東方理想郷 ~ Unknowable Games.   作:まこと13

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第15話 : 妹

 

 ただ、姉が憎かった。

 それが感情の全てだった。

 

「……ねえ、少しでいいから私にも外の世界を見させてよ!!」

「何度も言ったでしょう、外の世界なんてものはないわ。 ここにあるものだけが、この世界の全てよ」

 

 ただそれだけ告げられ、狭い小部屋に囚われ続けてどれだけの時間が経ったのか。

 100年、200年…いや、それ以上になるか。

 そもそもこの部屋の外の記憶などなかった。

 それが当たり前だった。

 その人生には何もなかった。

 

「なんで……? 私が何をしたっていうの? なんで……なんで、なんで!!」

「五月蠅いわ。 貴方は黙って私に従ってなさい」

 

 希望なんてものはそもそも持っていなかった。

 ただ、止めどなく憎しみが溢れてくるだけだった。

 

 ――殺してやる。

 

 だから、一つだけ決めていた。

 いつかここから出ることができたその時は、姉を殺そうと。

 自由が欲しいだなんて贅沢は言わない。

 自分のために何をしたい訳でもない。

 いつか自分を苦しめ続けた姉を殺すその瞬間だけを求めて、吸血鬼フランドール・スカーレットは悠久の時を生きてきた。

 

 

 

 

 

東方理想郷 ~ Unknowable Games.

 

第15話 : 妹

 

 

 

 

 

 そして、その日は何の前触れもなく、突然やってきた。

 

 静かな満月の夜。

 満月であることなど、閉じ込められているフランには知る由もない。

 しかしそこにあるのは、200年以上もの間溜め続けた、幻想郷の王たる吸血鬼の力なのである。

 

「……あれ?」

 

 結界の中で何もできないまま渦巻いていた魔力が月の力を得て遂に溢れ出し、巨大な音とともにその小さな世界を破壊した。

 結界を壊そうなどと意識した訳ではない。

 それでも、気づくと部屋の壁には外へと続く大きな穴が開いていた。

 

「……ははは、あはははははははははははは」

 

 訳も分からないまま、フランは笑い出す。

 

 ――出られる。 やっと、ここから……

 

 フランの口角が上がったのは、久しぶりのことであった。

 だが、そこにあるのは外の世界へ出られることへの、自由への興奮などではなかった。

 

 ――殺せる! あいつを、肉片の欠片も残さない程に!

 

 身体の奥底から、魔力とともに止めどなく殺意の衝動だけが湧きあがってくる。

 フランはただ、たった一人のターゲットを求めて、その部屋から一歩踏み出そうとした。

 

「どこ…? お姉さまは……私を苦しめ続けたあいつはっ!?」

 

 しかし、外に向けて歩き出そうとしていたその足は、次の瞬間貫かれていた。

 

「え……?」

 

 そして、唖然としているフランに向かって魔力の雨が降り注ぐ。

 

「――――ぁっ」

 

 身構える間もなく吹き飛ばされたフランはいつの間にか小部屋の中に押し戻され、小さな槍状のものでその壁に両手両足を磔にされていた。

 そこにはたった一言の言葉すらもない。

 ただ、有無を言わさずフランを部屋に押し戻したその先には、

 

「……」

 

 確かに冷徹な目でフランを見る姉の、レミリアの姿があった。

 

「なんでよ」

 

 フランは瞬き一つせず、その見開いた目で目の前のレミリアを睨みつける。

 レミリアはそんなフランの殺気に怯む訳でもなく、結界を壊したフランを怒る訳でもなく、ただ淡々と結界を張り直す。

 

 まるで、この日こうなることがわかっていたかのように、淡々と。

 

「ねえ、答えてよお姉さま。 外の世界なんて無いんじゃなかったの? 全部嘘じゃない! なんで……? なんでお前は私をこんなに苦しめる!? なんで、なんで……!!」

 

 ――なんで、私ばっかりこんな目にあわなくちゃいけない!?

 

「ああああああああああああああああああッ!!」

 

 フランは叫び、そのまま槍ではりつけにされた自分の腕を、足を引きちぎってレミリアに向かって勢いよく跳ぶ。

 しかし、そうなることすらわかっていたかのように、

 

「あ”っ!?」

 

 今度は大きな槍がフランの体を垂直に貫いた。

 その身体は動かない。

 槍で床に縫いつけられて飛ぶこともできず、その槍を引き抜く腕も、地を蹴る足もない。

 そして、いくら満月の夜の吸血鬼の力をもってしても、その両腕両足を再生して動けるようになるまでには数秒の時間を要する。

 この瞬間に備えて準備をしていたレミリアにとっては、それだけの時間があれば結界を張り直すのには十分なはずだった。

 だが――

 

「なんで……」

「……」

「どう、して…なんでよ……どうしてっ!!」

「―――っ!?」

 

 満身創痍のまま泣きじゃくるフランのその姿が目に入り、ほんの少しだけレミリアの反応が鈍ってしまう。

 しかし、コンマ1秒の油断すら、今のフランの前では命取りだった。

 フランから無意識のうちに溢れだした魔力が、一気にレミリアを飲み込んだ。

 

「ぐっ……かはっ!?」

 

 かろうじて反応したレミリアの体は、それでもその衝撃で壁に叩きつけられ、直撃を避けきれなかった右足はそのまま消し飛んでしまう。

 想像を絶するほどの衝撃で頭を打ち付け壁に磔にされたレミリアは、そのまま気絶して動かなくなってしまった。

 

「…あはは。 はははははは、やったぁ」

 

 既に両手両足を再生させていたフランは、自分の腹を貫く槍を無造作に抜き取り、その傷さえも数歩の間に消していく。

 フランは気絶して動かなくなったレミリアを見て、不気味な笑いを浮かべる。

 

