東方理想郷 ~ Unknowable Games. 作:まこと13
微かに差し込む月光の中を昇るかのように、一筋の流れ星が夜空に舞う。
それを追うように咲き乱れる光の花びらが、遮られることなく散っては大地に溶け込む。
勢いを失った流星と色彩を失った花の鬼ごっこは、終春の夜桜のように儚く時を刻んでいく。
やがて桜吹雪が風に消えた空には、満月を僅かに欠かすように一つの影だけが浮かんでいた。
「いくぜ。 スペルカード宣言、魔空『アステロイドベルト』」
そして束の間の小休止の中、今度は大地に咲く花を覆うように小さな流星群が無秩序に散らばっていった。
魔理沙と幽香のスペルカード戦は、既に終盤に差し掛かっていた。
新たな弾幕を放とうとする魔理沙の身体には、大技を支えるほどの余力はもうない。
たとえ撃てようとも、その反動に耐えられず狙いを定めることすらできない。
それ故、魔理沙が構えたスペルカードは個々の力は微小ながらも数で圧倒する弾幕だった。
だが、重なり合った星々が描くのは、さっきまでの戦いのように計算され尽くした弾道ではない。
戦略性など全くなく、数撃ちゃ当たると言わんばかりに放たれた弾幕である。
既に魔理沙の身体が限界を超えているこの状況では、無駄に魔力を消費するが故に愚策にも思えるその宣言。
それでも、その弾幕を放つ魔理沙の表情は満足気だった。
それが魔理沙が自身の弾幕に「望む」あり方だったからだ。
「弾幕はパワー」という合言葉のもとに、どんな相手でもまっすぐに威力と数で圧倒する。
それが、魔理沙の弾幕ごっこの流儀だった。
それは本来ならば幽香のように魔力量で他を圧倒できる者が放つべき弾幕であり、魔力量の劣る人間、ましてや頭脳戦を得意とする魔理沙には向かないはずの戦略である。
だが、魔理沙はそれでもスペルカード戦においてその流儀を捨てようとはしなかった。
理由は簡単。 その方が好きだから、それだけだった。
たとえ緻密に計算された勝負を得意としようとも、魔理沙は計算上で自分の弾幕を運用することを好みはしない。
これは楽しむための、弾幕の「ごっこ遊び」なのだから。
――だったら、楽しまなきゃ損だろ?
そういう意味では、魔理沙は幻想郷で誰よりもスペルカードルールを楽しんでいる一人と言っていいだろう。
その弾幕は、霊夢のように「弾幕の美しさ」で相手を魅了するものとは違う。
「楽しむための弾幕」。 故に魔理沙と勝負した者は、弾幕の美しさではなく、何よりも楽しめる勝負そのものに魅了される。
それは、幽香さえも例外ではなかった。
「……はっ、随分と鈍ってきたじゃない! もう限界かしら?」
「ははっ、何バカなこと言ってやがる。 まだまだこれからだっ!!」
――ああ。 そうでなくちゃ、面白くないわ!!
迫りくる弾幕を避ける幽香の口からは、少しだけ笑みが零れていた。
余裕の笑みでも挑発の笑みでもない。
それは幽香が久しく忘れていた、楽しげな笑顔だった。
まだ生まれたばかりの頃、生き抜くためにただがむしゃらに戦っていた。
生死にかかわる状況ながらも、格上の相手に自らの全てを出し切り、戦いを経て新しい何かを得ていく喜びを感じていた。
だが、幽香はあまりに大きな力と天賦の才を持って生まれついてしまったが故に、次第にその感覚を失っていった。
自分の強さに気付いた頃、かつての強敵を前にしても、まるで虫を振り払うかのように蹂躙するようになった。
大切なものに気付いた頃、それを守るためにあらゆる者を望まずしてただ痛めつけるだけになった。
そして自分の弱さに気付いた頃、もう結果にしか興味を向けなくなった。
幽香は、戦いに本気で楽しみを感じることなど、既に忘れていたのだ。
だが、今は自身の限界の中で、魔理沙との戦いを心から楽しんでいた。
生まれて間もない頃のように、相手を殺すためではなく自らが生き抜くために手段を尽くしていく。
その頃の感覚を思い出すかのように、幽香は無邪気な心でもって戦いの過程に喜びすら感じていた。
――動きなさいよ。 もっと、もっと疾く――
だが、たとえ抑えきれないほどに感情が高ぶっていようとも、もうその身体は思うように動いてはくれなかった。
半身を潰された傷口を妖怪としての治癒力でふさいでいたものの、それは吸血鬼のようにすぐに再生はしない。
灼熱に焼かれるような痛みが奥底から這い上がってくる感覚に、絶えず意識を持って行かれそうになる。
もう休めばいい。
死んだ方がまだ楽だ。
だが、そんな思考はそれよりも遥かに大きな感情によって押しつぶされていく。
それは、幽香が初めて感じる貪欲なほどの勝利への渇望だった。
今までのように何かを守るために「負けられない」のではない。
ただ、最高に楽しい勝負だからこそ「勝ちたい」。 ひたすらに弾幕を避け続ける幽香の心を埋めつくす思いはたった一つだった。
当たったかのように見えた弾幕の数々を、幽香は掠りながらもギリギリのところで躱していく。
貧弱な弾幕をグレイズするだけで激痛の走る身体を気遣うことなく、幽香はひたすら地を飛び進む。
前へ。 ただ、前へ。
弾幕から逃げるのではない、その弾幕を自らの手中に収めるように「攻略」していく。
そして、やがて行く手を阻む流星群が空に溶けて消えた地で、幽香はゆっくりと口を開いた。
「……スペルカード、ブレイクね」
「ちっ!」
幽香は残された両の足と痛々しいほどに割けた左手を駆使して跳び回り、魔理沙の弾幕を避けきった。
これまでお互いに一枚も取得できなかったスペルカードを、遂に一枚打ち破ったのだ。
「さて、次は私の番ね。 スペルカード宣言、幻想『花鳥風月、嘯風弄月』!!」
