姫松高校麻雀部監督代行播磨拳児   作:箱女

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全国おまけ編
60 金魚の詩


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 もうとっぷりと日は暮れて、濃い藍色の空の下。夏祭りの出店と人だかりの熱気のなかを、とある男女ふたりが連れ立って歩いている。一方は清涼感のある水色を流した地に、水仙の花が綺麗に収まった浴衣を纏っている。決して短くはない髪をひっつめにして紅の髪留めでしっかりと留めて白いうなじを覗かせている。歩を進めるたびにからころ鳴る履物の音も小気味よく、静かに揺れる裾が彼女の鋭い目をさえ絵画の中のもののように印象を作り変えた。左手には巾着の紐と、出店でよく使われる薄いプラスチック容器に入ったたこ焼き、それとビンラムネが握られている。

 

 その隣を歩くのはヒゲグラサンにカチューシャを身につけた不良風味の男で、なぜか私服ではなく学生服を着てこの出店通りを歩いている。隣を歩く少女とは違って、手には焼きそば、焼き鳥、たこ焼きと食べるものだけでずいぶん大荷物のようである。視線がまだ出店のほうをさまよっているところを見るとまだ食べるつもりなのかもしれない。

 

 「なんだ、オメーそれしか食わねーのかよ」

 

 「別にそんなに急いで食べる必要もないだろう。こういうのは風情を楽しむものだ」

 

 だしぬけに飛んできた質問を少女は、あるいは女性と表現したほうが描写としてはいくぶん正しいかもしれない、あっさりといなしてみせた。きれいな顔立ちをしているのだが、その表情はなんだか複雑なものだ。なにか面倒事に巻き込まれたかのような、しかしそれだけではないといった部分も窺える。有無を言わさず帰っていないところを見るに、どうやら絶対にイヤというわけでもないようだ。

 

 ところで、こんな奇妙な状況が生まれたのにはもちろん理由がある。

 

 

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 「サトハ、お祭りに行きまショウ。明日」

 

 「メグ、知っているか。今はインターハイ個人戦の真っ最中だ」

 

 若干かわいそうなものを見るような目で、辻垣内智葉はやさしく教え諭した。この二人はこういったやり取りが自然なものとなっているから、どちらもお互いの発言に違和感を持たない。仲の良い友達同士のポジションというやつだ。一年生の頃からの付き合いということもあって、どこまで押せるか理解しているし、どれだけ押してくるかも承知している。たとえば智葉からすればメグがこれだけで退くなどとは露とも考えられない。

 

 「ハッハ、明日のサトハの出番は早めに終わりですヨネ? 組み合わせ見ましタヨ?」

 

 インターハイ個人戦は人数規模とその公平性との関係もあり、団体戦に比べて複雑なシステムを採用している。地方の予選を勝ち抜いてきた選手たちをもう一度足切りにかけ、そのうえでトーナメント戦を実施するかたちを採っているのだ。当然足切りをかけるには平等な対局回数を各選手に割り当てなければならず、選手によっては試合時間に偏りが出てしまうこともそう珍しくはない。そしてメグの言う通り、智葉の明日の予定は午後三時の対局を終えればがら空きだった。

 

 笑顔とドヤ顔を七対三で混ぜたような表情で迫るメグに、智葉は降参の意を示した。外国人留学生が個人戦に出場できないことが、まさかこんなかたちで襲い掛かってくるとは思いもしていなかった。しかし気を張り続けるのもよろしくないことは智葉自身も理解しており、その意味では渡りに船といったところかもしれないな、とこっそりメグに感謝をした。

 

 「……で、どこの祭りだ?」

 

 「お、ノリのいいサトハは珍しいでスネ! 場所は学校の近くの神社でスヨ」

 

 ネットで調べまシタ、と楽しそうに笑う彼女を見て智葉もついつい笑みをこぼす。

 

 「ああ、あそこか。あいつらも呼ぶのか?」

 

 「これから声かけるツモリでスヨ」

 

 「じゃあ先に待ち合わせ場所とか決めておくか」

 

 「ア! サトハ! 浴衣見てみたいデス私!」

 

 無邪気そうにはしゃぐメグが罠を張っていようなどとは、智葉は夢にも思っていなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 郵便局の角を左に折れると、幅の広い歩道とその先に山を上がっていく階段が見える。その階段を上がると昨日メグの言っていた神社が小さく見えるのだが、今日はおそらく人ごみですぐには見えないだろう。智葉は日本文化に触れたいと言っていた友人のために自身も自宅で浴衣を着付け、留学生たちにはリーズナブルな貸衣装屋を教えてやった。待ち合わせは曲がり角にある郵便局ということになっているが、地元の人たちはたいていここを目印に集まる。今日も老若男女と問わずに多くの人が集まっていた。

