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「へー、俺ァてっきりオメーはプロに行くもんだとばっかり思ってたけどな」
それなりに栄えた駅前へと向かう住宅街の道を六人の集団が行く。いったん寮に戻って着替えたのだろう、さすがに外に出る目的が食事だけなのだから華やかというわけにはいかないが、一人を除いてこざっぱりとした服装に変わっている。もちろん例外の一人は女性陣の中に学ランで平然と歩いている。二週間以上ものあいだホテル住まいになるインターハイにおいてさえ外用の私服を持ってこなかった彼が、まさか一泊二日程度の日程で学ラン以外を持ってくるはずがあるまい。箇条書きにして彼の服装を羅列していくと明らかにヘンテコなのだが、どうしてか拳児の場合はそれが似合ってしまう。なんとも奇妙な話だった。
話題の中心になっているのは、どうやらこの夏まで先鋒を務めた彼女の進路についてであるらしい。拳児の発言に呼応するようにあちこちから “不思議だった” だの “ネリーもそう思ってた” だのと声が上がる。たしかにそれこそ世界ランカーやジュニアとはいえ銀メダリストを抱える臨海女子において、誰からも文句の出ないエース格なのだからその道に進むことに対する期待が高まるのも当然といえば当然ではある。また本人もそのことに対してある程度は自覚的であると見てよさそうだ。どんなに低く見積もってもそんなことがわからないほど頭が鈍いようには見受けられない。
「……別に麻雀が人生のすべてというわけじゃないだろう」
「や、まあそうなんだけどよ」
「時間をかけていろんなものを見て、それから判断しても遅くはないと思ったんだよ」
会話は成立こそしているが、歩きながらのものであるために互いに向き合うことなく視線をただ前に投げながら行われた。もともとどちらも話をする際に手の動作や表情を使うことの少ないタイプだ、声さえ届けばほとんど問題はない。あとの四人のうちでは郝だけがその系統に属し、メグに明華にネリーの三人は表情豊かに話を進める。現にいまも智葉の進路の話に関係あるなしを無視して楽しそうに会話を繰り広げている。まだ早い時間帯とはいえ女子高校生という身分にとって友達との夜のおでかけは楽しいものなのだろう。
月は雲に隠れているらしく、夜の明かりはせいぜい街灯や民家からこぼれる光程度のもので、隣の顔を確認するのがやっとといったところだった。智葉が何気なく拳児のほうに顔を向けてみると、珍しいことに考え事をしているように見受けられた。わずかに顎を上げて、視線もきっと同様だろう。このタイミングで何を考えることがあるのかは知らないが、思うことがあるというのはいいことだと智葉は視線を戻した。
「そーいえばサトハ、あのキンギョ、だっけ? は元気?」
話題が切れたと見たのか、ネリーがなんでもない雑談のネタを口にした。臨海女子に通う生徒の多くは学校指定の寮住まいをしており、それはここにいる拳児を除く全員に共通していた。同じ建物の中に住んでいるのだから互いの部屋に遊びに行くこともそう珍しいことではなく、口を開いたネリーだけでなく全員がその存在を知っているようだった。拳児を除いた全員の視線が一気に智葉に集まって、その金魚に対する感想を次々と述べ始めた。いわく、ちっちゃくてかわいいだとか綺麗な色をしているだとか。拳児がまだ中空を見据えて物思いに耽っている一方で、智葉の表情がほんのわずかなあいだ苦いものに変わった。
「ああ。すいすい泳いでいるしエサもよく食べる」
「しかし突然でしたヨネ、ゴールドフィッシュ飼うなんて一言も言ってなかったノニ」
「別に言う必要もないだろう。現役のころに比べて時間ができたってだけの話だ」
一瞬で平静を取り戻して、まったく違和感を抱かせない応対をしてみせる。意外と、と言っては失礼なのかもしれないが、彼女はどうやら演技派であるらしい。しかし同時にそこが限界でもあるらしかった。いくらなんでも人の口から飛び出す言葉を止めることなどできやしない。ほとんど話を聞いていないであろう拳児にパスを送ったのは郝だった。
「老はサトハの金魚の話、知ってました?」
「ん? ワリィ聞いてなかった。なんだって?」
「金魚ですよ金魚。サトハが飼い始めたんです」
「お、なんだオメーあれきちんと世話してんのか」
