決闘は物々しい雰囲気に始まり、十数分で急転直下の展開を見せた。
圧倒的な防御力を誇るサルバトーレ・ドニに対して、護堂は対処不能なほどの物量で攻め込んだ。旅順を攻略せんとした旧日本軍のように、とにかく数で押し、要塞内部に攻め入ろうとした。
結果として、護堂の攻撃は尽く跳ね返されてしまい、脇腹に重傷を負ってしまうことになった。
しかし、現状、護堂が劣勢に立たされているかというとそうではない。
腹に穴が開いた程度で戦意を失うようでは、カンピオーネなどになっていない。痛みを堪えて剣を引き抜いた。乱暴な抜き方だったからか、さらに傷口の組織が傷ついて血が噴出して衣服を赤く染めた。
サルバトーレの剣は恐ろしい切れ味で、護堂の身体を何の抵抗もなく刺し貫いていた。だが、切れ味が鋭いということは、それだけ傷口は綺麗だということでもあり、穴を塞ぐよりも、ずっと治癒は早く済むと思われたのだが、
「くそ、治らねえ」
護堂は、顔をしかめた。痛みと、忌々しさから、表情に出てしまった。
若雷神を使用しているのに、なかなか傷が塞がらないのだ。
「さすがに、《鋼》か」
《蛇》の属性をもつ若雷神とは相性が悪いようで、体内に残ったサルバトーレの呪力が、回復しようとする護堂に抵抗しているのだ。呪力を高めて、この剣の呪力を外に吐き出し、若雷神をフルパワーで利用するほうがいいかもしれない。
「やれやれ、びしょ濡れだよ。どうしてくれるんだい、護堂」
と、神酒に呑まれたサルバトーレが立ち上がってのんきに話しかけてきた。神酒から受けたダメージはほとんどない。しかし、内面はどうか。手応えはあった。今、サルバトーレの権能は弱体化しているはずだ。
「クリーニング代を請求してもいいかな?」
「却下だ。なんで俺があんたの服に金を出さなきゃならないんだ」
「君が汚したんだぞ! お気に入りだったのに、このアロハ!」
サルバトーレは自分が羽織る群青色のアロハシャツの裾を摘んで見せる。なぜか、その下には何も着ておらず、鍛え抜かれて割れた腹筋があられもない姿を晒している。
「知らん! んなこと言ったら、こっちなんて血だぞ、血!」
負けず、護堂は赤黒く変色したシャツを指差す。洗えば落ちるサルバトーレの服についた汚れと違い、こちらのシャツは廃棄処分するしかない。安物ではあるが、買いなおせば、少なからず金が出て行ってしまう。それが気に入らなかった。
「じゃあ、この勝負で負けたほうが金を出すってことで!」
「いいぞ、泣くほどふんだくってやる」
護堂はどうとでも動けるように半身になり、腰を落とした。重心を安定させることによって、突然の事態にも素早く反応できるようにだ。サルバトーレが、走り出した。これが、予想以上に早い。足腰もかなり鍛えられているのだろう。無手がどこまでできるのか、護堂にはさっぱりであるが、『鋼の加護』は身体を頑丈にすると同時に重量も増やす。今のサルバトーレの身体がいったい何キロあるかわからないが、このままぶつかると、自動車との正面衝突くらいの衝撃を受けてしまう気がする。だから、警戒しながら剣を作ろうとしていたのだが、さすがに足元からの奇襲には驚いた。
「剣よ、輝きを示せ!」
護堂のすぐ傍に転がる血濡れの剣が、銀色に光り、刀身が爆発した。より正確に言えば、刀身から、呪力の爆風が放たれた。
「う、わ!?」
権能が生み出した爆発は、攻撃範囲こそ小さなものだったが、そこに込められた呪力は並みの呪術者では掌握することすら困難な密度。無論、護堂にとって、それは致命となりうるものではなかったが、それでも身体にいくつかの裂傷と火傷を負わされた。
その隙に、サルバトーレは剣を拾い上げた。すれ違い様に横薙ぎの一振り。
『縮』
