東方理想郷 ~ Unknowable Games. 作:まこと13
春の並木道を歩く者の心はどこに向いているのだろうか。
満開の桜の花に人ごみの喧噪、あるいはそれを引き立てる料理や酒の味や香りに春を告げる風の感触。
きっと、誰もがそんなものに心を向けているだろう。
誰一人として、その路肩に落ちている石ころに気付く者などいないのである。
だが、完全に意識の外にあったはずの石ころが突然、空中を縦横無尽に駆け巡ったらどうなるか。
誰もがきっとその一瞬、周囲を取り囲む春の風物詩のことなど忘れてその石ころに意識を奪い取られてしまうだろう。
そんな石ころのような存在であるのが、彼女の持つ『無意識を操る能力』の本質だった。
相手の意識の外側に溶け込むことも、介入することも、そこから表出することもできる能力。
それを使えば、自分や自分が触れているものを他者が認識できなくすることも、相手の意識の全てを瞬間的に自分に集めることも可能なのである。
そして他者の無意識、今回はフランの無意識に介入することで狂気から一時的にフランを開放することを可能にしたのも、実は彼女の能力の応用によるものであった。
だが、彼女の恐ろしさはその反則ともいえるほど強力な能力にあるのではない。
その行動原理の半分は彼女自身の趣味のようなものでもあるが、それでも幽香が倒れる直前、いくつかの戦略的行動をとっていた。
あえて子供っぽい態度をとりながら自らの能力を『ありとあらゆるものを見えなくする能力』という視覚に介入する能力だと誤解させることで、幽香の焦燥感や視覚的な警戒を誘発しながらも、ペラペラと自分の能力を明かすような心理戦に縁のない存在であると幽香の無意識に刻み込んだ。
特徴的で意味不明な自己紹介によって、希薄な存在である彼女自身よりもむしろカードの印象を幽香の脳裏に強く残すことで、幽香が無意識に彼女とカードの存在を繋げるよう仕向けた。
彼女と「八雲」という幻想郷の誰もが知る名を結びつけることで、幽香の意図せざる思考を無意識のうちに誘発させ、冷静な思考を一瞬だけ奪った。
その結果が今の状況である。
右の手袋があれば当然左の手袋も一緒にあると思い込んでしまうのと同じように、彼女がカードと一緒に存在すると無意識のうちに思わされてしまった幽香は、罠の可能性すら考えずにそのカードに向かって全力疾走した挙句、八雲という名に踊らされているうちに、いつの間にか完全にその意識の外になっていたフランに打ち伏されてしまったのだ。
それは、当然のように彼女の頭の中で完成していたストーリーだった。
だが、たとえ他の誰かが同じ能力を持っていたとしても、同じことは決してできないだろう。
実はその能力は制約が多く、能力の意味を深く理解しなければ使いこなせない。
たとえば紫のようにその存在や能力を多くの者に知られ、自分自身が他者から意識される存在となってしまうだけで、その能力は力の大半を失ってしまうのだ。
それを知っていた彼女は、その力を使いこなすために自分を捨てた。
心を閉ざし、他者と交わらないことでその能力を更に強固なものとしていた。
戦略のためにそれを徹底できる彼女の血筋は、その戦闘スタイルをそのまま表している。
彼女の本当の名は八雲こいしではない。
ハッタリと知略を張り巡らせて戦況を支配する地底の頭脳、古明地さとりの妹にして懐刀。
その名を、古明地こいしという――
東方理想郷 ~ Unknowable Games.
