草薙静花。小柄な身体に気の強そうな目つきの少女だ。快活な印象に反して、部活動は茶道部。彼女の好みは和。ベッドよりも布団派である。
聡明な彼女は、物心付いたときから自分の家庭が人と違うことを漠然と感じ取っていた。
一緒に暮らすのは祖父と兄で両親はほとんど家に帰ってこない。
父は家を飛び出してしまったし、まれに帰ってくる母親は、嫌いではないが、母としての仕事はほとんどしていない上におそろしく女王様。数多くの男に貢がせているという怪物だった。
そんな家庭に育ったから、同世代以上に感性は鋭くなる。
これではダメだ、という向上心が芽生えるのだ。
大人びた性格は、幼い集団の中では浮いてしまう。
教師や大人からの評判はよかったが、同世代からは一目置かれすぎて意思疎通に齟齬を生じるようになった。
異質は排除。
それが、日本の風土であるのなら、静花は格好の的だろう。
出る杭は打たれるともいう。
彼女にとっての不幸は、兄の護堂がそういった状況におかれたときもうまく立ち回ったのに対して、彼女自身は多少しっかりしているだけの子どもに過ぎなかったということだ。
学校で友人間のトラブルを家族に伝えることができずに悩みに悩んでいたとき、救いの手を差し伸べてくれたのは護堂だった。
護堂は静花の様子がおかしくなったことに素早く気づき、手を回し、また静花を励ました。
今、静花がしっかりものの姉御肌として多くの信頼を集めるに至ったのも、護堂の影響が非常に大きい。
兄は、静花にとって、尊敬すべき人物だった。
「……」
「なんだ?」
朝食のトーストを齧っている護堂は、妹から投げかけられる視線に困惑した。
「お兄ちゃん、なんでサッカーやめたの?」
「また、それか。いろいろ考えることがあったんだ。いろいろな」
静花は追及しなかった。
護堂の答えに納得したわけではない。事実、顔には納得できない、とはっきり書いてある。が、同時に視線は困惑の色を湛え、疑惑と整理できていない複数の感情を映している。
イタリアから帰ってきた後、静花は護堂の雰囲気の変化をいち早く感じ取った。
伊達に兄を追いかけていない。
それまでの、どこか硬い、肩肘はった雰囲気から、一皮向けた開放感を漂わせていたことに新鮮さを感じたものだ。
何があったんだろう、と当然思うことだろう。
高校に入学してから、まさかの帰宅部。
怪我をしたわけではない。
サッカー部の体験入部にもいって、先輩方と交流し、模擬試合で得点も取っていたはず。
であれば、サッカー最前線のイタリアで才能の差に失望、などということではあるまい。
ならば勉学か、といえばそれもありえない。
入学早々行われた学力確認テストでは、中等部あがりの、つまりより先を勉強している生徒を押しやってトップだ。
つまり、よくある勉強についていけない、ということでもない。
可能性として最後に上がったのは友人関係のこじれ。
ここまでくるとイタリアは完全に関係なくなるが、護堂の変化がイタリア旅行後だったとしても、それがサッカー引退につながったという証拠もない。別物と考えるのなら、友人関係が最も怪しい。
ところが、それもあっというまに覆された。
草薙護堂の友人関係はいたって良好。
クラスの中心というわけではないが、それでも一目置かれる存在として認知されているというのだ。
実のところ、護堂を見る眼は多い。
同じ中学の出身者だけではなく、静花の周囲にも、当然その兄である護堂と面識のある娘もいる。
そういった娘が、時折護堂を見に行っているらしい。
曰く、今までよりも話しやすくなった。
これは、親友その一の唯の言。
護堂ファンの一員であり、人見知りの激しい彼女をして、そう言わしめるのだから護堂が人間関係で困っているということはないと言いきれる。
護堂は外見は悪くない。とはいえ、誰もが振り向く、というほどではなく、いいかもと思う程度だ。実のところ、モテモテの祖父一郎もそうなのだが、草薙一族の本質は外面ではなく、内面にある。それを思えば、護堂は一族最大の傑物である祖父すらも凌駕するポテンシャルがある、と静花は妹目線ではあるが、そのように評価していた。
第一、サッカーを止めておきながら、依然としてファンがいるというのはこれいかに。
護堂のサッカー関係者から、あいつを引き戻してくれ、と頼まれたことも一度や二度ではない。そのつど、自分でも理由が分からない、と断りを入れるのが虚しかった。
静花の不安、不満はわりと幅広い。
結局、この日の朝も静花は護堂の変化の理由を察することができないまま登校することになったのだった。
「ありがとな」
「な、なに?」
学校に行く途中、不意に兄から感謝され、戸惑った。
「心配してくれてただろ」
