東方理想郷 ~ Unknowable Games. 作:まこと13
荒れ果てた大地に、彼女は一人立ち尽くしていた。
その手の平に力なく乗っている花の残骸が、彼女の目からこぼれた雫で微かに濡れる。
最後に少しだけ活力を取り戻したかのように見えた花は、それでももう元に戻ることはない。
「……ごめんね、守ってあげられなくて」
その花が死んでしまったのは彼女のせいではない。
それでも彼女は決して自分を許さなかった。
彼女はただ、優しすぎただけだった。
――もう二度と、こんなことは起こさせないから。
そして、彼女は誓った。
誰よりも強くなると。
もう二度と敗けないと。
だけど、それでもただ残酷な現実だけが彼女を蝕んでいって――
東方理想郷 ~ Unknowable Games.
第17話 : 強者と弱者
辺りは奇妙なほどに静まり返っていた。
毒々しい色をした力の渦と、美しく輝く星々だけが世界を覆っている。
その中心に立っていたのは、空間すら歪めるほどの魔力を溢れんばかりに纏った大妖怪と、吹けば飛ぶほど華奢な体つきの人間。
あまりの力量差に、ただの捕食の場であるのではないかとさえ思われる状況。
だが、それでも魔理沙の表情は確かに生きていた。
スペルカード宣言をしたはずの魔理沙はまだ動かない。
軽率な行動が一瞬で命取りになることをわかっていたからだ。
沈黙の中、魔理沙は微かな風の音さえも騒音に感じるほどに全神経を集中させていた。
そして、魔理沙は幽香の立っていた大地が僅かに軋んだ瞬間を見逃さなかった。
地盤沈下を起こすのではないかというほどの揺れとともに大地を蹴った幽香は、瞬きをする間すらなく魔理沙の目の前に現れていた。
幽香はただ、そのまま手を真っ直ぐ前に突き出した、だけだった。
「―――――ぉっ―――」
魔力を纏った腕は、その衝撃波だけで景色を一瞬で塗り替える。
木や岩が削れる、などといった次元の話ではない。
幽香の正面にあった景色は、地平線が見えるのではないかと思うほどまっすぐに姿を消した。
もし魔理沙がその場に留まっていれば、その全身は一瞬で血煙となって蒸発し、灰の欠片すらも残らなかっただろう。
「――来いよ、こっちだ!」
だが、あまりのことに心臓が飛び出そうになりながらも、魔理沙はそれを避けて幽香の後ろに回り込んでいた。
魔理沙は初撃後の無防備な幽香の背中から一度距離をとる。
ただ隙をついて突っ込んだところで今の幽香に通じるわけがなく、むしろカウンターの餌食になって終わってしまうだろうことがわかっていたからだ。
魔理沙は無数の星の弾幕をあえて幽香に向けず、辺り一帯を埋め尽くすように散りばめながら縦横無尽に飛び回る。
流星群のごとく流れていく天の川は、霊夢の弾幕にも劣らぬほどに空間を美しく彩っていく。
だが、その一つ一つは幽香にとって全く脅威にならない程度の魔力しか持たない。
それ故、その星々に目を向けることすらなく魔理沙だけを目で追っていた幽香だったが、
「弾けろっ!」
魔理沙がそう言うとともに、幽香の周囲を取り囲むように浮かんでいた星々が突如として弾けるように分裂してドーム状に幽香を囲い、その視界全てを覆い尽くした。
当然ながら威力が極限まで分散された弾幕が幽香に届くことはないが、視界を覆われた幽香は一瞬魔理沙の姿を見失ってしまう。
だが、幽香は惑わされない。
幽香を囲うように存在する星々の隙間から、突如として現れた一つの影に本能的に目を向けた。
そこにあったのは魔理沙の姿ではなかった。
「スペルカード宣言、恋心『ダブルスパークッ』!!」
そんな声が、幽香の後ろから響き渡る。
幽香を挟み撃ちにするかのように、前からは魔理沙が飛びながら空中に向けて投げていたミニ八卦炉が、後ろからは魔理沙が構えたもう一つのミニ八卦炉が火を噴いた。
突然の急襲にも幽香は動転することもなく、ただ淡々とそのまま目の前のエネルギーごとミニ八卦炉を弾き飛ばす。
あまりにあっけなく粉々になったそれから即座に注意を逸らし、幽香は後ろから迫り来る魔法波にも対応しようとする。
だが、魔理沙が構えるミニ八卦炉は直接幽香に向けられてはいなかった。
虚空に向かって放たれた光は、幽香の周囲をドーム状に囲う星々に当たって反射される。
そして、その反射光がまた別の星に当たり、その度に幾多にも分裂しながら威力を増していった。
「いっけえええええええっ!!」
幽香の視点は定まらない。
あまりに複雑に絡み合っていく弾道の迷路を前に、自身の周囲360度、どこから攻撃が来るか全くわからないのだ。
派手な魔法や幻想郷トップレベルの移動速度に目を奪われがちだが、実は魔理沙の真価はそこにあるのではない。
この世に生を享けてたった十数年、魔法を知ってたった数年の歳月だけで、百年以上を生きてきた魔法使いと渡り合えるほどの魔法を使いこなせる学習能力、つまりは思考速度にあった。
霊夢のように直感で物事を掴んでいくのではない。
魔理沙は焦らずに落ち着いて行動さえできれば、戦況を的確に把握して緻密に計算しつつ、常に論理的に脳内を展開して最善を導いていくことができるのだ。
今回も魔理沙が投げたミニ八卦炉の魔法波は、攻撃のために放たれたのではない。
魔理沙が放った弾幕は、直接の攻撃のために放たれていたのではない。
一瞬だけ幽香の注意を奪うために偽のミニ八卦炉を囮に使い、その隙に撃った魔法波を反射・増幅するための媒体として僅かなズレまで計算してあらかじめ星々を配置していたのだ。
その魔法波は無数に分裂し、寸分の狂いもなく幽香に向かって集束するように四方八方から襲い掛かっていく。
もはや避ける隙間など存在しない不可避の光は、その戦いに終止符を打つかに思われた。
「……なっ!?」
だが、魔理沙にはミスがあった。
今の幽香は確かに驚異的な身体能力と魔力を持つが、今なら自分の方が上手く魔法を使いこなせるのではないかと驕ってしまったことだ。
幽香がこの無数の光の弾道に対応しきれないことを見越して、一撃で決めようと必要以上に反射を繰り返させてしまい、幽香に時間を与えてしまったことだ。
それでも、たとえ意識が定まらなくとも、そこにいるのは実際の実力では魔理沙の遥か上に位置する、数百年の経験を蓄えた大妖怪なのである。
その魔法が幽香の魔力によって構成されていたが故に、それを自分の魔法であるかのように幽香は簡単に書き換える。
幽香に向かって飛んでいくはずの光はその場に留まりながら色彩を失って脈動し、突如として化学反応を起こすように破裂した。
そして、辺りに飛び散ったどす黒い光の弾が2人の周囲を覆っていた星々を弾き飛ばし、一気に幽香に攻勢が傾いた。
――バカか、私はっ!!