闇の力を失って自分の魔力がほぼ空となっているはずの幽香は、残された僅かな生命エネルギーすらも魔力に変換して弾幕を放つ。
それに伴って幽香の身体を蝕んでくる激痛と苦しみは、麻薬のように脳内から分泌される高鳴りが掻き消していく。
幽香が放つのは、まるで花火の中心にいるかのように空間から広がり咲いていく弾幕のつもりだった。
だが、今幽香が放った弾幕の9割以上は不発の駄作だった。
命の灯を削ってまで生まれた弾幕が貧弱で醜いものだと、放った幽香自身が一番よくわかっていた。
それでも、その弾幕は今宵の空を照らすには十分な花を咲かせていた。
「っと、危なっ!!」
魔理沙は躓いたように頭を下げ、目前に迫った花びらの舞いを避けた。
ただの棒きれのような枝を片手に、大地を跳び回って幽香の弾幕を避け続ける。
魔理沙はもう空を飛べないという訳ではないが、箒ではなくただの枝きれで飛んでいる現状ではうまく軌道をコントロールできず、無暗に飛べばかえって被弾しかねない。
それ故に、弾幕が込み合ってきた時、即ち勝負所以外は最小限しか飛ばないようにしているのだ。
だが、飛ぶことが前提であるスペルカードルールにおいて、それはあまりにハイリスクだった。
「くっ――――恋符、『マスタースパーク』!!」
魔理沙を囲うように不可避の弾幕が迫った瞬間、魔理沙は残された魔力を振り絞って微弱な魔法波を放った。
ヒビの入った魔理沙の骨を砕くように振動をもたらしたその光は、とても幽香の弾幕を打ち消せるほどの威力を秘めてはいなかったが、それでも魔理沙の目前に迫った弾幕は魔法波に掻き消されていく。
だが、自らの放った弾幕を魔理沙に消し去られたはずの幽香は、なぜか満足気な笑みを浮かべていた。
相手のスペルカード宣言中に自分が宣言するのは反則なのではないかとも思えるが、実はそうではない。
今魔理沙が使ったのは、『ボム』というスペルカード戦の特殊ルールなのである。
それを使えば、相手の宣言中に自身のスペルカードを使い、一定時間に限り弾幕を掻き消して無効化することが許される。
そして、たとえ完全に掻き消すことができなかったとしても、ボムの使用中は弾幕に当たっても被弾扱いにはならないというルールだ。
その使用可能回数は個人の申告によるが、スペルカード一枚あたり一回というのが一般的である。
普通に考えればボムの回数が多い方が戦いにおいて有利ではあるが、それはあくまで緊急回避のための手段に過ぎない。
スペルカード戦のルールは、相手の放つ弾幕に当たったら負けというものである。
たとえまだ動けても当たれば負けとなるこのルールは、勝負をする者同士のプライドの上に成り立っていることは言うまでもない。
そして、ボムというのは自分のプライドの高さを申告する特殊ルールなのである。
相手がスペルカードを使用している間に一度でもボムを使えば、負けではないがそのスペルカードを取得することはできない。
つまり、相手の技を完全に攻略したことにはならないのだ。
それを使ってしまえばたとえ勝っても完全な勝利ではないが故に、プライドの高い者の中には絶体絶命の状況でもボムを使わなかったり、申告回数をそもそも0回にする者もいる。
そして、魔理沙と幽香のボムの申告回数は共にスペル一つにつき一回という一般的な回数だった。
魔理沙は幽香の1枚目、2枚目のスペルカードで1回ずつ、そして今も1回、全てのスペルで使っていた。
つまり魔理沙は、この弾幕を消すことなく避け続けなければならない。
そして、たとえ避けきったとしても、幽香のスペルカードを取得しての完全勝利はできないのだ。
だが、そんなことは今の魔理沙にはどうでもよかった。
この相手に、完全勝利などと言ってはいられない。
ただ、どんな形であっても自分が勝つという目的のために、魔理沙は普段の冷静さすら失っていた。
そして、それは幽香も同様だった。
憎んでいる訳でも敵対関係にある訳でもない。
それでも、心の底から勝ちたいと思える相手との勝負に、他の全てを忘れて没頭していた。
2人はただ本能のままにその弾幕を放出し、ただがむしゃらに動き回って弾幕を避け続ける。
脳内麻薬によって痛みを忘れた身体に鞭打って。
魔力を使って無理矢理動かしている、既に細胞が壊死しかけている両手足の筋肉を蔑ろにして。
「――――っ!!」
そして、先に限界が来てしまったのは幽香だった。
弾幕を放った反動を支え続けてきたその足が、遂に体重を支え切れなくなって倒れ込んでしまった。
「まだよっ!!」
それでも、そのスペルはまだ終わらない。
不意に幽香が倒れ込んだことで発生した不規則な弾道は、ボムを放って消耗してしまった魔理沙の逃げ道を完全に塞ごうとしていた。
「だろうなっ!!」
だが、魔理沙も幽香がそれで終わるなどとは思っていなかった。
既に飛行もかなわぬほどボロボロの枝に最後の魔力を注いで加速し、退かずにあえて出始めに突っ込んで目の前の弾幕を避けようとする。
幽香も再び立ち上がることすらできないその身体で残された腕を振り上げ、魔理沙を追撃する最後の弾幕を飛ばす。
「はあああああああああッ!!」
「っおおおおおおおおおッ!!」
普段の花の妖怪からは決して聞くことのできない雄叫びは、それを引き出した人間の叫びとぶつかり合って辺りに響き渡る。
最後の瞬間まで、両者共に自らの勝利を全く諦めてなどいなかった。
その目の輝きはただ気高く美しく、ただ目の前の相手だけを強く見据えて……
……そして、満月を掻き消すかのように強く弾けた光が、ただ静かにその終幕を告げた。
東方理想郷 ~ Unknowable Games.