「分かってたなら、サッカー辞めた理由とか、イタリアで何があったのかとか教えてくれてもいいんじゃない?」
少し強めに、静花は言った。
言って、しまったとも思った。
詮索してはいけないことだったのではないか、と。
だが、護堂はからからと笑った。
「理由か。うん、結構簡単なことだよ」
「簡単?」
「ああ。結局、人間行き着くところには行くもんだなって思ったんだよ。イタリア行きがきっかけではあったけど、行かなくてもいつかはそうなったんだろうとも思う。割り切ったってことだな」
「それは、諦めたってこと?サッカーを」
「視野が広がったってことだ。それまで分からなかったことが分かった。見えなかったものが見えた。感じられなかったことが感じられた。サッカーを止めたのは、あくまでも俺がそう決めたからだ。諦めとは違うんじゃないかな」
「よくわかんない」
「いつか分かるさ。おまえも、おまえなりに考える時がくる。そのときに、自分なりにちゃんと決断するようにしろ」
護堂はこれまで、運命に逆らう、というよりも逃れるために努力してきた。逃避のための努力だった。しかし、イタリアでカンピオーネとなったことで、十五年に渡る努力が水泡と帰し、魔王の称号を得てしまった。
考え方、視点、あらゆるものががらりと変わった。
これまでのような努力を続ける意味もなくなった。
それが、今回の護堂の変化の正体。
ある種の燃え尽き症候群であり、そこから立ち直って、今生きている中で何ができるのか、というこれまでの後ろ向きな努力から、一転して真の意味での自己の向上を図ることができるようになった。
静花の感じた、開放感、とはこれのことだった。が、それを静花に説明してはならない。結果として、このような感性的な言い回しにならざるを得なかった。
静花は、
「ん」
とだけ答え、護堂の言葉に反対するでも、賛成を示すこともなかった。
護堂が言った内容は静花にはよく分からないことだった。むしろ、分からせないようにしているとも思えたが、ただ、護堂が決して後ろ向きな理由で高校生活を送っているわけではないことははっきりした。
それが嬉しくて、同時に、少し大人びた兄を寂しく思った。
□ ■ □ ■
カンピオーネの権能は、とてつもなく感覚的だ。
理論なんてあったものではない。
細かいことを考えるよりは感じたままに使え、というのが、権能の使い方だ。当然取扱説明書なんてものは存在しないし、全て我流で扱わなければならない。
権能の中には、使用条件があるものも存在する。
もし、護堂が原作通りにウルスラグナを倒していたら、極めて多彩な使用条件に四苦八苦することとなっただろう。
が、倒した神の違いからそうはならなかった。
護堂が手に入れた力は非常に汎用性に優れたものだった。
自由自在、風のように気ままに、暴君のように激しく、清流のように緩やかに。
自由度の高さは権能の中でも指折りだろう。
その代わり、どのように使うのか、光るも腐るも護堂のアイデア一つにかかっているという点では厄介だろう。
「草薙、何してんだ?次体育だぜ」
「ああ、ボーとしてた。すまん、すぐに行く」
いけない、いけない。と、護堂は手早く服を着替えて、友人たちの下へ向かう。
高木、名波、反町の三人組みは、くせが強いながらも面白い連中で、一緒にいる機会が多い。
馬鹿なことを全力でやる、というのが、護堂の見立てであり、事実、彼らは集団で騒動を起こしてくれる。
日々の生活に、これといった不満はない。
あれほど忌諱していた城楠学院での生活は、思ったよりも快適で、楽しかった。
■ □ ■ □
歳を重ねるごとに、時間の流れを速く感じる現象をジャネーの法則と呼ぶらしい。
心理学的にも証明されていることだというが、護堂は一日一日を楽しく過ごしているぶんだけ、体感時間がより短くなっているのかもしれない。
瞬く間に六時間目が修了し、教科書をカバンに詰め込んで教室を出た。
彼女なんていないけれども、十分すぎるほどの充実感を味わっている。
今から明日の学校が楽しみなくらいだ。
これも、いろんな重圧から逃れた影響なのだろう。
教室棟の人気はすぐに少なくなる。
駄弁る学生は散見されるが、多くは都心に繰り出していったり、部活に向かったりするために、いなくなってしまうのだ。
運動系の部活は、体育館やグラウンドと相場が決まっているし、文科系も教室棟にはいない。
「暇だ……」
そう、暇である。
サッカーに明け暮れていた日々が懐かしい。
原作護堂が言うように、この身体はすでに戦うという一点において異常すぎるほどに特化している。
集中力、反射神経など、スポーツに必要な能力が常時完璧以上に引き出せてしまうのだ。