「無様ね、お姉さま。 これで私の気持ちも少しはわかった? 少しは反省した?」

 

 フランがその身体を左右に揺らしながら、ゆっくりとレミリアに近づいていく。

 レミリアの返事はない。

 

「だけど許さない。 許さない許さない許さない。 今度は私がいっぱい、いっぱいお姉さまと遊んであげるから!!」

 

 そう言うと、フランは自分に刺さっていた槍でそのままレミリアを貫いた。

 だが、それにもレミリアは反応しない

 

 爪を剥ぎ、そのまま残った四肢を引きちぎる。

 自分の魔力を炎へと変え、レミリアの体を焼き尽くす。

 その『ありとあらゆるものを破壊する能力』を使って、レミリアの体を跡形もなく消し飛ばす。

 200年以上も溜め続けた憎しみを全てぶつけるかのように、一切の手加減なくレミリアを破壊し尽くす。

 

 しかし、それでも吸血鬼であるレミリアの体は徐々に元の形を取り戻していく。

 

「……まだまだ終わらせないよぉ?」

 

 レミリアが再生していく姿を、フランは嬉しそうに見守っていた。

 

 ――この程度で私の憎しみが晴れる訳がない。

 

 ――何度も苦しみを与え、何度も破壊し、生きることすら嫌になるような地獄を見せ続けよう。

 

 ――命ある限り、私自身の体さえも朽ち果てるまで、ただこいつを苦しめよう。

 

 ただ、そんな顔をしていた。

 フランは再び自らの魔力を凝縮し、その腕に纏わせる。

 

「どれだけ泣いても、どれだけ謝っても、私以上の苦しみを永遠に………?」

 

 だが、フランは異変に気付く。

 レミリアは既に再生を終えていた。

 だが、消し飛んだレミリアの右半身だけは未だに元に戻るどころか、再生する気配さえ見せずに止まっている。

 まるで、それが元の姿であったかのように。

 

「……え?」

 

 そこで、フランは自分の足元に燃えカスを纏った鉄の塊があることに気付く。

 それは最初の攻撃で消し飛ばしたはずのレミリアの右足だった。

 いや、足と言うより、あえて言葉にするのなら、まるで義足のような――

 

「なに、これ……?」

 

 既に気を失っているレミリアは何も答えない。

 だが、右半身を失ったレミリアのその姿はどこか見覚えがあった。

 

「――っ!?」

 

 そのとき、突然の頭痛がフランを襲った。

 無理矢理に刻み込まれるかのように、その頭に何かが流れ込んでくる。

 いつしか忘れ去られた、懐かしい記憶が――

 

 

 

 

 

 

 

 

 よく晴れた空の下。

 広い花畑の中を小さな少女が一人走り回っていた。

 

「おとーさま、おかーさま!!」

「待ちなさい、フラン!」

 

 正確には一人ではない。

 同じくらいの背丈のもう一人の少女が、大きな傘を持って必死に走って追いかけていた。

 

「はぁ、はぁ、まったくフランったら、ちょっとは貴方に付き合わされて走る私のことも考えなさい」

「へっへー。 ありがと、おねえちゃん」

「もうっ!」

「いたっ」

 

 生意気そうな雰囲気のあるまだ幼きレミリアは、妹のフランドールの額を軽く小突く。

 

「ダメだぞフラン。 吸血鬼は太陽光を浴びちゃいけないんだから」

「えー」

「「えー」、じゃないの! せっかくお父様が外に連れてきてくれたんだから、ちゃんと言うこと聞きなさい」

「はーい」

 

 太陽光を苦手とする吸血鬼は自分の行動を自制できるようになるまでは基本的に昼間に外に出ることはない。

 それでも、フランが一度くらい昼に外に出てみたいということで、その日スカーレット一家は屋敷の中庭にある花畑に来ていた。

 多少の危険は伴うものの、家族総出でフランのサポートをすればいいということになったのだ。

 

「それで、どう? 初めて明るいうちに外に出てみた気分は?」

「うん! おはながきれーだし、とってもたのしい!」

「そう、それは良かったわ」

「まあ、楽しむのもいいけど、ほどほどにしておきなさい。 自分で傘もさして歩けないんだから」

「そう言わずに、ね? レミリアも楽しいでしょう?」

「……そ、そうね。 たまには悪くはないわ」

 

 レミリアは自分自身も楽しんでいるのだが、フランのように無邪気にはしゃぎまわるのが照れ臭いのか、少し目を逸らしながらそう言う。

 父と母がそんな2人の様子を見て、にっこりと微笑む。

 

 ――幸せだった。

 

 ――他に何もいらなかった。

 

 ――お父さまと、お母さまと、そしてお姉さまが傍にいてくれれば、それだけでよかった。

 

 ――ただ、3人に喜んでほしかった。 それだけだった――

 

「おとーさま、おかーさま、あと、おねえちゃん」

「あとって何よ!」

「みせたいものがあるの!」

 

 そう言ってフランが取り出したのは、両手いっぱいの黄色い花だった。

 レミリアが少し不満そうな目をして言う。

 

「駄目よフラン。 花だって生きてるんだから、むやみに千切るものじゃないわ」

「まあまあ、いいじゃないかレミリア」

「ふんっ、お父様もお母様もフランに甘いのよ」

 

 フランの父と母は笑顔でフランが両手に持った花を覗き込む。

 レミリアは露骨に目を逸らすが、一人取り残されるのが寂しいのか、フランたちの方を横目でチラチラと見ていた。

 

「きれいな花だね、フランのお気に入りかい?」

「うんっ。 でもみせたいものはちがうの、みててっ!!」

 

 そう言うと、フランは両手いっぱいの花を空高く放り投げる。

 館の中で偶然気付いた、フランの必殺技だった。

 

 ――きゅっとしてっ!