第16話 : 覚悟
幽香は地面に這いつくばった体勢のまま、目線だけでこいしを見上げていた。
そして、こいしの冷静な表情とその隣に漂う瞳を見て、恨めし気に言う。
「っ……思い出したわ、その瞳。 何が八雲こいしよ。 貴方、古明地さとりでしょう」
「あ、やっぱり知ってるんだ」
「その気味の悪い第三の瞳に卑怯で嫌らしい戦い方……噂通りのっ!?」
そう言いかけた幽香の頭を、こいしは思いっきり踏み潰す。
動けない相手の頭を踏みつけながらも、こいしの表情はほんの少しも変化していなかった。
だが、表情は変わらなくとも、こいしが今の言葉に怒りを抱いたことくらいは幽香にもわかった。
「くだらないお喋りはいいわ。 いくつか質問をするから、貴方は大人しくそれに答えていればいい」
「はっ、くだらない。 なんで私がそんなこと――っああああああ”あ”っ!?」
「自分の立場がわかってない? 今、貴方に拒否権はないんだよ」
幽香が泣き叫ぶような悲痛な声を上げる。
今の幽香の両手足と胴体は灼熱の炎を纏った剣で貫かれている。
さっきまで、幽香は自分の身に起こっているそれに気付くことすらなかった。
それにもかかわらず、身を引き裂かれて焼かれるような痛みが、突如として幽香を襲ったのだ。
「今、私は貴方の意識を痛みから外すことも、必要以上に痛みに向けさせることも思いのままにできるの。 それだけ言えば、私に逆らったらどうなるかくらい、わかるでしょ?」
「っ……」
幽香は、もう言葉が出なかった。
反撃するどころか体を動かすことすらできないまま、未だかつて味わったことがないほどの痛みに屈しそうになっていた。
そして、幽香の全身を貫いているフランも、状況を把握できずにただ立ち尽くすだけだった。
そんな中で、たった一人全てを知っているかのような目をしたこいしが淡々と幽香に問いかける。
「じゃあ、まず一つ。 貴方のその力は、誰から手にしたの?」
「……闇の能力を操る胡散臭い奴の…っ!?」
「あ、違う違う。 ちょっと聞き方を間違えたかな」
幽香は、自分がそれに答えたことに驚いていた。
どれだけ脅されようとも、こいしの質問に答える気などないはずだった。
今もなお打開策を練っていたからだ。
幽香が、まだ諦めていなかったからだ。
だが、それにもかかわらず無意識のうちにその口は開かされていたのだ。
それはつまり、もうこの戦いが終わっていることを意味していた。
この先の結果には幽香の意思すらも関係ないということだった。
自分が既に相手にされてすらいないという屈辱。
それが、幽香の中にあった何かを壊した。
そんな幽香に向かって、こいしはこんなことを聞く。
「力の持ち主の話をしてるんじゃない。 貴方は今……誰の思惑で動いてるの?」
「……もう、いいわ」
「え?」
だが、その言葉は幽香の無意識にすら届いていなかった。
幽香の脳裏には、既に他の言葉が入る余地などなかった。
――全部、持っていきなさい。
ただ、殺意。
プライドなど、既になかった。
はらわたが煮えくり返るほどの怒り、などという生易しいものではない。
「え……っ!?」
こいしは幽香を踏みつけていた体勢からフランの手を取って飛び下がり、瞬時にフランと自分を幽香の意識から外した。
それとともに幽香の身体が痙攣を起こしたかのように震え、夜の暗闇に混じって得体の知れない黒が溢れ出す。
それは、さっきまで幽香を守っていた闇の力のようにも見える。
だが、このまま幽香の力になっていくとさえ思われたそれは、逆に幽香の魔力に掻き消されるかのように爆ぜていく。
強大になりすぎた魔力が、大気を震わすほどに闇を押しのけて溢れだしていく。
「うわぁ……これは流石に聞いてないよ、お姉ちゃん」
幽香は無言のままゆっくりと立ち上がる。
溢れ出した魔力が全てを包み込んでいく。
辺り一帯で、一か所に留まりきれなくなった魔力が核分裂を起こしたように無限に膨張していく。
その中心に佇む幽香の目は光を失ってなどいない。
ただ紅く、睨み殺すような眼差しが辺りを照らしていった。
「……ねぇ、フランちゃん」
「……」
「アレ、なんとかなる?」
「……」
こいしは呟くように聞く。
フランは呆然と口を開いたまま声も出せず、ただその様子を見ていることしかできなかった。
さっきまで、幽香は支柱としてありながらも未だ完成してはいなかった。
幽香の中に僅かに残っていたプライドが、完全に手駒として操られることをギリギリのところで拒んでいた。
だが、こいしから受けた屈辱が、それを完全に消し去ってしまったのだ。
そこにあったのは、幽香を支配しているはずの者ですらも手が付けられなくなるのではないかと思うほどの、殺意の混じった狂気。
フランとこいしが2人同時に立ち向かったところで、近づいた瞬間に虫でも潰すかのように消滅させられてしまうだろう、絶対的な力の差。
確かな絶望が、そこにはあった。
「私には……無理、かな」
