日が没してずいぶんと経つ。
季節はずれの大嵐に見舞われた東京都は、電車をはじめとする公共交通機関の麻痺、一部停電などによって広範囲にわたって混乱の渦中にあった。
文京区根津。
ここにある商店街に草薙家は根を下ろしている。
祖母の代まで経営していた古本屋兼自宅。決して大きいとはいえない家。古く年季は入っているが、それでも何度かのリフォームによって生活するにはまったく困らない。
今、自宅にいるのは草薙静花一人だけだった。
カタカタと窓が揺れている。
外を吹き渡るのは台風にも等しい暴風。幸いにして文京区は停電の範囲から外れているために電気はつくしテレビも見れた。
今画面には真っ二つに折れた電柱をバックに記者が懸命なリポートをしているところが映し出されている。
原稿が飛ばされそうになっているし、傘はすでに役立たずだ。
ただ、この嵐の猛威だけは伝わってくる。
静花は時計を見る。
短針は九を指している。
「……」
静花は表情を変えないまま、電話に視線を移し、次に手元の携帯の画面を見た。意味もなく受信メールを開く。友人からの着信が数件。しかし、そこに求めているものはない。静花の目の前にはすっかり冷めてしまった夕食がラップに包まれておいてあった。
外出する祖父に変わり、静花が作ったものだ。自分の分はもう食べてしまった。
「もう……連絡くらい入れてよね」
呟く静花が視線を移す先、テレビ中で、記者の持っていた傘がついに吹き飛ばされていった。
□ ■ □ ■
万里谷祐理はその尋常ならざる戦いに息を呑んでいた。
はるか上空で行われている魔術戦。いや、それを魔術戦と呼んでいいものかどうか。
稲妻が走り、炎が舞う。その中を、見知った顔が駆け抜けていく。祐理の精神感応は、護堂の干渉によって今までにないほどに研ぎ澄まされていた。ゆえに、本来は遠見の魔術を使って初めて見えるような距離の戦いが、彼女の脳裏にはありありと見て取れるのだ。
それはまさに神話の再現。
猛烈な嵐と眩い雷撃。乱舞する炎。これだけの力を操る存在に対するのは、たった一人の人間なのだ。
強大な天使からその権能を簒奪した七人目の魔王。しかし、人柄は温厚で、良識がある。祐理の持つカンピオーネ像から程遠い、普通の男子だった。
「草薙さん……」
意識せず、胸に手を添えた。
祐理は不安を隠すことができないでいた。
敵は恐ろしく強い。もはや祐理たち人類の理解が及ばないほどに。
そんな相手と戦う護堂に祐理はなにも手を貸すことができない。
神とカンピオーネの戦いにあって人間は無力だ。
ただ、祈るしかない。
■ □ ■ □
護堂はビルの屋上に着地していた。
傷を分類すると、火傷が目立つ。しかし、最も重篤な傷はどれかと言われれば上半身に刻まれた一筋の太刀傷だろう。
左手で傷を押さえる。その下から赤い鮮血が滲み出している。
思いのほか傷は深いらしい。武芸の心得のない護堂は、自らの体の損傷具合を感覚で把握することはできない。この傷が骨に達しているのか、もしくはさらに深いところまでいってしまったのか、まったくわからないのだ。
(なんて、でたらめな身体だ。これだけ喰らってまだ動けるのか)
普通なら、悶え苦しんでいるはずの重傷も、カンピオーネの肉体にはさほどのものでもないのだろうか。
とは言っても、死ぬときには死ぬ。このままではジリ貧であり、出血もいつ収まるものかわからない。護堂には治癒の魔術に心得はないのだ。
護堂は目前の敵をにらみつける。いつの間にか同じ高度にまで下がってきていた。