第19話 : 偽り
その静寂は、さっきまで気にならなかった微かな物音をも際立たせていた。
途切れることなく起こる息切れの音。
速く、大きく高鳴る鼓動の音。
目の前の相手が静かに地面に着地する音。
そして、地にひれ伏した幽香の前に降り立った魔理沙は、おもむろに大の字に倒れ込んで言った。
「あー、くそっ! 私の負けか」
魔理沙の口から、その言葉は自然と出てきた。
だが、絶対に勝ちたかったはずの勝負の敗北宣言をした魔理沙の心は、不思議なほどに軽かった。
悔しくない訳ではない。
ただ、目の前の妖怪とこれだけの勝負を作り上げられた自分を誇らしく思うかのように、その気持ちは晴れやかだった。
「……随分と、あっさりとしてるのね」
「悔しいけど負けは負けだ。 それをちゃんと認められねーと、スペルカードルールの意味がないからな」
最後に幽香が放った弾幕は、強く光って魔理沙を包み込んだ。
それは後ろに下がって冷静に対処すれば避けきれない弾幕ではなかったが、あえて魔理沙は真っ向から立ち向かった。
幽香は魔理沙の弾幕に真正面から突っ込んでスペルカードを取得したのだから。
ならば自分も、幽香の渾身の弾幕から逃げたくないと思ってしまったのだ。
その結果、魔理沙は避けきれずに被弾してしまったのである。
「なら、これで一勝一敗かしらね」
「ああ、そうだな。 今のところ引き分けって訳だ」
「じゃあ、ここで決着付ける?」
幽香は余裕のありそうな声で言うが、その腕に力を込めても痙攣を起こしたように震えるばかりで、うまく立つことができなかった。
魔理沙は少し苦笑して立ち上がり、幽香に手を差し伸べながら言う。
「いや、今日はやめとこーぜ。 お前ももう動けるような状態じゃないだろ?」
そう言う魔理沙自身も既に膝が笑っていたが、せめてもう少しだけでも強がって見せようとしていた。
だが、それを見た幽香は、少しだけ余裕の表情を浮かべながら鼻を鳴らして言う。
「……あら。 それは私も随分と舐められたものね」
「え?」
幽香はその手を微かに上げたが、魔理沙の手をとらなかった。
ただ、幽香がパチンと指を鳴らすとともに大地が揺れるように割れて、その隙間から数多の木や花が湧いてきた。
「え……っ!? な、何だよこれ!?」
「落ち着きなさい。 私の能力よ」
そう言って、幽香は伸びてくる木や花に身を任せて目を閉じた。
その表情は闘争心などもう感じさせないほどに、ただリラックスしていた。
それに倣うように魔理沙も全身の力を抜くと、
「おっ。 おおおおおおっ!?」
魔理沙は驚きの声を上げた。
長く伸びた木の蔓が、幽香と魔理沙の傷口に沿うように絡み付いていく。
そこから咲いた花の香が、魔力を満たしていく。
そこから生えた薬草が、傷をあっという間に塞いでいく。
そして、1分もした頃には魔理沙の魔力はほぼ回復して傷口も塞がっていた。
その戦闘能力の高さのせいで忘れられがちだが、花の妖怪である幽香は『花を操る能力』を持っている。
能力を使わない方が強いから幽香はそれを使わないのだと思う者もいるが、実はそうではない。
幻想郷には、外の世界で忘れ去られた伝説上の植物が至る所に存在する。
その丈夫で長い蔓や猛毒の胞子を、治癒や魔力補充効果のある薬草や花を、戦いの最中に自在に操ることができるのならば、それが弱い能力であるはずがない。
それにもかかわらず、幽香は決してその能力を戦いには使おうとはしなかった。
戦いの最中に使ってしまうということは、それが即ち花を傷つける行為に繋がりかねないからである。
それを使えば更なる強さを手にできるにもかかわらず使わないのが、幽香の弱さであり、そして強さでもあった。
魔理沙は痛みもなく開いたり握ったりできる自分の手を見ながら、感心したように言う。
「スゲーな。 もうほとんど元通りだぜ」
「まぁ、貴方の場合は傷も浅いし魔力の絶対量も少ないからね。 そんなのは、すぐに戻るわ」
そう言う幽香の手はその場で元通りとまではいかないが、その場しのぎになる程度に木で形どられた義手がつけられていた。
いくら妖怪といえども、吸血鬼とは違って失った手がすぐに生えてくるわけではないからだ。
だが、幽香は致命傷だったはずのわき腹の傷などそもそも負っていなかったかのように塞ぎ、普通に立ち上がっていた。
「さて、これで元通りよ。 私も貴方も、存分に戦えるでしょ?」
「……ああ」
そう言って幽香が手を伸ばすと、繭のように膨らんだ樹の幹が開いて中から愛用の日傘が出現する。
それを取り出して、幽香は再び魔理沙に向き直った。
魔理沙も立ち上がって身構える。
そして、両者ともに動かないまましばらくの沈黙が流れて、
「……いえ、やめておきましょうか。 貴方にはもう魔法を使える媒体はないみたいだしね」
幽香は少しだけ自嘲的な笑みを浮かべながら、魔理沙に向けて構えた傘をゆっくりと下ろした。
「だな。 まぁ、正直言うと箒もミニ八卦炉も無しじゃ勝てる気がしないしな」
「でしょうね。 そんな状態の貴方に勝ったところで何も嬉しくはないわ」
「ははっ、そうか」
「だから、リベンジしたかったら相手してあげるから、いつでもかかってきなさい」
そう言い残して、幽香は一人踵を返す。
もうこれで終わりと言わんばかりにそっけなく背を見せた幽香を前に、魔理沙は少しだけ迷ったように立ち尽くす。
それでも、やがて何かを思い出したように走り出し、幽香を呼び止めた。
「幽香! あのさ、頼みがあるんだが……」
「断るわ。 今日は、他にすべきことを思い出したから」
「え?」
