東方理想郷 ~ Unknowable Games.   作:まこと13

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 割とすぐ投稿できると思ったんですが、予想外に遅くなりました。
 どうしてもこういう繋ぎ回っぽいのは得意になれなくて、何度も書き直したんですよね……
 ただ、その分次の章の話は半分弱くらい書き溜められたので、更新ペースは少し上げられると思います。



第25話 : 宿敵

 

 

 

 

「――残念だけど、これはもう手遅れね」

 

 その一言は、反論を許さぬほど静かに響いた。

 だが、そんな現実を突き付けられた彼女の感情に、不思議と揺らぎはなかった。

 期待する気持ち以上に、もう無理なのだろうという諦めが心のどこかで強くあったから。

 

「……そうか」

 

 それ以上の言葉は出てこなかった。

 彼女の心を支配するのは悲しみではない、失望でもない、目の前で淡々とそう告げた妖怪への猜疑の気持ちでもない。

 

 ――空虚。

 

 自らの弱さに気付き。

 立ちはだかる勇者には出会えず。

 そして、共に競い合ってきた強敵は、あまりにあっけなく死んだ。

 

「その気になれば、いつかは自分の意志で立てるようにはできると思うわ。 でも……」

「わかってる。 もう、今までのあいつには戻れないんだろ?」

 

 その返事を聞こうとすらせず、彼女は背を向けた。

 もう、その場に居続けたくなかった。

 かつて憧れた一人の鬼の、あまりに弱弱しく縮こまった姿をこれ以上見たくはなかったから。

 だから、彼女は目の前の現実から目を背けてしまった。

 そこが、彼女の前に続いていた最後の道の終着点だった。

 自分の中にある何もかもが終わったかのような感覚に支配されたまま、彼女はそれ以来ずっと惰性で生きてきた。

 

 だが、閉ざされたと思っていたその視界に、突如として新たな道しるべが現れる。

 

 それは、高い潜在能力を持ちながらも、自分と似た弱さを持った烏天狗。

 その内に秘めた可能性に期待し、かつては無意識の内にいつも目で追い、厳しく叱咤していた。

 時には自分自身の弱さを見ているような苛立ちを感じ、痛めつけたこともあった。

 まるで親のような心境で、その成長を喜んだこともあった。

 

 だが、そんな目線からの態度は今日ここで終わった。

 彼女は今、初めてその枠から天狗を外した。

 その天狗を、自分と矜持を交わし合う価値のある、対等以上の存在として認めたからだ。

 

 そして、烏天狗はそれに応えた。

 彼女を怯ませるほどの覇気でもって、高みを見渡していた。

 自らの憎むべき心的外傷とまで思い続けてきた相手の期待を、遥かに上回る存在として君臨していた。

 

 彼女は歓喜に震える。

 自分の目は、曇ってなどいなかったと。

 自分の選択は、間違ってはいなかったと。

 遂には当初はなかったはずの、その先の希望さえも見出す。

 

 ――いつか、こいつが私の――

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第25話 : 宿敵

 

 

 

 

 

 

「私はこの妖怪の山を構成してきた倫理そのものを、一度破壊します」

 

 勇儀の問いかけに、文は第一声をそう返した。

 一度は勇儀たちに語ったはずの、文の描く妖怪の山の未来地図。

 異変の元凶であるにとりたちの救出、それを契機に残存する妖怪たちの中で多くの仲間を探し、これまでの社会を変革していこうという道。

 それを、勇儀はあえてもう一度尋ねた。

 はたてやにとりが文の展望をまだ知らないからもう一度確認したという訳ではない。

 その目に宿している覚悟が、見据える視線が、先の文とは明らかに異にしていると感じたからだ。

 そして、それは確かに全く別の道へと繋がっていた。

 

「倫理そのものを壊す、だと? お前はこの山の風習を変えるつもりじゃなかったのか?」

「……あの時はまだ、私自身が天狗という種族に縛られていましたからね。 そのくらいしか、考えられませんでした」

 

 あの時の文は、あくまで天魔によって認められた大天狗としての名を使い、内側から支配構造の中身を変えていくことまでしか考えてはいなかった。

 いや、それだけしか考えることができなかったと言った方が正しいだろう。

 なぜなら、たとえ各個人がどんな思想を持っていようとも、文を含めた天狗という種族の根底には鬼への畏怖、そしてそれをものともしない天魔という一個体への絶対的な崇敬があるからだ。

 その天魔を下すというのは、種族としての常識から明らかに外れた思考であり、本来はそれを考えることすらおこがましい世迷言なのだ。

 

「なるほどね。 だが、今のお前の標的は天狗社会の強硬派などという有象無象ではなく、天魔の支配していた社会そのものだと」

「ええ。 一介の烏天狗の一人である私がこの異変を終結させて全ての天狗を救い、そして天魔を下す。 それによって天魔という妖怪の山の頂点に君臨する「力」の象徴を失墜させ、天狗という種族の倫理そのものを一度崩壊させてから、この山の全てをやり直す。 それが、私の最終的な目的です」

 

 だが、文は既にそんな常識など捨てていた。

 力があるが故に支配が正当化されるという常識。

 妖怪の山に鬼がいた頃から続くその理を、回り道などなしに、強さの象徴であり山の支配者である天魔を文が負かすことによって否定する。

 そうして正当性を失って破綻した混沌の社会を、種族の壁を取り払い、はたてやにとりたちと協力して一から構築し直していこうという展望。

 それは今までの歴史そのものを蔑ろにし、天魔への畏怖や崇敬そのものを無理やり打ち砕くという、争いを嫌う文にしてはあまりに傲慢で暴力的なやり方だった。

 

「だが、お前は今までは、偽りとはいえ天魔に認められた大天狗という看板を掲げて妖怪の山を変える計画を立てていたはずだろう?」

「そうですね」

「それなら、河城にとりを助けられた今、ここまでの道のりは順調だったはずだ。 後はお前が当初思い描いていた通りに、ただ天魔を含めた強硬派の天狗を見捨てるだけでよかった。 そうすればお前が大天狗に任命されたという偽りに気付く者もいないし、その気になれば天魔に成り代わることだってできた。 なのに、どうしてお前はわざわざ天魔を超えるという困難な道を選んだ?」

 

 確かに勇儀は、既に文のことを十分に認めていた。

 だが、今の文が天魔以上であるかと聞かれると、まず首を縦に振ることはできない。

 天魔、即ち第六天魔王波旬と呼ばれしそれは、天狗という種において比類なき豪傑。

 天狗でありながらも鬼の四天王とすらも拮抗する強さを持っていた、他の天狗とは一線を画す、神に等しき存在である。

 それを超えるというのは、今この場で文が勇儀を正面から打ち負かすと言うのと大差はないのだ。

 

 ならば、異変で犠牲となった天魔や強硬派の天狗たちはこのまま見捨てた方がいい。

 その存在が、異変の後に文が進む道の邪魔になるからだ。

 確かに、お燐の力によって闇の力の感染者を助けられるだろうことは新たにわかった。

 闇に飲み込まれていった者の末路についても、詳細がまだわからなくとも、それを助けられる十分な可能性は文が彼岸から持ち帰った死者名簿が説明してくれる。

 だが、それでもその全てを救いはせずに、残存する者の中だけで文の意志に賛同してくれる仲間を集めて妖怪の山をまとめていく道の方が、文には都合がよく現実的であるはずなのだ。

 そんな残酷な提言を、勇儀は遠慮しない。

 それを、にとりも固唾を飲んで聞いていた。

 実際、にとりが選んだ道も、それだったからだ。

 実質的に山を支配している者たちが、天狗たちがいなくなれば、きっとみとりが帰ってきてくれるのだと思ってしまったから。

 

「……ええ。 確かに、そういう考え方もできるのかもしれませんね」

 

