中間試験が目前に迫っている。といっても、特に勉強が必要な訳でもないので俺はいつも通りバー紫でピアノを弾いていた。
今日はなんとなくバロック音楽を攻めようと思い、「主よ、人の望みの喜びよ」などを弾いている。この曲を聞くと不安になる人が一定数居そうなのは無視だ。
見も知らぬ、既にくたばった人間のアタマが生みだした音を奏でる。
いや、これは正しくないな。
俺が今奏でている音はきっと、ただ音階が重なっているだけで、彼の頭の中にあった音とはまるで違うのだろう。そういうもんである。
それでも俺は音を紡ぐ。何の主義も主張もなく紡ぐ。俺に出来る事は、精々がそれくらいなのだ。
聴いてるのか聴いてないのかよく分からない客へ向かって。
上機嫌に鼻歌交じりでグラスを磨くゆか姉へ向かって。
代わり映えしないクソッタレな日々へ向かって。
なるべく何も考えないよう、ただ鍵盤を叩いて、音を紡ぐ。
「……ふぅ」
一曲弾き終え一息ついてから、グランドピアノの脇に置いた小さなテーブルにちょこんと乗った瓶コーラを口へと運ぶと、口の中で炭酸が弾け、気持ちの良い刺激と心地良い甘さが俺の味覚を埋め尽くした。
「……それにしても、日も落ちてないのにこんな所で酒飲んでるってすげえよな、この人ら」
ぼそりと呟き、指を軽く揉みながら次に弾く曲を選定する。
うーん。特に弾きたい曲ねえしなぁ……。
「ゆか姉、リクエスト」
「ドビュッシー! 月光!」
ゆか姉は満面の笑みを浮かべて、まるでこのタイミングでリクエストを求められる事を予期していたかのように淀みなく答えた。まさしく電光石火だ。
「月の光ねぇ……。気分じゃねえな」
「じゃ、喜びの島」
「あの曲ってさ、何回弾いても喜びなんて感じないんだけど」
なんか、生理の重い女の心情みたいで全く楽しい気がしない。どこが喜びだよ……。
「なら聞くな! 文句が多い、とっとと弾け! お金あげないよ!?」
ゆか姉は大変おかんむりである。プリプリ擬音が鳴って……いや、自分で声に出して言ってるのか。何考えてんだあいつ……。それ見て喜んでる客も居るし。こいつらちょっと精神的にキてるんじゃねえのか……?
などとアホな事を考えながら手慰みにハノンを弾くと、ようやく考えがまとまってきた。よし、今日はあんまり難しい曲を弾かない事にしよう。
「んじゃ、ランゲの……花の名?」
完全にうろ覚えである。……いや、言い訳ならちゃんとある。俺はあまりタイトルを気にして曲を弾かないから、弾ける曲でも名前を知らない曲が多いのだ。まともに楽譜を見たことがないなんて事もザラだし。
「ランゲは花の歌でしょ……。それじゃ某三丁目の主題歌じゃない……」
珍しく、呆れたような流し目で俺を見るゆか姉。おちょくられる事は多いが、こういうバカにされ方をするのは結構久々である。
「そうだっけか。ま、何でもいいや……。んじゃ……」
適当に受け流し、俺はもう一度鍵盤に指を走らせた。
「川崎さんの更生?」
「まあ、かいつまんで言えばそういう事になるかしら」
翌日、いつものように部室へ行くと、何故か戸塚ちゃんが居たことに疑問を覚えつつも雪ノ下さんから次の活動についてのレクチャーを受けた。
雪ノ下さん曰く、川崎さんは非行少女らしい。当然俺には何を言っているのか理解が出来なかった。
「いや、川崎さんは超真面目少女だろ。寝る間も惜しんで勉強してるんだぞ?」
「残念ながらそのような事実は存在しないわ。実際、彼女と同じ屋根の下で暮らす弟さんが証言しているんだから間違いないでしょう」
「はぁ……。川崎さんが夜遊びねえ……」
まるで現実感がない話だ。そもそも彼女は家族に心配をかける事を良しとしないだろう。
「なんでも、『エンジェルなんとか』というお店から電話もかかってきているらしいわ」
川崎さんがエンジェルつまり天使である事に異論はないのだが、エンジェルなんとかとやらには、どこか記憶に引っ掛かるものがあった。
「川崎さんがエンジェル……エンジェルっていうと……あ、エンジェルラダーか?」
「なんかオシャレな単語だ!」
由比ヶ浜さんが興奮していたがスルー。
「ロイヤルオークラの最上階のバーだ」
由比ヶ浜さんに説明してやると、彼女はふんふんと頷いていた。
「なんでそんな店知ってんだよ」
「あー……敵情視察……?」
比企谷くんに言うと、彼だけでなく雪ノ下さんもが、まるで意味が分からない的な顔で俺を見てきた。よせやい照れるじゃねえか。
「川崎さんならあそこでバーテンやってても雰囲気出そうだしな」
……あ、じゃあ川崎さんはバイトのせいで寝不足だったのか。
しかし、家計が大変だというのは想像が付くが、そんなことをしていては、勉強する暇もないだろう。参考書代稼ぎに夜通しバイトなんて、それこそ本末転倒というやつだ。
……いや、待てよ? 参考書代を稼ぐのに、そこまであくせく働かなきゃいけないもんなのか? まともなバイトなんてしたことがないから断言は出来ないが、参考書代なんて精々一週間に三回程度コンビニのシフトにでも入れば普通に稼げる額のはずだ。それなのに何でわざわざ……。それとも川崎さんちの家計はそこまで火の車なのか?
