文京区根津に、ある高層マンションに晶の自宅はある。
家族向けのマンションなので、一人暮らしの晶にはかなり大きな間取りである。しかも、今の晶の立場を勘案して、家賃が実質無料になっているのだ。生活する上で、これほど好物件はない。
カンピオーネ、草薙護堂に仕える唯一の式神。それが、晶の立場である。ベースになっているのは、クシナダヒメの竜骨。以前の晶は擬似神祖であったが、今の晶はその力を継承しつつ、護堂の権能の加護を受けているので、更に霊格が上昇している。そして、晶の肉体は、今や神獣と同格以上のスペックを有している。そのため、晶には物理攻撃も呪術攻撃も、さらには毒物もほとんど効果がない。晶に傷をつけるには、神獣に傷をつけられるくらいの攻撃でなければ話にならない。
しかし、それだけの肉体を持ちながら、その力を使いこなせているとは言い難い。
前述の能力はあくまでもカタログスペックに過ぎず、今の晶が使えるのは、その半分程度と言ったところだろうか。
事実上、カンピオーネと『まつろわぬ神』を除けば最強の存在になった晶も、精神面は飛び抜けて優れているというわけではない。歳相応の真っ当な悩みに悶々とすることも、最近は多い。
「ふぅ……」
白い湯気の中に、吐息が反響する。
晶は、少し熱めにした湯船に肩まで浸かり、天井を見上げた。
式神となった晶は霊的存在であり、霊体になることで汚れが肉体から落ちる。そのため、汚れを落とすという意味で風呂は必要ない。だが、それが分かっていても入りたくなるのは、女の子だからか。とりあえず、一日に一度はシャワーだけでも浴びなければ清潔だと思えないし、真冬なのだから熱い湯に浸かりたい。
湯の熱さが身体の芯に染み渡ってくる。心地よさに睡魔すら襲ってくる。
冬休み中に、大ムカデを退治した後、一ヶ月ほどが経過しているが、大きな問題は何一つ起こっていない。神獣すらも、日本国内に現れていないので、晶も力を振るう機会がなく平和で落ち着いた日々を過ごしていた。
ただの中学生であれば、当たり前の日常。
しかし、それらは晶にとっては掛け替えのない日々なのだ。
これまでの人生で晶が失ったものは、あまりにも多い。小学生の時に拉致され、あらゆる責め苦を受けた結果、本来の自我はとうの昔に崩壊してなくなっている。今の晶の人格は、道満だったころの法道が植えつけた記憶や知識を下地にして派生した第二の人格なのである。
思い返すもおぞましい日々から抜け出し、真っ当な生活ができるのも、すべては護堂のおかげだ。護堂の式神という立場も、晶にとっては喜びであって辛いことは何もない。
とはいえ、式神となったことによる弊害も皆無ではない。
晶は自分の身体を見下ろした。
決して平坦ではないものの、恵那のような大胆な起伏はない。自分の二つの丘は、手の平に収まる程度にはあるが、それ以上に大きくなることはない。
一応、揉み応えはそこそこあると思うのだが……と、自分で思っていて恥ずかしくなり晶は湯船に沈んだ。
ぶくぶくと泡を出しながら、肉体面の変化がないというのが利になるか不利になるかは怪しいところだと考える。護堂の好みを尋ねたこともないので分からないが、それでも大きい胸のほうが有利だろうというのは予想できる。少なくとも、巨乳という立ち位置は恵那が独占している。そこに乱入することがほぼ絶望的な今、晶だけの立ち位置を確保することが何よりも肝要である。
「式神も、立場といえば立場か……」
それを恋愛に結び付けられるかどうかは、これからの行動次第か。
そもそも、自分のこの想いは『恋愛』と言っていいのだろうか。
『恋愛』という語が『love』の訳語として創作されて一五〇年ほどが経過し、社会の西洋化がこの概念を一般化したのだが、日本には本来『love』に該当する言葉がなかったとされる。
『love』には『聖』が必要だ。
教会で誓うように、そこには聖なる概念が含まれる。日本の男女間の想いには、その聖性がなかった。異性を慕わしく想う『恋』や相手を慈しむ『愛』は、あくまでも世俗的な概念として受け取られていた。平安時代の貴族の男女関係を見れば、それは容易に想像がつく。だから、明治時代の文豪たちは、適切な『love』の訳語を作るのに苦労した。