腐敗した肉体を持つ女神。
名はイザナミ。別名を黄泉津大神といい、その名の示すとおり黄泉の国の主宰神だ。美しい女神としてこの世に生まれ、イザナギの妻として日本列島を生み出し、また多くの神々を誕生させた神産みの神。その最期は自らが産み落としたカグツチによって焼かれ死を得、黄泉の国へ渡ってしまうというものだ。
嘆き悲しんだイザナギは怒りに任せてカグツチを切り殺し、その死体と剣から多くの神が生まれ出でる。その後、亡き妻を捜しに黄泉の国へと渡っていくという話がある。
細部は古事記と日本書紀で異なるが、概ねは同じといえるだろう。
ここで重要なのは、イザナギがイザナミを探しに黄泉の国へ行くということだ。
分類すれば異郷訪問譚にあたる神話であり、驚くほど世界中に似た神話が存在する。
古くはシュメールのイナンナの冥界下り。また有名どころはギリシャ神話のオルフェウスの話。これはイザナギと同じく妻を捜して冥界に入るもので、妻の姿を見ることが禁忌となっていたり、最後は妻と別れることになったりと細部が似通っている。また、ポリネシアのマウリ族には妻を地下の世界から連れ出す話があり、メネラシアには妻が夫を地下の世界から救出する神話が存在する。
これらの話がどの程度日本神話に影響を与えたのかは定かではない。しかし、これ以外にもスサノオと八岐大蛇に見られるペルセウス・アンドロメダ型神話やニニギとコノハナノサクヤビメ、イワナガヒメに見られるバナナ型神話など、諸外国と同系統の逸話は数多く、国外の影響の下で形成された可能性は非常に高い。
首尾よくイザナミと再会したイザナギは妻の変わり果てた姿に驚く。
そこには美しかったイザナミの姿はなく、朽ち果て蛆の湧いた見るに堪えない姿になっていたのだ。
八柱の雷神が生まれるのはそのときである。
朽ちたイザナミの肉体から発生した雷神は、イザナミの命を受けて黄泉の軍勢を従える蛇となる。
死の神となった地母神と雷神の関係は、即ち嵐による負の側面を示す。
雨の恵みをもたらすと同時に、木々をなぎ倒し、田畑を荒らす大風を運ぶ嵐。雷は雨雲を呼ぶために、嵐との結びつきも強くなるのだ。
「地母神は死神になるってルールでもあるのかよ」
毒づく護堂は襲いくる雷撃をすんでのところでかわした。
手足がしびれる。雷撃の影響ではない。恐らくは斬撃を受けたときに呪詛を注がれていたのだ。
日本最古の怨霊神イザナミが人類にもたらした死の呪い。日に千人の命を奪う呪詛。それが護堂の中に入り込んでいる。
不死性の能力を持たない護堂にとってはなかなかまずい展開だ。不幸中の幸いなのは、イザナミがあくまでも影であるということか。そのおかげかまつろわぬ神の呪詛に比べればまだ弱い。本気になれば解くこともできそうだが--------------それを、雷神が許さない。
炎が叩きつけられる。
火雷大神は八柱の雷神の総称にして統括された神格。またの名を八雷神。
胸の蛇は、火雷神。雷から生まれる火災の象徴だ。
超直感のおかげでしのげる。神の攻撃を先読みし、放たれる前にかわす。コンクリートが粉砕され、融解。下の階が丸見えになってしまった。
祐理のおかげで相手の蛇の能力もわかった。それぞれの部位にいる蛇ごとに能力は別物。だから、攻撃を読むことも簡単にできる。
腹の黒雷神から、漆黒の闇が吐き出された。
「うわっ」
瞬く間に闇に包まれる屋上。一寸先すら見通せない。
(直感がつかえない!?)