 

 そして両手を掲げ――

 

「どっかーんっ!!!!」

 

 突如、周囲一帯が霧散した。

 高く放り投げた花は爆散し、その鮮やかな黄色はまるで花火のように舞い散った。

 

「ねっ! きれいでしょ…」

 

 だが、その黄色い景色はすぐに真っ赤に染まる。

 

「……え?」

 

 『ありとあらゆるものを破壊する能力』。

 それは、幼い子供が使うにはあまりに大きすぎた、危険な力の暴走だった。

 フランには、そこで何が起こったのかすら分からなかった。 

 ただ、さっきまで笑ってフランのことを見ていた父と母の姿は、声すら上げないまま一瞬でただの肉片へと変わっていた。

 そのままそれは煙を上げて消えていく。

 

「……おとーさま、おかーさま? なんで…? いやだ、おとーさ…!!」

 

 そして、フランの体を突如として焼き尽くすような痛みが襲った。

 

「あ……なん、で……ぅぁ、あついよ、ああああ、ああああああああ」

 

 周囲に日影をもたらしていた傘や壁も同時に消し飛び、フランにも、転がっている両親の死骸にも、日光が燦々と照りつけていた。

 

「いやだ、だれか、たすけて……おとーさま、おかーさま……おねえ、ちゃん」

 

 フランは日光に焼かれ、徐々に意識が遠のいていく。

 そして、その意識の消える間際、フランの視界に入ったのは、

 

「フ、ラン……?」

「おね……っ!?」

 

 右半身が消し飛び、その傷口を日光に焼かれているレミリアの姿だった――

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぅあっ、ああっ、あああああぁぁぁぁ」

 

 フランは目を見開いたまま、頭を抱えてうずくまっていた。

 その顔は涙や鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。

 

「違う、私、こんなつもりじゃ……うっ」

 

 フランはそのまま胃に入っていたものを吐き出す。

 目を閉じるたびに蘇ってくる、父と母の死骸、倒れたレミリアの姿。

 呼吸は整わず、体内の物全てを吐き出していると思えるほどに、何度も嘔吐する。

 

「……ごめんなさい」

 

 ――ああ、やっとわかった。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 

 ――だからお姉さまは私を閉じ込めたんだ。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 

 ――お姉さまに対する私の憎しみなんかよりずっと、ずっと深く私を憎んでいたから。

 

「……あはは」

 

 ――私がお父さまを、お母さまを……お姉さまの幸せを、全部奪った化け物だから。

 

「あはははははははははははは――」

 

 ――だから――

 

 

「――死んじゃえ」

 

 

 その声と共に、辺りに肉が破裂したような嫌な音が響く。

 フランの胸に大きな風穴が開いていた。

 その風穴の前にあったのは、あろうことかフラン自身の手だった。

 

 しかし、それはすぐに再生する。

 

 ――ごめんなさい。 もう、消えるから……私、もういなくなるから…

 

 フランは自分に残っているありったけの力を、自分自身に向けて放出する。

 

 その爪で全身を切り裂き――

 内部から魔力を暴走させて体を焼きつくし――

 灼熱の剣で首ごと焼き飛ばして灰にし――

 その能力を使って全身を爆散し――

 

 それでも、再生する。

 

「壊れろ。 壊れろよ。 消えろよ、この化け物がっ! こんな奴さえ……こんな…!!」

 

 それはもう、狂気の沙汰だった。

 何度再生しても、その度にまた自分を壊し続けていた。

 

「こんな……こんな、ぁはは、ははははは、あははははははははははは」

 

 そして、いつの間にか笑い声が漏れていた。

 フランは自分自身が何をしているのかすらもわからなくなっていく。

 ただ、止めどなく全てが狂っていく。

 

 破壊する――再生する。

 破壊――再生。

 破壊、破壊破壊破壊破壊――

 

 そして、全て再生する。

 

 何度も、何度も、ただ同じことを繰り返していく。

 その度に、その表情は次第に狂気の笑みに支配されていく。

 辺りにはただ、狂ったような奇声だけが永延と響き続けて――

 

「フラン!!」

 

 その時、フランの右腕に光が突っ込んだ。

 その腕に溜められていた魔力は拡散し、辺り一帯に飛び散った。

 

「何を……しているの?」

 

 そこには地面に這いつくばりながらも、残った左手をフランに向けるレミリアの姿があった。

 狂気に支配されかけていたフランは、その姿を見て我に返ったかのように青ざめ、再び自らの手に魔力を凝縮する。

 

「っ!! ごめんなさい、もう死ぬから! だからお姉様はもう心配しないで!」

「……え? フラン、貴方何を!?」

「そうでしょ? お姉様は私が憎いんでしょ? 私みたいな化け物が!!」

「っ!?」

 

 フランはその涙を溜めた目でレミリアに向かって少しだけ微笑む。

 その目からはもう光が失われかけていた。

 そのまま、魔力の溜まったその腕を自分に向けて…

 

「……だから、今日で終わり。 もうこれ以上お姉様を苦しめないから。 今までごめんなさい、お姉様…」

 

「フラン!!」

 

 レミリアは、渾身の力でフランに飛びついた。

 フランの腕に溜まっていた魔力はフランの頭上を一直線に通過し、館の屋根を貫いて消える。

 そして、レミリアはそのまま残された片腕でフランのことを力いっぱい抱きしめていた。

 

「……え?」

「ごめん……ごめんね、フラン」

 

 フランには、レミリアが何を言っているのかわからなかった。

 謝るのは自分のはずなのに。

 なぜレミリアがそんなことを言うのか、理解できなかった。

 