幽香は振り返らずにそう言った。
だが、魔理沙に声をかけられるのを予想していたかのように、幽香の歩みは止まっていた。
そして、少しだけその口角を上げて振り返り、
「……ねえ、魔理沙――」
その声とともに、魔理沙は背筋をヒヤリとしたものが走った気がした。
初めて幽香に自分の名を呼ばれたことにも気がつかないほどに、強大で妖艶な笑みは魔理沙を戦慄させていた。
「私はこれから、私を利用しようだなんて考えた身の程知らずを潰しに行くんだけど、貴方はどうするかしら?」
そこにあったのは、目の前にすれば裸足で逃げ出したくなるほどの妖気を纏った、紛うことなき大妖怪の姿だった。
改めてその正面に立った魔理沙は、自分は今までこんなのを敵に回していたのかと、自分自身が恐ろしくなった、
だが、そこにあったのは恐怖の感情だけではない。
その強さを知っているからこその、頼もしさを感じていた。
「……ああ。 いいぜ、それなら私も――」
「って、待ちなさーい!」
「え……?」
だが、幽香に応えようとした魔理沙に突然ツッコみが入った。
聞き間違えるはずもない。 それは小悪魔と美鈴を背に、呆れた目をしたアリスの声だった。
「アリス?」
「何でいきなり特攻かける話になってんのよ。 あんたは藍から博麗大結界のこととかいろいろ聞いてたんじゃないの?」
「え? ……あーっ!! そうだ、忘れてた…ってかアリス、何でそれを?」
「そんなのは、あんたの懐に小型の人形一体入れとけば何とかなるのよ。 まったく、これだから脳筋どもは」
アリスはいろいろと面倒そうな顔をしながら、大きくため息をついていた。
いきなり現れて不平を言うアリスに文句の一つでも言おうと思った魔理沙だったが、ついさっきまで険悪な雰囲気だったことも忘れるほどいつも通りのアリスを前に、安堵の表情を浮かべる。
だが、突然のアリスの登場に、幽香はなぜかあからさまに不機嫌な表情になっていた。
「ま、とりあえずいきなりルーミアにケンカ吹っかけるのは禁止ね、禁止。 どうせ返り討ちに遭うのがオチよ」
「……はあ? 何で貴方がそんな――っ!?」
「ああ、口答えしない方がいいわよ。 スパーンと飛ぶからね、主に首とかが」
「ちょっ、アリスさん!? 何やってんですか!?」
いつの間にか、アリスが人形を操る糸を幽香の首に巻きつけていた。
それを見た美鈴は、焦ったようにアリスを止めようとしていた。
直接幽香と対峙した美鈴には、そんな糸など幽香の前では輪ゴム程度の強度でしかないことがわかっており、ただ徒に幽香の機嫌を損ねる行為だと思ったからだ。
そして美鈴が危惧した通り、幽香は自分の首に巻きついたその糸を素手で引き千切ってアリスを睨みつける。
「何のつもり? こんなもので私を…」
「わかってるでしょ、あんたなら。 逆らったら刎ねるって言ってんのよ、あんたの命を」
「っ……」
魔理沙たちは、アリスと幽香が何を言ってるのかわからなかったが、無言のまま幽香の不機嫌さだけが一気に増大していることだけはわかった。
今まで以上に禍々しく膨れ上がった妖力をアリスに向けている幽香を前に、魔理沙たちは焦りを隠せなかった。
このまま幽香を怒らせ続ければ、アリスの命が危ないと思ったからだ。
だが、そんな魔理沙たちとは対照に、幽香を挑発するアリスの態度はまるで平凡な何かを見るかのように白けきっていた。
そして、なぜか幽香は諦めたようにため息をついて言った。
「……はぁ。 その性格、相変わらずみたいね。 そんなだからろくに友達もできないのよ」
「え?」
「よけいなお世話よ。 っていうかあんたにだけは言われたくないわ、お花だけがお友達のメルヘン妖怪」
「え? え?」
「あら、それを言うなら貴方は生物ですらない人形に話しかける痛い妖怪かしら」
「はあ?」
「何よ?」
なぜか火花を散らすように睨み合う2人。
突然口喧嘩を始めたアリスと幽香を前に、魔理沙たちは訳がわからずポカンとしていた。
「おいアリス、お前幽香と知り合いなのか?」
「知り合いってよりも……そうね、なんていうのかしら…」
「ただの腐れ縁よ」
「それよ」
そう言うアリスと幽香の口調は、長年の付き合いを経てきたかのように軽いものだった。
だが、そこにあるのはどう見ても信頼関係や友人関係ではなかった。
お互いに、相手をすることすらも億劫だと言わんばかりの険悪な雰囲気だった。
そして、幽香は疑い深い目をアリスに向けて言う。
「で? そうまでして私を阻止して、貴方は一体何が目的なのかしら?」
「んー。 っていうか何を強がってるのか知らないけど、ぶっちゃけあんたは今のルーミアが自分の手におえる相手じゃないことくらいわかってんじゃないの?」
「はあ? 私があんな低級妖怪ごときに? ……ってよりも、なんでさっきからそんな奴の話ばっかり出てくるのよ」
「……え? もしかして知らないで言ってたのか? あいつは紫や映姫が昔封印した邪悪で、この異変の黒幕なんだぜ」
魔理沙は意外そうな顔をして言った。
それを聞いた幽香は少し納得がいかない表情で、それでも冷静に考え込む。
「ふーん。 あんなのが、ねえ……」
「ってよりも、正直お前がそれを知らないってことがビックリだぜ」
確かにレミリアはルーミアのことを知っているようだったが、にとりはルーミアのことを知らなそうだったため、支柱が全員ルーミアを知っている訳ではないと考えられる。
もっとも、魔理沙は幽香の支柱としての格がレミリア以下だと思ってはいなかったので、にとりと同じくルーミアを知らないことに少しばかりの違和感はあった。