それは、魔理沙の中にほんの僅かに生まれていた驕りが生んだ結果だった。
少しとはいえ格上の相手を侮った自分を叱咤し、痙攣を起こすほどに酷使した腕で再び強く箒を掴んで全速力で飛んだ。
幽香を中心に無差別に放たれた弾は、少しでも触れたものを消滅させながら突き刺すようにひたすら真っ直ぐに飛んでいく。
それは単純すぎる弾道が故に、魔理沙に当たることはない。
だが、魔理沙が見ていたのは自分に向かってきている弾だけではなかった。
その隙間を縫って飛びながら手にミニ八卦炉を構えて、
「間に合えっ!!」
とっさに魔理沙が放ったのは、マスタースパークだった。
心の中で宣言する余裕すらないほどに大急ぎで放ったそれが掻き消したのは、図書館へと飛んでいく弾だった。
しかし、当然のことながら今の魔理沙に自分のこと以外に特大魔法を使う余裕などあるはずがなかった。
図書館を守るように攻撃を放った魔理沙が振り返ると……
「ぁ……」
懐かしい記憶が、走馬灯のように駆け巡っていった。
幽香の手の平が自分の顔の寸前まで迫った光景を前に、魔理沙は目を閉じることすらできなかった。
「…………」
だが、幽香は動かなかった。
ほんの少し魔力を放出すれば全てが終わるその場面で、幽香はなぜか苦悶の表情を浮かべていた。
それでも、やがて幽香は何かに気付いたように魔法波を放つ。
それは、魔理沙から逸れて頭上を通過していった。
「……っ!? 待って…」
一命を取り留めたはずの魔理沙は、引き攣ったような顔をして振り返る。
今魔理沙の後ろにあるのは、紅魔館の図書館。
美鈴が、小悪魔が、アリスがいるはずの、その場所だった。
もしそれが図書館に直撃すれば、中にいるアリスたちは何が起こったかすらもわからないまま消し炭と化すだろう。
だが、幽香がその目に捉えているのは紅魔館ではなかった。
「……ぁはは」
「え?」
「あはははあ”っ!?」
そこにあったのは、その小さな体とはとても不釣り合いなほど大きな炎の剣を構えたフランの姿だった。
フランのその目は再び狂気の色に支配されている。
フランは幽香の放った魔法波に向けてその剣を振り抜いたが、そのまま自分ごと跡形も残らぬほどにあっけなく消え去った。
それでも、確かにフランは幽香の魔法波の弾道を逸らして紅魔館を守り切っていた。
そして、その姿が消えたように見えた次の瞬間、フランは何事もなかったようにもう一度現れる。
そこを守るかのように浮かびながら、再び奇声のような笑い声を上げると、
「あは…」
幽香はそれを遮るかのように、移動したことすらも悟らせないほど疾くフランの元へと飛び、消滅させる。
フランは目にも止まらぬスピードで消滅と再生を繰り返していく。
再生は一瞬、そこから再び幽香に全身を消し飛ばされるまでもほぼ一瞬。
ほんの数秒で、既にフランは数えきれないほど死んでは生き返っていた。
「――――――っ」
だが、よく見ると消滅を繰り返しているフランではなく、幽香の表情が何かに苦しむように歪んでいた。
「何だ、一体何が起こってる?」
魔理沙は、自らそう口にしなければならないほどに混乱していた。
突然フランが現れたことも、確かに戦況に大きな影響を及ぼす。
だが、魔理沙が気にしているのはそこではなかった。
――幽香は、一体何に苦しんでいる?
幽香が、なぜあの時自分を攻撃しなかったのか。
なぜ、攻勢のはずの幽香が苦しんでいるのか。
異常な力を行使したことによって身体が悲鳴を上げているのならまだわかる。
だが、幽香を苦しめているのは身体の痛みでも疲れでもないように見える。
まるで、その心が何かに掻き乱されているかのごとく表情が歪んでいるように魔理沙は感じた。
「……いや、だけど今はそんなこと考えてる場合じゃない」
魔理沙の視線は、再び幽香を鋭く捉える。
それはまだ1分にも満たない攻防だったが、実は既に魔理沙の限界は近かった。
音速を超える速度での移動によって発生する空気抵抗は、妖怪のように強靭な身体を持つ者ならまだしも、人間にはとても耐えられないのだ。
実際にまだ幽香の攻撃を一度も受けてはいなくとも、自分が一度まっすぐに移動するだけで重傷を負うと考えていい現状。
それ故、長期戦になればまず勝機のない魔理沙は、幽香の注意が少しでも自分から移った千載一遇のチャンスを無駄にはしない。
次の一手に全てをかけるつもりで精神を統一する。
「――――――■#△●※ッ!!!」
そして次の瞬間、再びフランが消し飛ぶ嫌な音とともに、辺りには幽香の声にならない声が響き渡った。
◇
『無意識の表層は……ちょっと揺れてるかな。 再構築』
何かが、そう呟いた。
魔理沙と幽香が戦っている空の下。
そこに、ただあてもなく彷徨う一つの影があった。
呆けたような表情でその戦いを見上げながら、時折飛んでくる流れ弾を時には回避し、時には直撃する。
全身が自らの血で赤く染まり、骨が見えるほどに皮膚が焼け落ちた痛々しい姿で、まるで自分の状態にすら気づいていないかのようにその表情に感情は無かった。
その姿はさながら戦場の跡地に漂う亡霊のごとく、ただ不気味に漂っていた。
だが、存在するだけであまりに目立つはずのそれは、それでも誰からも認識されることはない。
それは、こいしの最終兵器だった。
こいしは元々、「意識」の全てを支配する第三の目を閉じることで、誰にも認識されることのない「無意識」の領域を得た妖怪である。
そして今や全ての意識の外、いわば「集合無意識」とでも言うべきものを支配する力を得ていた。
……いや、この場合むしろ失ったと言ってよいのかもしれない。
『古明地こいし』という「個」が存在するうちは、完全なる無意識になることはできない。
全ての無意識の集合と同化するには、自分の存在も過去さえ持たない、いわば個として認識され得ない存在である必要がある。
