姫松高校麻雀部監督代行播磨拳児   作:箱女

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21 そうやって世界は色づいて

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 夏の盛りとは、朝の九時にもなってしまえば昼日中と気候条件にそう変わりがなくなってしまうことがザラにある恐ろしい季節である。今日もまた胸のすくような青空と、いっそ清々しいほどの強い日差しが東京にいる人々を包み込んでいる。道路も歩道も、その間を区切るように設置された植え込みも、一様に太陽の光を浴びてまぶしく光っている。

 

 インターハイが開催されているホールへの道は正方形の白いタイルが敷き詰められており、その色調はホールのものと相まって、よく晴れた日の青空にもっとも映える。そのタイルを踏みしめる人々の数は多く、どうやら本日もインターハイは大盛況であるようだ。

 

 その、ホールへと続く道にひとりの少女の姿があった。女性としては少し高めの背に、すらりと長い手足。頭の後ろ半分の黒髪をお団子にまとめ上げ、前半分をカチューシャで整えている。少しひやりとした印象を受ける顔立ちも人目を引くのには十分ではあったが、それ以上に彼女の肩書が彼女にただの少女でいることを許しはしなかった。

 

 昨年に行われた十五歳以下でのアジア大会における銀メダリスト、それがこの国の麻雀界隈での郝慧宇に対する評価を決定していた。郝本人の目的は日本で麻雀を打つことにあるのだから、そういった評価を受けること自体に否やはない。しかしその一方で、目的意識がはっきりし過ぎているせいか、彼女は麻雀に関すること以外に対する興味がかなり薄く、例えば郝自身が注目の的であるということにはまるで無関心だった。その点だけを抜き出して見れば、拳児とよく似ていると言うこともできるかもしれない。

 

 足取りは軽くも重くもなく、至って普通のものだ。ちょうど太陽を背にして歩いているためか、強すぎる日光に顔をしかめるということもない。開場直後の時間に比べて、ホール周辺の人の数はまばらだ。多くのファンは良い席を取るために開場前から並ぶのが常となっている。大会前に智葉からそのことを聞いていた郝は、わざと時間帯を少しずらして来たのである。わざわざ好き好んで人ごみに突っ込む物好きもいないだろうと郝は考えているのだが、その辺りは大会出場者と観客の間に横たわる認識の差というものなのだろう。

 

 自動ドアをくぐってすぐわきにある売店で飲み物を買って、どこの学校が試合をしているのかを確かめもせずに郝はスクリーン会場へと入っていった。座席が空いていればそこに座るし、空いていなければ別の会場に移動するつもりだった。だから彼女が適当に選んだ会場に、ある一人の男を中心に二つないしは三つほど座席の空いた奇妙なスペースがあるなどとは、冗談としても考えすらしなかった。せっかく席が空いているので、郝はとりあえずそちらの方に向かうことにした。

 

 

 「おや、老ではありませんか。こんなところで何を?」

 

 「……オメーか」

 

 隣の郝を除いて周りの座席に誰も座っていないことからも明らかなように、播磨拳児は周囲から距離を取られていた。高校生にして監督という彼の特異な経歴は人々の興味を集めるが、そこから一歩先に踏み出すにはかなりの勇気が要求される。なにせ見た目はどう見ても不良なのだ。拳児がテレビや雑誌の向こうにいたときは “たかが高校生だろ?” と発言をしていた者も、実際に彼を見るとどうやらその余裕はなくなってしまうものらしい。残念なことにそういった経験の豊富な拳児は何を気にするでもなく、ただスクリーンに映された試合映像を眺めている。

 

 そこに臨海女子の郝慧宇が来たものだから、周りに座る観客たちの緊張は高まらざるを得なかった。外から見れば臨海女子と姫松というおそらく決勝に残るであろう公算の高いライバル校同士の接触にしか見えないのだから。その二校が合同合宿を行ったことなどもちろん知るわけがないし、ましてや拳児と郝のふたりの関係性など考えが及ぶべくもない。

 

 「勝ち上がってきそうな学校の研究、……というわけでもなさそうですね」

 

 「そりゃ赤阪サンと末原と、あとは出番のねえ一年二年の仕事だ。俺の出る幕はねーよ」

 

