姫松高校麻雀部監督代行播磨拳児   作:箱女

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61 AM4:49

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 しん、と寝静まったホテルの一室。カーテンの向こうはどの時間よりも暗い。聞こえるのは小さく調整された空調の音とささやかな呼吸と、かすかな衣擦れの音だけだ。そもそもが十一階にあって防音が徹底されたこの部屋には、ときおりホテルの近くを通る車の走行音すら入っては来ない。そんな、静謐がルールとして明文化されていそうなこの空間で、ベッドがひとつもぞもぞと動き出し、ついにはそこに寝ていた少女が半身を起こした。

 

 真っ暗な空間で影だけが動作していることがわかる。影の手が枕元へ伸びて、そこがふんわりと明るくなった。どうやらスマートフォンを起動させたらしい。複雑な操作をしているようには見受けられないから、おそらく現在時刻を確認したかったのだろう。ディスプレイに表示された数字を見て、影はやれやれと頭を振っている。考えてみれば目を覚ましてすぐに意図のはっきりした行動を取れているあたり、意識は覚醒状態に近いとみてよさそうだ。

 

 ( あー、まだ四時にもなってへん……。でもなんか寝直せるカンジとちゃうなこれ…… )

 

 早朝と呼ぶのも憚られるような時間に寝ている仲間を起こすという選択肢はあまりにも非人道的すぎるということで、少女は静かにコンビニに行ける程度の軽装に静かに着替える。いつもならば結んでいる髪も下ろしたままだ。そこまで長いあいだ外出するつもりもないが、自分と同じように何かの拍子に目覚めてしまう仲間もいるかもしれないと考えた少女は、ベッドの上に簡単な書置きを残していくことにした。念のための備えというやつで、十中八九は誰の目にも留まることはないだろう。彼女は音を立てずに扉を開け、一階のロビーへ向かうためにエレベーターに乗ることにした。

 

 ホテルに宿泊している客というのは実にさまざまで、たとえば夜にすべての人が睡眠をとっているとは限らない。少女がエレベーターのボタンを押したときも、なぜかエレベーターは停止してはいなかった。いったん上に上がって、それから彼女のいる階へと降りてくる。文字盤は順番どおりに明滅する。おそらく誰かが乗っているのは間違いのないことで、そのことは少女の気分を明るくはしなかった。

 

 到着を知らせる音が鳴って、ゆっくりと戸が左右へ引かれていくと、可能性としてはゼロではなかったが少女がまったく考えていなかった現実がそこにあった。長身のてっぺんにあるばさばさとしたそれなりの長さのある髪をカチューシャで抑え込んで、外はまだまだ陽が出ていないのにサングラスをかけている。制服のポケットに突っ込まれた両腕は少女のものと違ってかちっと筋張っていて、いかにも()()()だ。いちいち思い出す必要もない。ここ数ヶ月のあいだに見慣れたものだ、まさか見間違えるわけもない。

 

 「お、末原じゃねーか。ナンだこんな時間によ」

 

 「そっくりそのままお返し、やな」

 

 

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 「レンタルバイク?」

 

 「おおよ、借りて走れンだよ。こっち来てから乗ってねーし退屈だしな、昨日借りた」

 

 話を聞いてみるとどうやら拳児はこれからバイクを走らせるとのことだった。なんでまたこんな時間に、と恭子ももちろん訝しんだが、たしかに普段の東京の街は交通量が多すぎてそういうものを素直に楽しむのは難しいのかもしれないと思い直した。なんともうさんくさい話ではあるが、拳児の口ぶりからすればこの時間に走りに行くことはどうやら慣れたものであるらしい。それどころか恭子がほとんど見たことのないどこか嬉しそうな様子をしている。ひょっとしたらいわゆる走り屋という性分を持っているのかもしれない。

 

 「で、オメーは何してんだ?」

 

 早朝四時にもなる前から部屋を抜け出してエレベーターに乗り込んできた少女に対しては正しい質問と言えるだろう。いくらなんでもこの追及から逃げるわけにはいかないし、逃れられるわけもない。ただ、部屋を出た恭子自身もその行動の根っこがよくはわかっていなかった。