自分はズルをしている、という引け目があるのだから、引退するには十分すぎるほどの理由になる。
もちろん、その辺りはすでに割り切ってある。
今、胸中にあるのは、ただの懐かしさであり、決して後悔ではない。
なんとなく、廊下をぶらぶらと歩いていると、ガチャガチャという物音が聞こえてきた。
(あれって……)
目前の角を曲がってきたのは、茶色みがかった髪の女の子で、大きな段ボール箱を両手で支えて悪戦苦闘していた。
(万里谷祐理か……)
入学早々、話題に上った人物であり、護堂もその姿を遠目から確認したことはある。直接の面識はまだない。護堂のことをカンピオーネだと知っているのは、未だにルクレチア・ゾラとエリカ・ブランデッリだけだった。
ふらふら、ふらふら、と揺れながら、そろそろと歩いている。
前が見えているのかどうかも怪しい。
と、護堂が見ているその前で、ついにバランスを崩して段ボール箱をひっくり返してしまった。
「ああッ!?」
派手な音が響き、中身が飛び出る。
茶碗や湯のみ、匙、ビニールに包まれたままの茶葉たち。その他用途の分からない金属製品などが転がり出る。
護堂の足元に転がってきたのも、その一つだった。
(織部焼、のレプリカか。まあ、高校の茶道部だし、こんなものだろうな)
幸い、中身は割れるようなものではなかったようだ。
入っていた茶碗なども、軽い音からして割れ物ではない。
しかし、すべてをダンボールに詰め込んで運ぶとなると体力を使う。祐理に、そんな力はないはずだ。
「手伝うよ」
「え?」
あせあせ、と落ちた物品を拾い集めているところに声をかけた。祐理は、護堂に気づいていなかったのだろう。驚いていた。
「し、しかし……」
「これ、また一人で全部持っていけるのか?落としちまうんじゃないのか?」
「それは……」
祐理にもこの荷物を運ぶ自信はなかったのだろう。口ごもった。
それでも、面識のない人間に荷物を運ばせる、ということに抵抗感があるのか、頼むとは言わない。原作通りの生真面目な性格だなと護堂は苦笑した。
「な、何を笑っているのですか?」
「いや、真面目だなと思ってさ」
「はあ……」
「で、これはどこにもって行けばいい?」
と、言って、さっさとダンボールを持ち上げた。確かに、少し重い。だが、持てないというほどではない。
「え、でも」
「早く言って。さすがに疲れる」
「あ、はい。それでは、茶道部の部室にお願いします」
「はいよ」
「すみません」
「いいよ。どうせ暇を持て余していたんだ。運動不足だったしね。ちょうどいい運動さ」
近くで見て、なるほど、確かに周囲が騒ぐだけのことはあると護堂は思った。
気品というものが感じられる女の子というのは、そうそうお目にかかることができない。それで成績優秀、公家出身となれば、俗世に生きる凡俗な男衆にとっては高嶺の花に間違いない。
実のところ魔術業界でも媛巫女なる特殊な階級にあり、その能力は世界最高峰という超人だ。
城楠にいるのが不思議でしょうがない。もしかしたら、この学院は魔術に関連する施設なのかもしれない、と勝手に想像を膨らませる。
そうこうしている間に茶道部の部室に到着した。
(遠すぎんだろ)
と、護堂は内心思っていた。
無理もない。茶室があるのは、『和室棟』である。
城楠学院の敷地はとてつもなく広い。
高等部と中等部の間には林があり、池まである憩いの場。庭園風の造りだ。昼休みともなればここで駆け回る生徒も多いし、放課後にはアベックの密会場所になっていたりもする。
文科系の部活もこの辺りに居を構えていて、和室棟もここにある。外観は長屋に分類される。
ドアを開けて、中に入る。といってもその先にさらに廊下が続く。
目的の十二畳ほどの茶室にたどり着き、ダンボールを抱えて中に入った。
中にいたのは五人の茶道部員。女の子だけだった。皆一様にこちらを向いて固まっている。
「え?」
一人、驚きの声を上げたのは、静花だった。
「なにしてんの、お兄ちゃん」
「見て分からないか妹よ。荷物運びだ」
「いや、分かるけど……」
静花が聞きたいのは、なぜ、祐理の荷物を護堂が運んでいたのかということなのだが。
「静花さんのお兄さんなんですか?」
「言ってなかったっけ?草薙護堂といいます。家の妹がお世話になってます」
「万里谷祐理です。こちらこそ、静花さんには助けられてばかりで」
本当に今さらな自己紹介だった。
「じゃあ、そろそろ帰るから」
「あ、少しお休みになりませんか。お飲み物もお出しします」
律儀な祐理を、いいよいいよ、と制止した。
「さっさと退散しないと妹が怖い」
と肩をすくめて見せた。
「何でよ!!」
静花が叫ぶが、聞き流す。この辺りのあしらい方は心得ていた。
「じゃあ、また」
「はい、今日は本当にありがとうございました」