 

 まだ太陽は沈み切ってはおらず、空を眺めると夕暮れから夜への傾斜のきついグラデーションが見て取れた。夕暮れに似合うヒグラシの鳴き声が山のほうから聞こえてくる。ちらと郵便局のほうへ目をやると、見慣れた顔はまだ到着していないらしい。おそらく慣れない服装に戸惑っているのだろうとアタリをつけて智葉は待つ姿勢に入ろうとした。その瞬間だった。

 

 「オウ、あいつらはまだ来てねーのか?」

 

 ゆっくり一息つこうと考えたのも束の間、いつかのごとくまったく警戒していない後ろから声をかけられて、智葉はとっさに振り返った。わりにのんびり歩いていたところを突然に振り向いたものだから、なにかあったのかと周囲の人々の視線が次第に集まり始める。そこにいるのは高校麻雀に関心のある者ならば絶対に見間違えることのない男だ。夏の学生服にサングラス、カチューシャで後ろに抑えつけたヘアスタイル、それに山羊ヒゲなんて風采は日本全土を探して回ったところでたったひとりしかいないだろう。智葉はこのままこの場にいたら面倒事が起きることを瞬時に理解した。麻雀での勘の鋭さや判断の良さはこういうところにも表れるのだろうか、とりあえず智葉は何も言わずに拳児の手を引いてその場をダッシュで離れることにした。

 

 

 わずかな距離とはいえ走ったことで乱れた呼吸を整えようとわざとゆっくり息を吐く。本当なら呼吸とは息を吐くことから始まるのだ。肺をいったん空にすることで自然と空気が取り込まれる。足を止めて回復のために取り入れる空気は新鮮で、それがすこしだけ智葉の気持ちを落ち着けてくれた。外から見ればどこの青春映画かと言いたくなるようなふたりのダッシュの目的地は近所の児童公園であり、近くで祭りがあるということもあって、夜も迫る今の時間には誰もいない。他人に見つからずに息を整えるのにここ以上の場所はないだろうというくらいの場所だった。

 

 賢い智葉はある程度どころかほとんど全体像まで推測していたが、その確信を手に入れるためになぜかこんなところにいる播磨拳児に聞いておかなければならないことがあった。というよりもこの状況に出くわせば誰であってもこの質問はするだろう。

 

 「播磨、お前なんでこんなところにいる?」

 

 「あ? なんだオメー聞いてねえの? ダヴァンのヤツに祭り行くからって呼ばれてよ」

 

 突然に手を引かれて走らされたことについては特に思うところもないのか、拳児は平然として質問に答えた。夕暮れの児童公園は最後の陽光が当たっているところと当たっていないところとで、まるで塗りつぶしたように色が分かれている。

 

 「…………あのバカどもが」

 

 推測が見事にぴたりと当たっていたことと何も知らないチンピラが目の前にいるという事実が、彼女に思い切りため息をつかせる。メグをはじめとした臨海女子のバカものどもはまず間違いなく祭りには姿を見せないだろう。つまり、そういうことだ。

 

 さっさと帰って二時間コースの説教でもかましてやろうと強く決意したタイミングで、智葉は何かがおかしいことに気が付いた。目の前にいるヒゲグラサンは、少なくとも公的にはインターハイの団体戦で忌々しくも優勝をかっさらった姫松高校の監督代行であり、そして団体戦からは日が移った今日も明日も個人戦が行われているのは昨日の時点で智葉自身がダヴァンに確認したことだ。というか姫松から個人戦に出場している選手がいるというのに応援も練習相手も務めないでこんなところにいるのは明らかにおかしいことのはずなのだ。

 

 「待て、お前なんでこんなところにいる?」

 

 「いま言っただろーが。呼ばれたから来たんだっつーの」

 

 「そうじゃない。お前自分のところの部員は放っておいていいのか? 個人戦があるだろう」

 

 智葉がそう口にすると、目の前の男は素っ頓狂なことを言われたかのように呆けた面をこちらの方へ向けていた。お互いの重要視されるべきポイントに食い違いが生じているのは明白だった。

 

 「ナンで個人戦まで面倒見なきゃならねえんだ、俺のシゴトは団体までだ」

 

