姫松高校麻雀部監督代行播磨拳児   作:箱女

82 / 91
82 解釈

―――――

 

 

 

 「きーぬちゃん」

 

 「うひぃっ!?」

 

 背すじを指でなぞられたかのように絹恵の体がびくりと跳ねる。共通点は背後から仕掛けたというだけで、漫が掛けたのは声だけだ。思わず振り返った絹恵の目には、なぜか困ったように笑う漫の顔が映った。いたずらを仕掛けたときの表情には見えないし、まず声を掛けただけでいたずらではないのだから根本的な部分で違うように思える。なんというか、親戚の子を見るような表情のように絹恵には思えた。

 

 時間帯で言えば部活が始まってからしばらく経ったところで、もう冬ということもあって夕方と言っても問題のないような辺りだ。絹恵もいくつか練習対局を済ませており、休憩がてら窓際の椅子に腰かけて校庭を眺めていたところだった。漫のほうがどういった流れで今日の部活をこなしていたのかは見ていないのだから絹恵にはわからなかったが、おおまかに言えばどちらもあまり変わりのないものだと言ってしまってもいいだろう。それとはうってかわっていつもと違うのは、漫がこの麻雀部の活動の真ん中の時間帯に声をかけてきたことだ。夏に同じ二年生レギュラーとして戦い抜いたふたりの仲が悪いわけがなく、むしろ誰に聞いても仲が良いと答えるだろう漫と絹恵だが、話をするのはもっぱら休み時間や部活が始まる前と終わった後ばかりだった。もう彼女たちに立場ができていたことも関係していただろうし、もしかしたらもうひとつくらいは別の理由があるのかもしれない。

 

 「す、漫ちゃん……。びっくりさせんといてよ……」

 

 「あ、えっと、ごめんね? そんなびっくりするとは思ってなくて」

 

 思った以上に漫がしおらしくなったのを見て絹恵が別に気にしていないということを仕草で示すと、漫は困ったような笑顔を浮かべたまま近くに置いてあった椅子を引っ張ってきて絹恵の隣に座った。窓から見えるのは校庭の大部分を使ってサッカー部がいくつかのチームに分かれて練習している風景だ。ちょっとはずれたところには陸上部の姿が見えた。

 

 なんだか物珍しそうに校庭を眺める漫の顔がそこにあって、それは絹恵からするとヘンテコなことに思えた。放課後に運動部が校庭を走り回るのは当たり前のことで、物珍しさなどどこにもないはずだ。中学生の時分には走り回る側にいた絹恵にとってはむしろ見慣れた風景でさえある。漫は見慣れていないのだろうか、という考えがふと絹恵の頭に浮かんだ。もしかしたら彼女は部活動のあいだに校庭に目をやることなどしてこなかったのかもしれない、と考えた。一途な漫のことだ、それくらいのことはあってもおかしくはない。

 

 「それで、どうかしたん?」

 

 「あー、ほら、絹ちゃんが部活のときしばらく元気ないの続いてるから心配なって」

 

 「……やっぱり気になる?」

 

 「私以外の子がどう思てるかはわかれへんけど、そろそろしんどいんちゃうかなって」

 

 校庭を覗いたまま話を進めているのはあくまでこの話題を必要以上に深刻にしないためだろう。真面目な話はもちろん時には必要になるだろうが、深刻にし過ぎてよかったというためしは聞いたことがない。漫も主将という立場にたって数ヶ月、多くの事態に直面してきたが、それらの経験から自分の立場の持つ力というものをここ最近になってようやく理解してきたところだった。

 

 「まあ、元気の出し方ってどうやるんやったかわからんくなった感じはあるかな」

 

 「何があって絹ちゃんがそうなったかは絹ちゃんが知ってたらそれでええと思うんやけども」

 

 「それは自覚あるよ、だいじょうぶ」

 

 「それやったら私の役目はいっこだけやから」

 

 そう言うと漫は視線を校庭から絹恵へと戻して、白い歯を見せて少年のように笑った。

 

 「あんな、絹ちゃん。夏が終わって先輩たちいなくなって、私ずっとテンパっててん」

 

 懐かしい思い出のことのように漫が話し出す。顔つきはやわらかいままで、ちょっとした失敗談を披露するような感じにも見える。ただ、話を始めた漫から受ける印象は夏以前のものとははっきりと違っている。絹恵にはその違いを明確に言葉にはできないが、確信を持つことだけはできた。ただ、その出だしからどんな話につながるのかは想像がつかなかった。