護堂は驚いた。
闇に包まれたとたん、まるで目隠しをされたかのように感覚が消えてしまった。
雷雲によって太陽光が隠される様を神格化した蛇。
黒い雲は、心眼すらも曇らせる闇を作り出すのだ。
「だったら、『払え』」
風もなく、闇が吹き散らされた。蘇る直感に従って護堂はその場に伏せる。伏せた護堂の真上を、眼に見えない何かが通り過ぎていった。恐ろしく速い。
右足の伏雷神。能力は神速。雷雲に潜み、雷光を走らせる姿の象徴だ。
神速を相手にするには超直感がなければだめだ。とすると、その直感を打ち消す黒雷神を先に倒さねばならない。
『拉げ!!』
護堂は呪力を込めて叫んだ。
狙うはもちろん腹の黒雷神だ。
指向性を持たせ、確実に効果を発揮するため、右手を黒雷に向けて握る。空間が圧搾され、黒雷の身体がゆがむ。だが、さすがにまつろわぬ神。これだけでは、押しつぶせないか。
だが、今までで最も距離が近い。ゆえに言霊の力も最大限に発揮できている。
「この……!」
ギシギシと歪む空間の中で、蛇は蛇体を傷つけながらも堪えている。いや、傷ついた側から治癒しているのだ。
「ありかよ……」
不死性の能力。
蛇の特性である。
古来雷は蛇と結び付けられることが多い。空を走る稲妻が蛇に見えるということもあるだろうし、大陸からの雷神信仰などと合わさって竜と習合したこともあるのだろう。
脱皮を繰り返す蛇は洋の東西を問わず永遠不変の象徴となったのだ。
(この不死を司る蛇は……若雷か!)
八つの蛇のうち、未だに戦闘に参加していない蛇は二つ。
祐理によれば、左手の若雷神は、雷雨の後の豊かな土壌を指し示す、らしい。
左手の蛇を先に倒さないことには、他の蛇を倒すこともままならない。
ふと、イザナミの右手に目をやった。
さっきまでそこにいた蛇がいない。胴体はあるが長い蛇体の頭がないのだ。コンクリートの地面に突き刺さっている。
奇妙な光景だった。
突き立つ蛇体は、コンクリートを壊す様子はなく、まるで溶け込んでいるかのように滑らかに侵入を果たしていた。
ただ、その異様な光景が護堂にとってプラスに働くはずもない。敵が何かを仕掛けているのは明瞭である。わけもわからず、勘に任せて真横に飛ぶ。その判断は正しかった。
一瞬前まで護堂がいた場所。その真下のコンクリートの中から一柱の蛇神が飛び出してきたのだから。
土雷神。
雷は、地面に戻るという信仰から生まれた雷神だった。
地中を自在に泳ぐのが、この蛇の力なのだろう。
そして、雷鳴が轟いた。
とてつもない破壊音。
もはや何十トンもの火薬に同時に火をつけたとも思える爆音は、破滅的な衝撃波を生み出した。
しかも指向性がある。余計なものを破壊することなく、真っ直ぐに護堂を襲う。
『弾け』
それにわずかばかり先んじた護堂は言霊を飛ばした。
ぶつかり合う言霊と雷鳴。不可視の力の激突によってさらにビルの屋上は原形をとどめないほどに破壊されつくした。
衝撃波を放ったのは、イザナミの左足に巻きついている雷神だった。
左足の鳴雷神は雷鳴の化身。必然的にその攻撃手段は雷鳴による無色の衝撃波だった。
(やっかいな!)