そして、幽香が何気なく放った次の一言で、魔理沙は混乱することになる。
「まぁ、私に直接接触してきた奴は誰の代理人かは名乗らなかったからね」
「え?」
「代理人?」
「ええ。 昨日、闇の能力を纏ったエージェントを名乗る奴が来たのよ」
「昨日? それって……昨日の時点でルーミアの復活に加担する奴がいたってことか!?」
さとりや藍の話から判断すると、邪悪への感染は地上に出てきた怨霊によってもたらされると考えられる。
そしてその邪悪が復活したのは今日のことだから、幽香はルーミアから直接闇の力を得たのではなく、偶然闇の能力に感染しただけなのだと魔理沙は勝手に理解していた。
だが、実際には偶然ではなく、エージェント(代理人)として恣意的に幽香に力を与えた何者かがいたという。
「……要するに、怨霊に溶けた能力を逸早く手中に収めて異変を起こした……邪悪の復活を助長した本当の元凶がいるって訳ね」
「多分、そういうことになるのかしらね。 だから、私はルーミアなんかじゃなくてそいつを潰すつもりだったのよ」
「ちょ、ちょっと待てよ! 誰なんだよそれは!?」
魔理沙が焦ったように幽香を問い詰める。
それに対して、幽香は少しだけ首を傾げながら曖昧に答えた。
「さあね、名前は知らないわ。 ただ、異常に大きいリボンを緑の髪に付けた厄神よ。 っ……ああ、やっぱり思い出すだけで寒気がするわね、あの気味の悪い笑みは」
「大きいリボンをつけた緑髪の厄神? それって……まさか、雛のことか?」
魔理沙の口調は、何か信じられないというものだった。
だが、アリスはそれを最悪のパターンとして予想していたと言わんばかりに、ゲンナリとした顔で頷いていた。
「はぁ……やっぱり、鍵山雛か。 多分そいつで間違いないわ」
「何で雛が……ってアリス、間違いないって、何か雛のこと知ってんのか!?」
「あんたから話に聞いてただけよ。 ほら、守矢の異変の時に勝負したんでしょ?」
「え? そうだけど、何で…」
魔理沙がにとりと初めて会った時、その直前に戦った厄神。
アリスは、直接会ったことはなくても魔理沙から雛のことを少しだけ聞いたことがあった。
雛は、流し雛の厄を始めとしたあらゆる厄を集めて自らの力とする厄神である。
基本的に温厚で人間に対しても友好的な性格とされるが、その話題が日常会話に現れることはない。
なぜなら、厄神である雛には近づくことはおろか、その話題を口にするだけで不幸に襲われるとされるからである。
それ故に、雛の話題を誰かが好んですることはなく、その『厄をため込む能力』を深く考察する者はほとんどいないのだ。
だが、アリスはその能力を、地底で異変の話を聞いた時点で既に警戒していた。
「地底で話を聞いた時、おかしいと思ってたのよ。 この異変の原因になったのは地底から湧き出した怨霊だったはずなのに、そもそも地上で怨霊を見かけないのが」
「え? ……あ、そういえば確かに全然見つけてないな」
「だけど、鍵山雛が地上に出た怨霊の全てを厄として収集していたとすれば、そして力を与えたい相手にそれを憑りつかせていたとすれば、ある程度の辻褄が合うわ」
本来なら、わざわざ感染者を探さなくとも怨霊を始末すれば犠牲者を減らせるはずだった。
だが、藍は魔理沙たちに怨霊ではなく感染者を捕えるようにと言った。
藍たちに怨霊を始末できない理由が何かあれば別だが、そもそも怨霊を地上で発見すること自体ができなかったのだと考えれば、地上に出た怨霊を収集・管理する者がいたことが予想できる。
そして、自身が感染せず確実に怨霊を集められる者として、アリスは真っ先に厄神である雛の存在を頭の片隅においていたのだ。
それを聞いた小悪魔が、恐る恐るアリスに尋ねる。
「……じゃあ、もしかしてその厄神さんがこの異変の本当の首謀者なんですか?」
「その可能性は十分に考えられるわ。 鍵山雛には、この異変を起こす動機もあるしね」
「動機?」
「ええ。 厄神の目的は厄を集めることよ。 そしてこの異変はただでさえ異常な厄を抱えた怨霊が地上に放出されて、計り知れないほどの負の感情を、厄を生み出しているわ」
神の存在の大きさというのは、確かに元々その神が持っている力や格にも左右される。
だが、周囲の状況や他者の心情も神の持つ力に大きな影響を及ぼす要素であり、必要不可欠なものなのである。
例えば神奈子や諏訪子も、自身の存在の証である「信仰」が外の世界で薄まったために力を失い、新たな信仰を得ようと幻想郷に移転してきたのだ。
つまり、最高位の神ですらも、その力の大きさは信仰という第三者の要素に大きく左右されると言ってよい。
そして、雛の存在の源となるものは世界に存在する厄、生きとし生ける者全ての抱く負の感情だった。
それ故、多くの人が不幸となり世界を覆う厄が増える異変は、雛にとって歓迎すべき事態なのだ。
「でも待てよ。 この異変で雛が敵だとしたら……厄介ってレベルじゃねーぞ!?」
魔理沙が何かに気付いたように言った。
闇の能力は、負の感情を糧に力を増していく能力。
雛の能力は、幻想郷中の厄、即ち負の記憶を収拾して溜め込む能力である。
この異変で増殖した全ての厄を雛が集めて自らの力の原動力とできるのならば、いくら元々強力な力を持つとはいえ一個体である幽香やレミリアとは比較にならないほど強大な存在となりかねない。
要するに、雛の能力と闇の能力は相性が良すぎるのだ。
「……でもね、よく考えてみて魔理沙。 逆に言えば紫たちがそんなことにすら気付かない訳がないのよ。 だから、普通なら真っ先にそいつは確保されてるはずなんだけど」
