を見送るでもなく、輝夜はしばらく一人で月を見上げる。

 何をする訳でもない、ただぼんやりと立ち尽くす輝夜に、

 

 

「……へえ、随分と酷いことをするのね」

 

 

 突然、どこからともなく声がかけられた。

 輝夜はその声のした方に振り返ると、驚いた様子もなしに口を開く。

 

「酷いこと? 何のことかしら」

「とぼけなくてもいいわ。 自分で八雲紫を消させておいて、まるであの式神を救おうとする女神のような顔をして振る舞う態度がよ」

「あら、気に入らない?」

「いいえ。 私も八雲紫やあの狐はいけ好かないと思ってたから、別に何とも思わないわ」

 

 それを聞いても、輝夜は顔色一つ変えない。

 まるでそれを知られているのが、そこにそいつがいることが予想の範囲内だと言わんばかりに。

 

「それにしても、これは困ったわね。 まさか貴方がここに来るだなんて」

「まさか、だなんて思ってないでしょう? 私がここに来た時のプランも考えてあることくらいわかるわ。 貴方にはジョークを言うような才能はないと思うからやめておきなさい」

「いいえ、本当に想定外よ。 でも、正直に言うと手間が省けて助かったわ」

 

 輝夜は目の前の妖怪に向かってゆっくりと歩き出す。

 そして、さっきまで藍に向けていたのとも違う、無機質で冷たい目をして言う。

 

 

「せっかくだし、貴方にはここで退場してもらうわ。 最大の不穏分子、古明地さとり」

 

 

 

 

 


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