拳児のその発言におや、と首を傾げるのが四人。一気に顔がこわばるのが一人。彼の言い方だと本来なら知らないはずの金魚の存在を智葉が手に入れる段階で知っていたことになる。これはおかしなことだ。言うまでもなく普段ふたりは大阪と東京という離れた土地にいるのであって、彼女たちのように部屋の様子を知ることができないのが道理だからだ。連絡手段もあるにはあるが、智葉は強制的に電話をかけさせない限り連絡を取ることはないし、また拳児も気軽に誰かに電話をかけて会話を楽しむタイプでないのも自明である。
もし四人のうちで誰かが日本のお祭りをきちんと知っていて、なおかつ智葉にとって面倒な想像力を備えていたとすれば、そこで事情を察することができたのかもしれない。しかし現実はそうではなく、むしろ彼女にとって最も面倒なほうに事態は転がっていった。
「不思議ですね、なぜ老がサトハの金魚のことを知っているのですか」
「なんでも何も俺が金魚すくいで取ってやったんだよ。笑えるぜ、コイツ意外に下手でな」
笑えるぜ、などと言うわりにはちっとも笑わず、ただ機嫌だけはよさそうに話す拳児に視線が集まって、その直後にやはり四人ともが智葉のほうを振り返った。言葉は弾丸と同じだ、放たれてしまえばもう戻ってはこない。なかったことにはできず、大抵の場合は弾痕を残していく。
お祭りに詳しくなかったように、彼女たちはきっと金魚すくいについてもあまり知らなかったのだろうが、それでも智葉と拳児がふたりで遊びに行くシーンなどあの夏の仕組んだお祭りに限定されていることだけは知っていた。その辺りのつながりを導き出せないほどの鈍い頭などこの場には存在していない。むしろ状況的には回転数を上げていく場面ですらある。
「サトハに苦手なものがあったのも気になりまスガ、それっていわばプレゼントですヨネ?」
「あん? そうなんのか?」
あの播磨拳児がそんなことに自覚的であるわけがなく、誰かに確認を求めてしまうのはある意味自然な流れと言えた。ただそこで本人に確認してしまう辺りが拳児が拳児たる所以である。
「なるわけがないだろう。あれは情けをかけてもらったようなものだ」
「情け、でスカ? ンー、あんまりピンときませンネ」
「やかましい。だいたいあれはお前たちが……」
仕組んだんじゃないか、と言いかけて智葉は口を閉じた。その言葉はほとんど決定的なものになってしまいかねない。何を仕組んだ、と聞かれてしまえば逃げ道がなくなるからだ。無論これは素の拳児をよく知らないからそう考えてしまうのであって、彼をよく知ってさえいれば別に目の前で何を話しても察することはないとわかるものである。いま智葉も含めて臨海女子の面々が知っているのはそこに有能かそうでないかの違いはあっても監督としての拳児であって、やはり一個の人間としての拳児には誰もたどり着いていない。そして彼が恋愛面においての察しの良さにおいてどれだけ低く見積もっても平均的なものを備えていると思い込んでしまうのは自然といえば自然なことであり、智葉が言葉を続けることができなかったのは避けられないことでもあった。
「ねえねえ、そんなことよりケンジはよくプレゼントあげるの? ネリーにもくれる?」
「やらねーしそんなモン考えたこともねえ。他を当たんな」
彼の事情を完全に理解している人間ならば嘘だと言うことができる発言だが、驚くべきことに拳児のなかではこれは嘘に分類されない。なぜなら彼にとってプレゼントとは塚本天満に渡すものを指すのであって、それ以外はとくに意味を持たないものだからだ。
しかし他方で拳児に対する勘違いは全国的に広まっており、その意味でも彼の発言は周囲にダウトと取られるものでしかなかった。姫松ではもはや公然の秘密と化しつつあることと、拳児に正面から向かっていける人材がいないという事情が相まって半ば忘れていたことが再び彼に牙を剥いた。
「ウソだよ、だって大星がテレビでプレゼント買うのの手伝いしたって言ってたよ」
「もしかして今日サトハにあげるために持ってきまシタ?」
「違げーっつの、あれはアイツの勘違いであってだな……」