「なんで? なんで謝るの…? 悪いのは私なのに」

「違う……」

「私がお姉様から全部奪ったんだよ? 私はお姉様からなにもかも奪ったのに!! 私なんてもう死んだ方がいい、ただの…」

「違う!!」

 

 レミリアが思いっきり叫んだ。

 

「お願い、やめて……私を置いていかないで」

「お姉、様?」

「ごめんね、辛かったでしょ。 私のこと、憎かったでしょ。 私、フランのことずっと閉じ込めて…」

 

 そう言うレミリアの顔を見たフランは、驚きのあまり声も出なかった。

 レミリアが泣いているところなど、初めて見たから。

 

「だけど、そうするしかなかった。 あの部屋を出たら、貴方は思い出してしまうから。 外に出れば、貴方は壊れてしまうから…」

 

 その運命は、レミリアには全て見えていた。

 

 特殊な結界を張っているあの部屋の外に出れば、フランはあの事件を思い出してしまう。

 そして、フランの中に眠る『狂気』が目覚めてしまう。

 それはフランには制御することなどできるはずのない、強大すぎる狂気。

 今はまだ自我も残っているが、いずれフランはそれに支配されて本当に壊れてしまう。

 ただ力の限り自分ごと全てを破壊して消えていく、本物の化物になってしまう。

 そうなれば、もう二度とフランは戻れない。

 それが、フランに課せられた運命だったのだ。

 

「でも、私はそんなのは嫌なの。 フランまでいなくなるのなんて、私には耐えられないからっ…!!」

「私、は…」

「……ごめんね、私の勝手で辛い思いさせて」

 

 フランは言葉が出なかった。

 今までずっと、フランは閉じ込められ続けてきた。

 だが、それは他の誰でもない、フランのためだった。

 レミリアは胸を締め付けられるような感情に耐えながも、フランのためにずっと悪役を演じてきたのだ

 それなのに、フランはずっとレミリアへの憎しみだけを溜め続けてきた。

 レミリアの優しさに、気づくことができなかった。

 

「……だけど、私、頑張るから」

 

 レミリアはぎゅっと、さらに強くフランのことを抱きしめる。

 

「あとどれだけ時間がかかるかもわからない。 だけど、たとえあと何十年、何百年かかったとしても、いつか絶対……お姉ちゃんがフランを外に出してあげるから…」

「ぁ……」

 

 フランをこのまま外に出せば全てが終わってしまう。

 そうさせないために、レミリアは今までフランを閉じ込めてきた。

 たった一人で200年以上もフランを外に出せる方法を、フランと共に外に出られる運命が見つかる日だけをずっと求めて続けてきたのである。

 

「ごめん、なさい。 お姉様…」

 

 ずっと憎いと思っていたレミリアは、誰よりもフランのことを想ってくれていた。

 親を奪われ、自らの身体を奪われ、それでもたった一人の妹を、フランを守ろうと戦っていた。

 

 ――ああ、なんで気付かなかったんだろう。

 

 ――私の人生には何もないなんてことはなかった。 

 

 ――こんなにも、優しいお姉さまがいてくれた。

 

 ――私は……こんなにも幸せ者だったんだ。

 

「ごめんなさぃ、ぅぁぁ、うああああああああああ……」

 

 フランはそのまま、レミリアの腕の中で泣き続けた。

 何も考えられなくなるほど、疲れきってしまうまでずっと。

 そして、その狂気が再び目覚める前に、フランの意識は沈んでいった。

 

 

 ……目覚めると、フランは再び元の小部屋の中にいた。

 

 それまでのことが夢だったかと思うくらい、何事もなかったかのようにフランは閉じ込められていた。

 何事もなかったかのように、レミリアの右半身は元に戻っていた。

 その部屋を覆う結界の効果で、その日の記憶、もちろんあの事件の記憶はフランの中から消えていた。

 

 だが、それでもフランの頭にはたった一つの思いだけが残っていた。

 

 レミリアを信じると。

 レミリアだけは、絶対に自分のことを裏切らないのだと。

 

 

 それから数カ月が過ぎた。

 

 あの一件以来、レミリアは怒らなくなった。

 代わりに、よく笑うようになった。

 

「お姉様、今日のごはんは!? もしかして…」

「残念だけど人間の血はちょっと難しいわ。 代わりと言っては何だけど、ちょっとケーキを焼いてみたわ」

「お姉様が!?」

「い、いいじゃない、別に!」

「そっか……えへへ、ありがとね、お姉様」

「……ええ、どういたしまして」

 

 フランの記憶が戻っていた訳ではない。

 だが、それでもフランは少しずつレミリアへの警戒を解いていた。

 レミリアも最初は結界の不具合かと思っていたが、そんな日常を過ごしていくうちに、少しずつフランとの距離は縮まっていった。

 次第に、フランは一日一回レミリアが食事を届けに部屋に顔を出すときだけを楽しみにするようになった。

 一人の時はレミリアに貸してもらった本を読んで様々な知識をつけ、レミリアが来てくれた時はレミリアの話を聞く。

 毎日それだけの日々だったが、それだけで楽しかった。

 いつかレミリアと一緒に外に出られることへの期待が、日に日に膨らんでいった。

 

 ……だが、その期待がレミリアを苦しめた。

 

 

 それから100年が経った。

 

 その頃から、レミリアは笑わなくなった。

 代わりに、泣くようになった。

 

「ごめんね、フラン……もう少しだけ、もうちょっとで何とかしてあげられるから」

「だ、大丈夫だよお姉様! こうやってお姉様が来てくれるだけで私は嬉しいから!」

「でも、ごめん……本当にごめんね」

 

 レミリアは自分を責めるように、ただフランに謝り続ける。

 だが、フランにはレミリアが何を謝っているのかすらわからない。

 それでもフランはただ、毎日のようにレミリアを慰め続ける。

 傍から見ればどちらが姉なのか、どちらが閉じ込められているのかすらわからなくなるほど、レミリアの心は弱っていった。

 

