「比企谷くんがテニス部に?」
天使、いや違う川崎さんとの邂逅を経た後、宣言通り六限が終わるまで寝てた俺が部室へ向かうと、比企谷くんが雪ノ下さんにテニス部に入部したいという旨を伝えているところだった。
ちなみに日が暮れる前に起きれた理由は、寝相の悪さが災いして貯水タンクから落下したからだ。死ぬかと思った。
「無理ね」
比企谷くんの要求をにべもなくはね除ける雪ノ下さん。
「ていうか何でテニス部なの?」
尋ねると、比企谷くんが事の経緯を説明してくれた。
曰く、この高校の弱小テニス部を奮起させるため、戸塚彩加が比企谷くんをテニス部に誘ったという話らしい。
「あー、戸塚ちゃんね、クラスメイトの」
戸塚彩加。俺と比企谷くん、由比ヶ浜さんのクラスメイトだ。一見女にしか見えないが実は男らしい。事実は小説よりも奇なり、である。信用出来ねえ。
「「…………ちゃん?」」
比企谷くんと雪ノ下さんが言をシンクロさせながら、怪訝な顔で俺を見た。
「や、戸塚ちゃん男に見えないから戸塚くんっていうのもアレだし、かといって戸塚さんっていうのも無いだろ?」
俺がそう言うと、比企谷くんは何度か頷いていたが雪ノ下さんは相変わらず怪訝な顔をしていた。そんなに変か。
「で、話戻すけどよ、俺を入部させようっていう戸塚の考えも間違っちゃいないとは思うんだよな。要はテニス部の連中を脅かせばいいんだ。一種のカンフル剤として新しく部員が入れば変わるんじゃないか?」
比企谷くんが尚も食いさがっている。というか比企谷くんがここまで必死になっているという事は裏でなんか考えているに違いない。戸塚ちゃんとイチャイチャしたいとか、このまま奉仕部を円満退部したいとか……多分後者だな。
「あなたに集団行動ができるとでも思っているの? あなたみたいな生き物、受け入れてもらえるはずがないでしょう?」
「うぐっ……」
図星を突かれたのか、比企谷くんが黙り込み、それを見て雪ノ下さんはふっと笑い声をあげる。
「つくづく集団心理が理解できてない人ね。ぼっちの達人だわ」
そりゃあんたもだろう、と誰にも聞こえないように小さく呟く。
比企谷くんも「お前が言うな」と言っていたが、それを無視して雪ノ下さんは話を続ける。
「共通の敵を得て一致団結することはあっても、それは排除するための努力をするだけで自身の向上に向けられることはないわ。だから解決にはならないの」
「えらく生々しいな。実体験?」
あまりにも憎々しげに言っていたので思わず立ち入った質問をしてしまった。失礼だったかもしれない。
「ええ、私中学のとき海外からこっちへ戻ってきたの。当然転入という形になるのだけど、学校の女子は私を排除しようと躍起になったわ。誰一人私に負けないように自分を高める努力をした人間はいなかった……あの低脳ども……」
言い切った雪ノ下さんの後ろから煉獄の炎が立ち上る。……あれ? ここってムスペルヘイムとかそんな場所だったっけ?
