カンピオーネ~生まれ変わって主人公~《完結》   作:山中 一

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五十二話

 神々しい嵐がグラウンドを覆っていた。

 天叢雲剣の力は、日本最強の護国の剣に相応しいものだった。

 しかし、そんな由緒ある神剣の力も、敵に回せば恐ろしい魔物と大差ない。

 触らぬ神に祟りなしとも言う。

 聖か邪かは、属性の問題でしかない。それが如何なるものであろうとも、敵対者にとっては脅威以外の何物でもないのだから。

 そして、脅威というくくりで見れば、天叢雲剣は、間違いなく最大級の脅威となるだろう。少なくとも、人の戦いにおいて、これほどの力を発揮しうる呪物は存在しない。

 敵対する者同士の実力が拮抗していた場合、勝敗を分けるのはその手に握られている道具の性能の差だ。

 晶にとって不運なことに、天叢雲剣は日本最強の呪物だった。その刃は、人の手による作ではなく、神々によって鍛えられたもの。元来、人間が振るうべき代物ではなく、しかるべき使い手――――本来の所有者たる『神』の下にあるべき刀である。

 しかし、それは晶にとって不運ではあったが、最悪ではなかった。

 晶の手には神剣に匹敵する神槍がある。

 さらに、その神槍を生み出す権能は、一目連の中の天目一箇神が持つ製鉄の力。この神は、一説には天叢雲剣を打ったともされる製鉄神だ。

 つまり、晶の神槍と恵那の神剣は、兄弟とも呼ぶべき立場にある。

 

 晶は自らの身体に生じた異変の原因を探る余裕もなく、力任せに転がった。

 局所的に生じた乱気流が、地面を切り裂き、晶の身体を浮き上がらせるも、槍を地面に刺して辛うじて堪える。

 形勢は不利。武具ではなく、使い手の相性があまりにも悪い。《鋼》としての在り方を前面に押し出してくる天叢雲剣は、《蛇》に近い性質を持つ晶の天敵だ。相手が恵那であれば、人間同士いい戦いになるのだろうが、今は、恵那の身体を神の御霊が乗っ取っているような状態だ。言うなれば、神の使い、神獣、ミサキ、そういったレベルの相手に、単身挑むのは無謀に過ぎるというもの。

「負けるかッ」

 だからといって、負けるわけにはいかない。

 晶にも意地がある。

 脳裏を掠める不可思議な光景は、一先ず無視する。

 晶は、膝をついた状態で槍を振り上げた。穂先が天叢雲剣を弾き、蛇のような火花が散る。

『ぬ……』

「わたしを、あまり舐めるな」

 喉奥から声を絞り出し、槍を振るう。

『まだ、槍を振るう力があるか』

 天叢雲剣は、声色を変えずに呟いた。

 《鋼》の神剣たる天叢雲剣にとって、ただの人間はわざわざ刃を振るうほどの相手ではない。まして、《蛇》に近いのならなおさらだ。路傍の石も同然の存在だ。しかも、今の晶は神気を受けて満身創痍。呪力も根こそぎ奪い取られて満足に術を使うことすらもできない。

 斬るのは容易。

 柔らかい女の身など、僅かの抵抗もなく両断できよう。

 恵那の身体を操って、自身の切先を晶に向けた。

『む……?』

 異変は些細なこと。

 しかし、首を捻るには十分だった。

『なぜ、立ち上がることができる』

 天叢雲剣は不思議でならない。

 晶が、膝に手を付きながらもゆっくりと立ち上がったことが。

 晶は、もう戦えない。体力も気力も呪力も何もかも枯渇しているはずだ。戦闘に必要な力は、すべて奪い取ったのだから。

 だがしかし、晶は立ち上がった。二本の足でしっかりと大地を踏みしめて、凛とした視線を向けてくる。

 さすがに、疲弊の色は隠せないが、戦意は衰えるどころか、むしろ増しているようにも思える。

「やあ!」

 晶が、気合とともに、槍を振り上げた。グラウンドの表面を切り裂く風刃が、穂先から放たれる。

『どういうことだ。……なぜ、呪力が』

 風刃をかわしてから、天叢雲剣は晶を観察した。

 呪力を奪い取られて満身創痍だったはずの晶は、今、確かに呪術を行使した。

 それは、本来ならば寿命を削るに等しい行為のはず。なりふり構わないといえば、聞こえはいいが、それが実際にできるかというとそうではない。しかも、晶はそのような火事場の馬鹿力で呪術を発動させたわけではない。