 依然としてフランを外に出せる運命は見つからなかった。

 レミリアは一人で図書館にこもって、何か方法がないかと知識をつけ続けた。

 フランの狂気を沈められる可能性のある者もずっと探し続けたが、良い運命はいつまで経っても見つからなかった。

 

 それでも、レミリアが諦めることは決してなかった。

 何も見つけられなかった。

 なら、寝る間も惜しんで探し続ける。

 失敗した。

 なら、他の全てを削ってそれ以上の努力を続ける。

 ずっとそれの繰り返し。

 それでも何も変わらない。

 何度も。 何度も何度も何度も何度もレミリアは次の手段を考えて奔走したが、結局それが実ることはなかった。

 

 

 それから、また100年が経った。

 

 その頃から、レミリアは泣かなくなった。

 

 そして、レミリアは遂に壊れてしまった。

 何をしても決して変えることのできない運命に絶望して。

 

「もういいから、お姉様! 私はこの部屋の中だけでも十分楽しいから……だから!!」

「何を言ってるの? そんな訳ないでしょう」

「いいの! 私は、これでいいから……」

 

 光のないその目の下には大きな隈が染みついている。

 睡眠も、食事すらもとっているかわからないその身体は、痩せこけてボロボロになっている。

 どこに行ったのか、何と戦ってきたのか、それが想像できないほどに服も肌も傷だらけで、まともに再生すらされていなかった。

 たとえそこにいるのが不死身の吸血鬼ではなく、400歳を過ぎてしまった死に体の人間だと言われたとしても、全く違和感がないほどの死臭が漂っていた。

 だが、レミリアはそんなことすらも全く気にしていないかのような声で淡々と続ける。

 

「……じゃあ、もう行ってくるわ」

「待って! もうやめて、お姉様……お願い、だから…」

 

 レミリアにはもう、感情など残っていなかった。

 この世に希望なんてない。

 いつも通り。

 何かが変わる訳でもない。

 何か感動がある訳でもない。

 それでも、自分は諦めるわけにはいかない。

 ただ、実るはずのない未来に向かって進まなければならないという絶望だけを抱えて毎日を過ごしていく。

 

 そうしてレミリアはゆっくりと壊れ、ただの動く人形へと変わっていった。

 

「……なんでよ」

 

 フランは部屋の隅でいつも泣いていた。

 もう、あの頃のレミリアはいない。

 死ぬほど憎らしかったあの高慢な表情も、全てが楽しかったころの笑顔も、弱さを感じさせるあの涙も、もう見ることはない。

 

「いやだよ、こんなの。 もう外に出たいなんて言わないから……だから、もう一度だけでもいいから、あの頃みたいに笑ってよ……」

 

 もう、フランの頭の中にはレミリアのことしかなくなっていた。

 自分の幸せすら考えてはいなかった。

 

 ――私が死ねば、お姉様はもう苦しまなくて済むのかな?

 

 そして、いつしかまたそんな考えを持つようになっていった。

 

 

 それから何十年経っただろう。

 

 遂に限界が来てしまった。

 それも、先にフランの精神に。

 

 フランは、レミリアに友人ができたと聞いた。

 それからレミリアの生活が変わったのか、ボロボロの服や肌は少しずつ元に戻っていった。

 それを見たフランは、再びレミリアが笑ってくれる日が来るのではないかと大きな期待を抱いた。

 

 だが、結局その期待が報われることはなかった。

 見た目だけ元に戻ったかのように見えたレミリアだが、それでもその目に失われた光が戻ることは決してなかった。

 そしてその事実は、フランにどうしようもない絶望だけを叩き付けた。

 

 たとえ信頼できる友人ができても、何も変わらない。

 たとえ何が起こっても、レミリアが幸せになることは決してない。

 

 ――そう、私がいなくならない限りは……

 

 それからというもの、一日一度の会える機会でさえフランは次第にレミリアを避けるようになっていった。

 死んだ魚のような目でフランに話しかけるレミリアを見る度に、胸が張り裂けそうになっていく。

 自分のせいで幸せを失っていくレミリアを見ていることなんて、できなかった。

 

「……もう、いいや」

 

 フランに、もう心残りは無かった。

 

 ――明日の朝、ここを出て日光に焼かれて死のう。 それで、きっとお姉様は救われるのだから。

 

 既に結界の綻びは見つけていた。

 知識を身に付けていたフランは、それを利用して冷静に自分を殺す計画を立てていた。

 

「フラン」

 

 そこに、いつものようにレミリアが入ってくる。

 しばらくの間、レミリアが来る度に部屋の隅に縮こまって避けていた。

 だが、これが最後の日だ。

 最後くらい、どんなことであっても話しておきたい。

 そう思いフランがゆっくりと振り返ろうとしたとき、不意に抱きしめられた。

 

「……え?」

「もう少しだけ……明日まで待ってなさい」

 

 だけど、聞こえてきたのはいつもと違う声だった。

 それは懐かしく聞き覚えのあるあの声。

 あの頃の、その高慢な声で――

 

「ちょっと出かけてくるわ。 だから今日は留守番よろしくね、フラン――」

 

 レミリアは不敵に笑い、そのまま身を翻して音もなく去っていた。

 

 突然のことに、フランは反応できなかった。

 そこにあったのは、フランがずっと憎み続けてきた頃のレミリアの表情。

 だけど、それは何よりもずっと待ち望んだものだった。

 

「……あはは、帰ってきた」

 

 そう言って笑うフランの目には涙が浮かんでいた。

 

「やっと……やっとっ」

 