 そして、文自身もそれを否定はしなかった。

 これまでの天狗社会の在り方を変えるなら、今ほど良好な状況は無い。

 もし上層が帰ってこないまま異変を収束できれば、破邪計画の実行に失敗した河童たちを責める者もいない。

 上手くいけば、これから多くの妖怪たちが妖怪の山で自由に暮らしていくことができるだろう。

 その方が遥かに簡単な道であることは、文も十分に理解していた。

 

「でも、それじゃ意味がないんです」

「何?」

「たとえ表層的な変革をもたらしたとしても、その先に待っているのは結局は争いだけです。 私を認めない人、納得しない人は絶対にいます。 ……そして多分、この異変で仲間を奪われた憎しみを、永久に心に抱え続ける人も」

「そうだな」

 

 だが、それは長期的な目で見れば解決にはならない。

 理不尽に仲間を奪われた者が、それを見捨て、混乱に乗じて天魔や大天狗に成り代わった文を認めるはずがない。

 今の文にとって邪魔な存在であっても、それを必要としている者もいるのだ。

 そうして仲間たちを見捨てた文への、異変の原因を作ったであろうにとりへの新たな憎しみが生まれていく。

 憎しみが憎しみを生む、負の連鎖を止めることはできないのだ。

 

「都合の悪い相手をただ見捨てていっても、結局は何も解決しません。 弱いのが悪いだとか、支配する側が悪いだとか……少なくとも、みとりさんはそんな世界を望んではいなかったはずです」

「……」

 

 一時的とはいえ実際に闇の力に感染した文だからこそわかる、暗闇の底にあった壁のようなもの。

 その精神が完全に闇に溶けて消える前に、飲み込まれた者の死を拒絶しようとした力。

 自分の心が最後の一線を越えないよう守っていた何かが、確かにそこにあったことを文は知っていた。

 確証はなくとも、文はそれがみとりの力だったのだろうと思っていた。

 たとえ相手が憎むべき天狗であっても、それすらも全て守ろうとしたみとりの強き決意なのだと理解していた。

 だからこそそれを蔑ろにする訳にはいかないと思い、それが文の決断の最後の後押しとなったのだ。

 

「だから、私は誰を見捨てるつもりもありません。 この異変の犠牲者の全てを救うことができて初めて、胸を張ってこの山に挑む資格があると思ってます」

「……そうかい。 だがな、それはただの綺麗事だ。 お前はそんな理由で、わざわざこんな無謀な選択をするってのか?」

「無謀だから、何だっていうんですか」

「何?」

 

 勇儀に食って掛かる文の目に、恐れの色など全くない。、

 無謀で諦めるのなら、そもそもこの山の社会に立ち向かおうなどとは思わない。

 みとりを助けようなどという困難を選ぶこともなかった。

 今さらそんなことが、文が退く理由にはならないのだ。

 

「誰も泣かなくて済む道があるのなら、私はたとえどれだけ無謀と笑われようともその道を進みます」

 

 文は今日、知ってしまったから。

 萃香も勇儀も、本当は憎むべき敵などではなかった。

 心の中で蔑んでいたはたては、本当は誰よりも優しく気高かった。

 互いにわかり合おうとすれば、きっと誰もが共存していけるはずなのだから。

 だから、文はもう誰からも決して逃げない。

 誰を見捨てることも、誰を憎むこともない。

 

「鬼も天狗も河童も、誰だって関係ない。 誰もが互いに助け合って、ちょっとした日常の中で笑いあえるような……」

 

 萃香がいて、椛やはたてがいて、にとりがいて。

 天魔や大天狗たちも、暴力的な鬼たちも、嫌われ者も、そして悪と呼ばれる存在すらもがいつか隣で笑っていられるような、

 

「そんな世界が、私の目指す理想郷ですから」

 

 それを、文はまっすぐに言葉にした。

 誰も泣かない、傷つかない、皆に優しい世界。

 誰もが一度はその心に思い描きながらも、絵空事と笑ってしまうような戯言だった。

 だが、それはただの空想ではない。

 本気で成そうとする者がいる時、それは現実に変わるから。

 文の目に宿っているのは、妖怪の山を変えるなどという次元ではない、世界そのものを新しく作り変えて背負っていくという覚悟だった。

 

「……はっ。 そりゃ随分と馬鹿げた理想論だな。 お前がそんなロマンチストだとは思わなかったぞ」

「そうですね、私もそう思います。 でも…」

 

 文の目線は少しだけ後ろに移る。

 本当は、その心の中は不安でいっぱいだった。

 それでも、迷いは一切なかった。

 どれだけの困難を前にしようと、それでも文を支えると誓った、はたてがそこにいた。

 どんな無謀な理想でも、それでも文についていくと誓った、にとりがそこにいた。

 だから、文は迷わずその道を進める。

 信頼できる友がそこにいるから。

 

「もう、決めましたから。 誰に何と言われようと、それを曲げるつもりなんてありません」

「そうかい。 そりゃ、高尚な野望なこって」

 

 勇儀は、一つ笑い飛ばす。

 だが、それは文のことを笑ったのではない。

 軽々しく文の決意を聞いた自分が抱えるものの、薄っぺらさを。

 まるで、今の文と対等などと驕っていた自分を嘲るように、勇儀はその口をゆっくりと開く。

 

「……ま、せっかくだ。 そんな愉快な話を聞かせてくれた礼に、お前にも私の薄っぺらな野望を教えてやるよ」

「え?」

 

 勇儀の返答を前に、文は少し戸惑う。

 何故、今の状況で勇儀が突然それを口にしようとしたのかがわからなかったから。

 だが、不思議と遮る気にはならなかった。

 それは、文が初めて聞く勇儀の本音。

 鬼の中でも異端と言われ続けた目の前の鬼が何を考えているのか、今までずっとわからずいた。

 気になりながらも一度も聞けずにいたそれが突然目の前に現れた文は、身構えるように聞き入る。

 

「私はな…」

 

 だが、皆が一様にそれを聞こうと身構える眼差しの中に、一つだけ冷めた視線があった。

 その場の雰囲気の全てをぶち壊すように、

 

 

 ――失望、させんなよ。

 

 

 突如として、悍ましいほどに冷めきった空気が辺りに充満した。

 

「――――っ!!」

「何だっ!?」

 

 無数に溢れ出す怨霊と、世界を染め上げる漆黒の闇が天高く渦巻いていく。

 大地が裂けるように揺れ、まるで闇に染まったみとりを前にした時のような悪寒が辺りを覆う。

 そして、次の瞬間その視界に現れたのは……

 

「ぇ……」

「嘘っ!?」

 

 その姿を見てしまったにとりとはたては、恐怖のどん底に突き落とされる。

 勇儀と比べてなお一回り以上大きな体躯に相応しき大刀と、無条件に見る者をひれ伏させる程の貫禄を備えた大天狗の姿。

 それを遥か高みから見下ろしながら、存在するだけで天空を歪ませるほどの気迫を纏った天魔の姿。

 そして、周囲を取り囲むのは、暗闇に溶けるような黒に染まった天狗たちの姿。

 それも、恐らく数多くいる天狗の中でも特に高い実力を誇る精鋭たちなのだろう。

 それらが闇に染まって強大化し、僅かに光を取り戻したにとりの目を再び絶望に染めていく。

 

 だが、そんな絶望の中に、瞬時に思考を切り替えた2つの笑みがあった。

 勇儀だけではない、そこには……

 

「……はっ。 何を笑ってやがる、射命丸」

「ちょうど、探す手間が省けましたからね」

 

 文はそう言って天魔の姿をまっすぐその目に捉える。

 強がっている訳ではなく、むしろその表情は喜々としていた。

 なぜ、それが今ここにいるのかはわからない。

 それでも、異変の犠牲になったはずの天狗たちが確かに目の前にいる現実は、文にとって最も歓迎する事態だった。

 それは、椛や萃香たちがまだ生きていると期待するのに十分な出来事だったから。

 そして、お燐の力を使えば、それを闇から切り離して救うこともできると知っている。

 だから、文は強大な敵に囲まれた恐怖以上に、今の状況に希望を見出していた。

 