咄嗟に空間を縮めて背後にとんだ。一息で十メートルの距離をとる。サルバトーレには、護堂が背後の空間に吸い込まれたかのように見えただろう。
「変わった移動方法だ。君はアレクみたいな神速が使えると聞いていたけど、他にも移動術があるんだね」
便利で羨ましい、とサルバトーレは手にした剣を肩に担いで笑った。そして、再び無の構えをとる。巨大な怪物から、人間大の戦士まで、ありとあらゆる敵と戦い続けた結果たどり着いた、完成形とも言うべき構えなき構え。また、これからの人生の中で、さらに発展させていくであろう、彼の変幻自在の剣術の根幹を成す姿だ。しかし、サルバトーレの纏う雰囲気は、街を歩き回っているときと大して変わらない。
「常在戦場ね。そりゃ強いわ」
常に戦場に在り。彼にとって、戦場も日常生活も大して変わりがない。なぜならば、サルバトーレは剣を振るうことに生涯を懸けた男だからだ。食事も睡眠も可能な限り削り、人知を超越した狂気とも思える修練の果てに神を殺した鬼才。そんな男だから、心は常に戦いを求め、日常でも戦場と同じ心持を維持できるのだ。
護堂は脇腹に当てていた手を離した。
手の平はべっとりと赤く染まっていたが、傷口からの出血は止まっている。若雷神がやっと作用してくれたのだ。完全にふさがったわけではないが、血が止まれば問題ない。
護堂は無数の剣を呼び出し、一斉に射出した。
砲弾となった無数の神剣は、大気を捻じ切り、地面を掘削する。炸裂する呪力は、自然界の飽和量を超え、一時的とはいえ、周囲を呪術的特異点へと変えかねないほどだ。舞い上がる土ぼこり。生物のように踊る火花。黄金にも見える神剣は、ただ一振りの銀の閃光によって斬りおとされる。その攻防を、正しく認識できているのは、護堂とサルバトーレの二人だけ。離れて見守る者たちの目には、剣が残した軌跡しか映らない。攻撃も防御も、どちらも神業。技の派手さでは護堂が上回り、美しさではサルバトーレに分があった。
肌を焼く夏の日差しも、頬をなでる柔らかい風も、もはや意識の端にも上らない。護堂の意識はサルバトーレを討ち果たすことに集中していたし、サルバトーレの意識も護堂を斬り捨てることを第一義としていた。
権能と権能がぶつかり合う。そのたびに放出される膨大な呪力は、後方に控える祐理や晶のような呪術に関わってきた者たちを慄然とさせるほどだ。もしも呪力を目で捉えることができたなら、荒れ狂う大海原に乗り出したかのような気分を味わったことだろう。
第二ラウンドが始まってから、数分の内に、護堂の放つ刃の数は百五十に達した。様子見も手加減も一切なく、全力で剣を創っては射出した。弾幕と呼んで差し支えなく、逃げ場など寸分たりとも与えない。容赦なく、苛烈に攻撃を加え続けた。休むことなく、護堂は次の剣を生み出し、それと同時に、滞空させていた剣を投じる。生成と射撃は同時に行われ、弾丸の数は減ることがない。逆に言うなれば、それは、サルバトーレがいまだに健在だということでもある。
護堂は、燃え上がる心と思考を切り離す。努めて冷静に、現状を確認する。彼我の距離が、十五メートルほどになり、リーチでの優位性を確保しているのは確かだ。だが、それは多少の油断で突き崩される程度の脆い城でしかない。事実、護堂は脇腹に手痛い反撃を受けている。手数で勝っていながら、受けたダメージは明らかに、こちらのほうが多い。まだ、熱を持つ傷口が、護堂に冷静になれと告げている。護堂は氷のようなまなざしで、突き進んでくるサルバトーレを睨み付けた。
対するサルバトーレは、この戦いが予想以上に血肉を沸き立たせてくれることに驚きながら、そのような演出をしてくれた護堂に感謝していた。