翻って自分の気持ちに、聖性はあるだろうか。
断言するまでにはならないが、おそらくは聖性はない。
この想いは、もっと我欲に塗れている。言葉を交わし、触れ合うことを狂おしいほどに求めている。切なくも心地よい愛おしさの中に、僅かでも歯車が狂えば破滅的に加速しかねない凶悪な未知が潜んでいるのを感じている。
まるで、悪魔か鬼にでも魅入られたように、際限なく依存してしまいそうな危険な香りがするのだ。
それを理解していながら、ともすれば堕してしまいたいという欲に駆られる。
その気持ちを圧しとどめていられるのは、偏に護堂がカンピオーネだからだ。
カンピオーネは、既存の常識や法には縛られない。彼がどれだけ女性と関係を持とうと、誰も咎めることができない。
だからこそ、そこまで強く嫉妬していないし半ば安心している面もある。
確かに、祐理や恵那や明日香に思うところはあるがそれはそれと割り切れる。
これがもし、自分も相手も一般人だったら、どうしようもないくらい不安になっていただろう。選ばれなければそこまでなのだから。それを考えれば、一番でなくとも機会があるのは、消極的ではあるが幸運だと思える。
それが、時代に逆行する古い考え方だというのは理解しているが、晶のような人ならざる者という『ハンデ』を抱えていて、真正面から勝負する勇気のない臆病者にはそれがちょうどいい――――などと自虐する。
もしも、護堂が誰か一人しか選べない立場だったとしたら、明日香の抜け駆けを許しはしなかっただろう。
明日香が園遊会を護堂と二人で抜け出し、あまつさえ告白してキスまでしたのを、晶は濁った瞳で睨んでいたのだ。
一応は空気を呼んで邪魔しなかったが、あのときに感じた凍った手で心臓を鷲掴みにされたような感覚は、今でも晶を不快にさせる。
晶は、浴室を出ると身体の水気を取ってリビングに向かった。一人暮らしが長いと、どうにも守りが薄くなる。真冬だというのに、下着と薄手のシャツという気の抜けた服装で過ごせるのは式神の肉体だからだ。
アイスを口にしながら、晶は薄暗い部屋の中から窓の外を見る。
部屋を暗くしたので、窓に室内の風景が反射することなく街並を見ることができる。
家々の明かりを見下ろしながら目を凝らすと草薙家が視界に入る。もともと、静花の身の安全を確保するために用意した家だ。その立地上、草薙家を見下ろす位置にあるのは当然だ。
しばらく晶は、何をするでもなく黙々とアイスを食べつつ、景色を眺めていた。
二月に入ると、世の中は妙に浮き足立ってくる。
特に学生は皆、どこか落ち着きがなくなる者が多い。
「ああ、そうか。バレンタインか」
などと、朝の情報番組の特集を見て晶は呟く。
そういえば、そんな季節になった。晶にとっては実に五年ぶりになる恋のイベントだが、記憶にあるそれとは大きく異なる印象を受ける。それは、自分が送る側になっているということもあるし、小学生と中学三年生とでは、受け取り方がまったく違うということもあるだろう。
早い者はすでに動き出しているということだし、小学生のころとは異なり、最近では友チョコなど、単に恋愛イベントという枠に囚われない新しい考え方が生み出されている。
とにかく、気恥ずかしいけれども、そろそろ準備をしていかなければならない時期だろう。
朝食の後、荷物を纏めて学校へ向かう。
その日、護堂は日直ということで一足早く学校に向かったという。静花と二人で登校し、そのまま一緒に教室に入った。
商店街もそうだが、街はどこも華やかになってきていて、店に張られているチラシを見るとどの店舗もバレンタインを使って一儲けしようと躍起になっていた。
「なんか、ちょっと雰囲気変わったよねー」
昼食時、机をくっつけて仲のよい友人と四人で食事を摂っていると、一人が晶の頬を指でつつきながら言った。
「ユキ、何が?」
晶は眉根を寄せつつ、ユキの人差し指を摘んで弾く。
「いやぁ、最近晶の感じが変わったなぁと思ってさ」
「どういうこと?」
ミニトマトを口に放り込んで晶は首を傾げた。
晶自身には、変わった自覚はない。だが、静花を含めた三人がうんうんと頷くのだから、他者から見て自分は何か変わったのだろう。