 この日をどれほど待っただろうか。

 今だってその気になればレミリアと一緒にここを出ることはできる。

 だけど、やめておこう。 

 レミリアに留守番を頼まれたのだから。

 だから今日だけは、あと一日だけはこの紅魔館で大人しく明日を楽しみに待っていよう。

 明日になれば、きっとレミリアが笑顔で迎えに来てくれるから。

 明日になれば、手を伸ばせばそこにはきっと、どんな瞬間よりも幸せな時間が待っているから。

 

 だから――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――痛くない。

 

 フランは何十回という再生を繰り返してボロボロになった体を、それでも無理矢理叩き起こす。

 

 ――お姉様はもっと辛かったんだ。 何百年もずっと…ずっと苦しみ続けて、それでも諦めなかった。

 

 足は震え、傍目からは最初の頃の脅威などまるで感じない。

 明らかに限界を超えてなお立ち上がるフランを見て、幽香はそれをあざ笑うかのように、それでも微かに畏敬の念のこもったような声で言う。

 

「……まだ立つのね。 もうこれ以上やっても無駄でしょうに」

「ぅぁぁ、ぁはは、ははは」

「まぁ、もう聞こえてなんていないんでしょうけどね」

 

 フランが纏った狂気は、月から得た魔力を無理矢理暴走させてその身体を侵食する。

 沸騰したように蒸気を上げる血液が、自らの皮膚を、周囲の全てを溶かしながら広がっていく。

 意味もなく、目的もなく、ただそこにある全てを破壊するだけの衝動。

 いくら満月の吸血鬼の体をもってしても、強すぎる狂気がその命を破壊するのは時間の問題だった。

 

 ――そのお姉様が、やっと帰ってきたんだ。 これからやっと、お姉様が笑っていられる時間が来るんだ。

 

 それでも、限界を超えてなおその行動を支えているのは、ほんの僅かに残っているフランの精神だった。

 自分の命が壊れる前にあと少しだけ、もう少しだけその破壊を続けようとするフラン自身の意志だった。

 

「……でも正直、もう飽きたわ。 そろそろ消えなさい」

 

 だが、既に幽香はフランへの興味を失っていた。

 力だけは強力、魔力も尽きる気配がない。

 ただそれだけ。

 意志のない、大きいだけの力では幽香の相手にはなり得なかった。

 

 幽香が冷めた口調でそう言うとともにその足元が抉れ、目にもとまらぬスピードでフランへと一歩で踏み込む。

 フランの目はそれに向いてはいない。

 ただ不気味に呟くような笑いを浮かべながら、全身に強大な魔力を集わせておぼつかない足取りで立ち尽くすだけだった。

 

 ――だから……

 

 ……ただ呟くように笑いながら、立ち尽くすだけだった。

 

 聞いてる者さえも狂ってしまいそうになる狂気の高笑いはない。

 その狂気に任せて全てを破壊することもない。

 命が尽き、その身体が崩壊するでもない。

 

 ――お姉様が帰る、この場所だけは……

 

 ただ静かにその目線を上げ、幽香の姿をしっかりと見据えて――

 

「――――絶対……私が守るんだっ!!」

 

「っ―――!?」

 

 そう叫ぶとともに、フランの周囲の大気が灼熱を帯びて刃と化す。

 勢いに任せてフランに向けて伸ばされた幽香の右腕は、為す術もなくその刃に焼き切られた。

 

「このっ…」

 

 幽香は拳から肘にかけて縦に切られたその腕を、それでもそのままフランの顔面に叩き込む。

 だが、フランはそれを読んでいたかのように大きく後方に跳んで回避する。

 前に大きく振り出された幽香の腕は、そのまま衝撃で灰となって飛び散った。

 

「ぐっ……随分とやってくれるじゃない。 何よ、さっきまでの狂ったような態度は演技だったってわけ?」

 

 今まで言葉という言葉を発さず、ただ暴れまわっていただけのフラン。

 それを見て完全に油断していた幽香に向かって、フランが突如として強力な刃を向け、深刻なダメージを負わせた。

 冷静に、油断せずに対処していれば回避できたかもしれない状況。

 それにもかかわらず自分の腕一本を持って行かれた幽香は、不快感を露わにする。

 

「……調子に乗るんじゃないわ。 この私に傷をつけたこと、死んでもなお消えることのないトラウマを植え付けて後悔させてあげる!!」

 

 幽香の力がさらに強大化していく。

 幽香の中に新たに生まれた怒りの衝動。

 だが、それは恐らくフランに対してではない。

 何よりも、こんな屈辱を味わってしまう自分自身への怒りだった。

 

  ――ふふふ、いい感じに逆上しちゃって。

 

 目線を伏せたまま地面を滑るように後退しているフランに、その怒りの矛先をぶつけるように幽香が再び向かっていく。

 フランの目はまだ幽香に向いていない。

 幽香は怒りの衝動に支配されながらも、冷静だった。

 フランに近づくまでの僅かな間に、幽香は周囲から魔法波を放つ。

 ただ単純に正面から向かっていくだけではない。

 一撃で全てを粉砕する拳と同時に繰り出される、避けられるはずのない死角からの最速の攻撃。

 フランは一瞬で目前まで来ていたそれらを……目線を向けることすらなく真上に跳んで避けた。

 

「なっ……!?」

 

 幽香はその足を止める。

 フランは全く幽香を見てなどいなかった。

 それなのに、無傷で全てを躱された幽香は驚きを隠せなかった。

 跳んだフランを目で追うでもなく、ただフランが元いた場所を見たまま呆然としていた。

 

  ――そんなに驚いちゃって、かわいいところもあるじゃない。

 

 だが、幽香はすぐに我に返って自分を叱咤する。

 油断。

 今まで幾度となくそれで苦汁を舐め続けてきた。

 まして本物の、しかも満月の吸血鬼を相手にしているというのに、何が油断なのだと。

 そして、幽香が空を見上げると、

 