 今の状況が突然の事態ということもあって、播磨拳児が独特の価値観を有しているということをまるっきり忘れていた智葉はその発言に面食らってしまった。正しくは自身が監督を務める高校の試合中でも平然と外出して昼食を摂りに行ける男である。かなり好意的に解釈したところで無責任極まりない発言と取られるのがスジだろう。これがプロでの話ならばその論理は通用するが、どう頑張ったところでインターハイは高校生の大会である。学生の大会である。団体戦か個人戦かで監督の動作が変わる理由などどこにもない。

 

 「……それに姫松の連中は納得しているのか」

 

 いまだ拳児の不思議な事情を思い出してはいないものの、一瞬のうちに冷静さだけは取り戻した智葉はどこか詰問口調で問うた。不義理に対して厳しい彼女の眼鏡の向こうの視線は鋭い。しかし数々の命にかかわるような修羅場を潜ってきた拳児はそれを意に介さない。それに彼からすればまったく不義理を働いているつもりもない。このことについては拳児の転がされるようなこれまでの人生と、優勝を目指す理由を知っておかなければきちんとした把握は難しいだろう。

 

 「あ? ンなもん要るかよ。そもそも俺があいつらにひっついて何すりゃいいんだ」

 

 「助言でもおくってやるのがお前の役割じゃないのか」

 

 「……あのな、俺より麻雀できねえ奴なんざウチの部にゃいねーぞ?」

 

 若干きまり悪そうに視線を外して口を開いた拳児の姿は、なんだかおそろしく似合っていない違和感の集合体のように智葉の目に映った。うまく言語化できないが、なんとなくこれまでのイメージとのあいだにずれが生じているような気がした。

 

 ここまで来てやっと智葉は思い出した。目の前のこの男はどういう星のめぐり合わせの下に生まれたのか、新入部員にも勝てないと自覚している腕前なのになぜか名門校の部の監督代行を務めていることを。先日 (あれはたしか二回戦当日のことだったか) 聞いたところによれば、どうやら姫松の部員たちは全員が播磨拳児の実力を勘違いしているのだという。智葉自身それを確かめてこそいないものの、彼が嘘をつく意味も理由も必要もないことから事実なのだろうと受け止めている。改めて考えてみれば、たしかにこの男が個人戦についていく意味は、ゼロではないがだいぶ薄い。

 

 「そうだったな……、お前は、そうだったな……」

 

 こうして彼女は今日一晩くらいは相手をしてやろうと決めたのだった。

 

 

―――――

 

 

 

 「別にそんなに急いで食べる必要もないだろう。こういうのは風情を楽しむものだ」

 

 「イヤそりゃ構わねーけどよ、単純に腹減んねーの?」

 

 そもそも見た目も振る舞いもせいぜい不良がいいところの拳児は、普段から会話にデリカシーのようなものを求められることは少ない。もちろんそんなものは欠片も持ち合わせていないし、仮にそれを要求されたとしても気付かないのが関の山だろう。デリカシーのない発言をしてため息をつかれたり、じとっとした視線をもらっても不思議そうな顔をするだけだ。しかしながら拳児の周囲にはそういったことを気にする人物がほとんどおらず、いま一緒に歩いている辻垣内智葉もどちらかといえば無頓着に分類されるタイプだった。

 

 「男の胃袋と女のそれを同じレベルで考えるな、それに腹拵えをしに来たわけでもないんだ」

 

 拳児のちょっとずれた心配にもそれなりに丁寧に智葉は返す。言葉遣いはぶっきらぼうと言えるが、トーンはどこか優しい。そういう見方をすれば智葉と拳児とは似たような系統のパーソナリティをしていると言えるかもしれない。もちろんそれは局地的な見方であって、全体的に見てしまえばまるで違っているのは当然の事実ではあるが。

 

 どちらから言うともなく、すこしだけ歩く速度がゆっくりになった。だんだんと空の藍色が暗く沈んでゆく。まだ腰を落ち着ける場所を見つけてはいないから、手に持ったビニールだのプラスチック容器だのががさがさと音を立てる。辺りはもうすっかり食べ物を焼く匂いと煙に包まれている。とくに言葉が必要でもない場だったが、珍しいことに拳児が口を開いた。

 

 「そうか、ひょっとしてオメー、こういう雰囲気好きなんだな?」

 

 「……まあ、そうだな。祭りの夜は嫌いじゃない」

 

 ひどくゆっくりとして、途切れそうな会話がかろうじて繋がる。狭い範囲しか照らさない出店の電灯のせいで、幅の広い道の、すこしでも真ん中寄りを歩くと隣を歩く人の顔も見えなくなった。

 

 

