「お疲れ」
「あんたらのせいで普段の倍は疲れた……」
真っ暗になった街をぼけーっと見ていると、カラカラと音を鳴らしていた川崎さんの自転車が、俺の手前で小さくブレーキ音を上げながら止まった。
あの後、俺は比企谷くんたちを先に帰して川崎さんのあがりをコーラのみで粘りながら待ち、ようやくここまで漕ぎ着けたわけである。
「いや、さっきはごめんね。なんか、ちょっとムカついちゃってさ」
「……何に?」
川崎さんが、こちらをじっと見つめながら問うてくる。
何に、か。苛ついた理由は、たくさんあるようで、結局ただ一つ。シンプルな話だ。
「自分に、だろうな」
自嘲を混ぜながら答えると、川崎さんは自転車から降りて、押しながら歩く体勢になっていた。
「……結構時間かかるから、二人乗りするか?」
「いや、あたし道分からないし」
「流石に俺が漕ぐよ……。川崎さん、俺のことなんだと思ってんだ?」
「……クズ?」
「キッキッキ、否定はしねーよ?」
笑いながら川崎さんを見ると、彼女は不思議そうな顔をしながら俺を見ていた。
「どったの? センセー」
「いや、変な笑い方だなと思って」
「笑い方?」
「うん。キッキッキって」
「……さ、行くか」
都合の悪いことは全て無視! これが人生で一番大切な技術なんだよね。うん。
俺は川崎さんから自転車のハンドルをぶんどり、少々高いサドルに面食らいながらもなんとか座ることに成功した。ちょっとグラグラしてるけど。……この世界には、俺に都合の悪いものが多過ぎる。
「七里ヶ浜……あんたホント」
「それ以上言ったらマジでしばく」
「……キャラ変わりすぎでしょ」
川崎さんが、はぁとため息をつきながら自転車の荷台に座ったのを確認して、俺はペダルを踏み込んだ。
「キャラ作り必死だからな。これが素」
「ホントに?」
「少なくともこのテンションの時が多いのは本当だな」
「……それって」
「ん?」
「いや、なんでもない、けど……」
そう言って、川崎さんは誤魔化すように俺の腰へと手を回してきた。生暖かい感触が背中に広がり、ゾワリと鳥肌が立つ。
「……いきなりアグレッシブだな川崎さん。もしかして惚れちゃったか?」
「…………」
ソッポを向いているのだろうか。背中越しに聞こえる声は妙に遠くて聞き取り辛く、車輪の回る音や風の音に紛れたせいなのか、ごにょごにょ言っているようにしか聞こえなかった。多分いつもみたいに「バカじゃないの?」って言ってたと思う。
これは別に難聴とかじゃなくてガチで聞こえなかったから、セーフだろう。聞き直すのも失礼な気がするし。
「……ねえ」
無心で自転車を漕ぐ俺に、心なしか腕の締め付けを強くした川崎さんが、不機嫌そうな声で話しかけてくる。
「ほいさ」
「これ、どこ行ってるの?」
「俺の知り合いがやってるアヤシイお店」
「アヤシイって……。いや、そうじゃなくて、場所の話なんだけど」
「ああ、場所ね。高校から歩いて十五分くらいのとこだな。近くて良いぞ」
自分の家から学校通うよりあっちから通った方が早いってのも、俺があの店に入り浸ってる理由の一つだ。
「で、結局何のお店?」
「うーん、まあ、川崎さんが今さっきまで働いてたところとおんなじようなもんだな。少なくとも変なお店じゃないから安心してていいよ」
中にいるのは変な奴だけなんだけどな。言う必要はないだろう。すぐ分かることだ。
「……あと、さっきのお金なんだけど……」
「冷静になってみるとやっぱり欲しいとか?」
「いや、そんなんじゃないけどさ……。アレ、どこから用意してきたの?」
「実は俺、中学の時株でしこたま儲けさせてもらったんだよな」
「嘘でしょ?」
「うむ」
ため息をつく川崎さんの様子がおかしくてケラケラ笑っていると、川崎さんが更に腕の締め付けを強くしてきて吐きそうになった。ただでさえラーメンのせいで死にかけてるのに、流石にこの仕打ちはちょっと……。
「ま、ガキの小遣いみたいなもんだし、欲しくなったらいつでも言えよ。俺が持ってるより、川崎さんが使った方がよっぽど有意義だ」
どうせ使う気も機会もないお金だ。自分で遊ぶ分くらいはゆか姉からタカる。……うん、まごうとなき屑だな。残念ながら俺はしっかり「ゴミ屑トリオ」とやらの仲間入りを果たしていたらしい。死ね。