「そっか。 じゃ、逃げよっか」
「えっ!?」
そして、幽香が自分の手に負えないことを理解した途端、こいしは本当に一瞬で興味を失った。
紅魔館どころか幻想郷すらも滅ぼしてしまいそうなほどの力を手にした幽香を放っておいて、こいしは一切の躊躇もなくフランの手を引いてその場を離れようとする。
だが、フランはそこを動かなかった。
「どうしたの? 早く行こうよ、フランちゃん」
「……ごめんね。 たとえ勝てなくても、一人でも私は戦うから。 お姉様の帰る場所だけは、私が守らなきゃいけないから」
フランの闘志は未だに衰えていなかった。
更に力を増幅させていく幽香の姿を見据えながら、こいしの手を放して一歩を踏み出そうとする。
だが、こいしは放されかけたフランの手を強く握り返して言う。
「それって、大事なこと?」
「え?」
震えるその身体で再び臨戦態勢になったフランだったが、こいしはそれに疑問を投げた。
「フランちゃんのお姉ちゃんって、フランちゃんの命を捨ててまであの廃墟を守って、それで喜ぶような人?」
「それは……」
「私は直接話してないけど、お姉ちゃんと話してたあの人は、傍目から見てもわかるくらいフランちゃんのことを誰よりも大切に思ってたよ」
それは、フランもよくわかっていた。
レミリアが何百年もただフランのためだけに苦しみ続け、そのためだけに生きてきたこと。
紅魔館と引き換えにフランが死ぬようなことがあれば、これまでのレミリアの人生は無駄になってしまうだろうこと。
その自覚があるからこそ、今日に至るまでフランは死ぬことをためらい続けてきた。
「でも、私は……」
だが、それでもレミリアのために何かできないかということしか、今のフランの中にはなかった。
そんなフランに、こいしはただ優しく告げる。
「私のお姉ちゃんも、ね。 色々と無理難題も言うし、時々厳しかったりもするんだけどさ。 一つだけ、絶対に守れって言われてる約束があるんだ」
「……」
「たとえ数万や数億の命が失われる場面でも、世界が滅びるような状況でも、貴方が死ぬくらいなら任務も義理も全部放り投げて逃げなさいって」
こいしは嬉しそうにそう言う。
フランも、それを聞いて少しだけ戦意を失っていった。
レミリアも絶対同じように言うだろうことが、フランにもわかったからだ。
だが、フランを説得するためにそう口にしたはずのこいしの手は、微かに震えていた。
「……なのにね。 そんなこと言うくせに、自分は何もかも全部一人で背負おうとして無茶ばっかりしてさ」
「え?」
「お姉ちゃん、私に行き先も伝えずに行っちゃったんだ。 多分フランちゃんのお姉ちゃんと一緒に、この異変を解決しに」
「そうなんだ…」
こいしは、さとりに対して憤りを感じていた。
今まで、こいしはいつだってさとりに従ってきた。
それが間違いだったことなんて、ただの一度もなかったから。
何より、こいしを大切にしようとする、さとりの優しさを感じることができたから。
だが、さとりは自分自身に対しては全く優しくなかった。
汚れ仕事や一番危険なことはいつだって自分一人でやろうとするさとりへの不満が、こいしの中で日に日に溜っていく一方だった。
そして、今回もこいしを置いて行ってしまったさとりに対して、遂に我慢の限界が来てしまった。
「あーあ……まったくさ。 ほんっと、優秀すぎる姉を持つと妹は大変だよね」
「そう、だね」
「お姉ちゃんたちに守りたいものがあるのもわかる。 だけど、私にだってフランちゃんにだって、守りたいものくらいあるんだよ」
「……うん」
憤りを感じているのはフランも同じだった。
何百年もたった一人で苦しみ続けて、今もなお運命と闘っているレミリアに言ってあげたかった。
自分も、レミリアのためなら何でもすると。
どんな苦境に立たされたって、それでもかまわないと思っていると。
「私だってお姉ちゃんの役に立ちたい。 そのためなら、私もどんなことだってする。 だから……」
こいしはフランの手を、ぎゅっと強く握りなおす。
そして、何かを決心したかのようにその目線を上げて言う。
「やろっか、フランちゃん。 少しでもお姉ちゃんたちの負担を減らせるように、あの妖怪一人倒すくらい私たちで頑張ってみよう!」
「うんっ!!」
フランは元気よく返事してこいしの手を放す。
2人のその目は、再びしっかりと幽香のことを捉えていた。
そして、フランはその手にありったけの魔力を凝縮しようとして……その選択を後悔することとなる。
「っ!! こいしちゃん!!」
「え?」
フランがこいしの能力から僅かに外れると同時に幽香の貫くような眼光が刺さり、同時に放たれた暗闇を貫く無数の光の束が辺りを照らしていく。
本来ならば幽香の意識の外にいるこいしに届くはずのないそれは、余波だけでこいしを消し飛ばすこともできそうなほど凶悪な威力を感じさせた。
――禁忌、『フォーオブアカインド』!!