「最初のころは、なんてーか近付き難いクールさがあったような気もする」
ミヤコが追随して言う。
「勉強できそうだったしね」
「実際は、ポンコツだったけど」
「ポンコツゆーなし……」
自覚はある。
数学、理科が絶望的にダメだという自覚は。
「堅物って感じもあった」
「まあ、今は……犬っぽい感じになっちゃったけど。わたしの中の晶は柴犬。首輪つけたい、はぁはぁ」
「意味分かんないし、ちょっと怖い」
アブナイ目で晶を見る茶髪ユルフワ髪型のイマドキ系女子ミヤコは、どういうわけかよく人を動物に例える。
ちなみに静花は以前、女王蜂だと言われて大いに憤慨したことがある。
牛乳パックを空にしたユキが、笑みを浮かべながら静花を見た。
「朱に交われば赤くなるってことじゃない。ね、静花」
「なんで、そこでわたしに振るの?」
「ぶっちゃけ、一番仲いいの静花だし。いつも一緒にいるよね」
「晶に影響与えんの、静花くらいじゃん。ああ、噂のお兄さんもか」
「むしろ、そっちの影響じゃねえ」
対角線の二人がタイミングを揃えて笑う。
護堂を引き合いに出して、笑うというのは不愉快。なので、晶が一言言ってやろうとすると、静花が先んじて二人にアイアンクローをかけた。
「人の家族ネタにしない」
「ぐおおおおおおおおおッ!」
「す、げえ力だ、ギ、ブ……!」
ミシミシと音が聞こえそうな迫力あるアイアンクローだ。さりげなく、親指がこめかみに食い込んでいる。
必死のタップアウトを受け入れて、静花は二人を解放する。
「まったく、ひでえ目にあったぜ」
ユキがこめかみを揉みながら眉間に皺を寄せる。
よほど痛かったのだろうか。目尻に涙が浮かんでいる。
「まあ、それはそれとしてどうする?」
不意に、ミヤコが両手を口の前で組んで、深刻そうな顔つきになる。
唐突に訪れた、真面目な空気に三人は「?」を浮かべる。
「なんが?」
ユキが代表して聞くと、ミヤコはキロ、とユキを睨んだ。
「ブワレンタウィンに決まってるでしょ。乙女の嗜みよ」
「あ……そう、だね」
その威圧感に気圧されて、ユキは曖昧に頷いた。
「みんな誰に上げる?」
ミヤコはじろ、と三人の顔をねめつける。
上げるというのは、当然一四日にチョコレートをプレゼントするということだ。
そんなことを、ここでカミングアウトするのかと互いに視線を絡ませる。それは、ある種の牽制であり、さっさと言えという無言の圧力の掛け合いだった。
そんな中、ユキははにかみつつ、
「あたしは彼いるし、彼に上げるわ」
「リア充乙! 野球部のボーズとよろしくやってろ! 静花は?」
「まあ、家族だろうね。お爺ちゃんとお兄ちゃんかな。後は友チョコ」
「待ってます! 晶は……どうせ、草薙兄でしょうからスキップ! 分かりきったことは聞かない、それがわたし!」
「ちょ……」
一方的な決め付け。発言の機会を与えられなかった晶は唖然としてミヤコを見るが、ここはミヤコの独擅場だ。介入の余地はない。
「そして、わたしは……実は先週彼氏ができました! なんで今年は女子力を見せ付けようと思います!」
「それ言いたかっただけでしょ」
「人巻き込んでそれって」
ユキと静花がそれぞれ呆れ混じりのため息をつく。
それから、ユキがにやりと笑い、
「女子力見せ付けんなら友チョコは期待していいん?」
「ああ、そうだね。それは楽しみだ」
「あぁ? なんであんたらにくれてやらにゃならんのだ?」
「今、女子力見せ付けるっつったじゃんか!」
「うるせー、うちの小遣い月五〇〇だぞ、配る余裕なんぞあるかー!」
ユキがミヤコに食って掛かる。
それを傍目に眺めながら、静花が晶に尋ねた。
「で、晶ちゃんはお兄ちゃんにどんなの上げるの?」
「え……あぁ、実はまだなんにも……」
静花のほうから、この話を振ってくるとは意外だった。静花は、基本的に護堂に悪い虫が付くのを嫌う。そして、この件に関しては、晶すらも悪い虫に入っているはずだ。
「ふぅん……」
何か言われるだろうかと身構えていた晶だったが、静花は深く追求することもなかった。
その代わり、晶の耳元に唇を寄せる。