「そう言えば、なんで予備校行くつもりだって分かったの?」
「ん? 前に川崎さん、参考書欲しいとか言ってただろ? でも明らかに参考書代を稼いでる風じゃなかったし、弟くんが塾に行き始めたって聞いて『川崎さんの家は一人分の塾代なら払えるのか』って思ったんだ。……これで、川崎さんは予備校行きたいんだなって予想が付いたって流れ」
「そういえばあたし、そんな事あんたに言ってたね……」
「川崎さんとの会話なら一字一句漏らさずに全部覚えてるからな。俺、川崎さんガチ勢だから」
ハッと笑いながら言うと、またもや川崎さんの締め付けが酷くなった。コルセットじゃねえんだぞ……。俺はどこの英国淑女だ。内容物どころか内臓そのものまでコンニチハしそうだぞこれ。勘弁してくれ。
「ていうかなんであの時いきなりあんなこと聞いてきたの?」
「確か……、雪ノ下さんに貸してやる本をどうするか考えてたんだっけか」
「ふーん……。結局どうしたの?」
「『月と六ペンス』って本にした」
「なんの本?」
「夢と現実についての本」
「余計意味わかんないんだけど……」
「興味湧いたんなら自分で読んでみればいい。哲学書みたいに意味不明な文章でもないし、むしろ読みやすい方だ」
「へー」
「……興味ないのはよく分かった」
一人で熱く語ったのがアホみたいだ。恥ずかしいことしてんなぁ、おい。
「ま、面白い本だぞ。あの時代から『利口な男は結婚しない』なんて言ってんだから、やっぱすげーよ」
モームのシニカルな人間論みたいなものは、個人的に結構好きだ。普通に読んでも楽しいってのが小説では一番大切だと自分で言うだけあって、お話としても面白いし。
「なんか、意外」
「何が?」
「本なんて読まないやつだと思ってた」
「それ、よく言われるけどさ、俺は結構本好きだぞ? 邪魔されないし」
「邪魔?」
「ああ……っと、電話だ電話」
川崎さんの質問に答えようとすると、ポケットに入った携帯がいきなり震え出した。こういう事があるから携帯電話は嫌いなんだ。
携帯をポケットから取り出し、画面も見ずにそのまま応答する。この携帯電話に電話をかけてくる奴は一人しかいない。
「どうしたゆか姉」
『遅過ぎ! こっちは待ちくたびれてるんだけど?』
「あー……あと十分ちょいは見てくれ」
『まだそんなにかかるの!?』
「しゃーねーだろ。お姫様がお城を抜け出すのに苦労するってのは鉄板ネタだと思うが?」
『はいはい。そんじゃ早く来てねー』
ブツっと音がして、通話は終わる。言いたいこと言ったらすぐ切るんだもんな、あいつ。スタンダードな通話とやらは知らないからなんとも言えないけど、少なくとも異性間の電話という奴はもっと長い気がする。
「さて、川崎さん。オーナーがお怒りみたいだ。飛ばしていくから、しっかりどっかに捕まっててくれ」
「は?」
「んじゃ……」
そう言ってから、俺はペダルを力一杯踏み込んだ。気分はさながらなんたらペダルだ。チャンピオンの漫画はバキしか読んでないけど。
「遅い! 何時だと思ってんの!」
「俺は時間に縛られない男なんだよ」
ツールドフランスならぬツールド千葉を終え、バーむらさきの扉を開けた俺たちを待っていたのは、仁王像と化したゆか姉だった。……ゆか姉はあまり背が高くないから、ほとんど迫力がなくてむしろ滑稽ですらある。
「まあ良いけど。で、そっちがバイト希望の子?」
「おう」
「オッケー。じゃ、面接だね」
「「面接?」」
川崎さんがこちらを訝しげに見る。いや、俺も初耳だからそんな顔しないでくれ。
「簡単にお話しするだけだからあんまり身構えなくて良いよ」
「はぁ……」
ゆか姉は吸っていたタバコを灰皿へと押し付け、川崎さんへと向き直った。
「お名前は?」
「……川崎沙希です」
「沙希ちゃんね。うん、採用!」
「えっ!?」
川崎さんがこんな派手に困惑してるのは初めて見たなぁ……。まあ、ここで働き始めたらこんな程度じゃ驚かなくなるだろうけど。
「じゃ、バイト内容の確認だけど……」
マジで面接とやらは飾りだったらしく、ゆか姉はすぐに仕事の話へと入っていった。