「ま、まぁなんだ。その、お前みたいな可愛い子がきたらそうなるのはしょうがないんじゃないの」
雪ノ下さんに恐れをなしたのか、比企谷くんがフォローじみたものをいれると雪ノ下さんは真っ赤になって、自分をやたらめったら賛美する言葉を早口でまくし立てていた。可愛い。比企谷くんグッジョブ。
「で、テニス部はどうすんの?」
ほっといたらまたもや甘酸っぱい空間になりそうだったので話を戻す。別にそれを見ているのも楽しいから良いんだけど、戸塚ちゃんのお悩みを解決してからでも遅くない。何よりこの流れだとお手伝いと称してテニスができるかもしれないし。
テニスはほとんどやったことがないので、少しやってみたい気分なのだ。
「そうね……。全員死ぬまで走らせてから死ぬまで素振り、死ぬまで練習なんてどうかしら」
微笑み混じりで雪ノ下さんが答える。
「確かにそれが一番の近道だろうけど、強豪校でもないうちのテニス部がそれに耐えれるとは思えないな」
強豪校の練習はえてしてそんなものなのだろう。身体をデカくするために吐くまでご飯を食べさせるなんてのもよく聞く話だ。
しかし、弱小の部がそんな事をすると、良くても廃部、悪けりゃ人死にまである。なんせ覚悟も糞もないのだから。大体そこまでやる奴らはこんなところで燻ってはいない。
「誰かが入部するのもダメ、練習のレベルを上げるのもダメとなると、こりゃいよいよ打つ手なしじゃねえか。どうすんだよ」
比企谷くんがぼやく。
「雪ノ下さんあたり景品に出して天下一テニス大会でも開けばいいんじゃね?」
「あなたが死にたいということはよく分かったわ」
「冗談です許してください」
音速で謝った。こえーよ、冗談通じないタイプかよ。勘弁してくれ。
しばらくの間雪ノ下さんの殺意を一身に受けて身も心も冷え冷えさせていると、がらりと部室の扉が開けて間の抜けた挨拶をする由比ヶ浜さんと共に、今回の依頼人(仮)である戸塚ちゃんが深刻そうな顔をして中に入ってきた。うぅむ、相変わらず男には見えないな。
しかし、幾ら可愛いと言っても、ここまで露骨に女女している女の子はノーサンキューだ。もっと背が高くてカッコ良い女の子を連れて来い。
……や、そもそも戸塚ちゃん男だけどさ。
という経緯を経て、俺たち奉仕部はテニス部、ではなく戸塚ちゃん個人を鍛える事になった。「部活を変えれないなら、変わりたい人が勝手に変わればいいじゃない」という雪ノ下さん理論に従ったのだ。
その結果、奉仕部feat.TOTSUはここ何日か毎日昼休みにコートに集まって練習している。ヒェア!
「おら走れー! ちんたらするんじゃねー!」
雪ノ下さんは、何やらこういう嫌な先輩役にハマったらしく、死ぬ寸前まで戸塚ちゃんを走らせてはそれを野次っていた。中々いい趣味をしている。楽しいもんな、マネとかフリとかって。
戸塚ちゃんがフラフラになりながらも健気に走ってるのを見てか、隣の比企谷くんは半分泣いていたが無視する事にした。しばらくすると蟻の観察し始めたし。
良いよな、蟻って。昔女王蟻捕まえて瓶の中にコロニー作らせたのを思い出す。あれは中々楽しかった。飽きて外にぶちまけた時の蟻たちの慌てようも面白かったし。
昔の事を思い出して一人ニヤニヤしていると、ノルマである三キロを走破した戸塚ちゃんは、給水を経てすぐさまウエイトトレーニングに移っていた。最初の頃は腕立て伏せ十回で死にかけていたのが、いまや三十回ほど出来るようになっているのも雪ノ下さんのしごきの賜物だろう。ひどい女だ。
そんな雪ノ下さんは木陰で呑気に本を読みながら思い出したように戸塚ちゃんに檄を飛ばし、その隣で由比ヶ浜さんがスヤスヤ寝ている。暇だし仕方ないだろう。蟻の観察してる奴までいるんだし。それにしても良い顔で野次るなぁ、雪ノ下さん。ありゃ真性だわ。