「お兄ちゃん、甘いのより苦いのが好みだから」
「静花ちゃん……!」
感極まった晶は、思わず静花に抱きついた。
「あ、き、……ぐおぇぇ」
静花が苦悶の声を上げて呻く。
「な、何してんのあんたら。って、いきなりチョークスリーパー!?」
「嫁小姑戦争かッ。この短時間に何があった!?」
それから、四人揃って悪ふざけで笑いあい、昼休みを無駄話で浪費した。
最近、練習がてら作っている弁当は、三分の一ほど余ってしまったが、それは夕飯の材料にでもすればいい。
放課後、晶は一人で学校を出た。
委員会も部活もない晶は、帰宅部筆頭。護堂や祐理と鉢合わせるか、静花の部活がないとき以外は真っ直ぐ帰宅するのが常だ。
しかし、この日は近くのスーパーに寄り道した。
せっかくバレンタインの話題が出たのだ。今の内に、材料を買っておこうと思ったのだ。
お菓子作りは初めての経験だ。本を読めばなんとかなるだろうと楽観的に考えながら、チョコレートを探す。
なんだかいろいろと種類があって困ってしまう。
静花からの情報によると、護堂は甘いものよりも苦いほうがいいらしい。
「どれが、苦いんだろう……」
チョコレートの知識が皆無な晶はそこで悩んだ。
そもそも、護堂の好む苦さとはどのくらいで、カカオ何パーセントの話なのだろう。
とりあえず、今の晶の知識ではカカオが多いほうが苦いというのがある。ならば、多いのを買っていけばいいだろう。
手始めにカカオ八〇パーセント付近から試してみることにしたのだった。
■ □ ■ □
カンピオーネは神を殺した魔王。
存在するだけであらゆる災厄を引き当ててしまう天性の才能を持っている。
この一ヵ月半、平穏に過ごせただけでも万々歳だ。
目前に迫る厄介事の気配を感じて、護堂はそう思っていた。
事の発端は、二月の第一土曜日に起こった大事件である。
最近の護堂は、休みになると正史編纂委員会の東京分室に顔を出すようにしていた。名目上の長になったこともあり、魔術の勉強も必要だろうと思ったのである。
おかげで、初級程度の魔術は限定的ながらも制御できるくらいにはなった。
さて、そんな護堂であったが、しばらく神様が登場していないので、どうしても気が抜けてしまう。そんなだれた心に喝を入れたのは、他ならぬ神の報。
「本当に、ささやかな安息でしたねェ」
目の前にいる冬馬が居た堪れないといった表情を浮かべる。
「同感ですね」
賛意を示す護堂。とはいえ、冬馬の安息とはつまり自分の平安な業務のことであろう。護堂と『まつろわぬ神』が暴れると、必ずと言っていいほど周囲に被害が出る。その隠蔽工作を行うのが、彼らの仕事である。これまで、多大な負担をかけてきただけに、護堂も申し訳ない気持ちになってしまう。
「しかし、東京タワーを狼煙代わりにするなんて、とんでもない神様ですね」
護堂はもはや呆れるしかない『まつろわぬ神』の無謀さに改めてため息をつく。
この日の午後二時ごろ、唐突に雷が東京タワーを直撃し、展望台が爆発炎上したのである。
まさに青天の霹靂であった。雲ひとつない冬のカラッとした晴空からの落雷に、周辺は一時騒然とした。
この報せを受けて、護堂はすぐに冬馬と馨を伴って東京タワーに向かった。
周囲はすでに立ち入り禁止区域になっている。東京タワーの上部が崩れ落ちてきても人を巻き込まないように、避難は完了している。
護堂が到着したとき、展望台の火災は半ば鎮火していた。
「怪我人とかは、いなかったんですか?」
護堂が馨に尋ねると、馨はタッチパネル式の情報端末の画面に触れる。
「幸い、そういった話は出てませんね。落雷当時、展望台には五〇人ほどがいたようですが、皆無事です。雷を落とすことが目的で、人を傷付けないようにしていたのかもしれませんね」
「そうですか」
護堂はほっと胸を撫で下ろす。
奇跡的に怪我人がいないのではなく、最初からそのように狙っていたと考えるべきだろう。あまりにもできすぎている。神力であれば、展望台を跡形もなく蒸発させることもできたはずだからだ。
そこに、やや遅れて召集された祐理もやってくる。
「待ってたよ、祐理。さっそくで悪いのだけど、視てもらえるかな?」
馨が、上を指差した。