「日給五千円で来るのは自由。仕事内容はサーブと皿洗いで、仕事がない時は勉強してても良いし、むしろ勉強メインでも構わない、だな」
それにしても、普通なら考えられない程破格の条件である。どうしてこんな条件をゆか姉が提示してくれたのかは謎だが、相談すると速攻で決めてくれた。今回ばかりはゆか姉に感謝である。
「うんうん。予備校代稼ぎなんだっけ? 若い内から大変だねぇ……」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「うん? どったの沙希ちゃん」
「流石にそれは迷惑のかけ過ぎじゃないですか……?」
「あー、いいよいいよそんなこと。若い女の子に座ってもらってるだけで、こっちとしてはオッケーだから」
「でも……」
「それにこんな可愛いんだもん! あの店に置いといて固定客とか付かれると困るし!」
いや……あそことここじゃ明らかに競合してないだろ……。などと冷めた目でゆか姉を見ると、彼女は俺にだけ分かるよう、小さくウインクをしてきた。
つまり今のは、あながち嘘ではないが本当の理由でもないということだろう。
「……何から何まですみません」
言っても無駄だと悟ったのか、川崎さんが遠慮がちに口を開いた。
「タメ口で良いし、呼び方もゆか姉とかでいいよー」
軽い調子で言うゆか姉に、川崎さんが面食らう。俺も結構驚いていた。ゆか姉は会ったばかりの人間にここまで友好的な接し方をするような奴じゃない筈だが……。
「わ、わかりま……うん」
「それにしても予備校かぁ。ここに来るんなら、予備校なんて行かなくて良いと思うけどねー……」
「どうして?」
「だって私と七之助がいるんだよ?」
自慢げに言うゆか姉をスルーして、川崎さんがどういう意味だと視線で俺に尋ねてくる。
「あー、アレ、一応医学部入るくらいには頭がいいからな……」
ゆか姉は基本脳みそお花畑なのだが、一度やり始めるとこれが中々出来る奴なのだ。つまり、やったから出来た系女子。これは流行らない。
「一応って何? 一応って」
「一応で十分だろうが……。俺と一緒の学年になるーとかほざいて休学届出したような奴が、立派な医学生なわけあるか」
不満げな流し目で俺を見てくるゆか姉に、こちらも呆れた目で応える。
「相変わらず私には厳しいなぁ……あ、これも一つの愛ってやつ? ま、沙希ちゃんも分からないところとかあったら何でも七之助に聞きなよ。ガッコーやら予備校やらの先生より分かりやすく教えてくれると思うから!」
「はぁ……」
川崎さんは曖昧に頷きながら、疑わしげに俺のことを眺めた。
「よっし、それじゃ沙希ちゃん。明日からよろしくねー!」
そう言ってゆか姉は、川崎さんの手を握って、ブンブンと振り回した。
「七之助、沙希ちゃんのこと送ってってあげなよー」
「なんで?」
「女の子のエスコートも出来ない男は?」
「……りょーかい。んじゃ先に外で待ってるから」
何故かゆか姉に抱き着かれている川崎さんを尻目に、俺はもう一度外へ出る。
「さて、タバコでも吸おうかなっと……」
一人呟き、胸ポケットからタバコを取り出して火を付ける。
しばらくの間、手持ち無沙汰な感じで自転車にまたがりながら紫煙を吐き出していると、ようやく川崎さんが中から出てきた。
「……なんで真っ赤?」
出てきた川崎さんの顔は何故か真っ赤で、いつか見た由比ヶ浜さん並に信号機の様相を呈していた。要するに面白かった。
「い、いや、ちょっと緊張したから……」
「ふーん、何か変な事でも言われたのかと思っ」
「そんな事より、眠いから早く帰りたいんだけど?」
川崎さんが強引に俺の言葉を遮って、荷台へどかりと座り込む。いつもと様子が違うし、これはゆか姉に余計な事をされたんだろうな。……ああ、百合の花が幻視出来る……。
「うっし、じゃあ帰りますかね」
そう言って、俺は自転車を漕ぎ出す。夜は、そろそろ明けそうだった。
今回は物凄く強引な上文章も変な気がするのでその内書き直す可能性が微粒子レベルどころじゃないレベルであります……。
あとお気に入りがここ一週間で倍どころの騒ぎじゃなく増えててリアル「何が何だか分からない」状態です。