 見るからに、呪力が回復している。

『からくりがあるか』

 天叢雲剣は、刀身に呪力を纏わせて、それを晶に向かって解き放った。

 少し前まで晶を追い詰めていた、呪力を奪う魔風を送り込んだのだ。

 いかに晶が呪力を回復させたとしても、また奪えばいいだけの話。呪力の回復にからくりがあるのなら、見極めることもできよう。

 再び魔風に曝された晶は、今度は膝をつくことなく槍を一閃。

「だから、舐めるなと言った!」

 天叢雲剣の魔風を、斬り払った。

 

 

 晶が呪力を取り戻した理由は、彼女の特異能力にある。

 他の媛巫女が持たない、晶だけの力。この国で最も大地と深い関係にある晶は、大地から力を吸い上げることができるのだ。大地と縁のある月が出ていれば、その効果は相乗されるが、今はないものねだりをしている場合ではない。

 できるだけ早く、大地の加護を得る。それによって、神剣に奪われた呪力を回復したのだ。

「お互いダウンが一回ずつ。仕切りなおして第三ラウンドといきますか」

 槍を大きく回して相手を威圧し、上段の構え。

 晶は柄でもなく軽薄な笑みを浮かべて挑発する。

『図に乗るな。借り物の武具の加護を受けたと見えるが、その程度で己と互角に戦えるなど、思いあがりも甚だしい』

 そう、晶単独では、天叢雲剣が持つ搾取の力には太刀打ちできない。

 《鋼》とは、元来地母神をまつろわせ、大地の力を搾取する者のことだ。大地の加護を得て、その力を貸与される晶とは、在り方が正反対だ。

 そして、天叢雲剣が持つ強制力は、晶の膨大な呪力を一瞬にして枯渇させるほどのものだ。呪力を回復したそばからその呪力を奪われたのでは、ただのいたちごっこになってしまう。そして、そうなってしまっても晶には勝機はない。

 なんとかして、天叢雲剣の力を抑える必要があった。

 そこで、強力な《鋼》に対抗するために、晶もまた《鋼》を用いた。

 護堂に与えられた神槍は、《鋼》の力を持つ、天叢雲剣の兄弟にあたる槍。天叢雲剣の簒奪能力を打ち破る唯一の可能性だ。

 僅かな可能性だった。

 成功の確率はあまりに低く、ぶっつけ本番で心もとなかったが、晶自身でも驚くほどうまくいった。

 天叢雲剣の厄介な簒奪能力は封じた。しかし、だからといって楽観視できる状況でもない。

 晶の攻撃も、その多くが恵那の身体に届かないのだ。互いに決め手を封じられたまま、より一層、剣戟は激しさを増していく。

 もはや語り合う言葉もなく、ただひたすらに刃を交わす。その身に染み付いた武芸の真髄を、余すところなく発揮し、知りうる限りの呪術を遍く動員して、ただ目前の敵を打倒するために心血を注ぐ。

 闇の中、鉄と鉄を打ち合う音だけが、虚しく響いていた。

 

 

 

 □ ■ □ ■

 

 

 

 小さな掘っ立て柱の小屋は、凡そ現代人が足を踏み入れるような場所ではなかった。

 一つの家族が、辛うじて寝起きできるかという小さな空間は、家というよりも物置のような狭さで、尚且つそのど真ん中に筋骨隆々の大男が鎮座しているとあっては、息苦しさは数倍にも跳ね上がる。

 とはいえ、今現在この場にいる者が感じる息苦しさは、そんな環境的要因とはまたことなる次元からくるものだ。

 目に見えない重圧が、僅か数畳の空間に渦巻いている。

 元『まつろわぬ神』にして、日本最強の軍神スサノオと、カンピオーネ草薙護堂の邂逅。

 常人ならば、この場にいるだけで呼吸を乱し、気を失うことだろう。

 まるで、風船に許容量を超えた空気を送り込んでいるかのようだ。立ち込める『気』が、この小屋の屋根を吹き飛ばすのではないか。そのような錯覚すらしてしまう状況が生まれていた。

「あんたらは、いったい何を知っているんだ?」

 再度、護堂は尋ねた。

 護堂自身、前世の記憶を引き継いだまま、新たな生を受けたことに納得したわけではない。誰にも理解してもらえないという孤独。相談することすらも困難な状況で、一人出生の秘密を抱えたまま、悩みながら今まで生きてきた。