それを瞬時に察知したフランは、自らの力を4つに分けて分散させた。
フランの3体の分身が、自分を、こいしを守るように同時に飛びかかる。
だが、幽香の放った光はそれらを全てあっさりと消し飛ばしてその残照だけでこいしを貫いた。
「ぁっ……」
こいしには、何が起こったかすら把握しきれていなかった。
自分の腹部を焼かれ、その衝撃で地面を転がるように叩き付けられ、気付くと倒れて動けなくなっていた。
それを見て大急ぎでこいしに駆け寄るフランだったが、
「こいしちゃん! しっかり…」
「うし、ろ…」
「えっ――――」
こいしの目に僅かに幽香の姿が映ると同時に、鋭く伸びた幽香の手にフランの胸が貫かれ、そのまま全身がトマトのようにあっけなく弾け飛んだ。
フランの姿が消滅し、幽香の視線が自分に向いたことに気付いたこいしは、
――あ……これは。 ダメ、かな。
瞬時に理解した。
こいしは自分を幽香の意識から外すことができない。
あまりに多くを幽香に見せ過ぎてしまったことの弊害が出てしまったのである。
先の戦いで幽香の中にこいしの存在が強く残り過ぎてしまい、簡単にその意識から外すこともできなくなっているのだ。
しかも、意識が飛びそうになるほどの痛みのせいでまともに能力を使いこなすことすらできない。
――やっぱり、お姉ちゃんの言うとおりにしなかったからバチが当たったのかな。
フランは、なぜか今までのように一瞬で再生してはこない。
そして、今のこいしの能力では現状を打破することはできない。
もう、どうにもならないことがわかっていた。
こいしは諦めたように目を瞑る。
――ごめんねお姉ちゃん。 約束、守れなくて……
「――――おいっ!」
そこに、突如として一つの声がこいしの耳に入る。
だが、こいしは一瞬だけそれに注意を向けかけ、目を向けることすらなく興味を失った。
その少女が、あまりに矮小な力しか持っていないことがわかるからである。
この状況で起死回生の一手を打てるほどの力を持っていないことを知っているからである。
その少女に気付いた幽香は、再びその手に凝縮した魔力を放つ。
こいしはただ、死地にタイミング悪く踏み込んでしまった少女を哀れむだけだった。
だが……
「そのまま伏せてろっ!! 恋符、『マスタースパアアアァクッ!!』」
「……――――え?」
再び放たれた幽香の魔力は、魔理沙の魔法波に相殺されるように消え去っていった。
◆
魔理沙が去ってからしばらく、図書館には重々しい空気が流れていた。
そこにいるのは、さとりに壊されてしまった人形を直しながら他の人形に運ばせた本を読み漁るアリス。
「いい加減にしてくださいっ!!」
そして、いつもは決して見せることのない怒りを露わにして怒鳴る小悪魔だった。
だが、アリスは小悪魔の怒鳴り声を受け流して黙々と人形たちに次の本を開かせている。
「確かに、魔理沙さんの言い分にはおかしいことだってあったと思います。 でも、だけど! そんな見捨てるような態度をとる必要なんてないじゃないですか。 今だって、きっとアリスさんのことを待ってるはずなんです」
「……」
「……私はちょっとしたバカ話をしてるアリスさんと魔理沙さんの姿を見るのが好きでした。 でも、今回の扱いはあんまりです!」
小悪魔は見てしまっていた。
アリスに見放された直後の、魔理沙の泣きそうな顔。
強がって無理に笑おうとして、それでも溢れ出しそうになる涙が止まらない、そんな表情。
そして……
「それに、魔理沙さんだけじゃない。 美鈴さんだってもう限界なんです、だから……」
「そうね」
「っ!!」
小悪魔は、その気になれば魔力を使って紅魔館の外の状況を見ることもできる。
だが、パチュリーがギリギリの戦いをしている今、もはやそちらに魔力を投入する余裕はなく、その様子を見ることすらできない。
最後に見た時に映っていたのは、幽香の掌底で沈んだ美鈴と、首を絞められて真っ青になっている魔理沙の姿。
そして、今なお図書館に揺れが伝わるほどの戦闘が行われているのはアリスにもわかっているはずだった。
だが、それでもアリスがその手を止めることはなかった。
無関心を貫くような態度で人形の修復と読書だけを続けるアリスを見て、小悪魔にも我慢の限界が来る。
「この、わからずやっ!!」
「……」
「本当なら、私だって2人のところに助けに行きたいですよ! でも、私にはアリスさんと違ってそんな力はないんです。 こうやって、お願いすることしか…」
「あーもう、うるさいわね」
そこで、やっとアリスが少しだけ小悪魔に反応する。
だが、それでもアリスが手を止めることはなかった。
アリスは立ち上がるでもなく、本を読んでいた視線を少しだけ小悪魔の方に向けて言う。
「しょうがないからこの際貴方にだけは言うけど……魔理沙やパチュリーには言わないでくれる?」
「……何の話ですか?」
「いいから、秘密守れるかって聞いてるのよ。 あ、フリじゃなくて真面目な話ね」
「内容に、よります」
「……まあいいわ」
少しだけ言い辛そうに勿体つけて言うアリスだったが、小悪魔はイライラしていた。