「……川崎さんの弟くんとはどういう経路で知り合ったんだ?」
「俺の妹の塾での知り合いだ。それ以上の関係じゃあ断じてねーぞ」
「そ、そうか……」
鬼気迫る釈明(?)を受け流し、更に思考を進める。
弟くんが塾に行っているということは、川崎さんの家はそこまで切羽詰まった状況じゃないということだ。余裕があるとは言えないが、子供一人を塾に通わせてあげられるだけのお金はちゃんとあるのだろう。
……子供一人?
「川崎さんが夜歩きするようになったのはいつからだ?」
「二年に上がってからと言っていたわ」
「弟くんが塾へ通い始めたのは?」
「……聞いてないわね。何か関係が?」
答えながら、雪ノ下さんが怪訝な顔をする。そこまで脈絡のない話だとは思わないんだけどな。
「そうか。いや、ちょっと気になっただけ」
多分予備校代でも稼いでるんだろうという予測は立ったが、別に言う必要もないだろう。ここまで情報が揃えば誰でも分かることだ。先に気付くのが誰かまでは知らないが、あとは時間の問題。
「で、考えてる作戦はあるのか?」
ま、川崎さんが何をしてるかなんて俺からすればどうでも良いことだ。ちょくちょく屋上に来て遊んでもらえるのなら、何の文句も無い。
今の俺は、そんなことより比企谷くんたちがどんな作戦を立てたのかの方によほど興味をそそられている。何せ非行少女の更生という難問をたかが同級生が処理しようとしているのだ。気にならない方が嘘だろう。
「アニマルセラピーよ」
アニマルセラピー。動物との触れ合いがどうこうというコンセプトの精神療法だったか。
「で、そのアニマルはどっから調達するんだ?」
比企谷くんの疑問はもっともである。この学校には兎も鳩も居ないはずだが……。
「それなのだけど……、誰か猫を飼っていないかしら?」
「畜生を養う趣味はないなぁ」
図鑑やら動物園やらで見るのは好きなんだけどね。どうにもわざわざ自分で飼う気にはならない。あんまり面白そうじゃないし。
「……あなたホントに人間としてマズイんじゃない?」
「今更気付いたか。いかにも、我が名は人出梨だ!」
「……うざ」
雪ノ下さんの流し目に某猫型ロボット並の暖かい目で返すと、流し目が殺人鬼のそれになったのですぐさま視線をそらした。
「あのさゆきのん、犬じゃダメなの?」
由比ヶ浜さんが狐のハンドサインを作って首を傾げた。色々おかしかったが最早ツッコむまい。
「猫の方が好ましいわ」
それ単に雪ノ下さんの個人的な趣味なんじゃないのかという問いはすんでの所で飲み込んだ。この女相手に余計なことを言うと少々面倒なことになってしまう。触らぬ神に祟りなし、だ。
雪ノ下様の御要望に応えたのは比企谷くんだった。
あのあと彼はすぐに妹さんに電話をかけ、それに快く応えた妹さんが彼の家で飼っている猫を輸送してきたという運びだ。
「初めましてー。いつも兄が御世話になっているようで……」
深々と頭を下げる年下の女の子は、比企谷くんの妹で名を小町と言うらしい。
比企谷くんとよく似ているのだが、中々に可愛らしい子だった。何より、彼女からは愛嬌を感じる。きっと友達も多いのだろう。
「どうも初めまして! 比企谷くんとは、クラスメイトかつ部活の仲間かつそれよりもっと深い仲の」
「小町、それ以上そいつに構うな。耳が腐るぞ」
「酷くない? あの日の夜の八幡はもっと優しかったのに……」
比企谷くんにしなだれかかると思いっきり肩で押し返された。こけるかと思った。ひどい奴である。
「ブッ殺すぞホント。誰が八幡だ」
「はいどうも初めまして。お兄ちゃんのクラスメイトの七里ヶ浜七之助です。しちっちって呼んでね!」
「しちゅっち……」