 だから、護堂に前世の記憶があることなど、誰も知らないはずだ。

「その反応から察するに、どうやらアタリみたいだな。……オメエが神殺しになったとき、まさかとは思ったが、あいつめ、本当にやり遂げやがったぜ」

 スサノオが、凄みのある笑みを浮かべて護堂ではない誰かを賞賛する。

「だから、どういうことなんだって聞いてんだよ!」

 この問題に関しては、護堂も冷静ではいられない。今にも剣を解き放たんという勢いで膝立ちになる。

「羅刹の君よ。どうか、落ち着いてください。わたくしたちに、あなたさまを害そうというつもりはございません。先ほど申し上げたとおり、これからあなたさまと現世に関わる重大事についてお話しするために、無理を押してお呼び申し上げたのです」

 落ち着いた声色で、諭すように言われて護堂は押し黙った。

 高圧的に接したところで、相手はスサノオ。脅しに屈するような精神はしていない。玻璃の媛が言うとおり、ここは落ち着いて話を聞いたほうが建設的だ。

 護堂は深呼吸して気持ちを落ち着かせてから、その場に胡坐をかいて座った。

「それで、あんたはなんで俺の前世の記憶なんかに興味がある? この国の未来には関係がないだろ?」

「確かにな。オメエの前世の記憶そのものには、なんの意味もねえ。だがな……」

 そこで、スサノオは言葉を切り、身を乗り出すようにして、

「前世の記憶があるってこと、それそのものはオレたちにとって大きな意味がある」

 そう断言した。

「須佐の御老公は千年もの月日を待っておられたのです。あなたのような存在が、この地に誕生されるのを」

 ミイラが口を開いた。しわがれた声の中に、愉悦が浮かんでいるような気がする。

「千年? そんな昔から、どうして。いや、待て、千年」

 護堂は、しばし悩んだ。千年という言葉。そこには、極めて厄介な意味合いが含まれていたような気がする。

 そして、思い出した。

「たしか、最後だか最強だかっていう《鋼》が眠りについたのが千年前だったな」 

 なぜ、今まで忘れていたのか。

 この世界の中で、最大の謎であり、すべてのカンピオーネを殲滅する権能を持つ正真正銘のラスボスとも言うべき存在が、この国に眠っているはずではないか。

 護堂は、原作知識を可能な限り思い出そうと頭を回転させた。さすがに、十六年も昔の話なので、細部はぼやけてしまっているが、このスサノオとの対話は原作において、護堂が最強の《鋼》に対抗できるか否かを見定めるための場だったはずだ。

 スサノオは、護堂の呟く声を聞いて、眉根を寄せる。

「なんだ、あのガキのことを知ってんのか?」

「噂だけは……追いかけてる人だって少なくないだろ」

「ああ、あの南蛮の魔女か」

 スサノオはルクレチアのことを知ってるようだ。ルクレチアは、戦後間もなく日本の大学に留学していたというから、そのときにマークしたのだろうか。

「だが、今はあのガキのことは置いておく」

「なんだって。置いておく? 封じられてんのか眠ってんのか知らないけど、あれはかなりの脅威なんじゃないのか?」

 護堂は、自分の知っている知識を暈しながら、スサノオに詰め寄った。スサノオは、前世の記憶そのものには意味がないと言っていたし、護堂が眠っている《鋼》について知っていることに驚いている。だから、スサノオは、護堂が転生者だと知っているだけで、護堂の知識に関しては何も知らないはずだ。

 その上で、今のスサノオの台詞。

 原作通りならば、スサノオたちにとってあの《鋼》は目の上の瘤であり、地上を混乱させる可能性があるとして常に注意を払ってきた存在だった。それを置いておくというのは、それ以上の何かがあるということではないか。

「あのガキのことを多少なりとも知ってるのなら、わかるだろ。アイツはいつ目覚めるか分からねえ。気ィつけて損はねえが、だからといって、目の前にあるモノをほったらかしにするわけにもいかねえだろ」

「ようするに、今まさに現世には脅威が迫っているということですな」

 ミイラがスサノオの言葉に付け足した。

「『まつろわぬ神』か」

「まだ、違うな。だが、戻りつつあるのは確かだ」

「つまり、神性を失って零落した『まつろわぬ神』が、日本のどこかを彷徨っている。ソイツは、力を取り戻しつつあって、復活すると厄介な相手」

「そういうこった」

 スサノオは、お猪口に酒を流し込み、一口で呷った。話している間にも何度か酒を口にしている。酔いは、一向に回る様子がない。

「それで、どうして俺に前世の記憶があるかって聞いてきたんだ?」

「それも、地上をほっつき歩いているジジイに関わることだ。そう焦るんじゃねえ。一から話してやるからよ」

 