 「なるほど、後進の育成は大事ですね」

 

 スクリーンではちょうど先鋒の前半戦が終わったようだった。隣に座る男が何かを言いたそうにもごもごと口を動かしていたが、郝はあまり気に留めなかった。郝個人としては拳児とあまり話をしていないのだが、不思議とこうしてやり取りをすることに違和感を持たなかった。もしかしたら自身のチームの主将である智葉に怒られながらも拳児に電話をかけさせて、その話を面白おかしく聞き出していたことが影響しているのかもしれない。もちろんそのあとでチーム全員が智葉に追いかけ回されたことは言うまでもない。ちなみにそれは何度も繰り返されたので、意外と智葉本人も楽しんでいたのではないかと郝は睨んでいるのだが、そこの真相はつかめないままである。

 

 会話をしているわりには視線をこちらに向けない拳児の対応に、郝は気を良くしていた。たとえ注目の的であることに無関心であっても周囲から視線を浴びていることは誰でも気付く。それこそ視線を気にすることなく落ち着いて話すことのできる拳児という存在は、図らずも会話を楽しむ相手として最善であった。

 

 「姫松のメンバーの調子はいかがですか?」

 

 「……それも俺に聞くことじゃねーよ、あいつら本人に聞きな」

 

 「ま、それもそうですね」

 

 「つーかビデオかなんかで試合観てねえのか?」

 

 合間にストローに口をつけつつ、二人の会話は進行していく。意外なほどに彼らの周りは静かだった。あるいは拳児と郝の邪魔をするまいと考えているのかもしれないし、重要な情報が出てくるかもと考えて盗み聞きを企てているのかもしれない。実際は観客に割れたところでどうなるというものでもない上に、どちらもそこまで重要な会話をしているつもりもないのだから、無駄な徒労に終わることは明らかだった。

 

 先鋒の前半戦が終わって以降のスクリーンは、各校の点数を映していた。現状を把握するのには必要なものだが、これからどうとでも展開は変わるため、ある意味においては意味がない。一方で誰もいない卓を映したところでどうにもならないのだから、これしかないという選択肢でもある。つまるところ対局と対局の間は暇なのだ。

 

 「おそらく今夜まとめて観ると思いますよ」

 

 「そうか」

 

 「そういえば老はなぜこちらにお一人で?」

 

 珍しく拳児が言葉に詰まった。言いづらいことというよりは、どう言ったものかと思案しているような印象を受ける。

 

 「…………研究だの調整だのには俺の出番がねーんだよ。いちおう夜に映像だけは観るけどな」

 

 「調整でも、ですか?」

 

 「あ? そりゃそうだろ。俺とあいつらじゃそもそもハナシにならねえんだからよ」

 

 不思議そうな表情で尋ねる郝に対して、拳児もどこか違和感を覚えながら返す。

 

 「なるほど、老は加減のきかないタイプということですか」

 

 拳児は郝までもが自身に対して間違った像を抱いていることに気が付いていなかった。なぜなら勘違いを起こすほどの接触を持っていなかったのだから。拳児と郝のつながりは臨海女子での合同合宿でせいぜい言葉を二言三言交わしただけで、それ以上の要素はない。少なくとも拳児にとっては。もっと言えばその時の会話の中で、拳児は “そういう練習方法があるのか” と尋ねたほどであって、下に見られることはあってもその逆はどう考えてもあり得ないことであるはずなのだ。

 

 深いため息をひとつ。経緯はよくわからないが、郝は姫松の部員たちと同じように思い違いをしているようだった。彼女が頭から爪先まで完全に信じ込んでいるだろうことは先の発言から容易に推察できたし、同時にそれを訂正することが非常に難しいだろうことも理解できた。半分くらいは諦めの境地に達している拳児は、珍しく自分から話を振って話題を変えることにした。

 

 「そういやオメーらよ、まとまって動いたりしねえの?」

 

 「はい、試合や練習なら集まりますが、それ以外はけっこう思い思いに過ごしていますね」

 

 大して真面目に考えていなかった質問だったが、その返答は予想外に拳児にとって興味深いものであった。拳児から見た女性 (大抵の場合は女子高生ではあるが) というのは基本的に群れるものであり例外はほとんどなかった。それは矢神にいた頃も姫松に在籍している現在も変わらない認識である。そのこと自体にどうこう言うつもりは拳児にはないが、郝の返してくれた答えはある種のカルチャーショックであると言ってもいいだろう。