…………無視だ無視。触らぬ神に祟りなしって、さっき言ってたとこだろう。雪ノ下さんに言う言葉は「イエス」と「はい」だけで充分だ。
「うわぁ……お兄ちゃんと普通にコミュニケーション取れてる……」
自己紹介を終えたばかりで俺の人となりなんて全く知らないはずの比企谷さんは、何故かその目に薄く涙を浮かべていた。これだけで比企谷くんが彼女にどう思われているかが知れるな。
仲の良い兄妹、羨ましいね。ホント。
「どこをどう見ればコミュニケーション取れてるように見えるんだよ。むしろディスコミュニケーションだ。謎の彼氏Xだ」
「え? さっきのマジなの?」
「マジな訳ねーだろ……」
比企谷くんが出したほぼ死にかけみたいな声が妙にツボに入り、笑いを堪えるのに苦労した。面白過ぎるわ比企谷くん。
「七里ヶ浜くん。あなたの特殊な性癖について語るのは後にしてくれないかしら」
雪ノ下さんが、咳払いをしてから俺へと抗議してきた。いや、今の流れほとんど俺関係ないだろ……。
政治家並の遺憾の意を視線に込めながら雪ノ下を見やると、彼女はそわそわとしながら比企谷さんの持っているキャリーバッグをチラチラ見ていた。
「……何見てんの?」
「別に何も見てないわ。あなたこそ私の方ばかり見て一体何を考えているのかしら。国家権力のお世話になりたくないのなら今すぐその下卑た目を私に向けるのをやめなさい」
ウソつけ絶対見てたゾ。などとは口が裂けても言えないな。
……ていうか雪ノ下さんホント面白いな。最初会った時のとっつきにくそうな印象はどこ行ったんだよ……。
「……で、こいつどうすんの?」
比企谷くんがキャリーバッグから猫の首根っこを引っ掴みながらそう言うと、戸塚ちゃんがそれを見て目を輝かせながら「わぁ……」と小さく声を上げた。いや、この猫そんなに可愛いか? ものすげえふてぶてしい奴にしか見えないんだけど?
「段ボールに入れて川崎さんの前に置いておくわ」
「それで心揺れるとかいつの時代の不良だよ……。まいいや。段ボール貰ってくるわ」
言いながら比企谷くんは猫を俺へと預けてきた。
「……何で俺?」
「由比ヶ浜は猫が苦手なんだとよ」
「さいで……」
諦めて受け取ると、その猫は何故か居心地が良さそうにゴロゴロと喉を鳴らし始めた。重いし煩い。
比企谷くんが複雑そうな顔でそれを見てから、もう一度「行ってくる」と俺たちに告げて、校舎の方へと歩いて行った。ちなみに由比ヶ浜さんもそれについて行った。
比企谷くんを見送ってから、俺は腕の中で未だゴロゴロ言ってる猫を比企谷さんに手渡し、首をぐるりと回した。
「やー、それにしても本当に普通に友達なんですね、七里ヶ浜さん」
「残念ながら比企谷くんとは友達って感じじゃねえなぁ。壁作られてるし」
「またまた。同い年の人とあんな普通に喋ってる兄を見るのは久し振りなんですよ?」
「……そんなもんかね。あんな感じで良いんなら、比企谷くんには結構友達出来てるから安心しな」
「ホントですか!? 良かったね、お兄ちゃん……」
嘘は付いてない。材木座くんとか戸塚ちゃんとかは、誰がどう見ても友達と言えるほどの仲になっているだろう。他は知らんが。
「いやぁ、それにしても比企谷くんにこんな可愛い妹ちゃんがいるなんてなぁ! あ、比企谷さん、電話番号とか教えてくれない?」
「あ、結構です」
「あっ、そっすか……」
「七里ヶ浜くん……流石にそれは犯罪よ?」
「いやいや、二つ三つしか変わらないんだからセーフだろ。七歳とか差のある夫婦なんてザラだぜ? つまり高校三年生は小学五年生位までなら手を出して良いってことだ!」
「それは双方成人しているからこそ成り立つロジックよ」