ビルからビルへ、護堂は跳んだ。
十数メートル以上もある距離。しかも地上百五十メートルはある高層ビルの屋上からだ。普段の護堂であれば恐ろしくてこんな真似はしなかっただろうが、奇妙なことにいざ戦いとなるとまったく恐怖を感じない。怖気づくという観念が麻痺してしまったかのように、大胆になれる。
自分の能力を最大限に発揮するにはどうすればいいのかを、勘が教えてくれるのだ。
「うおっ!?」
着地した護堂を狙って、炎が襲い掛かってきた。避けた側から融解していくコンクリート。灼熱の炎によって蒸発した結果か、鼻を突く異臭が漂ってくる。それも、この嵐の中ではあっという間に流されてしまうが。
そのとき、護堂の直感が警鐘を鳴らした。危険すぎる何かを感じて、護堂は飛びのいた。その瞬間を狙っていたかのように、青白い閃光が走り抜けていった。一見してそれは鞭のようにも蛇のようにも見えた。
正体は、この日二度目の斬撃だった。
一度目は護堂に重傷を負わせ、その太刀傷は、未だにじくじくと出血を強いている。そしてこの二度目は護堂を斬りつけることはなく、変わりに護堂がいるビルの角をばっさりと切り落としていた。
轟音を立てて落ちていく断片。その断面は、包丁を入れた豆腐のように滑らかだった。
咲雷神は、雷によってあらゆるものが引き裂かれる姿を現したものだ。
雷が剣と関わりを持つのはここから来ているのだろう。実際、日本において、雷神にして武神のタケミカヅチは剣神でもあり、カグツチを斬り殺した天之尾羽張から滴る血が岩について生まれたとされる。
剣と鍛冶の神から生まれた雷神がタケミカヅチなのだ。
雷の持つ、鋭い刃物のようなイメージが、強大な殺傷能力を与えている。
護堂は、またさらに跳ぶ。もちろん、背後にまつろわぬ神が追ってくることを感じながらだ。
強大な呪力の塊が、敵意も露に追跡してくる。
正面から攻撃しても防がれるのであれば、搦め手を使う。護堂は引きつけて引きつけて、突然振り返った。このとき、すでに、盛大に呪力を練り上げていた。
『弾け!』
護堂を追いかける女神のシルエットが、見えない壁にぶち当たり、跳ね飛ばされた。そのまま、錐揉みして落ちていく。
だが、倒したわけではない。若雷神をどうにかしなければ、勝利はないのだ。
護堂は屋上から、飛び降りた。もちろん狙いは女神のシルエット。天空から地上に引きずりおろすことには成功した。足場を確認して戦うよりもずっと戦いやすい環境になったのだ。
「第二ラウンドの開始だ!『拉げ!』」
空間圧殺。護堂にとっては、これが唯一にして最大の攻撃手段だ。
捻じ曲がる世界。その力場に対抗して、雷鳴が轟く。
------------『曲がれ』『落ちろ』『拉げ』『撓め』『砕けろ』
護堂は、断続的に言霊を飛ばす。
力と力の鬩ぎあいとなった。
護堂は徹底的に言霊を飛ばして敵を圧倒する物量作戦をとり、相対する火雷大神も強力な攻撃を連続で放ち続ける。
しかし、神速の伏雷神も黒雲の黒雷神も、地中を潜る土雷も動かない。
その理由、護堂はもう理解していた。
(この八雷神は個別に行動することができない。だから、こちらから攻め立てれば、攻撃を相殺することに力を使わざるを得ない。守りながら攻めることはできないはずだ!)
それはほぼ確信として護堂の中にあった。
これまでの戦い、確かに八種類もの攻撃を使い分けてくる火雷大神は脅威だったし守りに徹さなければならなかった。それでも、その時間が、敵の特徴を教えてくれたのだ。
これまで、同時に能力を発動させたことは一度もない。
それが、攻略の糸口だ。
神速の雷神、地中からの不意打ち、不可視の雷鳴、直感を打ち消す黒雲、そして雷撃と炎、鋭い斬撃。これらが揃ってなお、護堂を攻め落とす事ができなかったのは、すべてが単発だったからだ。もしもこれが同時に放たれていたのなら、言霊という性質上、防ぎきることは不可能だったに違いない。
『拉げ』『砕け』『曲がれ』『捩れろ』『穿て』『弾け』・・・
多種多様な干渉ができるという点で、この言霊の力は圧倒的だ。
連続での使用も可能で、物量戦で負けはない。
ついに、イザナミの身体に亀裂が生じた。度重なる攻めについに影たる神霊が悲鳴をあげたのだ。毒々しい呪力が漏れ出すのを感じることができる。しかも、その傷がふさがらない。若雷神の力が作用していないのだ。
今、火雷大神は、雷と炎と斬撃と雷鳴を総動員し、交互に放つことで言霊を打ち消している。ゆえに、若雷神が再生の力を使う間がないのである。
間断なく力を使い続けるということは、護堂の身体にも大きな負担を強いる。ただでさえ、多大なダメージをすでに負っているこの状況は、決して護堂有利にことが運んでいないことの証左でもある。単純な攻撃能力は火雷大神のほうが上なのだから、言霊を越えて相手の力が一部護堂にも届いてしまっている。
(痛い、けど……ここで引けない!!)