 

 以降もぽつりぽつりとではあるが言葉が途切れることはなく、ことによると一悶着でも起きるのではないかと警戒していた周囲が肩すかしを食らったかのような気がするほどに弛緩した雰囲気がそこにはあった。しかしそれでも彼らの肩書は一般の人にとっては眩しすぎるのか、拳児を中心に空いた座席は彼が昼食のために外に出るまで埋まることはなかった。

 

 

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 麻雀のインターハイ、その中でも特に団体戦の序盤は日程にかなり余裕ができる。第一に麻雀を十分に楽しむためには現在の主流となっている東南戦か、あるいは各人に一回は親番が回ってくる東風戦が要求されるだろう。ちなみに前者は親番が二度回ってくるものであり、どちらかといえばそれを指して半荘と呼ぶ方が世間に浸透している。この半荘を回すのに動作の早いネット麻雀でも三十分以上かかるのが普通であって、実際に対面して打つ場合はそれより時間がかかるのが通常である。ここで団体戦のルールを確認すると、各校五人の代表選手がそれぞれ二半荘を戦って、与えられた十万点の持ち点を増やさなければならない。当然のことながら、それは先鋒から大将までの順番に行われる。これは横並びに試合を行ってしまうとチーム内の点数の把握ができなくなってしまうことを考慮しているためである。

 

 以上のことから一試合にかける時間は半荘ごとの休憩時間も含めてかなりかかってしまうため、団体戦は多くても一日に三試合を行うのがやっとなのである。また、四校から揃わなければ試合が行えないという麻雀特有のルールからなる特殊なトーナメント形式から考えて、一回戦はシードの直下の一つのブロックごとに行われることになっている。まとめてしまえば、シード校は四つあるのだから一回戦もそれに準じて四日間で行われるということである。

 

 

 姫松のいるブロックの一回戦は大会三日目にあり、また二回戦は大会六日目に予定されている。たしかに対戦相手は三校の都合十五人になるが、その対策を伝えるためだけに丸二日を使い切るというのも考えにくい話である。したがって本日は姫松高校にとってはまったく予定のない一日であり、だから拳児は朝からひとりで観客席に座っていたのである。

 

 会場に残ることを選んだ郝と別れた拳児は外で昼食を摂って、さてこれからどうするかと思案をしていた。ここにバイクでもあれば東京の街を流すなんて選択肢もあったのかもしれないが、今はそんなものなど手元にない。それ以外にやることなど拳児にはせいぜい観光くらいしか思いつかないが、それについては今のところ興味が湧いていなかった。行ってみれば案外と楽しめるのかもしれないが、一歩目を踏み出そうとしないのだから話にならない。結局やることがまるで思いつかなかったため、拳児はインターハイの行われているホールへ戻ることにした。どこか一つくらいは席が空いているだろうし、場合によっては立ち見でも構わないかと考えていた。

 

 拳児がいつものように視線を集めつつ観客席の入口を目指して歩いていると、視界の中にぴたりと足を止めた女性が入り込んだ。大阪では周囲が慣れていたのかそうでもなかったのだが、東京へ来てからは今のように足を止めて見られるということが多くなっていた。だから別にそのこと自体は不思議なことではないのだが、ならばなぜ拳児の視界にその女性が入ってきたのか。それは拳児が記憶から消し去れないほどに世話になり、またいろいろと巻き込んでしまった人だったからだ。

 

 「あ、播磨さん……」

 

 「おお! 妹さんじゃねーか! ナンでこんなとこに?」

 

 いま目の前にいる塚本八雲と拳児の間には、本当に多くの出来事があった。そのせいか愛理とは違った意味でこのふたりは自然に接することができる。仮に拳児に “いちばん気楽に話せる女友達は誰か” と聞いたら、おそらく八雲の名前が挙がることだろう (理想は彼女の姉だろうが)。あるいは拳児の認識の上では、動物を除いて臆面もなく友達だと言えるのは彼女だけの可能性すらある。もちろん実質的に友人と呼べる人間はそれなりにいるのだが、姫松はともかくとして矢神の人間に対しては拳児が意固地になって認めないだろう人がそのほとんどなのである。言ってしまえば愛理もその一人であるが、どのみち彼女も素直には認めないだろうからお互い様である。