「くくっ、つくづく愉快な奴になったよなぁ、お前は」

「それは、どうも。 あと、一つ頼みがあります。 私が天魔の相手をするので、勇儀さんは他の天狗を…」

「いや、ダメだな」

「え?」

 

 だが、希望も、武者震いするほどの高鳴りも、全ての感情は突如として現れた何かに掻き消された。

 闇の中心から現れたあまりに静かな殺気が、有無を言わせず文の五感を支配する。

 多くの者は感じることすらできない、それでも一瞬で目の前の世界を塵に還すほどの力。

 それに反応すらできていないはたてたちに目も向けず、大天狗が一瞬で文の目の前に踏み込んでいた。

 

「っ――――!!」

 

 文は、誰よりも早くそれに反応した。

 単純な速度なら、反応速度も含めて、文はここにいる誰よりも速かった。

 故に、文にとってそれを避けるのはさして難しいことではなかったが、

 

 ――止めきれるか、私に。

 

 文はその気になれば避けられるはずのそれを前に逃げない。

 はたてとにとりがいるから。

 自分がそれを避けた途端、後ろにいる2人の首が一瞬で飛ぶことを理解しているから。

 天狗一と知られる現大天狗の剣技は、上位の鬼の首さえも一刀にて断ち切る達人の業。

 たとえ避けることができたとして、止めることなど誰一人として考えようとすらしない一撃必殺のはずだった。

 それでも、文はその常識に抗おうとする。

 目の前に迫る剣筋を逸らそうと、自らの全神経を集中させて……

 

 

  ――鬼符『怪力乱神』――

 

 

 だが、その常識はいとも簡単に打ち砕かれる。

 次の瞬間そこに満ち溢れたのは、大天狗の静かな殺気とは対照に、もはや狂気とすら呼べるほどに激しく勇儀から溢れだした殺気の塊。

 一歩遅れて反応したはずの勇儀は、それでも大天狗の前に立ちはだかるように素早く地を蹴る。

 そして、大天狗が振り下ろした一太刀に合わせるように正面から拳を叩き込んで、嘲るように笑った。 

 

「はっ。 素手じゃ刀を止められない、と?」

 

 辺りに何かが折れたような鈍い音が響くと同時に、誰もが目を疑った。

 それは、今の文の表情すらも驚愕に染める。

 

「そんな法則、誰が決めた?」

 

 刃の正面から大刀を圧し折りながらも衰えない拳撃は、そのまま大天狗の巨体を視界に映らぬほど一瞬で殴り飛ばしていた。

 文に襲いかかったのは、確かに今の天狗社会で第二の実力を誇る大天狗の、闇を纏った全力の一太刀。

 本来ならば誰もがひれ伏す間もなく切り捨てられるはずの圧倒的暴力が、一撃でゴミのように吹き飛ばされて山肌に磔にされる。

 そして、勇儀は振り返りすらせず、まるでそれが当然のことであるかのように言った。

 

「……ぶっちゃけるとな。 この程度で驚いてるような今のお前じゃ、まだ足りねえんだよ」

 

 その一瞬で、誰もが理解した。

 そこにいるのは、天狗たちが忘れかけていた『鬼』。

 その昔、口答えすることすらも許されなかった、圧倒的支配。

 天狗の記憶の底を埋め尽くすほどの恐怖は、闇に支配されていようともその本能に危険信号を発する。

 ただ一人、遥か高みからそれを見下ろす天魔を除いて。

 

「射命丸。 お前はまだ、天魔と闘るには早い。 今はまだその時じゃない。 だから、そいつら連れてさっさと行ってこい」

「え? で、ですが…」

「私はな、この異変のことはよくわからない。 ってよりも、正直言うともうどうでもいい。 だが、お前は妖怪の山の長として、この異変をどうにかする責任があるだろう?」

「待ってください! それなら、私は…」 

 

 その光景は、文には記憶に新しかった。

 仲間を逃がそうと、一人で残る鬼の傲慢。

 萃香のそれを許してしまった文には、その時の後悔が残っていた。

 もし、あの時自分も残っていれば、少しでも萃香の助けになれたかもしれない。

 もしかしたら、早苗と小町だけではない、帰りのあの舟には萃香も一緒に乗っていたかもしれない。

 そう思うと、文には自分がこの場から逃げることなど、とても考えられなかった。

 

 だが、勇儀は文から自分の身を案じられている視線を感じ取ったのか、少しだけ不快な目をして言う。

 

「……何だ、お前は私の力が信じられないのか? 私はお前の持つ可能性を本気で信じてるってのにな」

「え?」

 

 そう言う勇儀の表情には、照れも偽りもない。

 ただまっすぐに、自分の言葉で、

 

「いいか、射命丸。 私はお前たちを助けるためにここに残るんじゃない。 お前の強さを信じて、この異変を託すんだよ。 それにな―――」

 

 言いかけた勇儀に、天狗たちが一斉に飛びかかってくる。

 だが、勇儀はそれに目を向けることすらなかった。

 

「みんな伏せてっ!」

 

 ただ微かな笑みを浮かべながら、反射的にその声の通りに伏せるとともに、

 

「『ヘルズトカマク』!!」

 

 突如として文たちの周囲を覆った核熱の壁が爆散し、闇に染まった天狗たちをいとも簡単に焼き落としていった。

 天狗の集団は半数近くを失い、その一撃でほぼ勝負はついていた。

 それほどに、空と天狗たちの力の差は歴然だった。

 目を向けずともそれをわかっていた勇儀は、その出来事を前に眉一つ動かさずに言う。

 

「私も、一人じゃない。 偶然にもな、ここにいる馬鹿はお前一人じゃないんだよ」

 

 だが、その中にたった一つだけ、空の圧倒的な力をものともしないほどに強大な存在が君臨していた。

 勇儀は素早くそれに視線を向けて牽制しながらも、最後に文を決起させるように、

 

「だから、私たちの心配も、こいつらの救出なんていう些事への憂慮も要らない。 お前はただ、私が萃香以来初めて真に認めた「宿敵」として恥じないくらい、こんな異変なんて簡単に打ち破ってくりゃいいんだよ!」

 

 一方的にそう言い残し、目の前に迫った核熱を触れることすらなく無に還した天魔に向かって地を蹴った勇儀は、楽しげな笑みを浮かべて、

 

「……待たせたな天魔ぁ。 せめてお前は、少しくらい私を愉しませてくれんだろうなあ!!」

 

 振り抜かれた勇儀の拳は天魔の手の中で圧縮された暴風と正面からぶつかりあった。

 他の天狗とは一線を画す頂点に君臨する者の力は、勇儀の力とも互角に渡り合って辺りに無数の嵐を拡散させる。

 その風に煽られて天狗たちの飛行はままならず、にとりやはたても立っているのがやっとだった。

 それでも、その戦いの隙を冷静に窺っていた文に向かって、

 

「早く行きなって、お姉さん」

「え?」

「お姉さんなら、今の状況のヤバさくらいわかるでしょ。 ま、これで貸し2つってことにしといてくれればいいからさ」

 

 そう言って、お燐は文の後ろに目を向ける。

 そこにいるのは、恐怖に震えたにとりと、強がってにとりを支えてはいるものの、やっとのことで立っている状態のはたて。

 それを守りながら戦えるような状況ではないことくらい、わかっていた。

 そして何より、実際に目の前にすることで文は理解していた。

 天魔はまだ、文の手の届き得る相手ではない。

 しかも、今は闇の力を宿した得体の知れない存在になってすらいるのだ。

 

 だが、勇儀はいずれ文がその天魔にすらも届くほどの可能性を信じている。

 あの勇儀が、萃香と同等の宿敵と呼ぶほどに本気で文のことを認め、異変の全てを託したのだ。

 ならば、今は目の前の出来事に気を取られている時ではない。

 天魔を下すのは、その目的を達するのはこの異変が終わった後でいい。

 

「……行きましょう。 はたて、にとりさん」

「え?」

「私たちには、まだ他にできることもあるはずです」

 