この状況で何を秘密にすることがあるのかと思っていたが……
「私はね、弱いのよ」
「え?」
その言葉の意味が、小悪魔にはよくわからなかった。
「もちろん、その辺の木っ端妖怪相手なら多対一でも負けるだなんて思わないけど、それだけよ。 スペルカードルールなしでも魔理沙に敵わないだろうし、本気のパチュリーとなんて勝負にすらならないわ。 この子が、私の主力の人形が使えない状況じゃ、多分貴方と大して変わらない程度の戦力でしかない。 だから、あそこに行っても私には何もできない」
「何を、言って…」
「ま、自分で言うのもアレだけどとりあえず知識量だけはあったからね。 普段は魔理沙に知恵を貸すような形でサポートして、勝負をして負けた時もただスペルカードルールが苦手って言ってごまかしてきただけよ」
「そんな、言い訳みたいなっ…!!」
小悪魔には、それはただの言い訳にしか聞こえなかった。
今まで小悪魔は、アリスがパチュリーと同等以上の魔法使いなのだと信じていた。
見習うべき大魔法使いとして、ずっと尊敬し続けてきた。
それは小悪魔だけではない、パチュリーさえも同様に思ってきたはずなのである。
だが、アリスはそれは違うという。
小悪魔は、そんなことをアリスの口から聞きたくはなかった。
それが、ただの言い訳なのだと思いたかった。
それでもアリスは一人続ける。
「ぶっちゃけ、地底の時なんて冷や汗もんだったわよ。 あの時古明地さとりが降参してくれなかったら、決闘みたいになった時に魔理沙が止めてくれなかったら、小細工が通用せずに心を読まれてたら、私はそこでお終いだったもの」
「……もう、いいです」
「でも、実戦になればすぐにボロが出るわ。 たった10体程度の地底の低級妖怪を相手にフル装備で全力を出してあのザマよ。 普段はこんな態度とってるくせに笑っちゃうでしょ」
「だから、もういいですっ!!」
小悪魔はアリスの言葉を遮るように叫ぶ。
裏切られた、騙された、そんな気持ちは確かにあった。
だが、そう叫んだのはどこかいたたまれなくなったからだった。
淡々とそう告げるアリスが、聞いている小悪魔よりも辛そうに見えたからだった。
「……そ。 貴方のそういうとこ、私は嫌いじゃないわよ」
「私は、嫌いですっ。 アリスさんが、そうやっていつも自分だけ悟ったような顔をしてるのがっ!」
小悪魔は俯いたまま震えるようにそう言った。
そして両手を強く握りしめたまま立ち尽くす小悪魔に、アリスは今までと同じような冷静な口調で告げる。
「なら、嫌いついでにもう一つだけ頼まれてくれないかしら」
「……なんですか」
「これから魔理沙に取る対応を、いつもみたいに私に合わせて。 それで、貴方への頼みごとは最後にするから」
そこに、強く扉を開く音が鳴り響いた。
いつもみたいに扉を突き破っては現れない。
アリスのことを呼ぶ声も、ない。
それでも小悪魔の目に入ったのは、重傷の美鈴を背負う魔理沙の姿だった。
「め、美鈴さんっ!?」
「悪い小悪魔、美鈴のこと頼んでいいか」
「は、はい。 魔理沙さんは…」
「ちょっと、な」
それだけ言って、魔理沙は踵を返す。
小悪魔は魔理沙の目に宿った寂しそうな色を見逃さなかった。
だが、今の小悪魔には魔理沙に言ってあげられることはなかった。
恐らくはアリスのことを待っているだろう魔理沙に、望むことはしてあげられない。
アリスが魔理沙と一緒に行けない理由を、もう知ってしまったからだ。
それでも、たとえ一緒に行けないとしても、アリスにできることがあると思った小悪魔が口を開こうとするが、
「アリスさ…」
アリスを呼ぼうとした声は、そのアリスの冷たい視線に遮られた。
アリスは魔理沙に目を向けることすらない。
人形を修繕する手を進めながら、完全な拒絶を見せ続けるだけだった。
「……じゃ、行ってくるぜ」
「って魔理沙! あんたも動けるような身体じゃないでしょ、立て直せるまでここにいるんじゃなかったの!?」
「私は別に平気だぜ。 もう一仕事くらいなら、多分な」
美鈴が引き留めるが、魔理沙は振り向くことすらなかった。
ただ後ろ手を振りながら、一人で図書館を後にした。
「……あーもう、だったら私もすぐ行くから、ちゃんともちこたえなさいよ! って聞いてんの魔理沙ー!!」
美鈴がそう叫ぶが、返事はなかった。
既に、魔理沙の姿はなかった。
魔理沙は本当にただ美鈴を送り届けに来ただけだった。
アリスや小悪魔に助けを求めようとなんてしなかった。
だが、本当は助けてと言いたかっただろうことが、小悪魔にはわかっていた。
扉を開ければアリスがまたいつものように話しかけてくれるのではないかと思っていたのに、それでも拒絶されたから逃げるように一人で出て行ったのだろうことがわかっていた。
「……正直、そこまで薄情だとは思いませんでした」
「……」
「たとえ戦えなくても、声をかけてあげることくらいできるんじゃないですか? 少し元気づけてあげることくらいはできるんじゃないですか!?」
「え? 何? どうしたの?」
小悪魔とアリスの険悪なムードに美鈴は混乱している。