つまり、完全な無意識になるということは、自分がたった一人で世界から取り残される、永遠の孤独に身を投じることを意味するのだ。
だが、それでもこいしは戦略のためにそれを決行した。
全ての認識から外れてなお戦場に介入するために、自分の存在を捧げた。
フランの無意識を完全にその手で操るために、自分の身体を捨てた。
幽香の記憶の奥底にある無意識と同化するために、自分の過去さえも消した。
もう二度と、誰一人としてこいしに気付くことも思い出すこともなくなったのだ。
そして、こいしの全てを犠牲にして手にしたその力からは、流石の幽香も逃れることはできなかった。
その脳裏を支配するのは、拭いきれない負の記憶、永遠の苦悩を生み出し続ける心的外傷、その果てに失った自我の末路。
幽香の表情が徐々に苦悶に満ちていく。
『――さあ見せて。 貴方の無意識は、一体どこに向いているのか――』
そして、こいしは幽香の奥底に眠る無意識の扉を無理矢理こじ開けた。
◆
その世界は、赤黒く染まっていた。
鮮やかに彩られていたはずの景色は、辺りに飛び散った赤と、焦げ落ちてその血の色さえも失った黒に埋め尽くされていた。
「頼む、許してくれ……」
「助けて…」
「…………」
幽香は、うめき声を上げながら地面に這いつくばっている妖怪の大群を静かに見下ろしていた。
とても人とは似つかない姿をした異形の妖怪から幽香の頭身の軽く3倍はあるであろう巨大な妖怪まで、そこにいる者たちは例外なく恐怖に震え、戦意を失っていた。
別に、幽香はその妖怪たちを進んで痛めつけようとしたわけではない。
ただ目の前の花を守ろうとしただけだった。
命ある花々を物のように千切っては踏み荒らす者たちを、少しこらしめただけだった。
「もう、こんなことしない?」
「っ!! は、はい、二度と、二度としませんからっ……!!」
妖怪たちは、涙を流しながら掠れた声でそう誓った。
それだけで、幽香の前で花をぞんざいに扱う者はいなくなった。
花を粗末にした者の末路を、誰もが理解したからだ。
どんなに屈強な妖怪が群を成そうとも、全てをたった一人で一蹴できるほどに幽香が強かったからだ。
次第に花の妖怪という名称すらも忘れ去られ、いつしか幽香は最強の妖怪と呼ばれるようになっていた。
それは別に幽香の本意ではなかったが、その名が抑止力となるのならそれでいいと思っていた。
だが、その時の幽香は気付かなかった。
それが、新たな災厄の種となってしまったことを。
「お前が、風見幽香か?」
満開の向日葵で埋め尽くされた太陽の畑をいつものように散歩していた幽香に、突然後ろから声がかけられた。
「あら、貴方は?」
「いやぁ、ちょっと暇だったんでね。 私もお前のようにここを散歩しに来たのさ」
「そ。 軽く触れたりするのはいいけど、乱暴に扱わないでね」
幽香はその少女に微笑みながら軽く忠告する。
何も心配などしていなかった。
自分のことを知っている者なら、この場で問題を起こすはずがない。
この数百年の経験則から、それがわかっていた。
それに例外があるなどと、思ってはいなかった。
「乱暴? それは、例えば――」
「え?」
だが、目の前の少女は子供のような笑みを浮かべながらその腕を振り上げる。
幽香に向かってではない、その横に広がる花畑に向かってまっすぐにその腕を突き出した。
その直後、嵐のように吹き荒れた拳圧が花々を風塵に変えた。
「こんな風に…ごっ!?」
それとともに、少女の視界から消え去った幽香がその腹を殴り飛ばしていた。
普通の妖怪ならそのまま貫かれて絶命するか、少なくとも数年は立ち上がることすらできない致命傷となりかねないが、そこにいたのは普通の妖怪ではなかった。
少女は苦しそうな顔をしながら吹き飛んだが、傷らしき傷はほとんどなかった。
むしろ、なぜか殴ったはずの幽香の手の方が深刻なほどに赤くはれ上がっていた。
「……へぇ、いいモン持ってるじゃないか」
「っ……何なのよ、貴方は」
軽く数十メートルは飛ばされただろう少女は、ほんの少しだけよろけるように立ち上がった後、何事もなかったかのように幽香に向かって歩き出した。
その時初めてその姿をはっきりと目に捉えた幽香は、即座に臨戦態勢に入った。
その少女の頭に、印象的な二本の角が生えていることに気付いたからだ。
目の前のそいつが、今や伝説上の存在となっている鬼だということがわかったからだ。
だが、その時の幽香はそこまで焦ってはいなかった。
自分より強い者など存在しないことを知っていたからだ。
だから幽香は、周囲の花畑をできる限り荒らさないようにしながら、穏便にその鬼を帰らせるにはどうすべきか冷静に思考を巡らすが、
「もっとだ。 もっと本気でぶつかってこいよ、なあ!!」
「っ――――」
そんな冷静な思考は、幽香の中からすぐに消えていった。
目の前の鬼が、再び周囲の花畑を薙ぎ払ったからだ。
ただ幽香を挑発するように嫌らしい笑みを浮かべながら花々を傷つけていく鬼を前に、幽香の纏う妖気が禍々しく膨れ上がっていく。
それを見た鬼は満足気に笑った。
「……そうだ、それでいい。 私と喧嘩しようぜ」
「そう、そんなに死にたいのならここで殺してあげるわ。 お前は――」
「伊吹萃香だ。 その名を頭に刻み込んでおきな、最強の妖怪」
そして、2人の拳が交わった瞬間、その衝撃だけで辺りの花が全て散っていく。
普段の幽香ならば即座に戦闘を終わらせるか止める状況。
「っ――――――!?」
「ははっ、まだまだヌルいなあ!!」
だが、今の幽香にはそんな余裕などなかった。
互いに全力でぶつけたはずの拳が、自分だけぐしゃぐしゃに折れ曲がって血まみれになっていたからだ。
ぶつけ合ったはずの萃香の手は、僅かに充血したものの、全くの原形を保っていたからだ。
――なんなのよ、こいつは……っ!?