「……そう。 やっぱりそういうことだったのね」

 

 そこにあったのは、並の妖怪ならば掠るだけで粉微塵になりかねないほど凝縮された魔力の塊を司るフランの姿だった。

 今までのように、ただ大きいだけの稚拙な力ではない。

 油断に油断を重ねた幽香を、一瞬で葬り去れるほどの力の結晶だった。

 

「まさか貴方が計略を謀るタイプだとは思っていなかったわ。 それが、貴方の本気って訳ね」

 

 その力の大きさだけを見るのなら、それは恐らく今の幽香の全力と同等の力。

 避けられるはずのない攻撃を避けた直後、それほどの攻撃を完成させていたフランを見て、幽香はフランが自分と同格以上の存在だと確信する。

 だが、本能ではわかっていても、幽香の感情はそれを納得してくれなかった。

 その左腕に集中させていた全ての魔力をフランに向けて、

 

「だけどそれでも……私の方が、上なのよ!!」

 

 フランがその魔法弾を放つとともに、幽香はそれを掻き消すように魔法波を放つ。

 それは、幽香が万が一の場合に備えて常に溜めこんでいた全力一撃分の魔力だった。

 フランと幽香の放った魔弾の威力だけを比べたならば、恐らくは魔力を溜めこんでいた幽香が上。

 そして、その洗練度も戦闘センスも幽香の方が上である。

 拮抗しているように見えた魔力のぶつかり合いだが、幽香の魔法波が徐々にフランの魔法弾を押し返していく。

 

「はは、ははは、やっぱり私が…」

 

  ――その勝手な思い込みが、命取りなのにね。

 

 それを見上げた幽香が勝ち誇ったような表情を浮かべかけて……異変に気付く。

 確かにその魔法弾はフランの魔力で放たれたものだった。

 だが……

 

「なん、で……私、どうして……」

 

 フランのその表情は幽香以上に今何が起こっているのかわかっていないかのようだった。

 フランは自分が正気のままでいることに驚いていた。

 決して避けることのできないはずの狂気は、今は自分の中に全く感じられない。

 ただ呆然としたまま、幽香の方を見てすらいなかった。

 

  ――ほら――

 

 そして、それに気づいた次の瞬間、幽香は総毛立つような死を予感した。

 片腕を失い、もう片方の手はフランに向かって魔法波を放ちながら、上空に目を向けるために首を上げたあまりに無防備な姿を前に、

 

「チェックメイト」

「ッ――――――」

 

 突如として幽香の首を刎ねようとした何かが――再び幽香の首を守るかのように現れた黒い何かに阻まれて止まる。

 

「あれっ?」

 

 それは、ルーミアがかけた保険の一つだった。

 奇襲で支柱の首が飛ばされて終わることなどないよう、少しだけ貸していた闇の力。

 それのおかげで一命を取り留めた幽香は、

 

「っ……ああああああああああッ!!」

 

 狂ったように叫んだ。

 

 二度目。

 小町の時に続いてたった一日で二度もそれに命を救われた幽香のプライドは既にズタズタに裂かれていた。

 幽香が放ったのは、理性のない猛獣のようにただ腕を振り回して背後の敵に当てようとするお粗末な攻撃。

 だが、それでもそれは十分な殺傷能力を誇っていた。

 

「きゃっ!?」

 

 いや、むしろこの場合、それは洗練されたものよりも有効な一撃にさえなっていた。

 幽香の攻撃を食らったそれは、悲鳴と共に幽香の後方に飛ばされて転がっていく。

 

「何、なの……?」

 

 怒り狂ったかのように見えた幽香は、それでも何か不可解なものを見るような目をしていた。

 実際、幽香が振り回したその腕は当たっていない。

 いや、そもそも当たる当たらないの問題以前に、幽香にはそこに誰かがいたのかすら認識できていなかった。

 ただ、振り回されたその腕が音速を超えたことで発生したソニックブームという名の衝撃波が、偶然にもそれを吹き飛ばしていただけだった。

 

「痛たた……困ったなぁ。 今ので決められないと、私にはちょっと荷が重いなぁ」

 

 尻餅をついたような体勢で、それは何かを独り言のように呟いていた。

 だが、その姿を視認した今でもなお、幽香はその存在をボンヤリとしか認識できない。

 

「答えなさい! 貴方は一体何者なの!?」

「え、私?」

 

 ――禁弾『スターボウブレイク』

 

「――っ!?」

 

 突然現れたそれに気を取られてしまっていた幽香は、後ろ上方から降ってきた矢に気付くのが遅れた。

 それは幽香には不可解な出来事だった。

 幽香自身、突然現れたアンノウンに気を取られながらも、フランには最大限の注意を払っているはずだった。

 だが、まるでフランへ向けていた注意が意図的に全てそれに向けさせられてしまったかのように、フランの放った魔力の矢が到達する直前まで幽香は気付くことができなかった。

 幽香は後方から降ってくるフランの魔力を感じ取って反射的に跳び、地面を転がりながら全て避けきる。

 そこに、どこからともなく声が聞こえてきた。

 

「自己紹介なんて、意味ないよ。 貴方はもう私を見つけられない。 私は道端に転がっているだけの、ただの小石だから」

 

 その声に、幽香は敏感に反応する。

 

 ――多分、自分の姿を消す能力者。 だとしたら、気配さえ察知すれば…

 

 幽香がその声のする方へ目を向けて……それが再び少しだけ視界に入る。

 小柄な少女に絡み付いた、形容するのも不気味な瞳は開くこともなく閉じられている。

 ただ薄く、儚く映る微笑が、フランに割いていたはずの幽香の注意を再び無意識のうちに全て引き付けて…

 

「ぐっ!?」

 

 無防備な幽香の背中を、フランの放った魔力の矢が貫く。

 だが、自らの胸を貫くそれに少しだけ気を取られながらも、幽香はすぐに前を向き直ろうとする。

 普通なら致命傷になる傷を、幽香は全くと言っていいほど気にしていなかった。

 

 ――こいつは、危険すぎる……!!