 

 「その、播磨さんの応援に……」

 

 「そーか! つーこたぁ麻雀ってのは本当に流行ってんだなァ!」

 

 「えっ、あ、その」

 

 「俺ゃニュースも新聞も見ねーからよ、全っ然知らなかったぜ」

 

 八雲の意図するところとは違うのだが、拳児はまるで取り合わない。拳児が滅多に見せないその朗らかさが、八雲にはひどく辛かった。いくつかのことが()()を証明しているというのに、それを認めたくないと思ってしまうことを責めることはできないだろう。またそのことを口にするには、八雲はあまりにも無知で、あまりにも無垢だった。

 

 拳児の見た目は三月の終わりとまるで変わりがなかった。それこそこのまま矢神に連れて帰っても、何らの問題もなく景色に馴染むだろう。そのことが八雲には余計に悲しいことに思えて言葉に詰まった。空調の音がすこし大きく聞こえる気がした。

 

 「ま、今でこそ監督なんてモンになっちまったけどな」

 

 「あの、播磨さんはどうして監督に……?」

 

 ( 天満ちゃんのためと言いてえとこだが、この想いは絃子以外にバレるわけにはいかねえ……!)

 

 従姉である絃子どころか、本人を含むその周辺にその想いが知られていることを拳児はきちんと把握していない。矢神から出る数日前に愛理に殴られた際にそれがバレていることを匂わせるような発言があったのだが、あの時はそれどころではなかったせいで記憶が曖昧で、どうにも拳児にはその辺りがはっきりしないのだ。拳児は考えてもしょうがないと判断したことについては考えない性格だから、基準が明確になるだけいろいろと取りこぼしが出るのである。

 

 「俺が、一歩先のステージに進むためだ」

 

 「一歩、先……?」

 

 「ああそうだ妹さん。俺は立ち止まるわけにはいかねえ」

 

 言葉の響き方というものは、その人間の置かれた境遇やそれまでの経歴によって異なってくる。拳児は世界的に注目を浴びている今年のインターハイ優勝という手土産を持って塚本天満に会いにいくことを “一歩先のステージに進む” と表現した。このことはもちろん拳児以外には知ることはできないし、推測するのも不可能だろう。そもそもそれが女性に対するアピールになるのかどうかすら怪しいところである。拳児のその短絡的思考にたどり着けない八雲は、彼の発言に違う解釈を与えざるを得なかった。これについては誰に責任があるとも言えない。

 

 ( ……もし、播磨さんが過去に区切りをつけて前に進もうとしているのなら )

 

 八雲にはどこか播磨拳児という男を美化しがちなきらいがあった。一年間という短い期間の中で信じられない数の誤解を受け続けた拳児の正しい立場を数多く見過ぎたことも原因の一つだろう。彼は同情に値するようなひどい勘違いを受けたこともあった。自業自得としか呼べないような事態を引き起こしたことも間々あったが。

 

 ( 私は、どうするの? 変わるって決めたのに……!)

 

 ぐっと拳を握りしめて、拳児は心を決めたときの表情を浮かべている。ひとつの目標に向かって進む人間にしかできない、八雲からすれば特別なものだ。この表情ができる人間は、何より自分の心に負けることがない。失敗するかもしれないという恐怖心と戦い、打ち勝つことができるのだ。自身の姉と拳児の持つそれに憧れた八雲は、その表情に背中を押してもらったような気がした。

 

 話を見聞きしている限りでは拳児の監督代行業は順調なようだったが、それでも八雲は前に進むためにこの言葉を口にしなければならなかった。

 

 「あの、何かお手伝いできることは……」

 

 八雲はこれまで同じ言葉を何度も使ってきたが、今日この瞬間のこの言葉だけは意味が違っていた。今までふわふわとして定まらなかった想いに明確な意味を乗せたのだ。引っ込み思案であったことも、状況に任せて自らは動かない卑怯者であったことも認めた上で、それを乗り越えるために通らなければならない道だった。そうでなければ播磨拳児という男には、絶対に届かない。