 

 「何をしっかり考えたらええのかもわからなくて、ずっとインハイのこと考えとってな」

 

 「インハイ?」

 

 「そ。播磨先輩に言われたことと、“あの試合” のこと」

 

 「……お姉ちゃんが、負けた試合」

 

 トーナメントの決勝に進んだ選手には失礼だが、事実上の決勝戦とさえ呼ばれた “あの試合” については語られることが多すぎて、いまだに何一つとして結論らしい結論が導かれていない。それは競技として順位を競う麻雀という観点からのことでもそうだし、あるいは観点のレベルを個人のものに下げても同様だった。確定しているのは結果としての順位だけ。それほどまでに凝縮された一戦だった。

 

 漫は自分から口に出したのだから当然として、絹恵も実姉が敗れ去った試合になにか感じ取るものがあった。むしろどちらかといえば漫よりも強烈に感じ取っていたのかもしれない。

 

 「あのあと主将はいろいろ言うてたけど、言うほど悔しそうには私には見えへんかった」

 

 「私には暴れてたように見えたけど……」

 

 「まあ、それは、うん。でも本気やとも思えんかったし復帰も早かった」

 

 「言われてみればそうかも」

 

 「そのことが私にはずーっと不思議やってん」

 

 窓から見える空の色が、水色から橙色へと変わっていく途中の、正しくは何と呼ぶのかわからない色になっている。方角があっているかわからないが、あの空の向こうではいまごろ監督代行とプロ行きを決めた元主将が飛行機に乗って帰ってきているのだろう。どの時間に出発するかは知らないから、あるいはまだ空港にいるのかもしれないし既に大阪に帰ってきているのかもしれない。どちらにしろ今日は二人とも学校のほうへは顔を出さないことになっている。

 

 絹恵は話をきちんと聞いてはいたが、いまひとつ話の方向性が掴めていなかった。おそらくは漫が自分を元気づけるために話をしてくれているとは思うのだが、それと今の話題がくっつくとは現段階では思えない。というかこの話題はどちらかと言えば絹恵にとっての急所にさえなりかねない。彼女がすこし怯えているように見えたのは見間違いではないのかもしれない。

 

 「なんですっきり切り替えられるんやろなー、って」

 

 「答えは、出たん?」

 

 「うん。なあ絹ちゃん、覚えてる? たしか準決勝やったと思うんやけど」

 

 「え?」

 

 「私が試合終わって、すみっこでヘコんでるときに播磨先輩が来て話をしてくれたやつ」

 

 「あー、なんとなくそんな覚えはあるかも」

 

 あれはたしかに漫の言うとおりに準決勝先鋒戦が終わったあとのことで、絹恵の目を通せば控室の隅に向かって拳児が立ったままで話を進めているといったちょっと怖いものでもあった。下手をすれば不良が誰かに絡んでいる構図に見えなくもないものだった。しかし結局は拳児が漫を励ますものだとわかっていたし、そもそも彼は自分たちの味方なのだから心配する必要はない。ただ、あらためて言われてみると何か話をしていたことは覚えているのだが、その内容までは覚えていない。なぜか覚えているのはその場面で自身が思っていたことだけで、そのとき思っていたのは、暗い顔をして帰ってきた子を相手にどうして物理的に同じ目線で話をしないのだろうということだった。あれでは余計に威圧されているように感じてしまっても仕方がないだろう。

 

 思い出そうとしてみると案外とするする記憶が蘇るもので、他にもいくつか考えていたことがあったなと絹恵はそれらのことを丁寧になぞる。そういえばどうしてあのとき監督代行以外はまったく動かなかったのだろう。あり得そうな可能性でいけば、まず末原先輩が漫ちゃんのそばへ駆け寄っていったはずなのに。絹恵がそんなことを考えていると、隣に座る漫が話を続けた。

 

 「あん時な、先輩は “機会の大事さを知れ” って言うててな」

 

 「キカイ?」

 

 「ほら、メカじゃなくて、格上に挑む機会とかそういうほうの」

 

 「ああ、うん、ごめんごめん」

 

 「正直な、その時はあんまりわかってなくて。なんの機会やろ、って」

 

 ラシャを叩く牌の音が遠くに聞こえるような気がしていた。視界には漫がいるだけで、奥に見えるはずの部員たちや雀卓も目に入らない。ちょっとだけ照れ笑いをしている彼女が離れて行ってしまうような不安に襲われた。