それは、幽香にとって初めての経験だった。
一度拳を交えただけで、萃香の力が自分を上回っているだろうことを幽香は嫌でも瞬時に理解させられた。
だが、それでも幽香は止まれない。
この短時間だけで萃香の性格がわかっていた。
もし自分が逃げれば、萃香から距離を取れば、萃香が自分を挑発するために周囲の花をゴミのように消し飛ばすだろうことがわかっていた。
これ以上、周囲を取り囲む花たちを傷つける訳にはいかない。
だから、幽香はその身の限界までただひたすらに力を振り絞り続けた。
自らの全身の骨がまるで木の枝のように簡単に折られ砕けていく中で、それでも幽香は戦い、戦い続けて……気付くと倒れていた。
「ぐっ……」
「ははっ、確かに強いな。 最強の妖怪って呼ばれるのも頷ける。 ……だが、それだけだ」
全身に幾多の大きな傷を負っていた萃香は、それでも見下すような視線を向けながら幽香の頭を踏み潰す。
幽香は必死にその腕に力を入れて立ち上がろうとするが、全く動くことはできなかった。
「所詮これがお前の……妖怪の限界だ」
「このっ……」
「ま、だけど私にここまで傷をつけた褒美くらいはやるよ。 ありがたく受け取りな」
「な……っ!?」
そう言った萃香は、その口から上空に向かって炎を吐いた。
それはただの火ではない、一度灯れば辺りを燃やし尽くすまで消えることのない鬼火。
それが一か所に集まり、萃香の『密を操る能力』で圧縮されていく。
「やめて!! もういいでしょう、もう私の負けだから…」
「はあ? 何ふざけたことをぬかしてやがる」
「え?」
「覚えときな。 敗者には言葉を発する権利すらねえんだよ。 お前はただそうやって地に這いつくばりながら、これから起こることを黙って見ていればいい」
そう言って笑いながら、萃香の姿は徐々に霧に変わり、薄くなっていく。
その上空には、巨大な炎の塊が強く圧縮されて沸騰したように暴走している。
「お願い、やめて……」
「あー? 聞こえねえなあ。 でもまあ、せっかくだし最後に一つだけ教えてやるよ」
萃香はその炎の球が出来上がっていくのを笑いながら見ていた。
いや、萃香が見て笑っていたのは炎ではない。
最強の妖怪として名高い幽香が、自分に懇願するように泣きついてくる姿を満足気に見下ろしていた。
そしてその場から消えるように、それでも声だけははっきりと響かせながら、
「弱いってのはな……それだけで罪なんだよ」
「やめてえええええええっ!!」
萃香の姿が消えると同時に、最高密度で留まっていた炎の塊が爆散した。
辺り一帯に降り注ぐ火の粉の雨が、全てを溶かすように広がっていく。
2人の戦いで既に死にかけていた花々は、それでも僅かに残っていた命の灯すらも飲み込まれるように灰となっていく。
「いやっ、お願い、もうやめてっ!!」
だが、幽香の悲痛な叫びは届かない。
それを守ろうにも、どれだけ力を入れてもその身体はピクリとも動いてくれなかった。
ただ目の前で、全てが灰塵に帰すのを見ていることしかできなかった。
そしてその数分後、太陽の畑はこの世から姿を消した。
それから、幽香が敗れたという噂は瞬く間に広まっていった。
幽香が弱っているのをいいことに、今までの仕返しに来る妖怪たちも後を絶たなかった。
身体を動かすことすらもできなかった幽香は、ただされるがままに毎日ボロボロにされていった。
屈辱の日々は、確かに幽香の身体を、心を痛めつけていった。
だが、幽香が気にかけていたのは自分の身体のことではない。
『風見幽香』という名に抑止力がなくなっていたことを嘆いていた。
萃香に敗れ、その辺の木っ端妖怪にすらされるがままになっている幽香を恐れる者など、もういなくなっていたのだ。
力なきその名では、幻想郷の花は守れない。
動けぬその身体では、目の前で傷つけられる花さえも守れない。
今やもう、名実ともに幽香は何も守れなくなってしまった。
そして、その事実から逃げるかのように、幽香は人知れず姿を消した。
それから数カ月が過ぎた。
幽香はフラフラの足取りでただ一人あてもなく彷徨っていた。
誰にも会わないように、人目を避けて日陰で生きるだけの日々。
何もできなかった罪悪感から、自分を騙していくだけの日々。
かつての自分を忘れようとするかのように、虚ろな目をしながら歩くだけの日々。
だが、それでも幽香はある日無意識のうちに何もない荒野に迷い込んでいた。
そこは、かつての自分の領域と言っても過言ではない、綺麗な花が咲き誇っていたはずの場所だった。
だが、もうその頃の面影など、見る影もなかった。
そこは妖怪たちの闘争によって、無残に荒れ果ててしまっていたのだ。
「なんで、こんな……」
幽香の目からは、気付くと止めどなく涙が溢れてきていた。
弱い自分では何も守れないと思っていた。
むしろ、萃香の時のように自分のせいで傷つけられる花をなくすために、自分など消えてしまえばいいと思っていた。
だが、幽香は気付いていなかった。
それでも、幽香の存在が幻想郷の花々にとっては最後の砦であったことを。
幽香がいなくなった世界が、こんなにも残酷であることを。
たった一時の敗北を忘れようなどと思って自分が逃げたせいで、あまりにも多くの大切なものを失ってしまったことに、幽香は今まで気付かなかったのだ。
幽香は、足下に落ちていた一本の花の残骸を拾い上げる。
そっと包み込むように手に取ったはずのそれは、それでも息を吹き返すことなく死んでいった。
「……ごめんね、守ってあげられなくて」
幽香は、今までずっと一人で全てを守ろうとしてきた。
だが、目の前の本当に僅かな命を守ることしかできない。
それが限界だった。
萃香の時のように自分の目の前で花を傷つけられる花もいれば、自分の目の届かない場所で傷つけられる花もいる。
もう、弱い自分では何もできない。
この世界は結局、弱者に優しくできてなどいないのだ。
――これが……こんなのが、この世界の摂理だというのなら――
だから、幽香はその身に刻み込んだ。
今のままの自分では、結局何も守れないということを。
自分の思いを通すためには、この世界に抗わなければいけないということを。
「……だったら、誰よりも強くなればいい」
幽香は、掠れた声でぽつりと呟いた。
――誰も逆らう気すらも起きないほどの強さを手にすればいい。
――罪のない花を殺す者には、世界で最も強く恐ろしい妖怪が制裁を加えに来ると森羅万象の心に刻み込めばいい。
――情け容赦など一切捨てて、私が恐怖の象徴とでもいうべき存在になればいい。
それが、幽香の出した答えだった。
涙を流しすぎて赤く腫れ上がったその目は、世界そのものに反逆するかのように鋭く見開かれていた。
それからの幽香は変わっていった。
ただ自分を痛めつけるかのように、狂ったように己の力を磨いていった。
日に日に強大化していくその力は、必要以上に暴力的なまでに振われていく。
幽香の怒りに触れてしまった者は、今まで以上にただ悲鳴と命乞いをまき散らすだけだった。
そして、花の妖怪への恐怖は再び幻想郷中に浸透していった。
そこにあるのは、花を大切にしようという感情などではない。
いつ現れるかもわからない幽香への恐怖から、誰もが花を傷つけることそのものを恐れるようになっていっただけだった。
