十五話
祐理とのアドレス交換が発生した。何れは来ることが分かっていたことなだけに、今さらの驚きはない。むしろ、自分の知識の外にある事態が頻発していながら、それでも原作通りのイベントが発生していることで、忙しさが五割り増しくらいになっているような感じもあり、来るべき戦いに向けて、暗鬱とした気持ちをいかに前向きにしていくかということが課題であった。
「ヴォバン侯爵、か」
放課後、帰宅途上にある護堂は、ポツリと呟いた。
戦いたくないランキングぶっちぎりのナンバーワンであるところのバルカン半島の魔王様である。こちらのアドバンテージと言えば、相手の権能と性格を知っているということだけ。しかも、権能に関しては明かされていない物が多く、それ以外の力を使ってきた場合、護堂自身で対応しないといけなくなる。原作においても天を割き、地を割るような権能ばかりといわれていただけに、東京で暴れられるとどれほどの被害になるか。東京タワーひとつで済むのだろうか。下手を打てば、神様以上に大きな災害を発生させかねない。
ヴォバン侯爵の狙いは万里谷祐理の強力な巫力。
四年前にヨーロッパ中の巫女を招聘して執り行った『まつろわぬ神』招来の儀式を再び行うためだ。かの儀式では数多くの巫女が再起不能にまで陥れられ、祐理も九死に一生を得る形で日本に戻ってきたと記憶している。以来、彼女にとってカンピオーネという存在そのものが恐怖の対象になってしまったのだ。無理もないことだと思う。
祐理とは、まだあまり会話をしていない。
クラスが違うし性別も違う。校内であったときに、時折言葉を交わす程度だ。わざわざ隣のクラスにまで行って学内一位の人気者相手に話しかけるわけにもいかないだろうし、話すこともないからだ。
それを考えれば、この日の昼休みに祐理とアドレスを交換したことが周囲からどのように見られるか、あの時まったく考えていなかったことが痛い。教室に帰ったとき、男子衆から、問答無用の襲撃を受け、祐理との関係を逐一詮索された。ほぼ、肉体に頼り切った尋問に、護堂もそれなりに全力で応じ、結局は昼休みが終わるまで騒いでいたのだ。祐理は、護堂の居場所をクラスの人間に尋ねてから屋上に来たらしい。男子とかかわりを持たない祐理が、いきなり護堂の居場所を尋ねてくるというのだから、よからぬ詮索を受けるのもしかたのないことだろう。何があるというわけでもないのだが、痛くもない腹を探られるのはいい気持ちではない。
祐理が原作同様お人よしの頑張りやだということくらいわかっているし、その人格面でも尊敬すべき人だと思うが、細かいところには気がつかないのか、自分に対する周囲の視線には鈍感なようだ。呪術が関わるととてつもない勘を発揮する祐理だが、どことなく浮世離れしているのは巫女だからだろうか。
巫女が大好きと公言して憚らない友人が、特に必死の形相で迫ってきたなと、ふと昼休みの騒動を思い出した。
護堂は商店街の通りに入り、最初の店の軒下にある自動販売機にコインを投入した。
缶ジュースを購入してポケットに押し込む。なんとなく、甘いものを口にしたい気分だった。左右に軒を連ねる商店街も、今改めてみるとシャッターが多くなったように思う。小さい頃は、この通りいっぱいに店が立ち並んでいたと記憶している。下町風情が漂う根津。それは同時に街の活気が徐々に失われていっているということだ。
それでも、街の人たちは人情味に溢れて暖かい。
護堂と幼いころからの顔見知りのおばさんとすれ違った。祖父と昔何かあったらしい花屋のおばさんは、懐かしげに護堂を眺めた。なにを言われるのかは大体の想像がついた。案の定、祖父に似てきたということを言われた。そういうことを言われるたびに、不思議な思いに囚われる。祖父の昔の写真を見たこともあるが、護堂と似ているとは思わない。目鼻立ちははっきりとしていたし、柔和な表情は今と変わらない。護堂はもっと仏頂面でいることが多いはずだ。
正義感を振りかざすタイプではないと思っているが、かといって身近な人が災厄に巻き込まれるとわかっていて放置することができるほどに外道でもない。これは、極一般的な観念であり、それを迷わず実行するところが草薙護堂の特徴の最たるところだろう。
護堂は携帯電話を取り出した。最近流行のスマートフォン。日本での普及率は高性能な携帯が多いせいかまだ二十パーセントほどだが、シンガポールでは六十パーセントを越えるなど、世界的に広がりつつある。余計な機能があまりにも多いために、護堂自身、まだスマートフォンを使いこなせているわけではなかった。
「さて、ほんと、どうするかね」
呟きながら、電話をかけた。
■ □ ■ □
東京都内のとあるホテルの廊下を銀色の髪が跳ねた。
妖精にも思える端整な顔立ちながら、可愛らしいというよりも凛々しい表情で突き進んでいく。