いつもアリスを慕うように付きまとっていた小悪魔が、アリスに蔑むような目を向けている状況が、わからなかった。
「いいのよ、これで」
「なんでですか!?」
小悪魔がアリスに食って掛かる。
そんな小悪魔に、アリスはあくまで冷静に返す。
「魔理沙はね、周りに依存し過ぎなのよ。 霊夢にも食らいついていけるポテンシャルを持ちながら、自分一人じゃ動けない」
「え?」
いきなりそんな話を始めたアリスに、小悪魔は怪訝な目を向ける。
だが、それをアリスは気にせずに続ける。
「まぁ確かに霊夢には紫や藍がついてるけど、霊夢は多少のサポートを受けることはあっても自分の力で異変を解決しようとするわ。 守矢の巫女にしたって、よほどのことがない限りそこの神に頼ったりなんてしない。 自立したい、認めてもらいたい、あるいは霊夢を超えたい、そんな気持ちがあるのかもしれない。 でも、魔理沙は違うわ」
「……何が、違うっていうんですか」
「そうね……自分の力で何かを成し遂げたい。 でも、困ったときはいつでも私やパチュリーが、誰かが助けてくれる。 それでもダメなら、きっと霊夢が何とかしてくれる。 それが魔理沙の心情よ」
「だから何ですか。 それが、いけないことだっていうんですか? いざって時に誰かを頼ったり、誰かと一緒にいたいと思うことが、そんなにいけないんですか!?」
「……あー、ちょっといい?」
そこで、美鈴が2人に口をはさんだ。
少しバツの悪そうに頬を掻きながら一瞬だけ目を逸らした美鈴だったが、それでももう一度真っ直ぐに小悪魔のことを見て言う。
「なんですか」
「いや、何の話なのか私には詳しいことはわからないけどさ。 でも、多分それは私たちが口を挟んでいいような問題じゃないと思うよ」
「……意味がわかりません。 私にはとても納得できません」
「そうだね。 私は紅魔館の門番で、こぁはパチュリー様の手伝い。 そういう道を選んだから、そう思うだけ。 だけど、魔理沙はそれじゃいけないんですよね」
「そうよ」
アリスは人形を直す手を休めることなく相槌を打つ。
あとの話は美鈴に任せたと言わんばかりに、目を向けなかった。
「霊夢と同じ道を歩くことを決めたのは、いばらの道を歩くことを決めたのは魔理沙だから。 それなら、魔理沙には乗り越えなきゃいけないことがあるんだよ」
「でも……」
「ま、私も納得いかない気持ちはこぁと同じだけどさ。 だけど、あの場でアリスさんが声をかけてたら少なくとも魔理沙はあのまま一人でここを出たりなんてしなかった。 きっと、アリスさんが助けてくれるんだって妥協してた。 違う?」
確かに、いつもそうだった。
魔理沙は今まで、ずっと逃げてきた。
異変を解決する寸前まで何度も行きながらも、結局一人で黒幕に立ち向かうことはできなかった。
霊夢が異変を解決するのを、陰から見ていることしかできなかった。
まるで、誰かが助けに来てくれるのを待っているかのように。
「だけど、今回みたいに私がいたところでどうにもならない状況もあるし、霊夢がいない時に幻想郷の危機が来ることだってあるわ」
「それは……」
アリスにそう言われて、小悪魔は少しだけ言葉に窮したように目線を下げる。
そんな小悪魔に向かってアリスは、
「……そんな時には、ね。 私は魔理沙がきっと、この幻想郷を救ってくれるんじゃないかって思ってるわ」
「え?」
さっきまでとは違って少しだけ優しい色を帯びた目をしてそう言う。
それは本当に心から誰かを信じた、そんな表情だった。
「魔理沙にはまだまだ無限の可能性がある。 それこそ、いつか霊夢だって超えられるって私は信じてるわ」
「アリスさん……」
「魔理沙はもっと自分の力を信じていい。 私なんかに頼ってダメになっちゃいけない。 だからね……これで、いいのよ」
そう言って黙々と人形を直しているアリスの手は、微かに震えていた。
それを見た小悪魔は、もう何も言い返せなかった。
本当は少しでも魔理沙の助けになりたいのに、身を切る思いで悪役を演じ続けているだろうアリスの気持ちを、痛いほどに感じ取ったからだ。
たとえ理解されなくとも自分のすべきことを冷静に判断して行動に移しているアリスを前に、ただ喚いているだけの自分を恥ずかしく思ったからだ。
――ああ、やっぱり敵わないなぁ。
小悪魔はただ立ち尽くしながらそう思った。
さっきまでアリスに向けていた蔑みの気持ちは、もはや小悪魔の中には全くなくなっていた。
たとえ戦闘ができなくても、強く生きることはできる。
強力な魔力がなくても、誰よりも頼れる存在になることはできる。
わき目も振らずにただ一人情報を集めながら人形の修復を進めるアリスのその姿は、小悪魔の目指す理想の魔法使いの姿そのものだった。
「……美鈴さん! 私にケガの様子、見せてください」
「え? あ、うん、お願い」
そして、小悪魔は何かを決心したかのように美鈴に駆け寄る。
自分の得意とする治癒魔法で、少しでも美鈴の力になろうと思ったのだ。
今自分に何ができるか。
今自分が何をすべきか。
それを、自分なりに考えた結果だった。
――私も、頑張らなくちゃ!