それは、紛れもなく幽香の目指したゴールだった。
――私は、間違っていなかった。
――誰にも敗けなければいい。
――全てを、恐怖で支配すればいい。
そして、次第に幽香は壊れていった。
何かに憑りつかれたように力だけを追い求めるようになった。
花を傷つけるか否かなど関係なく、全ての者に恐怖だけを植え付けていく。
人間であろうと妖怪であろうと、幽霊であろうと妖精であろうと、大した理由もなく全てを攻撃していく。
気付くと、もう誰一人として幽香に刃向う者などいなくなっていた。
あの時自分を打ち負かした萃香にすら敗けない力を手にしたのではないかと思うようになった。
だが……
「貴方は少しおかしくなっているのかもしれない」
それはあまりに突然、天災のように現れた。
相手に有無を言わさぬ絶対的な力を持った存在。
幻想郷最強と言われる鬼のさらに上の存在である閻魔、四季映姫・ヤマザナドゥとの出会いだった。
そして、それは萃香の時以上に拭いきれない敗北を幽香に叩き付けた。
「貴方は少し長く生きすぎた」
「……」
「このまま生き続けてもろくな事にならない」
映姫は、あろうことか手加減しながら幽香をひれ伏させた。
まるで、子供に説教する親のように。
そして、幽香は種族としての自分の力の限界を嫌というほどに思い知らされた。
たとえどれだけ強くなろうとも、自分では決して敵わない相手がいる。
妖怪である自分が誰よりも強くなれる日など、未来永劫来ることはない。
そう理解させられた幽香の心は、その日からますます壊れていった。
――私は……
≪許せないんだろ? 弱い自分が、妖怪の限界を超えられない自分が≫
――……ええ。
幽香を支配していたのは、怒りの感情。
萃香への、ではない。
映姫への、でもない。
ただ、それを超えられない自分自身への、止めることのできない憤り。
≪鬼を、閻魔を、何もかもを超えられる力が欲しいんだろ?≫
――そうよ。 それだけでいい。
もう、幽香にはどうでもよかった。
たとえ得体の知れない何かから与えられた力でもよかった。
ただ、誰もが恐怖するような絶対的な強さがほしいだけだった。
そして、幽香はその声に答えて堕ちていった。
ただの妖怪には決して届き得ない、次元の違う力を手に入れた。
かつての自分に土をつけた萃香すらも自らの手で葬り去った。
だが、あまりにあっさりとそれを成し遂げた幽香には、達成感以上に更なる乾きが待っていた。
――もう誰も私を倒すことなんてできない。
――もっと、もっとよ。 ただ、全てを――
全てを支配できる力を手に入れた時、幽香の心はもう何もかもを忘れていた。
自分が、元々何を求めていたのか。
自分が、本当は何をしたかったのか。
自分が、一体何のために戦っているのかすらも。
止めどなく溢れてくる殺戮への渇望は、幽香をさらに暴走させていく。
そこにあるのは、自分が何よりも強い存在であるための焦り。
死神ごときに遅れを取るわけにはいかない。
吸血鬼に、得体の知れない妖怪に出し抜かれるわけにはいかない。
そして、何より――――
◆
――ス、スペルカード、ブレイク、だぜっ!
◆
「ぁ……」
気付くと、目の前の少女が声を漏らしていた。
だが、幽香は動けなかった。
スペルカードルールという一種のゲームによるものとはいえ、一度は自分を打ち負かした人間を目の前に固まっていた。
その人間に向かってかざしている手から僅かでも魔力を放出すればそれで全てが終わる。
自分を苛立たせる、敗北の記憶から解放される。
だが、それでも幽香は動けなかった。
――何をしている。 私はこいつを……私はもう誰にも……
頭でそう思ってはいても、身体は動いてくれない。
その表情が恐怖に歪んだ魔理沙に、止めを刺すことができない。
――違う、そうじゃない、こんな……っ!!
『無意識の表層は……ちょっと揺れてるかな。 再構築』
ほんの一瞬の葛藤の中、幽香は自分の目線の先にある空間が少しずつ歪んでいくことに気付いた。
再生というよりも、むしろ生まれようとしているかのように、そこに小さな少女の姿をした何かが現れようとしていることに気付いた。
幽香はそれを攻撃しようと思ったわけではない。
ただ、魔理沙を前にして自身の中に生じた感情から目を背けるように、突然現れたそれに向けて魔法波を放った。
魔理沙に攻撃できなかった自分に言い訳するかのように、標的をその少女に移した。
「っ……!? 待って…」
――何?
だが、自らの絶対の死を回避したはずの魔理沙は、次の瞬間それ以上に絶望した表情へと変わっていった。
今の幽香には、それが理解できなかった。
奇跡的に一命を取り留めた人間が、なぜそんな表情をするのかがわからなかった。
魔理沙の目線の先にあるのは、幽香とその少女の直線上にある廃墟だけ。
なぜ、そんなものを自らの命よりも気にかけるのかがわからなかった。
――違うでしょう? 私を目の前にしているのなら、もっと放心したように恐怖するべきよ。
――幸運にも生を賜ることができたなら、もっと安堵の表情を浮かべるべきなのよ!
それが、幽香の抱いた感情だった。
そんな思考の中、幽香の放った光を逸らして同時に消滅したはずのフランが、何事もなかったかのように再びそこに浮かんでいた。
もう、幽香に向かってはこない。
狂気に満たされた笑い声を上げながら、そこから動かずに両手を広げていた。
まるで後ろにある何かを守るために、再びその身を投げ打とうとしているかのように。
――何よ……何なのよっ!!
幽香は自分の心を掻き乱すフランを、即座に再び消し飛ばす。
だが、それは無限に再生して幽香の前に立ちふさがる。
無駄な足掻きを、永延と繰り返す。
幽香の脳裏には、その光景が何かと重なりかけていた。
勝てるはずもない相手を目の前にして、それでも立ち向かい続ける姿。
ただ、何かを守るように自らを犠牲にし続けるその姿が、
――弱いってのはな……それだけで罪なんだよ。
「――――――■#△●※ッ!!!」
かつての、萃香から何も守れなかった時の自分と重なった。
――違う、私はこいつらとは違う! 私は……
奇声のような叫び声を上げた幽香は、微かに浮かんだ自分のイメージを払拭しようとフランを破壊し続ける。
だが、フランの姿は消えることなくひたすら幽香の目前に現れ続ける。
決して消えることなき過去の記憶と無限に再生するフランの姿が重なり、幽香の精神を徐々に追い詰めていく。
――私は、ただ……
「――――スペルカード宣言っ!!」
そんな幽香の思考を遮るかのように、再び後ろから声が響く。
その手に構えられているのは魔力を増幅するための小さな装置と……またも何の力も持たない、いや、むしろその力を制限することを宣言するカードだった。
魔理沙は不意打ちなどしなかった。
明らかに格上の相手に、あくまで正面から立ち向かっていた。
「魔砲、『ファイナルマスタースパークッ』!!」
魔理沙は、自分の出せる最大出力を幽香にぶつける。
だが、真正面からの攻撃では幽香には届かない。
幽香は再び残された腕を軽く前に出す。
――何? またそのお遊び? ……あまり調子に乗るなよ、人間風情がッ!!