 

 「いや、なんか目ぇ冴えてもうてな」

 

 「ふーん、ま、そういうときもあるか」

 

 アゴヒゲを撫でて得心したように頷く。仕草と言動だけを捕まえれば似たような思い出を抱えているように見えなくもない。しかし拳児が朝早くに目を覚ましてしまう図はなかなか想像しにくいものがある。寝相悪く大いびきをかいている、というのがおそらく外部からのイメージに最も即しているのではないだろうか。

 

 隣を歩いていると改めて拳児の大きさがよくわかる。並んだところで恭子の頭がせいぜい拳児の肩ぐらいにしか届かない。三月の終わりに突然やってきたときよりもまた身長が伸びたような気さえする。寝起きだという (これは正直あまり関係ないが) のにずっと顔を上げて話さなければならず、ちょっとだけ理不尽であることは理解しながらも恭子は不満を募らせた。

 

 

 とくに約束をしたわけでもないが、恭子はなんとなく拳児の借りたバイクがあるという駐輪場についていった。実際問題、恭子もヒマなのだが時間の潰し方が思いつかないというのもある。陽も出ていない早朝の東京で何ができるかと聞かれれば、持て余すのが当たり前である。外はすこしだけ涼しくて、夏の中のどこかしら特別な場所にいるかのような錯覚をしそうになる。恭子は中学で習った飽和水蒸気量のことを思い出す。それの影響で植え込みの葉にも借り物のバイクにも細かい水滴がついているのだろう。

 

 恭子はまるでバイクのことなど知らない。原チャリとそうでないものの区別すらアヤシイところだ。だから拳児が借りたバイク自体に対しては特別な感想を抱くことはしなかった。ただ、初めてのまじまじと見る機会であったため、それなりの興味を持って眺めていた。

 

 「なんだそんなに気になんなら後ろ乗ってみっか?」

 

 そう声をかけられて拳児のほうへ振り返ると、白い半球のヘルメットが飛んできた。落とさないように慌てて抱え込むと同じヘルメットを被った拳児がバイクにまたがろうとしていた。どうやら提案をした割には返答など待ってくれないらしい。拳児が手首を回すとエンジンが始動を始める。周囲の空気だけを震わせる音が響いて、その熱を伝える。いまバイクが走り出していない理由などひとつしかない。恭子自身も返答をしたわけではないのに、これから自分の取る行動が当たり前のものなのだと思っているフシがあった。いかに聡明で通っている恭子と言えど寝起きであることが関係していたのかもしれない。

 

 後部シートに乗ろうとして初めて恭子はバイクに足をかける段のようなものがあるのに気付く。なるほどある程度大きいバイクはそもそもが二人乗りくらいは前提なのだなと妙なところで感心した。そこに足をかけて拳児の肩に手を置き、またぐようにして後部シートに座る。明らかに上がった目線の高さがすこし面白く感じられる。

 

 「オウ末原ァ! ヘルメットはしっかり被っとけよ! 警察に捕まンのは面倒だからな!」

 

 「不良のくせにきちんと交通ルールは守んねんな!」

 

 「うるせェ!」

 

 エンジン音の影響で声を張らなければならなくなった二人は、そのせいもあってか気分が高揚しているようだった。恭子は両手をしっかりと拳児のそれぞれの肩へ乗せて走り出すのを待っている。そのほんのすこし前のシートでは拳児がわずかに首をひねっていた。

 

 ( なんだかチャリンコ二人乗りしてるみてーだなコレ…… )

 

 ともあれ拳児は出発することにした。

 

 

 薄明のなかを二輪車が駆ける。夜の一番暗い時間を抜けて、文字通りの夜明け前というやつだ。ぽつぽつとだけ点在する車を気分よく二人乗りのバイクが躱していく。後部シートに座る恭子の長い髪がなびく。普段は垂らして途中で折り返して留めている髪がすべて流れているのだ。オレンジ色のライトで照らされた道路の向こうの景色も、暗いなかでも次第にはっきりと姿を見せ始める。恭子の生活では体感できない速度は、彼女の両目に映るものを新鮮に見せた。リアシートの高さのおかげもあって背の高くない恭子が見ることのできた、播磨拳児の上からの風景というものもまたどこか特別なものに思えた。ばたばたと頬をうつ風でさえ面白いと感じられた。