 

 そんな彼女の決意など当の拳児は知る由もない。拳児は人の心情の機微に敏いわけではないし、いつかの愛理の評にあったように気が利くわけでもない。手を顎にやって少し考えて、何でもないように答えを返した。

 

 「や、別にねーよ。それに麻雀でまで妹さんに迷惑かけるわけにゃいかねーしな」

 

 「……そう、ですか」

 

 二人のいた廊下はその人通りもあって終始ざわついていたが、不思議とどちらの声も邪魔されることはなかった。外とは違う気温のせいなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。拳児の声は普段よりいくらかやさしくて、あまり聞き慣れないものだけに少しだけくすぐったかった。拳児からすれば気を遣ったつもりなのだろう。効果があるのかは定かではないが、その言葉が本心からのものであることが十分に伝わるものだった。

 

 結果こそ伴わなかったものの、八雲の起こした行動は八雲自身にとって大きな意味を持ったものだった。ついに彼女の心に色がついた。初めて誰かのためではなく、はっきりと自分のための想いを自覚した。それは誰であっても触れることさえ叶わない、八雲だけの大事なものだ。

 

 塚本八雲は、播磨拳児に恋をした。

 

 

 

 それから宿泊しているホテルに戻るという八雲を見送って、さっさとどこかのスクリーン会場に入ろうと動き始めた拳児の背中を誰かの手がぽんぽんと叩いた。拳児にとってはひどく珍しい体験である。何せ見た目が見た目なのだ、ボディタッチに分類されるこの種のコミュニケーションなどとんと記憶にない。それを実行できる人間という条件で考えれば実行犯はかなり絞られる。

 

 そのまま背中の方を振り返ると、もうこの四ヶ月で見慣れた顔のうちのひとつがそこにあった。ほとんど黄色に近い髪を両耳の辺りでお団子にまとめ、前髪を額に垂らさないように流す特徴的な髪型をしたクラスメイトの少女である。

 

 「ンだ、真瀬か」

 

 「ズイブンなご挨拶なのよー。ね、そんなことよりさっきの美人さんはいったいだあれ?」

 

 楽しそうに目を輝かせながら由子は尋ねる。

 

 「チッ、見てやがったのか。ありゃ知り合いの妹さんだ」

 

 「ふうん。ねえ、あなたって美人さんに縁があったりするの?」

 

 ついさっきまでしていた楽しげな表情を急にニュートラルな表情に切り替えたものだから、その顔には妙な迫力があるように感じられる。実際には決してそんなことはないのだが。幻想の迫力にちょっとだけプレッシャーを感じつつ、拳児は彼女の質問に対する返答を口にした。

 

 「あ? 知らねーよ、つーか意識したこともねえ」

 

 「えっ、ひょっとして男色とか……?」

 

 「んなワケあるか! バカなことを言ってんじゃねえぞ!?」

 

 必死に否定する拳児の美意識の基準はただ一つ、塚本天満なのだ。だからそれ以外の要素などは二の次以降の話であって、一般的な美人であるかどうかは彼の評価基準にすらならない。これこそ拳児を拳児たらしめる要素であって、他の誰にも真似できるものではない。もし、拳児の心の中を余すことなく由子に伝えることができれば、きっとその純粋さに感動し涙を流すことは疑いようがないだろう。しかし現実にはそんなことはできない。由子は彼の想い人の名前も、その人に対する想いの深さも決して知ることはない。なぜなら拳児が話さないのだから。

 

 拳児のあまりの必死さが滑稽だったのか、由子はにっこりと笑顔を浮かべて頷いた。もちろんのこと由子はそんな疑いは初めから持っていない。からかってみたら思った以上に効果があっただけの話である。せっかくだからということで、由子はもう少し拳児をおちょくってみることにした。ちなみに拳児に対してこうした態度を取るのは、姫松でも真瀬由子ただ一人である。

 

 「えー? でも美女を意識しないってすごく難しいと思うのよー」

 

 「そりゃ俺の勝手だろーが! ほっとけ!」

 

 機嫌を損ねたのか、ふん、と鼻息荒く歩き出した拳児の後を由子が追っていき、なんとか宥めてその場は治めたようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 


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