 

 

 ■ □ ■ □

 

 

 

 草薙護堂の消失と清秋院恵那の暴走の一報は、大変な驚きをもって正史編纂委員会東京分室に迎えられた。

 日本の歴史上、神殺しを成し遂げた人物は護堂以外にいない。護堂が正式にカンピオーネと断定されてからは、この東京分室を中心として『まつろわぬ神』及びカンピオーネ草薙護堂への対応を行っていた。

 現在、東京分室内における護堂の人物評は、概ね好意的だ。

 圧倒的な戦闘能力を有しながらもその人柄は一般的な高校生男子の域を出ない。もちろん、『まつろわぬ神』との戦闘時などは例外としても日常的に周囲を混沌の渦に巻き込む諸外国のカンピオーネに比べればずっと接しやすいと言える。

 ヴォバン侯爵が恐怖によって祀り上げられる神様だとすれば、護堂はお祭りのときに御神輿に乗っているより身近な神様のようなもので、後者の方が気兼ねすることなく接することができるのは言うまでもない。

 おまけに格は、どちらも同じ。

 正史編纂委員会としては、今後も護堂とうまくやっていきたいという方向で今まで進めてきた。

 晶が神槍の所持を認められたのは、一歩前進していると受け取ってもいいだろう。護堂としては、組織ではなくあくまでも晶個人に対して与えたつもりだが、それは晶を擁する正史編纂委員会としても都合がいい。

 加えて、護堂の成長速度は尋常ではない。

 カンピオーネになってからまだ半年ほど。それでも、得た権能はすでに四つもある。先達のサルバトーレ・ドニに並ぶ数字だ。

 実力も申し分ない。

 その護堂が、突如消失した。

 それと時を同じくして、最強の媛巫女である清秋院恵那が暴走した。今は、晶の奮闘で抑えているが、それもいつまで持つか。

「大地の呪力を限界まで引き出してやっと互角か。相変わらず凄まじいね、恵那は」

 いや、ここはその恵那と対等に渡り合っている晶を褒め称えるべきか。

 馨はグラウンドの中央で斬り結ぶ二人の少女を眺めている。

 戦況は拮抗している。

 だからこそ、迂闊に助けに入るわけにはいかない。

 晶と恵那の戦いは、ピンと張った細い糸で綱渡りをしているようなものだ。下手に手を出せば、晶の奮闘は瓦解する。

 東京分室の室長としても、この事態は見過ごせない。本来ならば、一部署の長なので執務室を離れるわけにはいかないのだが、今回ばかりはそうも言っていられなかった。

 圧倒的な人手不足。

 仮に恵那がグラウンドから市街地へ出てしまうようなことがあれば、それを阻止しなければならない。しかし、晶ですら押されるような相手に対応するとなれば、並みの呪術師では話にならない。必然、武芸呪術の双方で上位にいる馨の力が求められてくる。

 もちろん、馨の戦闘能力は恵那にも晶にも劣る。それでも、呪術師としては優秀で媛巫女の中では恵那と晶に次ぐ実力者だ。冬馬と連携すれば、恵那の足止め程度は狙える。

 一番は複数人で囲んで押さえ込むことだが、数で圧倒するには時間が足りない。

 晶がもっと時間を稼いでくれれば、恵那を押さえるだけの人員が用意できるはずなのだが、間に合わなければ、馨が身体を張るしかないのだ。

 唯一、恵那を確実に止められる護堂はスサノオによって拉致された。

 それは、祐理の霊視が明らかにしている。

「王が不在の間に、こんなはた迷惑なことをしでかすとはね」

 ――――私見ですが、これは恵那さんの意思ではないと思います。恵那さんが奔放な方とはいえ、神剣の力を暴走させればどうなるか、分からない方ではありません。

 祐理と連絡を取り合ったときに、彼女はそう言っていた。

 それに関しては、馨も同意見だ。恵那とは長い付き合いだ。その気性も実力も、間近で見聞する時間はいくらでもあった。だからこそ、安易な暴走は不思議でならない。そうならないように、厳しい鍛錬を積んできたのだから。