 文の目は、既に勇儀たちに向いてはいなかった。

 萃香が一人で残った時とは違う。

 勇儀だけではない、空とお燐がいるのなら、心配はいらないことを知っていた。

 だから、文はまっすぐに友人たちに呼びかける。

 この異変を最速で解決して、これから妖怪の山を引っ張っていくのは自分なのだから。

 

「だから、今はとにかくこの場を離れましょう」

「は、はいっ!」

「行きましょう、文さん……っ!? 危ないっ!!」

 

 そこには既に、空の砲撃を凌いだ天狗たちが迫ってきていた。

 つまりは、それほどの手練れたちが。

 まだそれに反応できていないにとりに向かって、その刀が、鋭い爪が振り上げられる。

 にとりを庇うように、反射的にその前にはたてが立ちはだかる。

 だが、そんな敵の存在に気付きながらも、文は目も向けずに呟く。

 

「突風、『猿田彦の先導』」

 

 それとともに突如として文たちの周囲を取り囲むように吹き荒れた一筋の竜巻が、天狗の群れを弾き飛ばして一直線に遥か天への道を繋いでいた。

 その中心で呆然とする2人を横目に、文は何事もなかったかのような軽さで言う。

 

「……え?」

「じゃあ2人とも。 しっかり掴まってくださいよ」

「一体、何が…」

 

 そして、文は2人の手を掴んだまま、竜巻の中を音よりも遥かに速く飛び抜けた。

 それを追おうとする天狗たちは、竜巻に近づくことすらできずに弾き飛ばされていく。

 必死に文にしがみつくにとりとはたては、いとも簡単に落ちていく天狗たちのことを目を見開いて見ていた。

 実際に文の本気を間近で見たのは、初めてだったから。

 その辺の妖怪などとは比較にならない圧倒的な力は、闇に染まっていた天狗たちをも簡単に押しのけて前に進む。

 

 だが、それはにとりに少なからず畏怖の念を与えていた。

 結局は文も力のある側の、支配する側の存在なのだと。

 そんな思考が過ぎって微かに震えていたにとりに気付いたはたては、にとりの手をぎゅっと握って言う。

 

「大丈夫だよ」

「え?」

「文さんは、絶対に貴方を見捨てたりしないから」

 

 はたては満面の笑みで、にとりに言う。

 その声が微かに聞こえていたのか、文は少し気恥ずかしそうな顔をしていた。

 圧倒的な実力差のあるはずのはたてと文の間には、それでも力による支配など全くない。

 そして、にとり自身も感じていた。

 文は、にとりをはたてと同様の友人と思ってくれていることを。

 それは、今までになかった種族を超えた一つの信頼の形。

 自分の居場所がそこにあれば嬉しく思えるような、温かい雰囲気があった。

 

「……そっか」

 

 だからこそ、にとりは自分の中にある文たちへの信頼を再確認し、決断する。

 この2人になら、全てを話してもいいと。

 隠していた秘密を打ち明けても、それでもきっと助けてくれると信じられるから。

 

「だったら、一つだけ。 お願いしたいことがあります」

「え?」

「これから、博麗神社に向かってくれませんか」

「博麗神社に、ですか?」

 

 文は、一応はこの先のすべき案も考えてはいた。

 傷ついた河童たちを避難させていた場所まで行き、はたてにはその河童たちの手当てとその場の死守を頼み、そしてにとりにはそこで邪悪の持つ科学の力の感染をどうにかできないか対策を練ってもらう。

 そして、その間に文は守矢神社のチルノを助けるために早苗の協力に行くか、もしくは幽香を始めとした支柱と怪しき人物の居場所を突き止めに行くつもりだった。

 だが、そう思っていた文を説得するように、にとりは少しだけ躊躇いながらも、それでもはっきりと伝えた。

 

「……友達を、止めてほしいんです。 私や姉さん以上にこの異変に縛られた私の友達を、助けてほしいんです」

「にとりさん以上? それって、一体…」

「そうですね……どこから、説明しましょうか」

 

 最大の怨霊として大量の闇を抱え、支柱として存在した挙句に消滅してしまったみとりと、それを身に宿していたにとり。

 それ以上の犠牲者がこの異変に存在するというのは、文には考え辛かった。

 だが、にとりが冗談を言っているようには見えない。

 にとりは迷いなく、文たちを信じきったまっすぐな目をして言った。

 

「八雲様たちは確か、邪悪とその4人の支柱がこの異変の最大の敵なのだと言っていましたね」

「ええ。 ですから、邪悪の力の完全な復活を阻止するために、私はこれから支柱の一人であろうチルノさんを止めようと思って…」

「いえ、それはもう手遅れです。 邪悪の存在は、既に全ての要素を得て完全に復活を終えています」

「っ!! そう、ですか。 じゃあ、計画はもう…」

「破綻した。 そう考えていいでしょう」

 

 守矢神社での出来事を考えれば、邪悪の復活は文の予測の範囲内だった。

 だが、現状でそれを素直に受け止めることはあまりに厳しかった。

 文はもう支柱の持つあまりに大きすぎる力を、身を持って体感している。

 そして今や支柱以上の敵、即ち勇儀と空とお燐がいてなお正面からは敵わなかったみとり以上であろう邪悪の本体が、既に幻想郷に現れている。

 自分がそれを止めることなど、現状でできるはずがないことを文は十分に理解していた。

 ならば、それは文の向かうべき道ではない。

 今の文たちがすべきことは……

 

「だったら、だからこそ他の支柱を止めなきゃ、その邪悪はとても止められないんじゃないですか?」

「そうですね。 支柱を止めれば邪悪の力は弱まる……確かにそれも間違ってはいないと思います」

 

 にとりは、闇の支柱としての自分の存在意義をわかっていた。

 そして、邪悪の力を取り戻して目の前に現れたルーミアのことも覚えていた。

 その言葉に惑わされ、自分が完全に闇に墜ちてしまったことも。

 だが、それ以上に重要なことを、にとりは知っていた。

 

「ですが、それは八雲様たちの経験上の……前回に邪悪を封印した時の話ですよね」

「え?」

「八雲様は、500年前に閻魔様と協力して一度は邪悪を封印することに成功した。 そして、恐らく今回の計画はその時に起こったことを踏まえて立てられたものでしょう。 ですが、今回の異変がその時と同じと考えることはできないと思います」

「ど、どうしてですか?」

「今回の異変には、前回とは明らかに違う関与があるんですよ。 邪悪の力の執行代理人である雛による、闇の支柱の調整が」

「なっ……? 雛って、まさか鍵山雛さんのことですか!?」

 

 その『厄を溜め込む能力』の危険性故に、最優先に発見が求められていた雛の存在。

 だが、異変が始まってから、完全に幻想郷から消えていたとすら思われるほどに、誰一人としてそれを見つけられなかった。

 それにもかかわらずにとりの口から簡単に出てきたその名に、文は驚きを隠せない。

 

「はい。 まだいるかはわかりませんが、雛は博麗神社に向かったはずです。 今日雛に会った時、そこに最大の標的がいると言ってましたから」

「そんな、どうして今になって!? だって、紫さんたちがどれだけ探しても雛さんは見つけられなかったのに!」

「……見つかるはずが、なかったんですよ。 雛の存在は、この異変を円滑に進められる力を蓄えられるまで……いえ、全ての闇を生み出し司る『災厄の支柱』として完成するまで、ずっと隠されていたんですから」

「ちょ、ちょっと待ってください! 一体何ですか、災厄の支柱とは……いや、それよりも、ずっと隠されていたってことは…!!」

「ええ、そうです。 多分、八雲様たちも八坂様たちも、誰も気付いていなかったんでしょうね」

 

 混乱している間に次々に飛び込んでくる新たな情報は、文を追いこんでいく。

 藍の話では、邪悪の力を支える支柱はあくまで生物の感情に根差した4人だけのはずだった。

 藍がその存在を隠しているようにも見えなかった。

 つまり、災厄の支柱とは恐らく藍たちも知らない、前回の邪悪の出現時にはいなかったはずの新たなイレギュラー。

 みとりの話を聞いていた時に、僅かながらもその可能性があるとは思っていた。

 だが、そんなものが存在するなどと考えたくはなかった。

 それでも、現実は非情にも文に困難をつきつける。

 