見た目からして豪奢なホテルだ。かつては貴族の邸宅として建造され、敷地面積数万平方メートルの中には美しい自然が、それも日本風に管理された庭園として存在していた。池、花、木、どれもイタリアで生まれ育ったリリアナ・クラニチャールにとっては初めて見る光景だった。
リリアナに訪れたい国はどこか、と尋ねれば、まっさきに日本を挙げるだろう。彼女は幼いころから日本という国の文化が好きだったからだ。サムライ、ハラキリ、スシ、ゲイシャ、ニンジャ、に代表される日本カルチャーのみならず、情緒溢れる伝統建築、工芸といったものまで知識として納めていた。
だから、彼女自身日本の、それも高級ホテルが所有する真の日本庭園を間近で見ることができるという事に胸を高鳴らせていたりもしたのだが、それも最初のうちだけ。
決して、それが、日本の文化にじかに触れたことによる失望ということではない。リリアナには、今、早急に行わなければならない課題があるのだ。これは旅行ではない。彼女が所属するのはイタリア・ミラノの魔術結社《青銅黒十字》。イタリア国内はおろか、世界にその名を知られる魔術結社の一つであり、彼女は名門クラニチャール家の跡取りだ。祖父は《青銅黒十字》の総裁である。そんな名家の跡取り娘であるリリアナには、祖父から重大な、それでいて衝撃的な命を受けて日本に降り立った。
廊下を歩くリリアナの前に、奇妙なものが立ちふさがった。
黒いパンツにまぶしい白のワイシャツ。間違いなく、それはこのホテルで採用されている制服だ。リリアナも、彼女の連れと共に、このホテルを訪れたときにその衣服を見ていた。昨日の今日でそれが変わるわけもない。だが、それにしては奇妙といわざるを得ない。
まず第一に、その服を着ているのは人ではなかった。
真っ白な柱。高さは、一メートル八十といったところで、廊下の真ん中に堂々と立っていた。伝統と格式あるホテルが、このような物体を廊下に放置するだろうか。
百歩譲って、これが芸術品だったとしても、このようなところになんの表示もせずにおいておくわけがない。通行の邪魔になるだけでなく、視覚的にも不気味なそれが、和洋どちらの様式に従おうとも放置しておくことのできない異物であるのは間違いない。
リリアナは、その柱を見て顔を青くした。
それがなんなのか、すぐに理解できたからだ。
それは塩。
塩の塊だ。
すぐにリリアナは、走り出した。
最初の塩柱を皮切りにして、リリアナの視界に衣服を纏った塩柱が次々と飛び込んでくる。
(少し目を離した隙にこんな……!)
強く歯噛みをしながら駆け抜けた先は、このホテルでも最高級のスイートルームだった。
リリアナは荒げた息を特殊な呼吸法で整えると、部屋の中へ入っていった。
□ ■ □ ■
「候、これはいったいどういうことでしょうか?」
部屋に入るなり、リリアナは尋ねた。もちろん、跪き、騎士の礼をとることも忘れない。少しでも彼に不快な思いをさせてしまったのなら、その時点でリリアナの命は尽きる事になるのだから。
「クラニチャールか。遅かったではないか」
そこにいるのは一人の老人だった。
だが、ただの耄碌し、余生を過ごすだけの老人とは趣を異にしている。
身なりはしっかりとしていて、銀色の髪を綺麗に撫でつけ、髭も剃られている。落ち窪んだ眼窩に彼特有のエメラルド色の瞳が妖しく光る。
三百年を生きる最強最古のカンピオーネ。
欧州の魔術師が、三世紀に渡って畏れ、敬い続ける魔王の中の魔王。
サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。
かつて簒奪した位階と領地にちなんで、ヴォバン侯爵と呼ばれるバルカンの怪物だった。
「そうか、廊下のものたちを見たのかね。あまりに退屈だったものでな……なに、ただの暇つぶしだよ。わたしは、戦いが好きだクラニチャール。闘争の他にも、ゲーム、狩りくらいか、わたしの餓えを満たせるのは。だが、それの次くらいには横暴も好んでいる。時たま、こうして力を使ってみたくなることもあるのだ」
許せ、と悪びれもせずにヴォバンは言った。
許すも何も、カンピオーネの意向にリリアナが逆らう事ができるはずもない。
ヴォバンが持つ権能の一つ。『ソドムの瞳』。ケルトの魔神バロールから簒奪したとされる生物を塩に変える魔眼だ。彼は、それをただの気まぐれでホテルの従業員たちに使ったのだ。許される行為ではない。リリアナたち欧州の騎士たちは、本来魔術を悪事に使用する事を防ぎ、市井の民を守る事を本懐とする。が、カンピオーネ相手にそれを非難することなどできるはずがない。
リリアナは、黙然とした態度を崩さず、騎士の礼を続けた。
それが、彼女にできる精一杯の抗議だった。
そのリリアナの態度にヴォバンは怒るどころか、むしろ気をよくしたように笑った。