呪力を蓄えられない体質に生まれ、騎士としては生涯大成することがないとされたサルバトーレだが、狂信的な修行の果てに神を殺し、最強の剣士として世界に名を馳せた。それは、剣士としての最高到達地点に足を踏み入れたということでもある。他の誰であろうと、サルバトーレに敵う剣士は存在しないと証明されたようなもの。しかし、それは同時にサルバトーレのモチベーションにも影響を与えかねないものだった。剣を振るうべき敵がいなくなってしまったのだ。剣の申し子にとって、これは由々しき事態と言えた。彼よりも様々な技巧に精通し、イタリアの騎士たちから畏怖と敬意と尊敬を一身に集める師ですら脅威とも思えなくなってしまった自分に愕然としたことを覚えている。師からのアドバイスを受けて神やカンピオーネを相手とし、人間には見向きもしないのは、人間では話にならないと、人の努力や才能に半ば失望しているからだった。
ガツン、と額に刃が当たった。『鋼の加護』によって防御力の他、重量まで増加している今、吹き飛ばされることはない。
「へへ」
サルバトーレは、額から口の端まで零れ落ちた赤い雫を舐めて笑った。
ジークフリートを殺めてから久しく感じることのなかった痛み。流すことを忘れていた血が、アロハシャツに滲んでいる。
サルバトーレ・ドニが傷を負っている。
一番驚いていたのは、彼をずっと傍で見守ってきたアンドレアだろう。顔色を変えて息を呑んでいる。
もしかしたら、サルバトーレに万が一のことがあるかもしれないと、危機感を覚えている。
だが、当事者には危機感はまるでない。死ぬかもしれないとは思っても、死ぬとは微塵も思っていない。だから、平然としているし、笑っていられる。サルバトーレであれば、死ぬ間際まで笑っているかもしれないが。
「完璧だよ、護堂。君は、僕を傷つけることができるんだね」
胸に迫る喜悦を、隠すことなく表情に出す。
『鋼の加護』を突破することができるのか否かで、サルバトーレは戦いを評価する。どれほど強力な敵であろうとも、守りを突破してくれなければ、その戦いは、ただの消化試合にしかならない。傷を負わないということは、死なないということであり、戦いに臨む上で重要視している命を懸けた緊張感というものが失われてしまう。ギリギリの駆け引きこそが、戦いの醍醐味だというのに。
だからこそ、サルバトーレの中で、護堂の評価は鰻上りだ。
傷を負わせられるということは、倒せるということ。サルバトーレは護堂を自分に匹敵する好敵手と見定めた。
サルバトーレは回避行動をとり始める。剣で斬り落とせるものは斬り、そうでないものはタイミングを見計らって避ける。神速を見切る目を持つサルバトーレならば、押し寄せる剣と剣の間の僅かな隙間を見出すことも容易だ。
おそらくは先ほど受けた神酒の権能が、自分の権能を弱体化させているのだろう。剣の切れ味は落ちているし、敵の剣を尽く弾き返していた身体は、血を流している。
傷は浅く、命を絶つには至らない。それでも、ジクジクとした痛みが脳内で警鐘を鳴らしている。今までのように正面から受け止めては、何れ貫かれる。
切先から、呪力を飛ばし、纏めて数本を弾き返す。軌道を変えられた剣は、近くの剣とぶつかった。ビリヤードのように連鎖的に剣同士が衝突する。
「そう簡単にはいかないか」
護堂は、鬼気迫るサルバトーレの戦い振りを見て、嘆息する。
傷を負おうが、負うまいが、彼が前進してくることに変わりない。
護堂は位置を変えるために走り出した。射撃で牽制しながら、サルバトーレとの距離が変わらないように回り込む。
位置関係は、サルバトーレを挟んでガルダ湖と護堂が向かい合う形だ。
剣群の間を縫って、呪力の斬撃が襲い掛かってきたのを半身になって避けつつ、
「我は焼き尽くす者。破滅と破壊と豊穣を約束する者なり。全てを灰に。それは新たなる門出の証なり」
灼熱の炎を放つ、火雷神の化身の聖句を唱える。