そう言う俺も、戸塚ちゃんの手伝いをする訳でもなく一人で壁に向かってラケットを振り回しているだけだった。中々面白いため結構ハマっている。三日保たないだろうという予測が簡単についたが、飽きるまでは全力を以てして色々試していく所存である。
「お前延々と壁打ちしてて飽きねえの?」
ファーブルくんならぬ比企谷くんが蟻の観察を止めこちらを見て尋ねてきたので、跳ね返ってきたボールを適当に打ち上げて手に収める。
「小便漏らすくらい楽しい」
そこまでは面白くないけど。もっと面白いことないかなぁ。
「……あっそ」
比企谷くんは興味なさげに呟き、またもや蟻の観察に戻っていた。どんだけ蟻好きなんだよ。いよいよファーブルだな。ファブ谷くん。これだと良い匂いしそうだ。それか某バンドの関連グッズか。
再び壁打ちに戻ると、今の会話のせいかさっきまでより面白くなかったのでやめることにした。興が削がれたというやつだ。ま、これくらいで削がれるような興ならその程度である。
「やーめた。戻るわ」
比企谷くんに言うとこちらも見ずに手をひらひらさせて答えていた。
さて、煙でも呑みに行きますかね。
次の日、雪ノ下さんは戸塚ちゃんの基礎トレーニングを軽めに切り上げ、ラケットとボールを使った練習をさせていた。コートの左右にボールを投げて、それを打ち返す練習だ。野球の練習で例えるとアメリカンノック的な感じ。あ、戸塚ちゃんこーろんだ。
結構派手に擦りむいたらしく、続行するという戸塚ちゃんの宣言を聞いて、雪ノ下さんはスタスタと何処かへ歩いて行った。ああ見えて優しい子だから、多分保健室にでも行ったのだろう。
そんな光景を横目に俺は、何故かちょくちょく参加している材木座くんを誘ってゲームもどきをしていた。
「七之助よ……頼むからもう少し遅い球を打ってくれ、ゲームにならんだろう」
容赦なく打ち込んでいると、材木座くんが速攻で音を上げた。
「そこはほら、前世より受け継ぎし秘められた力でボール光らせたり王国作ってくれないと」
「ふむ……。遂にこの拘束具を外す時が来たか……」
「材木座くん、そういう時は『アンテ』って叫ぶもんだぜ」
で、俺が「良い試合をしよう」って呟く。完璧だ。
それにしても、本当にボールが帰ってこないためゲームにならない。これじゃ壁相手にしてる方が楽しい。
「……あ、比企谷くん一緒にやんない?」
そうだ、一対二なら面白くなるかもしれない。それでもダメなら由比ヶ浜さんか雪ノ下さんも追加して一対三だ。
「あ? やだよ。面倒くさい」
比企谷くんが相変わらず蟻の観察をしていたので、俺は近付いて蟻の巣を踏み潰した。
「親父いいいいいいい!!」
絶叫していた。え? そこまで感情移入してたの?
「比企谷くんって蟻の子だったのか。蜂の子は食べられるけど蟻の子なんて何の価値もないから、とっとと人に戻った方が良いぞ」
「お前に動物愛護の精神ねーのかよ……」
「面白いんなら虐待でも愛護でもするんだけどな、俺以外を虐めようが守ろうが、俺じゃないからつまらないだろ」
大体昆虫は動物に含まないだろう。ゴキブリ見て動物愛護を叫ぶ奴にはいまだかつて会ったことがない。現代日本にそんな奴はほとんど居ない筈だ。
「屑め……」
比企谷くんが普段の三割増くらい目を腐らせてこっちを見ていた。伝説のにらみつける並の迫力だった。
「そんな事より野球……じゃない、テニスしようぜ!」
差し出したラケットを渋々受け取った比企谷くんは、材木座くんのいる方に向かって歩いて行った。どうやら話は聞いていたようだ。
「うっし、そんじゃ──」
「あ、テニスやってんじゃん! あーしもやりたいんだけど」
二人が構えたのを確認してから言いかけると、唐突に後ろから声がした。
まさしく「振り向くと奴がいた!」という奴である。
果たして、そこに立っていたのは殿様三浦様。臣下を引き連れこちらを伺っていた。
さて、どうする比企谷八幡。わさわさしてきた。