「ふ、そうでなければな。わたしは犬が嫌いでね、飼い主に尻尾を振るだけの畜生など視界に入れる価値もないと思っている。だからこそ、君のその態度はむしろ好ましい。君を供としたのは正解だった。君でなければ今頃は、ここの従業員と同じことになっていたかもしれん」
「……光栄です。候」
軽妙に話すヴォバンとは正反対の固く、畏まった調子でリリアナは言った。
いつ勘気を被るとも知れぬ人物に仕えるのは非常に神経を使う。リリアナは、かの日本の第六天魔王に仕えた家臣たちのことをふと、思い返していた。
日本の戦国時代に彗星の如く現われ、消えていった最も有名な戦国大名も、恐ろしく優秀かつ短気、残酷だったという。その怒りに触れれば、譜代の臣であろうとも容赦なく斬られたと聞いている。いまのリリアナはまさにそんな魔王に近習しているのだ。
「それで、クラニチャール。例の少女は見つかったかね?」
ヴォバンはグラスにワインを注ぎながら、リリアナに尋ねた。
「いえ、申し訳ありません。まだでございます」
ヴォバンがわざわざこの地までやってきたのは例の少女―――――万里谷祐理を連れ去るためだ。
ヴォバンは、祐理が持つ類まれな巫力を用いて、『まつろわぬ神』招来の大呪術を執り行おうとしているのだ。カンピオーネの相手をできるのは、同格の存在、つまりカンピオーネか『まつろわぬ神』だけである。生来闘争を好むヴォバンは、いつ出現するかわからない『まつろわぬ神』を自らの望む時と場所に呼び寄せて戦おうとしている。もちろん、彼はその時にどれだけの犠牲が出るのかまったく気にしていない。
リリアナは四年前に祐理と出会っている。
四年前にヴォバンが行った『まつろわぬ神』招来の大呪術に、幼いリリアナと祐理はともに参加していた。そのときのことが思い出される。向こうは自分のことを覚えていないかもしれない。言葉を交わしたわけでもないからだ。だが、リリアナは覚えている。誰もが尻込みするなかで、彼女が一番最初にヴォバンの下に行く事を承知したのだから。
戦う術を持たず、故郷から遠く離れたあの土地で、騎士として叙勲されたばかりのリリアナを差し置いて真っ先に死地へと乗り込んでいった少女。
高潔な精神の持ち主であるリリアナが、祐理になんの感情も抱かないわけがない。
どうあがいても、万里谷祐理がこの老人に囚われてしまうのは変わらない。それでも、リリアナは祐理の居場所を報告しなかった。
組織としても、リリアナ本人にとっても、この案件を早く終わらせる事こそが肝要であるにもかかわらず、リリアナは祐理のことをひたすら隠している。
「まあ、いい」
ヴォバンは、グラスを傾けて中の液体をすべて飲み干した。
エメラルド色の瞳が、獰猛な輝きを放つ。
「クラニチャール……面白い客人が来たようだぞ。我が騎士たちが総出で迎撃に出ている」
「は?それは……いったい」
まったくの事で理解が追いつかないリリアナは、不覚にも引き締めていた表情を緩めてしまった。だが、そのことにヴォバンは気づく様子もない。彼はただ一点。入り口のドアだけをにらみつけている。
気がおかしくなるような静寂が部屋を支配した。
洞窟の奥深くに単身入り込んでしまったかのような孤独感と、目の前に広がった怪物の口を目の当たりにしているかのような恐怖が身体を冒している。これは、ヴォバンの戦意だ。
次に彼女の耳に届いたのは剣戟の音。鉄と鉄が擦れあい、金属音を立てているのだ。これは、リリアナも聞きなれた甲冑を着て動き回る音だ。
リリアナは、頬を汗が伝うのを感じた。
ヴォバンの言う客人と、襲撃者が同一であるのは間違いない。
問題は、それがどこの誰、ということだろう。
三百年を生きるカンピオーネの力は他の追随を許さない。経験、能力どれも、現存するカンピオーネの中でも最強なのだ。さらに、彼の権能『死せる従僕の檻』は、ヴォバンが殺害した人間の魂をこの世に縛りつけ、彼の下僕ゾンビとしてしまう。今、外を走り回っているのもそのゾンビたちだ。その力を知るものが、どうしてヴォバンに逆らえようか。誰しも死にたくはないし、死んでからあのような姿にされたくはない。
そんな、ヴォバンに唯一戦いを挑めそうな人物。
日本において、そんな存在は一人しかいない。
ノックもなく、ドアが開いた。
顔だけならば、リリアナでも知っている。《青銅黒十字》が配下に命じて写真を入手させていたからだ。写真で見た顔が、そのままそこに立っていた。
はたして、リリアナの予想は的を射た。
ヴォバンが壮絶な笑みを浮かべる。
「君はいったい誰なのかね?」
ヴォバンが親しげに声をかけた。その裏に、訪れるであろう闘争への期待が込められている。問いを投げかけられた侵入者は、臆することなく、答えた。
「草薙護堂。あなたの同類だ」