地上二五〇メートルにある焼け爛れた特別展望台。燻り、僅かに煙を出している。
「落雷は明らかに神力に因るものだった。僕は、これが『まつろわぬ神』からの挑戦だと思うのだけど、どうだろう」
「分かりました。ですが、この距離からというのは……。上には上がれませんか?」
「エレベーターが使えないから、階段を使うことになるけど、それでいいかい?」
「はい、大丈夫です」
と言ったものの、祐理は外階段の半ばまで来たところで後悔し始めていた。
階段で行ける大展望台までは地上一五〇メートル程度だ。これならば、すぐに上れると思っていたのに、想定外だった。
段数六〇〇。体力に難のある祐理には、あまりに遠い。
「東京タワーの展望台って、こんなに遠かったのですね」
肩で息をしながら、祐理は呟いた。
「万里谷は、東京タワーに来るのは初めてなのか?」
護堂が尋ねると祐理は首を振った。
「いえ、小さいときに何度か。小学校の授業とかでも来ました。ですが、階段は初めてで……」
祐理がなんとか大展望台に到着したときには、その場に倒れ伏してしまうのではいかというくらいに疲弊していた。
体力不足が幼いころからの祐理のコンプレックスであり、自覚もある。祐理の体力が、高校生の全国平均を大きく下回っているのは確実だろう。
「万里谷、水」
「ありがとう、ございます……」
護堂が自販機で購入したミネラルウォーターを祐理は受け取った。
大展望台は、吹き曝しになっている。特別展望台が雷に打たれたときに、衝撃でガラスが割れてしまったのだ。地上一五〇メートルという高さ故に、吹き込む風が強い。
「ここから上の展望台まで、まだ距離があるけど大丈夫か?」
「はい。ここまでくれば、おそらく。上から神気を感じますし……」
そう言って、祐理は目を瞑る。
「不浄を払う雷……善なる民衆の守護者であり、太陽を仰ぐ者……黄金色の剣を振るい、数多の敵を撃ち果たす軍神……」
祐理は見事に霊視を得た。
やはり、特別展望台を焼いた雷は、『まつろわぬ神』によるものらしい。それも軍神。黄金の剣を持ち、太陽にも縁を結ぶ者。
「……」
祐理の唇が紡ぐ言葉を聞いた護堂は背筋に氷塊が滑り落ちるような気分を味わった。
特徴が、あまりにも一致しすぎているからだ。あの軍神に。
「どうかされましたか、草薙さん?」
「え、ああ、いや、なんでもない。久しぶりに、神様が出てきたかとね」
「そうですね。まさか、東京の真ん中に現れるなんて」
護堂の誤魔化しを祐理はそのまま受け取って、憂いを秘めた顔をする。
今まで、何かと人の少ない場所を選んで戦ってきた護堂だが、東京タワー近辺を舞台に戦うとなると、甚大な被害が予想される。
それは、できることなら避けたいところだ。
自然と、護堂はこの神様とどこで戦うのがよいか思案していた。
すると、そのとき、祐理が叫んだ。
「草薙さんッ! 何か、強い気が近付いてきます!」
それと同時に、護堂の身体に力が湧き上がってくる。
『まつろわぬ神』がついにやってきたのだ。
瞬間、大展望台を強風が吹き渡る。今までにない暴風に、祐理は思わずしゃがみこんだ。そうでもしなければ吹き飛ばされてしまいそうだったからだ。馨や冬馬も、しゃがむことこそなかったが、風に押されてバランスを崩しそうになる。
そんな中で、護堂は呪力を練り上げて風に抵抗した。
「ほう、我が風をいとも容易く受け流すか。ハハハ、善き哉! それでこそ、神殺しじゃ!」
姿は見えない。だが、そこにいる。
「何してやがる。さっさと出て来い!」
護堂は挑発気味に叫んだ。
この声の調子からして、敵は軍神の類だ。だとしたら、目的は間違いなく護堂だろう。
「うむ、そうじゃな。我等の宿縁の敵を前に姿を曝さぬは非礼が過ぎるの」
風が収束し、渦となってフロアの一画に集う。
揺らいだ大気の中にぼやけた人型が現れて、瞬きする間に一人の少年になった。
「お、まえは……!」
護堂は驚愕せざるを得なかった。
それと同時に納得もする。雷撃に太陽、黄金の剣とくればこの神格しかいないのだから。
「そこな巫女は、すでに我の神名を視たかもしれぬが、あえて名乗ろう。我が名はウルスラグナ。善なる神にして不敗の軍神、ウルスラグナじゃ! 我が打倒すべき障碍たるお主の名は何という?」