そして、幽香はそれを片手で押し返す。
背後から迫りくる吸血鬼を自らの纏った魔力で消し飛ばしながらも、それを片手間に止めてみせる。
まるで、明らかな力の差を見せつけるかのように。
たとえどれだけ続けようとも絶対に敵わないことを、魔理沙の心に刻み込むかのように。
だが、幽香の目論見に反して、魔理沙の目に灯った光は消えることなく輝いていた。
――……なんで? なんで諦めない? たかが貧弱な人間の分際で――
――所詮これがお前の……妖怪の限界だ。
そして、ふと浮かんだその記憶が、また少し幽香の心を蝕んだ。
魔理沙の魔法波を片手で受けながら、幽香は呆然と立ち尽くす。
その背後に、いつの間にかフランの姿はなかった。
まるで、誰かが故意に今の幽香の思考を進行させようとしているが如く、戦況は誘導されていた。
「うおおおおおおおおおおおおっ!!」
魔理沙は、全力だった。
その攻撃は幽香には届かない。
――……たかが人間、か。 違うわ、そうじゃないでしょ。
だが、その攻撃は直接幽香の身体には届かずとも、幽香の思考の底を揺るがした。
魔理沙の姿を見た幽香は、何かを思い出すように固まっていた。
それは、幽香が花の異変で魔理沙と出会った日の記憶にまで届いていた。
あの時も、魔理沙は隠れていた。
草陰から覗くように、遠くからその姿を見ていた。
幻想郷中で大量の花が咲いていくその異変では、花の妖怪である幽香がその黒幕であるという線は濃厚だった。
それをわかってはいたものの、魔理沙は遠くからその姿を見ただけで動けなくなっていた。
最強にして最恐と呼ばれる妖怪に自分が立ち向かっているビジョンを思い描けないまま、霊夢が来てくれるのをいつものように待っていた。
――あれが、風見幽香…っ。
だが、その時の魔理沙は隠れ通すことができなかった。
それまでの異変の黒幕とは違い、幽香が飢えていたからだ。
その微かな呟きが、遥か遠くから幽香の耳に響いてしまったからだ。
相手が誰かなど関係ない。
まだ映姫と出会う前の幽香は、たとえ隠れている者であろうと全てを攻撃していた。
それ故、魔理沙は逃げることができなかったのだ。
幽香は微かに自分の視界に入った魔理沙との距離を瞬時に詰め、その手を振りかざしていた。
最初の一撃は高位の妖怪さえも一撃で殺すほどの攻撃でもって、外した。
その気になれば一瞬で殺せたものを、あえて外していた。
魔理沙の恐怖感を煽り、二度と自分に近づく気も起きないようなトラウマを植え付けようとしていた。
――ぁぅ……いゃ、助け、助けて……ぅぅぁっ。
突然のことに、魔理沙はまともに喋ることすらできなかった。
憐れな姿で逃げ惑う虚弱な人間に、それでも幽香は更に追い打ちをかけていく。
魔理沙は自分が何を考えているのかすらもわからないほどに、冷静さなどなかった。
戦いにすらなっていない、ただ一方的に蹂躙されていく絶体絶命の状況。
だが、そんな中でも、魔理沙はたった一つだけ、確かに言葉を放っていた。
――ぅ…くそっ……ス、スペル…ぁド、んげんっ、まふっ、ミルキ、ぇいっ!!
ただ魔理沙を恐怖に陥れようとする幽香とは対照に、魔理沙の顔はあまりの恐怖に涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
魔理沙には避けられない死がすぐそこに待っているかに思われた。
だが、それでも魔理沙は自分が覚えていないほどに必死に戦った。
辺りに弾幕を散りばめながら、木陰の隙間を潜り抜けていった。
幽香の攻撃をスペルカードに擬えて、ひたすら避け続けた。
――ス、スペルカード、ブレイク、だぜっ!
そして、結果的に魔理沙は生き残った。
そのスペルの取得宣言は高らかに世界に響き渡り、その耳に届いていた。
幽香の耳だけではない。
それを見ていた、第三者の耳にも。
――ええ、確かにブレイクね
決着とともに、魔理沙は背後に現れた異空間に飲み込まれていた。
その勝負を偶然見ていた紫の能力によって、幽香の手の届かない地へと飛ばされたのだ。
それと同時に紫の姿も消え去り、そこにはほぼ無傷のまま呆然と立ち尽くす幽香の姿だけが取り残されていた。
それは、見る者が見れば魔理沙が逃げていたところをただ紫に救われただけにも見える。
だが、確かに魔理沙は幽香の攻撃を避け切った。
攻撃の間を縫って自ら放った弾幕も、少しとはいえ幽香に直撃していた。
それはスペルカードルールが普及した幻想郷においては、紛れもなく魔理沙の勝利だったのだ。
それは萃香と幽香の戦いのように、実際に起こるまで結果を予想できない勝負ではない。
誰もが、魔理沙自身ですらも満場一致で魔理沙の敗北を予想した戦い。
だが、それでも魔理沙は諦めなかった。
泣きそうな顔で恐怖に震えながら、それでも魔理沙はただ逃げるだけではなく、幽香から勝利をもぎとった。
博麗の巫女である霊夢のような、妖怪退治のスペシャリストが倒したのではない。
誰もが恐れる大妖怪を相手にただの人間の少女が勝利するという、スペルカードルールの存在意義を幻想郷全体に知らしめる快挙を成し遂げたのだ。
――……そうよ。 私はこいつを見下してなんかいない。
――そんなことが、あるはずない。
そして今もなお、魔理沙は逃げない。
人間という貧弱な種族に縛られながらも、自分の限界を出し続けていた。
現実から逃げ出してしまわないように。
その魂に誓った覚悟を、嘘で終わらせてしまわないように。
――だって、本当は私は……
「―――――ッ!!」
そして、幽香がそんな思考に耽っている間に、魔理沙はいつの間にか幽香の懐にいた。
その魔法波を放ちながら少しずつ幽香に近づき、飛び出すように現れていた。
その身に僅かに纏っていた魔力は、全て手に構えた箒に集束されている。
幽香の隙を見抜いた魔理沙は、一切の防御を捨てて自ら死地に踏み込んだのだ。
「――ラストスペル――」
そして、その箒で全ての魔力を切り裂いて幽香の身体ごと振り払った。
空高く打ち上げられた幽香は、それでもほぼ無傷だった。
だが、その身体を静止できるまでのほんの僅かな時間、幽香の自由は奪われた。
恐らく1秒すらもかからずに万全の状態を取り戻すだろう幽香のその目に映っていたのは……無数の、いや、分身しているようにしか見えないほどの速さで幽香の周囲を縦横無尽に飛び回る魔理沙の姿だった。