「邪悪の側でもこちらの味方でもない。 この異変には雛を利用して人知れず闇の力を暴走させようとする、第三の勢力がいることに」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その視界は、光に覆われていた。

 誰もが新たに見えた未来に期待し、信じ、そこに大きな希望を見出していた。

 だが、そんな中で彼女だけが一人、冷めた心で佇んでいた。

 表向きの表情だけ微笑みながらも、目の前に広がるその光景に向かって心の中で吐き捨てる。

 

 ――くだらない。

 

 その耳に聞こえていたのは、都合のいい未来地図。

 現実を見ようとしているようでまるで見えていない、滑稽な戯言。

 文は迷いなき目で、自らの掲げる展望をまっすぐ言葉にする。

 勇儀は、それに真剣に耳を傾ける。

 そして、固唾を飲んで見守るにとりとはたての眼差しは、それが正しき道なのだと疑わない信頼を宿す。

 

 ――誰もが笑っていられる世界、か。

 

 彼女は、それを心の中で笑い飛ばした。

 何の犠牲も無く、ただ希望だけを追い求めた非現実的な世界。

 にとりを助ける前まで現実を見ていたはずの文が掲げた新たな展望は、今やひどく馬鹿げた話に聞こえていた。

 

 ――それはね、あんたへの狂気的なほどの信仰心に身を委ねて初めて信じられる理想論なんだよ。

 

 彼女は、希望などという幻想が大嫌いだった。

 そんなものは、自らの力で勝ち取れはしないから。

 いや、正しく言い直すのならば、世界が平等ではないことを。

 それを当然のように得られる者と、そこに決して手が届かない者がいることを、嫌というほどによく知っていたから。

 

 彼女は生まれた時のことなど覚えていない。

 ただ、気付いた時には誰からも忌避される個性に支配されていた。

 誰にも理解されず、次第に理解を得ようとすることすら辛くなっていく。

 どれだけ嫌悪の目を向けられようとも、染みついたその習性をどうしても捨てられないまま、ずっと孤独に逃げ続けてきた。

 その果てに、彼女は自分の運命を恨んだ。

 自分が神の気まぐれでそんな運命を背負わされた世界一不幸な存在なのだと思い込むことで、辛うじて自我を保ってきた。

 

 それでも、かつては心のどこかで信じていた頃もあった。

 こんな自分にも、いつか希望の光が差す日が来ると。

 そんな奇跡が起きる日が、きっと来るのだと。

 

 そして長い年月の先に、確かに彼女を救った奇跡的な出会いがあった。

 彼女が不幸ではないと教えてくれた人がいた。

 だが、彼女を救ったのは眩いばかりの希望の光ではい。

 それは、どす黒く染まった闇。

 彼女を遥かに超える憎悪と絶望でもって、彼女の抱える闇などあまりにちっぽけだと脳髄の奥深くまで刻んでくれる人がいてくれた。

 だから、彼女は今ここにいる。

 心の底に根差した闇を、恐怖と畏怖で残さず掻き消してくれた人がいたから。

 

 それ以来、彼女は深遠なる闇に畏敬の念を抱くと同時に、何一つ救ってくれはしなかった希望というものに完全に失望した。

 かつて信じたその幻想は、結局その恩恵を受けられる一部の者のことしか見ない。

 裏切りを幾度となく経験して、彼女はそれを学習する。

 彼女は理解する。

 希望などという戯言では、結局何も変えられない。

 ただ徒に期待させて、結局はその陰で泣いている者を更に苦しめるだけなのだと。

 そんな偽りの救いに、信じる価値など無いと。

 

 ――それでもあんたが、そんな甘い考えで本当に全てを救えると思ってるのなら、あんたの存在は希望の光なんかじゃない。

 

 そして、その瞳の奥に根差した憎しみの悲鳴で一人囁くように、

 

「ただの、危険因子だ」

 

 辺りに闇が充満した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その戦場は、あまりに静かだった。

 そこに残された天狗たちは、既にほとんどが地に落ちていた。

 空の核熱に焼かれて。

 文の風に弾き飛ばされて。

 今の文の力は、空と比べてなお遜色のないものだった。

 天狗という種族で文と一戦交えられる者など、もはや天魔や大天狗くらいのものだろう。

 いや、その潜在能力たるや、天狗という種族の壁を超えてなお――

 

「……はっ。 こりゃ、いつか本当にあいつに追いつかれる日も来るんかね」

 

 天魔と組み合いながらも、勇儀の目は既に遥か遠くに消えた文の方に向いていた。

 その心の奥にある闘争心を、ここにいない文に向けるように笑っていた。

 やがて、勇儀は周囲を一度ゆっくりと見回してから口を開く。

 

「で? お燐、そっちはどうだ」

「あ、もう終わりましたよ。 お空が頑張ってくれましてね」

「えっへへー。 勇儀さんはどう?」

 

 そこにあったのは笑顔で手を振る空と、空の力に巻き込まれないよう避難していたお燐の姿だけ。

 もう、辺りにいる天狗たちは誰一人として立ってはいなかった。

 残るは、ただ一人。

 

「ああ。 こっちも終わった」

 

 だが、それも既に動いてはいなかった。

 そう言って、勇儀は天魔の首を絞めていた手を解く。

 いとも簡単に落ちていった天魔に一瞬だけ失望の目を向けて、勇儀はもう興味を失っていた。

 

「ったく、とんだ期待外れだな。 この程度とは思ってなかったぞ」

「……まぁ、多分この闇の力ってのは抱える負の感情の大きさで増幅する力も変わる類のものですからね。 普段から何のストレスも無い奴らには、むしろ思考を奪う分マイナス効果なんじゃないですか?」

 

 あるいは、勇儀が既に鬼の四天王や天魔の強さの次元を超えてしまっていたからなのか。

 先の戦いで覚醒した勇儀の最後の一撃を目の当たりにしたお燐には、この程度の力では今の勇儀には決して届かないことを元々理解していた。

 

「だとしてもだ、これじゃ準備運動にすらなりゃしない。 こんなんなら…」

 

 その先を言おうとして、勇儀はやめる。

 ずっと探し続けていた相手を、やっと見つけたのだから。

 どこまでも高みを見据えたその先で対等に競い合う価値のある、本当の意味での宿敵を。

 そして、いつかそれが自分に追いつく日まで待つと、ついさっき決めたばかりなのだから。

 それでも、闇の力を得た天魔に少しは期待していた勇儀は、自らの内の衝動を止めることができない。

 

「ちっ。 せめて鬼神や閻魔の前哨戦くらいにゃなると思ってたんだがな」

「あー、勇儀さんも結局とんでもないこと考えてるじゃないですか」

 

 勇儀の視線は、既に次に向いていた。

 彼岸の閻魔、地獄の鬼神長、過去に敗れたそれすらも一つの通過点として捉えていた。

 実際には、その更に上さえも。

 だが、僅かに天を見上げていたように見える勇儀の視線は、実際は冗長めいた態度で話すお燐を横目で観察していた。

 行き場を失ったその手の疼き以上に、今の勇儀には気になることがあったからだ。

 

「まあいい。 で、お燐」

「何です?」

「あいつらを呼び寄せたその力が、お前がみとりと交わした契約の産物って訳か」

「……はい?」

「別にとぼけなくてもいい。 負けるとは思っちゃいないが、流石にこの程度と言われて納得できるほど私は天魔や大天狗を見下しちゃいねえよ。 それに、お前がここに残ったのも、私たちが全くの無傷ってのも不自然だ」

 

