「状況は理解した。詳しい話を聞こう」
そろそろ大所帯の様相を呈しはじめた川崎さん更生させ隊の面々は、昇降口にて平塚先生を仲間に加え更に肥大化していた。
携帯灰皿にタバコを揉み消す平塚先生へ、比企谷くんが知る限りの情報と推測される事柄をつぶさに説明する。
「なるほど、ゆゆしき事態だ。これは早急に解決する必要がありそうだな」
平塚先生はくつくつと不敵に笑う。ヤバい、これは思った以上に噛ませ犬だ……。
「あの、殴る蹴るとかそういうのはダメですよ?」
「まさか……。わ、私がそういうことをするのは君にだけ、だぞ?」
「僕にもしてくださいよ! 僕はいつだって静先生の愛の鞭に打たれる覚悟と期待をしてますから!」
「……七里ヶ浜は相変わらずのようだな……。お前には上手く技を極められないから、あまりしたくない。あと下の名前を呼ぶな。分かったな?」
そう言ってニコリと笑った平塚先生の顔に、俺もひきつった笑みで返した。……迫力あるなぁ、やっぱ。
そうこうしているうちに、川崎さんが昇降口に現れた。気怠げに欠伸を漏らしながら、肩に引っ掛たカバンが肘のあたりまでずり落ちるのも気にせず、やる気なさげに揺らしている。
「川崎、待ちたまえ」
そんな彼女を平塚先生が後ろから呼び止めた。それに振り返った川崎さんの目は細く、俺を見つけたらしいその目はまるで睨みつけるかのように更に細められた。
「最近周りが煩くなったと思ってたら……七里ヶ浜、あんたのせいか」
「俺はなんにも言ってないですよー。言ったのは川崎さんの弟くん」
「あっそ。で、なんの用ですか? 大体察しは付いてますけど」
「最近、君は家に帰るのが遅いらしいじゃないか。いったい、どこで何をしているんだ?」
「誰から……って決まってるか」
そう言って、もう一度彼女は俺を睨みつけた。……いやこれ関係修復不可能まであるぞ。俺なんも言ってねえよマジで。勘弁してくれ。
「ふぅ……どこでもいいじゃないですか。それで誰かに迷惑かけたわけじゃないし」
「詭弁だな。仮にも君は高校生だ。補導でもされてみろ。ご両親にも学校にも迷惑をかけることになる」
川崎さんは相変わらずぼんやりとした表情で平塚先生を睨めつけていた。眠いんだろうな、きっと。その様子に耐えかねたのか、平塚先生は川崎さんの腕を掴む。……先生、その掴み方じゃ投げられるから、やめておいた方が良いですよ。
「君は親の気持ちを考えたことはないのか?」
一人心の中で茶化していると、平塚先生はまるで某三年の担任教師、もしくは修造並の熱さを以って川崎さんを説得しようと懸命に声を届けようとしていた。
「先生……」
そう呟き、川崎さんは平塚先生の手に触れ、まっすぐ先生の目を見つめる。
そして、
「親の気持ちなんて知らない。ていうか、先生も親になったことないからわかんないはずだし。そういうの、結婚して親になってから言えば?」
「ぐはぁっ!」
残念ながら思いは届かなかったようだ。DJDJ……。
平塚先生はアッパーを貰ったかのように川崎さんによっかかりながらダウンし、川崎さんはそれを軽く押してからとっとと歩いていった──かと思ったら、振り返った彼女はもう一度口を開いた。
「先生、あたしの将来の心配より自分の将来の心配したほうがいいって、結婚とか」
追撃まで入れちゃうかー。前もそう言えばこけた俺を思いっきり踏みつけたりしてたし、川崎さんはダウン攻撃をするのが趣味らしい。
「うっ、うぅ……」
もう先生泣いてんじゃん……。
しかし川崎さんはそんなものは知らない見えないと言わんばかりにそれを無視して、さっさと駐輪場へと歩いて行った。
場に残った俺たちの空気はお察しの通りどんよりと沈んでいる。由比ヶ浜さんと比企谷さんは気まずげに視線を地面へと落とし、戸塚ちゃんは「先生、可哀想……」と呟きを漏らす。
そして俺は、二つの手から同時に、とんと背中を押された。振り返ると比企谷くんと雪ノ下さんが「あれちゃんと撤去しろ」みたいな目でこちらを見ていた。いやそんなこと言われてもですね……。
まあ、平塚先生が落ち込んでるのを見るのは少し心苦しいし、何とかしてみよう。
「比企谷くんたちはエンゼルなんとかって店行っといてくれ……あ、二軒あるんだっけか。じゃ、バーじゃない方先に頼むわ」
比企谷くんにこれだけ耳打ちをしてから、俺は平塚先生へ歩み寄った。歩み寄りの姿勢が大切だよね、うん。
「……ぐすっ…………今日は、もう帰る」
「先生、どっかご飯食べに行きませんか? 一万円くらいなら奢りますよ」
一万円という額に対した意味はなかった。ただ、確か今の持ち金はそんなもんだったかなといううろ覚えの記憶に従ったまでだ。足りなかったら最悪カードで払おう。
「……どこの世界に、生徒に食事をたかる教師がいる……」
「ま、今日くらい良いじゃないっすか。一応、川崎さんのことは友達だと思ってるんで……。尻拭いするのも友達の仕事でしょ?」
そう言って俺はにかりとはにかんでみせた。流石に、ニコリと笑えば即女の子に惚れられる、なんてことは無いが、こういうのも割と得意な方なのだ。
「よし、んじゃ行きましょうか!」
そう言って平塚先生へ手を差し出すと、彼女はその手をパチりと弾き、目元を拭ってから俺の制服の首根っこを掴んで持ち上げた。……いや、どんな怪力だよ。それとも俺が軽いだけなのか?