 

 「でもな、やっとわかった気がした。結局は播磨先輩も主将もおんなじこと言ってるんやって」

 

 「え?」

 

 「初めは先輩の言うてたコト、貴重な機会を大事にしろーくらいの意味やと思ってた」

 

 漫は顔を絹恵のほうに向けたり窓の外のグラウンドのほうへ向けたりとせわしない。あるいは漫が本当に真面目に話をするときはこうなるのかもしれないが、残念ながら絹恵は彼女と本当に真面目な話などしたことがない。だからそこのところは確かめようのないことだった。

 

 「でもそんなんずっと口すっぱく言われてきたし、もちろん大事にもしてきた。けどな」

 

 ふっと漫の表情が引き締まる。

 

 「たぶんそれは違かってん。きっと機会があることそれ自体が大事やってことなんやと思う」

 

 「機会があること、それ自体……?」

 

 「ちょっと説明は難しいけど、麻雀部やから対局があるのを当然と思いすぎなんかな、って」

 

 「…………」

 

 「末原先輩もゆーこ先輩ももう高校生として打つことはなくて、でも主将は先に行くから」

 

 「…………!」

 

 「強がりやなくて、もうあのとき主将はプロでやり返すて決めてたんちゃうかな」

 

 絹恵は眼鏡の奥の目を見開いて漫を見ていた。去年の春の仮入部期間に初めて会って、それからずっと仲良くやってきた。もちろんこれまでのあいだにも彼女の変化や成長はいくつも目にしてきたし、絹恵自身も成長してきた自負はある。だがそれらはすべて、今ここで表情豊かに話を進めている彼女と比べれば些細なものとしか言いようがなくなっていた。自身もまたそうであったという自覚はあるが、漫も夏までは間違いなく先輩に頼り切っていた。おんぶにだっこと言っても言い過ぎではないくらいに。しかしそんな彼女の姿は今は目の前にない。そこにいるのは姫松高校麻雀部の先頭に立つ者としての自覚を手に入れたひとりの主将だった。

 

 いつの間に、と思った瞬間に絹恵はその問いの無意味を悟った。大事なことは漫がすでに変貌を遂げたところにある。絹恵が空虚な時間を過ごしているあいだに彼女は階段を上がっていた。もし無理に時期を当てようとするなら、それこそ漫本人が言っていたとおりに “ずっとインハイのこと考えとった” 期間が彼女を変えたのだ。サッカーのパスが綺麗につながるように、そのインターハイで監督代行が自分たちに向かってまだ頼りないと言っていたことを思い出す。だからこそ放っておく、と口にしたことも。

 

 言いたいことや言うべきこと、それと考えなければならないことが溢れてしまって絹恵は結局なにも言葉にできないまま目を泳がせていた。手の置きどころも落ち着かない。さながら人見知りの極まった子が自己紹介のために教壇の前に立たされているかのような有様だ。

 

 今の絹恵の感情成分のうちで最も大きい部分を占めているのは恥だった。自分がまったくどうしようもないところで足踏みをしていると理解してしまったこともそうだし、それ以上に誰よりも共有している時間が長いはずの姉の振る舞いについて、わからないどころか考えようとさえしていなかったことに気が付いてしまったからだ。あの夜ほかに誰もいないリビングで、大阪から出ていくと聞かされて子供みたいな態度しか取れなかったことが脳裏を過ぎる。何度でも尋ねるチャンスはあったのに。それこそ漫の言うように姉妹が揃っているのを当たり前だと思い込んでいた。ある意味では漫よりも先に、当たり前に思える状況が想像以上に簡単に崩れるということに気付いて然るべき立場であったことも絹恵のダメージに拍車をかけた。

 

 「な、絹ちゃん、うちな、最近もっと練習大事にしよ思うようになってな」

 

 「……うん」

 

 「ほんのちょこっとだけ、はじっこだけやけど播磨イズムがわかったような気がしてきてん」

 

 突然出てきたなんだか奇妙な造語に思わず笑いそうになってしまったが、なんとなく言いたいことがわかるような気がして絹恵は頑張って視線を漫に合わせる。

 

 「これ、なんて言ってええんかわからんけど、大っきなことのような気がしててな」

 

 「うん」

 

 「絹ちゃん、うちはもう準備できたで。このチームでいっしょに勝とう、な?」

 

 「……ふふ、漫ちゃん知らん間にえらいカッコよくなったなあ」

 