 

 そのうち恭子の興奮も落ち着いてきて、拳児がただやみくもにバイクを走らせているわけではないことに気が付いた。ツーリングなのかドライブなのかはわからないが、これにはどうやら目的地があるらしい。一日のなかでいちばん暗い時間を過ぎたとはいえまだまだ明るいとは言えない。そんな時間にいったいどこへ行くと言うのだろうか。

 

 「播磨ァ! これどこ向かってんの!?」

 

 「いーもん見せてやっからよ! 楽しみにしとけェ!」

 

 もう都心のど真ん中はとうに過ぎて、どちらかといえば自然の割合が増してきた。東京といえど郊外に出れば長閑な風景が広がっているもので、畑なんかも別に珍しいわけではない。空気の匂いが明らかに変わって、静けさの意味が変わる。空の色がもう一段階明るさを増して、夜明けが近いことを知らせる。気の早い鳥はもう声を上げている。恭子はときおりヘルメットの具合を調整していた。

 

 バイクはついに山に入った。これまでとは違う登り坂に恭子も多少は驚いたのか、それまでよりも拳児に引っ付かざるを得なくなった。木々に囲まれた道路はぐっと気温が下がったように感じられる。さすがに出発前に慣れているようなことを話していた拳児は、様子を変えることなく飄々と運転をしている。この山を越えた先に、本当に拳児の言う “いーもん” があるのかはまだ疑わしいが、かと言って急に降りるわけにもいかない。降ろされても困る。帰れない可能性が大である。そんなことを考えているうちに木々のぽっかり刈られた道に出て、拳児がゆっくりと道端にバイクを止めた。

 

 恭子に先に降りるよう指示を出して、その後で拳児も降りる。拳児はすぐそこのガードレールに腰かけて、ひとつ大きく伸びをした。ある程度の時間を運転しっぱなしだったことを考えて、休憩だろうかと恭子は推測した。もちろん恭子はバイクの運転経験などないため、どれくらい乗るとどれくらい疲れるのかなどまったくわかっていない。恭子も拳児にならってガードレールに腰かけ、ふいと後ろを振り返る。これまで登ってきた山道は曲がりくねっていて、ちょっと先はもう見えなくなっている。

 

 「オイどこ見てんだ、向こうだ向こう」

 

 「へ?」

 

 拳児の指す方向には木々がなく、山裾の町並みが広々と見えるはずなのだが、今の時間ではまだ暗すぎるためにほとんど何も見えない。若干の心配の視線を拳児に送る。いつも通りのサングラスに山羊ヒゲだ。相変わらずよくわからない、とため息をつきながらもう一度視線を前に向けたそのときだった。遠くの山の合間がじりじりと暖色に染まっていき、そこまで間を置かずに太陽が顔を覗かせた。

 

 真っ暗だった山裾が一気に色づいて、世界中がきらきらと輝き始める。二人が走ってきた道も、今いるところも、全てが陽光に包まれて、息を吹き返す。ほとんど夕暮れと変わらないやわらかい光線が辺り一面を染めていく。例外なのは陰になっているところくらいで、それでもその全てが同じ方向に伸びているのを確認できる以上は不思議な眺めの一部としか言いようがない。太陽が眩しいことなど知っているが、それでも恭子は目を離せなかった。

 

 「な、スゲーだろ?」

 

 「……ようこんな場所知っとったな、驚いたわ」

 

 「前に来たことがあってよ、こういうのァいいよな」

 

 「ふふ、似合わんな」

 

 「るせェ」

 

 

 二人がガードレールに留まっていたのはたったの五分だけだった。太陽がその姿をすっかりと空に現してしまうと、拳児はさっさとバイクにまたがった。不思議と恭子もそれに違和感を覚えなかったようで、二度目にして慣れたような動作でリアシートに乗り込んだ。もう空の色は明るくなり始めており、朝と呼ぶには十分だ。気が付けばいつの間にかセミも鳴き始めて、真夏の朝が東の空からやってくる。気温も湿度も上げて、今日も熱中症の患者をたくさん出すのだろう。恭子は長い髪をはらってヘルメットを被りなおした。