 たとえ思考が定まらなくとも、天魔に大天狗、そして上位の天狗たちに一度に囲まれたのならば、たとえ勇儀といえど容易にそれを切り抜けることなどできるはずがない。

 たとえ空とお燐がいたとしても、少なくとも自分が戦いの後に立ってなどいられない程度の死闘は、覚悟していたはずだった。

 だが、勇儀や空やおろか、お燐すらもこの戦いにおいてはほぼ無傷の状況。

 いや、それ以上に、お燐がわざわざ危険な場所に何事もなかったかのように身を置いていること自体が、ここが安全な場所であるための何かしらの介入をお燐がしたことを証明するのに十分だった。

 反論を許さぬほどまっすぐ勇儀にそう言われたお燐は、ため息をついてそれに答える。

 

「……はぁ。 ほんっとにそういうとこ目敏いですねぇ、勇儀さんは。 ただの脳筋ならもっと可愛げがあるのに」

「それに、お前のことだ。 何の目的も無しにみとりに身体を貸したりなんかしないだろ」

「そりゃそうですよ。 なんで得る物も無いのにあたいがそんなリスクを負わなきゃいけないんですか」

 

 お燐は状況を観察し、そこに高いリスクがあれば、得られるだろうリターンがそれに見合うものでなければ関わろうとはしない。

 たとえみとりが信じるに値する相手だろうと、怨霊への身体の貸与という自らの存在そのものが消えてしまいかねない危険を、一時の感情で負うはずがないのだ。

 お燐の思考にあったのは、闇の力を得たみとりの常軌を逸する力と、その後に出てきた途方もない異変の謎。

 先の戦いはみとりの力のおかげで奇跡的に助かっただけで、本来ならば全滅しているはずの無謀な賭けだった。

 それ故、お燐はこの異変へ立ち向かい続けるにあたり、異変に対抗しうる力を身に付け、新たな策を練る必要があった。

 それが、みとりに一時的に身体を貸す代わりに得た力。

 最大の怨霊としてその全てを身に宿していたみとりの魂を取り込み、自らの内で成仏させることで、闇を宿した怨霊を引き寄せる体質を引き継いだのだ。

 

 そして、みとりに時間を残すことで最後に行使するだろう能力について、お燐は確信しているものがあった。

 「にとりの罪の拒絶」、つまりはにとりの関与によって闇に飲まれた者の解放。

 にとりが自らの罪に思い悩むことのないように、みとりがその影響を最小限にしようとするだろうことはわかっていた。

 だが、既に闇の力を失っていたみとりに、それほどの事象を成し遂げることは恐らくできない。

 それでも、お燐はその願いに、自らが新たに得た体質と『怨霊を操る能力』を更に加えることで、この周辺で闇の底に沈んだ者を怨霊の欠片ごと呼び寄せ、その欠片分だけ使役することを可能としたのだ。

 それを闇から引き上げられるかは一つの賭けであったが、結果手にしたそれは一固体が持つにはあまりに過ぎた力。

 即ち、この妖怪の山で闇に飲まれた天狗たちを簡易的に操る力を、お燐は新たに身に付けたのだ。

 

「……だが、一つ解せない。 どうして、お前はあのタイミングでその力を使った?」

 

 上位の天狗、そして最上級の力の持ち主である天魔を呼び出せるその力は、うまく使えばたった一人で地底を支配することさえも可能な兵器。

 それほどの力を、あの状況でお燐が使うメリットなどない。

 しかも、その全てを勇儀と空で倒してしまった今の状況は、お燐がせっかく手にした切り札を無駄使いしたに等しいだろう。

 だが、そう思っていた勇儀に、お燐は意外な回答をした。

 

「ああ、その件ですか。 まぁ、天狗たちを負けさせるのは計算の内ですから、ここで使うこと自体に問題はないんですけど……あえて一つ言うとしたら、あの天狗のお姉さんを早く遠ざけたかったから、ですかね」

「天狗の…射命丸のことか? それは、どうして…」

「どうも信頼できない……いや、本音を言うと好きになれないんですよ」

「はあ?」

「最初は、少しくらい見どころもあると思ってたのにね。 だけど…」

 

 ――本当は何も見えちゃいないんだよ、あいつは。 反吐が出るくらいに。

 

 言いかけたお燐は、それを外に出さずに噛み殺す。

 ただ、文の行った方向を見るお燐の目は、明らかな敵意に溢れていた。

 

「一体、どうしたんだ?」

「でも、別に今はその辺のことはいいでしょう。 ただ、あたいはたとえこの手札を切ってでもあの理想主義者にこちら側の……この先の地底の事情に触れてほしくなかったってだけですから」

「地底の、事情?」

 

 勇儀にはお燐の言うことがわからなかった。

 この状況で、文に知られたくない地底の秘密があっただろうか。

 あるいは、この異変にこれ以上の地底の関与があっただろうか。

 だが、そんな勇儀の疑問の目を無視して、お燐は別の方向を向く。

 

「まぁ、焦らなくてもいずれ時が来れば説明しますよ。 ただ、今はちょっとやることがあるんで」

「何?」

「お燐、早くっ! ねえお燐ってばっ!!」

「はいはい、今行く今行く」

 

 お燐は困惑する勇儀を放っておいて、大声を出しながら手を振ってる空に駆け寄る。

 いつの間にか、空は倒れた天狗たちをお燐の手押し車に乗せて集めていた。

 一つの車に山のように積み上げられた天狗たちを目の前にし、お燐は真面目な表情から一転して喜色を浮かべていた。

 

「ねえお燐、大丈夫そう?」

「どうだろうねぇ、ちゃんと見てみないと」

「何をしてんだ?」

「まだ生きてる奴と死体を分けようと思いましてね。 それに怨霊の浸食が浅い奴なら、まだあたいの力で何とかできるかもしれませんから」

 

 文は、天魔を含めたこの異変の犠牲者を全て助けると言っていた。

 それを今の状況で助けられるのが実質自分だけだということを知っているお燐は、当然のようにそれを自分の役割として認識していた。

 文のことを悪く言いながらも、わざわざ新たに得た能力を使ってまで天狗たちを闇の中から引き上げ、その無事を確認していくお燐を見て、勇儀は苦笑する。

 

「……そうかい。 お前もそういうとこは随分と律儀だよな」

「ま、あのお姉さんにもついでに恩の一つでも売っとけば後で利用価値はあるかもしれませんし、それに死体は全部あたいの取り分ですからね~。 少しくらい役得を期待しても…おっ。 こいつはっ! こいつも! こいつも、こいつ、も……」

 

 空に集められた天狗たちを見たお燐は鼻歌交じりにその身体を調べていく。

 だが、すぐにその表情から笑みは消え、複雑なものに変わっていった。

 その出来事をお燐の本能では歓迎しているが、素直に受け止めることができない。

 ただ、目の前で起こっている現実を、呆然とした口調で漏らす。

 

「……何だい、これ」

「え? どうしたの、お燐?」

「こいつも、こいつも……いや、全員死んでるじゃないかっ!」

「えっ!?」

「何っ!?」

 

 空と勇儀が驚きの声を上げる。

 文の目的を知っていた勇儀は、天魔や大天狗を殺さない程度に加減したつもりだった。

 いや、たとえ自分の手元が狂ったとしても、空がこの人数を全て殺すなどとは考え辛かった。

 それ故に、勇儀はまたお燐の悪い癖が出たのだろうと思っていた。

 

「おいおい、お燐。 だから、そうやって何でもかんでも死体にするのはやめろとあれほど…」

「違いますって! 怨霊に乗っ取られて魂が消滅してるって訳でもなさそうなのに……一人残らず全部、何かの抜け殻みたいなんですよ、こいつら」

「待ってよ! だって私、そんなつもりじゃなかったのに」

「違う、多分お空や勇儀さんのせいじゃない。 多分、もっと前から既に…」

「はあ!? ちょっと待て、どういうことだ?」

「こいつらが今ここで死んだのなら少しくらい本人の魂の残照が残るはずなのに、それを全く感じられないんですよ。 まるで、ここに来る前から魂そのものが何かに切り離されてたみたいに!」

 