祐理が礼をいい、護堂はそのまま茶室を立ち去った。
□ ■ □ ■
万里谷家は学校の生徒たちが噂しているように公家の家柄だ。
といっても祐理がそれを誇ったことは一度もない。それは万里谷家が公家としては低い位置にいることと、現時点でも両親が特別高貴な職種についているわけではないということ、友人が正真正銘の高貴な家柄ということもあって自分の出自を特別なものという認識がなかったことによるものだ。
彼女の家庭は、もとがどうあれ一般的な中堅層であり、多少呪術と縁もあるものの、特に強力な呪術者を輩出したわけでもない。
未だに海外の呪術者などとも親交があるが、かといって万里谷家が優秀な呪術の家ということではないのだ。
祐理自身も、本来であれば、呪術の存在を知るというだけの、それ以外はごく普通の少女として一生を終えるはずだった。
祐理が世界最高峰の精神感応能力を持って生まれていなければ。
この一点があったために、祐理の人生は大きく変わることとなる。
媛巫女の資質。
はるか神代から続く高貴な血に受け継がれる特異な能力。神祖を祖とする一部の家系にのみ発現し、その力を日本政府は代々守り育ててきた。
媛巫女は、その能力の希少性、そして血によって大いに尊崇を集める役職なのだった。
その力ゆえに、彼女の人生には大きな波乱もあったのだが、最近はとくに何か大きな問題が生じることもなく、いたって平和に日々を過ごしていた。
「はあ……」
そんな万里谷祐理の最近の悩み。
その渦中にいるのは草薙護堂だった。
「結局、お礼をしそびれてしまいました……」
口先だけで礼を言ったくらいでは祐理の中では礼をしたということにはならないのか、というとそうではない。過度な謝意は相手を不快にさせるだけということをきちんと自覚しているし、護堂のほうももう気にはしていないだろう。
そもそも、男性に免疫のない祐理は普通に話すだけでも苦手意識から硬い応対になってしまうのだから、このようにもう一度なんとか会話の機会はないものかと考えること自体が希。
静花の兄というポジションが警戒心を大いに引き下げているのは事実。
しっかりもので頼りになる後輩の兄ということは、自分自身との間接的な接点だ。
人間という生き物は、ほんの僅かな縁でも自分と関わりがあれば親近感を抱いてしまえるように、祐理が他の男子と護堂の位置を別に捉えているのも、これによるところが大きい。
というように、決して護堂に悪感情を抱いていない祐理ではあるが、未だに護堂との会話を成立させてはいなかった。護堂と話をしてみようとするときに限って、彼の周囲に人がいるということもあって結局進展はない。自分が護堂にお礼を言って、多少会話をするということのために、他人との会話を断ち切ってまで乗り込んでいく度胸は、さすがにない。
そもそも、男子と話をするということに頭を悩ませるという事自体が、万里谷祐理史上初のことなのだが、当の本人にはその自覚はまったくなかった。
(どうすれば……)
と、悶々とする日々を送っている。
と、そんなときに、
「あ……」
と祐理は声を漏らした。
髪を梳いていた櫛が唐突に折れてしまったのだ。流れるようなさらさらとした髪には櫛を折るような抵抗はない。自然、胸に去来するのは漠然とした不安感だった。
何かあるのではないか、と思いながら身支度を整えた祐理は、部屋の外に出る。
そこは神社だった。
名は七雄神社。歴史は古いが、有名というわけではない。しかし、歴史の裏側に存在する者たちにとっては比較的重要な意味合いをもつ場所でもある。
白衣に緋袴という出で立ちで、拝殿に向かう。
媛巫女としての職務を遂行するためである。祐理のような特別な役職に就く少女は絶対数が少ないながらも確かに存在する。
年齢が考慮されてはいるが、その能力を利用するために幼いころからの組織への奉仕が義務付けられているのである。
「やあ、媛巫女。お初にお目にかかります。少しお話をさせていただけますか」
ぶしつけな声をかけたのは、よれたスーツを着た男性だった。
祐理を媛巫女と呼ぶのは、呪術に関する職務に携わる者だけだ。この男もそうなのだろう。これまで、何度も仕事の依頼を受け、能力を使ってきた彼女には、また自分の力を必要とする案件が発生したのかと、ごく自然に受け止めていた。
ただ、聞きもしていないその職務内容に、言葉にできない不安を感じ取ってしまっているということが、これまでとの違いだった。
実のところ現在進行形で実習中。本当は書いている余裕なんてないんだけれども、途中までは書いていたしということで投稿。次は結構後になりそうです。まあ、レポートにPC使うんで、このサイトを見ることはしますが、投稿はしないと。