敵の底は知れた。
後は、自分がどれほど相手に手を伸ばせるのか。
リスクを恐れて一体何ができるだろうか。戦いの場だからこそ、ハイリスクを狙うべきだ。
アスファルトの大地が砕け、電柱は折れ曲がり、信号機が根元から倒れているという悲惨な状況となっても、護堂と火雷大神の削りあいは両者一歩も引くことなく続いている。
力を使い続ける中で、護堂の心労もピークに達していた。同時に脳を突き刺すような痛みが襲う。
「ぐっう……」
思わずうめいてしまう。幻視や幻聴を介してメッセージを送る天使の力。やはり負担は脳にいくものなのか。
その一瞬を雷神たちが見逃すはずもない。一際強大な呪力が頭部------大雷神に集中した。
彼らの司令塔にして、最大の神格とも言うべき存在。
能力は、強大無比な雷撃を放つこと。
蛇の口に収束した雷光が、青白く輝き、閃光となって放たれる。その力は岩をも砕き、熱は鉄を蒸発させるだろう。
(来た!!)
その一撃、護堂が予測できなかったはずはない。
隙を見せれば、必ず強力な攻撃を仕掛けてくる。そういう確信があった。膠着状態を抜け出すためには、相手が隙を作ることを待ち、その隙に付け込んで打倒するのが最もスマートな方法であり、わずかな隙にも嬉々として攻め込んでくるだろうと見ていた。
案の定、大雷神の雷撃が放たれた。
事前に準備していた護堂にとって避けることは難しくない。頭痛は厄介だが、まだできる。
雷撃が放たれた瞬間には、護堂はそこにはいなかった。
空間圧縮によって雷撃の範囲外に出ていたからだ。今、敵は自らの雷光に目がくらんでいる。これこそ、護堂が狙っていた千載一遇の好機。
確実に敵を屠るため、鋭く鋭利なイメージを言霊に乗せて、裂帛の気合と共に叫んだ。
『穿て!!』
護堂は空中に投げ出される形になりながらも、受身を取ろうとしなかった。そのようなことをしていたら、最大の好機を見逃してしまうことになるからだ。
イメージしていたのは、眼に見えない槍か杭だろうか。
標的となった蛇の頭部はナニカに刺し貫かれ、破裂して鮮血を振り撒いた。
シュロオオオオオオオオ!!