「と、いうわけで、これから私は舐めた口を叩く生徒に対し、特別指導を行う。君たちも早く帰るように」
平塚先生の声音は随分平時のものに戻っており、俺は一人胸を撫で下ろす。きっと奉仕部の面々も同じ気持ちだろう。これにて一件落着である。……余計な面倒ごとを背負いこんだだけとも言う。
「で、ラーメンっすか……」
その後、平塚先生にやたらカッコいい左ハンドルの車に放り込まれ、気まずい空気を必死で繋ぎきった俺が連れて来られたのは、よく分からない小汚い感じのラーメン屋だった。こういう店のラーメンは割と美味しかったりするから侮れないらしい。
「ラーメンが嫌いな人間は居ないだろう?」
「いやまあ居ないとは思いますけど」
しかし積極的に食べたいと思うほど好きではない。俺はもうちょっとアッサリした食べ物の方が好みなのだ。
「さ、早く決めたまえ」
そう言って平塚先生は満面の笑みを浮かべながら俺へとメニューを手渡してきた。ちょっと手が当たってドキドキしたりもした。来て良かった……!
「はぁ……あ、これなんか美味しそうですね」
メニューをざっと見ると、梅塩ラーメンというものに目を奪われた。多分普通の醤油ラーメンあたりを頼むことになるだろうなと思っていたが、こういうのもあるか。
「……お前、男子高校生のくせに割となよっちいんだな」
「勘弁してくださいよ。こんなチビが、好き好んでアブラアブラしたもの頼むわけないでしょう」
「しかし前まで結構太っていたじゃないか。なんだかんだ言ってイケるクチなんだろう?」
「アレは、寒いの苦手だから、無茶に食べまくって無理矢理に太ってるだけですよ」
「……そう言えば、お前はいつも寒そうにしているな。六月も近づいているというのに、いまだにブレザーの下にしっかりベストを着込んでいる」
「冬は基本的に嫌いなんです。暗いし、寒いし……あと妙なイベントもいっぱいあるし……」
そう、冬は嫌いだ。俺は全面的に夏の方が好きである。あ、半袖のカッターシャツを着るのが妙に好きなのも理由の一つだ。
「お前にも苦手なものはあるんだな。意外だよ」
「……普通に嫌いなもんばっかりですけどね。冬とか……、あとインターネットとかも」
「ほう、インターネット。それはまたどうして?」
「なんか、他人の意見を見るのが嫌なんですよね。純度が下がってしまう気がして」
「……なるほど、お前は相変わらずのようだ」
それだけ言うと平塚先生は俺から目を外し、頑固一徹、素材に拘ってそうな店長のおっちゃんにオーダーし始めた。ちなみに注文は二つともとんこつだった。……勘弁してくれ……。
「一つはコナオトシで。七里ヶ浜、お前は?」
「へ? 何の話っすか?」
いきなり出てきた聞き慣れない単語のせいで、頭の中がとっ散らかった。コナオトシってなんだ?