姫松で三年生を相手に何度もしてきた説明をここでも繰り返すのか、と拳児は若干疲れたように言葉を返した。世間的に見れば彼は優勝監督であると同時に悲恋を乗り越えて新しい一歩を踏み出そうとしているひとりの男でもある。むしろ夏の大会が終わってひと息ついてしまえばそういう男としての側面が強くなる。いったんはそれぞれのチームが落ち着いてかたちを変えていく時期という関係上、個人に注目が集まるのは仕方のないこととも言える。言い方を変えれば彼の強烈すぎる個性の弊害でもあった。
話題が拳児に移ったときに安堵した智葉だったが、ほんの短い時間でそれを修正しなければならなくなっていた。いつの間にか話題の範囲に自身が含まれていることに気が付いたからだ。いま下手に口を出してしまえば槍玉にあがることは間違いないし、黙っていても話を振られる可能性は高い。もし初めから計画されていた運びだとすれば恐るべき展開力だと思わずにはいられなかった。雑談でそんなことがあればの話だが。
「ケンジはサトハに金魚をあげたのですから、更に、なんてくどいということですね」
「オイ日傘、オメー実はまともに話とか聞いてねータイプだな?」
そうこう話しているうちに目的の店についたことで気が付けばその話題も止まり、今度は食事に向けての話題が始まった。拳児にはそういう習慣がないから見られなかったが、智葉は店につくまでため息の連続だった。なにせ誰も悪いことをしていないのだから感情の矛先をどこにも向けられなくて、結局は自身のなかで消化かあるいはため込むことしかできなかった。こういう立場になった経験が浅いということもあるが、智葉はその疲労感からいわゆるいじられキャラというポジションにある人に対して畏敬の念を抱き始めていた。
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平均的な女性から見れば明らかに異常な量を食べる拳児や、お互いに普段は何を食べているのかなどの話、またもや拳児と智葉の話題で食事は盛り上がりには事欠かなかった。初めて見る料理に騒いだり、とりあえず拳児に毒見させてみたり、そんな騒がしいなかでもきちんと上品に食事を続けていた智葉だったりと、どこかあの合同合宿のときよりも自然な姿が見られた。そのなかに当然のように拳児が紛れ込んでいることをどう捉えるべきかはわからないが。
外へ出てみるとすこしだけ空気が冷たくなったようだった。食後ということで体が温まっていたことも関係しているのかもしれない。空の色は青の濃度をうんと上げたような色をしていて、暗いのには違いないのだが決して黒と呼ぶべきではない色であった。いくらか顔を動かして探してみるとひとつだけ星が見えた。住宅街とはいえ都心にかなり近いこの場所で見えるということはまず一等星だろう。雲は流れていったのか見当たらなかった。
「ところで、結局のところ播磨クンから見てサトハはどういうポジションなんでスカ?」
「あ? ……そーだな、あー……、ケッコー感謝してんぜ」
唐突なメグの質問ではあったが、言うまでもなく智葉自身にそれを止める術はない。もうすでに状況は完成されている。彼女にできることは過敏な反応と取られない程度に口をはさむことと、拳児が帰ったあとにこの問題児どもを締め上げることだけだ。
「感謝? それはまたどうシテ」
「辻垣内のおかげで上重のやつの意識が変わったってのがデケーな」
「ちょっと待て。そういう話は本人のいないところでするものだろう」
いきなり感謝をされても反応に困るうえに、放っておけばエスカレートしていきそうな気がした智葉はあくまで常識の範囲内で収めるように手を打った。間違っても照れ隠しに声を荒げたり手を出したりはしない。そういう隙のなさが問題児どものやる気を煽っていることに本人が気が付いていないのは秘密の話である。
「でも老は普段こちらにいないのですから機会は今しかありませんよ」
「上重、ってあのおでこおっぱいでしょ? どう変わったの?」
多勢に無勢、というやつで智葉の意見などすぐさま流されていく。これが部としての活動であればそれなりの強制力を発揮することもできるのだが、いかんせん場としてはプライベートなものであってどうしようもない。しかも時期的に彼女はすでに引退してしまっている。こういった無力感はこれまであまり感じたことはなかったが、意外と楽しんでいる自分もいることを否定しきれないのが智葉の最近の悩みの種でもあった。