「あ、確かに。 だったら、どうして……」
「さあね、憶測でならいくらでも可能性はあるわ。 鍵山雛が何らかの手段を使って紫たちの目を逃れていたかもしれないし、実は紫たちに何かしらの思惑があって鍵山雛を野放しにしていたのかもしれないしね」
「つまり、現状では何もわからないってことか」
雛が異変の元凶である可能性も、雛の能力を利用して紫たちがまだ秘密裏に何かを進めていた可能性も、現時点で否定できる材料はなかった。
魔理沙と小悪魔は考えれば考えるほど混乱していく。
途中で会話から置き去りにされた美鈴と幽香に至っては、既に考えてすらいなかった。
次第に言葉を発する者はいなくなり、辺りにはただ沈黙だけが流れる。
「ま、でも正直そんなことを憶測で話していてもしょうがないわ」
そこで、アリスは皆の注目を集めるようにパンと手を叩いて言った。
「たとえ何が起こってるとしても、今はこんなところで無駄にしている時間は無いわ。 藍に言われたとおり、さっさと博麗大結界を構築しなきゃならないんだから」
アリスは博麗大結界の構築という大仕事のことを、まるでちょっと参拝に行くくらいの口調で言った。
それを聞いた魔理沙の目は、期待に輝いていた。
「もしかしてアリス、お前博麗大結界の構築もできるのか!?」
「できないわ」
「えっ?」
アリスは即答した。
そして、当然のように魔理沙と幽香を指さして言う。
「あんたたちでやりなさい。 魔理沙、幽香」
「はあ?」
「ま、待てよ。 アリスができないのなら、幽香はともかく私ができる訳ないだろ!?」
「でも、霊夢はノリでできたって聞いたわ、初めてやった時にね。 なのにあんたはできないの? 自称博麗霊夢のライバルのあんたは」
「いや、それは……」
魔理沙は突然アリスにそう言われて次の言葉に詰まる。
霊夢ができるのなら魔理沙もできるのではないかというのはあまりにも乱暴な理論だが、アリスが魔理沙を推した理由はちゃんとあった。
霊夢だけでなく、紫や歴代の博麗の巫女ができたことからも、博麗神社、ひいては幻想郷に縁の深い者の方が結界を構築しやすいことが考えられる。
だから、アリスは頻繁に博麗神社に通っていた魔理沙や、幻想郷の創設期からの古参妖怪である幽香なら、少しでもその感覚を掴んでいるのではないかと思ったことも理由の一つなのだ。
「はい、じゃあ決まりね。 今の結界が完全に消える前に博麗神社に急ぎましょう」
「待てよ、そんなのもしできなかったら…」
「そしたら、幻想郷が滅ぶか、少なくとも大変なことになるわね。 あんたたちのせいで」
「えー」
幽香は露骨に舌打ちしていたが、なぜか諦めたように反発はしなかった。
その一方で、魔理沙は自分がアリスに急な要請をしたことを棚に上げて困った顔をしていた。
だが、ちょっと前に見たアリスの冷たい態度を思い出して、アリスを失望させるようなことを言うこと自体も怖がっていた。
魔理沙は腕を組んだまま、しばらくの間唸るような声を上げる。
そして、しばらく迷った挙句、絞り出すように遠慮がちに言った。
「……でもさぁ、藍は高い知能を持つ奴の方が可能性は高いって言ってたじゃん? だから、私よりもアリスの方が確実に…」
「ああもう、うじうじと面倒くさいわね。 あんたがそういう態度なら……」
「って、うわっ!?」
そんな魔理沙の煮え切らない態度に痺れを切らしたアリスが、苛ついた表情で再びその指に付けた糸を張り巡らせる。
すると、槍を持った小さな人形たちが魔理沙を囲い込むように飛び出した。
それを操るアリスは、いつものような適当な声で魔理沙に言う。
「もう面倒だから5秒以内に決めなさい。 やるか、やらないか」
「ちょ、ちょっと待てよアリス、そんなこといきなり言われても…」
「ほら。 ごーぉ、よーん、さーん…」
アリスが魔理沙を急かすようにカウントする。
それに伴って魔理沙を囲う人形の槍が首元に近づいていく。
だが、すっかりいつもの調子に戻ったアリスを前に、魔理沙の表情ははそんな状況の中でむしろほっとしたように和らいでいく。
幽香はそんなアリスと魔理沙の掛け合いを、冷めた目でじっと見たまま微動だにしない。
美鈴と小悪魔も、いつもと何一つ変わらないその光景を、苦笑しながら見ているだけだった。
そして、刺さるほどに人形に近づかれた魔理沙が気楽な声を上げると同時に、
「にーぃ、いーち…」
「はいはい、わかっ…」
「――――隙ありっ!!」
その声は、あまりに突然聞こえてきた。
アリスの真後ろ、そしてこの中で最も早い反応速度を持つだろう幽香からはアリスの陰で見えない位置。
気配もなくそこに現れた少女の手には、鈍い光を放つ何かが握られていた。
「アリスさんっ!!」
偶然そこに目を向けていた小悪魔が、反射的に飛び込んでアリスを突き飛ばす。
その瞬間、アリスを庇った小悪魔の胸には刃物のようなものが突き刺さり、その魔力が急速に失われていった。
「え……?」
「ぁ、ぐ……」
「小悪魔っ!?」
青ざめた顔でゆっくりと倒れ込む小悪魔からは、明らかに生気が失われていた。
その小悪魔の姿が視界に入ると同時に、魔理沙は周囲の人形を振り払って小悪魔に駆け寄る。
突き飛ばされて倒れかけたアリスも体勢を整えてすぐに振り返ると、そこには小悪魔に何かを突き立てたまま微かな笑みを浮かべているこいしの姿があった。
「ちょっと、あんた一体何を――」
そして、その場の誰もが突然現れたこいしに意識を奪い取られると同時に、それは起こった。
「ぁはは」
「え?」