すぐにはできなくても、いつかアリスのような立派な魔法使いになりたい。
小悪魔の中には、そんな新しい炎が灯っていた。
そして、そんな小悪魔を横目で温かく見守りつつ、アリスはただ黙々と作業を進めていった。
◇
魔理沙はしばらくの間、瓦礫に寄りかかりながら目を閉じていた。
地下にいてなお感じる、自分とは次元の違う世界にある力の波動に押しつぶされそうになっていた。
さっきまでとは違う。
そこにあるのは、自分の全てを懸けても相手にすらされずに消し飛ばされてしまうだろう、強大すぎる魔の力。
強く発現しては消え去ってを繰り返す、目の前にすれば自分がどうなってしまうか予測もつかない、得体の知れない無の力。
そして、それらを超えてあまりにも大きく膨れ上がってしまった、対峙しただけで腰が抜けて動けなくなってしまうだろう、悍ましいほどの妖の力。
魔理沙には、わかっていた。
自分に、一人でそこに飛び込んでいけるような勇気なんてないことくらいわかっていた。
自分が、どうしようもない弱虫だということくらいわかっていた。
「……逃げんなよ」
だが、それでも魔理沙は一人で立ち向かおうとしていた。
聞こえてしまったから。
既に限界のはずの身すらも顧みずに共闘を誓ってくれた美鈴の声が。
声を荒らげて、本気で魔理沙のことを心配してくれた小悪魔の声が。
そして、本当は誰よりも深く魔理沙のことを信じてくれているアリスの声が。
図書館を出るとともに怖くなって扉に寄りかかっていた魔理沙の耳に、届いてしまったから。
「誓っただろ? 諦めないって」
魔理沙は自分を必死に奮い立たせる。
だが、それでもその身の震えは簡単には止まらない。
今までずっと、甘え続けてきたから。
アリスに、パチュリーに、いつも魔理沙を引っ張るように前を進んでいた、かつての自分を救ってくれた霊夢に。
「紫のことも、藍のことも、霊夢のことも、にとりのこともっ……」
だけど、ここに霊夢はいない。
アリスもパチュリーも、自分のことを助けてくれる人は誰もいない。
今の自分は、助けてもらう側ではない。
自分にしか助けられない人たちがいるから。
だから、もう弱い自分ではいられない。
救うんだと誓った。
ずっと自分を引っ張ってくれたライバルを、あの時怯えた表情をしていた霊夢のことを。
今もたった一人で苦しんでいる友人を、あの時助けてあげられなかったにとりのことを。
大切な人たちがたくさんいるこの世界を、大好きな皆のことを。
「今度は……私が助けるって誓ったんだろうが!!」
そう叫んで魔理沙は飛び立つ。
その身体の震えは未だに止まってなどいなかった。
今魔理沙が選んだのは勝算など全くない、ただ命を捨てるだけになるかもしれない選択だからだ。
だが、たとえ怖くても、無謀だとしても、この先にあるのがただの死地だとしても、魔理沙はもう振り返らない。
ただ、固い覚悟を宿したその目の炎だけは、誰よりも強く灯っていた。
◆
辺りには濛々と煙だけが立ち込めていた。
既に自分が死んだと思っていたこいしは、その出来事を理解するのに少し時間を要した。
あまりに矮小な魔力しか感じられなかったはずの魔理沙。
それが、フランすらも一瞬で消し飛ばすほどの幽香の力を、確かにたった一人で相殺したのだ。
幽香の意識は、今や完全に魔理沙に向いている。
今なら、こいしは幽香の認識を自分から十分に外すことができるはずだった。
――これは……まだ可能性はあるかな。
だが、その気になれば逃げることも可能な状況で、こいしはまた少しだけ希望を戻した。
今の満身創痍のこいしには起き上がることすらできない。
それでも、こいしのその目は魔理沙を見ながら微かに笑って……
「おい、お前は…」
「じゃあ、後は全部託すよ。 小さな魔法使いさん――」
「え?」
何か言いかけた魔理沙を遮ったこいしの姿は、いつのまにか消え去っていた。