途端に、熱を持つ身体。呪力が体内で、燃え滾り、噴出しようとしているのだ。
解き放たれる炎は、サルバトーレに集中する。
紅蓮の怒涛が、サルバトーレに一直線に向かう。
「なんだって!?」
炎の権能を持っていることを知らなかったサルバトーレは度肝を抜かれた。咄嗟に呪力を練り上げ、『鋼の加護』を強化。護堂の神酒に侵されて出力が出ないが、そこを根性でどうにかする。
膨大な熱で膨張した空気が、瞬時に四方へ流れ、轟音とともに、木々を揺らす。火炎の奔流は、サルバトーレを焼くだけに留まらず、その背後のガルダ湖の表面を蒸発させた。
□ ■ □ ■
蒸発した湖水が、白い霧となって、戦場を覆う。
服が水を吸って重くなるが、季節が夏ということもあって、不快感はない。
護堂は険しい視線で正面を見つめる。視線の先には、サルバトーレが立っている。一目連を焼き払った火雷神ですら、サルバトーレを倒しきれなかった。神酒で防御力を削いでいたのにも関わらずだ。防御系の権能に、カンピオーネが持つ呪力への耐性を加えれば、不可能ではないかもしれないが、実際に目の当たりにすると、化物と呼ばれるのも納得できる。あの熱量に耐えたのだ。核爆弾にも耐えかねない。
「ハハハ、まさかだね。確かに、《鋼》には鉄をも溶かす高温が有効だ。だけどね、剣は熱から再生する! 僕の剣は、この程度の炎では滅びないのさ!」
「こじ付けがましい理由を大声で言うな!」
要するに、根性しだいでどうにでもなるということなのだろう。笑えない話である。
「そろそろ、決着をつけるぞ。サルバトーレ!」
「望むところだ、友よ!」
「友って、言うな!」
護堂は、槍を片手に走り出した。進路は、前。つまり、サルバトーレに向かってだ。サルバトーレは、眉根を寄せる。護堂の戦い方は、明らかに何かを狙っている。なにか、策があるのか。あったとして、それはなにか。突きこまれる槍を前に、サルバトーレは思考を放棄した。どんな作戦であろうとも、正面から打ち破ってしまえばそれでいい。
「それ!」
サルバトーレの剣が、護堂の槍の穂先を斬り飛ばした。
「我は轟く者。恐れ、敬い、我が到来の調べを聴け」
サルバトーレの鼻先に、護堂の呪力が叩きつけられた。
唱えた聖句は、火雷大神の八つの化身の一つ。鳴雷神の聖句だ。
強烈な振動と、轟音。爆弾が至近距離で爆発したかのような音に、サルバトーレは瞠目した。目には見えなかったが、明確な攻撃だった。しかも、その一瞬で、目の前にいたはずの護堂が掻き消えていた。
「ッ!」
背後に気配を感じて、剣を横薙ぎに振るう。
サルバトーレの剣は、霧を切り裂くだけで護堂を捉えることはできなかった。
鳴雷神の化身が持つ力は、轟音による振動で破砕するものであるが、それに付随して、敵の集中力を乱すというものがある。強制的に乱された集中力は、そう時間を置くことなく回復するが、僅かな時間でも心眼を失うことになるのだから、希代の剣士でも隙を作ってしまう。
「獲ったぞ、サルバトーレ!」
護堂がサルバトーレの銀色の腕を掴んだ。
「ッ――――――いつの間に」
「オオオオオオオオオオオ――――――ラァッ!」
気合の咆哮を発し、護堂は全身に力を込めて、サルバトーレを持ち上げる。
「な、そんなバカなァァ――――――!?」
そして、思いっきり投げ飛ばした。重量が数百キロにまでなっているサルバトーレを投げ飛ばすには怪力の権能を使うくらいしかないのだが、護堂にはそんなものはない。その代わり、所持している物の重量が、羽のように軽くなる神速の権能がある。
護堂は、サルバトーレの心眼を鳴雷神で乱した直後、伏雷神を発動して雷速となったのだ。予定通り、周囲は霧に囲まれている。霧を雨の代用とし、大気中の水分量を増やした。それによって神速の使用条件を満たしたのだ。