 お燐の焦り様は異常だった。

 普段のお燐なら目の前に天狗という強大な種族の死体が大量に転がっている今の状況は、むしろ喜ぶべき事態なのだ。

 にもかかわらず、今のお燐は、望まずして天狗たちを死なせてしまったかもしれないと焦っている空や勇儀よりも、明らかに狼狽していた。

 そして、お燐は普段なら宝の山にさえ見える死体の山に背を向けて言う。

 

「っ……行きましょう勇儀さん、お空。 これは、思ってたより拙い事態みたいです」

「何?」

「あたいは、今まで勘違いしてたみたいです。 あたいの力を使って怨霊から感染者を解放すれば、それで異変を止められるって楽観的に思ってました。 でも、そうじゃなかった。 ただあの姉妹が特殊だっただけなんだ」

 

 にとりが支柱として存在していたからなのか、それともみとりが憑りついていたからなのか、理由はわからない。

 ただ、一つだけお燐にはわかることがあった。

 いつも怨霊に触れているお燐だからこそ気付く法則、その残酷な現実に。

 

「多分、怨霊の影響なんてものはほとんど関係ない。 闇の力に飲み込まれたら時間とともに魂そのものが食われまうんだ。 そうなったら、たとえどんな奴でも後にはただの抜け殻しか残らない」

「待て、じゃあ何だ? 闇に飲まれた奴らは…」

「急がないと、助からないでしょうね。 ……あの天狗のお姉さんには悪いけど、多分ほとんどは手遅れだよ」

 

 怨霊はみとりが司っていたが故に目立つ動きをしたものの、ほとんどの感染者はそもそも怨霊に憑りつかれてなどおらず、それを媒介として、あるいは直接闇の力に感染しただけなのである。

 現状で考えるべき問題は、あくまで邪悪の持つ闇の力という得体の知れない未知の力なのだ。

 だから紫や神奈子たちは感染者を助けるのではなく、異変を解決できるまで時間稼ぎをするために、闇から遠ざけて魂が食われないように封印し、あるいはこれ以上感染が広がらないように抹消していた。

 怨霊などという広く知られているものから解放する程度のことで解決できる問題なら、とっくに対応している。

 お燐のちょっとした思いつきが、数百年もその対策を練り続けた紫の計画を超えることなどできるはずがなかったのだ。

 

 それを聞いた勇儀は、落胆の色を隠せない。

 文は萃香や椛たちが既に闇に飲まれているだろうと言っていた。

 そして、天魔たちが蘇った姿を見て文が浮かべた笑みが、あまりに強く勇儀の中に残っていた。

 文は今、その時の希望を胸に前を向いているのだろう。

 それがもう助からないという事実を知らないまま。

 文にこんな絶望を見せずに済んだと安堵する一方で、勇儀にはやるせない思いがあった。

 だが、そんな勇儀の沈んだ気持ちも天狗たちの現状も、そんなものは知ったことではないと言わんばかりに、お燐が急かして言う。

 

「だから、急がないと。 早く行かないと、手遅れになっちまう!」

「だが、行くってったって、どこに…」

「さとり様を、止めに行きます」

「はあ?」

 

 勇儀には、お燐が何をしたいのかさっぱりわからなかった。

 なぜ今さらになって、さとりを止めようと思ったのか。

 そして、なぜお燐が突然ここまで取り乱すほどに焦り始めたのか。

 

「どうして、今になってさとりを?」

「……まぁ、この際もう隠しません。 落ち着いて聞いてください」

 

 お燐は一つ深呼吸し、告げる。

 

「さとり様は既に怨霊に……いえ、恐らくは闇の力に感染しています。 しかも、魔理沙が地底に来るよりもずっと前に」

「なっ……!?」

「そ、そんなっ!?」

「馬鹿な! どうしてさとりが…」

「話、聞いてなかったんですか勇儀さん。 支柱ってのは現状で最も強い負の感情を持つ者に依拠する存在だって」

「いや、聞いていたが…」

「だったら、別に驚くことでもないでしょう? 地上人だって真っ先に思い浮かべますよ、最もこの世界を恨んでるだろう人が、最も心に闇を抱えた人が誰かと聞いたら」

 

 その昔、全てに嫌われ敵対されて地上を追われ、地底に辿り着いてなお誰にも受け入れられなかったさとり。

 にとりやみとりのように少しでも信じられる希望があった訳でもなく、その人生には敵しかいなかった。

 そして、何よりもその心を追い詰めたのはその能力だった。

 表向きに敵対されるだけではない、本来ならば直接は見えてこないはずの闇までもが全て自らに襲い掛かってくるのだ。

 最近になってお燐やお空のようなペットに恵まれ、勇儀という異端児に会えたが故の今があるのかもしれない。

 それでも、その記憶の底にある憎悪や絶望は、簡単に想像できるようなものではないはずだった。

 

「じゃあ、まさかさとりは…」

「ええ。 恐らくさとり様は憎悪か絶望の支柱。 それも、他とは比較にならない闇を抱えた、邪悪の全ての力の根源になってるんだと思います」

「……全ての力の根源だと? ちょっと待てよ、支柱ってのは4人がそれぞれ別の負の感情を司ってその源になってるんじゃないのか?」

 

 嘆き、怒り、憎悪、絶望、その4つの感情をそれぞれ最も強く持つ者が闇の支柱として存在し、邪悪の力の根源となる。

 それが文から聞いていた支柱の存在意義であり、一人がその全てを担っているのなら、4人も存在する意味が無くなってしまうのだ。

 

「まぁ、それについてはあたいの勝手な推測なので確証はありませんけど……多分、間違ってはない気がするんですよね」

「はあ? 一体、どういうことだ」

「うーん、それじゃあ勇儀さんにもわかるように少し言い方を変えましょうか。 そもそも、支柱の力の増幅量が不自然だと……いや、支柱が抱える負の感情があまりにヌル過ぎると思いませんか?」

「何?」

「世界を滅ぼすほどの闇を抱えた支柱、そう聞いた時は正直どれほどの奴かと思ったんですがね。 でも、あのお姉さんが言ってた支柱ってのは、たかが姉妹で離れ離れになった河童だとか、目の前で友人を殺された妖精だとか、何があったのかも知れない花の妖怪だとか、その程度のもんでしょう?」

「その程度って……」

 

 計り知れないほどの苦悩の中を生きてきたみとりを知っている勇儀には、それをその程度と言われることに少し不快感はあった。

 だが、確かにみとりの抱える闇も、世界単位の規模からみればあまりに小さな嘆きだったのだろうこともわかる。

 むしろ、この世界はそんな残酷さで満ち溢れているのだ。

 その内の一人に過ぎないみとりやチルノや幽香の感情が勇儀さえも超えるほどの力をもたらし、邪悪の力を根幹から支えているということ自体がお燐には違和感があった。

 

「そいつらは多分、そもそも邪悪の力の根源になっているんじゃなくて、実は別の役割を果たすために恣意的に選ばれて、邪悪の力を分け与えられた何かだったんだとあたいは思ってます。 怨霊の核となる河城みとりや幻想郷一の科学的知識の持ち主である河城にとりに、邪悪の容れ物の傍にずっといた妖精。 それだけ見ても、抱える闇の大きさだけを加味して集められたにしては、あまりに都合がよすぎるんですよ」

「じゃあ、支柱ってのはその邪悪とやらの力の源になってるって訳じゃないのか?」

「いいえ、そういう訳でもないと思います。 多分、他の支柱がいなくても足りたから、結果的に都合のいい奴を支柱に選ぶことができたんでしょう。 その全てを網羅できるほど巨大な闇を抱えた支柱がいたから」

「……それが、さとりってことか?」

「ええ、恐らくは」

「じゃあ、さとりは最初からその邪悪とやらに支配されてて…」

「ま、でもさとり様の精神はそんなものに支配されるほどヤワじゃないからね。 精神的な面は心配いらないと思うんですけど……」

 