 清秋院恵那は、普段の言動こそ軽いものの、呪術に対する責任感は人一倍強い娘なのだ。

「コントロールを誤った。いや、そんなヘマはしないはずだ。……まあ、暴走の原因は後々考えるとして、これから何をすべきかが大事だ」

 一先ずは、グラウンドに結界を敷き、衆目を誤魔化す。増援を待ち、いざとなれば自分と冬馬が晶の救出と恵那の捕縛を試みる。

 当面、現世で行えるのはこれくらいだ。

「後は、祐理。君次第だ」

 馨が背後の巫女に話しかける。

「はい」

 祐理が静かに返事をした。

 その表情には一切の気負いがなく、波紋すら立たない凪いだ泉を思わせる透明感があった。

 晶が恵那を追いかけた後、祐理は嫌な予感がしてその後を追った。運動能力が低いため、晶からはあっという間に引き離されてしまい、この場に着いたときにはすでに恵那と晶は戦い始めていた。

 何が起こったのかは、霊視が働いたおかげで掴むことができた。

 護堂は幽界に向かい、恵那は暴走している。そして、晶は暴走した恵那と戦っているところだった。

 以前の祐理ならば、なりふり構わず戦場に赴き、恵那を説得しようとしただろう。だが、『まつろわぬ神』と護堂の戦いを目の当たりにした祐理は、自分の力では戦闘そのものを止めることができないのを知っている。戦えない人間が、戦場に出たところで、お荷物になるだけだ。

 だから、祐理はグラウンドには姿を見せず、自分ができる範囲で行動を起こした。

 祐理に戦う力は求められていない。

 だからこそ、それ以外の選択肢を選ぶことができるのだ。

 この場は、校舎のすぐ近く。護堂が闇に呑まれた場所だ。恵那が刻み込んだ術式は、未だに力を失うことなく胎動している。

 術式が刻まれた校舎の壁のすぐ前に、小さな祭壇と複数の薬草や呪物が用意されている。

 日本の呪術では扱わないような霊薬の数々は、どれもが極めて希少なもの。簡単に用意できるものではない。

「これから、幽界への道を開き、草薙さんをお迎えに上がります」

 祭壇の前に座った祐理が、しかるべき手順に則って道具を並べていく。西洋風の呪物の配置。薬草が西洋のものならば、呪物もまた西洋のものだ。

 初めて行う幽界渡りの術。

 しかし、不思議と失敗するとは思わなかった。もともと、媛巫女は生まれたときから幽界と繋がっているようなもので、祐理はその中でも特別つながりが深い。手順を踏めば、確実に幽界へ向かうことができるはずだ。

 祐理の傍らに立つ冬馬は、いつものやる気のないスタイルを維持しつつ、恵那と晶の戦いから祐理と馨を守るために気を張っている。

 いつ何時、恵那を操る天叢雲剣が標的をこちらに向けるか分からないという状況でも、飄々としていられるというのは、ある意味で頼りがいがある。

 そんな冬馬も、祐理がすでに万事準備を整えていたことには驚きを隠せなかった。

「そのような薬草、いったいどこで手に入れたのです?」

 冬馬は、それが気になった。

 祐理が持つ呪物も薬草も彼女個人で用意できるものではない。正史編纂委員会は、日本最大の呪術組織だが、それでもこの薬草なり呪物なりはすぐに取り寄せることはできない。

 どれほど品揃えのいい商人に掛け合ったところで無駄だ。幽界渡りなど、よほどの事情がなければ行わない上に、ランクEの難易度を誇る術だ。使用者がそもそもいないのでは商品として揃える意味もない。

 真っ当な方法では、手に入れることは不可能な道具の数々。

 道具がなければ、幽界へいくことは出来ない。だからこそ万事休すのはずだったのだが、蓋を開けてみれば祐理は必要な道具をすべて揃え、幽界渡りを実行しようとしているではないか。