「うわあああァァァ」
ガルダ湖のど真ん中目掛けて投げ飛ばされたサルバトーレは為す術なく宙に放り出された。
「まだだぞ!」
湖に落下していくサルバトーレ目掛けて、護堂は呪力を叩き付けた。空中で形を得た呪力は、鎖であり、巨大な分銅であった。
「ちょ、ちょっとそれはない!」
抗議の声を上げようとしたサルバトーレの足や胴に容赦なく鎖分銅は巻きつき、そのまま湖水へ落下。巨大な水柱が立った。
総重量で一トンは超えるだろう。当然、『鋼の加護』を解除したところで浮かび上がることはできない。
鎖を切断するしかないが、それはさせない。
「今ここに顕現せよ。天を翔け、地へ降り下る者。蛇にして豊穣の主。地下深く眠る死者の総帥よ、大いなる雷の神威を我が前に顕し給え!」
大盤振る舞いだ。出し惜しみはしない。沈み行くサルバトーレに向けて、大雷神を発動した。水中の敵にどこまで雷撃が届くか分からなかったが、呪力による雷撃は、多少ガルダ湖の水を伝わったものの、大半がサルバトーレに届いてくれた。
できるだけ、電撃が水中で分散しないように制御しながらなので、『鋼の加護』を貫くことはできないだろうし、これは、倒すためにしているのではなく『鋼の加護』を使わせるためにしている攻撃だ。威力は低くてもかまわないのだ。
眼に見えない敵の位置は、彼に巻きついた分銅が教えてくれる。あれは護堂の権能で生み出した物だ。その位置くらい見えていなくても特定できる。
およそ三百メートル下の湖底に分銅が落ちるまで、情け容赦なく攻撃し続けた。
湖底に落ちたサルバトーレは、剣で鎖を斬ると、やれやれ、と首を振った。視界は真っ暗。日の光の届かない湖底だから当然だ。それでも、眼が見えないわけではない。カンピオーネには暗闇を見通す透視力がある。問題はない。身体のほうも、ずいぶんと痛めつけられたが、戦闘に支障をきたすほどではない。ダメージは大きいが、動けないわけではない。身体が動くのなら、戦える。『鋼の加護』のおかげで窒息とも無縁でいられる。水に沈めたくらいで勝った気になってもらっては困るというものだ。
このような戦いは、滅多にできるものではない。今からでも、岸に戻り、続きをしなくては。
そう思い、湖面へ向かって泳ごうとした時だった。
「?」
湖底を蹴った足が、なぜか湖底から離れず、浮き上がれなかった。
なにかが足に絡み付いていると感じ、下を見て、目を見開いた。
泥の中から、手が伸びていて、サルバトーレの足を鷲掴みにしていたのだ。それが、護堂の手だと分かったときには、地中に引きずり込まれていた。
土雷神。
地中を雷速で移動する力であり、護堂が掴んだ物も一緒に動くことができる。これを応用すれば、地中に引きずり込んで、放置し、生き埋めにするという過激な戦法をとることも可能だった。
倒せないなら、戦えないようにすればいい。護堂は狙い通りに、サルバトーレを戦闘不能の状態に陥れたのだった。
■ □ ■ □
ずぶ濡れの状態で、護堂は湖水から顔を出した。
サルバトーレの足を掴んだときは、神速状態ではないので、単純に湖底に沈んでいるのと同じ状態だったからだ。泥を湖水で落としたので、目立った汚れはないが、服を着たまま濡れるというのは、決して気持ちのいいことではない。
「とりあえずは、終わりかな」
ちょっと残念な気もしてしまうが、楽しい時間はすぐに終わってしまうものだ。
次の機会があったとしても、今後数ヶ月は先の話になるだろう。
「草薙さん! お身体のほうは大丈夫ですか?」
岸に上がり、寝転がって身体を休めつつ、太陽光で濡れた服を乾かしているといつのまにか祐理が近づいてきていた。
「ああ、大丈夫だ。心配してくれてありがとな」
「いいえ。そんな」