 地底の異変の後、お燐はさとりの異変に気付いてはいた。

 どうしてそうなったのかはわからなくとも、怨霊を操る力を持つお燐には、さとりの中に大量の怨霊が巣食っていることがすぐにわかったのだ。

 だが、妖怪ならば即ち死を意味するはずの異常事態を前に、お燐は特段焦りはしなかった。

 さとりの精神が怨霊の侵食などに屈することが、あり得ないと知っているから。

 この世には、宿主から逆流する負の感情に耐えられずに、むしろ憑りついた怨霊の方が消滅してしまうほどの想像すらもできない闇を平然と心に抱えた人がいることを知っているから。

 

「むしろさとり様は侵食する闇の力を逆に利用して、始めから邪悪の情報を得てたんだと思います」

「はあ!? じゃあ、さとりは…」

「ええ。 さとり様は魔理沙たちが来ようが来まいが、いずれ地上に出るための……闇の力の根源に接触するための準備をしてたんでしょう」

 

 地底を出る際、さとりは何のためらいもなく一人で行った。

 正確にはこいしと2人であるのだが、こいしも異変について知っている訳でもない。

 さとりには、少なくともあの場面では怨霊から多くの情報を収集することも、あるいはアリスとともに地上に出ることもできたはずなのだ。

 にもかかわらず、さとりは真っ先に地上へと向かった。

 しかも、実際には邪悪の力を強く受けているだろうレミリアのもとへと一直線に。

 それは、あらかじめ十分な情報を得ていない限りは、さとりのように常に策謀を巡らせて動く者にはあり得ない行動なのだ。

 

「どうして、さとりはそんなことを……」

「さあ、あの人は何でも自分一人で背負いこもうとしますからねぇ、そんなの誰にもわかりませんよ」

 

 だからこそ、お燐はさとりが一人で深きに入り込み過ぎない内に異変を解決するか、あるいは既に異変の核を知っているだろうさとりの手助けをするために、空を連れて地上に出た。

 ここにたどり着いたのは、さとりの匂いを追っている途中で勇儀がみとりにやられている場面に出くわしてしまい、空がそれを放っておかず、結果的に勇儀に合流することになってしまったからに過ぎないのだ。

 

「でも、今はもうさとり様を放っておける段階じゃなくなった。 アレの浸食が本当に魂そのものを食らっちまうような類のものなら、手遅れになる前にさとり様を助けないと…!!」

 

 だが、それはあくまでさとりが闇の浸食を受けているとしても、最終的には助けられるだろう前提があったからに過ぎない。

 たとえ勇儀に義理立てしようとも、お燐の中ではさとりや空が全ての最優先事項なのだ。

 さとりの命が危ないのならば、お燐は他の全てを平気で見捨てるほどに冷徹に、自らの命すらも蔑ろにできる。

 もし仮に今の段階でお燐が勇儀の危機に出くわしたのなら、恐らくお燐はそれを素通りしてさとりのもとへ向かっていただろう。

 

「なるほどね。 だから、さとりを闇の力から一刻も早く解放するために私にも手伝えと。 そういうことか?」

「不満ですか? 多分さとり様が向かったのは、河城みとり以上の力を持っているだろう、異変の黒幕の居場所だと思います。 死にたがりの勇儀さんには、うってつけの戦場じゃないですかね」

 

 お燐は、もう勇儀の命を心配したりはしない。

 今の勇儀の力を十分なほどに理解していた上、それを心配するような精神的余裕がないからだ。

 

「……いや、不満なんざ無いさ」

「でしょうね、じゃあ急ぎましょう。 行くよ、お空」

「あ、待ってよお燐!」

 

 お燐は一方的にそう言って走り出す。

 たとえその先にあるのが疑うことなき死地であろうとも、今のお燐が躊躇うことはない。

 それに続くように、空も迷わず飛び立つ。

 そして、勇儀は少しだけそこから距離を空けて追っていった。

 

 3人は無言のまま前に進む。

 冷静に次の手を、計画を練りながらも一心不乱に駆け抜けるお燐。

 不安な表情を浮かべながらも、お燐を信じてついて行く空。

 だが、それを追いかける勇儀は、さっきのお燐の言葉を思い出して一人微かに笑っていた。

 

 ――死にたがり、か。

 

 勇儀は今までの自分のふがいなさを思い起こす。

 死に場所を求め続けてきたと言わんばかりの、言動の数々。

 鬼として生まれつき、ずっとそれを体現してきたとさえ思われ続けてきた勇儀の信念。

 実際は、そうではないのに。

 あの時文に言い損なった、勇儀の生き様は……

 

 ――私は本当は、誰よりも生というものに執着している、ちっぽけな鬼なのにな。

 

 崇高な目的も、目を見張るほどの野望も、何もない。

 ただ、常識も法則も、自分を縛り付けるあらゆるしがらみに囚われずに、『星熊勇儀』という一人の鬼として全力で生きていたいだけだった。

 強敵との純粋な戦いでもいい。

 鬼退治に来る人間との、矜持の交わし合いでもいい。

 自分と互角に高めあう宿敵との、心躍る競争でもいい。

 勇儀はただ、本気で自分がこの瞬間を生きていると実感できる、そんな居場所が欲しいだけだった。

 

 ――だから、私はそれを叶えてくれる奴にこの命を捧げても惜しくないだけなんだ。

 

 手加減してなお相手にならずに散っていく有象無象とは違う。

 全力の自分を負かしたかつての鬼神や閻魔やみとりになら、その命を討ち取られてもよかった。

 卑怯な裏切りを繰り返して勇儀を陥れ、偽りの鬼退治を成そうとした昔の人間とは違う。

 その貧弱な種族にありながらも、たった一人で正面から自分に立ち向かった魔理沙になら、その命を差し出してもいい。

 生きる意味さえも見出せないまま、目の前の出来事から逃げ続けたかつての文とは違う。

 遥かに高みを見据えてまっすぐ前に進む今の文と共になら、その命を燃やし尽くしてもいい。

 

 そして、その中の誰よりも命を懸けるに相応しかった、勇儀がずっと憧れ続けた相手。

 自らの種族への誇りと、暴虐の限りを尽くしてなお決して迷わぬ強さを併せ持った、四天王の中でも一人別格だった『鬼』。

 伊吹萃香という宿敵を超えるためになら、その命を使い果たしてもいいと。

 そう、思っていたはずだった。

 

 だが、萃香は死んだ。

 生命としての死ではない。

 たった一度の敗北で、萃香は鬼として終わった。

 恐怖に支配され、それまでの猛々しさなど微塵も感じさせないほど弱弱しいその姿は、勇儀に失望さえ覚えさせた。

 

 それでも、さとりが救ってくれたから。

 誰とまともに目を合わせることも、拳を構えることすらできなくなった萃香に、新たな道を与えてくれた。

 その記憶の奥深くに根差していた心的外傷を散らし、その心を僅かに蘇らせてくれた。

 

  ――こんなのがお前の全力だってのなら、私はお前なんかが萃香と同じ鬼の四天王を名乗ることは絶対に許さない!

 

 霊夢や魔理沙が知る今の萃香に、たとえ昔の面影などなくとも。

 それでも、かつては自分と半生を共に競い合った宿敵に、新たに誇りある生を与えてくれた。

 さとりには、そんな借りがあるから――

 

「……しょうがねえよなあ」

 

 勇儀は地を蹴りながら呟いた。

 その視線の遥か先を見据えながら、

 

「だから、今回はお前のためにこの命を捧げてやるよ、さとり」

 

 もう一度、不敵に笑った。

 だが、勇儀は本当はそんな貸し借りに囚われている訳ではない。

 そう言う勇儀の目には結局、まだ見ぬ強敵との命を燃やし尽くすほどの死闘への、子供のような期待の炎ばかりが宿っていた。

 

 

 

 





 本当は、ここからは文からにとりへの口調をはたてや椛と同じ呼び捨てタメ口にする予定だったんですが、いきなりにとりにそういう口調を使い始める文をどうしても脳内再生できなかったため、やむなく今まで通りに。
 やっぱり自分の中で固まったイメージは簡単には払拭できないなーと思いました。

 次回から新章で、この辺から徐々に物語も山場に入っていきます。


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