 

 

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 「あ、恭子、おかえりなのよー」

 

 恭子が部屋の扉を開けると、由子だけがテーブルで紅茶を飲んでいた。あとはまだ夢の中にいるらしい。しかし時間を潰してきたとはいえまだ七時になる前の早い時間で、どちらかといえばまだ寝息を立てているほうが高校生らしいと言えそうだ。

 

 「ただいまー、って由子もずいぶん早起きやな」

 

 「起きたら姿ごとなかった恭子に言われてもねえ」

 

 くすくすと笑い合いながら恭子もテーブルにつく。もうすっかり外は明るいが、起きているのはテーブルについているふたりだけだ。カーテンが直射日光を防いでくれていることが大きいのかもしれない。

 

 「こんな時間にどこに行ってきたの?」

 

 「ん、まあちょっと散歩というか」

 

 ふうん、と聞いているのだかどうだか曖昧な返事とともに由子はテレビの電源を入れた。昨晩にも点けていたこともあって音量は小さいままだ。この程度ならいま寝ている面々はまず起きないだろう。ディスプレイには東京の街を上空から撮った映像が流れている。空の具合を見れば今日の天気などわかりそうなものだが、それでも番組では律儀に晴れる予報を知らせていた。

 

 由子はまだ湯気を立てている紅茶をもういちど口に運ぶ。そうしてひと息ついてから思い出したように、あ、とわざとらしく間を置いて恭子に尋ねた。

 

 「なにか面白いものはあった?」

 

 ほとんど反射的に恭子は首を横に振る。どうして咄嗟に隠すような判断をしたのかは彼女自身にもわからない。ただ一般論を述べるなら、恋人同士であるわけでも昔馴染みであるわけでもない異性と日の出前からふたりで出掛けたなんてことを話すには恥ずかしさがいささか強すぎる。思い出してみればどうしてリアシートに乗ったのかから詰めなければならないレベルの行動だが、恭子はそこに “早朝だから” と蓋をすることにした。

 

 テレビは天気予報を終えて、いまはエンタメ情報を流している。注目の映画やアミューズメント施設、それに今の時期は大型プールなどそれなりに時間を使うような場所が多く紹介されている。そんななかにも麻雀のインターハイ観戦が入ってくるところを見ると、どれだけ一般に麻雀というものが浸透しているかが察せるというものだろう。

 

 テレビに映る人々は誰もが明るい顔をしていて、それぞれ思いきり楽しんでいるように恭子には見えた。きっと彼らは自分たちが愉快な状態にあるという考えすら頭に起こらないほどに楽しんでいるに違いない。そんな映像を見ていたかと思えば、何をきっかけとしたのか恭子はいきなりテーブルに突っ伏した。それはたとえば、高校の授業でどこをヒントに解けばよいのかすらわからない難問に出くわしたかのような倒れ方だった。突然のアクションに由子も多少は驚いたが、それでもちらと視線を向ける程度で取り立てて騒ぐ様子は見られない。あるいは彼女のこういった仕草は案外と見られるものなのかもしれない。

 

 「どうしたの?」

 

 「……いや、客観視いうのをちょっと意識してな」

 

 恭子が突っ伏したままでもごもごと口を動かしているのは仲の良い真瀬由子の前だからである。なんだか面白い動きをしているなあ、と由子が横目で見ていると恭子が突然立ち上がって着替えだのタオルだのを取り出してバスルームへと駆け込んでいった。夏の朝にシャワーはつきものだが、恭子のあんな様子をいつも通りと受け取るほど由子は緩い判断基準を持ってはいない。せっかくだから洋榎の応援をしている間にでもつっついてみようかと考え始めた。

 

 いくら麻雀のインターハイ団体を制した高校の大将であっても、ひと皮剥けばただの女子高生に変わりないのだということを真瀬由子はよく知っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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