こいしの方に振り返ったアリスの背後に突如として現れたのは、見覚えのある吸血鬼の姿。
全てを焼き尽くす灼熱の鎌を構えたフランの姿だった。
突然のことに呆気にとられた魔理沙たちは、瞬時に冷静な判断をすることができない。
ただ、微かに聞こえてきた笑い声とともに――
「あはははははははははは」
「アリスっ!!」
「っ――――」
いつの間にか、アリスの首が飛んでいた。
その直前に響いたのは、消え入りそうなアリスの呟き。
「―――せ」
アリスが何を言ったのかは、フランの笑い声に掻き消されて聞き取ることができなかった。
それでも、それと同時にアリスとフランの姿は灼熱の火柱に包まれる。
「ぁ、うわああああああああああっ!?」
辺りには魔理沙の悲鳴が響き渡る。
力を失った小悪魔の姿は、既に消失していた。
そして、ほんの2,3秒だけ上がった火柱が消えた跡には、アリスとフランの姿はなかった。
そこに残るのは、ほんの微かに燃え損ねた灰の欠片だけ。
それすらも、辺りに吹く微弱な風に吹かれて消えていく。
魔理沙はただ泣き叫ぶばかりで、その目には何も映っていない。
美鈴もただ呆然と立ち尽くすだけで、こいしに向かって身構えることすらできない。
ただ、幽香だけが一人息をのんでその状況に備えていた。
「っ……」
「あ、別に身構えなくても貴方には手を出さないよ。 私の目的に、貴方たちは含まれてないから」
そうサラッと言って、こいしは何事もなかったかのように目線を魔理沙に移す。
それに気づいた美鈴が、ハッとしたように声を上げる。
「魔理沙っ、逃げて!」
「なんで……なんでっ、お前はああああああああっ!?」
だが、冷静さを失った魔理沙はそのまま全力でこいしに飛びかかっていた。
その様子をにやついた表情で見つめていたこいしの姿は次の瞬間、魔理沙の視界から消える。
その記憶も、消える。
そして、誰に向かって飛んでいたのかすらもわからなくなって僅かに魔理沙の軌道が逸れると同時に、
「あっ……」
魔理沙の顎先を、薄皮一枚だけ掠めるようにこいしの拳が振われる。
それは小刻みに人間の脳を揺らして無力化する、達人の技だった。
脳を揺らされてまっすぐ立っていることすらできなくなった魔理沙はそのまま倒れ込み、それでもこいしに振り返ってその姿を目に焼き付けようとする。
「任務完了、っと。 じゃあね、魔法使いさん」
「待て、よ……」
だが、小馬鹿にしたような微笑とともに、次の瞬間こいしの存在が世界から消えた。
魔理沙は何が起こったかもわからない。
いや、覚えていないと言った方が正しいだろう。
ただ、朦朧とする意識の中そこに残っていたのは、何者かに小悪魔とアリスが殺されたという事実だけだった。
目の前でそれが起きていながらも、自分が何もできなかったという記憶だけだった。
「ちく、しょう…」
そして、流れ出る涙を止められないまま魔理沙の意識は途絶えた。
「……え、何? 何が起こったの?」
呆然とそう言う美鈴の表情には、悲しみの一欠片すらも見られない。
あまりにも突然目の前で起きて、気付いた時にはもう終わっていたその出来事を未だに理解しきれていないのだ。
さっきまで気楽に見ていた、アリスと魔理沙が言い合っているいつも通りの光景。
そこからほんの1分も経たない内にアリスと小悪魔の姿が消えて、魔理沙が気絶している状況。
その落差は、美鈴から冷静な思考の一切を奪っていた。
――目的に、私たちは含まれていない? だったら――
だが、幽香だけは一人冷静に状況を分析しようとしていた。
こいしの存在を忘れてしまった今はもう、誰が放ったかすらもわからないその言葉。
その目的を、理解することはできない。
それでも確かに一つ分かるのは、こいしの目的がアリスと魔理沙に向けられていただろうこと。
――だったら、なぜ姿を消したまま実行しなかった?
だが、幽香の頭には違和感があまりに強く残っていた。
確実にアリスや魔理沙の命を狙うつもりならば、直前にわざわざ声を出して幽香に介入する隙を与えるはずがない。
ましてや、小悪魔ですら反応して動けるようなお粗末な襲い方をするはずがない。
ならば、その目的には……
「……ねえ、さっきの赤髪の子は誰の使い魔だったのかしら」
「え? あの、今、一体何が…」
「いいから、答えなさい」
「……えっと、こあ…小悪魔はパチュリー様の…」
「そいつは今どこに?」
「確か、ルーミアって妖怪と交戦中だと…」
――なるほどね、この状況は――
「……やっぱり、出来すぎよね」
「え?」
そう言って、幽香は異常なほどの苛立ちを含めた目をゆっくりと閉じて辺りの微かな魔力の流れに集中するとともに、ある事実を確信する。
そして、舌打ちしながら気絶した魔理沙を拾い上げ、そのまま一人で走り出した。
美鈴も慌ててそれを追うように走り、幽香を問い詰める。
「え? ま、待ってください! 一体どこ、に…」
だが、そこまで聞きかけて、美鈴から血の気が引いたように声が途切れる。
幽香の目は冷淡で、それでいて何かを睨むように鋭く見開かれていた。
さっきまでのように、闇の力に支配されているわけではない。
ただ、そこにあるのはたった一人の対象に向けた、幽香自身の確かな怒りの感情だった。
「博麗神社よ。 気に食わないけど、色々と無駄にならないようにあの詐欺師の計画に乗ってやるのよ」
「……え? もしかして、さっき何が起こっていたのか知ってるんですか!?」
「ええ。 完全に理解してる訳じゃないけど、だいたいの予想はできるわ」
「っ!!」
それを聞いた美鈴の拳が強く握りしめられる。