 腰を落ち着けて食事を終えて再び出店をひやかす前に、智葉はどうにかこうにか留学生どもが、その中でも呼び出しておいて来ない、という荒業を実行してみせたメグがこの場にいない理由を誤魔化し終えた。メグたちの目的を隠さずに本人に教えてあげるようなミスなど彼女はしない。そうして腹ごなしも兼ねて通りを歩き始めると智葉の目にあるものが留まった。そこでは何のために動き続けているのかわからないエンジンが、がやがやと騒がしい周囲の喧騒のなかでも妙に目立って音を立てている。簡素に張られたビニールプールの中をちいさな赤や黒や金色がひらひらと舞っていた。

 

 ほとんど無意識にビニールプールを横目で見つつ、歩く速度をわずかに緩める。それを自覚していなかったから、智葉は誰かにぶつかって驚いた。彼女が驚くのも誰かにぶつかるのもなかなか珍しい光景である。智葉の歩行線上にいたのは、やはりというべきかさすがというべきか、見も知らぬ人間ではなくイカ焼きの串を片手に持った播磨拳児であった。

 

 「っ、申し訳ない、っと、播磨か。なんで突っ立っている?」

 

 「ン? オメー金魚すくいやるんだろ?」

 

 自分がぶつかった経緯をそこで理解して、智葉は視線をそらして小さくため息をついた。取り繕うような言い訳が出てこないあたりは男らしいというか、女子高校生としては損をしそうな振る舞いである。

 

 「……見られてたか。まあいい、それなら一回やらせてもらおうか、せっかくだしな」

 

 

 

 折り目正しく浴衣を来た美女が金魚すくいをしている図は実に絵になるものであったが、しかし辻垣内智葉のイメージからはかけ離れて、彼女は金魚すくいが下手だった。落ち着きがないというわけではない。しっかりと狙いを定めて、ポイと呼ばれるすくいを水中にくぐらせる。ここまではいい。だが水中からポイに金魚を乗せて引き上げる際に、なぜか金魚を必ず中心に乗せていた。濡れて破けやすくなった紙が小さいとはいえ金魚の重量に耐えられるはずもない。結局は水滴を残してビニールプールへと帰ってしまうのが常となっていた。

 

 すっくと立ちあがった智葉の目は、どこか遠くを見ているようだった。一回やらせてもらおう、なんて言っておきながら五回も挑んで収穫がなかったのだから無理もないだろう。気の毒すぎて誰も自分に声をかけられまいと乾いた笑いを浮かべていると、隣に立っていた男がしゃがむのが智葉の目に入った。さっきまで食べていたはずのイカ焼きはもうどこにもない。

 

 「オウ、おっちゃん、一回頼むぜ」

 

 

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 「本当にいいのか?」

 

 「いいもクソもホテルじゃ飼えねーし、大阪に戻ってもなんにもねーしな」

 

 ビニール袋の中を、赤と黒の金魚が一匹ずつ泳いでいる。

 

 「そういうことなら、まあ、大事に育てよう」

 

 ふたりは金魚すくいの店をすっかり後にして、目印である郵便局を目指して歩いていた。智葉の手元には新たに金魚の入ったビニール袋、拳児の手元にはわたあめが握られている。智葉からのお礼ということで受け取ったものだが、おそろしく姿にマッチしていない。食べ方としては空いた手でちいさくちぎって食べるのが本流なのだが、男子はだいたい顔を突っ込んで食べるものである。拳児もその例に漏れず、だんだん顔がベタベタになってきていた。

 

 「しっかし辻垣内、オメーあんなに下手だとはな、チト意外だぜ」

 

 「うるさい、ずっとやってみたかったけど経験がなかったんだ」

 

 祭りの喧騒や明かりがだんだん遠ざかって、次第に虫の声が聞こえてくる。夜空はもうすっかり真っ暗で、例外的に明るい一等星だけがぽつぽつと浮かんでいる。合同合宿で見た夜空よりは星の数は少ない。ここ数日に比べれば過ごしやすいと言える夜は、だんだんと終わりに近づいていた。

 

 女性を家まで送るなんていう気の利いた真似のできない拳児は、そのまま駅へ向かってまっすぐ帰っていったが、智葉は心底それでよかったと息をついた。下手をすればどころか高い確率で、今日のことを仕組んだ連中がどこかで待ち構えているだろう。そのときに当人である播磨拳児がいたら面倒なことになるのは火を見るよりも明らかなことだ。

 

 「……とりあえず、こんど金魚鉢でも見繕うか」

 

 智葉は右手に持ったビニール袋を軽く掲げて、またひとつ息をついた。

 

 

 

 

 

 

 

 


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