悲鳴か慟哭か、蛇が叫び声をあげていた。
頭部を失った若雷神の身体はのた打ち回り、やがて、動かなくなった。
だが、油断はならない。
何せ相手は《蛇》の神格。頭すらも再生させかねないのだから。
護堂はさらに力を振り絞って起き上がった。
残り七体の蛇は、今までよりも苛烈に攻撃を仕掛けてくることは明白だったから。
□ ■ □ ■
戦いはさらに激化していた。
戦いの趨勢は五分と五分。いや、わずかに護堂が押している。護堂の身体は複数の太刀傷に、数十箇所にもなる大小さまざまな火傷など、まさに満身創痍。常人であれば生命活動を停止しても不思議ではない。しかし、それでも護堂の肉体は戦うことを止めはしなかったし、精神の高揚も収まるところを知らない。むしろ、戦いがギリギリのところに近づけば近づくほどに、護堂のモチベーションは格段に上昇している。
護堂は我が事ながら、そんな非常識に呆れ、感謝もしていた。そうでなければ、戦い続けることなどできはしないだろう。
閃く閃光。素早く走り、切り裂くもの。護堂は右手を突き出して、叫ぶ。
『爆ぜろ!』
呪力が迸り、言葉に乗って蛇に届く。
空中で、刃となった蛇が停止した。護堂の言霊からの干渉を遮断しようとしているのだろう。その蛇体はボロボロに崩れかけていて、治る気配はない。若雷神を失い、再生能力を極端に低下させた証拠である。
その様子は、さらに護堂を勇気付けた。
『命ず、爆ぜろ!』
声に出し、思い切り蛇を殴った。この戦いで、言霊を口にするだけでなく、ある程度の動作を加えることで、威力を上げられることがわかった。おそらくは、より明確なイメージを相手に伝えることができるからなのだろう。
その一撃で、ついに咲雷神も沈黙した。
「残りは三つか……このペースで一気に片付けてやる」
護堂のにらみつける先、女神の肉体もすでに半壊している。もともと崩れかけていた身体ではあるが、今は片腕をなくし、足をも失い、宙に浮いている状態となっている。蛇を失った箇所から砂になっていったのだ。
「いくぞ」
空間を圧縮。
護堂と火雷大神との距離は一瞬にしてゼロに近づいた。
今までにないほどの大圧縮。半透明のトンネルを、護堂は踏み越える。その速度は、客観的に見れば時速数百キロは出ていただろう。一足で女神の目前に足を踏み入れる護堂は、右の拳に力を集中する。言霊を叩き付けるイメージだ。女神に巻きつく蛇は、予想を上回る移動速度に瞠目し、咄嗟に反撃をする。権能を使うことに関しては、カンピオーネに劣るはずがない。呼吸するに等しい感覚で大雷神が雷撃を放つ。
『穿て!!』
鋭く突き出した右腕が、強烈な雷撃に吸い込まれてぶつかり合う。
焼けるような激痛と全身を苛む痺れに意識を飛ばしてしまいそうになりながら、護堂は歯を食いしばった。
正真正銘最後の一撃をもって、蛇をすべて、まとめて打ち倒す。そのために、使える力はすべて使う。
開いた左手。そこに活路を見出す。
「我が言は衆生を導く教えなり。我が呪言は、万象貫く法にして罪人を討つ裁きの剣なり!」
聖句を唱え、呪力を底上げした。後はカンピオーネの耐久力と呪力に対する抵抗力に託すのみ。
右手で雷撃を抑えながら、左手を伸ばす。
眩すぎる閃光で視界はない、しかし、勘が誰よりも鋭い護堂にこの程度のことはなんでもないのだ。
ガシ、と手づかみするのは蛇の首。大雷神の首だった。
『砕け!』
左手の中で、生暖かい液体が迸った感触。同時に、雷撃を強かに浴び、ふらふらと後退する。
(まだだ!!)