「先輩。タオル、タオルをどうぞ!」
そこに、慌てたように割って入った晶が、半ば強引にタオルを渡した。
「あ、ありがとう。晶」
新品同然のタオルはふかふかとしていて、気持ちがよく、程よい眠気を誘った。
「失礼します。草薙様。ひとつよろしいでしょうか?」
「はい。アンドレアさん、でしたね」
アンドレアは精悍な顔を厳しくしていた。
「サルバトーレのことなら大丈夫だと思いますよ。ガルダ湖の底のさらに下、地下二十メートルにまで沈みましたけど、権能の特性上、死ぬことはないでしょうから」
「そうですか。それを聞いて安心しました。それでは、私は王を引き上げねばなりませんので、これにて失礼します」
あまり、早くしてほしくないなと思いながら、護堂は頷いた。
立ち去るアンドレアの背中を見送って、護堂は立ち上がった。
「すぐに立って大丈夫なんですか?」
「大怪我をしたわけじゃないし、疲れがあるだけだ。動く分には問題ないよ。ところで」
と、護堂は言葉を切り、リリアナと視線をかわす。リリアナは頷いて、
「この勝負は、護堂さんの勝利です」
その答えに、満足した護堂は、そのまま車に向かった。サルバトーレが引き上げられたら、第三ラウンドを始めかねない。勝ったということにして、勝負を終わらせ、とっとと退散しようと考えたのだ。今の護堂は、サルバトーレ戦でずいぶんと消耗した。持ちうる限りの力を使って戦った。つまり、これ以上、戦う余力は残っていない。半日でいいから休息を取る必要があった。
「それでは、車を用意しますので、少々お待ちを」
護堂の意思を汲んだリリアナが、指示を出す。護堂たちは、勝者でありながら、逃げるようにそそくさとその場を後にした。
□ ■ □ ■
夏の観光シーズン、駅前から人気がなくなることはない。ガルダ湖近辺の店は今が書入れ時と大いに盛り上がっている。
それでも、東京駅のあの混雑を知っている護堂たちにとっては、この程度は混んでいるとは言えない。自分のペースで歩けるだけで空いていると思える都会人だ。ここから、ローマへ向かい、航空機でサルデーニャを目指す。
「これから、サルデーニャですか。あのルクレチア・ゾラ。地を極めたとも言われる偉大なお方に会えるなんて!」
やや興奮気味に晶は言った。意外にも、ルクレチアファンだったのか。呪術の世界で非常に有名な人だから、そういう反応もあって当然か。
「ま、あの人には晶の期待を裏切らないでいて欲しいな」
と、護堂は晶に聞こえないように呟いた。
ルクレチアが、実は目を覆いたくなるほど、自堕落な生活を送っていることを知ったときの反応も気になるところだ。
ホームで電車が来るのを待つ間、そんな取りとめのない会話を続けた。戦いが終わり、数日間続いた緊張状態から抜けだしたからだろうか。
と、そのときだった。
「なん――――――」
だ、とは続かなかった。
人込みを掻き分けて、護堂の目前に現れたのは真っ黒なローブで全身を覆う何かだった。背丈は晶よりも高いくらいで、フードを被っているので上から顔を見ることはできない。
「あの神殺しとの戦いでずいぶんと、消耗しているようね。ま、あたしには好都合だわ」
フルートを思わせる綺麗なソプラノ。女の子の声だ。奇妙な出で立ちにも、周囲の人はまったく気にかけない。
「兄さんの仇を討たせて貰うわ」
危機感で沸騰する頭が、咄嗟に晶と祐理を突き飛ばした。回避よりも、仲間の安全をとったのは護堂らしいと言えるが、それが仇となった。呪力を大幅に失い、戦闘態勢にも入れなかった。肉体的にも多大な疲労を抱え、判断力は衰えている。そんな状態での不意打ちを避けることができるはずもなく、
「う、がはッ」
ドン、という衝撃が胸を突く。
ローブの裾から突き出された白い手は、易々と護堂の心臓を抉り出していた。