「草薙さんにご一緒するうちに、交友関係が広がったのです。今ではメールのやり取りもありますよ」

 機械音痴の祐理だが、一応メールは使用する。最近、意識して使うようにしているのだ。

「その方に連絡を取って、融通していただきました」

 祭壇に呪具を並べながら、祐理は答えた。

 だが、それにしても準備が早すぎる。

 祐理の言が正しければ、祐理のメール友だちとやらは、この極めて希少な薬草や呪物の一式をものの数十分で揃えた上で祐理に送り届けてきたことになる。

 連絡を受けてから用意したのでは当然間に合わない。祐理が連絡をする前から、そういった物品を手元に置いていたということになる。 

 日本国内ではない。

 そんなものを平然と手元に置いているようなら、正史編纂委員会が押収しているはずだ。正史編纂委員会は西洋系の魔術を規制しているのだ。

 だから、日本の呪術師ではないだろう。

 おまけに、その友人はかなりの資金力がある。そうでなければ、高価な霊薬を揃えることはできない。

 そして、何よりその使い方を教授するだけの魔女術の知識を有する者。

 祐理の知り合いの中に、その条件に合致するのは一人だけだ。

「なるほど。クラニチャール家ですか」

「はい」

 祐理は首肯した。

 クラニチャール家の令嬢、リリアナ・クラニチャールと祐理は浅からぬ因縁がある。祐理本人は覚えていなかったが、ヴォバンにつれ去られた四年前にも顔を合わせている。仲が深まったのは、この夏にイタリアへ行ったときだった。

「リリアナさんに、幽界渡りの方法と必要な物品の工面をお願いしました。道具は投函の術で手元に送っていただいて、方法は電話でお聞きしたのです」

「はあ、なるほど……」

 確かに、クラニチャール家の歴史は古く、現当主はイタリアを代表する魔術結社《青銅黒十字》の代表を務めている。おまけに、リリアナは生粋の魔女だという。幽界渡りに必要な道具を常備していても不思議ではない。

 それに、護堂とも付き合いがある。この夏、護堂たちをイタリアへ招待したのは、他でもないリリアナだ。それに、リリアナたちは、この夏の一件に関して護堂に迷惑をかけたという負い目がある。責任感の強いリリアナは、護堂の危機とあらば二の句なく助けてくれるだろう。負い目を利用するようで心苦しいのだが、祐理は、もしものときはそういった方向から交渉するつもりでもいた。結果として予想以上にすんなりと事が運んでくれたので、祐理が抱く罪悪感は僅かで済んだ。

「一応言っておきますが、呪術で使用するような物品の取引は禁じられてますよ」

「存じております。それが何か」

「……いえ、なんでもありません」

 祐理は黙々と作業を進める。

 冷厳とした口調は、冬馬に一切の反論を許さなかった。

 罪ではあるが、必要とあらば躊躇する道理がない。そう言っているようにも聞こえた。

 それに、護堂に関することであれば、違法行為も合法化する。祐理を責めることはできない。とはいえ、真面目で融通の利かないところがあった祐理が、合法化しているとはいえ独断で密輸を行ったというのはちょっとした驚きだった。

 もしかしたら、祐理が一番護堂の影響を受けているのではないだろうか。

 冬馬は、そう思わずにはいられなかった。

「馨さん、甘粕さん。申し訳ありませんが、わたしが不在の間、この儀式場をお守りください」

 祐理が持つ巫女の資質は、西洋では魔女の資質と同義のものだ。しかし、鍛え方が異なるために、祐理には魔女術は使えない。

 だから、本来ならば道具を揃えたところで幽界に渡ることなどできないのだ。

 しかし今、恵那が紡いだ呪がそのままの形で校舎の壁に刻み込まれている。道は初めから示されているのだ。祐理は、幽界と現世を隔てる門の鍵を開けるだけでいい。

 よって、魔女術の真似事でも十分に効果が期待できる。

 精神を統一し、余分な感情の一切を消し去り、無我となる。己を『空』にするのは、恵那の専売特許ではない。

 深く深く沈みこむ意識を、一点に集中し、針の先よりも小さな穴に糸を通すような繊細さで術式を構築。直感に触れた『道』の痕跡を見失わないように追いかけて掴み取り、渾身の力を込めて門をこじ開ける。

 かちり、と何かがかみ合うような感覚。

 この世ならぬ異界の気配に総身が震える。

 かくして道は開かれた。

 壁に浮かび上がる夜よりも暗い、黒々とした闇はちょうど人一人分の大きさだ。

 そして、門が開いたそのときには、祐理の身体は現世から消失していた。

 

 

 このとき、祐理の瞳がガラス細工のような輝きを放ったことには、祐理自身すらも気づかなかった。

 

 




「黒子のバスケが一週間で一番面白い番組」 by my mother

 なぜか父と母がそろってリアルタイムで見てる……そして父、全巻大人買い(スラムダンク)

 なぜ?

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