聖句のおかげか、それとも大雷神が消滅して雷撃が一瞬だったからか、護堂は倒れない。
大地を踏みしめ、残る二体の蛇、土雷神と鳴雷神に向かって叫ぶ。
「これで最後だ!『拉げ!!』」
瞬間、空間が軋み、光が曲がって景色が揺れた。護堂は、両腕を突き出して蛇をゆがみの中心に捉える。 今の火雷大神は、まさに死に体だ。八柱のうちの六柱を打ち倒され、呪力も底をつきつつある。
言ってみれば、身体の七十五パーセントを失っているに等しいのだから、抵抗する力を搾り出すのも限界がある。
まず、悲鳴をあげたのは鳴雷神だった。
これまでの戦闘で、護堂の攻撃を最も多く受けた蛇の一つだけに、身体もボロボロになっている。この圧搾に耐えることができず、潰れてしまった。
次に、二柱に分けていた力が土雷神に集中したことで単純に負荷が倍増した。
軋みあがる空間の中で、最後の蛇体は断末魔の叫びを上げることなく、血しぶきとなって消えていった。
■ □ ■ □
女神イザナミの肉体が砂となって消えたことを確認して、護堂はその場に座り込んだ。
肉体面の限界が訪れたのだ。
今の攻撃で勝負がつかなければ、敗れていたのは護堂だったかもしれない。それくらいにギリギリの戦いだった。
「……マイナーな神格のくせして、とんでもないやつだった」
そのとき、ずしん、と護堂は背中に重みを感じた。錯覚とも思えるほどにわずかな時間の重圧は、身体の内側に溶け込むようにして消えた。
新たな権能がその身に宿ったのだ。
護堂はそのまま、空を見上げるように仰向けに寝転がった。
火雷大神が消滅したことで、雲が晴れ、星が見えていた。
空に輝く星明りのように明るい気分ではいられない。なんだかんだで、相当物を破壊してしまった。物損に関しては、ほぼ全額火雷大神の責任なのだが、それでも関わりあいになったことで、護堂の気分は大いに沈降していた。
それにしても、眠い。
このまま睡魔に身を任せてしまいたい。
破壊しつくされた道路のど真ん中で眠りにつくなどという非常識は、護堂としても回避したいところなのだが、如何せん体が動かない。
妹にも示しがつかないが、ここはもう認めてもらいたい。
「草薙さん!しっかりしてください!」
久しぶりとも思える祐理の声が聞こえてきた。
「ああ、万里谷か。アドバイスありがとな。おかげで勝てた」
「そんなことを言っている場合ですか!なんという無茶を……!」
戦いが終わった後、冬馬に連れられてここまで来た祐理が見たものは、大の字になって倒れている護堂だった。
あわてて護堂に駆け寄った祐理は、その身体に刻み付けられた凄まじい戦いの痕跡に息を呑み、戦慄した。
最後に雷撃を受け止めた右腕など、すでに炭化の一歩手前だ。
常人であれば、およそ助かる傷ではなかった。
「草薙さん!今、治癒を……!?」
治癒の呪法は、東西問わず存在する呪術の基本中の基本であり、骨折であろうとも三十分もあれば完全に快復させてしまう。RPGのように一瞬とはいかないが、それでも世の医者が見れば失神するほどの効能はあった。
相手がカンピオーネでなければの話だが。
「治癒が、効かない……!?そんな!?」
強大な呪力を身に宿すカンピオーネは善悪を問わず魔術的な干渉を無効化してしまう。カンピオーネが魔王と恐れられるゆえんだ。
眠りについた護堂だが、その顔色は悪い。
これだけの怪我を放置しておけば、いかにカンピオーネといっても死んでしまうのでは?
最悪の展開だ。それだけはなんとしても防がねばならない。
「あ、甘粕さん!治癒が効かないのです!いったいどうすればよいかご存知ありませんか!?」
「カンピオーネは外界からの魔術の一切を遮断してしまいますからねえ。既存の方法で治癒をかけることはできません……ただ一つの例外を除いてはですが」
「例外?それは?」
「魔術の経口摂取ですね。ようはキスです」
「キ……」
祐理の顔が一気に赤くなった。
年頃の娘なのだ。しかたない。
「それでは私はここのへんで」
そう言って去っていこうとする冬馬を祐理は制止する。
「ど、どこへ行こうというのですか!?」
「私なりに気を使ったんですが。見ていて欲しいというのなら別に構いませんが?人工呼吸のようなものですし」
「け、結構です!!」
冬馬は今度こそ去っていった。
誰もいなくなった瓦礫の中で、祐理が意を決するのはほんの少し後のことだった。