「草薙護堂だ」
意気揚々と名乗りを上げるウルスラグナに対し、護堂は目一杯警戒心を見せつける。
原作での活躍を知るだけに、この神を相手に慢心などできるはずがない。
「その名前、知ってるぞ。あんた、一年前にメルカルトと戦って消えたんじゃないのかよ?」
すべての始まりは、昨年の春休みだった。
護堂はウルスラグナとメルカルトの激突を日和見し、すべてが終わったころにサルデーニャに向かおうと、わざと遠回りの旅路を選び、結果としてまつろわぬガブリエルと対峙することになった。
護堂が関わらなかったことで、ウルスラグナとメルカルトは予定通りに戦い、激闘の末にウルスラグナは消滅、メルカルトは命の半分を持っていかれる重傷を負った。
カンピオーネとなった護堂の初陣で下したメルカルトから権能を簒奪できなかったのは、メルカルトの命の大半をウルスラグナが持っていったからだと護堂は見ている。
では、このウルスラグナは一体何者だ。
護堂の問いに、ウルスラグナは明瞭な答えを返した。
「無論、生き延びておったのよ。《鋼》は《蛇》とは異なる系統の不死じゃ。我もまた不死の力を持っておる。まあ、多少復活に時間がかかったがな」
「そうか。『雄羊』の化身か……」
ウルスラグナの不死性の体現。それは、『雄羊』の化身だ。
「よく知っておるな。感心じゃ。如何にも、我は『雄羊』の力で生き延びた。不敗の軍神たる我が、一時とはいえ敗北の汚名を着せられたのは恥辱に耐えぬ。故に、メルカルト神を探し出し、決着をつけようかと思ったのだがのう……かの軍神は、事もあろうに神殺しの手に掛かってしもうたというではないか」
ウルスラグナは、微笑みながら護堂を見つめた。
「あんたの目的は……」
「分かっていよう。我が倒すべきメルカルト神が討ち果たされたのじゃ。ならば、メルカルト神を討ち果たした神殺しこそが、我が障碍となるのは明白じゃ」
護堂の身体に、静電気のような妙な感覚が奔る。
ウルスラグナの純粋な闘志を受けて、身体がさらに高い次元の臨戦態勢に移行したのだ。
ウルスラグナの戦う理由は明白で、疑う余地もない。強敵と戦うことを追い求めるこの神にとって、自身に深手を負わせたメルカルトを倒したカンピオーネというだけで戦う価値がある。
「そこな小娘よ。神の前じゃ。例え神殺しの加護を受けていようとも、姿を現すのが礼儀ぞ」
ウルスラグナが右手を一閃すると、呪力の刃が空間を裂いた。
「うわあッ!?」
捻れた空間から、晶が落ちた。尻餅でもつくかという体勢だったが、空中で身体を捻って猫のように着地して見せた。
「人の身を捨てて、すべてをこやつに捧げたか。健気故に痛ましいな」
晶が式神だということも、すでに見抜かれているらしい。
憐れまれた晶はムッとして、
「余計なお世話です」
と呟いた。
「ハハハ、そう気色ばむな娘。忠節に篤いというのは良いことぞ。神殺しに忠義を誓っておるのが残念でならんがな」
『まつろわぬ神』は、人間に関心を持たないのだが、晶は別らしい。護堂の権能によって強力な力を振るう彼女を、ウルスラグナは護堂の能力の一部とでも認識したのだろうか。
「さて、神殺し草薙護堂よ。我は不敗の軍神として、また、《鋼》の神としてお主を討たねばならん。奇縁にも思えるが、それもまた我等の宿縁よ」
ウルスラグナの姿が薄れていく。風が舞い、護堂たちの髪を玩ぶ。吹き荒れる風の中で、少年の姿をした軍神が笑いながら叫んだ。
「かような趣もない地で争おうとは思わぬ。然るべき場所を用意する故、暫し待つがいい。太陽にお主の街が焼かれぬよう、心して刃を研ぎ澄ましておくのじゃな! 願わくば、今度こそ心行くまで争い、真の敗北を味わいたいものじゃ!」
不穏な言葉を残して、ウルスラグナが消えた。
どうやら、護堂に宣戦布告をしに来ただけらしい。言いたいことだけ言って、護堂の返答を待たずにどこかに飛び去ってしまった。
だが、これで終わりなはずもなく、近くまつろわぬウルスラグナの果たし状が届くだろう。
これは、冬休みの終わりから続いた、護堂の平穏が終わりを告げた瞬間でもあった。