「―――っぉぉぉおおおおおおおおッ!!」
魔理沙は自分が叫んでいることにすら気づかぬほどに、無心で飛び回っていた。
乗っている箒から無差別の方向に放たれ続けているのはファイナルマスタースパークと同じ光、つまりは魔理沙の出せる限界だった。
その推進力による加速で飛び回っている魔理沙は徐々にその速度を増し、最高の瞬発力を持つとされるレミリアを超え、幻想郷最速と呼ばれる文をも超え、そして本気の霊夢すらも超えるものと化していった。
だが、虚弱な人間の身体がそれに耐えられるはずがない。
魔理沙はその後に自分がぶっ倒れて動けなくなろうとも、たとえそれで自分の全てが終わっても、それでもかまわないという気持ちで自分の出しうる全てを懸けていた。
それは誰の目から見ても無謀な選択。
だが、それでも魔理沙は本気でそれを決行した。
決して諦めることなく、自らの選んだ道を真っ直ぐに駆け抜けていく。
その姿を間近で見ていた幽香は……
――だってあの日、私はそんなこいつの強さに、確かに『憧れた』のだから。
自らの内に秘めた本心を嘲るように、ただ静かに微笑んでいた。
恐怖に震えた心で、それでも幽香を破った。
人間という弱い種族でありながらも、それでも自分の力だけで萃香にすらも何度も挑み、遂には勝利をもぎとった。
そして今なお、敵うはずのない相手に向かって立ち向かい続けている魔理沙を前に――
「………ほんっと、バカみたいよね」
幽香はぽつりと呟いた。
全身を脱力させたような無防備な体勢で、目を瞑っていた。
――五月蠅いのよ。
そして、勝負の最中に目を瞑るなどという隙を、今の魔理沙が見逃すはずがなかった。
意識すらも飛びかけていた魔理沙は、無心で最高速度のまま幽香に向かって飛んでいく。
それは今の幽香をして止めきれるかわからぬほどの速度と爆発力を秘めた一撃。
ただ、音速を軽く超えたその速度は、何かに衝突すれば人間の身体など一瞬で原形も残らぬほどに飛び散らせて即死に至らせる、いわば捨て身の業だった。
だが、魔理沙の目に宿った炎は未だ燃え尽きてはいなかった。
考えてやった結果なのか、無意識のうちの結果なのかはわからない。
このスペルは元々、箒に乗ったまま相手に突っ込む技のはずだった。
だが、魔理沙は割れかけた箒に必死にしがみついていた両の腕を、それでもとっさに離して自ら空中に投げ出される。
そしてその手に構えたミニ八卦炉に、残る全ての魔力を凝縮して、
「『サングレイザアアアアアアアアッ』!!」
その箒をさらに押し出すように、残る力の全てを込めて魔法波を放った。
恐らく、その宣言はもう幽香には届かないだろう。
その魔法波が押し出す箒のスピードが、魔理沙の声よりも遥かに速いからだ。
その箒は幽香を突き刺すようにまっすぐにぶつかっていく。
――お前は、一体誰に向かって命令しているつもりだ?
幽香の直感によるものか、偶然によるものかはわからない。
だが、それでも目を瞑ったままで、幽香は確かにその箒を受け止めていた。
残された手の平で、完全に堰き止めていた。
その衝突は幻想郷と外の世界の境界を越えるのではないかというほどに、空間を歪めて火花を散らしていく。
競合いはほぼ互角のまま、幽香の手の平には亀裂が入り、端から砕け落ちていくミニ八卦炉を構える魔理沙の腕には、ヒビが入って悲鳴のように血を噴き出している。
両者がともに命を賭した、そんなぶつかり合い。
その状況でなお、幽香の目は未だ閉じていた。
――お前の力なんていらない。 こいつは私が、私自身の全てでもって潰す。 だから――
「っ………いっけええええええええええっ!!!!」
魔理沙は自分の中の全てを燃やし尽くすかのように叫んだ。
既にその叫びなど轟音に掻き消されて蚊の羽ばたきほども聞こえない。
魔理沙の表情がだんだんと青ざめていく。
だが、それに対峙する幽香の口角は確かに上がっていった。
そして、幽香はその目をゆっくりと開いて、
「――――消えなさい――――」
「っ――!?」
一言、地の底から這いあがったような重々しいその声とともに、辺りを覆っていた魔力が、闇が、弾けるように無に帰した。
その鋭い視線は、今まで必死に自分を奮い立たせてきた魔理沙をも硬直させる。
「――――――」
だが、その一方で幽香の纏う力は急激に萎み、魔理沙の箒は幽香の手の平を裂いてその身体を抉るように貫いた。
さっきまで魔理沙が乗っていた箒は、あまりにも速く、そしてあまりにも強力な魔力を纏い過ぎていた。
最後の魔理沙にもはやスペルカードルールを意識する余裕すらもなかったとはいえ、それは当たっただけで即死を意味するほどの兵器と化していたのだ。
その箒は幽香の体細胞を破壊しつくし、幽香に声を上げる余裕すらも与えなかった。
そして、幽香を貫いて飛び出した箒は、そのまま空の彼方へ消える前に燃え尽きて散っていった。
「……え?」
放った魔法波の反動で減速し、何とか無事に地面に着地することに成功した魔理沙は、そのまま呆けた様な声を上げた。
耳をつんざくような轟音の後に訪れた静寂の中、魔理沙の目に映っていたのは、既に元の形を成していない幽香の姿だけだった。
「幽、香……?」
幽香はもう動かない。
血まみれのその腕をまっすぐに突き出したまま、左のわき腹がごっそりと消え失せた姿で固まっていた。
それは、たとえ妖怪の強靭な身体をもってしても、耐えられるはずのない致命傷であるのが魔理沙には一目でわかった。
目の前に佇む幽香が、既に生きてなどいないだろうことがすぐにわかった。
「そんな……私は、こんな…」
「……ああ。 悔しいけど、これは一本取られたわね」
「え?」
だが、魔理沙の予想に反して、幽香は楽しそうに笑いながら魔理沙の方へと振り返った。
何かに支配されていただけのさっきまでとは違う、確固たる意志を持った妖怪としての力を秘めた瞳で、確かに魔理沙のことを捉えていた。
「じゃあ、今度はこっちの番ね」
普通なら死んでいるはずの傷を負ってなお楽しそうに笑う幽香の姿を前に、魔理沙はただただ唖然としていた。
そして、幽香は自らの懐に手を入れる。
そこから出てきたのは、血に濡れて端が焦げ落ちた、小さな一枚のカードだった。