いつの間にか友人を目の前で殺されていた美鈴には、何が起こったかわからなくても、ただその相手への怒りだけは抑えることができなかった。
「じゃあ、一体誰が……誰がこあとアリスさんを!!」
「……使い魔が消えると、その記憶が情報となって主の元に還ることは知ってる?」
「え?」
「その性質を利用して、魔力を無駄に浪費する使い魔に必要な情報を与えてから消させる」
「ま、待ってください。 貴方は一体、何を言って…」
美鈴が力を込めて握りしめた拳は、行き先を失って少しだけ緩んだ。
それに気づいてか気付かずか、幽香は一人淡々と進める。
「魔理沙の退路を断つために邪魔になった人形を、その記憶に刻み込むように目の前で消させる。 そして残りの計画を継がせるために、幻想郷全ての花を人質にとって私を使役する。 あいつは自分の描く最善のシナリオのために、それを顔色一つ変えずに「演出」できる奴よ」
そう断言する幽香の口調は、確信めいていた。
あの一連の流れの中で幽香はこいしを警戒していたように見えて、実はこいしには終始注意を向けていなかった。
その気になればこいしを止めることもできたかもしれないのに、あえて動かなかった。
そうする必要があることを知っていたからだ。
一度は自分を追い詰めたほどの実力者であるこいしを、あの状況で度外視してでも警戒すべき、常識から外れた存在を知っていたからだ。
だが、幽香の言ったことの意味を理解しきれなかった美鈴は、怪訝な表情を幽香に向けながら聞く。
「どういう意味ですか? 演出って……それじゃあまるで…!!」
「ええ。 多分、今貴方が考えた通りよ」
「そんな……なんでそんなことをする必要があるんですか。 だいたい、なんで貴方にそんなことがわかるんですか!?」
「ずっと昔から、あいつのことを知ってるからよ。 私がこの世で一番嫌いで警戒する相手だからこそ、何を考えてるかも、この状況で私に何をさせたいのかも少しなら予想できるわ」
「え? 貴方が、警戒って…」
「ああ、多分貴方は何も知らないんでしょうね。 じゃあ、ちょっとだけ面白い話を聞かせてあげる」
面白い、と言った幽香の目は笑っていなかった。
魔理沙を抱えたまま、苛立ちをぶつけるように地を強く蹴りながら、幽香は静かに話し始める。
「魔界って知ってる? 幻想郷とはまた別の、妖怪たちが住むとある世界のこと」
「……何の話ですか? それが今本当に必要な…」
「いいから答えなさい」
少しだけ幽香に怪訝な目を向けて言った美鈴だったが、幽香の真剣な眼差しを感じてそれに返す。
「……聞いたことくらいは、あります。 確か一昔前、魔界の妖怪たちが幻想郷に攻め入ったことがあるってことも。 それを、貴方が一人で制圧したとか」
「まぁ、一般に知られてるのは大筋そういう話になってるみたいね」
それは、幽香の名を最強の妖怪として知れ渡らせる最大の要因となった異変だった。
当時、幻想郷と同等の勢力を誇ると言われていた魔界。
そこから溢れ返るほどに出てきて幻想郷を、幻想郷の花を荒らしていた妖怪たちを、幽香がたった一人でこらしめて魔界を制圧してきたという話が広まったのである。
「でも、それが何ですか? 貴方はこの状況で、そんな自慢話がしたいんですか?」
「いいえ、そんなのはとても自慢になんてならないわ。 そこにいた妖怪たちは、平和ボケした名ばかりの魔界の神が創った烏合の衆に過ぎなかったからね」
「え? ……じゃあ、その頃の魔界の妖怪たちが幻想郷と渡り合えるほどの勢力があったっていう話は嘘だったんですか?」
「いいえ、一概に嘘とは言えないわ」
美鈴は、幽香の言うことの意味がわからず疑問の表情を浮かべていた。
この状況では関係ない話だと思って今まで適当に聞いていた美鈴だったが、気になってその続きを聞いてしまう。
「だったら、どうして……」
「その烏合の衆の中に、たった一人で魔界の評価を塗り変えられるほどの異端がいたからよ」
「異端、ですか」
「ま、そいつは私や鬼みたいに、その力が表立って恐れられていた訳じゃないけどね」
「……でも、にわかに信じられない話ですね。 それに、結局そいつも貴方が退治したんですよね?」
美鈴は胡散臭いと言わんばかりの眼差しを幽香に向けていた。
現在ほどの勢力はなくても、それでも妖怪の山を筆頭に多くの屈強な妖怪や、吸血鬼までも存在していたその頃の幻想郷。
それと対等な評価を得るほどの力を、たった一人で持っていたという存在を想像することはとてもできなかった。
だが、美鈴にそう言われてしばらくの間何かを躊躇うように黙ってしまった幽香は、やがてその重い口を開く。
「……白状すると、ね。 私はそいつを退治してなんかいないわ」
「え?」
「むしろ、それを退治しきれずに幻想郷に解き放ってしまった私は、魔界を制圧した最強の妖怪だなんて分不相応な評価を本来は受けるべきじゃなかったのよ」
「幻想郷に解き放ったって……っ、まさか、それって!?」
だが、幽香が少しだけ何かを悔むように言ったそれを聞いて、美鈴はやっと理解する。
幽香がこの状況で、こんな話を持ち出してまで言いたかったことを。
今まで誰一人として知る由もなかった、平穏な日常の中にあった偽りを。
「ええ。 有象無象に紛れながら策謀を巡らせて世界を欺き、生みの親や自分自身さえも簡単に切り捨てて無機質に最善の結果のみを創り続けた、旧魔界の陰の支配者」
冷たい目で語る幽香の声を聞きながら、美鈴はゴクリと唾を呑む。
そして、幽香は吐き捨てるようにその名を口にした。
「冷徹の禁呪使い――『魔神』アリス」