そんな出来事を前に、一瞬だけ固まったように見えた魔理沙だったが、
「……ははっ、何だ。 神はまだ私を見捨てちゃいないみたいだな」
その直後、なぜか笑っていた。
たった今誰に話しかけようとしていたかすらも忘れてしまったかのように、魔理沙は幽香だけを見ていた。
まるで、そもそもこいしがそこに存在していなかったかのように。
「随分と。 情けない姿になっちまったもんだなぁ、幽香」
「……」
「ああ、もう口を開くことすらできないのか?」
今ここにいるのは余裕の表情で挑発する魔理沙と、既に焦点すら合っていない目で佇む片腕の幽香の2人だけ。
幽香はもう口を開かない。
何も言わないまま、再びその魔力を放出して……
「おっと! ……焦んなよ、幽香」
察知した魔理沙が、再びそれを相殺する。
魔理沙はそれが当然のことであるかのような顔をしていた。
だが、魔理沙がたった今放った魔法の源は、実は自分自身の魔力ではない。
増幅しすぎて辺りに溢れだしていた幽香の魔力を、自らの構えたミニ八卦炉に集めて放っていたのだ。
魔法使いとしての熟練度も格も、幽香の方が魔理沙よりも遙かに上だった。
その中でも、魔理沙と幽香の間に決して埋まることのない差として隔たっていたのは、一杯のコップと湖の水量の差ほどもある圧倒的な魔力量の差だった。
だが、辺りを漂う濃すぎる魔力が、その差を埋めることを可能としたのだ。
普段から多くの魔力を自分以外の媒体から利用している魔理沙にとって、それを使って魔法を放つのはそう難しいことではない。
それは、生まれ持った才能というものが劣る人間だからこそ成せる技なのである。
辺りを無限の魔力が覆っているこの状況は、魔理沙にとって千載一遇のチャンスだった。
だが、それでも魔理沙は既にいっぱいいっぱいだった。
ただ自分を奮い立たせるために、必死に強がっているだけに過ぎなかった。
この状況下なら幽香の攻撃を防ぐことも確かに可能だが、ほんの少し反応が遅れるだけで貧弱な自分の身体など一瞬で木端微塵になる状況を前に、本当は今すぐにでも逃げ出したいほどの恐怖を抱えていた。
「あの時はさ。 私は逃げ回ってただけだったよな。 ルールに助けられただけで、正直全然勝った気がしなかったぜ」
「っ……」
「だけど、今の私はあの時とは違う」
何かに反応するように、幽香から溢れる力がさらに膨れ上がっていく。
まるでこの世の全ての殺意が魔理沙に向けられているとすら思えるような眼差しが、魔理沙の全身をさらに震えあがらせる。
だが、それでも魔理沙にはほんの少しの迷いもなかった。
魔理沙は懐から何の変哲もない一枚のカードを取り出して、宣言する。
「スペルカード宣言、魔符『スターダストレヴァリエ』」
魔理沙の周囲を青白く光る星々が埋め尽くしていく。
その光は生死を懸けた戦いにはふさわしくないほど、ただ美しかった。
それとは対照的に、幽香を取り巻く魔力はただ相手を殺すためだけの禍々しさで染まっていく。
今の幽香がスペルカードルールに則る訳がないことくらい、魔理沙にはわかっているはずだった。
「もう逃げたりなんてしない。 今度こそ胸を張ってお前に勝ったって……私が異変を解決したって言うんだ! だから――」
だが、たとえ幽香がそれに乗ってこないことがわかっていても、それでも魔理沙はたった一人カードを構える。
これは、殺し合いなどではないのだから。
だから魔理沙は、その身に弾幕を纏って不敵に笑う。
もう、覚悟は済んでいた。
戦う覚悟、ではない。
一人で立ち向かう覚悟、でもない。
それは、ただ自らの勝利のためだけではない。
「来いよ。 私が、お前の気が済むまで相手してやるさ!!」
魔理沙の目にあるのは、霊夢と同じ覚悟。
この世界に生きる一人の魔法使いとして、幻想郷の未来を自らが背負う覚悟を確かに宿していた。