「スペルカード宣言――花符『幻想郷の開花』――」
夜の闇と灰に覆われた暗い世界は、突如として華やかに彩られる。
そこに現れていたのは辺り一帯に咲いた花、ではなく、花を形どるように魔力で創られた弾幕だった。
「……はは、はははは」
何が起こっているかわからない魔理沙だったが、その口からは自然と笑みがこぼれていた。
既に感覚すら失い、自分の力で動かすことのできない四肢に、無理矢理魔力を通わせて魔理沙は立ち上がる。
立つことも、ましてや戦うことなどできるはずのない身体で、魔理沙は既に灰となりかけた大きな一本の枝を折り、箒の代わりにそれを構えて言う。
「参ったな……こりゃ、さっきまでなんかよりよっぽど手強い相手だぜ」
既に攻撃の手段も、まともに空を飛べる媒体すらも無い状況。
それでも魔理沙はまっすぐに前を見据えていた。
なぜなら、幽香もそれ以上の傷を負っていたからだ。
戦うことはおろか、数秒生きることすらも叶わぬように見える身体で、それでも魔理沙に向けてスペルカードを構えていたからだ。
そこから逃げ出すような無粋でつまらない生き方など、今の魔理沙には考える余地すらもなかった。
「さて、今度こそ決着をつけましょうか。 私と貴方の、本当の決着を!」
そう言う幽香からは、もう支柱としての力は感じられない。
だが、最強の妖怪の名に恥じぬほどの覇気でもって魔理沙を迎えていた。
それを目前に控えた魔理沙にも、もう身体の震えなどなかった。
ただ、この宿敵との本当の勝負をどれほど待ち望んだのかと言わんばかりに、魔理沙と幽香の表情はかつてないほど嬉しそうに笑っていた。
「……ああ、いいぜ。 何度でも、どこまででも付き合ってやるよ、幽香!!」
そして、自らの中に芽生えた抑えきれない衝動のままに、2人は目の前の相手に向かって同時に大地を蹴った。
◇
『……終わった、か』
魔理沙と幽香の死闘の末に始まったスペルカード戦。
そこに一人佇む少女は、もはやそれには興味を持っていなかった。
その戦いの目的を、既に果たし終えたからだ。
その人生の意味を、たった今全て終えたからだ。
『あーあ。 人の気も知らずに、あんなに楽しそうにしちゃってさ』
少女がその言葉を発したことに、意味などなかった。
『……なーんて、ちょっと言ってみただけ』
恨み言ではない。
羨ましいと思っている訳でもない。
祝福している訳でもない。
ただ、何となくそう思ったからそう言っただけだった。
誰かがそれに、言葉を返してくれるなどと思ってはいなかった。
なぜなら、少女はもう全てを失ったからだ。
認識されないままその戦場に君臨するために。
フランの無意識を完全に操るために。
幽香の奥底にある無意識を表出させるために。
そのために『古明地こいし』という存在を捨てて、世界の無意識と一体化してしまったからだ。
もうその存在は、目の前の魔理沙たちにも姉であるさとりにさえも、視認することはおろか、思い出すことすらできないからだ。
『あと、何分あるのかな』
かつてこいしと呼ばれていた少女に残された時間は、もうなかった。
既に妖怪としての死が不可避となってしまったからだ。
妖怪も、確かに寿命や傷病で死ぬことはある。
だが、妖怪には人間とは違い、「存在の死」というもう一つの死の概念があった。
幻想の生物は、それを信じる者がいるからこそ存在しうる。
その存在を肯定する者が誰一人としていなくなったとき、その妖怪は死滅するのだ。
この幻想郷でさえ、妖怪は誰かに観測され得るが故に存在できる。
誰も観測できない、存在していたことすら忘れ去られたこいしに、もうどこにも生きる道など残されていないのだ。
『あれ、おかしいな。 こうなるのも覚悟してたつもりなのにな……』
気付くと、その目からは涙が溢れていた。
あまりにあっけなく訪れた自分の最期に、生まれて初めて無意識のうちに悲しみを感じていた。
だが、そこにあったのは自分がまだ死にたくないという未練などではなかった。
『ごめんねお姉ちゃん、約束やぶっちゃって。 でも私、頑張ったんだよ。 私もちょっとくらい、お姉ちゃんの役に立てたのかな』
その頭に浮かぶのは、もう二度と会うことのできない姉のことばかりだった。
既に自分のことを覚えているはずのない、大好きな姉の喜ぶ顔だけだった。
『最後に、もう一度だけ会いたかったな――――』
こいしは目を瞑る。
少しずつ自分が消えていくのを感じていた。
その身体は微かに震えていた。
恐怖で震えているのではない、ただその目から溢れ出ようとする何かを必死にこらえようとしていた。
「――――おーい!!」
そして、こいしの耳に最後に届いたのはそんな声だった。
スペルカード戦をしている2人のところに向かって歩いていく、3つの影。
『……まぁでも、別にいいのかな』
それに少しだけ目を向けたこいしは、何かを思い出したかのようにゆっくりとしゃがみこんだ。
こいしはもう思い残すことはないと言わんばかりに、安らかな表情で目を閉じる。
その中の一つは、確かにさとりが初めて認めた魔法使いの姿だったからだ。
そして、幽香と今戦っているのは、確かにさとりのことを心から信じてくれた魔法使いの姿だったからだ。
「って、無視すんじゃないわよ、おーい!」
「あー、もうちょっとくらい待ってあげましょうよ」
「そうですよ、私も流石にそれは無粋だと思いますよ」
魔理沙と幽香は、周りの状況が見えていないほどにスペルカード戦に夢中だった。
その言葉は2人に届くことなく弾幕の音に掻き消される。
フラフラの足取りで歩く傷だらけの女性と、固唾を飲んで魔理沙を見守っていた小さな黒い羽をはやした少女が、その魔法使いの隣で楽しそうに笑う。
その微笑ましい光景は、最後のこいしの表情を笑顔で固めた。
『――もし最後に、こんな私の願い事が一つだけ叶うのなら――』
もう、こいしの姿はほとんど消えていた。
その身体が光の粒子となって空気に溶けていく中で、こいしは両手を合わせて何かに祈るように、
『――どうかあの輪の中で、いつかお姉ちゃんが笑っていられますように――』
そう、最後に言ったこいしの姿は、
「だから無視すんなって言ってんでしょコラァ!!」
「痛っ!! ……えっ!?」
アリスのツッコみとともに、再び幻想郷に現れていた。