 「そらもう一コ上が凄すぎるもん、無理にでもそうならな」

 

 「ちょっと出遅れてもうたけど、まだ間に合う?」

 

 「絹ちゃんやったらラクショーやん。だってまだ冬に入ったばっかりなんやから」

 

 少年のように歯を見せて笑う漫の顔を再び見て、今度は絹恵もはっきりと笑顔を返した。もちろんのこと顔立ちや持っている雰囲気の違いから与える印象は別物ではあったが、気持ちの向きが一致したことは本人たちのあいだではしっかりと感じ取れた。なんの弾みかお互いの笑みがいたずらっぽいものになり、励ましとそれを受ける者の空気がすっかりなくなった辺りで、それにしても、と絹恵がやっと自分から口を開いた。

 

 「それにしても漫ちゃん、なんでこんな普通に学校ある日にお話してくれたん?」

 

 「えっ、いやー、最初に言うたやん。そろそろかな、って思っただけで」

 

 「やったらおとといでもええような気ぃするけどなあ。日曜のが時間もとれるし」

 

 ここへ来て初めて漫にわかりやすい動揺が見られた。さっきまでの凛々しいまでの顔つきはどこへ行ったのかと聞いてみたくなるほどに目が泳いでいる。絹恵の質問は気付いてみれば当然の疑問で、わざわざ火曜の部活の合間に話さなくてもよさそうなものである。彼女の言うように二日前の日曜でもいいし、次の日曜もそれほど遠いというわけでもない。絹恵からしてみればまったく意味がわからないというほどの謎ではないが、何故だろうと思うくらいの謎ではある。

 

 「いや、ほら、その、今日はおらんやん?」

 

 「おらん、って……、お姉ちゃんと播磨さん?」

 

 何とも言えない微妙な笑みを浮かべながら漫はこくりと頷く。人数規模が大きいわりには健康優良児が揃っている当麻雀部では誰かが休めばまずわかる。当然ながら第二部室からも出欠の連絡は部活が始まって早い段階で主将である漫に回ってくるために確認が難しいということもない。そんなことをしなくても状況と話の流れでわかると言いたくもなるが、そこは彼女の名誉のために言わないことにしておくべきだろう。

 

 後頭部に手を回して変に腰の低い態度を取りながら、うえへへ、と普段に比べるととびきり気味の悪い笑い方をしながら漫が言い訳のように口を開く。

 

 「……やってこんなハナシ、あの二人がおったら恥ずくて無理やんか」

 

 「えぇー…………」

 

 「百歩譲って主将はええにしても、こんなん毎日おる播磨先輩に聞かれたないでしょ!?」

 

 「別にええんとちゃうの」

 

 「なんかプロとかなら握手して “尊敬してます” でええけど、毎日顔合わせんねんで!?」

 

 「あー、まあ、わからんでもないけど」

 

 途中から変なキレ方をしている辺り本当に尊敬しているのだろうと絹恵は思ったが、別に隠さなくてもよいのではと考える絹恵がいないわけでもなかった。たしかに他人に、それも尊敬や敬愛やそういった類の感情を抱いている相手に心の内を伝えることが恥ずかしいことは絹恵にも理解できる。そこには絶対に個人的な心情の機微が存在していて、それは本人以外には、あるいは本人でさえも把握できない感情の揺れ動きがある。だから絹恵は、人によっては矛盾していると捉えるかもしれない漫の反応に納得はしていた。なにせ人と人との関係性などたったひとつの要素だけでどうにでも変わってしまうものだと知っていたから。

 

 それとはまったく別に絹恵は自分に呆れていた。元気の出し方がわからないも何も、ただずっと拗ねていただけのことだということに気が付いた。インターハイでは活躍できなかった。姉から大阪を離れると聞かされて落ち込んだ。どっちも事実で自分にとって重要なことには違いないが、それらのことといま練習に身が入らないことを関連付けるべきではないということをやっと真正面から意識できるようになった。もう自分たちの時代はとっくに来ていて、そのことを知っていたはずだったのに言い訳を並べ続けていた絹恵は自分が情けなかった。この瞬間、“愛宕洋榎の妹” ではなく “愛宕絹恵” が誕生したのだが、それを世間が知るのはもう少し先の話である。

 

 その後の対局で絹恵は見違えるような戦績を残すのだが、それはまた別のお話。時刻は短針がぴったりと5に合うころ。愛宕洋榎が目を覚ますのとほとんど同じタイミングでの出来事だった。

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。