「麺の固さだ。そんなことも知らなかったのか?」
「ラーメンあんまり食べませんからね……あ、平塚先生が連れてってくれるんなら毎日三食ラーメンでも一向に構わないですけど」
「流石にそれは体に悪過ぎるだろう……」
「あ、普通のにしてください」
店主のおっちゃんに手短に告げると、おっちゃんはデカい声でオーダーを確認してからカウンターの中へ引っ込んでいった。
「奉仕部はどうだ?」
それを見送りながら、平塚先生はこちらを見ずに尋ねてくる。
「まあ、良い感じなんじゃないですかね。雪ノ下さんのどじょうすくいも見れそうですし」
「……雪ノ下がどじょうすくい……?」
平塚先生が何とも形容し難い顔をこちらへ向けてくる。『面白そうだな』が三割、『信じられない』が四割、『何言ってんだこいつ』が三割といったところか。
「ほら、依頼の解決数が一番多い奴が何でも命令できるっていうアレですよ」
「そんなくだらないことを命令するつもりなのか……」
平塚先生が呆れた目で俺を見る。
「『美女のパンティーおくれ』とかよりはなんぼか健全だと思うんですけど」
「健全な男子として不健全だろう……」
「いやいやいや、先生がそれ言っちゃダメでしょ。なに不純異性交遊認めちゃってんすか」
「……まあ、どうあっても七里ヶ浜はそういった事を言わないだろうがな」
そう言って平塚先生はふっと短い溜め息をつき、カウンターの隅っこの方に置いてあった灰皿を手元へと持ってきた。
「タバコ、大丈夫か?」
「良いっすよ」
「そうか、すまんな」
俺も吸いたくなるので出来ればやめて欲しかったが、今日は一応平塚先生を慰めるという名目で来ているので、文句を言うのは控えておいた。
平塚先生ははち切れんばかりの胸ポケットからタバコを取り出し、とんとんと葉を詰めてから口に咥える。
「とにかく、お前はもう少し素直になるべきだよ」
「何にですか?」
「自分の心に、だ」
自分の心と来たか。俺ほど本能のままに脊髄反射で生きている人間は、そう多くないと思うんだが。
「……そうだな、お前は考え過ぎなんだ。もっと適当に過ごせば良い」
しばらく考え込んでから、平塚先生は諭すような声音でそう言った。
「いや、こんないい加減に生きてる奴は俺くらいでしょ」
「『いい加減』と『適当』は、全く別の物だろう?」
そう言ってからしばらく俺の顔を見つめていた平塚先生は、突然くつくつと笑い始めた。
「くっくっ! すまない……お前の顔があまりにもおかしくてな……!」
ツボに入ったのか、平塚先生は更に大声で笑う。
しばらくしてから落ち着いたタイミングを見計らって俺は口を開く。
「……そんな変な顔してましたか?」
「ああ、お前があんな生意気なガキみたいな顔をするとは思わなかったよ」
ふふっと笑う平塚先生は、先程まで死にそうだった事から考えると相当持ち直していた。普段とそんなに変わらない。
「いや、私は嬉しいよ。生徒の様々な顔が見れるというのも教師の特権だな!」
そう言って笑う彼女を見ていると、今自分が考えていた事なんてどうでも良くなってきて、ふっと力が抜けた。
すると、丁度そのタイミングに店主のおっちゃんがラーメンを俺たちの前にごとりと置いた。背脂が……すげえ……。
「ボケっとするな。早く食べないと麺がのびるぞ」
「いや、こんなクソ熱そうなもん、食べれるわけないでしょ」
「あれもダメこれもダメと注文の多い奴だ」
そう言って平塚先生は俺の頭を軽く殴った。結構痛かった。
「すんません、どうにも猫舌で……。あ、先生が冷ましてくれるならじゃんじゃんばりばり食べますよ?」
「さ、お前も早く食べ始めろよ」
完全に俺を無視した彼女は、そのままラーメンをズルズルと啜りだした。……いや、立ち直ってくれたようで何よりです。ホントに。
「ホントに奢ってもらって良かったんですか?」
「さっきも言ったろう。どこの世界に生徒に食事をたかる教師がいる?」
「いえ、女の子には言われなくても金を出してやれって……姉に言われてて」
「お、女の子……。そうか……女の子か……」
平塚先生がにわかにそわそわしはじめる。
「……ん? お前には姉がいたのか?」
「あー……姉『みたいなもん』です。女の子をエスコート出来ない男はクズだとかなんとか、よく言われたんですよ」
基本的にそんな言いつけは守ってないけどね。ゆか姉をエスコートなんて、想像するだけで寒気が……。
「うむ、良い心がけだ」
満足げに頷く平塚先生を見ていると、なるほど、お金を出してやりたい男の心理というのはこういうものなのかと目から鱗が落ちるかのように理解した。まあ、年長者である彼女としては、自分で払う以外の選択肢などあり得ないのだろう。
……もし次の機会があったら、今度はちゃんとエスコートとやらをしてやろうと、強く思った。
「それじゃ、僕はこれで。お疲れ様でした」
「家まで送って行くぞ?」
「あ、寄るところあるんで大丈夫です。それじゃ」
後ろ手を振りながらそれだけ言って、俺はすっかり暗くなってしまった道を一人歩き始めた。
さて、比企谷くんたちはどうしてるだろう。そんな事を考えながら歩く夜道は、未だに寒くてうんざりした。