「あ、あはは……七里ヶ浜さんって、変わった人なんですね……」
引き攣った笑顔を浮かべながら比企谷さんがこちらを見る。ちなみに雪ノ下さんは蔑んだ目でこちらを見ていた。つまり平常運行。『西部戦線異常なし』だ。し、死んでる……。
その後、雪ノ下さんが遂に未知との遭遇ならぬ猫との遭遇を達成し、見事彼女の口から『にゃー』やら『ごろにゃー』を頂けた所で、比企谷くんの携帯電話に川崎さんの弟くんから電話がかかってきて、それにより残念ながら川崎さんは猫アレルギーだという驚愕の事実が明かされた。俺はこの程度の驚愕の事実じゃCMを跨がせないぞ。
「で、次はどーする? 何か考えないとな」
珍しく比企谷くんが音頭を取る。余程とっとと終わらせたいらしい。
「あ、あの……」
おずおずと手を上げたのは戸塚ちゃんだった。
戸塚ちゃんは雪ノ下さんや由比ヶ浜さんへ「自分が言っても大丈夫かな……」的な不安げな視線を送っていた。あざとかった。そして、比企谷くんの目も急速に腐っていった。
「どうぞ。自由に言ってくれて構わないわ」
「じゃあ……、あのさ、平塚先生に言ってもらうっていうのは……」
そう言った戸塚ちゃんからは後光が刺していた。まさしく天才である。
「それだ!! よし行こう今すぐ行こう平塚先生に会いに行こう!!」
まさに我が意を得たりである。ナイス戸塚ちゃん。愛してるぜ。今度から俺も比企谷くんと一緒に戸塚ちゃんを崇める教に入ろうと決心するくらい魅力的な提案だった。
「しちりんキモ……」
「由比ヶ浜さん、彼に生理的嫌悪感を抱くのは人として当然の事だから安心していいわ……」
「し、七里ヶ浜くん……?」
「お、お兄ちゃん……。話で聞いてたのよりもっと酷いんだけど……?」
「ここまでネジが飛んでんの見るのは俺も初めてだ……」
場にいる全員どころか、帰宅途中の生徒まで何事かとこちらを見ていたが、そんな事は気にならない。気にしない。俺は今なんだよ!!
「うっせーぞてめぇら! 今日はあんまり平塚先生に絡めてねーんだよ! 分かるか? この気持ちがよぉ!?」
その後俺は、身振り手振りを交えながら俺の中にある平塚先生という"光"を説明しようとしたが、語り始めてから三分ほどで比企谷くんに蹴られたせいで、平塚先生への愛を語り切る事はできなかった。野郎ぶっ殺してやる。
「七里ヶ浜、お前は一回病院行け。それとも今この場で黄色い救急車呼んでやろうか?」
「確かに今の俺は病にかかっている……『恋』という病に!! ラブパワーだ!!」
今なら影山さんにスカウトして貰える気がする。今年のドラフトはちゃんと確認しておこう。
「お前はどこのコナミ君だよ……野球選手にでもなるつもりか」
「いや、別になりたくないんだけど……」
飽きてきたのでテンションを元へ戻す。いい加減話を進めないと片がつかない。
ま、平塚先生に言ったところで問題は解決しないだろうけど。
「急に素に戻るな。なんか恥ずかしいだろ、俺が」
「何でも良いけど、早く平塚先生のとこ行きません? いい加減飽きてきたんですけど……」
「……この屑」
雪ノ下さんの絶対零度はギリギリかわした。……ありゃ一撃必殺だ。しかもマッキースマイル並の。喰らったら心が折れかねないからしっかりと気をつけよう。
「じゃ、じゃあ行こっか……」
戸塚ちゃんが控え目にそう言うと、みんなは深い溜め息をつきながら校舎の方へと歩いていった。当然俺を置いて。
「ちょ、待てよ」
某アイドルの声真似を披露しながら彼らの背中を追うと、一応無視されたが、ほぼ全員の肩が震えていた。特に雪ノ下さんの肩が。……雪ノ下さん、もうちょっとキャラ作り頑張ろうよ……。