 

 幽香は、自分を貫けるほどの矢を放った満月の吸血鬼に背を向けた。

 そして、目の前に存在する何かを消し去ろうと目線を上げかけて……再びそれを見失っていた。

 

「なっ……!? そんな、あり得ない!!」

 

 そこから目を逸らしたのは、自らに刺さった矢に意識をとられたコンマ1秒にも満たない僅かな間だけ。

 そんな瞬きをする程度の時間だけで、目の前の少女は幽香の視界から消えたどころか、気配さえも完全に消え去っていた。

 そんなことはお構いなしに再び背後から降り注ぐ弾幕の嵐を、今度は早々に察知して残された左手で全て叩き落とす。

 だが、フランの強力な魔弾に直接触れた幽香の手のひらは、少し焦げたように煙を上げる。

 背後にいるのもまた、幽香にとって見過ごせないほど強大な力を持った吸血鬼。

 そして前方にいるのは、保険をかけていなければ自分を殺していただろう、得体の知れない危険因子。

 前後に絶望的な状況を控えた幽香は、

 

「……二度同じ手は食らわないわ」

 

 自身の妖力を開放し、周囲に大きな球体を描くように纏う。

 気付かないうちに再びそいつが自分に近づいていることを想定して、幽香は周囲全てに振り撒けるだけの力を放出したのだ。

 たとえ幽香に見えない存在でも、その射程範囲にいればただでは済まない。

 常人なら一瞬で精神ごと身体を崩壊させてしまうほどの妖力の塊の中には……しかし誰もいなかった。

 

「貴方、フランドールちゃんだよね? フランちゃんって呼んでもいい?」

 

 突然、フランの後ろからその声が聞こえてきた。

 幽香とフランが振り返ると、黒い帽子をかぶり、得体の知れない瞳を纏った少女が、今度ははっきりとその目に映った。

 

「え? う、うん、貴方は?」

「ふっふっふ、私はね……じゃじゃーんっ!!」

 

 そして、その少女は小さなカードのようなものを見せつけ、高らかに宣言する。

 

「私はなんと、お姉ちゃんファンクラブナンバー001なのだっ! そして、私のことはこいしちゃんって呼んでくれるとうれしいな!!」

 

 フランと幽香はポカーンとしている。

 「お姉ちゃんファンクラブ」という太文字が手書きで書かれたカードや意味不明な自己紹介も相まって馬鹿そうな雰囲気だけが演出されているが、それは紛れもなく幽香が危険因子と判断したアンノウンだった。

 

「一体何なの? 貴方は…」

「ぶっぶーっ! 悪者には何も教えてあげないよーだ」

「はあ?」

 

 幽香とフランは未だによくわかっていなかった。

 子供っぽい印象の、目の前のそいつが一体何者なのか。

 敵なのか、味方なのか、目的は何なのか、全く分からない。

 

「ねぇねぇ、フランちゃん」

「な、なに?」

 

 そして、こいしと名乗る少女はフランに対し一切の警戒心を示すことなく話しかけていた。

 フランは少し身構えながら、細心の注意を払ってこいしに向かい合う。

 

「あの悪者を倒すの、手伝ってくれない?」

「う、うん、でもどうして…」

「大丈夫だよ、お姉ちゃん好きに悪い人はいないんだよー。 それにね、多分簡単だよ。 私は『ありとあらゆるものを見えなくする能力』を持ってるの。 だから、私がフランちゃんの姿を消している間に…」

「っ!?」

 

 幽香は焦りながらこいしの元へ一瞬で駆け出す。

 その能力が本当だとしたら、幽香にとってあまりにも厄介な状況だった。

 自分の姿を消せるだけじゃない。

 もしあれほどの力を持ったフランの姿を消すことができるとしたら、いくら今の幽香といえども一方的にやられかねない。

 それだけは阻止する必要があった。

 

 そして、こいしがフランに触れるとともに2人の姿が消えたかのように感じて……それは、幽香には見えていた。

 

「はっ、馬鹿ね! 全部見えてっ……な…に?」

 

 だが次の瞬間、幽香は目を見開いて驚いていた。

 何故かはわからない。

 確かにこいしの姿を捉えたと思っていた幽香は、何もない虚空に向かってその全力の拳を振りかぶっていた。

 いや、正確には何もないわけではない。

 宙を舞う小さなカードに向かって全力疾走していた。

 自分自身がたった今とった行動の意味が理解できない幽香は……それでもふと目に入ったカードに書かれた「ナンバー001」という文字の後に続く名前を凝視してしまい、

 

「八雲、こいし……っ!?」

 

 その思考は再びあさっての方向を向いてしまう。

 

 ――八雲紫の式神!? いや、まさか新たな……

 

 その名から導き出せる可能性はいくらでも出てくる。

 だとすれば、次にすべきことは何か、何を警戒すべきか。

 だが、ほんの少しでもそんな思考を巡らせたことを、幽香は後悔することになる。

 

「バイバイ、花の妖怪さん」

「……え?」

 

 幽香にそう告げた眼差しには、ほんの少しの温もりもなかった。

 数秒前までの子供っぽさなど微塵も感じさせない、冷たく見下すような微笑を浮かべた目。

 辺りを漂う瞳と同じくらい不気味なその視線が視界の隅に映った瞬間、何かを思い出したように、

 

「まさか、お前は――――」

 

 そう、言いかけた幽香の身体は、既に地に伏して動かなくなっていた。

 

 

 


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