拳児が漫の変容をどうにかこうにかと説明している横で、行きとは逆に今度は智葉がぼんやりと物思いに耽っているようだった。高校三年生という多くのことを考えなければならない特別な時期であることを考慮に入れればどこにもおかしいところはない。ほとんどの場合どれだけ時間があっても足りないのだから。具体的に彼女が何を考えているかを知ることは誰にもできないが、しかし播磨拳児が関わっているだろうことだけは容易に推測できた。なぜなら彼女の口からごく自然にこんな言葉が飛び出したからだ。決して不満が込められた言葉ではなく、わからないものの目の前に立ったときに身体の内側から湧いてくる純粋な疑問だった。
「おい播磨」
「ナンだ」
「お前、いったい何なんだ」
彼の経歴を考えれば妥当も妥当の質問ではある。それでもこの問いが拳児の実際的な事柄を知るためのものでないことは言わずと知れたことだった。ただ同時に何を指しているのかが不明瞭であることも事実であり、決してよくできた質問ではなかった。しかしそんなこと以上に重要なことは辻垣内智葉がこれを自身のうちに留めておけなかったというところにある。思慮深く、怜悧とさえ言っていいかもしれない彼女が何かの思考の果てにこう問わざるを得なかったことは、播磨拳児の存在がすくなくとも確実に彼女になんらかの影響を与えていることを示していた。
これは明確な変化であった。人によってはちいさなものだと言うかもしれない。拳児はおろか、臨海女子の部員の大半でさえも同じように考えるかもしれない。しかし短くないあいだ仲睦まじく智葉と付き合ってきた彼女たちは、その変化を大きなものと捉えた。もともと女子高という環境もあってそういった話題とはあまり縁がなく、また興味も薄かった彼女が興味の対象に選んだということと同義であるからだ。それにすくなくとも悪い意味での興味でないことは間違いない。たとえこの場ではできないにしても、メグをはじめとした問題児たちは祝福しないわけにはいかなかった。
「俺様は俺様だ。覚えときな、テストに出るぜ」
「……そうか」
「オイ、せめて触れろや」
はじめからまともに答えが返ってくるとは思っていなかった智葉は、特別にリアクションを取るでもなく拳児の言葉を受け取った。そもそもの問いが不出来なのだから欲しい答えも不確かで、だから性質としては問いでさえなかったのかもしれない。
「おいコイツひょっとしてツッコミとかできねータイプか?」
「イエイエ、いつもはきちんとツッコんでくれまスヨ? 冷淡ですケド」
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寮の玄関前で解散したあと、智葉は部屋に戻ってすぐに英語の復習を始めた。本当ならすぐに大浴場へ向かってもよかったのだが、風呂ではひとりで過ごすのが好きな彼女にはできるだけ人数が少ない時間帯を選ぶ習慣がついていた。本当なら部屋ごとに備えてあれば最高だと考えているのだが、寮に入っている人数規模を考えればそれは無理な話だった。彼女の部屋は女子高生という前提を置くとひどく殺風景なもので、クローゼットのついた一般的なワンルームの空間に本棚と机とベッド、それにあまり活用頻度の多くないテレビが台の上に置かれている。ただひとつ視覚的に楽しめるものといえば流し台のそばに置いてある噂の金魚鉢だけだ。
取り組んでいる内容は単語と熟語の確認で、英語を母国語とするメグに聞いてみると、どうやらかなり珍しい言い回しが試験では人気らしい。あまり日常会話では使わないものが多い、とのことだが、たしかに考えてみれば日本語も似たようなものかと納得した経緯が智葉にもある。文法をかちっと守ってしゃべる日本人になど会ったことがない。とはいえそれは勉強をおろそかにする理由にはならないため、彼女のペンを動かす手は止まらなかった。
ふと麦茶が飲みたくなって、智葉は冷蔵庫に立つついでに鉢のほうへ足を向けてみた。けさ部屋を出た時と変わることなく二匹ともすいすい泳いでいる。それにあわせて金魚藻がゆっくりと揺れていた。智葉はこの眺めが好きだった。朱と黒で見分けがすぐにつくから、二匹ともとくに名前はつけていない。部屋に来た連中にさんざん言われてはいるが、呼んで応えるようなものではないのだから必要ないと彼女は考えているのだ。
ほんの二分ほど目線の高さを合わせて鉢の中を眺めて、彼女は冷蔵庫のほうへ振り返った。